音を愛す君へ   作:tanuu

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第ⅩⅩⅩⅣ音 無冠

 歓声と喝采の中、関西大会は終幕した。その結末は非常に嬉しいもので、私たちは金賞を獲得すると共に、見事全国大会への切符を手にすることが出来た。それゆえか、集合写真の表情は皆明るい。毎年綱渡りの連続で、絶対なんて保証はどこにもない。だからこそ必死にやって来たし、その努力が報われたことはそれまでの立場とか考えなど関係なく、素直に喜ばしい事だった。

 

 けれど、それもせいぜいその日の間にしか続かない感情。大会を終えた次の日、私たちの表情は決して明るいとは言えないものだった。喜びと興奮の中で覆い隠していた現実が、もう一度私たちの目の前にやって来るのだ。それはすなわち、全国大会でも金賞を獲れるのかどうかという問題。そしてそれに付随してやって来る、もう一度行われるオーディションについての問題。これらが重く目の前にのしかかる。

 

 ある意味では贅沢な悩みとすら言えるだろう。関西で終わってしまった多くの学校は三年生が引退し、失意と悔しさの中で次の学期を迎えることになるのだから。それでも勝者には勝者の悩みがある。栄光の影に幾つもの悲嘆が隠れているように、スポットライトを浴びる存在にも苦悩はあるのだ。私はそれを、兄さんの存在を通してよく知っている。兄さんが決して常勝無敗であり続けるだけの存在、強いだけの存在ではないことを、よく理解していた。一番上にい続ける重圧や苦しみを抱えながら、今日も世界一であり続けている。その舞台の過酷さを、私は理解はしていた。しているつもりではいた。

 

 大会翌日の朝、早速パートリーダー会議が行われている。関西大会前の諸々の揉め事を反省して、会議の頻度はやや上がった。上意下達組織は見直しが図られ、もう一度相互伝達的な組織への改変が為されつつある。目指すべき姿は学年全体が協力していた去年の三年生であることは言うまでもないだろう。あの姿を目指して、もう一度再出発を図っていた。

 

 その組織の中で、見直されたこともある。元々パートリーダー会議には剣崎さんが唯一の二年生として出席していたが、これは彼女の願望というよりはダブルリードパートの三年生がいないからというやむを得ない事情によるものだった。本人は結構苦労していたらしい。学年差があると、吹奏楽部では中々意見も言いにくい。そんなパートリーダー会議だったが、今回より次期ドラムメジャーとして私の参加が承認された。

 

 これは先日の揉め事の際、高坂先輩と対立した私への配慮なのだろう。政治的な影響力を持ってしまった存在を放置するより、部長たちの管理下に置いた方が良いという考えだと理解している。兄さん的には、私を支持する派閥に対しての配慮も含まれているようだが。要するに、私を上に引き上げることで、私を通して政権に不満を持っている層を懐柔する目的だそうだ。どっちが正しいのかは分からないし、どっちも正しいのかもしれない。部長は、その辺の塩梅が上手い存在だった。

 

「えーっと今回、色々な事がありましたが、こういう結果になれたのは良かったと思ってます。まずは関西大会お疲れ様でした!」

「「「お疲れ様でした」」」

「早速今日から全国大会に向けた練習が始まっていくので、それに関しての打ち合わせなどをしたいと思っています。取り敢えず麗奈、お願い」

 

 練習面の統括は変わらず高坂先輩が担っている。彼女が一番適任だったし、経験も持っている。精神的な余裕がないせいで色々おかしなことになってしまったけれど、特に問題がない状態であれば平常通りに優秀な能力を発揮してくれる存在だ。その高坂先輩の席を虎視眈々と狙う秋子先輩の目は普段通りに見える。その穏やかな面持ちの裏に激しい炎を持っているのを知っている人は、決して多くないだろう。真由先輩と部長のソリ争いと同じくらい、トランぺットの争いも激化している。恐らく、二人の実力は本当に伯仲状態。どちらが選ばれても、おかしくは無い状態だ。

 

