祭りの翌日。昨日の喧騒と興奮はまるで嘘のように思えるほど、音楽室の空気は張りつめている。お祭りという意識を逸らさせる道具が消えた今、部員の心にあるのは迫りくるオーディションのこと。朝練から真剣な空気が漂っていることは教えている側としても身が引き締まる思いだった。
「おはよう」
教室に入ると視線が飛んでくる。何事かと思いながら席に鞄を置くや否や首根っこを押さえられ教室の隅に連行された。
「なんだよ朝っぱらから」
「なんだじゃない! これを見ろ。お前はついに裏切り者と化したのか」
「何の話……うわ、マジかぁ」
その写真には私と吉沢さんの姿が映されている。写真を見せてきた柏原がどういう経緯でこれを手に入れたのかは不明だが、彼の恋愛脳からすると思考回路はすぐに理解できた。
「これ、普通に盗撮だろ」
「それはそう。とは言え気にはなる。どういう関係だお前ら」
「特に何もない。普通に先輩と後輩だ」
「あ、後輩ちゃんか。なら大丈夫だな」
「どういう意味だよ……」
私に対する理解度がよくわからないことになっている。どうして後輩なら大丈夫なのか。その論理式が理解できなかったが、まぁ誤解が解けたのならそれでよかった。
「話題になってたんだよ。ついに彼女出来たのかって」
「それ違うからそういう風に言っておいてくれ」
「了解」
運動部というのは人脈が広い。事実彼は多くの知り合いを学年に持っていた。男子全員の連絡先を持っているのは珍しいと思う。北宇治はマンモス校ではないけれど何だかんだそこそこの人数はいるのだ。
今はまだ朝練から帰ってきてないためいないが、もう一人の友人である生駒もサッカー部。そこら辺を辿って上手く噂を否定しておいてほしい。申し訳ないが、そういうのは彼らの方が向いているのだ。普段課題を見せている分と思って頑張ってもらおう。
朝にそんな一幕を経ながらも、私の意識は練習とオーディションに向けられている。実際運動部コミュニティの拡散力はすさまじく、昼頃には噂話もすっかり鎮静化していた。これで余計な関係に悩まされること無く吹奏楽部に向き合える。
「今注意したところを重点的に、パート練習に移ってください」
「「「はい!」」」
部内の空気はどんどんと張りつめている。何かに追い立てられるように、部員たちは白いシャツをまくって練習に励んでいた。そろそろ本格的に暑くなっている。熱中症にならないよう水分補給と適度な休息を求めつつ、頑張るように背中を押すのが我々の仕事だった。
「先生、クラなんですけど……」
「分かりました。この後向かいます」
「フルートもお願いします」
「はい」
煙たがっていた先生にも必死に教えを乞い、自主練に励む姿は部活動という観点で見れば非常に理想的なものだろう。努力の跡はどんどん向上していく技術と譜面に書き込まれたおびただしい数のメモを見れば分かる。
オーディションに出ない斎藤先輩の件だが、これも一応決着がついた。余計な混乱を避けるため、オーディションが終わった後に自分の口から説明するらしい。B編成が判明してからの方がやりやすいという本人の言もあり、またサックスや事情を知らないであろう旧知の部員に余計な動揺を与えないようにしたいというこちらの事情もありで話はまとまった。
「トロンボーン頼む」
「分かりました。この後伺います」
「ホルンも!」
「トロンボーンの次に行きますね」
私の所へもどんどんと指導の依頼が入って来るようになった。別に優しくしているつもりは無いし、全くこれまでと変わらない態度でやっているのだがそれでもお願いは来る。それは私が信頼されていると捉えていいのか、使えるものは何でも使おうという非常に合理的な理由なのか。それは分からないが、いずれにしても良い兆候だった。
そんな中気になる所があるとすれば、それはこの後相談を控えている塚本君を擁するトロンボーンではなく、低音の方である。
「コンバス弱い!」
