音を愛す君へ   作:tanuu

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第百四十二音 天使

「まずは関西大会お疲れ様でした」

 

 まだ夏休みの中であるためそこまで人のいない職員室で、私は空いている席に座りながら先生にそう話しかけた。

 

「そちらも、お疲れ様でした。大金星、という具合でしょうか」

「そうですね、おかげさまで。私の教え子たちは皆全国大会に駒を進めることになりました。その努力のおかげで私の評判も上がっていく。実に素晴らしい事です。彼等の努力には感謝したいですね」

 

 昨日の今日ではあるけれど、動き出すのが早い学校は既に来年に向けて動き出している。金賞請負人などという名前と共に、私の存在の広まりは一気に関西で加速している。元々は滝先生とセットでの名前だった部分が強い吹奏楽界隈だが、今や私と滝先生は独立した存在として扱われ始めた。気の早い学校では来年の指導はどうかと既に打診が来ている。尤も、私だって暇ではないし、来年はまだ妹が在学中だ。その間は北宇治を優先するつもりでいる。なので、打診には今のところ全て御断りのメッセージを送っていた。

 

 すると面白いモノで、あそこがダメでもウチになら来てくれるんじゃないかとより依頼が増えている。一日だけとかならまだ考えなくもないけれど、秀塔大や北宇治のように何週間もいるわけにはいかない。そもそも、私だって別に吹奏楽指導を専門に生きているわけじゃないのだ。

 

「まぁ、元々の地力があるからこその結果ではありますが……私も魔法使いじゃないですからね。何もないところからドカンと一気に結果を得ることは出来ませんし。そういう意味ではこれまでの積み重ねであり、生徒たちの努力の結果と言えるかもしれません」

「えぇ。それは毎年、実感させられています」

「ともあれ関西大会は無事に終了しました。一時はどうなる事かと思いましたが、まぁこれに関しては終わり良ければ総て良しです。とは言え……まだ何も終わってはいません。まだ全国大会がある。本番そのものはもう訪れてしまえば後は吹くだけ。しかしその前段階に存在しているオーディションは依然存在し続けています」

 

 先生は私の言葉には応えず、静かに目を閉じた。先生だって十分に理解しているのだろう。この先何事も無く終われるということは間違いなくあり得ない話であり、何かしらの対応をしない事にはどうにもならないのだと。

 

「オーディション本番でしっかりと決められると良いのですけどね。……もうそういう段階から脱しつつある生徒もいる」

「それは、高坂さんと吉沢さんですか?」

「えぇ。いくら吹奏楽の指導を何年も行っているとしても、元々器楽を行っていたとしても、楽器の専門性では専任の演奏家には劣ります。これは悪口とかではなく事実として。私だってトロンボーンの聞き分けは先生に劣るでしょうし。それと同じことです。あれを正しく判別できるのは、もうこの学校の関係者だと私と当人たちくらいでは無いかと」

「難しいですね」

「はい。とても難しい。しかし私たちは選ばないといけません。二年前、そういう道を歩むと決めてしまった。私たちには、選ばないという選択肢は存在していないし、仮に存在していても選んではいけないのだと、私は思っています」

 

 二年前。あの公開オーディションで確かに香織先輩の夢は破壊された。その罪も罰も、我々は背負って行かないといけないのだ。選ばないということが許されない。それが私たちの背負っていく罰なのだろう。それはきっと未来永劫、変わることなく背負い続けていくのだ。

 

「トランペットもそうですし、ユーフォニアムの方も。あそこはあそこで中々甲乙つけがたい演奏をします。もう少し黒江さんが自分らしい演奏をしてくれれば、そちらにやや天秤が傾くのですがね。現状そこにはまだ至っていない。そうでなくても黄前さんにとっては苦難の戦いではありますが」

「それを言うのなら、フルートの方もそうでしょう。高橋さんと桜地さんの間には大きな実力差は存在していない。後はオーディションの際にどうなるか、ですね」

 

 全国大会のソロを得る事に対して、妹の執念はそれなりに大きい。希美の跡を継いだ存在としての自負がある以上、負けたくはないだろう。技術だけを評価すればいいのなら妹の方に軍配が上がることも、それを助長していると思う。あと少しだけでも表現力に磨きをかければ自分がソロになる。それを自覚しているからこそ、研鑽に励んでいる。そこで誰かを蹴落とすより自分を高める方を自然と選べる子であることは、私にとってはとても誇らしい。

