遂に最後のオーディションの日程が発表された。九月の第三週に、運命の日はやって来る。私たちのフルートパートも、そこに向かって全力で練習に励んでいた。最後の大会を絶対に逃せない三年生、最後の大会こそ出たい二年生、何とか食らいつく道を探している一年生。それぞれに目指すべきモノや目指す理由があり、それを叶えるべく努めていた。
一年生の二人も随分と成長してくれた。ここまで腐らないで頑張ってくれたのは、先輩としても誇らしい。兄さんの直接的な教育をみっちり受けてきた三年生がいなくなってしまう来年度になっても、フルートパートがその実力を保てる可能性は現時点ではかなり高かった。
先輩たちの卒部も近い。全国大会が終わってしまえば、その活動は終了し、部の運営は二年生に委ねられることになる。その前に幾つも大きなイベントが存在しているとはいえ、どうしても間もなくやって来る終わりの時が視界の端にチラつくようになった。他の部活ではもう既に三年生は引退している。吹部は恵まれているのだと理解してはいるけれど、寂しいものは寂しい。
「最後の部分だけもう一回やってみようか」
「「はい」」
沙里先輩は一年生の指導をしている。その光景を、私はどこかぼうっと見ていた。この景色はきっと、もうすぐ見られないモノになってしまうのだろうという事を知っているからこそ、その声や仕草をいつまで見ていられるのだろうかと考えてしまう。いつかはこの日々も全部過去になって、夢の中に消えてしまうのかもしれない。すっかり空だけ秋になった窓の外を見て、そんな事を思う。
「どこ見てるの?」
「いえ……ちょっと、色々と」
「そっかぁ」
私と成美さんの視線が前方に向けられる。今度はそこでつみきさんが沙里先輩からピッコロの指導をされていた。沙里先輩は去年までピッコロをやっていたので、その系譜による指導なのだろう。あそこはあそこで師弟関係が存在していた。
そういう小さい規模での師弟関係の繋がり、技術や想いの継承を行いながら、この部は存続している。その繋がりが切れてしまったら、きっとこの部はまた昔のようになってしまうのだろう。別の所では蕾美先輩と香奈さんが話している。芽衣子先輩は面談中だ。
「どう、なるかなぁ」
「……オーディションですか?」
「そうそう」
「どう、なるんでしょうね。なるようにしかならない、という見方も出来ますが」
「それを言ったらおしまいだけどさ」
そう言いながら成美さんは苦笑する。結局我々が話し合ったところでオーディションの結果がどうなるかなんて言うのは分からない。それは先生にすらまだ分かっていないのだろう。本番を迎えてみるまで、どういう風になるのかは分からなかった。
「私はまずメンバーに入れるかどうかからだからさ。ソロになるとか、考えたことも無かった」
「……」
「沙里先輩も桜地先輩の指導受けてだけあって上手いし、涼音ちゃんも中学時代から活躍してるし、結局私に出番なんてないと思ってたなぁ」
彼女の言葉に私は何と返事をすればいいのか分からないまま、ただ肯定も否定も出来ずに座っていた。一年生の音は良い具合に仕上がっている。ピッコロの方も順調そうだ。沙里先輩は満足気に頷いている。カチリと時計の秒針の音がした。
「だからさ、高坂先輩たちとか部長たちがバチバチやってるのを知ってはいたけど、雲の上の話みたいに思ってた。上手い人は全然Aメンバーになれない子に価値があると思ってくれてるのかとか、そういう心配ばっかりしてたし」
「思ってた、という事は今は違うと?」
「そうだね……。ハッキリ違うって言い切るにはまだ、迷いとかがあるような気もする。でも、この前の大会で部長は言ってたじゃん。『あなたの力を貸してください』って。それが私にハッキリ向けられたわけじゃないっていうのは分かってるんだけど、分かってはいるんだけどそれでも自分も部活で必要とされてるんだって思えた」
「そんな事、当たり前じゃないですか」
「そう思ってくれるのは、涼音ちゃんが優しい子だからだよ。優しくない人は普通にいる。誰がとかは分からないけど、自分が演奏できるかどうかが重要って思ってる人はきっと一定数いるんじゃない?」
