音を愛す君へ   作:tanuu

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第XL音 ReCoda

 公開オーディションの翌朝、兄さんは飛行機に乗る前の挨拶ということで、学校へ来ていた。そういう理由付けをしていたけれど、多分本音は高坂先輩たちが気になったのだろう。勝者と敗者の命運は明確に分かれた。その一因を担った兄さんとしては、やはり心配もあるはずだ。

 

「わざわざ来なくても大丈夫だと思うけど?」

「とは思うんだけれどね。一応、念のため」

 

 兄さんと並んで道を歩く。スーツケースの車輪の音が、ゴロゴロとアスファルトの上で響いている。まだ朝早い学校だけれど、ちらほらと人の影があった。

 

「おはようございます」

「あぁ、黄前さん。おはよう」

「部長、おはようございます」

  

 その人影の一人が部長である黄前先輩だった。朝早くから毎日活動しているのは知っている。そういう部分も信望を集める要因なのかもしれない。その表情に陰りはなかった。それに、少しだけ安堵する。真由先輩に手を挙げた身としては少しだけ気まずさもあるけれど、それでも堂々と立つべきと思っている。それが二人の先輩への敬意を示す方法だろうから。

 

「涙は、出尽くしましたか」

「はい。もう、存分に」

「そう。それはいい。大人になると泣けなくなりますからね。泣ける間に泣いておいた方がいいでしょう。悔しさや痛みを大きな声で叫べるのも、若さの特権なのかもしれませんし」

「死ぬほど悔しかったです。けど、麗奈が落ちて、私は麗奈の分までと思ってましたけど、でもどこかで分かってた気もします。自分の足りない部分というかが。そういうのが、音に出たんだと思います」

「あなたが自分で答えを出せているのなら、私から言うべきことはありません。ですが……死ぬほど悔しい、ですか。あなた達二人の原点は、もしかしたらそこなのかもしれませんね」

 

 兄さんは穏やかな表情で黄前先輩を見ている。

 

「二十年弱生きてきて、何が分かったとか偉そうなことは言えませんが、それでも一つだけ確信しているのは、人生の答えは大概の場合一番最初の原点にあるだろうという事です。そう考えれば、黄前さんや高坂さんの原点は、そこだったのかもしれません。悔しさの中からでも足を踏み出せる。それがあなた達の強さであり、あなた達の人生の在り方なのでしょう」

「そうだったら良いなと思います」

「あなたの将来の夢は、それを活かせる仕事かもしれませんね」

「誰に聞いたんですか?」

「松本先生に。ですが、聞かずとも何となくそうなんじゃないかとは思っていました。しかし、教師とは……希美と仕事が被るとは何とも面白い話です。未来の京都吹奏楽界は少なくとも指導者面では安泰ですね」

 

 黄前先輩が教師。なるほど、それは確かに結構イメージと一致しているかもしれない。教師であるのに、授業が上手いとか人前で話すのが得意とか、そういう要素はそこまで多く必要じゃない気がする。もちろんあった方がいいとは思うけれど、一番大事なのは目の前の生徒と向き合う事が出来るかどうかだろう。そう考えれば、彼女にはそれが出来るように思える。

 

「涼音はどう思う? 黄前先生は」

「良いと思いますよ。目の前の生徒に愚直に向き合って、寄り添おうとすることが出来る先生なら、きっと誰かの未来を手助けするのには最適ではないかと。もしかしたら、松本先生のように畏敬を持たれる感じではないかもしれませんけど」

「うーん、やっぱりそうだよねぇ……」

 

 舐められちゃうかなぁと彼女は呟いている。舐められる、と取るか慕われると取るか。それは状況にもよるだろう。けれど、子供は存外大人の事を見ていると思う。相手が真剣にやっているのかどうかくらいはすぐ分かるはずだ。であれば、少なくとも彼女が真剣ならば、慕われているという括りで問題はないだろう。

 

 彼女の高校生活は色々な人との出会いの連続だったはずだ。そこでは普通に暮らしているだけでは出会わないような生徒もいたはず。そういう出会いや別れは教師人生の大きな糧になると思う。無駄に大人っぽく振る舞っている生徒の対応は私で練習出来ただろうし。

 

「自分の選んだ道を誇れるような空間を作れたんです。きっと、学級でも同じことが出来るんじゃないでしょうか。私には教職の世界の事なんて何も分からないですけれど、あの時選択できたことは誇らしいと思えていますし」

