第百四十一音 決闘
『二校目。十三番、京都府代表、北宇治高等学校』
その声が壇上から響いたとき、心の中にあった重荷のようなものがスッと消えていくのが理解できた。元より、この代こそが最強になるようにという計画で動いていた。それは、様々な幸運や巡り合わせによって一年目から全国大会に出場できたとしても変わっていなかった。だからこそ、これはある意味で計画通りと言えるかもしれない。
とは言え、実際はそんなに単純なモノでもないことは理解している。最強になるべく育てた世代であっても、それ以外の問題によって本来の実力を出せない可能性は十分に存在していて、ほんの少し前まではそういう状況だった。だからこそ、多くの人の努力と献身によって、多くの傷を得ながらも組織がもう一度動き出したのは歓迎するべき事態だったのだ。
「これで、繋がったね」
手を叩きながら言う希美に、私は小さく頷く。彼女も、妹のことをこれまでずっと見守ってくれていた。その表情にあるのは自分の時を懐かしむ感情と、見守り続けた存在が手にした栄光を純粋に喜んでいる感情であるように見える。保護者のそれと言ってもいいかもしれない。
しかし、本当に助かった。ここで次に繋がったことで、部内の諸々も次に繋げることが出来る。これまであんなに揉めたりしたのに意味が無かった、という感情を部員が抱かずに済んだのだから。教えていた側としても、これは僥倖な事だった。そして教えている側という意味ではもう一校、行方を気にするべき学校がある。残った枠は一校分。そして発表されていない金賞組は大阪三強だけ。その中の一つに、秀塔大附属は存在している。
『三校目。十八番、大阪府代表、秀塔大学附属高等学校』
ドカン、と何かが爆発したような感情の奔流が、秀塔大附属の座っている場所から聞こえてくる。全国大会に進むために、ということで私を頼って来た彼らの想いを無駄にするまいと指導を行ってきたけれど、それがしっかりと効果を発揮してくれたようだ。私の努力だけであるというつもりはないし、当然彼ら自身の努力によるところも大きいのは理解しているけれど、少しくらいは私にも胸を張る権利はあるだろう。
悔しくて死にそうだと叫んだ少女の願いに応えて、私は大阪に赴いた。あの悔しさは、少しは晴らすことが出来たのだろうか。その栄光と雪辱の裏で、また新しい悔しさが生まれている。残酷なことだ。努力したからと言って、必ずしも望む結果が得られるわけじゃない。茫然自失という具合の明静や嗚咽を漏らす東照の空間を見て、そう思わされる。しかし目を逸らしてはいけない。私はこの光景を作り出す一端を担ったのだ。その責任が、私にはあるのだから。
「流石、桜地先生。大金星だね」
「これでただ働きにならなくて良くなったよ、二週間分」
「そんな事言って、ホントは結構嬉しいんでしょ? 顔に書いてある」
「それはまぁね。自分を頼って、わざわざ大学まで足を運んで。他の学校が私の存在をどういう風に思っているのかは知らないけど、秀塔は私や北宇治にただ不平不満を言うだけじゃなくて、そこから一歩先に進んで行動した。その勇気とか行動力は報われて欲しいと思うよ、個人的にはね。だからこそ、力を尽くしてきたわけだし」
北宇治と秀塔。教えた学校を二校とも全国大会に進ませるなんていうのはかなりのワガママだし、難しい話であるとも理解していた。けれど不可能だとは思わなかった。それは自分自身の能力を信じているからというのもそうだけれど、実際に私は二年前、全国行きは不可能だと思っていた。そして不可能は可能になった。あんまり可能性なんてあてにならないモノだと、あの時理解させられたのだった。
それに、龍聖の月永先生は去年教え子二校を両方とも全国に進ませている。つまり、今まで誰もやったことがない、と言うわけでは無かったのだ。それなら可能性としては十分すぎる。出来ない、という世間の凡庸な言葉がその通りになるのなら、私は今頃世界一では無かっただろう。
