兄さんを呼び出すという選択。公開オーディションという突然の変化球に対して、高坂先輩と秋子先輩が出した答えはそれだった。先生たちに判断できないのは仕方ないのだから、それならば生徒に判断できるわけも無く、しからば兄さんという自分たちの知る限り最もトランペットに精通した人間を頼る。至極自然であり、妥当な判断だろう。
そして幸運なことに、兄さんはこの部活内で信頼を得ている。その判断に対して何かしらの悪印象を持つ生徒はいないだろう。それに加えて、高坂先輩と秋子先輩という実力者二人の意見には部内に異論を挟ませない強さがあった。吹部はどうしても上手さが地位に直結する。その点、この二人は俗な言い方をするならばトップカーストという事になるのだろう。
しかしだ。この二人とて手放しでこの状況を歓迎しているわけではない。いや、むしろこの状況を歓迎している部員などいなかった。部長も真由先輩も困った顔だったし、高坂先輩と秋子先輩もしょうがないからこうするという次善の策を取ったに過ぎない。私は怒り心頭、とまではいかないにしても少々憤激する気持ちを抑えられないでいる。他の部員も大なり小なり困惑と不安を抱えていた。自分たちのオーディション結果がどうなるのか、この時点では分からないからだ。場合によっては結果が全てやり直しになる可能性もあるのだから、無理もない話だろう。
この状況に終止符を打ちたい部長、端的に言えば文句がある私、兄さん招聘の案を立てた秋子先輩。この三名で全体の収拾を取り敢えずつけてから滝先生のところへと向かう選択を取った。全体は高坂先輩と副部長に任せている。
兄さんを呼ぶならば、私を通した方が早いのでどっちみち私は必要なのだ。今のヨーロッパ現地時刻は朝の三時頃。こんな時間に叩き起こした場合一番怒られないのは私だろう。揚羽曰く、多少の無茶をしても許されるのは私だそうだ。
「部長はどうされるんですか?」
「うん……。私としては公開オーディションでも良いけど、真由ちゃん次第かな」
「なるほど。真由先輩も拒みはしないとは思いますが、望んでいるわけではないでしょうね」
「それは……そうだろうね」
部長は小さなため息を吐く。ここで決着と思ったらまだ続くという事への心労は察するに余りある。秋子先輩は普段とは違い顔がずっと険しいままだ。多分、内心で切れ気味なのだ。彼女と高坂先輩にとって神聖と言っても良い勝負をこんな形にしてしまったことに対し、あまり良い気分ではないのだろう。
私も部長も先生も、秋子先輩が怒った顔を見たことが無い。だからこそ、余計に怖く感じる。本当に怒らせてはいけない人は、普段滅多な事では怒らない我慢強い人だ。そういう人が怒っている時というのは、余程の事をしてしまったという事なのだから。多分、秋子先輩はこれまでそういう顔を兄さんくらいにしか見せてこなかったのだろう。
「高坂先輩は、アレで本当に良いんですか?」
「良いってよ。私の見立てだけど、麗奈ちゃんは麗奈ちゃんで先生にちょっとムッとしてるとは思うよ。麗奈ちゃん、先生の事は好きなんだろうけど、それはそれとして私との決着はちゃんとここで付けちゃいたかったみたいだし。だから、良いんだって」
「そう、ですか……」
「久美子ちゃんの方はどう? 大丈夫?」
「大丈夫……とはあんまり言えないけど、まぁやるしかないかなって」
部長も表情が硬い。秋子先輩のいつになく冷たい声に、緊張しているのが伝わってきた。
「失礼します」
職員室の扉を、部長が強張った顔で開けた。他の先生は出払っている。滝先生は私たちの顔を見て、要件を察したようだった。その表情が明るくないのも、多分認識しただろう。秋子先輩は部長を抜かしてツカツカと先生に詰め寄った。
「滝先生。先ほど松本先生からお聞きになっているとは思いますが、私たちトランペットのソロオーディションは先輩にお願いしたいです。私たちの演奏は先輩が一番よく知っていますし、トランペットの演奏の良し悪しを判断することに関して世界で一番その資格と能力を持っている方だからです。何か問題ありますでしょうか」
