色々と考えないといけない事が多くて疲れた身体で帰宅する。取り敢えずお風呂にでも入れば、少しはスッキリするだろう。
「ただいま帰りました……」
「お帰り~。なんだか色々大変なことになっちゃったみたいだね」
私を出迎えた希美先輩はこちらを労うような表情でそう言う。
「兄さんから、連絡がありましたか?」
「うん。なんか急に帰るっていうからびっくりしちゃった。お昼寝してたらいきなり電話なるんだもん。あの黒電話、すっごいおっきい音なんだね。携帯じゃ気付かなかったのに、普通に飛び起きたよ」
「まぁ、古い電話ですから」
今日はバイトもお休みで、しかも大学はまだ始まっていない。夏休みが続いている大学生としてのんびりと昼下がりを謳歌していたらいきなり叩き起こされてしまったのだろう。私が深夜の兄さんを叩き起こして、兄さんが午睡にまどろむ希美先輩を叩き起こした。多分この流れからすると、次は私が希美先輩に叩き起こされる。
「もうしばらく戻ってこないと思ってたからさ、毛布とか片付けちゃったんだよね。だから、凛音の部屋のベッドの上、今はマットレスしかないんだ。それでどうしようかなぁって。もう面倒だから私の部屋で寝て貰おうかな。あのベット大きいから、まぁ二人でも寝れるだろうし」
「あぁ、床に布団を敷くっていう選択肢は無いんですね」
「折角ならいいかなって」
しまってしまった寝具を出すのが大変というのはよく知っている。とは言え、多分希美先輩的には今回の事を同衾のチャンスにしようとしている。布団を出すのは面倒だから~という流れを作って兄さんを誘導する作戦なのだろう。上手い事を考えるなぁと感心してしまった。私も見習わないといけない。
「まぁそれは良いんだけどね。公開オーディション、だっけ」
「はい。全国大会前のオーディションで決められなかったユーフォニアムとトランペットのソリだけ、公開オーディションをすることになりました」
「……そっか」
希美先輩は小さくため息を吐いた。
「私はさ、あの時にまだ吹部にいなかったから、人づてに聞くしかなかったんだ。でも、公開オーディションで幸せになった人なんて一人もいなかったっていう感想を持つくらいには、アレは禁じ手だと思ってたんだけど……」
「禁じ手ではあると思いますよ。それでも先生は選んだ。その道を歩むことを、歩ませることを」
「じゃあ多分、先生もずっと引きずってたんじゃないかな。そしてその後悔を、あの時の辛い記憶を、今度は同じ方法で幸福な方へと持っていく事が出来るかもしれない。そう考えて、公開オーディションにしたのかもしれないね。前の時はマイナスな感情から始まって、最後は香織先輩の納得で終わった。けど今度は違う結末に出来るかもしれないって」
「それはそれで、随分と身勝手な話ですね。私たちや一年生には、何の関係も無いのに」
「そうだね、それは正しいよ。でも後悔とかそういう感情は、自分の理性を無視した方向に進ませちゃうこともあるから」
キッチンには甘辛い匂いが漂っている。時計の針がチクタクと音を鳴らし、ラジオからは小さく音楽が流れている。今はどこにでもあるような日常の中に溶け込んでいる希美先輩も、かつては身を削るような世界の中にいた。そして、人一倍の後悔と慚愧を抱えている。それは今でも消えはしていないのだろう。幸せに過ごしていても、それは抱えたものを消したりはしない。
「正しい選択ばっかり選べるわけじゃないからね。でも、公開オーディションやるって決めた時に凛音も呼ぶって決めてたの?」
「いえ、それは秋子先輩が提案しました」
「そっか、吉沢さんが……。もしかしたら自分がその結果で傷つくかもしれないけど、吉沢さんは選んだんだね。やっぱり、そう言うところは凛音の教え子って感じがする。高坂さんもそれで良いって?」
「はい。高坂先輩も、先生の判断には思うところが結構あったようで。ちゃんと全部、兄さんに決着をつけてもらう道を選ぶことに異論はなかったようです」
