兄さんが欧州へ戻って行った。絢爛豪華な世界の中で、兄さんは戦い続けている。きっと自分が世界一であることに対して、自負と負い目を感じながら。そして私たちは私たちの戦いの舞台へと向かうのだ。それはすなわち、間もなく始まるオーディションであり、同時にこの後に控える全国大会の場でもある。
しかしその前に、イベント事も存在している。私たちの夏休みは終わり、学校が始まった。そうすると必然的に、文化祭など各種行事が増える。その際の練習は、普段の大会に向けた演奏とは違う、ある種の息抜き的な側面も存在した。
九月三日、月曜日。二学期が始まる最初の日でもあり、普通の学生にとっては夏休みの終了を意味する悲しい日でもある。私も、吹奏楽部に入る前は起きる時間が早くなることに随分とマイナスな感情を抱いていたけれど、今となってはもうそんな思いも抱かない。なにせ、学校があるにしても無いにしても練習がある以上は早く起きないといけないからだ。夏休みの時よりも重たい鞄を背負い、眠たさを振り切って朝練をして、やっと教室にたどり着いたのは始業の十五分前だった。
「ウェーイ」
「あなたの挨拶はいつもそれからですね。今日は些かテンションが低いようですが、ごきげんよう」
「まぁねぇ、しょうがないっしょ。夏休み終わったのはテンション下がるし。お涼はどっちでもあんまり変わんないかもしれないけどさ」
「よくお分かりで。宿題やりましたか?」
「やんないと面倒だから、一応ね」
冷房は動いているけれど、ちょっと設定温度が高めになっている。部活の練習中は全員集中しているのに加え、楽器の演奏は結構体力を消費するので温度は低めになっていた。なので、教室はちょっとだけ暑い。揚羽もハンディファンの風を浴びている。彼女の金に近い栗色の髪はその風になびいていた。
「春休みは全然だったけど、夏はちょっと遊んでくれたね~。ホントはもっと沢山色々したかったんだけど……」
「すみません。色々予定が目白押しでしたので」
「彼ピは? ちゃんと会えた?」
「それなりには。お盆には、そのまぁ、彼の家に泊まりましたし」
「マジ!?」
「声が大きいです」
「ゴメン、ちょっと動揺した」
彼女の目が珍しく泳いでいる。そんな姿をしているのに結構純情なのは面白いところだと思っている。そこを揶揄うと照れ隠しでどっかに走り去ってしまうのであまり触れないようにはしているけれど。どうも彼女は私を恋愛の参考にしている節がある。自分では全く参考にならない関係性だと思うけれど、身近な例としては参考になるようだ。誰か好きな人がいるという話は聞かないし、実際のところ恋愛に興味があるのかは微妙なところだ。可愛いので、その気になればよほどのことが無い限りは付き合うだけならできるだろう。
「大人の階段昇った的な……?」
揚羽は小さく囁きながら聞いてくる。
「そんなにすんなり行くのなら苦労しないんですけどね、私も。あの方何もしてきませんから。誘い受けなのが良くないんでしょうか、どう思います?」
「分かんない……」
「そんな事言わずに、考えてください。私の人生かかってるんですから」
死んだ魚のような目をしながら、彼女はガックリと肩を落とした。友達の悩みに答えたいという善性と、その答えに回答するためのスキルが自分には不足しているという悲しみが同居しているように見える。自分に持ってないモノに対して嫉妬したりしないのは、彼女の一番いいところかもしれない。
「高校生の間は厳しいんじゃない? 大学生になったらイケるかもだけどさ。変に手出して来るよりはずっと大事にされてるじゃん。そんなヤツを桜地センパイが認めるとは思えないってのもあるケド。それ以外だとただ単にヘタレのだけって線もあるはある」
「多分どっちもでしょうね。肩出てるだけで目を逸らさないで欲しいんですが」
「純情彼氏と肉食系お嬢様のカップリングなの、ぱっと見だと絶対わかんないなぁこれ」
困ったような顔で彼女は笑っている。ちょっと揶揄いすぎたかもしれないと反省した。