「色々言われてたもんね、実は。卒業しないと分からないことだけどさ」
希美は少しだけ目を伏せながら言う。まぁ実際、関係ない他校ならまだしも、同じ関西枠で争う学校からは文句を言う声もあったのは知っている。それを努力不足であり、負け犬の遠吠えだなんていう風に片付けることは出来ない。とは言え、私は別に不正な手段を働いているわけでも無ければ、何かしら咎められるような行いをしているわけではない。
だからこそ、何を言われようとも堂々としているだけなのだ。それに、ごちゃごちゃ言われるのは大学時代で慣れている。ある意味では昔取った杵柄だ。
「チート扱いされてる時は、自分のことながら笑った。不正扱いとは、大した言いぐさだよ。私だってちゃんとした高校生だったんだし。文句を言うなら、飛び級生は高校生になってはいけない、っていうルールを作らなかった文部科学省に言って欲しい。それに、別に大会は出てないんだし。飛び級した高校生に教えてもらった部活は出場してはいけません、なんてルールを作れなかった大会主催に問題がある」
「そんな変なルール、誰向けに作ってるか丸わかりだけどね」
「私は好きだよ、一人のためだけに作られたルールっていうのは。それはそれとして、ホントに出来たら怒るけど」
大会は終わり、そろそろ移動する流れになっている。北宇治の面々もバスで移動するのだろう。私たちも早く出ないといけない。和歌山市内周辺はそれなりに交通量も多いし、そこに各学校のバスが集中している。必然的に混むのだ。ホールの出口を目指して、二人で歩いていく。
「でも、冷静に考えるとなんで私だけ批判されないといけないんだろう。希美も一緒に批判されて欲しいんだけど」
「えぇ? なんで私まで?」
「だって、私を北宇治に誘い込んだ張本人だし。希美がいなかったら、私は多分北宇治には来てなかった。高校生になろうと思っていたのかも分からないし、仮に思っていたとしても北宇治じゃなくて立華とかに行ってたかもしれない。マーチングはマーチングで面白そうではあるからね。でも私はそういう道を選ばなかった。それは自分で下した決断ではあるけれど、そのきっかけをくれたのは希美だから」
北宇治に来て、吹部に入ったきっかけは希美。吹部に戻るきっかけになったのは高坂さん。私の人生にこの二人がいなければ、全然違うモノになっていただろう。出会った当初は、片方と恋人になっているとは思いもしなかったし、高坂さんと今みたいな関係になっているとは思ってもみなかった。人生はよく分からないモノだと思う。
「それは責任取らないといけないね」
「ご理解いただけた? 何と、今ならその
「わぁ、お得!」
「何の会話してるんだろうね、これ」
「急に梯子外さないでよ」
ぺしっと突っ込まれる。くだらない会話かもしれないけれど、もうすぐヨーロッパに戻らないといけない身としては、そんな一分一秒、彼女の声の一音が大事だった。もっと長い時間を共有したいのに、真夏の日々は私の欲望を埋めるには短すぎる。
「桜地先生!」
会場を出て、車に向かおうと思っていたところで後ろから声を掛けられる。振り返れば、秀塔大の部長である星野さんが部員を引き連れて立っていた。先ほどまで泣いていたのだろう、その目は真っ赤で、目の下には涙が流れた後がある。
「私、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「ここらへんで待ってる?」
「車で待っててくれれば大丈夫だよ。じゃ、あとはごゆっくり」
希美はそう言うと、星野さんに小さく頭を下げてホールの中に戻っていく。多分、教え子と指導者の間に自分がいてもしょうがないと思って気を利かせてくれたのだろう。別に一緒にいても構わないのだけれど、気遣いをしてくれたのはありがたかった。
