九月の初頭に涼しいヨーロッパに戻ったはずだったのに、どういう訳か私は日本にとんぼ返りしていた。空港の時点で既に暑かったけれど、街に降り立てばその暑さが襲い掛かって来る。暦の上ではもう秋だというのに、全く涼しくなっていなかった。
こんなところに時間をかけて戻って来たのは、涼音からの連絡を受けたからだった。曰く、助けて欲しいと。夜中の三時に叩き起こされたけれど、そう言われてしまったからには仕方がない。地球の裏側からであろうと、飛んでいく以外の選択肢は無かった。要件は公開オーディション、特に高坂さんと吉沢さんのソリオーディションの審査をして欲しいというモノだった。妹の頼みであり、私の教え子二人の勝負の審査という事であれば、無理を押すことも厭うことはない。
「とは言え、暑い」
私はそう小さく呟いて、京都の町を歩いた。日本に帰って来るのはもっと後のつもりだった。もう一人いるトランペットの担当教授には文句を言われてしまったけれど、高い酒を買う事で取り敢えず折り合いはついている。私の弟子同士の大勝負という事情を説明すれば、興味を持った辺り彼もまたトランペットに魅せられた人間なのだろう。
「ただいま」
「お帰り~」
大学はまだお休み期間中の希美は私を出迎えてくれる。唐突に明日帰りますという連絡を入れたのに、分かったと言ってくれる辺り私の彼女からの愛を感じる。普通ビックリの後にいきなり言われても……という困惑が来ると思う。それでも問題ないと言ってくれたのは助かったし嬉しかった。
「お風呂にする? ご飯にする? それとも……」
「お風呂入りたい」
「えー、そこは最後まで聞こうよ。良いけどさぁ」
「ゴメン、ヨーロッパとの寒暖差で死にそうだからさ。如何せんどうにも暑くって。というか、お風呂あるの?」
「入れてあるよ」
「感謝……」
いきなり飛行機で飛んできたので、睡眠時間のリズムが破壊された上に時差も相まって非常に疲れている。それに追い打ちをするように、日本の暑さが私を苦しめていた。取り敢えず汗を流してしまいたかったのだ。大分グロッキーな顔をしながら風呂に入る。上がった後の洗面台の鏡には、眠そうな顔をした男が写っていた。
「お疲れ様」
「あぁ、うん。ありがと……」
「取り敢えず、ご飯食べようか。丁度お昼だし。素麺しかないけど、ごめんね」
「いや、作ってくれるだけで感謝しかない」
「そう? 最近素麺ばっかり食べてて飽きてきたから、ちょっと今日は変わり種ということで……」
納豆とキムチが乗った素麺がドンとテーブルに置かれている。納豆を使っている辺りが希美の好みが反映されている。ドイツではどうもウケの悪い納豆だけれど、私は納豆に対する好き嫌いが無いので特に問題ない。
「半年くらい会えないと思ってたけど、思ったより早く会えて私は嬉しいよ。凛音はそんな事考えてる余裕は無さそうだけど」
「いや、なんか私も何とも言えない感じになってる。あんまり余裕が無いのはその通りなんだけど」
「手塩にかけた教え子二人の三年間に決着をつけてくださいなんて、冷静でいられる方がおかしいからね……。むしろ普通だと思うよ」
「中々苦しさはある。でも、それ以上に……人でなしだとは思うけれど、あの二人の全てを発露させた演奏が聴けるんだという喜びというか、高揚感もある。師匠としては失格かもしれないけど、一人の音楽家として、トランペットを愛した人間としての喜びみたいなものがどうしても消せない」
「そっか」
希美は私の言葉に肯定も否定もしないで、一口お茶を飲んだ。麦茶が入ったグラスに水滴が伝う。外ではセミが鳴いていた。夏はまだ、終わっていないのだろう。季節のうえでも、そして私の教え子たちの間でも。
「私にそういう世界のことはよく分からないけど、誰も後悔しないような結末になるようには祈ってるよ」
「それで十分助かる」
「なら良かった。それはそれとして、向こうに戻るまでの間は私の部屋で寝てもらうから」
「……なんで?」
「お布団は布団乾燥機にかけた後圧縮しちゃって、今凛音の部屋のベッドはマットレスしかないから」
「あぁ、なるほど。でも、布団敷いて床に寝ればいいんじゃない?」
「敷くタイプのお布団も全部しまっちゃいました」
「えぇ……」
「という事で、数日は一緒に寝ます。OK?」