「……なるほど、分かりました。高坂さんも同様の意見であるという事ならば、その方向で調整をしたいと思います」
「よろしくお願いします」
秋子先輩の声は淡々としていて、凄く冷たい。普段あんなにも温かみのある人だからこそ、余計に冷たさを感じる。高坂先輩やトランペットパートのメンバーも、目を合わせないようにしていた。
「先生、どうして、公開オーディションにしたんですか……?」
部長は困ったような声で尋ねた。
「私は、ユーフォニアムもトランペットも、どちらがソリを務めても問題ないレベルに達していると判断しました。ですが、特にユーフォニアムに関しては黄前さんが部長であり、かつ黒江さんが転校生であり、今回が最後の大会である以上、どちらが選ばれてもどうしても不満は出る事でしょう。全ての部員が納得して本番に挑むには、私の判断では足りない。そのため、全員で決めた形を取れば……と考えました。トランペットも同じような理由です」
「二年前のように、という事ですか」
「そういう事です」
部長は一応納得したように嘆息した。
「でも、二年前とは違いますよね」
秋子先輩の冷たい声が、降り注いだ。そんなおためごかしで納得できないと言わんばかりに、ぴしゃりと。
「二年前は香織先輩と麗奈ちゃんの対立でした。でもあれは、一回ちゃんと麗奈ちゃんが選ばれて、それに納得していない人がいたから行われた。正確には、香織先輩が納得するために行われた。それは仕方ない事だったと思っています。あれがあったから、あの年は納得できたし、香織先輩も後腐れなく大会に挑めました。ですが、今回はそもそも誰も選ばれていない。先生が、選んでくださらなかった。しかも、前回の公開オーディションは麗奈ちゃんに事前に許可を取り、香織先輩が希望する形で、かつ形式上は他の子にもチャンスがあるようになっていました。でも今回は違います。誰にも許可さえ取らず、私たち二人と、ユーフォの二人だけ対象になっている。全然違うと思います」
「それに関しては、私の不手際です。申し訳ありません。オーディションの審査をして、どうするべきか悩みました。もし仮に桜地君がいれば決められたのかもしれませんが、もう彼を頼ることは出来ないのだと私の中での強迫観念のようなものがあり、吉沢さんが提案してくれたようなアイデアが出てきませんでした。とにかく結論を出す方法を、それも多くを納得させられるようにと、そのことだけを考え、出たアイデアに飛びついてしまった。私の未熟さが原因です。ですが結果としては皆さんを混乱させてしまいました。猛省しています」
先生は静かに頭を下げた。秋子先輩は、その謝罪に何の感情も見せていない。先生が言っていることに嘘は無いだろう。先生も悩みぬいた末に、こんな選択を選んでしまったのだ。人間である以上、間違えることはある。いつもいつも良い選択肢ばかりを選べるわけではない。それを許容するわけではないけれど、そういう事はあると理解はしていた。
先生の北宇治での顧問生活は、その大事な最初の二年を兄さんと共に過ごすモノだった。高校生を超えた高校生が支える顧問の活動はそこまで大きく不安も無かった事だろう。だからこそ、その存在は大きくなり過ぎた。部員にとってもそうだけれど、より密接にかかわっていた顧問である滝先生が一番、その存在感を感じていた。失われた時に上手く動けなくなっていた。先生は、自分で招いた存在に寄りかかりすぎたのだろう。誰が悪いという話でもないけれど、苦しい話だった。
「……結果的に、先生はトランペットを選べてないんですね。二年前も今も。二年前、先生は麗奈ちゃんを指示したけれど、最後の決定を先輩に投げた。だから、先輩は矢面に立って、香織先輩を選べる可能性があったのに選ばなかった人として半ば裏切者のような扱いを受けました。先生は今と同じように、最後の最後に選択することを選べなかった。この部で私たちが過ごした三年間も、先輩を呼び込んだのも、私たち二人がこんな関係になったのも、全ては先生が起点にあるのに……。一人目を選べなかった人に、二人目も選べるわけがない。もっと早く、それに気付くべきでした」