希美先輩と秋子先輩の間にある関係性は凄くデリケートなモノだと思う。前者は恋を成就させた方で、後者は恋を散らせた方で。実った愛と実らなかった愛。選ばれた方と選ばれなかった方。そういう差が二人の間には純然たる事実として存在している。けれど、一般的な関係性に比べれば幾分も穏やかで、お互いに尊敬の念を抱いている感じはあった。それは同じ人を好きになった同士としての通じる何かだったのかもしれない。
「取り敢えず明日のお昼に戻って来るらしいから、それまでに色々準備しないとね。そのオーディションが終わったら次の日にはとんぼ返りらしいけど、それでも多少でもゆっくりはして欲しいし」
「私もこの後兄さんの部屋を掃除しておきます」
「ありがとう~。明日の朝は買い物行かないとなぁ。冷蔵庫の中の諸々は三人分しかないからね」
菜箸を動かしながら献立の話をしていたりするその姿は、ただの彼女という言葉で形容するには些か当てはまらないように思えた。それはどちらかと言えば、バタバタと帰って来てはすぐに戻ってしまう夫を迎える妻のように見える。その左手の薬指には何もないはずなのに、私にはどうしても銀色の光があるように思えてならない。
「もし、兄さんに結婚しようって言われたらどうしますか?」
「ふぇぇッ!?」
いきなり聞いたせいか、思ってもみなかった質問にビックリした希美先輩は変な声を出した。
「い、いきなりだね」
「すみません、でもちょっと気になっちゃって」
「そ、そうなんだ。うん、結婚しよう、か……。言われたら、それはもちろん嬉しいよ。だから、よろしくお願いしますって返事をすると思う。涼音ちゃんは?」
「あの人は自分からは結婚しようって言ってくれなそうなので。多分、私が言うんじゃないかなと思ってます」
「わぁ、カッコいいね。女の子からのプロポーズもカッコよくていいと思う。理由が理由なせいで滝野君の株が私の中で勝手に下がってるけど」
私だって女の子なので、それなりに色々な願望はあるけれど、よく考えてみれば告白も私からだったし何を今更感は存在している。待っているだけで解決しないなら、自分から行動するのが一番合理的だろう。私が待っているせいで中々関係が進展しないなら、いっそこっちから申し込んだ方が良いと思っている。大事なのは結果だ。
とは言え、それはきっと遠い未来の話。少なくとも私も彼も、まだ学生の身分。兄さんと違って生計を自分で立てる事が出来てはいない。だから、兄さんと希美先輩のケースとは条件が違うのだ。逆に言えば、兄さんたちは今すぐにでも結ばれたとて、特に問題は無いだろう。今だってもう半分そういう状態なのだし。
「じゃあ、いつでもゴールイン出来そうですね」
「ゴールイン、か」
「なにか、思うところが?」
「そこまで大それたことじゃないんだけどね。恋人関係のゴールは確かに結婚なのかもしれないけど、二人の関係はむしろそこからまたスタートなんじゃないかなって。何となく、そう思っててさ」
「確かに、言われてみればそうかもしれませんね」
私は恋愛小説ばっかり読んでる上に、結婚なんて遠い未来の高校生だ。恋愛小説は結ばれたところ、或いはその先に結婚したところと僅かなその後のエピローグだけで終わることが多い。けれど、人生はその先も続いていく。それはよく考えれば分かる話だ。結婚生活だって、幸せな事ばかりとは限らない。
希美先輩は私とは違って、割と地に足のついた恋愛をしている……と思うし、元々結構合理的なところのある人だ。それに加えて、私よりも結婚という言葉が実体を伴った存在として身近にある。だからこそ、しっかりとした観念を持っているのだと思う。
浮ついた高校生のカップルが言う結婚とは全く違う重みが、そこには存在しているのだ。それをどう捉えるかは人それぞれだろうけれど、私はとても素晴らしい事だと思う。二人の人生を統合する行いなんて、本来はそれくらい重く大切に扱うべきモノだと、少なくとも高校生の私はそう考えているのだから。
「トランペットは、どうですか」
公開オーディションが決定した次の日の朝。私はたまたま朝練で同じになったさやかさんにそう訊ねていた。
「どうって言うと?」
「いえ、金管のパートの様子は、木管にいると分からないものですから。トランペットの二人は前々からずっと続く勝負の帰結という形ですけれど、パート内ではどういう具合なのかと、ふとそう思いました。フルートでも色々あったので……トランペットはどうなのかなと」