自分が演奏できることが大事。そういう風に思う心はどんな高潔な人の中にだって存在しているのだろう。大事になって来るのは、その心を持っている事じゃない。持っているけれどそれを表に出して、その感情に振り回されて行動するのかどうかという事だ。私だってもちろん自分が演奏できるならばしたい。正しい手段で手に入れられるなら、そのために努力する。けれどそうならなかったからと言って、自暴自棄になったりはしない。
人生、上手く行かない事の方が多いのだ。望んだモノは手に入らないことが多いし、会いたい人は会えなくなってからその大切さに気付く。そんな事ばっかりだった。
「ともかくさ、私にも部長の言葉は多少なりとも刺さったんだ。だから、雲の上の人だ~なんて見上げるのはやめようかなって」
「見上げるのをやめて、どうするんです?」
「昇りに行くの、雲の上に」
彼女は天に向かって手を伸ばした。その先に視線を向ける。あるのは学校の天井だけ。それでもそれを透過した先にある青い空の上に、彼女が手を伸ばしている気がした。こんなに熱気の籠った言葉を彼女の口から聞いたのは、もしかしたら初めてかもしれない。少しだけ驚いたけど、同時に納得も出来た。みんな変わっていくのだ。少しずつ、けれど着実に。毎日同じ景色では無いように、人間だって変化していく。
「それにさ、のぞ先輩もきっとこんな気持ちで走り出したのかなって、そんな気がするんだ。涼音ちゃんだって、きっとそうだと思ってる」
「確かに、私もそうかもしれません。希美先輩に憧れて、フルートを始めて……そしていつの間にかこんなところまで来ていました」
小学生の時、たまたま訪れた南中の演奏会で演奏している希美先輩を見た。あの時、あの演奏に、心の全てを奪われた気がした。ある意味では兄さんよりも先に、希美先輩の事を見つめていたのだ。一目惚れと言ってもいいかもしれない。あんな風に、楽しく、美しく。そう考えて私はフルートを始めた。
「でも最初、一番初めにあったのは……兄さんみたいになりたかったのかもしれないですね。追い付きたくて、手を伸ばして……音楽を始めたきっかけは間違いなくこれなので」
「そっか」
「成美さんは、どうして音楽を始めたんですか?」
「私? 私は何だろうなぁ……そんなちゃんとした理由は無かった気がする。何となく音楽は嫌いじゃなくて、小学校の頃から成績とかは悪くなかったし、部活をするなら運動系じゃないのにしようと思ってたかなぁ。まぁそれに関しては大きな間違いだったわけだけど。そんな感じで、別に大した理由じゃ無いよ」
「どんな理由でも、貫き通せば本物です。理由だけ御大層で実力が伴っていないよりよっぽど良いじゃありませんか」
「確かにね」
私たちは小さく笑った。私の理由だって、家族がやっていたからなんて大した理由じゃない。兄さんが世界一だからなんだか御大層な理由になってしまうけれど、あの時の兄さんはそんな立派な存在じゃなかったし、本当にただのありふれた理由から私は音楽の道に足を踏み入れた。
そもそも、そんな御大層な理由を持っている存在の方が少ないだろう。兄さんだって、トランペットを始めたのは本当に偶然母の昔使っていたトランペットを発見したからだった。それを運命と呼ぶかただの偶然と呼ぶかは、その人次第だろうけれど、私にはただの偶然に見える。
「オーディション、頑張ろう」
「はい、頑張りましょう」
どちらから言うでもなく、休憩時間はおしまいという空気になる。最後に頑張ろうとだけ言って、私たちは目の前の楽譜に向き合った。オーディションは結局自分との戦い。最後まで、ほんの少し前まで実力は伸び続ける。そう信じて、前に進むしかないのだ。
唇に金属が触れる。私のパートナーたるこの子に息を吹き込む。これまで何度も指摘されたことを意識しながら、丁寧に、しかし大胆に。優雅に、華麗に、美しく。あの時憧れた演奏を追いかけながらずっと走って来た。いつの日か、あの演奏を出来るようにと手を伸ばしてきた。成美さんが雲の上に手を伸ばしたように、私だってずっと追いかけてきたのだ。ただ一人、前を歩く人の背中を目指して。