田中先輩の厳しい声が響く。低音パートは基本的に田中先輩を中心に上手く回っていた。海兵隊の件で色々揉めている間も、低音は平穏であったし練習もしっかり行っていた。それは部員の気質にもよるだろうし、リーダーである先輩の力にもよる所が大きいだろう。
自分の練習を第一と考える人だが、それに付随する仕事はしっかりやってくれる。それはそれで面倒と捉えることもできるが、優秀な人材であることに変わりは無かった。低音には他に三年生がいないのも影響しているかもしれない。元はチューバ・コンバス・ユーフォにそれぞれ一人ずついたらしいのだが、いずれも田中先輩が一年生の時に退部している。
技術面も田中先輩が上手く指導してくれたし、先輩の畑違いであろう川島さんは基本自分で出来るタイプだったのでほとんど心配してはいなかった。それは先生も同じようで、パート練習に関わる頻度は他に比べて低かったように思う。それでも放置していたわけでは無く、しっかりチェックはしているが。
「まぁまぁ先輩。とは言え、川島さん大丈夫? 体調不良ならゆっくり休んでください」
「えっと……あの……大丈夫です」
「そうですか? けれど無理はしないように。とは言え基本は出来ているので問題ないのですが……まずは加藤さん」
「は、はい!」
「後藤とかから言われてると思いますけど、吹くことに集中しすぎています。一音一音を大切に」
「はいっ!」
「そして中川。君はちょっと弱い。連符が来たり指が難しくなると途端に弱くなる。音量が出る出ないは人の肺活量によるけれど、出てるところと出てない所の差がデカいと目立つから。乱高下しているって言ったら分かるだろうか」
「分かった」
初心者である加藤さんはまぁ、ある程度仕方ない部分もある。チューバは肺活量もいるし、元運動部であっても中々すぐには上達しないものだ。けれど頑張っている子に水を差すのは良くない。容赦ないと思われるかもしれないけれど、上手くなるために必要なことを伝えていく。
問題は中川だ。ユーフォの人数をどうするかは彼女がどれだけ吹けるのかによって変化してくる。田中先輩は確定と見ていいだろう。というか、彼女より上手いユーフォ奏者がいない今、外す選択はあり得ない。黄前さんもほぼ確定だろう。田中先輩には劣るとはいえ、経験歴が長いのは伊達じゃない。
そして何があったのか、その音色には変化が生じていた。
「黄前さん、よくなったよな」
後藤の言葉通り、その音はいい深みを持つようになってきた。上手いけれど単調だった部分がしっかりとした人間の吹いている音になっている。先輩に言わせればコクとまろやかさだろう。
「確かに黄前さんは非常によくなっています。身近に良い師匠がいることですし、上手く学び取りながらやって行ってください。ただし、自由曲の難しいところはもっと音が欲しいところです。区切りながらはっきりと。よろしいですか?」
「はい」
「じゃあ、取り敢えず低音はこんなところで良いでしょう」
後藤と長瀬の注意点は最初の方に言ったし、先輩は取り敢えず現段階ではそこまで問題がない。今の川島さんに何か言ってもあまり意味があるとは思えないし、明日以降に回すとしよう。
「それじゃあ、私は他のところに回りますが、何かあったらまたすぐ呼んでください。先輩にはお手数をおかけしますが、後輩のフォローを
最後の部分にちょっと強調を込めた。川島さんはコンバスの大事な戦力であるのに変わりはない。大体高校生の悩みなんて恋愛か太ったかのどっちかだ。大学生に入ると金が入る。何にせよ、これで周りに悪影響が出るのは困る。
先輩からしたら知ったことではないと思うが、副部長でありパートリーダーである以上そういう部分から逃れさせるわけにはいかない。うげーという顔をしながら見てきたので、意図は伝わっただろうと思ってにっこりと笑っておいた。普段仕事を代わってるんだし、これくらいは良いだろう。
「高坂さん、抑揚が感情表現の際に重要になってくる。もっと自分が歌いたいように。ソロの部分をどう表現するかはある程度は指揮者と作曲者の意図を汲まないといけないけれど、最終的には奏者がどうするかにも大分託されている。実力があるなら、自分の出したいように出すことも許される。ガンガンと、もっと全身で押し出して」