「私たちの目指すべき目標は全国大会金賞です。ある意味で、私たちはやっとスタートラインに立てたと言っても良いと思います。去年、そして一昨年もここまでは来れました。それと同じ段階に、やっと立てたのだと思っています。むしろここまでは来れないといけなかったと言えます。そして次に進まないといけません。喜ぶ気持ちは同じですが、一年生などは油断しているかもしれません。そこはしっかりと引き締めていくべきだと考えています」

「そうだね。喜びと油断は違うし、ここで失速したら意味がないから。途中経過で一喜一憂するより、目指すべき頂をしっかり意識するべきだと思う」

 

 高坂先輩の言葉に、秋子先輩がのんびりとした口調で同意する。ピシッとしている高坂先輩の声とは対照的な声だけれど、それが場の重苦しさや緊張感を緩和してくれる。その割に言っていることはかなり厳しい。あれだけ揉めた関西大会を途中経過とバッサリ言えるのは、強者の貫禄を感じさせる。それがあくまでも自然体なのが、一層その強者感を加速させていた。

 

「私も同意します。金賞を獲るために必要な事を具体的に挙げるのは難しいですが、これまでと違い何か特別な事をしていくよりも、これまでやってきた練習を淡々と繰り返し、トライアンドエラーでやっていくことが肝要では無いかと考えています。あくまでも経験則ですが」

 

 私の言葉に、三年生は頷く。この中で全国大会金賞を獲ったことがあるのは川島先輩だけだ。焦って練習を強化したりすると、ペースが崩れてしまうこともある。練習量を増やして詰め込んでも、体力的に追い詰められて結果的に良い演奏が出来なくなることもある。秋子先輩の言うようにあくまでも途中経過に過ぎない。全国大会金賞を目指した長いスパンでの計画の半ばにいるに過ぎないのだから、変にペースアップするよりも現状をしっかりとらえることが必要だ。

 

「とは言え、ここからは文字通り日本全国の強豪が相手です。清良を始めとする名門揃い。ここで金賞を獲るのは至難の業。私の中学時代は、全国へ駒を進めた学校の研究もしていました。これくらいの時期になれば自分たちも他校も演奏がある程度確立していますから、参考になる部分もあります。今年は名門の復活劇が幾つかあるようで……そういう部分も警戒しないといけないかもしれませんね」

「みどりも見ました。千学ですよね、関東の。それに、秀塔大も」

「はい」

 

 全国大会金賞常連だったかつての名門。最早全国大会で姿を見なくなって久しい関東の名門がもう一度戻ってきた。兄さんが持っている情報網によれば、どうやら部長は一年生らしい。とんでもない采配をする顧問がいると思った。一年生が部長なんて、どう考えても顧問の差し金だろう。まぁうちの滝先生も兄さんを指導者にするというぶっ飛んだことをしているので、どっちもどっちかもしれない。兄さんと同じくらいの実力者なのか、何か人望に優れているのか、その辺はよく分からない。とは言え、そんな常識外れの事をしている場所だとしても同じ名古屋までやって来たライバルでもある。

 

 そして私たちにとって遠い関東よりも近くの関西。兄さんの教え子である秀塔大附属は見事に全国大会へ駒を進めた。

 

「Twitter見たら、メッチャ秀塔大について書いてあったよ。凄い良かった~って」

「まぁ昔からある学校だし、根強いファンも多いんだろうね」

「関西大会一位通過だろうってのも見た」

 

 今年の関西大会は色々注目を集めているようで、SNSにも関西大会に言及したコメントが散見される。甲子園も終わり、部活系だと吹部が一番目立っている時期だからかもしれないが、それにしても随分とコメントが多い。あくまで匿名の世界における話なので、中には参考にならないモノもあるけれど、お客さんの意見ではあるのである程度耳を傾ける必要はある。伝えたいことが届いているのか、聞いて欲しい部分をちゃんと聞いてもらえているのか、心に響いているのか。音楽が芸術である以上、聞いてくれている人のことを全く無視するわけにもいかない。