 

「失礼します」

 

 職員室に入室する黄前さんの声がしたので、ここで話題は打ち切る。オーディションの話なんて生徒の前でしていい話ではない。彼女はこちらへやって来る。その表情は全国大会に進めた安堵と、これから待ち受ける未来を予期した不安。その両方で埋まっていた。

 

「鍵、返しに来ました」

「お疲れ様でした。気を付けて、帰ってください」

「はい。失礼します」

「黄前さん」

 

 先生に背を向けて帰ろうとした彼女に、先生は声をかけた。

 

「あ、はい」

「本番前のスピーチ、部長として立派でした」

「でも、あれは、思ったことを言っただけで」

「思ったことを素直に言えることも、また一つ才能だと思いますよ。少なくとも言えないよりはずっといい」

「えぇ、その通りです。私はああいう時どうしても冷たい言い方になってしまうところがありまして。それで大学時代にもよく怒られたり……あぁいえ、ここでする話では無いですね」

 

 先生の視線は卓上の写真に向けられる。そこにはまだ若い先生とその奥さんがいる。この写真をいつ誰が撮ったのかはよく分からない。桜が咲いているので春であることと、後ろにテントのようなものが見えるから恐らく何かの屋台を出している時期、つまりは新歓か何かだろうとは思うのだけれど。一つだけわかるのは、この先の未来なんて何も分からない中でも、写っている四人は青春をしていたのだという事。それはかつての自分もそうだったからこそ、分かる事だった。

 

 彼らがその青春を終え、そして先生の奥さんが短い生涯を終えた年、私は自分の青春を過ごす場所へと向かって渡欧した。

 

「喜んでくれて、いますかね」

「はい。ですが、頑張ったのは生徒だって、彼女は言うでしょうね」

「そうでしょうか」

「ここで指導するようになって二年半、正直最初はモチベーションを保てるか不安でした。毎年メンバーが変わる大会で、毎年一度しかない大会を目指すようなものですから」

「確かに……そう改めて言われると変ですよね、学校の吹奏楽って」

 

 その特異性は、外に行けば行くほど強く感じるようになる。音楽の世界で活躍すればするほど、目立って感じる。毎年新陳代謝を繰り返しながら進んで行く楽団なんてそう多くはないだろう。日本にそういう音楽が集中しているのは、一つ特異的な事だった。

 

「まだ大学生だった頃、彼女に言ったことがあるんですよ。それは、賽の河原で石を積んでいるようなものじゃないかって」

「奥さんは、なんて答えたんですか」

「石じゃ無いよ、人だよ、と」

 

 人を積んでいく。毎年卒業する生徒を見送って、毎年入学する生徒を迎えて、そして物語を紡いでいく。その中には当然良いことも悪いこともあって、その繰り返しをしながら、時間は流れていく。賽の河原の石積は終わらない。同じように、人を積むのも決して終わりはしないのだろう。それでもそこにはきっと、大きな違いがあるのだ。獄卒に破壊されるから終わらない石積と、色々な想いや意思の力で終わらない人を積むという違いが。

 

「その時はそういうモノかと思っていましたが、今になってその言葉を、自分の心から理解できた気がします。永遠に同じモノなんて存在しないけれど、その中でも出来ることはある。それが私たちの、生きていく意味なのでしょう。変化して、変わってしまうけれど、受け継がれていくものはある。私はそう思います」

「受け継がれていくもの、か……」

 

 遠い日々の記憶の中から、声がした。ずっと忘れかけていた、遠い日の残響。もう段々と薄れかけていた、彼女の声が。今だけははっきりと聞こえたのだ。あの日々で、似たようなことを言っていた、その声が。

 

「私の親友も同じような事を言っていました。音楽家の人生なんて、終わらない旅のようなものです。命が尽きるその日まで、歩き続けないといけない。まだ十二歳かそこらの私には、それは永遠に近いモノに思えた。徒労と苦しみの中に終わるかもしれない、砂漠の道に思えました。そこを歩き続けることは、当時の私には少し恐ろしかった」

「桜地先輩にも、そんなことあるんですね」

「私だって子供時代はあるんですよ? その辺は妹の方が詳しいとは思いますが」

 