「はい」
「あ、もしかして私の吹き方を真似してる?」
「その……ちょっと」
「最初に言ったけれど、あくまでも私のはお手本でありつつも参考要素。吹くのは自分なので、技術面を参考にしても表現まで真似しなくて良いから」
「分かりました。もう一回、考えてみます」
「よろしい。で、吉沢さんの方だけれど……」
練習後に行われる個別レッスン。今までは高坂さんしか頼んでこなかったからやっていなかったけれど、この前お願いされたので吉沢さんも追加要員になっている。取り敢えずオーディションまではこの体制が続くだろう。
二人に増えたからと言ってどちらかに手を抜くことはない。高坂さんには今までと同じクオリティーで行う。それが彼女との約束だし、先約が彼女である以上不信感や不満感を持たれたくない。
一つ意外なことがあるとすれば、高坂さんが追加要員を拒まなかったことだ。特に不満そうな顔をすることも無く、すんなりと受け入れてくれた。「今の吉沢さんなら……いいです」という事だ。どことなく上から目線なのが気になるが、まぁ良しとしよう。実際実力では上なのだし。
お互いに演奏を聴くことで考えることや気付くこともあるだろう。そういう学びも大事なはずだ。と言うかどんどん交流してほしいという私の願いも大分込められている。そんなことを考えつつ指導をしているとあっと言う間に時間が過ぎていく。
「そろそろ良いかな。最後に、課題曲のHの部分で勇み足にならないように。あくまでもメゾフォルテであることを意識して。パート全体にも言えることなんだけれど、前後の音量と比較しつつ大きくなりすぎないように注意して」
「「はい!」」
「では、明日の朝練はそこを中心にやってください。お疲れさまでした」
「「ありがとうございました!」」
今日はほんのちょっと早めに終わらせている。待たせている人がいるからなのだが。取り敢えず適当なお店でなんか食べといてくれと連絡してある。この後一年生二名を帰らせたら戸締りをして音楽室を確認し、先生に練習の報告をして下校しないといけない。終わったから「はいさようなら」というわけにはいかないのだ。
校門を出てから携帯をポチポチしながら歩く。スケジュールカレンダーにはオーディションが赤文字で表示されている。その前までに終わらせないといけない仕事も幾つか。作曲が一件、監修が二件、原稿が二件。正直結構疲れているが、今が正念場だ。弱音を吐くわけにはいかない。小さく響いている頭痛を無視しながら、メールの返信をする。ため息が零れる中夜道を歩いた。
「や、お待たせ。遅くなってすまない」
塚本君との待ち合わせ場所は学校近くのサイゼリヤだった。安くて中々のクオリティーのものを出してくれる。正直助かる場所選択だった。
「わざわざありがとうございます」
そういう彼の表情は凄く明るいわけじゃない。真剣に悩んでいるのだろう。その真面目な部分は彼の美徳だった。きっと中々気付かない黄前さんでなければ割とすぐに彼女も出来そうに思う。基本的に好青年なのだし、顔も良い。
「いやぁ、悩んでいる後輩君がいるなら当然駆けつけるとも。と言うか、そんな量じゃ足りないだろ、もっと頼みなさい男子高校生」
「いや先輩もそうじゃないですか」
「まぁそうだけど私は別にお腹空いてないからさ。適当にそれっぽいのを頼むので良いんだよ」
適当に注文して彼に向かい合う。どう切り出したものか悩んでいる様子だった。彼はコーラ、私はコーヒーを飲んでいる。
「……俺、どうしたらよかったんですかね」
ポツリと彼は言った。確かに彼は選ぶ側だった。一番傷ついているのは選ばれる側だった方、つまりは告白した方だろう。けれど選んだ側だって無感動なわけじゃない。真面目な人ほど悩むし考えてもしまうだろう。相手のそれが取り敢えず恋人という存在が欲しいレベルの適当さじゃなければ、なおのこと。