冬が終わり、そして未来へ続いていく。兄さんは第四楽章の最後のソロはそういう表現だと言った。第一楽章最初のソロも、希望を謳っているのだと言った。希望、未来、そしてそこにあるであろう青空。薄く雲がかかっていて、温かさの中にどこかまだ冷たさも残る、そんな春の日。それがこの自由曲の最初と最後にあるソロだった。
感情を込められないのが私の弱点だった。自分を出すのは得意では無かった。どうするべきか、どうしなくてはいけないのかを考えて生きてきた。けれどきっとそれだけではダメなのだと、この年になって多くの人に教えてもらった。秋子先輩には自分の心に従うことを、沙里先輩には自分の信じた正しさを貫くことを、真由先輩には自分の幸せを諦めてはいけないのだという事を反面教師的に、親友には音楽はもっと自由だという事を。そうやって多くの幸福な出会いの末に、今の私はある。春はそういう出会いをくれる場所だ。未来、希望、そういうモノがやっとつかめた気がした。
フルートの銀色が輝きを増した気がする。私がようやく感情を込めて演奏できたからなのだろうか。兄さんは楽器が応えてくれると言った。その言葉の意味が理解できた気がする。確かにこの子は私の感情に合わせて、迸る想いを込めた吐息に合わせて、望む音を出してくれている。あなたはそんな音が出せたのね、という想いになるくらいには今まで聞いた中で一番良い音色だった。
「良い感じだね」
どれくらい時間が経ったのだろう。時計の長針は既に一周以上しており、空は少し茜色になっていた。目の前には沙里先輩が立っている。
「すみません、無視してしまいましたか?」
「ううん。私がずっと聞いてただけ。随分良くなったんじゃない? 涼音ちゃんってそんな風に演奏するんだって、そう思って聞いたままになっちゃってた。自分の練習もしないといけないのにね。何か掴めたのかな?」
「やっと、この子と通じ合えた気がしたんです。もう一回出来るのかは分かりませんけど……それでも出来るようにしたいと、そう思いました」
「そっか。それは良い事だね。桜地先輩が言ってたよ、楽器は自分を映す鏡だって。その子が応えてくれたのはきっと涼音ちゃん自体が一皮むけたからじゃないかなぁって、私は思う」
楽器と人間の関係性は不思議なモノだと思う。人間は楽器を通して音を奏でる。そういう意味では楽器なんてただの道具に過ぎない。けれどどうしてだろう、そういう風に思えない時がある。この子たちにも人格があって、想いとか望みがあるような気がする時があるのだ。だからこそ、兄さんは鏡という表現を使ったのだろう。楽器が持っている想いというのは、奏者の想いそのものであると考えたから。
「オーディション、全力で行こうね」
「はい、お願いします」
「悪いけど、全然手加減とか出来そうにないんだ。恨まないでね」
「そのままお返しします」
ここは良いパートだ。去年もそうだったけど、今年もそう思う。来年入って来た後輩に、そういう風に思ってもらえるのだろうか。そう考えて、すぐに思い直した。思ってもらえるようにしないといけないのは私たちの仕事なのだから。
「今のような言葉、去年希美先輩も仰ってました」
「そうだったの? そっか、それは……良かった」
ホッとしたような、安堵の顔を浮かべて沙里先輩は笑った。その目元には小さく光るモノがある。きっと沙里先輩も気を張り続けた一年だったのだろう。調先輩と希美先輩という二大巨頭の後を受け継いだのだ、どうしても比較されてしまうことがある。調先輩のように親身かつストイックに、希美先輩のようにカリスマを持って優しく。そういう運営が出来るのかどうかとずっと悩んでいたんだと思う。
そういう意味では、私は良い後輩では無かったのだろう。よりにもよって高坂先輩と揉め始めるという大問題を起こしているのだから。それでも沙里先輩はカリスマを持つ同期よりも、同じパートである私を取ってくれた。あの時は地盤固めは任せろと言ってくれたけれど、きっと色んな気苦労があったのだと思う。それを表に出さないままでいてくれた。