 十代初めの頃からみた人生なんていうのは、遠い遠い先にゴールがある存在だった。死は自分からは縁遠い存在で、まだきっと何十年も先に訪れるのだと、そう思っていた。大人になればあっという間の年月も、子供だった私には無限に等しく感じられたのだ。だからこそ、その無限を歩き続ける事への恐怖は存在していた。いつになったら終わるのかも分からない道を歩き続ける事に何も思わない人は、きっといないだろう。

 

「歩き続けて、その生涯を終えたとしても、何も現世には残らないのです。楽譜や足跡は残っても、私たちが人生をかけて、あらゆるものを費やして追いかけ続けた演奏は、空気の振動として消えていく。それは、耐えがたいモノだった。でも彼女は言いました、残るモノはあるのだと」

「それは……?」

「想いです。形はないけれど、想いは残ると。世界に七十億の人がいて、その中の誰か一人でも、自分の音に感動して、心を動かされて、同じ道を歩もうとしてくれれば、その人の中で私の演奏は生き続ける。私は生き続ける事が出来る。そうやって何年も、何十年も、何百年だって、未来へ行けると。だから一人でも多くの人に届くように、私は奏で続けると言っていました。例えその喉が焼き切れ、翼が折れて、目も耳も消え去っても、歌い続けると」

 

 仮初めの永遠なんていらない。きっとそんなものが無くても、音楽があれば私は永遠にその想いを伝え続けられるから。そう言った彼女の言葉は、当時の私には意味不明に思えた。死んでしまえばそれでおしまいだと、そう文句を言った記憶がある。彼女は数歳年下の私が言うその言葉を、子供だから理解できないのだと笑うことはしなかった。ただ、優しく微笑むだけだった。それは今になって思えば、私が理解してくれる日が来るのを待っていたのだろう。

 

「世界に人類がいる限り、誰かが誰かに想いを、愛を、悲しみを、喜びを伝えたいと思う限り、音楽は滅びない。そして誰かの愛や慈しみの中に、私の生きる場所はある。彼女はそう言っていました」

「素敵な人だったんですね」

「えぇ、まぁ。普段はもう少しフワフワしていましたし、それでいて時折グサっと刺して来る子でしたが。あだ名が天使だったのは、こういう人生観に由来しているのかもしれません」

 

 天使(エンジェル)リリー。そういう風に呼ばれていた。それは天使のようなという容姿や性格を褒める言葉でもあり、人間の理解の及ばないところにいる存在と言うある種の畏怖や恐怖を込めた言葉でもあった。

 

「北宇治の演奏も、きっと誰かの心に響いて、受け継がれている。秀塔大でも、北宇治の話はよく聞かれました」

「そうなんですか?」

「結構聞かれました。最初はライバル校の事を知って活かそうと思っているのかと、そう考えていました。しかしどうも聞いていると、それは敵情視察というよりは、あなたたちの事を知りたがっているように思えましたね。ああいう演奏をするのはどういう人なのだろうかと、去年の『リズと青い鳥』の演奏を聴いた末に思ったようです。向こうの学生指揮は希美のファンのようでしたし。まさかライバル校に北宇治の演奏に込められたモノが受け継がれているとは思いませんでしたが……そういう事もあるという事です。人を積む、というのはこういう事も言うのかもしれませんね」

「そうでしたか、そんな事が……」

 

 先生は天井を見上げている。その声は少しだけ震えていた。先生だって、感情がある。去年の結果に忸怩たる想いを抱いたのは部員だけじゃない。先生だって同じだ。だからこそ、今年こそはと思いながら指導を続けてきた。去年の結果を受けて、生徒に何を残せたのだろうと先生はずっと考えていたのだろう。何も残せなかった、徒労で終わってしまった。そういう可能性を、考えていたはずだ。

 

 だからこそ、例えライバル校であったとしても自分たちの演奏に感銘を受けて、何かを汲み取ろうとしてくれたのは嬉しかったのだと思う。北宇治にではないけれど確かに去年の部員たちの努力が残したモノはあったのだと、そう確信できたのだから。

 

「そしてその想いは、遠く九州にも届いた。去年のあなた達の努力と、その末に奏でられた演奏、そこに込められた想い。それは遠い地を一度経由して、今あなた達の中にある。言いたいことは分かりますね?」