ソリをどうするのか。フルートパートは私をソリとして押し続けてくれる事で決まっていた。私はこんな選ばれ方をした私に演奏する資格なんてないと思っていたけれど、沙里先輩は私で良いと自分たちが思ったならば、それで構わないと言い切った。言い切ってくれた。それは私にとっては、大きな救いだったのは、言うまでもないだろう。
沙里先輩が流した涙に報いることが出来る奏者にならなくてはいけない。それはある意味ではプレッシャーだけれど、そう考える度に手の中にある私のフルートが熱を帯びるような気がする。その熱は高揚であり、決意でもあった。
「割と落ち着いてる、かな。私みたいな、まだやり始めて二年目の奏者にはどっちが上なのかとかさっぱり分からないし、長年やってる子でも同じに感じるって言ってたから、どっちになるかなんて考えようがないんだよ」
「もう、生徒に判断できる領域では無いと」
「うん。だから、桜地先輩来てくれて本当に嬉しかった。私たちであの二人の演奏の良し悪しを判断しろなんて無理だからね~。無理というか、したくないと言うか、する資格もないというか」
困ったような顔でさやかさんは言った。もちろん、どっちの演奏にどういう特徴があるとか、どちらの演奏の方が好みだとか、そういう違いはあるのだろうし、分かるのだろう。けれど、どちらが上かという質問には答えられない。私は金管ではないから分からないだけで、実はトランペットパートなら何となく分かっているという可能性もあったが、それも今消滅した。
「優子先輩とかと比べたら、確かに二人の方が上手いっていうのは分かる。もちろん優子先輩も凄く上手いんだけどね。でも、あの二人の比較をしなさいって言うのは無理かな。だから、秋子先輩は先生に怒ってたけど、私はちょっとだけ先生の気持ちも分かる。私が審査員だったら投げ出したくなるもん」
「……なるほど」
私が感じる高坂先輩の演奏には、スパーンと竹を割ったような勢いと清々しさがある。それでいて異なる表現もしっかりとこなすことが出来る。強さ、美しさ、勇壮さ、華麗さ。そういう力強さを示すのに、あれ以上に適切な音は無いだろう。どこまでも強く、貫き続ける信念を聞いている身にも強く訴えかけてくるのだ。痺れるように、轟くように。
反対に秋子先輩の演奏は穏やかさやしっとりとした空気感を孕んでいる。もちろん力強い演奏だって出来るのだけれど、その真骨頂はそこでは無いと思う。嘆き、憂い、優しさ、愛情、切なさ。そういう温かみや奥深くに訴えかけてくる情感を必要とする演奏で、彼女の音は輝く。聞く人の心を締め付け、揺さぶりかけるのだ。囁くように、慈しむように。
「私はどっちが勝っても良い演奏になるとは思ってる。ただ、もし私が選べるのなら……」
「選べるのなら、さやかさんはどちらを選ぶんですか?」
「私は、秋子先輩を選ぶと思う」
彼女は、迷いながらもそう言った。
「私はさ、どっちかと言えば秋子先輩に近い方だと思う。いや、私の演奏で比べるのも失礼~って話ではあるんだけどね。でも、私は天才じゃないし、圧倒的な才能なんてない」
「高坂先輩と違って、という事ですか」
「うん、その通り。だから、秋子先輩の気持ちはちょっと分かる。ずっと相手が目の前にいるっていう気持ちは。私みたいなのはそこで普通に諦めちゃうんだけど、でも秋子先輩はそうしなかった。何度も何度も立ち上がる道を選んできた」
彼女の言っていることはよく理解できた。心が折れそうになった回数は、きっと秋子先輩の方が多いのだろう。何度も折れそうになって、その度に前を向いてきた。その動機は多分一つでは無いだろうけれど、何であれ彼女もまた選ばれた人だったのだろう。運命に、あるいは楽器に、もっと言えば音楽に。選ばれ、魅入られ、そして歩き続けた。その末に、今の姿がある。
「秋子先輩さ、あんなに上手いのに、一回も注目されてない。もてはやされるのは、いつだって秋子先輩じゃなかった」
「……」