 

 そしてその意見の中でも気にするべきだと私が思ったのは、森本先輩も言った秀塔大が関西大会一位通過という意見だ。これは何人も言っている人がいる。実際は順位が出ているわけではないけれど、自分で順位を付けるならという事なのだろう。大体北宇治は二番目か三番目にいる。体感、三番目の方が多かった。つまり、観客目線では結構ギリギリの通過だったという事。これは反省しないといけないだろう。関西で一番になれず、どうして全国大会で金を獲れようか。

 

 関西で金賞を獲った学校を毎年批評している人の意見では、北宇治は綺麗にまとまっているけれど去年のようなインパクトに欠けると書いてあった。演奏技術は向上しているけれど訴えかけるモノが減った気がする、路線変更かもしれない、と。また、ユーフォがややトランペットに寄り添いすぎと言っている人もいた。真由先輩の調整能力は確かなのだが、自己主張をそこまでしない。去年のフルートとオーボエに脳を焼かれた観客からすれば、物足りなく映ったのかもしれない。

 

「今回は秀塔大附属を褒めないといけないかな~と私は思うかな。あの難しい曲をよく捌ききってた。どこか一つでもミスをすれば破綻するのに、絶妙なバランス感覚だったよね」

 

 秋子先輩の批評は多分正しい。これが秀塔大の最大の勝因だろう。高坂先輩も同意見のようで、秋子先輩の言葉に深く頷いている。自分の師匠が教えていた学校であり、つまり秀塔大から見て高坂先輩たちは姉弟子にあたる。

 

「秀塔大附属の演奏からは学ぶことも多かった。私たちにはまだ足りないものがある。滝先生と桜地先生がそこを詰められる練習を考えてくれると思うけど、私たち自身でも他校や去年までの演奏を参考にしたりしつつ考えていかないといけない。どういう演奏にしたいのか、どういう風に作っていきたいのか、それを考えながら全体で組み立てて行けるように、各パートでも工夫してください」

「「「はい!」」」

 

 高坂先輩が上手くまとめる。姉弟子から見ても秀塔大は学ぶべき対象だったようだ。わざわざ海外まで殴り込みに行って兄さんを招聘してくるのは、かつての自分と同じ仕草をしているから多少共感しているのかもしれない。

 

 『我が第二の故郷に告ぐ』という秀塔大が使った兄さんの曲は、元々かなり難しい。オーケストラ用であったのを上手く吹奏楽用に組み替えたモノが今回使用されていた。その中でも第五楽章だけをピックアップして演奏していたのはかなり思い切った采配だったと思う。そしてそれが非常に上手く作用していた。他の観客も私たちもその演奏を聴いて、いきなり第五楽章から始まったことにビックリしたけれど、それを忘れるくらいには良い演奏だった。

 

 第五楽章はフルートが奏でる鳥のさえずりから始まる。最初はソロ、これが結構長い。え、そんなに? と思うくらいにはソロが続いて、少しだけ他のフルートやトライアングルが入ったらすぐに一瞬静寂が入る。終わり? と思ったら、トランペットとトロンボーンのソリが始まり、太陽が昇る様を表す。徐々に地平が照らされていくのを、トランペットとトロンボーンがペアで少しずつ演奏に加わっていくことで表現している。そして打楽器が打ち鳴らされ、朝が来たから窓を開け放ったシーンになるのだ。

 

 こんな具合で一日の流れを演奏で表現している。その一日は、特段素晴らしいことがあるわけでも悪いことがあるわけでも無い。ちょっとした幸運や不運は誰しもが日々体験するようなレベルでしか起こらない。車の音、人の話し声、雑踏の中で聞こえる街の音。街というのは結構色々な音に溢れているものだ。その中を歩き、日常を過ごす。そんな当たり前のような光景を、どこか懐かしさすら覚えさせる演奏が描き出していく。

 