「先生、今の方は……」
「私の彼女です」
「あ、お邪魔してしまって……すみませんでした」
「いえ、お気になさらず。それより皆さん、早く戻らないと道が混みますよ」
「そうなんですけど、でも先生に挨拶もしないわけにはいきませんから! 桜地先生、此度は本当に、本当にありがとうございました。私たちは、こうして全国大会に進むことが出来ました。何とお礼を申し上げたらいいのか、まったく分かりません。それでも、感謝の意を示したいと思います。ありがとうございました!」
「「「ありがとうございました!」」」
秀塔大の部員たちが一斉に頭を下げる。元々声の大きい吹部の部員が、百人以上でお礼を言うとかなりの音量になる。とは言えここは吹部の集まる空間。周りの学校の関係者も観客も、よくある事だからと一瞬視線を向けるけれどすぐにスルーしている。
「我々指導陣としても、何とお礼を言って良いのか分かりません。生徒たちの焦燥や悔しさを知りながら、我々はさしたることは出来なかった。だからこそ、先生のお力添えを頂いて、その結果悲願を達成することが出来ました」
「いえ、北条先生が星野さんの提案を一蹴せずに受け入れたからこそ、今の結果があると思います。私が出来たのは微々たるお手伝いだけでしょう。いくら私が優秀であろうとも、基礎基本の無い集団ではこうはいきませんでした。私の教えが上手く反映されるために必要な空間を作り上げてくださったのは、先生方のご指導です。ですからどうか卑下なさらずに。私にとっても様々に学びのある空間でした」
「桜地先生……」
顧問の北条先生はこれからどうやって全国大会でより良い結果を得るか。私にお礼を言いながらも、それを考えているようにも見える。流石は長年強豪校の顧問をしているだけのことはある。次に繋げていく。それが先生たちのするべきことだ。副顧問の里見先生はもうずっと泣いている。彼女が赴任したのは去年であり、彼女にとってはこれが初の全国行きなのだろう。感動は部員と同じと言えるかもしれない。なにせ、秀塔大のこの世代は、全員高校での全国行きは初めてなのだから。
「良い演奏でした。私の曲を使ってくれたこともそうですが、それ以上に私の曲の持っているモノを全部引き出してくれたように思います。私はそのことが大変嬉しい。曲というのは、作曲者にとっては我が子のようなものです。それを輝かせてくれた。そして、皆さんの栄光の舞台という栄えある場所に私の曲を使ってくださったこと、一音楽家として大変嬉しく思っています。その上でよく結果を掴みとってくれました。私こそ、ありがとう。全国大会での演奏も楽しみにしていますよ」
「そんな……」
「星野さん。あなたもよく頑張りました。私を引っ張って来るという非常識な賭けに挑んで、その不安や緊張、抱え込んだモノは他の部員以上だったことでしょう。それでもこの結果を掴みとれた。それはあなたの力も大きい。私以上に、それは部員の皆さんが理解しているとは思いますが。胸を張ってください。闘志と決意を持って私のところへ殴り込みに来たその勇気があれば、大概のことはどうにでもなりますから」
彼女の目からもう一度涙が溢れてくる。私を呼びつけておいて上手く行かなかったら。そういう不安と戦っていた緊張はいかほどのモノだっただろうか。およそ高校生が背負うようなモノじゃないほどの重さを、持っていたに違いない。だからこそ私は高く評価している。藻掻き続け、足掻き続け、前を向いて何かを変えんとした、その姿を。名は体を表すというけれど、本当にその通りだろう。星の灯りのようにその身を燃やし、多くを導き続けたのだ。
「それと、報酬はしっかり期日までに指定の口座に振り込んでくださいね」
「あ、はい! それはもちろんです」