「でも、それっておかしいじゃん。あんなに頑張ってるのに。あんなに、努力してるのに。努力してるだけで夢が叶うわけないってのは、私だって分かってる。けど、実力なんて横並びなんだから、秋子先輩だってスポットライトの下で輝く権利はあるはずなんだよ」
彼女の言うことは正しかった。高坂先輩は二回もソロコンに出て、結果を出している。恐らく、日本で一番トランペットの上手い高校生だろう。そういう肩書になっているのを見たことがある。それなのに、ほぼ同値の秋子先輩に注目が集まらないのは納得いかない。同じ楽器をやっているからこそ、そして毎日接しているからこそ、彼女はそう思ったのだ。秋子先輩だって出ていれば、同じような結果を得られたのかもしれないのにと。
「まぁ、あくまでも私の意見だから、他の子に聞いたら違う意見が出てくるとは思うけどね」
「いえ、私はあなたの意見が知りたかったので」
「そうなの? ならまぁ、よかったのかな。どっちにしてもね、二人がちゃんと納得できる形で終わってくれれば、私たちは何も言う事はないんだ。それが、私たちの望みだから」
彼女はそう言って、楽譜を捲った。高坂先輩と秋子先輩はライバル同士であって、でもそれ以前に二人は親友だった。それを知らないパートメンバーはいない。だからこそ、莫逆の友同士が悲劇的な結末を迎える事を望む者はいないのだろう。さやかさんの、そしてトランペットパートの願いが叶うかどうかは、兄さんの手にかかっていた。
公開オーディションは、二年前に同じことが行われたという会場で実施される。当日の朝、私たちはバスで移動していた。元々はホール練習を行うつもりで借りた施設であって、こんな事のために使用する予定は微塵も無かった。それでも、多分この場所こそが相応しいのかもしれない。高坂先輩や秋子先輩、部長にとってはかつての己と向き合うための場所なのだから。
「はい、こっちに並んでください」
私は学年リーダーとして二年生を誘導している。この後は会場の設営だ。本当は椅子を並べるはずなのだが、今回は公開オーディションの都合上パーテーションを使って仕切りとし、ブラインドオーディションにすることになっている。その準備などは下級生が率先して行うのが、大体の場合における部活の通例だ。
多くの部員はあの後切り替えて自分の演奏に集中するように意識していた。そうでもしなければやってられないというのもあるとは思うけれど、多分それ以上にあの人たちにかまけてそれ以下の演奏しか出来ないようではいけないという想いがあったのだろう。少なくとも私はそういう感情の元やっていた。
「「「おはようございます!」」」
同期達の声に振り返れば、後ろには兄さんが立っている。
「はい、おはようございます」
精神的には元気そうだけれど、肉体的にはやはり疲れているのだろう。一番早く日本に着ける便を使って急いで来てくれたのだ、無理も無いと思う。それでも私や高坂先輩たちの願いに応えてくれた。それには感謝以外の感情などあろうはずもない。
「高坂さんと吉沢さんは?」
「中にいるよ」
「そう。じゃ、私はそっちに行ってくる。ユーフォはブラインドでやるみたいだけど、トランペットはいらないから」
「いらないの?」
「他の部員がどうとか関係ないでしょ? 結果は私が判断でいればそれで良い。どっちが吹いてるかなんて、目隠しされても分かるよ。何年あの二人に教えてると思ってるのさ」
「まぁ、それもそうか」
「そう。だからあの二人はパーテーション使わないでやる。あと、先にトランペットからやって、そこで決めたソリにユーフォのオーディションの相方をやってもらうつもりだから」
「……自分が終わっていきなりは厳しくない?」
「そんなので上手く出来ないような柔な鍛え方はしてないから大丈夫」
そう言うと、後はよろしくと私たち二年生や一年生に声をかけて、兄さんは室内に向かって行った。あの目の中にどういう感情を抱えているのか、私は完全には理解出来ていない。それでもなんとなく分かる。選ばないといけない苦悩と同時に、それ以上の歓喜を抱えているのだ。一世一代の大勝負、三年という青春全てを賭けた渾身のつばぜり合い。そういう光景を間もなく目に焼き付けられることを期待している。やはり、どこか普通ではないのだろう。音楽家とは、もしかしたらそういう存在なのかもしれない。