 ラストシーンは夜が来て、静かにフェードアウトしつつ、打楽器の表面をなぞるフッという音が静寂の中で響く。これは蝋燭を消す音をイメージしているようだ。その後は風の音をウインドマシンが奏でつつ、金管と木管で星の輝きを示す演奏が行われ、消え入るように音がやむ。そしてここで拍手をしてはいけない。時間ギリギリまで沈黙を保った後、最後にもう一度フルートがさえずりを奏でて終わりだ。また朝がやって来るという未来を示して曲はフィニッシュする。結構変わった構成になっているけれど、実際に聞くとかなり心を掴まれる。

 

 その曲を今回は結構大胆にアレンジされていた。中盤の街中のシーンでは本来ないはずのオーボエソロやサックスのソロがある。打楽器の編成も変わっていたし、元々はなかったチャイムで教会の鐘なども再現されていた。それに表現の方もハンブルクを想定している曲から変更されて、聞いている人に自分の第二の故郷とはどこだろうか、故郷とは何だろうかという考えを抱かせる演奏になっている。久しぶりに帰りたくさせ、或いは行ったことも無いどこかに郷愁を抱かせる。そういう感情を揺さぶる演奏だった。

 

 全体的に相当高度な演奏技術と表現力が要求されるが、それを何とかしてしまったのは流石秀塔大附属と言えるだろう。名門の名は伊達ではないことを、自分の演奏と結果で以て証明してみせたのだ。感情を揺さぶる演奏に関しては兄さんが合宿最終日にアドバイスしていたけれど、まだ完成には至っていない。だからこそ、高坂先輩も秀塔大を参考にしたいのだろう。

 

「今麗奈が言ってくれたみたいに、まだ全然終わりじゃありません。むしろここからが本番と思って、頑張っていきましょう!」

「「「はい!」」」

 

 油断は出来ないとはいえ、部員のモチヴェーションは高い。それはこの会議だけを見ても十分に伝わって来る。皆やる気は十分だ。後はそれを練習に反映させるだけ。部長も安心したように小さく頷く。

 

「次に、文化祭に備えて色々と考えないといけないこともあるので、それについてやっていきます。去年は部員が書いた中にあった曲を桜地先輩が選んでくださいましたが、今年は自分たちでやらないといけません。その選出方法についてです。私としては副部長を中心にやってもらおうと思ってるんですけど……何かありますか?」

 

 部長は見ての通り多忙。高坂先輩はもっと多忙。私も結構忙しい身だ。副部長がやるのが一番適任だろう。それに、彼には司会の適正もあるように思う。それならMCも含めて、文化祭関連は副部長にまとめてもらうのが一番適任だ。新しい役職を作るよりも、そっちの方が指揮系統的にも混乱しなくて済む。皆そう思っているようで、特に反対意見などは出てこない。

 

「特に何も無ければ、後は任せて大丈夫かな?」

「了解した」

「じゃあ、お願い」

「あと、ドラムメジャーからもそれに関連して一つ。文化祭の曲に関する練習は、去年は桜地先生の監督の下で私が主導していました。今年はそれを引き継いで、私が監督しつつ桜地さん主導で進めてもらおうと思います。文化祭は修学旅行と合わせて新しいドラムメジャーがこの部での指導経験を積む良い機会ですので、来年以降からも伝統として引き継いでいけば、技術の伝道も出来ると思っています」

 

 高坂先輩から事前に話は貰っていた。今年は兄さんが恒常的にいるわけではないため、伝えたいことはこの時期に伝えてしまった方が良いだろうとの判断だと思う。それもかなり妥当な選択だ。兄さん頼りの経営ではいつか支障が出る。元々今の状態がおかしいだけなのだから、平常になった時も技術が上手く伝わっていくようにしたいと考えるのは当然のこと。兄さんから高坂先輩、高坂先輩から私、私から次の世代へと連綿と受け継がれていくようにすれば、将来的な北宇治の助けになると思う。

 

「ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」

 