「よろしくお願いします。それでは皆さん、お疲れ様でした。またのご利用お待ちしております」
「え、それって……」
ビックリした顔をしている星野さんに軽く微笑んでから、私は深々と頭を下げる部員たちに手を振ってその場を後にする。北宇治に顔を出すのは明日で良いだろう。今から彼らを探すのも骨が折れるし、私もここまで運転してそれなりに疲れた。なるべく早く帰りたい。どうせ明日からもまた練習の日々なのだ。八月末日までは日本にいるので、会う機会はまだ何度かある。
車のエンジンをかける。日中熱せられていた車内に、涼しい風が吹き出していた。ガソリンのメーターが半分を切っている。どこかで補充したいところだ。夏場はガソリンの消費が多い。ただでさえ外車は燃費が悪いのだ。ナビの設定をしていると、希美が戻って来る。
「お待たせ~」
「お帰り。迷わなかった?」
「全然。この車目立つし」
「確かに、それもそうか」
「秀塔大の子たちと、ちゃんと話せた?」
「もちろん。またのご利用お待ちしております、ってね」
「またお願いされたら引き受けても良いかなって感じなの?」
「まぁね。流石にもうちょっと報酬はプラスして欲しいけど……今回で結果出したし、多分次からはもう少し増えるはず」
公立は予算に限界があるけれど、私立はその辺公立よりもやりやすいと思う。秀塔大附属の場合は、大学の附属校であるため上の大学から予算が降りてくれば出来ることも増える。それに、伝統があるためOB会もしっかり存在している。そこから援助が毎年あるらしいので、今回の結果を受けてOB会が援助増額をしてくれると私に入って来るお金も増える可能性がある。がめついようで申し訳ないが、技術を安値で売るわけにはいかない。適正価格で商売を、というのも大事な事だ。ただでさえ今の状態は適正価格より相当割り引いているのだから。
駐車場の中を車は走り出す。夕暮れに染まる和歌山城が遠くに見えた。
「秀塔大、結構気に入ったの?」
「それもあるかなぁ。星野部長個人もそうだけど、あの空気感は嫌いじゃない。無茶苦茶な提案というかアイデアを、星野さんの努力や人望もあったとはいえ、最終的に先生含めて受け入れることが出来る土壌って言うのは貴重だ。追い詰められた状態だったにしろ、決断できない組織だって沢山ある。そんな中で、伝統と格式ある強豪校だけれどああいう動きが出来るのは良い場所だし。またお願いされたら行っても良いかなと思わせる場所ではあった」
「そっか」
「他にもまぁ、無いわけじゃないけど」
「具体的には?」
「将来の仕事のためのコネ作り、かな」
「仕事? でも、凛音の仕事ってヨーロッパじゃなかったっけ」
「今はね、今は」
あくまでも今はそうだというだけの話だ。日本よりも、先に進めると思って向こうに行った。事実、クラシックの本場は欧州大陸である。それは、何十年も前から変わっていない。かつても今も、日本は挑む側なのかもしれない。
「将来的にどうなるかは分からないし。それに、家族をいつまでも日本に残したままって言うのもどうかと思うしね。涼音はその頃には独り立ちしているだろうけど」
「私なら別に気にしなくても良いけど」
「希美一人ならまだどうにかなるかもしれないけどさ。まぁその、家族は増える可能性もあるわけで」
「……増やすご予定がおありなんですか?」
「そちら次第です」
「……なるほど」
「ま、まぁとにかく! そうなったときに、育児を放置して海外にいるのは個人的に嫌だから。そういう事です」
「は、はい」
何とも言えない空気になったまま、車は夕方の街を抜けていく。昔、心理テストか何かで、子供が何人欲しいかが答えになる問題があった。公園で遊んでいる子供の数がどうとかそういうモノだった記憶がある。隣で赤くなっている彼女が何人と答えたのか、あんまりよくは覚えていない。一人っ子だったからこそ兄弟姉妹はいた方が良いと言っていたことだけは覚えていた。私は確か、四人と答えた記憶がある。