「はい」

「ならば、他に言うことはありません。これは結局、あなた達自身の、もっと言えば黄前さん自身の問題です。他の人がどうとかではなく、あなたが答えを出せるかどうか。私はもう数日したら帰国します。答えが出せたかどうかは、全国大会で見せてください」

 

 黄前さんは確かに頷いた。自分が悔しかったかどうかも分からず惑っていた一年生の頃の彼女は、もういない。三年間の日々は人間を大きく成長させる。その成長が今はとても嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 間もなくヨーロッパに戻らないといけない。数日後の便で戻る予定だ。しかし、その前に片付けないといけない問題が一つだけ残っている。それをどうにかするべく、今は学校の面談室を借りていた。他の場所でやっても良いのだけれど、そうするよりは学校で済ませてしまった方が効率的だろうと思ったのだ。今は時間もあまり余裕がない。皆一分一秒を惜しみながら練習に励んでいる。それに水を差すわけにはいかないだろう。

 

「この時間に呼び出して申し訳ない」

「いえ、大丈夫です。それでお話は……この前の件ですよね」

「察しがいいね。それで、あの後ご両親とは話し合えた?」

「はい」

「じゃあ、結果を聞かせてもらおうか」

 

 呼び出していたのは高坂さんだ。彼女の進路に関して、私は関西大会の時にどうするのかという問いを投げかけていた。すなわち、彼女の父親のいるアメリカに行くのか、私のいるヨーロッパへ来るのか、ということだ。流石に未成年の進路なので自分で決めるというわけにもいかない。お金のこともある。話し合うように伝えたのだが、どうにか早めに終わらせてくれたようだ。

 

「私は……私は、桜地先生のいる、ヨーロッパに行きたいと思っています」

「そう」

「あの、結構一大決心の末の結論なので、そんなあっさり片付けないで頂きたいんですけど……」

「そうは言ってもね、まぁ何となくそんな風になる気がしていたし、それに多分君はそっちの方が合ってる。親父の七光りなんて言われるよりは、こっちの方が良いでしょう。私が教え子に優しいわけじゃないっていうのはまぁ、こっちではそれなりに知られた話だから」

 

 親元を離れて異国で一人暮らし、というのは結構大変な事もあるけれど、それはそれで自分を成長させることが出来ると思う。それに、当時十代初頭の私でも出来たのだ、もうすぐ成人しようという彼女に出来ないという事も無いだろう。

 

「それで、どこの国にする? フランス、イギリス、オーストリア、イタリア、ロシア……色々あるけど」

「合格出来ればですけど、ドイツに行きたいと思ってます」

「……」

「……ダメですか?」

「ダメってことは無いけど、高坂さんの人生だし。しかし、とは言え難儀な道を選んだね。君、多分一番面倒な道を選んだよ。私の地盤になってるところでだと、どうしてもやっかみの籠った目で見られる。私が仮に厳しくしていても、教えて貰っているということ自体に価値があるから」

「分かっているつもりです。どう言われても、私は自分の道を貫く覚悟です」

 

 彼女の目は真剣だ。私に教えを請うた時からずっと変わらないまま、真剣にこちらを見つめている。覚悟しているとは言うけれど、多分一年生の時に味わったあの感じとは全然質の違う悪意や嫉妬に晒されることになると思う。これは予想というよりは、経験談なのだが。彼女がこれまで人生で経験したモノとは異質だろう。それでも貫けるかどうかは未知数だ。とは言え、貫けないようではどの道未来はない。

 

「覚悟があるなら構わない。それが折れないことを祈るだけだね。で、ドイツにも色々学校はあるけど、どこにするの? 私のいるベルリン?」

「いえ、先生の出身校にしようと思ってます」

「……一番茨の道を選んだな」

「はい。父にもそう言われました。ハンブルクは桜地凛音を生んだ町だとして、それを誇りの一つとしている。そこに弟子の私が行く事は、決して良い事ばかりではないし、求められるハードルは他の生徒よりも何十段と高いモノになると」

「君のお父さんの仰る通りだ」

「でも、私は桜地先生の教え子ですから。一番長い時間をかけて教えてもらっている生徒として、それくらいのハードルくらい乗り越えないと話にならないと思っています」

「志が高いのは良いけれど……高い志は折れると大変なことになるよ?」

「大丈夫です。卒業とかはゴールじゃないので。今の私の目標は、桜地先生を倒すことです」

「なるほど、世界一の座を目指すと?」

「自動的に、そういう事になります」

 