「幾つか選択肢があったと思う。まず一つ目は君がやったこと。二つ目はなぁなぁにすること。三つ目は自分の気持ちに蓋をして付き合うこと。私は君が誰を好きなのかを知っているから言えるけど、一番目の選択肢で良かったと思う。もっと言えば、一番目の選択肢を取ってくれる後輩で良かった」
「どういう事ですか?」
「だって、二つ目も三つ目も相手に不誠実だから。君が誠実な人間で良かったと思ってる」
「誠実、なんですかね。俺はそこまで考えてなくて。ただ、好きなヤツがいるのに加藤とは付き合えないって思って、それだけでした」
彼に告白したのは加藤さんだったらしい。その話は練習中には出なかったが、川島さんの態度にも納得がいった。彼女が落ち込んでいたのは友人が振られてしまったから。そしておそらくそのおぜん立てを彼女がしたから。責任を感じていたのだろう。益々田中先輩が嫌いそうなネタだ。
「結果が大事だからね。どう思ってたにしろ、行動の結果が誠実ならそれでいいじゃないか」
「そんなもんですかね」
「そんなもんだよ。人間関係なんてさ。本音で喋ってることの方が少ないし、何もかも考えたうえで行動している人の方が少数派だ。けどそれで良いんじゃない? そうじゃないと疲れるだけだし」
私みたいに、という言葉を呑み込む。何もかもというと語弊があるが、少なくとも部活をしている間は自分の言動について色々考えているのは事実だ。効果的な声掛けは何か。どういう言い方伝え方なら一番相手は動いてくれるのか。そればかりを考えている。一番良い方向に部活を動かす、そのために。
「自分が好きになっても、相手が自分を好きになってくれるかどうかなんて分からない。それに言ったでしょ、告白は好意の確認手段だって。一発逆転の道具じゃない」
当たり前のことではある。告白で一発逆転。そんな風に都合よくいくのは物語だけ。個人的な見解だけれど、吉川に告った面々は大体そんなことを考えていたのではないだろうか。だからあっさりと玉砕した。吉川にしてみれば、彼らのことはよく知らないし当然だろう。嫌いじゃないにしても好きになる要素が無かったのだ。
「とはいえ、私は恋愛はそれくらい勢いがないといけないとも思うけどね。時間は待ってくれない。勇気を出したことは称賛するべき。でもそれが叶うかどうかは相手次第だ」
「……ですね」
「でも私は今回の一件は君を一つ大人にしたと思うけど」
「大人、ですか?」
「そう。ほら、冷めるぞ」
慌てて食べ始めた彼は熱っと言って冷ましている。意外と猫舌みたいだ。
「振られる痛みを知ってる人はそこそこいるけど、振る時の痛みとか悩みを知った訳だ。それは君の中の成長じゃない?」
「成長……」
「そう。だって色々悩んで、挙句私に相談してきたんだ。その悩みとか思いが無駄になるとは思わないね。そしてそれは経験になり、君を一つ大人にして、その一歩はもしかしたら……本命との成就に繋がっているかもしれない」
「ゲホッ!」
彼は最後の言葉に少し咳き込む。ちょっと刺激が強かったのだろうか。この調子では、もっと時間がかかるかもしれない。とは言えこの純朴とも言える部分を抱えていることが彼の魅力なのだとしたら、それは消えない方が良いものだろう。
「どう? ちょっとは晴れたかな? ともかく君は誠実に行動した。それで十分なんだよ」
「俺、これからどういう風に接したらいいんですかね」
「それは君次第だね。気まずいから関係を無くすのもアリだし、いつも通りを意識するのもいい。或いは意外と気が変わることもあるかも。けどそれは私には決められない」
「そう、ですね。いつも通りに出来るように頑張ってみます」
「それが君の選択なら、私はそれを尊重するだけだね」
ありがとう吉川。君のおかげで良い感じにまとめられた。言っていることは昨晩の電話の内容をそのままパクっているだけだが、それでも後輩の助けになったのだからいいだろう。今度彼女に何か感謝の証を示さないといけないかもしれない。
「まぁ、ゆっくり食べて、風呂入って、寝て、明日練習に打ち込んでいれば自然と心も安らかになるさ」