「てっきり、もっと早く言えって怒られるかと思ってた」

「そんなことしませんよ。私はそこまで鉄面皮ではない……はずです。私はただ厳しい事しか言えない女です。私には、あなたのようなことは成し得ないし、あなたのような言葉は言えない」

 

 彼女にとって、私は多分扱いづらい後輩だっただろう。耳の痛い事ばかりを言うし、自分を律しないといけないような気がしてくる息苦しい存在だったかもしれない。彼女が彼女の信念を抱いていたように、私も私の信念を譲れなかった。けれどそれは彼女からすれば面倒な後輩だっただろうとは理解している。

 

「最初は確かに不安もありました。部長の一年間の全てが正しかったとは思いませんが、でもあの時にあの言葉を言える時点で、あなた以外にこの代の部長となるべき人はいないと思っています。あなただから、皆ついて行こうと思った。あなただから、真由先輩は救われた。そして今日から、全員が全国大会金賞を目指して歩んでいける」

「桜地さん……」

「涼音で良いですよ。あなたなら、それで良いです」

 

 黄前久美子という人物は、確かにこの部の部長だった。完璧ではない。けれどそれ故に、彼女はここで部長として振舞うのに相応しかった。リーダーにはいろんなタイプがいる。そんな話を、かつて純一さんがしていたのを思い出した。希美先輩や優子先輩のように先導者となって引っ張り上げる人もいるけれど、多分黄前先輩はそうではない。彼女は皆と一緒に進んでいくタイプの指導者だ。

 

「出来る事があれば、何なりと仰ってください。全国大会金賞のため、尽力します」 

「ありがとう。これまでも沢山、助けられてきた。部の事、B編成の子たちの事、真由ちゃんの事、オーディションの事も含めて色々。だから、最後に一つだけ頼んでも良い?」

「なんでしょうか」

「本番で、誰にも負けない日本で一番の、最高の演奏をして。それが私からのお願い」

 

 彼女は私の手を取って、そう告げた。一つだけのお願いの内容が演奏に関する事とは思わなかったけれど、それが彼女の金賞にかける想いという事なのだろうと理解する。言われなくてもそうするつもりではあった。けれど、改めて頼まれてしまったからには、それに対する答えなど、一つしかありえない。

 

「承りました。ソロコン全国の奏者として、かつて名古屋で金を得た者として、そしてなによりあなたの信頼に恥じぬような演奏をお届けします」

 

 私は自分の道を自分で決めるのは苦手だ。けれどだからこそ、かくあれかしと願ってくれたなら、加えてそれが自分の願いと同じであれば、誰にも後れを取らない存在となれる自信がある。そして、今彼女は私に金を獲るための最強の奏者たれと願った。それは私の意思と同じ。であれば、どうして余人に後れを取ろうか。

 

「頼もしいですね」

 

 堅苦しい物言いに少しだけ苦笑しながら、黄前先輩は兄さんに言う。それでも私の音と技量を信頼してくれているのが伝わる。この人ならやってくれると信じて貰って、それを裏切るのは私の誇りが許さない。今まで以上に熱を込めて練習していかなければと誓う。

 

「でしょう?」

 

 そう答える兄さんの顔はニッと笑っていた。宝物を自慢する子供のような笑顔で。

 

 

 

 

 

「君たちの出した答えを、私は素晴らしいと思う」

 

 そう言い残して、兄さんは再び欧州へと戻って行った。わずか数日の滞在。ただ二人のためだけに帰って来るというある意味では非常にコストパフォーマンスの悪い行いではあるけれど、それでも満足そうな表情で空港へと向かったのが記憶に新しい。

 

「トロンボーン、アクセントに注意してください」

「「「はい!」」」

「トランペットはもう少しください」

「「「はい!」」」

 

 再び練習は始まる。五十五人になった音楽室で、全国大会に向けた最後の練習期間が今訪れていた。その顔触れは大きく変わったわけではないけれど、少しは変更がある。そこには私の知らない物語がきっと多く存在していて、私の見えない涙や想いがあったのだろう。

 

 トランペットの1stはパートの座る位置で一番中央寄りの場所に座ることになっている。ソリはその一番中央側だ。そして、その席には三年間で初めて秋子先輩が座っていた。合奏体系に移動するようにと指示があった時、秋子先輩がその席に座ったことでこの前のオーディションが現実のものであったことが再度強調される。

 