「は、はい」
「よろしい」
圧の強い笑顔に、私は頷くしかなかった。私が首を縦に振ったのを確認して、彼女はニコっと微笑む。どうも露骨に誘導されているような気がするけれど、彼女が笑っているのならそれで良いと思うことにした。
「今日は、よろしくお願いします」
「来ていただいて、ありがとうございます」
私を前に、高坂さんと吉沢さんが頭を下げている。公開オーディションの日、私は控室で待機している二人を前にしていた。二人はユーフォの二人と同じく準備は免除されていて、最後の調整を行っている。
「すみませんでした、先輩。私たちのワガママで……」
「まぁ夜中に叩き起こされた時は何事かと思ったけど、別に気にしなくて良い。呼んだのは君たちだけど、来ると決めたのは私の選択だから」
私は椅子に座って、二人に向き合った。これが公開オーディションを前にして、二人に何かを伝える事の出来る最後の機会だろう。
「本来は審査員側が審査される側に色々言うのは良くないのかもしれないけれど、ここでは私たち三人で完結できる問題だから、構わないだろう。という事で、ちゃんと言うべきことは言っておきたい。どちらがソリになろうとも、それはどちらかが劣っているという事にならない。どちらも優れている中で、より優れている方を選んだだけだ。これは屁理屈かもしれないけど、敗者は劣者ではない。私は、このオーディションに関しては、そう断言する」
オーディションである以上、どちらとも素晴らしくても、どちらとも相応しくても、敗北者は出る。それはもうどうしようもない事なのだ。
「こんな事に何の意味があるのかと誰かに言われるかもしれないけれど、意味があるからやるわけではない。それが音楽だし、それが人生だ。たった数瞬の歓喜のために、あらゆる全てを注いで勝ちに行く。これ以上に無意義で非合理で、最高に価値のあることはない。人生はそのためにあるんだと、私はそう思っている」
意義も道理も無いのかもしれないけれど、もしかしたら不毛な争いなのかもしれないけれど、二人の少女が全てを投げうって、己の全てを曝け出さんとするこの勝負は、無意味なのではないのだ。
「最後にもう一度確認したい。二人とも、この道を選ぶことで後悔はないか?」
「はい。ありません」
最初に声を出したのは高坂さんだった。彼女は真っ直ぐとこちらを見つめる。いつでも彼女はいの一番に行動する。悩む前に動く。悪く言えば猪突猛進に、よく言えば初志貫徹しながら。そうやって私のもとに押し掛けてきた彼女によって、私たちの三年間の物語は始まった。
「私も、後悔なんて無いです。苦しいことは沢山あったけど……この三年間に、後悔なんてありません。どれだけ辛くても、敵わない事ばかりでも、私はもう一度選べたとしてもこの道を進んで、麗奈ちゃんと出会って、もう一回親友になると思います」
「秋子……」
高坂さんは声が詰まっていた。その目元には小さく光るモノがある。自分が壁であることを当然と思っていたかつての高坂さんだったら、こういう表情はしないだろう。彼女が敵わないのは自分の方が上手いからで、当然だと思っていたかもしれない。それでも、高坂さんも変わった。三年間の時間は、一人の少女を変化させるのには十分な時間だったのだ。
そのきっかけをもし一つあるとすれば、それは奇しくも二年前の公開オーディションだろう。あの時に、高坂さんは夢を壊す痛みを知った。そして、自分に対して手を叩いてくれた吉沢さんに救われたのだろう。あれから、二人の距離感は明確に変化した。それほどまでに、あのオーディションは大きな出来事だったのだ。そして今、かつては舞台上と観客席に分かれていた二人は、同じ壇上で同じ勝負に挑む。
「関西大会のオーディション結果発表の後ね、結構キレてたんだよ私」
「……そうなの?」
「そうだよ。麗奈ちゃんは私に勝ったことを誇る前に、久美子ちゃんの方ばっかり心配してたから。ソリの相手だったし、大事な相手だってことも分かってるけど、それでもあの時だけは私を見て欲しかった。ライバルなんて言ってるけど、所詮その程度の関係性なのかって大分ショックだった」
「ごめんなさい。そんな事、気付けもしなかった」