「最後のは安らかにならなそうなんですけど……」
「アハハ。まぁそうかもね」
伝票を持って私は立ち上がる。そろそろ帰らないとこの後の予定に差し障る。具体的には終わっていない仕事。謝罪メールなんて送りたくない。
「それじゃ」
「あ、先輩、お金……」
「いいよ、ここは私がもってあげる。ま数千円で偉そうにするのもどうかという気もするけどね。一応先輩だし、悩んでる後輩に払わせたりはしないさ」
「いや悪いですよ」
「いいから。でも、言っておくけど次からは割り勘だぞ。次私が何か奢るのは、君が本命にフラれた時だけ。けど私は金欠でね。そうしなくて済むことを祈ってるよ。じゃ、また明日。課題曲Iの三小節目はもっと手首を柔軟に動かすように」
ありがとうございました、という言葉を背中で聞きながら私は出口に向かって歩いていく。お会計を済ませ、軽くなった財布の中には寂しそうに野口が一枚鎮座していた。しばらく家から持ってきた水が私の昼時の飲み物になりそうだ。
それでもこれで彼が全力で挑めるようになったならそれでいい。人によって意見は異なるだろうけれど、私は部内外の恋愛は大いにするべきだと思っている。揉めたり拗れたりする原因にもなるけれど、恋愛は古今東西で大きく音楽の発展に寄与してきた。きっとそれが無ければ数々の名曲も誕生しなかっただろう。
人間感情を動かす大きな要素として、深みのある音楽の形成に役立つと私は考えていた。だからこうしてフォローもする。加藤さんと川島さんの方は何とかなるだろう。一応黄前さんもいるし、田中先輩にも頼んでおいたし、何より川島さんの方が気にしている感じだった。明るい加藤さんなら自分で立ち直ってくれると思う。
「何とかなってくれ……」
自分の経験値の少なさを呪いながら、それだけを考えた。
どれだけ祈ろうと、時間は戻らないし止まりもしない。否応なくカレンダーは進み、時計は回るのだ。そして運命の日はやって来る。これまで多くの部員の練習を見てきた。その成長も、つぶさに。その努力に報いることもそうでないことも私たちの判断にかかっている。のしかかっている責任は重かった。
朝、学校に着けばもう音がする。オーボエではなくて、トランペットの音。渡り廊下で吹いているのだろう。学校中に響き渡っていた。音で奏者は分かる。中世古先輩だ。
気が重くなりながらも階段を昇り、窓を開ける。吹き渡るそよ風の中で、先輩はトランペットを構えていた。風に楽譜が少しはためく。表情は真剣であり、どこか憂いを含んだものだった。どう声を掛けたらいいのだろうか、或いは声をかけることが正解なのだろうか。
逡巡する私に気付かないまま、先輩は高らかに音を鳴らした。自由曲のソロパート。トランペット最大の見せ場。そして最も大きな火種。そこを吹いていく。その音は清らかで美しい。十分に上手いだろう。それこそ強豪校でも中々いないくらいには。それはこれまで不遇の中でも続けてきた努力の証でもある。
「あ、桜地君。おはよう」
「おはようございます」
一段落したところで私に気付いた先輩から挨拶をくれる。私はどういう表情をしたらいいのか分からないまま、先輩に近づいた。
「ソロの部分ですか」
「うん。今日がオーディションだし、最後に確認しておきたくて」
「なるほど」
「最後だからね。吹きたいところを、思いっきり吹きたいから」
「そう、ですか……」
「あぁ、でも気なんか使わないでね。桜地君には、桜地君のしないといけないことがあるんだから。お願い」
「……はい。最後に、もっと柔らかく、それでいて勢いよく。お行儀良さよりももっと、歌うようにしてみると良いかもしれません」
「分かったよ、ありがとう」
そう言うと先輩はもう一度吹き始める。それは確かに上手かった。修正もすぐ出来る。私がどういう感情を抱いてもオーディション本番で演奏するのは先輩だ。その夢を叶えたければ、誰よりも上手くやるしかない。
去年、先生がいたなら。そんな、もう何度目なのかも分からない恨み節を思わずにはいられなかった。