 もちろん、あの場にいたのだから現実であることなど分かっていた。けれど、多分皆どこかであの出来事は夢だったんじゃないだろうかとすら思えていたのだろう。どうしてそう思ったのかはハッキリとは分からないけれど、それでも現実離れした出来事だったのは間違いない。あれから数日たった今でも、まだそんな気分になってしまう。

 

「吉沢さんと黒江さん、良い具合です。今のを維持できるように」

「「はい」」

 

 秋子先輩と真由先輩というこれまで無かった組み合わせでのソリ演奏だけれど、問題なく進んでいるように感じられる。元々技量的に秋子先輩には何の問題も無いのだし、真由先輩とてそれは同じこと。やったことの無い組み合わせだったので最初は少し調整期間を設けていたが、それでもものの数時間でピッタリと息の合った演奏が出来るようになっていた。

 

 二人とも頑固なところもあるけれど、調整能力が高いという共通点があるからかもしれない。自己主張をしつつもお互いの演奏をかき消さない良い塩梅に仕上げていた。秋子先輩に言わせれば、その辺はお手の物なのだろう。

 

 敗者である黄前先輩と高坂先輩ではあるけれど、あの二人を貶す声は当然ない。そんな事をしようものなら周囲の人にボコボコにされてしまうだろう。あそこでは誰もが最善の演奏をして、最大限の力を出し切っていた。我々には遠く届かない場所で、己の輝きを示していた。その眩さに、自らもそうならんと奮起している生徒も多い。

 

「では、ここからは個人練習とします。また一時間後に集合してください」

「「「はい!」」」

 

 合奏が一度終わり、個人練習に移行する。全体で指摘されたことを自らでフィードバックして、エラーを修正するべく練習する、というのがこの指導方針の目的だ。出来るまでやる、は滝先生の思想であるし、練習とは結局トライアンドエラーを繰り返していく事が大事であるというのは兄さんの思想だ。二人の考えが交じり合った練習がこの部では行われている。

 

 吹部の部員には定位置のようなモノがある。黄前先輩なら校舎裏の隅、高坂先輩は二つの校舎を繋ぐ渡り廊下の屋上などなど。私は藤棚か北校舎の屋上。いずれも風の通る場所を定位置にしている。通りかかったB編成の練習教室からは、彼らの演奏が聞こえる。

 

「ホルン、かき消されないで」

「「「はい」」」

「クラリネットは周りの音をよく聞く」

「「「はい!」」」

 

 前で指揮棒を振るっているのは久石さん。彼女は元々A編成でもおかしくない実力者であり、事実府大会には出場している。真由先輩がいるのと、チューバが四人でないと厳しい割を食ってB編成になっているだけで、実力はB編成の中でも群を抜いていた。それ故に、比較的余裕があるため指導役に回っている。

 

 前までは私が担っている部分が多かったのだが、全国大会も間近ということで彼女が自分から交代を申し出てくれた。随分回りくどい上に分かりにくい言い方だったけれど、それでも私の負担を少しでも減らし、万全の状態としたうえで、彼女の崇敬する黄前先輩の夢を叶えんとしているのだろう。少しだけ廊下でその指導を聞いているけれど、特段問題ないように思える。

 

 そして、今回の公開オーディションはB編成の生徒に火をつけた。一番大きかったのは、高坂先輩を破って秋子先輩がソリになったこと。それなりの経験しかなく、本格的に取り組み始めたのは高校に入ってからという秋子先輩が、血縁・環境・経験・才能がトップクラスの高坂先輩に勝ったという事実が、自分も努力すれば或いは、という風に彼らの奮起する材料となっている。秋子先輩の三年間は、燻っていたB編成の子たちにとって間違いなく希望の星だった。

 

 屋上には風が吹いている。太陽はまだ眩しいけれど、すっかり風は涼しくなってきた。

 

「涼音ちゃん」 

「うわぁ!」

 

 誰もいないと思って黄昏ようとしていたら、後ろから声をかけられる。どうやらドアを開けた時には見えない場所に寄りかかっていたらしい。

 

「な、なんだ真由先輩ですか、びっくりさせないでください」

「ごめんね、そんなに驚くとは思って無くて」

 

 どうもジャンプスケアは苦手だ。どっきりとかでも心臓が止まりそうになる。

 

「どうしたんです、こんなところへ。ここ、あんまり人気のないスポットなのに。風がよく通るんですが、そのせいでうるさい時もあるので。私はそれくらいの方がちょうどいいと思うんですけどね……。なので、あんまりここでの練習はお勧めしないですよ」