失礼します、と言って秋子先輩は音楽室に戻って行った。その目は最後まで、冷たいままだった。きっと、秋子先輩は先生を許さないのだろう。その想いは私とあまり変わらないように思えた。自分も高坂先輩も選ばなかった先生への憤りと、最後にはまたしても兄さんに選ばせることになってしまったことへのいら立ち。そういう感情があるのだろうと思う。
秋子先輩は兄さんが前回の公開オーディションで苦しんでいるのを見てきた。だからこそ、同じような事態をもう一度作り出した先生が許せないし、多分兄さんを引っ張り出す提案をした自分がもっと許せない。兄さんへの、単なる師弟関係を遥かに超えた想いを抱いているからこそ、そして秋子先輩が持っている優しさがあるからこそ、彼女は怒っているのだ。自分自身を含めたすべてに。或いは、自分を選ばれるような演奏が出来なかったことへの悔しさもあるのかもしれない。
「部長、取り敢えず秋子先輩のことは高坂先輩と兄さんに投げます。あの二人が一番、その辺どうにか出来るでしょうから。最悪優子先輩辺りにも御足労頂かないといけないかもしれませんが……その場合は私がどうにかします。今でも繋がりがありますから」
「それが良いと思う」
秋子先輩と部長は同じクラスなので、それなりに付き合いもあるようだ。なので、私の提案にも納得してくれたのだろう。高坂先輩はライバルとして、兄さんは師匠として、優子先輩は二年間一緒にやってきた先輩として色々な視点から助けになってくれるはずだ。
「先生、私も正直良い気分ではありません。部長や真由先輩もそうでしょうけれど。選ばれる側の痛みが不本意な結果に終わる時の痛みなら、選ぶ側の痛みはどんな難しい判断でも決断しないといけない時の痛み。そうやってお互いに苦しみ痛みを抱えながら、それでも未来のために行う。それが、オーディションという制度のはずです。少なくとも、私はそういう理解をしていますし、兄さんもそう思っていたでしょう」
私の声は、自分でも驚くくらいには秋子先輩と同じような冷たさだった。
「今回だけ生徒に投げる選択は、兄さんのあの時の決断を無碍にしているようにすら思えます。あの時、兄さんがどういう想いで部活にいたのかは本人では無いので分かりません。ですが、家で苦痛に満ちた表情をしていたのは知っています」
「桜地君には……頼ってばかりになっていますね。忸怩たる想いがあります」
「忸怩たる想いがあるなら、改善してください。兄さんは来年以降、ここへ来てくれるかも分かりません。今のままというのは先生にとっても生徒にとっても良くないでしょう。それに、兄さんは確かに多くの事が出来ますし、大抵のことは乗り越えられます。しかし、出来るのと感情面とはまた別の話です。兄さんは平気だというし、気にしなくて良いと言うかもしれませんが、気にして欲しいと家族である私は言いたいです。それだけはどうしても、お伝えする必要があると思いました」
凄く嫌な見方をすれば、兄さんは楽な存在だと思う。まさにお助け道具、魔法のカードだ。なにせ、高校生離れした音楽の能力を持っており、指導力や洞察力もあり、大人への対応も得意だ。事務処理も出来るし、部員との橋渡し役を担っても問題なく務められる。体力も行動力もあって、そして何より保護者がいない。何をさせても文句を言う保護者は、もういないのだ。
だから、私はお節介と知りつつも、兄さんはそんな事あまり望んでいないとは知っていながらも、文句を言う。兄さんは例え本人がそれで構わないと言っていたとしても、使い潰していい資源ではない。他の人にとっては頼れる先輩だったり生徒だったりするのかもしれない。特別な存在で、雲の上の存在で、そういう風に見ているのかもしれない。けれど、私はどうしてもそうは思えない。特別じゃないとは思っていないけれど、そうであったとしても私にとっては大事な、かけがえのない存在なのだ。
「先生にとって桜地凛音は共犯者であり、頼れる生徒かもしれませんが、そうである前に私や希美先輩の家族であり愛する人です。それを忘れないでください」