「知ってる。だからこそ、余計にムカついてた。だからあの時、全国大会のオーディションでは絶対に勝とうと思ったんだ。あの時視界に入ってなかった私から、絶対に目が離せないように。遠くへ行っても、私の事を忘れられないように」
「忘れるなんて、あり得ない。私は絶対に、あなたの事を忘れない」
「ありがと。でも、言葉だけだとどうなるかなんて分からないから、記憶に刻み付けてあげる」
吉沢さんは高坂さんを真っ直ぐに見据えた。その目には、真っ青な炎が灯っている。それを見つめ返す高坂さんの瞳にも、赤い炎が爛々と輝いていた。眩いばかりの炎が、全てを焼き尽くすような燃やし尽くすような光を放っている。私には、二人が燃え滾る二つの太陽のように見えた。
「ありがとう、高坂麗奈。あなたのおかげで、私は頑張り続けられた。あなたのせいで折れそうになったことも沢山あったけど、あなたのおかげでこの三年間退屈する事なんて何一つなかった。私の人生がこの先どういう形であったとしても、多分この三年間が一番高揚感と輝きに満ちていたって言える」
「私も、私だって、ありがとう。あなたがいたから、私も前に進み続けられた。桜地先生との圧倒的な差を毎日痛感しながら、本当に進みたい道になんて進めるのかって思ったこともあったけれど、それでもあなたが一歩一歩進んでいる姿を見て、私も前に進めた。私には苦手な事を助けてくれて、この前も私を支え続けてくれた。それに、あの時私のために手を叩いてくれて、嬉しかった」
二人は向き合いながら、お互いに感謝を述べる。吉沢さんが抱いていた蟠りは、大分解消することが出来たのだろう。なにせ今この瞬間、高坂さんの瞳は彼女以外の何も見つめていないのだから。高坂さんの脳髄は、彼女の事以外に考えていないのだから。三年間築き上げた二人の関係性は、何者の介在も許さないような特別性を孕んでいた。
二人が友達になって、上手くコミュニケーションを取りながら部活を行って欲しい。そういう風に思って私は二人の間を取り持ち、吉沢さんには高坂さんに教えを請うように促し、高坂さんには吉沢さんに教えてあげるように促した。そんな些細な想いや関係性から始まった物語は、長い月日を経て、多くの思い出を経て、そしてこういう形に結実し、これからも続いていくのだろう。その一区切りが、今日この時なのだ。
「今日は、私が勝つから」
「私の演奏で、敗北宣言しないでちょうだいね」
二人は大胆不敵に笑っている。そう言えば、自分にもこういう時代はあったのだった。ライバルとこうして笑い合い、高め合い、そして自分たちの全てを賭けた勝負に挑める。それが私にとってはとても羨ましい事だった。自分にはもう、出来ない事なのだから。私たちの関係性も、かつては今の二人のように見えていたのだろうか。当事者では無く指導者として見ることになったのは、私がどうしようもなく大人側になった証拠だった。
「よし、それでは行こうか。君たちの演奏を、君たちの全てを、魂や願いに至るまで私に見せてくれ」
「「はい!」」
二人の纏う雰囲気が少しずつ洗練されていく。呼吸音が安定し、瞳が煌々と輝く。こういう風になることが、高校生として相応しいのかは分からない。それでも、私は歓喜していた。一人のトランペット奏者として、一人の音楽家として、この一度しか見る事の出来ない、煌めくような一戦を見る事が出来る幸運に、歓喜していたのだ。
教えたのがこの二人で良かった。私は改めて、そう思う。この二人という奏者を生み出せたことは、私が生涯誇るべき事だったのだ。
カツカツと音を立ててホール内に入ると、多くの視線が私に向けられる。最後の準備は終わり、部員たちは各々の席に着いていた。その中、私は先生の方へ向かう。
「先生、二人とも準備が出来たようです」
「分かりました。……ありがとうございます、ここまで来ていただいて」
「あの二人をここまで育てたのは私です。その結末を見届ける義務がある。それに、あの二人を競い合って高め合うように導いたのも私です。ならば、その最後の決着は私が付ける必要がある。むしろ、最初からこうしているべきでした。先生に投げてしまったのは申し訳ないと思っています」
「それでも、私が判断するべきでした。桜地さんにも怒られてしまいましたし、そうでなくても猛省しています」