そんな先輩たちと同じような場所に立てて、同じような事が言えた。それは沙里先輩にとって大きな救いだったのだ。だからこそ、希美先輩にしたのと同じように全力で挑むことが、沙里先輩への何よりの恩返しになる。私はそう、決意していた。
オーディションは終わった。私自身の演奏がどうだったのか、自分で評価するのは難しい。誰にも恥じない演奏を、それこそソロを勝ち取ることが出来るような演奏を出来たとは自負している。しかしそれが果たして先生の求める演奏であったのかどうか、それは分からない。やるべきことは全てやった。後は結果を待つばかり。
静かに、しかし確かな緊張感が朝の音楽室には存在している。昨日の時点でオーディションは全て終了し、今は結果を待っていた。普段はミーティング前でも話声が聞こえるけれど、今日ばかりは全員が沈黙したままその時を待っている。
松本先生が入室してくると、その緊張は一気に高まった。先生の手の中にあるバインダーに全ての結果が入っている。これまでこの部活は色んなことがあった。その全てを経た今、オーディションそのものに文句を言う生徒はいないだろう。その結果に関しても、同様に。
「それでは、オーディションの結果を発表する。まず、トランペットから。三年、高坂麗奈」
「はい!」
いつも通り淡々とメンバーが読み上げられていく。基本的には面子が大きく変わることはない。高坂先輩や秋子先輩などを中心に、金管組の基本メンバーは関西大会と同じまま。そこに、久石さんの名前は無かった。
「フルート、三年、小田芽衣子」
「はい!」
「三年、高橋沙里」
「はい!」
「三年、中野蕾美」
「はい」
まずは三年生が全員名前を呼ばれる。今のところ、呼ばれていない三年生はいない。それだけが、この明暗の分かれるオーディションの中での数少ない救いなのかもしれない。そもそも兄さんの薫陶をダイレクトに受けていた世代が選ばれない可能性自体あまり考えられない事ではあるのだけれど。
「二年、桜地涼音」
「はい」
「二年、山根つみき」
「はい!」
「以上五名」
フルートパートの読み上げは終わる。成美さんが静かに目を閉じた。けれど落ち込んでいる、というようには見えない。どこか満足したような、そんな顔をしていた。彼女は健闘して、自分で納得できるくらい戦い抜いたのだろう。だからこそそういう表情を浮かべる事が出来るのだと思う。
「以上、五十五名が全国大会に出場する。続いてソロメンバーを発表する。クラリネット、三年、高久ちえり」
「はい」
「マリンバ、三年、釜屋つばめ」
「はい」
「コントラバス、三年、川島緑輝」
「はい!」
ここまでは変わらない。高久先輩も釜屋先輩も川島先輩も、これまでの二回の大会で毎回ソロを務めていた。ここでも安定してソロを勝ち取っている。そして残ったのは三つ。フルート、トランペット、そしてユーフォニアムだ。
「フルート、二年、桜地涼音」
「はいっ!」
京都府大会と同じように、少し上ずった声で私は大きく返事をした。沙里先輩が小さく息を吐いたのが分かった。その中にどういう感情が込められているのか、横から見ているだけでは分からなかった。ただ一つ分かるのは、沙里先輩が堂々と挑んでくれたという事実だけ。
バシッと小さく背中が叩かれる。背筋を伸ばせと言うように、沙里先輩が背中を叩いていた。目元には小さく涙があったけれどそれを拭って、彼女はこちらを見ないまま親指を立てた。今はそれだけで十分だった。私は先輩に恵まれている。誰が何と言おうと、間違いなく。
「続いてトランペット、とユーフォニアム」
奇妙な松本先生の言葉に、私や沙里先輩の感傷は一気に引き戻された。他の部員も困惑した顔をしている。長い事吹奏楽部にいたけれど、こんな言葉を聞いたのは初めてだった。戸惑いのざわめきが小さいながらも起きる。
「静かにしろ! トランペットは高坂麗奈と吉沢秋子。ユーフォニアムは黄前久美子と黒江真由。以上の二組は後日、全部員の前での公開オーディションとする」
その言葉は、一気に音楽室内を騒然とさせた。公開オーディション。それはかつてこの部活で行われた。私のまだ知らない、新生北宇治における一年目。高坂先輩が勝利し、当時三年生だった先輩が落選した。そのオーディションを兄さんは十字架と言っていた。