ホールの壇上で工作をする団体は、きっと私たちくらいだろう。出禁にされないように、物の使い方には最新鋭の注意を払う必要があった。幹部陣は気が気じゃないだろうから、この辺は比較的余裕のある私が担うことにした。
「ここ、どう思いますか?」
「少し緩いかもしれません。隙間が無いように、出来る限り隠してしまいましょう」
「トランペットの二人、譜面台いるんですか?」
「いらないと仰っていました。ですので、譜面台は二つだけ。最初からパーテーションの中に入れるようにしてください。そこ、支柱と支えは丁寧に扱ってください。なるべく床に傷をつけないように」
「「はい」」
パーカッションの使う大型の楽器などは合わせて搬入してしまう。先んじて準備してしまい、オーディションが終わればすぐに練習に入れるようにしていた。尤も、終わった後に奏者がすぐ練習に入れる精神状態なのかどうかは甚だ疑問ではあるけれど。
今回の練習は音の響き方を本番に近付ける事を目的としている。そのため、パート全体、あるいはパート内での席移動もあり得る。二年前と去年は兄さんがその辺の指示をホール練習でしていたけれど、今年はしていなかった。しかしここに来て兄さんが急遽来日。それがこのホール練習と被ったということで、どうやら席の指示もしてもらうつもりらしい。滝先生、転んでもただは起きぬという事なのだろう。すんごい文句を言われていたが、それでも引き受ける辺り兄さんも分かってはいたのだと思う。
会場の設営音頭を執りながら、様子を見渡す。スポットライトの当たらない黒い影の中に、一人だけ佇んでいる姿があった。
「おさぼりですか、久石さん」
「梨々花に追い出されたんです。そんな精神状態でやると危ないからどっか行ってねと」
「そうでしたか」
彼女は私の目を見ないまま、遠くを見つめていた。
「私は、今でも久美子先輩にソリになって欲しいと思っています」
「そうですか。まぁ、そうだろうとは思っていましたが」
「でもそれがどういう意図によるものなのか、私には分からない」
「……意図?」
「意思、と言い換えても良いでしょう。私は実力以外の何かで判断するのは間違いだと思っていました。愚かしい選択だと。自分がそういう判断で不利益を被った身として、人一倍そう思ってきた。だから久美子先輩に吹いて欲しいと思っているのも、これまでの思考に照らし合わせれば、久美子先輩の実力が上だからのはずなんです」
「でも、そうでは無いと」
「今の私は、自分の目が曇っているのかどうか分かりません。久美子先輩の実力が黒江先輩よりも上だからなのか、それとも私が久美子先輩を好きだからなのか」
彼女の吐き出した言葉は、彼女にしては珍しいほどに素直な述懐だった。自分の感情ゆえの判断なのか、それとも理性ゆえの判断なのか。そんな事が完璧に分かる人間なんていないだろう。自分の行動がどちらかに全て傾いている人など、多分存在しない。それは物語のキャラクターか、或いは理性しかないコンピューターなのだろうから。
「私が思うに、あなたの理性的な部分は今感情によって大きく浸食されていると思います。あなたは部長の実力が真由先輩と同じかそれ以上だと考えているから、部長がソリになるべきだと思っている。少なくとも理性ではそう考えている。そうですね?」
「恐らくは」
「ですが、同じ或いはそれ以上といくら理性的に捉えようとしても、部長に演奏して欲しいという想いがあれば、実際の実力は多少なりとも歪められてあなたの主観となるかもしれない。だから、あくまでも私の感想ですけれど、あなたは部長が好きだからこそソリになって欲しいと思っているのでしょう。あなたが理性面だと捉えている判断基準は、その感情によって作り出されたモノである、と考える事も出来ます」
「……つまり、しっかり聞いて判断することが出来ない状態だと?」
「そうは言っていません。あくまでも、あなたの状態を分析しただけです。どちらが相応しいかを判断することは出来るでしょう。だってあなたも、二人と同じ楽器をやっているのですから。それも、何年も」