まだ子供と大人の中間でしかない私たちも、いつかは親になるのだろうか。自分の両親は、こういうことを考えた時にどういう気持ちだったのだろうか。聞けないことが、少しだけ残念だった。
大会が終わっても、部活は終わらない。それに、北宇治の目標は全国金賞だ。あくまでも関西大会突破は通過点に過ぎない。だからこそ、大会の翌日でも普通に部活はある。
昨日の夜は帰って来た涼音を迎え、盛大に夕食を食べていた。お祝いムードに満ちていた家の中で、あの子は笑いながらもこれからの練習について、部活について考えていたように思う。昨日一日くらいは浮かれていれば良いと思うのだが、そうしないのは彼女の美徳でもあるのだろう。そういう部分があるから、彼女は部内からも信頼されて、今では二年生の顔役を務めている。私には出来ない事だった。
「あ、先輩。お疲れ様です」
「お疲れ様。高坂さんは?」
「今、ちょっと出てます。進路についてですか?」
「まぁ、そんなところ。別に急ぎでは無いんだけどね。いないなら構わない」
今日も変わらずに部活はある。とは言え、流石に午前中は自主練となっていた。昨日、京都に戻った時間も大分遅かったのだ。私は真っ直ぐに家に帰ればよかったけれど、バスは学校に戻るようにしている。そのため、そこから家に帰るのに時間がかかる子もいる。体力的にも厳しいので、今日の午前中は自主練となっているのだ。
とは言え、そこは三年生。大体は遅くとも十時ころまでには登校してくる。早い人ではもう朝っぱらから既に学校にいた。それに合わせて私も早めに学校に来ている。そうして今、吉沢さんと話していた。トランペットの練習用教室には、彼女と高坂さんの鞄しかない。まだ一二年生は登校していないのだろう。
「何とか突破出来ましたね。一時はどうなる事かと思いましたけど」
「まったくもってその通り。ホントにどうなる事かと思った。君もお疲れ様」
「私は何もしてないですよ~。これは結局、涼音ちゃんと麗奈ちゃん、後は久美子ちゃんがどうにかしないといけない問題でしたし」
「いや、そうでもない。トランペットパートが動揺しないで収まっていたのはどう考えてもパートリーダーの行動によるところが大きいだろうし、それに高坂さんから聞いた。彼女が走って帰った日の夜に、メッセージ貰ったって。前だけ向いて走れ! ってね」
「逆に言えばそれだけですよ」
「そうでもないさ。自分の居場所があるって思えるのは、とても大事な事だ。高坂さんは強い方だけれど、無敵じゃない。だからこそ、追い詰められる事もある。そういう時に戻れる場所があると思えないと辛いから。私もそうだったようにね」
部に戻った時、決して歓迎ムードだったわけじゃない。それでも香織先輩がトランペットパートを私の居場所として固定してくれた。おかげで私には、戻る場所が出来た。厳しい事も言ったし、決して部員が望まないような行動もしたけれど、それでも部にいる事が出来たのは間違いなく居場所があったからだった。再オーディション騒動の時も、批判されている私を追い出さなかったのは、香織先輩と優子だった。特に後者が私について何も言わなかったからこそ、私はパブリックエネミーにならないですんだ。
高坂さんについても同じことだろう。ウチの妹の舌鋒は思ったよりも随分鋭かったらしい。それをまともに食らった上に、決して穏やかではない空気の中にいた高坂さんの内心はかなり動揺していたはずだ。それまでの諸々でただでさえ揺らいでいたのに加えて。それでも何とかやってこれたのは、トランペットパートが帰る事が出来る場所であり、そこの長である吉沢さんが騒動においてどちらにも肩入れしないで沈黙を続けていたからだろう。そして、高坂さんが来た時には黙って受け入れた。それはきっと、救いだったはずだ。