「肝に銘じます」
「であれば、私はもう言う事はありません」
言うべき文句は大体言った。それならこれ以上私がグチグチ言うことはない。ここで先生を責めたとしても、建設的な事は何も存在しないのだから。次の話題に進めた方が良い。
「私からは、公開オーディションをするのなら、どちらが吹ているのか分からないように、音だけで判断できるようにしてくださいというお願いをしたくて来ました」
部長はそう要求する。それは形式的ではあるけれど、大事な事だ。それにどの程度の効果があるのかは疑問符が付く。私も何年も音楽をやっているからこそ分かるが、何年か演奏したメンバーならどっちが吹いているのかくらいは判断できてしまうのだ。音色や吹き方にどうしても個人の特性が出る。実力が同じであったとしても、演奏迄全く同じという事はない。表現や息遣いにも差がある。
だから、ブラインド式にするというのはそこまで有効ではない。一年生などはもしかしたらわからないかもしれないが、少なくとも三年生は大体がどちらの演奏かを理解するだろう。だから結果にどの程度公平性がもたらされるかは疑問がある。けれど、これは大事な事だ。例え誰が吹ているのかに気付けるとしても、本当にそうか完全には分からない。いわば、シュレディンガーの猫。不確定である以上、顔が見えている状態よりもこの人だからという属人性は減る。少なくとも、公平性を保とうと努力していないよりは余程マシなのだ。
「分かりました。そういう事ならば、そうしましょう」
「お願いします」
「桜地先輩への連絡はどうしますか?」
「それはこちらで今行ってしまいましょう」
携帯を取り出し、兄さんのアドレスに電話をかける。先生から話を通すのが筋だけれど、今回は高坂先輩と秋子先輩の件で急ぎの案件だ。悠長にメールなんか送ってる場合ではない。公開オーディションの日程までそこまで日が無い。善は急げということで、今連絡してしまうことにした。数コールの後、通話は繋がった
『こんな真夜中に誰だようるさいなぁ。時間考えろってんだ』
機嫌の悪そうな声。多分誰からかかって来たのか見ないで取り敢えず出たのだろう。昨日までイギリス公演に出ていたはずだ。ワインの瓶がガタガタ音を立てている。多分机に突っ伏して寝たか、ソファに寝っ転がっていたのだろう。
「兄さん」
『……涼音?』
寝起きの頭がスッと覚めたような声が電話口から響いた。部長は心配そうな顔でこちらを見ている。部長としてはいきなり真夜中に電話をかけて叩き起こしたことについて不安なのだろう。多分部長がやったら凄く怒られるとは思う。とは言え、そこは家族なのでどうにか出来る。甘えと言われてしまえばそれまでだし、実際そうだけれど、そこは長年積み上げた関係性の問題だった。
「詳しいことは、後で送る。だから……助けて」
『分かった。すぐに戻る。詳しい内容は後で送ってくれ。まぁ大体要件は察しがついているけど……高坂さん達のことでしょ?』
「流石だね」
『それくらいはすぐに分かる。どうせ決着つかなくて揉めてるんでしょ。まぁ仕方ない。あの二人は私の教え子で、もう北宇治のハコに収まる領域ではない部分まで育ててしまった。こういう事態になったなら、それは私にも責任の一端がある。とにかく、今日の便で日本に戻る。希美にはこっちから連絡しておくから、そっちは部活の日程を教えてくれればそれでいい。取り敢えず急ぐから、先生と部長への諸々は後でやる』
「分かった。兄さん……ありがとう」
『妹がSOS出してきたんだ、どんなことがあっても飛んでいくさ。じゃ、また後で』
それだけ言って、兄さんの電話は切れた。
「帰ってきてくれるみたいです」
「桜地先輩、大丈夫だって?」
「大丈夫では無いと思いますけど、取り敢えず今日の便で帰国するようです。大人なので、その辺の調整は済ませてくれるでしょう。大学は九月末から始まりますから、ギリギリセーフでしたね。まぁ教授会はあるらしいですけど……」
まだギリギリ余裕がある時期だった。これがもう数週間ズレていたら危なかったかもしれない。
「後で色々怒られると思いますよ、先生」