「ではこれより、オーディションを始めます。知っている人も多いと思いますが、私たちが参加するA編成でのコンクールは一チームにつき最大五十五人までしか参加することができません。つまり、ここにいる何名かは必ず落選してしまうことになります。皆さん、緊張していますか?」
「してますぅ…」
その声に笑いがおこる。先生の目にも笑いが浮かぶ。私は笑うに笑えずそのまま無表情を貫くしかできない。
「ですよね。ですがここにいる全員、コンクールに出るのに恥じない努力をしてきたと私は思っています。胸を張って、皆さんの今までの努力を見せて下さい。……では、始めます」
「「「よろしくお願いします!」」」
オーディションは順調に進行していく。課題曲と自由曲の指定された部分を一人一人やっていく形式だ。時々指定範囲以外からも演奏してもらうこともある。即応性を見るという意味もあるが、別の部分もしっかり練習しているかどうかを再度確認する意味もある。
メインの審査は滝先生が行う。顧問だから当然だ。指揮者でもある先生は全体のバランスやどういう音楽を作りたいのかを考えながら55人のメンバーを埋めていかないといけない。当然55人未満ということもあり得るだろう。
私と松本先生の役目はそのパートにおける巧拙に順番を付けるということが大きい。先生はある程度人数を決め、そして上から順番に採用していくというのが基本となるだろう。
出来ているところ、出来ていないところが浮き彫りになっていく。見知った人間の審査をするというのがどれほどの心痛をもたらすものなのか。私はこの時初めて知った。今までは基本的に選ばれる側だった。オーディションにしろ大会にしろ、私はいつも審査を受ける側。審査する側に回ったのはこれが初めてだ。
先生はどういう感情なのだろう。どうであれ、きっと痛みは少ないはずだ。だって先生は今年来たばかり。先輩たちに対してもフラットでしかない。それにどこまで行っても先生は教師という立場だ。私と違って生徒じゃない。
それは大きな違いだと思う。生徒でありながら指導者というアンバランスな状態のまま部員と触れ合っている私は、恐らく先生よりも距離が近い。当然年齢も、感情も。思い入れはその分強くなる。だからこそ誰かの願いを叶えつつ誰かの願いを無下にするのは苦しい。
けれどもっと苦しいのは、自分が思ったよりも辛いと思っていない事だった。他人の夢を壊す痛みに、私はきっと慣れてしまっている。私が栄光を掴めばその陰にそれを得られなかった慟哭がある。私への歓声は、誰かの悲鳴の裏返しだ。そんなことを繰り返して、私はきっとこれに慣れている。摩耗してしまった痛みが、私が人でなしであることを突き付けているようにすら思える。
「終わりましたね……」
憂いの中で、少し疲れた様子の松本先生の声が響いた。夕暮れの音楽室には私たち三人しかいない。手元の紙には大量のメモが書かれている。ここからは話し合いながらメンバーを選定していく時間に入る。
まずはクラリネットから。合格するのはあくまでも実力順。後はこの部の平均的な実力からの距離。人数的には平均程度にいれば合格するシステムになっている。とは言えそれでもバランスを考え落とされてしまうこともあるだろう。
私や松本先生の評価と自分の評価を照らし合わせながら、滝先生は手元の名簿に〇をつけていく。それをされたのは当然合格者の証だ。
「出来ました。ひとまず、これが私の現在考える合格者一覧です」
クラリネットは鳥塚ヒロネ、臼井ひとし、大口弓菜、加瀬まいな、越川純子、鈴鹿咲子、田中須賀美、萩原笙子、島りえ、上田日和子、高久ちえり、松崎洋子の12名。
フルートは姫神琴子、雑賀頼子(ピッコロ担当)、三原京子、渡辺つね、井上調、小田芽衣子、高橋沙里の7名。
サックスは小笠原晴香、岡本来夢、橋弘江、宮キリコ、平尾澄子、瀧川ちかお、牧誓の7名。
トランペットは中世古香織、笠野沙菜、滝野純一、吉川優子、高坂麗奈、吉沢秋子の6名。
ホルンは沢田樹里、加橋比呂、岸部海松、森本美千代の4名。