 私は席から立ち上がり、丁寧に頭を下げる。教室内に拍手が響いた。特段何も言われることも無く、話題は次のモノへと進んで行く。もう数カ月もすれば、三年生は引退だ。そうすれば、私の高校生活最後の一年がやって来る。その未来は遠い先のように感じていたのに、もうすぐそこにまで迫っていた。長い夏の終わりに、世代交代がなされる。その日はきっと、思っているよりもずっと早くやって来るのだろう。兄さんや希美先輩と同じ高校生活をする日々への別れが、思っていた数倍早く訪れたように。

 

 入道雲が遠くにまだ見えるし、蝉の声も終わらない。その一方で風が時折少しだけ涼しく吹くときがある。秋、宿命の時。その訪れはもう間もなくだった。

 

 

 

 

 

 

 

 関西大会が無事に終わったことに伴う一番大きい影響とは何か。それを聞かれた時に何か一つパッと答えることが出来るとすれば、それは真由先輩に対する視線だろう。それまではどこか余所者という空気感が拭えないこともあったが、明確かつ否定しようのない事実として、高坂先輩と真由先輩のペアで関西大会を突破できた。部長と高坂先輩だったらどうだったのかという想定をするのは無意味だろう。なにせ、それはあり得なかった世界線の話だ。

 

 世界はそういうモノの連続で出来ている。もし、あの時ああだったら。歴史的な事でもそうだし、個人レベルでもそうだ。もし、織田信長が本能寺で死ななかったら。もし、江戸幕府がまだ続いていたら。もし、太平洋戦争が無かったら。もし、私の両親が生きていたら。もし、兄さんが北宇治にいなかったら。そんな幾つもの仮定の連続で、人生は構成されている。人は上手く行かない時、時折あり得なかった世界の話を夢想するけれど、いつだって現実は非常だ。過去へは戻れず、誰かと入れ替わったりはしない。

 

 だから真由先輩がソリにならなかったらどうなっていたのかを考えるのは無意味なのだ。現実は、真由先輩と高坂先輩の力で突破したのだから。それは皆分かっている。分からないといけなくなっている。それ故に真由先輩への視線は変化しつつある。彼女もまた北宇治の一員だと、半年かかってやっと受け入れられるようになってきた。それを遅いとは思うけれど、受け入れないよりはずっとマシだとも思っている。

 

 引き続き彼女がB編成の指導を手伝ってくれるのは僥倖だった。それくらいの余裕はあるとみて構わないのか、或いは多少無理をして参加してくれているのか。後者のようには見えないけれど、気は配っている。無理させることは出来ない。部長と真由先輩には最後の勝負が待っているのだから。例え、どちらもそれをあまり望んでいないとしても。

 

「真由先輩、今日もよろしくお願いします」

「うん、よろしく」

 

 真由先輩と連れ立って、B編成の練習教室へ向かう。午後にここで指導するのが私の仕事になっていた。兄さんからは凄い量の指示が飛んできている。流石の仕事量だった。

 

「大丈夫ですか、こんなに何回も参加して頂いて。私もBの子たちもとても助かりますけど、それはそれとして真由先輩ご自身の練習の妨げになっていないか心配です」

「全然。私も人に教えている時に見つかる発見があるから。それに練習ならちゃんと計画的にやってるから、気にしなくて大丈夫だよ」

「それならば良いのですが……。私は最悪自宅でどうにかしますので、もし何かあるようでしたら遠慮なく仰ってください。元々こちらが巻き込んだのですし」

 

 B編成での指導を通じて、一二年生の中にはそれなりに居場所を作れたんじゃないだろうか。結局のところ、一年生からしてみれば北宇治での生活は一年目同士。余所者も何もあったものじゃない。二年生からしても派閥があったりはしたものの、先輩ではあるしがっつり北宇治に染まっているわけではないならそこまで受け入れられないという事も無いだろう。問題の中枢は三年生なのだ。三年間をここで過ごした三年生と急遽やって来た真由先輩。同学年だからこその受け入れにくさが存在している。

 