「練習というよりは、少し涼音ちゃんとお話ししようと思って」

「そうでしたか。それなら、そうしましょう」

 

 私はフルートのケースを屋上の床に置く。高い金網フェンスの向こうには、グラウンドが広がっている。その更に向こうには、街が見えた。私たちの住んでいる街の景色が遠くへと続いている。

 

「今日の朝練で、部長と吹いていらっしゃいましたよね。何かの曲を」

「聞いてたんだ」

「えぇ、ここにいるとよく聞こえます。色んな音が風に乗って私のところへ届くみたいに。だからここは好きなんです。北宇治で奏でられる音が全部集まるみたいに感じられるので。吹奏楽部の音だけじゃなくて、軽音部や他の運動部の出す音、誰かの声まで聞こえてきそうな感じがする。全部の音が混じった涼しい風が私は好きですから」

「ふふ、涼音ちゃんらしいね」

「そうですか? 自分らしさというのは、どうしても自分ではよく分からないもので……。話を戻すと、あの曲はてっきり部長の専売特許とばかり思ってたんですが」

「久美子ちゃんの、お世話になった先輩のお父さんが作った曲なんだって。今まで誰にも教えてなかったって言ってた」

 

 それを真由先輩と、そして多分アレは久石さんにも教えた。その事の持つ意味は大きいだろう。部長にとって、あの曲は魂みたいなものだったはずだ。ここで過ごした思い出や、多くの記憶を込めた魂の籠った曲。それを同期や後輩に教えるのは、魂を開示するのに等しい。そこにあるのは、大きな信頼と強い想いだろう。

 

「少しは、久美子ちゃんの心に触れられた気がしたんだ。だから、嬉しかった」

「それは、良かったです」

「涼音ちゃんのおかげだよ」

「私は何も。ただ、私の信じる事をしただけです」

「でも、それでも私は助けられた。やっと少しだけ、前に進めた気がしたの」

 

 真由先輩は静かに腰を下ろした。私も、黙ってその隣に腰を下ろす。トランペットの高らかな音が、クラリネットの淑やかな音が、私たちの耳へと届く。そこに混じるのは軽音部のギターとドラム。運動部の掛け声。それもまた、私たちの一年を彩る音。吹奏楽団体ではなく吹奏楽部である以上、私たちの一年の音には私たちを取り巻く音だってきっと含まれている。

 

「私ね、友達が吹奏楽、辞めちゃったんだ。私のせいで」

「……それは、清良で?」

「うん。いつもコンクールメンバーに選ばれるのが私で。その子はいいって言ってくれてたんだけど……でも結局、辞めちゃった」

「お友達、だったんですね。その方と」

「うん。私は、そう思ってたんだけどね。ずっと親友だって、そうなれるって、信じてた。クラスも同じで、一年生の時から仲良くて。このままきっと三年生になって、卒業して。そう思ってたんだけど」

 

 それは叶わない夢だった、と真由先輩は言った。転校続きの人生の中で、何度も「ずっと友達」なんてやり取りはしただろう。けれど、このインターネットが発達した現代でも、離れた友人との関係性は中々続かない。その言葉に何度も裏切られて、それでも最後に信じられるかもしれないと思った相手は、自分のせいで自分から離れた。それは、彼女の心を引き裂くのに十分だったのかもしれない。

 

「それが、去年の秋。清良での最後の大会前のオーディションがあってそこで。もしかしたら、まだやり直せたのかもしれないけど、私は傷つけるのも傷つくのも怖いまま、そのままになっちゃってた」

「……」

「もう何も分からなくなって、それで全国大会に出て。そこで聞いたんだ、北宇治の演奏を。あの『リズと青い鳥』を。鳥と人とは同じ世界では生きていけないはずなのに、悲しさよりも希望がそこにあって。別れの物語なんかじゃない、希望と未来へ進む、二人の物語がそこにあった。すれ違いも何もかも全部含みながら、前へと進めた人たちのストーリーだった。最後の第四楽章のファンファーレが鳴り終わった時、私、泣いてたんだよね。何が何だか分からないくらい、ずっと泣いてた」

 

 これは愛と希望の物語だ。夢を信じて、走り続ける愚かしくも気高い人の物語だ。兄さんはそう言っていた。その先に何が待っているかなんて誰にも分からない。傷つくことも、傷つけることもある。それでも歩き出さないと何も出来ない。そう信じながら、いばらの道を歩んだ人たちにしか出せない演奏だった。