「桜地センパイの方は? 久々に彼女と会ったんでしょ?」
「二ヶ月くらい家にいましたからね。その間に随分と仲良くしていましたよ。旅行に行ったりしてましたし。この夏の間、希美先輩の機嫌がずっとすごく良かったです。毎日絶好調という感じでした」
「まぁ傘木センパイもねぇ。やっと付き合えたのに遠距離恋愛だったわけだし」
「とは言え冬休みは戻ってこれない可能性が高いので、次に長く一緒にいられるのはいつになるのやら……」
「それは希美先輩も悩んでるようです。どっちかと言えば悩んでいるのは、兄さんと恋人関係って言う結構不安定な関係のままで家にいても良いのかって事みたいですけど。要するに形のある関係性が欲しいみたいですね。それにまぁ、兄さんはあんなのでも顔は良いですから。それに資金面も不安が無いので優良物件ではありますからね。スペックだけ見ると」
「確かに。そっかぁ、傘木センパイは奥さんになれば一緒に家にいても不自然じゃないって思ってるんだ……。ウチには分かんない世界だなぁ」
私にも分からない世界なので、そこは共感できた。遠く離れているけれど想い合っていて、その気持ちがお互いに冷めていないのはよく知っている。その気持ちは薄れるどころか増しているのも。寂しさはあるらしいけれど、それでも自分を愛してる人がいるというのは自分を奮い立たせる強さに繋がるらしい。とは言え、それでも形のある関係性の方が安心できるのだろう。
付き合った期間としては、今年でちょうど一年のカップル。出会ってからだとそろそろ四年目だろう。カップルが出会ってからどれくらいで付き合ったのか、付き合ってからどれくらいで結婚したのか。そこには結構な個人差が存在している。両親は出会ってから五年、付き合ってからは二年だった気がする。父方の祖父母は出会ってから三年、付き合うという概念は存在していなかったそうだ。そう考えると全然参考にならない。
来年は二人とも成人を迎える。兄さん的にはドイツの成人年齢をもうとっくに過ぎているのであまり感慨も無いようだけれど、取り敢えず日本の法律での成人は来年だ。希美先輩が十二月生まれなので、年末に二人とも成人する。そうなってしまえば二人を阻むものはない。向こうのご両親も承諾してくれる可能性が高い雰囲気があった。再来年の夏も戻って来るだろうから、丁度二人の関係性が恋人となった夏に結婚してしまうんじゃないだろうか、と今考えていた。式をするのかは不明にしても、籍だけは入れてしまう可能性が高い。
「もう再来年くらいには結婚してそうです」
「てことは傘木センパイ学生結婚? あぁ、まぁでもあの雰囲気なら確かに全然不自然じゃないっていうか、むしろまだだったんですかって感じっていうか。和装で式と披露宴なら、衣装は是非園崎呉服店にて承りますって、言っといてよ」
「商売がお上手ですね……。まぁ構わないですけど。でも希美先輩がドレスの方が良いと言ったら兄さんはそっちにしますよ、多分」
「桜地家は和装っぽいけど?」
「両親はそうしていましたけど、時代が時代ですしね。基本的に和装でやることになってるんですけど、兄さんはそういうのガン無視するので」
今回に限っては親戚も何も言わないだろう。なにせ、一番何か言いそうな祖母が黙っているだろうから。ここはここで不思議な関係で、希美先輩はうるさ型の祖母にかなり好かれている。私と兄さんが健全な生活を送れていることにかなり深くかかわっているので、その影響ではあると思うのだけれど、それはそれとして関係値はかなり良い。結婚式は新婦のためのものだ。その新婦がドレスを希望するなら、祖母は黙ってくれるだろう。
「しかし、そうなると私は大学在学中にして夫婦の家に住んでるお邪魔虫ですね……」
「やっぱり東京の学校に行こう~ウチと一緒に東京へ~行こうぜ~~」
「その変な歌はなんですか。確かにそうなって来ると真剣に検討しないといけないかもしれません。でも、そうすると私が今度は今以上に遠距離恋愛……むぅ……」