「覚悟の上です」
「そうですか。そういう覚悟をオーディションにおいても持っていて欲しかったですね。部長は詳しい相談があるでしょうから、私は失礼します」
先生と部長に頭を下げて、私は職員室を出た。どっと疲れが襲ってくる。それはここまでいきなり怒涛のように襲ってきた状況の変化によるものだった。正直憤りもあるし、納得できない気持ちはある。けれどそれ以上に部員は諸々の感情を抱えているはずだ。組織のために、私がやるべきはその解消だろう。
それに、このぐるぐる回るマイナスな感情の中にも救いはあった。兄さんが助けてくれる。例え距離が離れていても。そう思えるだけで、少し気が楽になった。私はまだまだ大人にはなれないでいる。それは多分あんまり望ましい事では無いのかもしれないけれど、私にとっては少しだけ救いだったのだ。
公開オーディションの段取りは少しずつ出来上がっていても、部員は決して落ち着いているわけではない。決して誰もがすぐに納得できるわけでは無いのだ。先生の判断に戸惑いや困惑を抱いている部員もいるし、折角消えかけていた不信感がもう一度芽生えてしまった子もいる。正直、それは仕方のない事だろうし、その気持ちはよく分かる。これを無理に解消することは出来ないだろう。
そんな中でフルートパートの教室も、決して明るい空気では無かった。
「あ、涼音ちゃん、お帰り……」
沙里先輩は困ったような顔で私を出迎えた。教室の中にいる他のメンバーも、不安そうな目で私を見ている。
「ただいま、戻りました」
「どうなったのかな」
「取り敢えず、トランペット関連は解決しました。秋子先輩の提案通りになりそうです」
「そうなんだ、じゃあ、桜地先輩に……」
「はい。ユーフォの方はどうなるか分かりませんが……多分こちらは公開オーディションになりそうです」
「そっか。まぁ、それはユーフォパートで決める事だから、それはそれで良いんだけどね」
ふぅ、と沙里先輩は息を吐いた。
「私の考えですけれど、今回のソリのオーディションに関しては多分こちらの要求は大体通ります。なにせ、今回は全面的に先生の判断ミスですから。ですので、希望するならばフルートパートに関してもソロのオーディションを……」
「それなんだけどね」
沙里先輩は私の言葉を遮るように言った。
「他のソロがあるパートがどうするのかは分からないけど、フルートパートは今回のオーディションの結果をそのまま受け入れようと思ってるんだ。さっき涼音ちゃんが先生の所に行っている間に話し合って、そういう風にしようって」
「私、いないですけど……」
「それはゴメン。でも、涼音ちゃんは絶対もう一回ソロのオーディションをやり直すべきだって言うと思ったから。現にほら、そうしようとしてたでしょ?」
確かにその通りだったので、何も言えない。現に私はフルートパートのソロのオーディションのやり直しを提案しようと思っていた。
「どうしてですか、今回のオーディションはおかしいです。前回までは少なくとも先生は結論を出していた。にも拘わらず、今回はトランペットとユーフォニアムで迷っている。そんな状態で下したフルートの判断がしっかりしている保証なんて、どこにも無いはずです」
「確かにね~。それは正しいと思うし、そういう意見も出たよ」
沙里先輩はチラリと視線を送る。その視線の先には一年生がいた。一年生の二人はそう主張したのだろう。滝先生への信頼の割合。それは四月からずっと存在している学年の間にある隔たりだ。
「でも結局、これは今回のAメンバーが納得してしまえば終わりの話だから。例えば私が納得しきれないなら、もう一回と思ってやり直しをお願いすることもあるかもしれない。でも、私たちはそれで良いと思ってる。ピッコロのつみきちゃんはともかく、フルートで出る三年生は三人とも、涼音ちゃんがソリで良いと思ったんだ」
沙里先輩の言葉に、芽衣子先輩も蕾美先輩も頷いた。
「まぁさ、私達も出来るならソリが良いなぁとは思いはするけど」