「私はパートリーダーですから。パートの子を絶対に守る。それが、香織先輩や滝野先輩から受け継いだ私の使命です」
「ちゃんと有言実行できるなら、それはとても素晴らしい事だと思う」
「ありがとうございます。それ、フルートにも言ってあげてください。二年生が大立ち回りをすると、どうしても三年では色々出てきますから。それを封じていたのは、向こうですので」
「分かった。後で言っておく」
「是非そうしてください。今は皆、ホッとしてますから。あんなに色々あったけど、何とかなったので。私も安心してます。とは言え、他の子の安心とはまた違うかもしれないですけど」
「他の子とは違う?」
「はい。これで、あと一回オーディションをやることが確定しました。麗奈ちゃんを倒せる機会がやって来たってことです。関西で終わりなんて、冗談じゃありませんよ。そんなの許せるはずがない。あんなので勝ち逃げなんて、絶対に。麗奈ちゃんはもう一回立ち上がったみたいですけど、望むところですね。万全じゃなかったなんて言い訳、させたくないので」
その目には凄まじい炎が灯っている。青い火が、メラメラと彼女の周りに揺らいでいた。夏の空気すら塗り替えるような、冷房の風でも冷ます事の出来ないような、そんな熱が教室内に充満していく。目の前にいる私には、それがよく伝わって来た。火傷してしまいそうな、そんな闘志の熱が。
「先輩はユーフォとのソリを聞いてどう思いました? ネットだと、素晴らしいって褒めてる声が凄く多いです。確かに、私も実際に隣で聞いていて、凄くマッチしてると思いました。後で聞き返してもそう思います。でもそれって、ソリでの評価ですよね。個々人に向けたものじゃない。麗奈ちゃんの演奏は、どうでしたか?」
「実力的には十分だったと思う。関西大会でも群を抜いた演奏だった。それこそ、私の指導した秀塔大附属の子の誰よりも上手かった」
「じゃあ、私と比較すると?」
「……難しいな」
「そう思いますよね」
私の難しい、という答えは彼女の想定通りだったらしい。というより、彼女も同じ考えにたどり着いているのだろう。
「私と麗奈ちゃんにあまり差はない。ソリの相手が真由ちゃんだろうと久美子ちゃんだろうと、関係ありません。私たちの間の実力差はないはずなんです。だから、どっちになろうと昨日と同じ演奏は出来るはず。私はそう思っています。個人的には真由ちゃんの方が吹きやすいですけどね、寄り添ってくれるので」
「……」
「私、初めて麗奈ちゃんの演奏を聴いたとき、これは無理だと思いました。一年生の初めの頃です。とんでもない子と同じパートになっちゃったなと。でもどうせ関わる事もあんまり無いだろうし、向こうもこっちのことなんてどうでも良いと思ってるだろうから、別に良いかと思ってました。私は私で適当にやろうと。でも北宇治はそれを許さなかったし、先輩は私に頑張る事を教えました。同時に、麗奈ちゃんと関わる事も」
彼女が語っているのは、遠い昔の出来事だった。あの時から、全ては始まった。私は高坂さんに対し、吉沢さんにアドバイスをするように伝えた。同時に吉沢さんには高坂さんに関わるようにと言った。それは三年生になった時、二人しかいない三年生が連携した動きが出来るようにという目的のため。それに加えて、折角同じパートにいるのだから交流くらいした方が良いという想いもあったけれど。
その結果、吉沢さんの多大な努力もあって、二人の関係は構築された。黄前さんと高坂さんの関係とはまた違う、特別な関係性が。その結果、今こうして二人は競い合っている。ただ一つの、栄光の玉座を目指して。追われるだけ、追いかけるだけだった関係はもう終わりつつある。多分、今の二人は並んでいるのだろう。どちらが上なのか、即答することは難しい。分かっているのは、これが私の始めた物語であるという事だけ。