 下級生に地盤を作る作戦は結構しっかりと機能していた。これは予想外の反響だ。兄さんの戦術は正しかったらしい。先例があるだけあって、効果はしっかりと出ていた。それには無論、真由先輩の献身的な働きが……献身的? まさか、練習量をB編成の指導で削ることで、合法的に実力を落とし、その間に部長に抜いてもらう作戦ではないだろうか。そんな事は無いと思いたいけれど、私の嫌な想像が頭の中を駆け巡る。失礼ではあると理解している。けれど、聞かずにはいられなかった。

 

「……真由先輩。唐突ですけど、ご質問よろしいですか?」

「どうしたの?」

「まだ、オーディションは辞退したいと思っておられますか?」

「……辞退、出来るような空気じゃないから。それに……」

「それに?」

「最近では、あんまり辞退したいとまでは、思わなくなっちゃったんだよね。もちろん、私のせいで誰かが嫌な想いをして欲しくないって言うのは同じなんだけど、それでも……全国大会には出たいと思ってる自分もいる。おかしいとは思うんだけど」

「おかしくなんかないと思います。自分のせいで誰かが傷つくことを許容している人の方がおかしいというか、一部だけですよ。恒常的にそんな事考えているのは。大多数の人は大なり小なり自分のせいで誰かが傷つく事を許容してません。傷ついて欲しくないと思っている人の方が多いと思います。でも、それでも譲れないモノはある。欲しいモノ、行きたい場所、望む未来。そのために例え誰かと争うことになっても進もうとするのは、おかしい事なんかではないはずです。むしろごく普通の、ありふれた人の行いであり、想いなんじゃないかと思います」

 

 世間に生きる大多数の人は普通の人だ。私も真由先輩も、そこは変わらない。普通の人は時には善人にもなるし、時には悪人にもなる。でも何事も無ければ、どちらかと言えば善よりで生きているはずだと、私は思っている。そんな人々でも、競うことはある。争うことはある。

 

「真由先輩、あなたは誰かに操られている人形なんですか?」

「え? そんな事無いよ」

「ですよね。だったら、どうして自分のために生きてあげないんですか。自分が一番望むことをしないんですか。全国大会行きたいんですよね、そう言ってくれたじゃないですか、関西大会の時に。あれは嘘だったんですか?」

「違う、違うよ。私は確かに涼音ちゃんと一緒に全国大会に行きたい! でも、そのために久美子ちゃんとソリを争うのは……」

「だったら! なおのことおかしいです。全国大会に出るためにはオーディションに出ないといけません。オーディションに出るという事は、この学校ではソリやソロの選抜試験を受ける事と同義です。つまり、全国大会に出たいという事は、ソリを競ってでも出たいという事と同じ。真由先輩がこんな簡単な図式に気付かなかった、とは私は思えないんです。これが、真由先輩の答えじゃないんですか。あなたの、本当の望みじゃないんですか」

 

 彼女の目が泳ぐ。それは本心を暴かれそうになっている時、人間が見せる表情なのだろう。真由先輩の行動や心情は矛盾しているけれど、どちらも本心であり本音だった。全国大会に出たいという想いも、自分が誰かを傷つけたくないという想いも、そのどちらもおかしなことではないし当たり前の願いだ。ただ今回はそれが致命的なまでに矛盾していたというだけのこと。この矛盾を解消して、どっちも叶える事なんて出来ない。もしかしたら何かあるのかもしれないけれど、それは私たちには思いつかない。思いつかないなら無いのと同義だ。

 

「真由先輩の願いはおかしくない。おかしくはないですけど決定的に矛盾している。人生はどちらかしか選べないことがあります。もしもなんて仮定の話は出来ないんです。だったら、今自分が幸せになれる道を選んでください。決して、誰かのためにとかそういう事を考えないでください。あなたの人生はあなたのモノです。あなたの人生は、あなたが幸福になるために存在しているんです。それが法律とか道義とか倫理に反していないなら、あなたは幸せになるべきなんだ。たとえそれが争いの末でも、相手だって望んでこの世界にいるんです。そこに何の負い目があるんですか。誰かよりも、まず自分を幸せにしてください。自分が幸せでない人に、誰かを幸せには出来ませんよ」