高坂先輩と秋子先輩の判断が兄さんにしか付かないのだとしたら、もっと言えば同じ楽器の人だけにしか分からない何かがあるのだとしたら。ユーフォニアムにおけるそれを部内で一番理解できる可能性があるのは、久石さんだろう。彼女とて、中学時代から合算すれば今年で五年目だ。それは、私のフルート遍歴とさして変わらない。
「それにね、感情で決めるのが悪いとは思いません。ここまで来たのなら、あなたが望む方に手を挙げればいい。ブラインドにはなっていますが、どうせあなたにはどちらの演奏なのかくらいはすぐに分かるでしょうから。判断基準はどちらが良い演奏だと思ったか。それ以上でも以下でもありません。そして、良い演奏なんて言うのは心で判断して決める事でしょう? だから、自分の心に素直に従って行けばいいのではないでしょうか」
「意外ですね、そんな事を言うなんて。てっきりしっかりと部のためになる判断をしろと、そういうのかと思いました」
「中学生の頃の私は、きっとそう言ったでしょう。けれど、それだけではどうにもならないことがあるという現実を、私は知っています。それに、音楽とはどこまで行っても最後には芸術であるという部分にたどり着く。芸術を理性で語るほど、私は杓子定規ではないつもりです」
自分がどうしたいのか、どうしたいと思っているのか。それに従っていく事。無論、いつでもそんな事をしていては社会で生活を送ることはままならないだろう。けれど、大事な時の選択は、最後に自分がどうしたいと考えているのかで決めた方が、多分良いのだ。秋子先輩の言葉から、私はそう学んだ。真由先輩の考えを半ば反面教師のようにして、そう考えた。
「それに、あなたの本当の願いはもう叶わない。ならば最後くらい、自分の願いに従うべきだと思います」
「何を、言ってるんですか。私の願いは……」
「あなたの願いは、部長と一緒に演奏する事。そうでしょう?」
彼女の目が泳いだ。私は他人の感情を慮ることに長けているとはあまり思わないけれど、それでもこれくらいのことは理解しているつもりだ。だって、彼女の気持ちは痛いほど理解できる。私だって、希美先輩と最後の大会で一緒になれなかったら、きっとどれほど苦しかっただろう。それは想像するだけで、胸が締め付けられる。そんな状況に実際身を置いている彼女の悲嘆くらい、私であろうとも分かるのだ。
「あなたが良い選択をすることを願っています。あなた自身が、後悔しない選択を」
「何を選んでも、後悔しそうです」
「なら、自分がせめて胸を張れる選択肢を選べばいい。あの時の選択で違う未来はあったのかもしれないけれど、それでも私はその選択肢を選んだ自分を誇れる。そういう風に思える道を」
彼女は応えなかった。けれど私はそれで良いと思った。結局、自分がどうするのかの選択肢は、自分でしか決めることは出来ないのだ。彼女の願いが叶うかどうかは、そういう多くの個人が為した選択の集合によって決まる。実力だけで決める者、それでもやはりと心に従う者、より良いと思う道を選ぶ者、その他にも様々だろう。その末に、部長と真由先輩の運命は決まる。それはある意味では凄く残酷だけれど、同時にそれがこの部活というモノなのかもしれない。
トランペットはトランペットで色々な想いを抱えている。ユーフォニアムはユーフォニアムで、懊悩の中にある。その悩みや苦しみ、痛みは望ましいモノではないだろうし、望ましいモノであると思ってもいけないのだろう。苦しみなんて無い方が良いし、軋む心なんて無い方が良い。それでも、そうなってしまったからには、その痛みを無駄にしないことが最善であると私は感じている。
高坂先輩の夢は、秋子先輩の執念は、部長の願いは、真由先輩の覚悟は、それぞれどういう風な結末を迎えるのだろうか。それは誰にも分かりはしない。ただ、それでもと挑んだ四人の選択を、愚かと嗤う者はいないだろう。そして今、四人のための舞台の、その幕が上がるのだ。駆け抜けた三年間の全ての答えを、出すために。
気が付けば、今作も200万字を超えました。我ながらここまで5年近く、かなり長くやってきたと思います。もうすぐ終わりも近いですから、是非最後まで見守ってくださればと思います。