「まぁ、それはその通りですね。こんな公開オーディションなんて選択肢、そう何回も選べるような手段ではありませんし、選んでいい手段でも無いのですから。しかし、よりにもよってここでやることになるとは……何とも皮肉な話です」
「……えぇ」
かつて香織先輩の夢は、このホールの中で散った。そうなった原因は先生であり、私だ。私と先生は共犯者だった。そして、多くの部員がそれを求めた結果でもあり、当時の部員たちも同じ十字架を背負った。その時の部員の半数はもういない。今の三年生だけが、その記憶を背負っていた。そして高坂さんはあの時の対戦者であり、吉沢さんは高坂さんを支持した。あの時の二人が、こうして壇上にいる。運命の巡り合わせを感じずにはいられない。
「最初に申し上げた通り、トランペットは私が全て決定します。よろしいですか?」
「はい。問題ありません。むしろ、よろしくお願いします」
「分かりました。必ず、結論を出します。それで、ユーフォニアムはどうしますか。全員投票だとは聞いていますが、この部の人数は偶数。同数になって割り切れないという事も考えられますが」
「そのことですが、私はあなたにも投票に参加して欲しいと思っています。私と松本先生はどちらが相応しいのか判断できませんでしたが、あなたには判断できるかもしれません。あなたなら、投票する資格もあるでしょう。部員の同意は既に得ています」
「……良いでしょう。分かりました」
これも私に与えられた役目なのだろう。先生の誘いに乗った瞬間から、或いは高坂さんの頼みを引き受けた瞬間から、こういう風になることは決まっていたのかもしれない。後悔は無いけれど、決して楽しい道ではない。それでも、私には責任がある。自分で進んだ道なのだから、その責任は果たさなければならないのだ。
そして袖から二人が歩いて来る。大きなホールの壇上に、二人だけが立っていた。その瞳に決意と覚悟を秘めて、凛と立っている。その瞳が見据えるのは、横に立つライバルでも固唾をのんで見守る観客である部員でも無く、私の姿だった。三年間教えを請うた師匠に見せる、集大成とも言える演奏を奏でんと、両足をしっかり大地に着けて立っている。
「トランペットパートのソリオーディションを行います。参加者は二名、ブラインドは無し、審査員は私が務めます。第三楽章の該当箇所を最初から最後まで演奏してください。伴奏も無し、参加者のやりたいようにやりなさい。準備はよろしいですか」
「「はい」」
私が告げた開始の合図に、高坂さんと吉沢さんは静かに返事をする。程よい緊張と、それよりもずっと大きい高揚感に身を震わせるような声だった。きっとこれならば十全の演奏を、どんな結果になったとしても何一つ言い訳など出来ないような完璧なコンディションで出来るだろう。
「まずは、高坂さんから。よろしい?」
「はい」
「では、お好きなタイミングでどうぞ」
彼女は立っていた位置から一歩前に出た。そして私に頭を下げて、マウスピースが唇に触れる。そして、彼女の舞台が始まった。
痺れるような高音。それは彼女の持っている一番の魅力だろう。高音で魅せるのは私から受け継がれた系譜を感じる。元々高音が得意な奏者だったけれど、ここ三年間でその技術は確かに磨かれた。私の母親から私が受け継いで、そして私から高坂さんへと受け継がれたその技術体系は、ここに完成を見ている。踊るように、歌うように。彼女は鮮烈な舞台に永劫の輝きを残し続ける。
儚さと甘美さを孕んだその演奏に酔いしれない人間がいるとするのならば、それは自身の音楽的能力の無さを自ら吐露していると言っても良いだろう。或いは感情など無いと公言しているのと同等だ。よくここまで仕上げたと舌を巻く。あぁ、その座から引きずり降ろしてやりたい。あの子よりも私が上手いと、そう世界に証明したい。その感情になったのは実に二年ぶりの事だった。かつての再オーディションで感じたあの感情に、私はもう一度浸らさせている。
真っ直ぐと、どこまでも自分を貫いて。それが彼女の人生であり、彼女の音楽だ。彼女の見据える未来は、特別になる未来だ。そのために、吉沢さんには是が非でも勝ちたいだろう。なにせ、同期として唯一自らを脅かす存在であり、二年間を共に切磋琢磨した親友なのだから。その筋の通った美しい演奏に、観客は惹きつけられている。その輝く姿は、かつて吉沢さんが語ったように一等星の名が相応しい。