沙里先輩の顔色が悪い。他の三年生も軒並みあまり良い顔をしていなかった。兄さんがいまだにあまり言及しない公開オーディション。それはきっと、この部の三年生、そのオーディションに参加した全員が等しく背負った負の遺産であり、十字架なのだろう。三年生はその時に感じた後悔や無念、様々な感情が籠った顔をしている。
しかし、この制度は納得できるものではない。それは部長と真由先輩のどっちがとか、高坂先輩と秋子先輩のどっちがとかそういう問題ではないのだ。これは、オーディションという部の制度の根幹を揺るがしかねない決定だと、滝先生は理解しているのだろうか。
「先生、私たちは滝先生と松本先生という二人の顧問の先生が審査して下さり、その結果に従ってメンバーを決定するという約束事の下でオーディションを受けているはずです。確かにユーフォニアムとトランペットのソリが甲乙つけがたいがために選択が難しいことは私も同意するところです。ですが、それでもなお選ぶのが先生方の仕事のはずです。それにいくら拮抗しているからと言ってもユーフォニアムとトランペットだけを特別扱いするのは筋が通りません。もしやるなら、せめてソリだけでも全部公開オーディションにするべきです」
これはオーディションという場所の信頼性の問題だった。必ず先生が選んでくれる。審査員は二人だけであり、そこに他の判断が加わる余地がない。そういう前提でこれまで二回のオーディションは行われて来た。にも拘わらずここで急に変更したのでは、これまでと基準が変わってしまう。それはこれまで二回の審査の結果だって揺らいでしまう可能性を秘めていた。
「先生たちがどんな結果であろうとも必ず結論を出してくれる。メンバーを選出してくれる。そういう信頼関係の下で成立していたオーディションがこれでは成立できません。判断が難しかったら部員投票になるなんて、私たちは何一つ知らされてない。そんな事後決定をオーディション終了後にいきなり持って来られても困ります」
「それに関しては……申し訳ないと思っている。滝先生と話し合いこういう形としたが、もっと先に伝えておくべきだった」
もし仮に、難しい判断になる場合は公開オーディションをしますという制度があったなら構わないのだ。それはそれでどうかと思うけれど。しかし今回はそんな説明はなかった。そういう説明があったからと言って結果が変わったかは分からない。けれど審査する側にはされる側に対する説明義務があるはずだ。三年間を捧げた結果が左右される人もいるのだから。
私たちは審査され、時に不本意な結果になることもある。それでも先生たちは公平に審査してくれたのだと、そういう前提があったからこそオーディションは成り立っていた。審査される側の痛みも、先生たちだってきっと難しい判断を私たちのために頑張って決めてくれているのだろうと、私は兄さんから話を聞いてそう思っていたのだ。
にも拘らず何故最後だけ、今回だけ生徒に投げるのか。難しい判断でもちゃんと下して欲しかった。そうするのが先生たちの役目じゃないのだろうか。それじゃあ、それじゃあ自分に嘘を吐けないまま、恩人か愛弟子かの選択で苦しみながら後者を選んだ兄さんがバカみたいじゃあないか。
選ぶ側の苦しみを、兄さんはよく知っている。今まで選ばれる側だったからこそ、そして本来は選ばれる側にいるべき年齢だったのにも拘らず選ぶ側にいたからこそ、兄さんはそれを誰よりも理解していた。毎年悩んで苦しみながらも、オーディションのメンバーを選んでいた。誰かの夢を壊す痛みを、常に感じながら。その苦悩を、私は横で見てきた。二年間も、ずっと。
選ばれる側の痛みが不本意な結果に終わる時の痛みなら、選ぶ側の痛みはどんな難しい判断でも決断しないといけない時の痛み。そうやってお互いに苦しみ痛みを抱えながら、それでも未来のために行う。それが、オーディションという制度のはずなのだ。私には、申し訳ないけれど先生が痛みから逃げているようにしか見えなかった。