「それでもやっぱり、私にとって麗奈ちゃんは遥か先にいる目標で、高い壁みたいな存在でした。二年生になって、多少色んな意味で距離が近付いたけど、それでもやっぱりまだまだ敵わない存在で。でも最近考えてみて、気付いたんです。何かすぐ近くにいるなって。それは関係性でもそうですけど、音楽的な部分でも。それで思ったんです。なんだ、全然手が届く距離にいるじゃんって」
そう言いながら、彼女は笑っていた。恋焦がれ、待ち焦がれた相手にやっと手が届いた恋する少女のように、それでいて獲物をその顎に捕らえた狼のように。その笑みを私は知っている。我が永遠のライバルが死ぬ少し前、私はそんな顔をしていた。やっと手が届くという歓喜。お前を引きずり降ろしてやるという決意。あんなに先にいたのに、自分はもう二人の間にある距離に悩まなくて良いんだという安堵。そういうモノがごちゃ混ぜになった顔だ。
「麗奈ちゃんは、演奏者として、部員として北宇治では替えが効かない存在でした。万が一麗奈ちゃんが出れなかったら、同じクオリティーの演奏は出来ないだろうって。でも今はそうじゃない。私が代わりになれる。私でも、同じ演奏が出来る。それって、演奏する上ではとても素晴らしい事ですよね? 一人に頼りきりになってない集団ってことですから」
「そう、だね。高坂さんがダメなら、誰もが君を指名する。そしてそれを疑う人はいないだろうし、高坂さんが演奏した時と遜色ない演奏が出来ると思う」
「つまり、次のオーディションでの私の勝ち目は十分にあるってことですよね」
私はその言葉に頷くほかなかった。彼女の勝ち目は十分にある。どちらが良いのか、なんて言う問いは最早好みの問題になりつつある。黄前さんと黒江さんの演奏は好みの問題だ、という言葉を耳にするけれど、それに関しては同意できない。黄前さんは爆発力、黒江さんは調整力でそれぞれ秀でている。どちらを取るのかは戦略的な問題だ。
でも、殊トランペットの二人に関しては違う。もう戦略的な問題も何もない。どちらにしても、技術的には同値なら、同値の演奏が出てくる。だからこそ、もう好みの問題なのだ。次のオーディションは大いに荒れるだろう。黄前さんと黒江さんの方に衆人の目は行っているのかもしれないが、実際に審査する側の大問題はむしろこっちの二人だと思う。周りの目がこっちに向かないのは、やっていることが高度過ぎるので議論しようがないからかもしれない。そういう水準のことを、今ここではしているのだ。
「もし先輩なら、どっちを選びますか?」
「……」
「ありがとうございます」
「答えてないけど?」
「答えが出てこないのが、今の私にとって最大の自信になります。去年までなら、麗奈ちゃんを選んでいたでしょうから」
「……なるほど」
「先輩も、待っていてください。私たちを育てた先輩には、しっかり見届けて欲しいんです。私たちの、三年間の結末を。同じ人に学んだ、私たちの終着点を」
その日を楽しみに待つように、彼女は微笑んでいる。その笑みに頷く以外の選択肢を、私は持っていなかった。その競い合いを痛ましいと思う気持ちもあるし、どちらも報われて欲しいという想いもある。
けれどそれ以上に、私も胸が躍っていた。こんな感情を抱くなんて指導者としては失格だろうけれど、抑えようのないモノなのだ。世界を震わせる可能性を秘めた二人が行う、己の全てを尽くし、己の技術を全て昇華させた末の決闘。そんなもの、一人の音楽家として心躍らないことなど、あるはずが無いのだから。
音楽の神がいるのなら、きっと今私と同じような歓喜を味わっている事だろう。そして同時に、羨ましくもあった。その決闘は、かつて私が夢にまで望んで、果たせなかったことだったから。彼女たちの想いが、キチンと競い合うことが出来ること。それが今の私が抱く、最大の望みだった。
いつかこの作品をコミケに出すのが夢です。