来年の事を言えば鬼が笑うということわざがある。来年どころかもっと先の話をしているのだ、鬼はきっと抱腹絶倒だろう。けれど考えないというわけにもいかない。兄さんも希美先輩も、今まで私のために頑張ってくれた。来年までは高校生なので頼ることも多いだろう。けれどそれ以降は大学生、もうすぐ大人だ。そうなってしまえば、いつまでも頼り切りというわけにはいかない。揚羽だって一人暮らししようとしている。金銭面はともかく、それ以外は自立しないといけないかもしれない。
遠いと思っていた将来が、急に具体像を伴ってやってきた。いつかは来るかもしれないとぼんやり思っていた日は、そう遠くないのだろう。兄さんたちの幸せは祝福したいけれど、その結婚生活の中に私がしれっといるのは、自分ではどうかと思ってしまう。結婚して、その先に子供が生まれて。私が医学部なら六年間大学生だ。卒業するのはストレートで二十四歳。その時の二人はもう二十六歳になっている。
「考えないといけないことが多いですね。二人は優しいので家にいても何も言わないかもしれないですけど、その優しさに甘えて良いものか……」
「ま、そうなったらそうなったで相談するしかないっしょ、結局のところさ」
「ですね……はぁ……」
「もっと近い未来の事なら色々楽しいこともあるんだけどねぇ。文化祭とか」
「今年はどうなりそうです? またメイド服ですか?」
「今年はホラーかも」
「えぇ!? 嫌ですよ、ホラーなんて」
「お化け屋敷が良いんじゃないかって案が出てる。ほら高坂センパイたちのクラスが一年の時にやったとかで。そんな怯えなくても大丈夫だって、そんな富士急のヤバいヤツみたいなクオリティーにはならないから」
「せ、せめて洋風で……」
「うーんどうだろ。和風かも」
誰がこの案を出したのかは知らないが、和風の家の怖さを知らないらしい。電球が少ないから、夜に電気を点けても暗い廊下。そのせいで曲がり角とかはよく見えないし、遠くに誰かいても顔が分からない。しかもその電球もLEDじゃないただの白熱電球だといよいよ不気味だ。床は軋むし、無駄に広いので迷いやすい。何か出てもおかしくない雰囲気がある。自宅なのにこんな感じなのだからやってられない。
自分の部屋は洋風になっているし、床もフローリング。窓はきっちりガラス窓だし、シャッターもある。なので、夜は専ら自分の部屋かリビングにいる事にしていた。なるべく和風ゾーンは通らない。これが大切だ。何年住んでいても、自宅だとしても、怖いものは怖い。将来は絶対新築二階建ての一軒家に住むんだと決意している。
「ま、まぁまだ確定じゃないし? 何とかなるっしょ、多分。そ、それよりほら、文化祭なら吹部もまた演奏してくれるんでしょ? アレは結構楽しみにしてるからさ。頑張って」
「え、えぇはい。まだ曲も決まって無いですけど……。大会の練習と並行しながらですが、頑張ります」
「大会も全国行けたんだし、良かったじゃん。色々あったみたいだけど」
「本当に色々ありました、本当に……。ですが、あなたには感謝しています。音楽はもっと自由と言われて、それによって自分や部活の在り方についてもう一度考えることが出来ましたから」
「そうなん? 別にそんな大したこと言ったつもりじゃないんだけど、役に立ったなら良かった。高坂センパイと大立ち回りしたんだって?」
「お恥ずかしい話ですが」
あの時の行動が間違いだったとは思わない。けれど、今更ながら第三者視点で言われると恥ずかしいという想いは存在している。もっと上手いやり方もあったんじゃないか、もっと違う方法でどうにか出来たんじゃないのか。そういう感情が存在していないと言ったらウソになるだろう。あんなつるし上げみたいな形になってしまったのは反省するべきところだった。高坂先輩だったからまだどうにかなったけれど、他の人だったらもっと大問題になっていたかもしれない。