その演奏を聴いて、吉沢さんは小さく笑っていた。そうでなければ高坂麗奈ではないと言うように。高坂麗奈という人間の一番の理解者が黄前さんなのだとしたら、演奏者としての高坂麗奈の一番の理解者は吉沢さんだろう。それに、彼女自身も人間として大きく成長した。私という大きな壁、香織先輩という自分が直接砕いた夢、吉沢さんという迫りくる存在、そして涼音によりもたらされた挫折。そういう懊悩や苦しみを経て、彼女の人間性も強化されている。それが伝わる音だった。そして静かに演奏を終えた。
「ありがとうございました」
「お疲れ様でした。では、次に吉沢さん。よろしいですか?」
「はい」
「では、いつでもどうぞ」
高坂さんと入れ替わりになるように、彼女は前に出た。何人かの部員が身を乗り出す。高坂さんのソリの演奏は多くの生徒が何回も耳にしてきた。しかし、吉沢さんのやるソリの演奏は、恐らくほとんどの生徒が聞いたことが無い。
そして演奏が始まる。心臓を掴まれるような音。私が第一に抱いた印象はそういうものだった。ぞわりと全身の毛が逆立つような感覚。これを感じたのは、私が初めて負けた大会以来の事だ。切なさで苦しくなり、涙すら出てくるような演奏。挫折、懊悩、苦痛、悲嘆、嫉妬、そして奮起。何度も何度も折れそうになって、そしてもう一度立ち上がって。そういう彼女の生き様が感じられるような音色。
秋、宿命の時。それがこの楽章のタイトルだ。宿命という言葉があるとすれば、それはもしかしたら彼女のためにあるのかもしれない。この学校に来たことも、この部活に入ったことも、彼女にとっては運命的なモノだったに違いない。私のせいという要素も多分にあるけれど、それでも高坂さんと友情を育む道を選んだことは彼女の未来を大きく変えた。もしそういう道を選ばなければ、高坂さんと競い合う道を進まなければ、ただの高校生として、それなりの部活人生のまま生きる事も出来ただろう。そうならなかったのは、運命かそれとも彼女の意思か、それとも両方だろうか。
甘く、穏やかに、切なく。それでいてどこかに静かな青い炎を燃やしている。そういう演奏が彼女の音だった。傷ついて、何度も負け続けて、それでも彼女はその炎を消さなかった。枕を濡らした回数も、背中を見上げ続けた時間も、嫉妬や絶望に押しつぶされそうになったことも、彼女がこの部で一番多く、長かったのだと思う。それでも彼女は転んだままでいる事を良しとしなかった。それは負けない強さでは無く、折れない強さだった。
自分の愚かさや痛みと向き合い、マイナスな記憶も、全部吐き出してぶちまけて、曲に乗せろ。私は夏合宿でそう告げた。まさにそういう演奏が今展開されている。汚くとも醜くとも足掻いた軌跡が、彼女と奏でるメロディーだ。それでも苦しさだけでは無いのは、彼女の人間性が為せる技だろう。この演奏のなにが五等星なのか。彼女は自分が光ってないと思っているけれど、その実高坂さんと同じ、眩いばかりの一番星だ。
不安と期待がない交ぜになった春。痛みに押しつぶされそうだった夏。それでも上を向いた秋。そして歩き出した冬。その先に春がまたやって来る。私はこの曲の示す四季をそう定義した。そこから考えれば、秋に相応しいのは彼女だった。三年間の全て、青春の持つ光と闇。その全てが真っ白なキャンパスを染め上げるように歌われる。それは真っ白だった彼女の三年間が築き上げられていくような姿でもあった。そして、己の全てを高らかに謳いあげ、その演奏は終わった。
「ありがとう、ございました」
「お疲れ様でした」
高坂さんは静かに目を閉じている。彼女は彼女で、自分のライバルの演奏が素晴らしいモノであることを喜んでいるようだった。観客である部員たちは身動きすら出来ないでいた。涙を流している部員もいる。呼吸すら許されないような、何か小さな動く音すら許されないようなそんな世界の中で、壇上の二人と私だけが息をしていた。私たちだけが、特別な存在だった。図らずも、高坂さんはここで望む場所にたどり着いていたのだ。
「まずは二人とも、素晴らしい演奏でした。部員の皆さんは、今の演奏を必ず覚えておくように。日本で一番上手いであろう高校生二人の、三年間の全てを賭けた一世一代の大勝負でした。こんな機会は、恐らく二度とないでしょうから。それほどまでに価値のある時間だったと思います」