「……」

「自分の人生を生きられなかった私の、十数年分の人生をかけた言葉です」

 

 名門の嫡流の妹。それは自分の人生を生きられないことを意味していた。最初は兄さんのスペアで。兄さんが欧州へ行った後はその代わりに次期当主となるために。それが終わったのは、つい最近のことだった。もし兄さんが戻って来なければ、私はずっと誰かのために生き続ける人生を送っていた事だろう。その中に自分の幸福がいかほどあったのか。もしかしたら何かしらあったのかもしれないけれど、それは自分で選んだわけではない、与えられた幸せだった。そんなもの、私は欲しくなどない。

 

「大丈夫?」

 

 廊下の角から顔を覗かせたのは秋子先輩だった。私たちを交互に見つめている。

 

「何か難しい話してるから聞かない方が良いかなとは思ったんだけど、聞こえちゃった。ごめんね」

「いえ、すみません。こちらも声が大きかったですし」

「私も、大丈夫だよ。秋子ちゃんなら、他の人に言ったりしないと思うし」

「それは安心してね~」

 

 秋子先輩はゆっくりと微笑む。その微笑みは安心感を与えてくれる。雰囲気もあるのだろうけれど、場を和ますことができる存在だった。現に、私たちの間にあった空気感も少し和らいでいる。

 

「自分のせいで誰かが傷ついて欲しくない、か。その気持ちは私も分かるよ。分かるけど……今回は涼音ちゃん側かな」

「……どうして?」

「もちろん普通に生きてるだけなのに、誰かを傷つけるのは良くないよね。でも、今回は違うんじゃないかな。だって、相手――この場合は久美子ちゃんだけど――その久美子ちゃんだって競い合う覚悟でここにいるんだから。そういう相手同士なら勝った負けたでも、傷つけたっていうのとはまた違うと思う。上手い言葉は見つからないけど、傷つくことだって、覚悟しているはず。それなら多少傷つけたとしても、それは相手だって望んでいたことだし、相手がこっちにやってくる可能性だってあったわけだしね」

「分かってる相手だったら、仮に競い合いの末に傷つけても構わないってことですよね?」

「まぁ、そうやって言うとあんまり聞こえが良くないけど、そういう事になるかな。傷つかないのが理想なのは私だって同じだよ。でも吹奏楽部っていう場所にいて、そこが強豪だったら、誰かを傷つけてしまうこともある。でもそれは相手だって同じことじゃない? 久美子ちゃんだって理解してる……と良いんだけど、してなかったとしても多分理解はしてくれるよ。だって、久美子ちゃんは望んでここにいる。北宇治高校吹奏楽部にいたくて、ここにいる。それは競い合いたいってことではないかもしれないけど、競っても良いと思ってるのと同じことだよね。競い合って、自分が勝って誰かを傷つけるのは良いけど自分が誰かに傷つけられるのは嫌だなんて、そんな理屈は通らないよ」

 

 最後の言葉は温かい声音とは真逆の冷たさがあった。それは高坂先輩と戦い続け、敗れ続け、それでもなおまだ戦わんとしている人にしか出せない温度の声だった。

 

「久美子ちゃんが私と同じだとは思わないけど、部長なら同じ覚悟くらい持ってくれないと困っちゃうな。痛みを背負う覚悟も無いまま部長なんてやってもらってもだし、この前の件を見る限り背負ってくれるとは思うよ。私は三年間ずっと、麗奈ちゃんに負け続けてきた。だから、これは傷つけられた側の意見」

 

 その三年間に傷ついたことが無いわけなど無いのだ。ある意味では、北宇治で一番傷ついているのかもしれない。同期なのに最初から圧倒的な才能の差があって。何度も何度も挑んで、何度も何度も敗れて。それでもやっとここまで這い上がって来た。敵わなかった相手から、対等に戦える唯一無二の存在へ。兄さんの下で競い合い、時には友情を深めながら。その日々は想像を絶する痛みの連続だったんじゃないだろうか。何度も枕を濡らして、何度も悔しさを拭って、何度も唇を噛みしめて、その末に彼女は今ここにいる。