 彼女の目標は理解した。そういう風な道を選んでくれたことは素直に喜びもある。一番であり続けるこの苦しみから、私を解放してくれる存在は求める所でもあった。同時に、道半ばで世を去った、私の永遠のライバルの強さを証明し続けるため、私が世界一でい続けたいという想いもある。この感情は明確に矛盾していた。だから、高坂さんに向ける感状も期待半分と敵愾心半分のような状態にある。

 

「分かった。進路については理解した。その上で、これを渡しておく」

 

 私は持っていた一枚の封筒を彼女に渡す。

 

「これはなんでしょうか?」

「君の紹介状。宛名は無いけど、合格した後に担当の先生に見せなさい。ハンブルクなら、私の先生がまだ教鞭を取っているから、その人に見せる事。絶対合格した後に見せてね、合格する前に見せると私が怒られるから」

 

 身元とその実力を私が保証するので、トップの奏者になれるように育ててくれと書いてある。これがあって教えてもらえないという事は無いだろう。どうしても東洋人はヨーロッパだと余所者だ。人種的なもので色々と不都合を受けることもある。そういう時でもこれがある限り、最低限まともな扱いは受けられるだろうと思って書いておいた。

 

 私の出身校なので、そこら辺は心配ないとは思うが、一応あって損はないと思う。

 

「頂いて良いんですか?」

「まぁ、これくらいはね。有効に使うように。あとはまぁ、受験する時に追々連絡するけど、住む家とかは手配できるから相談して。必要な手続きとかも君のご両親よりは私の方が詳しいから。受験は来年の夏。他の子が大学生活やってる中でちょっと猶予があるし、今年の受験勉強はしなくて良い分時間がある。なので、その間に言語系の勉強と免許を取っておくこと。それ以外はまたこっちでちゃんと指示する。それをちゃんと守っていれば、来年の秋から晴れて新入生になれる」

「何から何までありがとうございます」

「私も親にやってもらった部分は多いから、それを君に伝えてるだけ。教え子の面倒を見るのも師匠の務めだし」

「あの、桜地先生は基本的にベルリンにいらっしゃるんですよね?」

「そうだよ」

「秋に父が挨拶に伺いたいと……」

「あぁ、なるほど。まぁ日曜日とかなら暇だから来てくれればいるって伝えておいて」

 

 娘をよろしくお願いします、という挨拶だろう。あまりそりの合わない私と高坂さんの父親だけれど、親としての良識はしっかり持ち合わせているのも理解している。私が自分の娘にかなりの時間を割いていることを、彼はちゃんと認識しているのだろう。当然、それが持っている価値も。

 

「細かい事は追々で構わないんだけど……現時点で将来に向けて大事な事を一つだけ。ご家族で準備するか私に頼るかは任せるんだけど、考えておいて」 

「はい」

「君、ドレスとか宝飾品は持ってる?」

「……はい?」

「いわゆる正礼装とか準礼装だね。欧米はドレスコードがある。日本人だとあまりその辺を意識してる人は少ないイメージだけど、欧米のドレスコードは日本人が考えている以上にかなり厳格かつ絶対的なモノだ。ドレスコードと言われれば文句を言う人もいない。日本でもほら、温泉に刺青禁止みたいなのあるでしょ。あれをドレスコードと言えば外国の人は文句を言わない。それくらいには大事なものだから」

 

 男性はあまり種類が無いので楽なのだが、女性は時間帯とか場面で幾つか服が分かれている。そこら辺は彼女の父親の方が詳しいだろう。私の両親が生きていればもう少しアドバイスが出来たかもしれないが、残念ながらそれは無理な話。今桜地家で一番その手の話題が得意なのは妹かもしれない。彼女も洋装とか宝飾品もちゃんと持っているけれど、和服を着ていることが多いのであまり身に着けている印象はなかった。

 