「いいじゃん、あの高坂センパイ相手に食って掛かれるなんて、ウチの親友はロックだなぁって思ったし。ただ黙って座ったままニコニコしてるだけのお嬢じゃないんだぞ~って見せつけないとね。お前なんていつでも一刀両断できるんだぞってさ」
「一刀両断はしませんけどね。居合は出来ますけど、それはあくまでも武道ですから。人を斬ったらおしまいです」
「心持ちとしてね。ホントに斬ったらダメだけど、高坂センパイ相手ならそれくらいの覚悟じゃないと厳しいっしょ。それにさ、お涼に救われてる子も絶対いると思うから。高坂センパイが全部間違いじゃなくても、全部正しいわけじゃない。そんなもんじゃん? 人生なんてさ。だから胸張ってればいいと思う。お涼のおかげで前を向けた人達は、それを望んでるだろうから」
「そう、かもしれませんね……」
私のおかげで前を向けた人。パッと思いつくのは真由先輩だった。それ以外にも、こっそりと私にお礼を言ってくれた人は何人もいた。みんな高坂先輩が嫌いだったわけじゃない。ただ、あの人の正しさとかそういうモノに疲れていただけ。そういう意味では久石さんもそうなのかもしれない。
「お涼もちゃんと幸せにならないと。ね?」
彼女はそう言って、普段のとは少し種類の違う笑みを見せる。自分の人生は自分が幸福になるために存在している。私は真由先輩にそう告げて、彼女もそれを受け入れてくれたように思う。その言葉は、自分がかつてかけて欲しかった言葉だった。そして、それは今も変わらないのかもしれない。自分が不幸だとは思わないし、今だって十分幸福の中にいるとは思っている。
けれど、もし許されるのなら。私も私の望みに正直に、生きていけるのかもしれない。
「私は幸せですよ。少なくとも、周りの人には恵まれましたから」
「それ、愛の告白?」
「まぁ、そんなところです。恋愛じゃないですよ、親愛です」
もうすぐ全国大会のオーディションだ。笑っても泣いてもこれが最後の機会、最後のオーディション。真由先輩と部長の、ユーフォソロをかけた戦いの舞台。私と沙里先輩の、フルートソロをかけた先輩後輩同士の戦いの場。そして、兄さんの下で学び続けた高坂先輩と秋子先輩の決闘場。これがもうすぐやって来る。
最後の大会で沙里先輩からソロを奪い取ってしまう可能性がある。これに対する罪悪感とか後ろめたさが無いと言ったらウソだ。それでも私は、全国大会の会場で演奏したい。私がソロになって、金を獲りたい。あの、中学三年生の時の、栄光と歓喜をもう一度味わいたい。そんな欲望が、私の中にも存在している。
秋子先輩は傷つく覚悟と言った。多分私も沙里先輩も、それはもう既に出来上がっている。だから後は、挑むだけだった。
五日の水曜日は、学校の都合で授業が午前で終わりになっていた。夏休みの余韻が抜けきらない中、生徒たちは楽しそうに半休を過ごす計画を立てている。そんな中、吹奏楽部は本日も練習だった。昼食の前に少しだけ全体練習をして、一時半から昼休み。その後にはパート練習と全体練習。休日の時に近いスケジュールが組まれている。
全国大会のオーディションまで、そう日にちはない。九月の早い段階で、つまりは文化祭の準備などが本格化する前にオーディションを行ってしまい、それによってソロなどがしっかり定まった状態でその後の練習をする、というのが滝先生の考えのようだ。それは合理的だと思う。メンバーは早めに決まってしまった方が全体練習の際のクオリティーも上がっていく。ここからは厳しい戦いになるだろう。
オーディションが近いという事もあって、部員たちは皆緊張感を纏っている。余裕そうにしている部員はいない。誰しもに可能性があって、誰しもが落とされる危険性を孕んでいる。そこで余裕を見せられる人などいないだろう。まずもってメンバーから外されることはない、という部員でもソロになれるかどうかという問題は存在している。実力がどの段階にいようとも、この緊張感からは逃れられない。せめてもの救いは、フォローが少しずつ充実し始めた事だろうか。