「でも、一番上手い人が吹くべきだっていうのが北宇治のルールだからねぇ。三年間、ここでやって来たからよく分かってる。この中で一番上手いのが誰かってことは、先生に判断されなくても、ちゃんと分かってる」
二人は既に納得しているのだろう。何の未練も無いかのような表情で、そう言い切った。でも私は知っている。三年生の三人だって必死にソロの練習をしていたのを、何度も見てきた。皆真剣に、勝ち取ろうとしていた。だって、これが三人にとって最後の大会なのだから。そんな簡単に未練を捨てられるというのが、私には信じられなかった。
私が勝ったことを卑下するつもりはない。ただ、私は判断基準がブレブレのこの状況下での審査結果が正しいとは思えないのだ。少なくとも沙里先輩は関西大会でソリを務めている。実力は十分にあるはずなのだ。諦めるような差は、私と沙里先輩たちの間に存在していない。或いは私は、秋子先輩と同じようのこの決着の舞台を変な形で歪められたことに対して納得できていないのかもしれない。
「諦めたっていうわけでも無いし、最初から諦め半分で挑んでいたわけでも無いんだけどね。でも仮に先生が違う結果を出していたら、私たちはおかしいなと思う。諦めない事と、相手の実力を正しく把握して認めることはまた別の問題だからさ。涼音ちゃんは自分が選ばれた経緯に納得できてないのかもしれないけど、どんな経緯で選ばれようと上手さは変わらないでしょ?」
「それは、そうですけど……」
兄さんが仮にどういう経緯で選ばれていようと、兄さんが世界で一番上手い事を認めない奏者はいないだろう。
「この部のフルート奏者の中で、涼音ちゃんが一番上手かった。そして、それを私や他のメンバー全員が認めてる。それで、十分じゃないかな。他のパートの子が仮にごちゃごちゃ言ってきても、素人は黙ってろっていう話だからね」
「……はい」
「だから、胸張って名古屋で吹けばいいんだよ。余計な事は考えなくて良いし、涼音ちゃんが責任を負うべき事なんて何一つないんだから。皆ちゃんと精一杯頑張った。それだけは、絶対に変わらない事実だよ」
「はい」
「じゃあ、私たちは切り替えて練習していこう。時間は待ってくれないよ!」
先輩たちがそう言ってくれるのにこれ以上抗弁するつもりも無かった。私が一番上手いと認めてくれた事に応えるのが、今の私の一番やるべき事なのだから。期待を裏切る事だけは、絶対にしてはいけないと分かっている。他のパートとの連携のために沙里先輩は教室を出て行った。多分クラリネットなどではどうするべきかと話し合っているのだろう。ソロをどうするのかは、吹部においてかなり重大な事なのだ。他の部活の人には理解されなくても、その席に座るために全身全霊をかけている。
カタンと席を移動させて、芽衣子先輩が隣に座って来る。
「沙里、さっきちょっとトイレで泣いてたんだ」
「……」
何でもない事かのように、芽衣子先輩は小さい声で言う。私は自分の事ばかり見ていて、気付けなかったけれど、沙里先輩の悔しさは多分一番大きいだろう。関西大会で演奏して、パートリーダーも務めて、それでもソロを私に奪われた。普段なら、沙里先輩の涙に気付けたのかもしれないけれど……これでは先生を責めることは出来ない。余裕がないのは私も同じだった。
「別に責めるつもりは全然ないし、そんな事したいわけじゃないんだ。ただ、それだけは知っていて欲しかった」
「はい。ありがとうございます」
「そこでお礼が出てくるのは、涼音ちゃんっぽいね」
そう言うと芽衣子先輩は小さく笑う。蕾美先輩は楽譜の後ろからチラリとこちらを覗いて、大丈夫そうなのを確認してまた楽譜の後ろに隠れる。私は多くに守られていた。兄さんにもそうだし、ここでもそうだった。沙里先輩は涙を流して、それでも私を推してくれた。私を上手く誘導してもう一回オーディションをやり直すことも、さっき私が考えていたように私を辞退させることも出来たかもしれない。
それでもそうはしなかった。その善意と優しさに、応えないといけない。そうでないと、沙里先輩の流した涙の意味がなくなってしまう。全ては最後には金賞を獲って笑えるように。そのために、私は私の練習をするのだ。