「ということで、持ってる?」

「一応、それっぽいモノはありますけど……」

「そう。それもご家族と確認してね。場合によってはウチから貸し出すなり買ってもらうなりしないといけないので」

「分かりました。でも、それ何に使うんですか?」

「音楽家はコネが結構大事だよ、嫌かもしれないけど。仕事貰えるかどうかは結構知己かどうかにかかっている部分もある。私の弟子かつハンブルクで教わってるとなればあの爺さんの弟子になるから、普通の音大よりは楽かもしれないけれど、それでも顔を繋ぐ工夫を忘れてはいけない。そこら辺は私が連れて行く。私も友達に連れて行ってもらったから、その代わりにね。その時に着てもらうことになる。変な服装だと私が教育不足で怒られるのでその辺はよろしく」

 

 コネと聞いて彼女は嫌そうな顔をしているけれど、実際問題として存在しているのだから仕方ない。コネも実力の内だ。如何にしてコミュニケーションを取り、知己の輪を広げ、活躍できる舞台を自分で整えられたか。それも評価される要因だ。私は友人に結構助けられた恩がある。なので、今度は自分が教え子に同じことをして間接的な恩返しというわけだ。そうやって次の時代に繋げていけば、西洋音楽界で日本人が今以上に活躍する地盤となるかもしれない。

 

 使えるものは何でも使う精神で行かないと、栄達はあり得ないだろう。仮に出来たとしても、相当な回り道になってしまう。

 

「現地で困ったことがあればまずは私に相談してくれ。基本ベルリンにいるので、車で三時間くらいかな。ピンチならすぐ駆けつける。とは言え無理な事もあるので、近くに住んでる頼れる存在を紹介しよう。この名刺に書いてある連絡先を頼ればいい。そうすれば大抵はどうにかなる。ここの家の娘が私と同期のフルート奏者で、今はベルリンにいる。家族はまだここに住んでるから、すぐ助けてもらえるはずだ。私とは仲が良いから」

 

 一ヶ月に一回くらいは顔を出すようにしている。元々大学時代はよく遊びに行っていた家だ。家族の、特に同期の両親が私を気に入ってくれたようで、お父さんの方は顔を出さないと文句言ってくる。そういう関係性なので、説明すれば高坂さんの助けにもなってくれるだろう。

 

「と、いう具合で現状伝えるべきことは伝えた。だけどこれはあくまでも結構先の話。先の事を考えるのも大事だけれど、まずは自分の目の前にある事に真剣に取り組むこと。うかうかしているとあっという間に抜かされる。言いたいことは分かるでしょ?」

「理解している、つもりです」

「昔君たちの間にあった差はもう存在していない。前までは先に始めていた高坂さんにアドバンテージがあったけど、凄まじい努力でその差は埋められてしまった。吉沢さんは決着を付けに来ている。もし、本当に世界一の座を奪いたいなら、まずはこれに勝たない事にはどうにもならないだろう。他の全部、気にしなくて良い。指導なら妹にぶん投げても良い。君の全部をぶつけに行きなさい。向こうも、全部をぶつけに来てるんだから。これまでも、そして次も」

「はい。私も、負けるつもりはありません。絶対に勝ちに行きます。私がやっと出会えた、対等に勝負できる相手なんです。そんな相手に最後まで勝ってこそ、私は特別になれると思いますから」

「そう思っているならそれでいい。先達としてアドバイスをしておくとね、よそ見はするな。そんな余裕は、君には無い」

 

 私の言葉に彼女は頷いた。これは高坂さんのためでもあり、吉沢さんのためでもある。彼女たちの物語は、私が最初に仕組んだ部分も大きい。二人を繋ぎ合わせたのは私の行いによるものだ。だからこそ、その責任を果たさないといけない。師匠として、二人の三年間の方向性を決定づけてしまった存在として、二人が最後の最後に悔いなく競い合える環境を作ることが、私の役目だろうから。

 

 これで舞台は整った。後は、演者が躍るだけ。たった三年間、それでもかけがえのない、輝くような三年間の全てをその一瞬に託して。

 

 

 

 

 

 夏休みも終わったけれど、九月初頭の空港は人に溢れている。高坂さんの将来に関する諸々も終了し、夏休みの指導も終え、私はヨーロッパに戻ろうとしていた。今度日本に来るのは全国大会のために帰国した時になるだろう。とはいえそれもすぐにとんぼ返りしないといけない。年末年始は多分帰れないし、その次は春休みだろうか。

 

「どこ行きだっけ」

「デュッセルドルフ」

「えーっと、あぁあれかな?」

「そうそう。デュッセルドルフ空港行き」

 