私はもう何も言う気になれず、下を向く。公開オーディションをして、票が割れたら、その結果如何ではまた部が割れる可能性だってある。それに、お互いに負けても恨まない覚悟はしていても、部員に審査される覚悟をしていたとは思えない。部内の影響力では依然真由先輩が劣位だ。仮に公開オーディションをしても、部長が贔屓される可能性は残っている。そしてそれを部長は望まないだろう。私はそこまで部員の理性を信じ切れていない。それに、本当に同値なのだとしたら、最後は関係の長い方を取る部員が多くても不思議ではないのだ。
何より、難しい決断をした兄さんの痛みが無かったことにされているような気がして、どうにも抑えられなかった。こんなの、誰も幸せにならない決断に思えてならない。
こんなオーディションになるとは思ってもいなかった。これならまだ南中時代の方がマシかもしれない。あの顧問が痛みなんて感じていたとは思えないけれど、それでも決断を生徒に投げたりはしなかった。その一点だけは今になって評価できるように思える。結論、私は審査員を信用できなくなってしまったのだ。決断してくれる前提だった人に裏切られたような気持になっている。
これでは、私は自分がソロに選ばれたことに対して納得できない。なにせ、審査する側を信じられないのだから当たり前だ。自分が選ばれた経緯にも納得がいかない。公開オーディションにするならフルートもクラリネットもマリンバもコントラバスもやるべきなのだ。もし実行されないなら最悪私が辞退すれば枠が空くから、そこを埋めるためにもう一回オーディションをしないといけなくなる。そうすれば……というアイデアが浮かんだ。まさか真由先輩ではなく自分が本格的に辞退を考えることになるとは思ってもみなかったけれど。
音楽室内には重苦しい沈黙が流れた。この空気の中を切り裂くように、一本の手が上がる。
「松本先生、質問しても良いですか」
「……あぁ」
秋子先輩は普段の優しく緩い口調とは全く違う固く険しい声音と表情で言葉を発した。
「これはつまり、桜地さんの言うようにトランペットとユーフォニアムのソリについて、滝先生と松本先生は結論を出せなかったという事でよろしいのでしょうか」
「……そういう事になる」
「分かりました。先生方に選んでいただけなかったのは残念ですし、今桜地さんの言ってくれたように私たち二人も先生方に選んでいただけると信じてこれまで励んできました。ですがこういう結果になった以上、私たちトランペットに関しては部員投票にしても決着が正確にはつかないと思います。ユーフォニアムはユーフォニアム同士でどうするか相談してもらえればそれで良いんですが、ともかくトランペットに関してはそう考えています」
先生の判断を疑うような言葉だけれど、高坂先輩は何も言わない。むしろ、今回ばかりは秋子先輩に同調しているようにも思えた。この勝負は二人にとっては神聖なモノだったはず。それが上手く決着しなかったのは、納得できないところがあるのだろう。
「ですから、先生方に無理ならばより選ぶのに適していて、選ぶことが出来る方に頼もうと思います。先生方が選んでくださらなかったのが原因なのですから、少しくらいこちらのワガママを聞いて欲しいです。みんなを信用していない訳じゃないですけど、でもこれは結局、トランペット奏者にしか分からない世界でもあると、そう思うので。どう思う?」
「私も、同意します」
「と、いう事で私たち二人はこの世界で一番トランペットの演奏に関する巧拙を判断する資格があるであろう方にお願いします」
高坂先輩の同意を得て、秋子先輩は言う。その人が誰かのか、この部活にいる生徒ならば誰もが理解していた。世界で一番トランペットを審査するに適した人物であり、この二人がライバルとしてここまでくるきっかけになった人物。それはもう、一人しかいない。
「私たちは、桜地先輩にお願いしたいと思います」
「桜地先生ならば、絶対に答えを出してくださるはずですから」
秋子先輩と高坂先輩は真っ直ぐ前を見据えて、そう告げた。
定演に当たった方おめでとうございます。私は横浜昼の部にいます。