こちらが展開していたB編成への地道な働きかけが実ったことと、各パートリーダーが高坂先輩と私の問題していないで自分達でもちゃんと動けという風に兄さんから怒られたこと等が大きく影響しているだろう。少なくとも関西大会前のオーディション前後と比べれば随分とマシだった。
「あ……しまった」
全体練習が終わって、時間は一時半。鞄を持ってフルートパートの教室に移動しようとしたところで、今日の昼食を家に忘れてきたことを思い出した。折角希美先輩が作ってくれているのに忘れるとは何と言う失態かと肩を落とす。しょうがないので、購買で買おうと立ち上がったところで、音楽室のドアが開いた。
「練習終わった~?」
いつも家で聞き慣れている声がするなぁと思ったら、そこには希美先輩が立っていた。Tシャツと短いズボンは夏の装いという感じがする。暦の上ではもう秋だけれど、九月の京都はまだ夏だ。これで秋なんてありえないという温度と湿度が町に充満している。そんなわけでラフな格好ではあるけれど、それは適当という言葉では無く、軽快という言葉で形容するのが相応しい姿だった。現に、その姿を見た一年生の男子部員なんかは目を輝かせている。
「の、希美先輩? どうしたんですか、今日は」
「いやぁ、ホントは用事無かったんだけどね。これを届けに」
いきなり姿を見せた先輩に困惑している部長へ見せたのは、普段私が使っているお弁当を包んだ袋だった。
「涼音ちゃんが忘れちゃったみたいで」
「すみません! ありがとうございます」
あぁなるほど、という顔をしている部長を弾き飛ばす勢いで駆け寄って、忘れ物を受け取った。大学が休みの期間とはいえ、わざわざ届けてくれたことは感謝しかない。そう言えばフットワークの軽い人だったと思い出す。そうやってすぐに動いてくれるところも、希美先輩の魅力だった。
「ごめんね、私も冷蔵庫に入れたまますっかりド忘れしてて。お昼ご飯何にしようかなって思って開けたら鎮座しててさ。普段のお昼は十二時半からだから、間に合え~って思って急いで届けに来たんだけど、なんか練習してたから、それまでは職員室で待ってたんだ。保冷材入れてはいるんだけど、冷房のある部屋じゃないと衛生的にね」
「途中で入ってくださっても良かったんですよ。保護者の人ということなら、それで良いんですから」
「うーん、でも練習の邪魔はしたくないからさ。私も部員だったわけで、その辺はよく分かるから。松本先生は会議でいないし、滝先生は練習指導してるしで、他の先生に預けようかとも思ったんだけど、迷惑そうだしみんな忙しいみたいだから。私は暇だからね、全然OK」
ニコニコ笑ってくれている。作ってもらったのに、受け取るのを忘れていたのは完全に私のミスだ。けれど、私を責めるような事を一言も言わないで、彼女は微笑んでいる。私に恋人がいなければ、もしかしたら好きになっていたかもしれない。いや、今でも人間として凄く好きな相手ではあるのだけれど。
「久美子ちゃんもお疲れ様」
「あ、お疲れ様です」
「関西大会もちゃんと聞きに行ったよ~」
「すみません、あの時は挨拶も出来ないで……」
「それは全然気にしないで。大会前に余計な事なんて考えたくなんて無いだろうからさ。卒業生の相手なんて、いつでもできるんだし。それはそうと全国も行くから、楽しみにしてるね」
「はい、頑張ります」
部長も背筋を伸ばしている。私は詳しくは知らないけれど、高坂先輩と希美先輩の間には多分何かしらのやり取りがあって、それは部長にも伝わっているのだろう。部長から見れば、希美先輩は高坂先輩を立ち直らせるのに一役買ってくれた立役者だ。それに、自分が部長になって理解した希美先輩の重責とかその凄さみたいなモノもあるのだろう。
「頑張ることは大事だけど、無理はしないようにしないとダメだよ」
「でも……私はまだまだですから」