 妹はもう秋の授業が始まっているのでいない。雫さんも今日は仕事だ。なので、今日見送ってくれるのはまだ大学の始まってない希美だけ。少し寂しくもあるけれど、誰も見送りがいないよりはずっといい。

 

「なんかいい事でもあった?」

「どうして?」

「何日か前から結構嬉しそうだから」

「そう? そう見えてたのかな……自分ではよく分からないけど。とは言えまぁ何かあったことはあったよ。高坂さんがさ、私の出身校に行きたいんだって」

「あぁ、それかぁ」

「それは良いんだけど、まったく何考えてるのやら。一番面倒くさい茨の道を自分から歩きに来るんだ、信じられないね。私ならもっと楽な道を行く。効率悪いのに突っ走るしか出来ないんだから、一体三年間で何を学んだんだか。全く変わってない」

「ふふ、アハハ」

「そんなに面白い事言った?」

 

 ケラケラと笑っている彼女の行動が不可解で、私は問いかける。

 

「面白いって言うかなんて言ったらいいのかな。口では凄い文句言ってるのに、メッチャ嬉しそうな顔してるよ。気付いてた? 絶対気付いてなかったでしょ? だからなんか、おかしくなっちゃって。なるほどねぇ、あれが凛音の機嫌を良くしてたんだ。まぁ嬉しいよね。手塩にかけた教え子が自分と同じ道を進みたい! って言って追いかけてきてくれるんだから」

「それは……まぁ……」

「高坂さん相手だと素直じゃないなぁ。でも、あの子ちゃんと私に挨拶してきたよ」

「どんな?」

「桜地先生にお世話になるけど希美先輩の迷惑にならないように気を付けるので、よろしくお願いしますって。あなたの彼氏の時間を借りてごめんなさい、他意は無いですっていう事だね」

 

 多分誰かにそうした方が良いというアドバイスを受けたのだろうけれど、それをちゃんと実行できているのは偉い。というか、お互いに一切恋愛感情はないとはいえ、私と高坂さんの関係を許容してくれるのは普通にありがたい話だった。普通なら色々文句を言われてもおかしくないと思う。その優しさに甘えないようにしたいとは常々考えていた。

 

「涼音ちゃんにも色々聞いてるみたい。立ち居振る舞いとか、その辺。涼音ちゃん、ちょっと面食らってた。だからさ、高坂さんもちゃんと変わってると思うよ。ゆっくりかもしれないけど、少しずつ。凛音から見たら遅いと思うかもしれないけど、見守ってあげて。ちゃんと前に進める子でしょ? だから、これまでずっと教え続けてきた」

 

 そうだよね? という顔を向ける彼女に、私は小さく頷く。確かに彼女も変化しているのだろう。後輩に教えを請うたりするようになった。それに、希美との関係性も私の知らないところで変化していたらしい。

 

「これから色々あるかもしれないけど、涼音ちゃんのことは私がちゃんと見ておくから、安心してお仕事頑張って来て」

「分かった。なるべく帰れるように努力するから」

「うん。でも、無理はしないでね」

 

 私の手を握ったまま、彼女は私の胸に自分の頭を預ける。その体温が身体に伝わって来た。ふわっと柑橘系の匂いが漂う。高校時代から変わらない、彼女の香りだった。

 

「私はずっと待ってるから。この関係性に、ちゃんと形が出来るように」

「ありがとう。……希美」

「うん」

「愛してる」

「私も」

 

 それ以上は言葉にならなかったし、言葉にする必要が無かった。今はただ、少しでも長くこうしていたかったから。きっと私はまだしばらくの間欧州を拠点とする日々が続くだろう。その間、彼女をずっと日本に置いたまま待たせている。恋人関係という、何の社会的な契約も無い、言ってしまえばかなり緩い関係性で。

 

 関係性に形が出来る日を待っていると、彼女はそう言った。彼女が成人するのは来年、2018年の12月だ。とは言え来年もどうせ冬は帰れない。帰れるのは多分再来年、2019年の夏。彼女のお父さんは、結婚は成人してからにしてくれと言っていた。その条件を満たせて、なおかつ私が戻れるのが2019年の夏になるだろう。

 

 取り敢えず、指輪の値段を調べよう。私は心の中でそう決意した。





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