トロンボーンは野口ヒデリ、田浦愛衣、岩田慧菜、赤松麻紀、塚本秀一の5名。
ダブルリードは喜多村来南、岡美貴乃、鎧塚みぞれの3名全員合格。
低音は田中あすか、後藤卓也、長瀬梨子、黄前久美子、川島緑輝の5名。
最後にパーカッションは田邊名来、加山沙希、大野美代子、井上順菜、堺万紗子の5名。この54名が先生の選抜したメンバーだった。
合格しているのは経験者揃い。というより、初心者か元初心者じゃないメンバーを全員フル動員している形になっている。妥当と言わざるを得ないだろう。というより、これ以上削るのが難しい。音楽としての形を成さなくなる危険性がある。
トランペットの一年も何とか二人とも受かってくれた。私が教えていたのもあるだろうけれど、高坂さんが吉沢さんの上達に貢献してくれたのが大きいだろう。それに数日前とは言え始めた個人レッスンの追加も寄与しているように思う。トランペットが6人必要かはギリギリなところだったし元々高レベルな集団のため、パート内の平均レベルから鑑みても危ないところはあったが、先生も悩んだ末に追加したように思える。
そしてここから始まるのは一番厄介な部分だ。
「ソロパートの選定に移りましょう。まず自由曲の要であるトランペットから。私は高坂さんが務めるべきと考えました」
先生がまず口火を切る。続いて松本先生も同意した。私は少しだけ口を閉ざす。どうするべきなのか。その回答は既に出ていた。これまでずっとしてきたことをここでもすればいいだけ。すなわち、最も吹奏楽部の為になること。
では誰を選ぶのが吹奏楽部の為になることなのか。候補は二人。中世古先輩か高坂さん。このツートップ以外にいない。正直どちらも力不足ではないと思う。どちらが務めても完成品はかなり良いモノに仕上がるはずだ。問題なのはこの部の方向性と、そして今後どういう部活にしたいか。
それにこれからの練習はソロだけじゃない。他の部分も見た総合的な習得度の早さや経験値なども関係してくる。そうでないと他の練習に差し障るのだ。私情を捨て、合理的に理知的に。部活のためになる選択肢はどちらだ。
完全に上手さだけを見るのか、それとも人間関係まで含めた総合的な部分で部に不和を起こさない形を選ぶのか。私の目は揺れていた。
「桜地君」
私に先生が静かに声をかける。
「私も松本先生も高坂さんを支持します。ですが私たちはトランペットの専門家ではありません。その判断ではどうしてもあなたに何段か劣る部分があることは否めないでしょう。ですから、もしあなたが違う候補を選んだ場合、私たちはそれを尊重します。トランペットの世界一が選ぶ方が、きっと相応しいのでしょうから」
その質問はまるで悪魔の問いかけに思える。先生は言っているのだ。お前の音楽家としての耳で選べと。それ以外の一切を捨て、純粋無垢に実力だけを以て選べと。そう柔和な声と話し方で鋭く私を追い詰めている。
そして、私は私の耳を、音楽家としての耳を裏切れない。騙せない。それを譲ることは、私の人生全ての否定になってしまうのだから。そんなことは出来るはずも無かった。私の全てに賭けて。
「分かりました」
だから私は決断を下すのだ。きっと先生の思っている以上にこれは波紋を生む。納得できない層はきっと多くいて、そしてその代表は誰よりも声が大きい。そして先輩本人の影響力も、先生が思っているよりずっと大きいのだ。
だがその時の対応はある程度考えている。どうあれ、後は私が決めるだけ。これが私への罰だとしても、私は自分を裏切ることはできない。だから選んだ。その道の持つ意味を知りながら。
「私も高坂さんを支持します」
恨まれるなら、私一人で十分だ。今度も間違えたのではないかという疑問が心の中で渦巻いている。先生は頷いて、次の選定に移っていく。夕陽は茜色で音楽室を染めていく。少しだけ目を閉じて、唇を噛んだ。
何もかも忘れてしまいたいと願う自分の記憶の中で、その持ち主の声を聞かずに久しい、長い一つ結びの黒髪が揺れていた。失ったもの、間違いの結末を示すように――。