「向上心があるのは良い事だけどね。けど、ちゃんと周りは頑張ってる事を知ってるから。凛音も家でよく話してくれてるよ。黄前さんはよくやってるってね」
「桜地先輩が?」
「うん。ご飯の時に部活の話ばっかり。もうちょっと彼女が可愛いとか、そういう話をしろ~って感じだけどね。ちゃんとやるべき事をやってるのは皆知ってるから。だから、ちゃんとついてきてくれる。ただやってるフリをしてるとか、そういう子には誰も付いてこない。そう思わない?」
「それは、そうですけど。私は優子先輩や晴香先輩みたいには、中々。やってみて初めて気付く事とか、そんな事ばっかりです」
「それは仕方ないね。誰しも最初は初めてなんだし。でも優子には優子の出来る事とか得意な事があって、久美子ちゃんには久美子ちゃんの得意な事とか出来る事がある。凛音曰く、久美子ちゃんは痛みを知ってるから、そこから立ち上がることができる強さがあるってさ。私も、それはそうだと思うよ」
痛みからくる、とはどういうことなのか。希美先輩と兄さんが知っているけれど、私は知らない部長の過去があるのだろうか。思えば、私は部長のことを良く知らない。なんなら真由先輩の方が知っていることは多いかもしれない。二年間同じ部活にいるのは、部長の方なのに。元々ユーフォニアムの先輩という事以外にさして興味はなかった。部長指名の時も、ちょっと驚いたくらいだった。
だから、私にとって彼女を意識し始めた時には既に部長だった。ずっと呼び名も部長と呼んでいた。思えば、黄前先輩と彼女を呼んだことがあっただろうか。もしかしたらあるのかもしれないけれど、それは覚えていないくらいには少ない回数なのだろう。私は彼女を部長と定義して、それ以外の部分を知ろうとしなかった。興味が無かったというよりは、必要性が無いと思っていたのかもしれない。役職と本人の人格が全然違うということなんて、自分の経験でよく知っていたはずなのに。
「私は強くないですよ、全然。桜地先輩とかの方がずっと強いじゃないですか。誰にも屈しないで、今だって日本じゃない場所で頑張ってます。麗奈もそうですけど、私にはそんな選択肢はまず浮かばないですし……」
「そうかなぁ」
「え?」
「凛音は強いかなと思って。あの人、多分そんなに強くないよ? 確かに傷つくことを怖がっている感じは無いし、ドンドンと前に進んで行く。傷ついてでも前に進みたいと思っている。でもそれは強いって言うわけじゃないかなぁって。ただ何もしないのが怖いんじゃないかな。だからこそ、傷ついてもそれに耐えて進んで行く」
何でもない事のように希美先輩は言う。部長にとってすれば、それは結構ビックリする言葉だったのかもしれない。でも、確かに希美先輩の言う通りかもしれないと思った。私の兄はそういう人間だ。強さというよりは、何か別のモノに突き動かされるように生きている。それは執念とか、夢とか、希望とか、未来とか、プライドとか、そういう色々なモノだろう。
強い人はきっと後悔なんてしないだろうし、思い残す事なんて無いのかもしれない。そう考えれば、兄さんは真逆だ。後悔も、思い残したことも沢山ある。部活で思い残したことも沢山あると言っていた。一番は、希美先輩を助けられなかったこと。次点で、自分の相棒たるトランペットを、もう一度全国大会に連れて行けなかったこと。そんな風に呟いていた。
「久美子ちゃんは、私を助けようとしてくれたよね。そんな事なんて全くする必要なかったのに。むしろそれをするデメリットの方が多いのかもしれないのに。そうやって手を差し伸べられるのが、何か動かないといけない時に自分の感情に素直になれることが、久美子ちゃんの良いところで、久美子ちゃんの強さじゃないかな。私はずっと、そう思ってるよ」
「希美先輩……」
「ただ強いだけの人になんて意味はない。だって、強いだけの人は痛みを知らないし、弱さも知らない。そういう人は、人の気持ちなんて気にしない。そんなのが強さだって言うなら、私はいらないかな。優しいって、誰にでも出来る事だし、優しい人って誰にでもなれるモノだけど、だからこそするのもなるのも難しいんだよ」