 

 高坂先輩とは違って、賞なんて獲ったことはない。彼女は無冠だ。それでも誰も、彼女が高坂先輩に劣るとは言わないだろう。傷だらけで泥だらけで、それでも泥中に燦然と輝くいぶし銀の名奏者。痛みに耐えながら、それでも周りには笑顔を見せ続けてきた、本当に強い人。それが彼女だ。

 

「確かに傷つくことは嫌だよ。私だって負けたくない。それは久美子ちゃんも同じだろうね。でも……でもね。この悔しさも痛みも、握りしめた手の痛さも負けた時の絶望も、全部全部私だけのものだから。それを不幸せだとか可哀想とかなんて絶対に言って欲しくない。傷ついたっていう事実はある。それは変えられないかもしれない。でも、それが痛いかどうか、幸せじゃないかどうかは私が決める。そして私はこの三年間が楽しかったし、幸せだった。麗奈ちゃんに出会えてよかったし、一緒に過ごせてよかった。痛みも苦しみも、何度も何度もあったけど、もし違う道を選べたとしても私はまた北宇治に来て、トランペットパートに入る。もし麗奈ちゃんが私を傷つけたくないのとか言ってきたらぶっ飛ばしちゃうよ、グーで」

「秋子ちゃんは……強いんだね」

「全然。むしろすんごい弱いと思うよ。それでも、負けたくない相手がいる。叶えたい願いがある。果たしたい望みがある。私の走り出した理由なんて、先輩が手を差し伸べてくれたからっていう、他の人から見れば凄くくだらない事だと思う。最初の願いは先輩に振り向いて欲しいだったし。でもそんなくだらない動機や願いでもここまでやって来たなら、誰にも否定できないよね。だから、真由ちゃんの涼音ちゃんと一緒に大会に出たいっていう願いだって、叶うかどうかは分からないけど否定はしちゃいけないんだよ。それが例え、自分自身であっても」

 

 秋子先輩の言葉に、真由先輩は少しだけ逡巡した後、小さく首を縦に振った。自分の願い。望み。それが誰かを傷つけるモノであったとしても、進む道を選べる。それがプロの条件なのかもしれない。だからこそ兄さんや高坂先輩は前に進んで行く。

 

 それでもそれはごく一部の限られた存在だけの話だ。普通の人は、そうなる前に躊躇する。だから真由先輩だって別におかしいわけじゃない。そのくびきをどうにか出来る存在がいるとすれば、それは確かに秋子先輩だけだったのかもしれない。一番この部活の中で傷ついてきた人だからこそ、届けられる言葉がある。伝えられる想いがある。矛盾に苦しむ真由先輩の心に、きっと響かせることが出来る。

 

 そして最後は、私の番だ。彼女に一緒に出ようと言った、いわば彼女が願いを作り出すきっかけとなった、私の。

 

「私の望みは変わっていません。例えこの先に待っているモノがどんなモノだったとしても、私はあなたと一緒に名古屋へ行きたい。全国大会に出て、金賞を獲りたい。もう一度、あの舞台で、あの色の賞を得たい。それが私の願いです。そして最後に集合写真を撮るんです。そこに、真由先輩もいて欲しい。後悔も何もなく、笑っていて欲しい。だからどうか、私と一緒に大会に出てください。オーディションに出てください。私には、あなたが必要です」

「……写真に写るの、苦手なんだけどなぁ」

「後輩からのワガママです。聞いてくれますよね?」

 

 私は彼女に手を差し出す。今度は何も逡巡することなく、真由先輩は私の差し伸べた手を取った。迷いも屈託もあるけれど、それでも前を向くことを決意した瞳を見せながら。




途中に出てくる千学は同じ2017年度を舞台にした吹奏楽作品『風に恋う』に出てくる学校です。折角同期なので、登場してもらいました。この作品も面白いので、是非読んでみてください。
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