確かに、この二人から選ぶのは難しい。先生たちの苦悩もよく理解できる。先生の公開オーディションという判断が正しかったとは思わないけれど、そうしたくなった気持ちもよく分かった。この判断をしろというのは酷な話だろう。私ですらこんな有り様なのだ。トランペットの専門家ではない先生二人には厳しい選択を強いてしまった。
残酷な話だ。もし二人で演奏することが出来るのならば、きっと世界すら覆して、私ですらあっという間に凌駕することが出来るかもしれない。私を、世界一の座から引きずり降ろして、私を破った
部員たちは私の方に視線を向けている。どちらを選ぶのか、どちらがソリになるのか。もう自分達では判断などできない彼らは、私の決断を待っている。その視線を一身に受けながら、私は静かに目を閉じた。高坂麗奈と吉沢秋子。その二人のいずれが、この曲を演奏するに相応しいか。その答えは私が下さなくてはいけない。
小さく息を吐いた。決断は――――出来た。
「ソリを担当できるのは、一人だけ。二人とも、その席に座るに相応しい演奏をしていたと思います。仮に万が一何かしらのアクシデントが発生した場合は、今回選ばれなかった方が問答無用でソリとなるでしょう。高坂さんも吉沢さんも、よくここまで成長したと思います。二年前の私は、あなた達がここにまでなるとは想像だにしていませんでした。今の私の大学の生徒たちよりも、あなた達二人の方が余程優れている。私は自身を持って、世界にあなた達の事を示せるでしょう」
結論を話さない私に、部員たちは戸惑ったような空気を出している。先生もどういうつもりなのか、こちらに視線を寄せていた。私はそれを無視する。上の二人も、特に気にしている様子はない。
「これまでの三年間の全てを、二人とも注いでくれたのだと思います。どれほど優秀な奏者であっても、それこそ私であっても、毎回勝ち続けることは出来ません。誰にでも敗北することはある。ですから、常に慢心せず、毎回全力で挑まないといけません。それでも負けてしまうことはあります。人生にはそういう事だってある。けれど、これまで積み上げてきた努力は決して無駄になることはありません。それは私が証明しましょう」
それは、敗者に向けたメッセージだ。まだ勝者も敗者も分からない状態で言った方が良いと判断した。カツンと、私の靴の音がホールに響いた。誰かが喉を鳴らす音がする。最初のオーディションは最も早く仕上げた方が勝った。次のオーディションは、一番調整力のある方が勝った。そしてこのオーディションは、一番自分を曝け出した方が勝つ。
「光も闇も内包しながら、それでも前を向き続ける。この曲は負けない強さでは無く、折れない強さを持った存在にこそ相応しい。私はこの曲を、良いことも悪いことも全て含めた一年間或いは三年間を描き出す曲として定義しました。それを出来ている奏者であること。極論言えばどちらも出来ているのですが、より出来ていると私が判断した方が今回の勝者となります。とは言え、ここで敗れるとしても、それは敗者の格を落とす事には繋がらないですが」
そこで私は言葉を区切る。この後に続く言葉を発すれば、全ては決定する。その重さに押し潰されそうな感覚を覚えた。しかし、と私は前を向く。私はこの舞台の幕を下ろさなくてはいけない。二年前のあの夏に、ちょうどこの場所で、香織先輩の夢が壊れる舞台を作り上げた人間として。二年間もの間、誰かの夢を叶え、そして壊してきた人間として。ここで選ぶ責任と義務がある。
それになにより、彼女たちは私の教え子だ。私を信じて、ここまで歩んできてくれた。その信頼に応える義務が私にはある。決断は既に下した。そして、覚悟も出来ている。耳の奥に、夢を諦める香織先輩の声と、優子の慟哭が聞こえた。それでも、私は進まなくてはいけない。きっと、あの時の苦しみや涙に報いるには、そうする以外に無いのだから。
「秋、宿命の時。そう題された楽章をあなたが演奏することは、ある意味では運命だったのかもしれません」
私はゆっくりと、勝者へ指を指す。そして、その先にいる少女の名を呼んだ。
「吉沢秋子さん。あなたが、ソリです」