希美先輩は部長の手を取る。そして、優しく微笑んだ。
「だから、大丈夫。どんな結果になっても、きっと久美子ちゃんは自分の信じた道を歩いていけるから」
「ありがとう、ございます」
「大したことじゃ無いよ。昔の恩返しみたいなモノだから」
その時、ガラガラと音楽室のドアが開く。
「涼音ちゃーん、早く来ないとご飯食べちゃう、よ……ってうわぁぁ! のぞ先輩だ! 何でいるんですか!?」
「え、のぞ先輩いるの? 来るなら教えてくださいよ~」
「連行ッ~~!」
私を呼びに来てくれた沙里先輩が叫び声をあげると共に、後ろにいた蕾実先輩と芽衣子先輩が乗り込んでくる。部長を弾き飛ばす勢いで近付いてきた三人は希美先輩を取り囲んで、そのままフルートパートの教室へと連行していく。私と部長はそれを唖然としたまま見守るしか出来なかった。
「相変わらず凄い人気だね……」
「フルートパートの先輩は少ないですから。それにほら、あの性格ですし」
「確かに」
「去年の世代は地獄を見てますからね。他人に対する優しさとかは、ちゃんとある人ばっかりだったと思います」
「そういえば、そうだった。桜地さんが希美先輩の事を好きなのも、よく分かる。もっと現役時代に話しておけばよかったかなぁって、今になって思うから」
「今からでも遅くないと思いますよ。挫折も栄光も、沢山知っている人ですから。困っている部長を放ってはおかないと思います。……部長」
「うん」
「覚悟は、出来ていますか? 舞台上に上がる、覚悟は」
それは、私がオーディションの制度が変わる時に聞いた言葉であり、この前にも聞いた言葉だった。一回目も二回目も、本当の意味で肯定する返事が返ってきたわけじゃない。だからこそ、今ここで聞いたのだ。真由先輩は既に覚悟を決めている。高坂先輩や秋子先輩もそうだろう。沙里先輩と私も同様だ。最後に必要なピースは、部長だった。
「ここまで、来たんだね。今になって思うよ、もう最後なんだって」
「……」
「ありがとう、桜地さん。私に、六月の時も、この前も、そして今も、覚悟はあるのかって聞いてくれて。多分、聞いてくれなかったら私はずっと迷ったままだったかもしれない。もしかしたらそれでもどうにかなったかもしれないけど、ずっと遠回りで、ずっと無自覚だっただろうから。厳しい問いかけをしてくれる人が身近にいたのは、私にとっては幸運だったと思ってるよ」
「私が良い後輩だったとは思いませんし、そういう括りであれば久石さんの方が良い後輩だと思います。ですが、少しでもお役に立てたのであれば、嬉しいです」
「これまで二回も聞かれて、上手く答えられないままだった。これじゃダメだと思って、この前私の先輩に相談したんだ。関西大会が終わった後。それに希美先輩が話してくれて、桜地先輩も気にかけてくれて……。最後に今、こうして桜地さんが聞いてくれて、答えは出せたと思う」
「では、その答えは?」
「あるよ、覚悟。どんな結果になろうとも、自分が信じた事をする。例えそれで、自分が傷ついたとしても。上手い人が吹く。それが私の信じた北宇治で、私のそうであって欲しいと願っている北宇治で、私が作る北宇治なんだから」
最後のピースはピタリと嵌った。部長の顔は凛としている。その目にも言葉にも、もう迷いはない。まだ足と手は震えている。それでも、彼女は選んだ。自分が勝って誰かを傷つけるのは良いけど自分が誰かに傷つけられるのは嫌だなんて、そんな理屈は通らない。秋子先輩はそう言った。その覚悟を持ってくれないと困ると。
やはり優子先輩や兄さんは正しかった。目の前にある瞳を見て実感する。高坂先輩でも、他の誰かでもない。この部の部長には、彼女こそ相応しいのだ。完璧ではないかもしれないけれど、だからこそ彼女にしか出来ないことがある。私はきっと、希美先輩や優子先輩とはまた別のベクトルで、彼女を尊敬し続けるだろう。今、そう思った。