 

 絶望の末に一度部を去った希美先輩。その希美先輩への想いを募らせ続けたみぞれ先輩。苦慮の中でもがき続けた優子先輩や夏紀先輩。そしてもう一度孤独な闘いでもやる事を決めた兄さん。そういう人たちが織りなす物語が、当時の真由先輩に刺さったのだろう。

 

「フルートとオーボエの掛け合いが、羨ましかった。あの二人は明確に違う道を進んでるのに、すれ違ってるのに、ぶつかり合ったのに、それでも手を取り合えてた。私が、なりたかったのになれなかった姿があって。だから、京都に転校するならここに来ようと思ったんだ」

 

 真由先輩と最初に出会った日の言葉を思い出す。あの時の彼女はこう言っていた。「みんな生き生きしてて、音楽を楽しんで……。だから、去年のリズと青い鳥も、凄く感動したんだ。あんなに希望に満ち溢れた演奏ができるんだって」と。それは嘘でも偽りでもなく、本当に思いのままを告げたのだろう。その裏にあった感情が、そう単純なモノでは無かったというだけの話だ。

 

「どうでしたか、北宇治は」

「そうだね……。色々あったけど、でも私はここへ来れてよかったと思ってる。傷つけないように、っていう想いが誰かを傷つけていることもあるとか、オーディションに挑む覚悟とか、そういう色々な事を学べたかな。それに、自分の気持ちに素直になる事も」

「それならば、良かったと思います。ここでの日々が、真由先輩にとって意味のあるモノだったのなら、私も嬉しいですから」

「意味は沢山あったよ。あなたと一緒に吹きたいって、ここでちゃんと言ってくれる人に出会えた。私がいても良い、いる意味はあるって、ちゃんと思えた」

 

 多分、それは夏合宿の時の話だろう。あの時の私は、そんな過去を彼女が持っているなんて知りもしなかった。ただ純粋に、仲間を守ることが正しい事だと信じて言ったつもりだったのだ。彼女の心に、私の言葉がそこまで大きな意味をなしているなんて、考えたことも無かった。

 

 もしかしたら、私に感謝を告げられた時の希美先輩もそういう気持ちだったのかもしれない。大したことをしたつもりは無くて、ただ自分の信じる事をしただけ。感謝されるのは嬉しいけれど、自分がした行いがそこまでだったのかと少し驚いてしまう、そんな気持ち。もしそうだったのなら、私でも少しは希美先輩に近付けたということになるかもしれない。

 

 真由先輩には後悔があった。慚愧があった。そして、ここへ来た。もしかしたら、最後に信じられる何かを探していたのかもしれない。あの『リズと青い鳥』を演奏できた私達なら、諦めかけていた希望をもう一度手に入れる事が出来るかもしれないと信じて。さようならばかりだった人生を、終わりにするために。また明日、を手に入れるために。

 

 真由先輩の過去はもう戻らない。失った時間は取り戻せないし、やり直す事なんて出来ない。もう何も変えられないのかもしれない。そこまで考えて違和感があった。本当に、何も変わらないのだろうか。過去は動かない。現在はそのまま。でも、未来はまだ分からないはずだ。兄さんは『リズと青い鳥』を愛と希望の物語、気高い物語と定義した。けれどそれだけでは無く、もう一つ。「また出会うための物語」だとも言っていた。

 

「……真由先輩、まだ、未練はありますか」

「未練?」

「清良に、あの頃に、未練はありますか。やり直したいと、そういう想いは少しでもありますか」

「それは……」

 

 その沈黙が何よりの答えだった。北宇治での日々に価値を感じていても、ふとどこかで後悔の芽が疼く。それが多分、今の真由先輩の心理状態なのだろう。過去は変えられないし、後悔の種を取り除くことは出来ない。けれど、そこから咲く花も後悔の色をしているかは、まだ分からない。

 

「すみません、変な事を聞きました。……秋子先輩とのコンビネーションはどうですか?」

「慣れてきたかな。流石桜地先生の教え子だね。高坂さんも凄かったけど、十分音大とかでも戦えると思う」

「本人にその意思はないのを、兄さんも残念がってました。まぁ多分一番無念に思ってるのは高坂先輩だとは思いますけど。真由先輩は、将来どうされるんです?」

「まだ全然決まってないかなぁ。文系か理系かなら文系ってことくらいしか分からないし」

「職に困ったらご相談くださいね」

「じゃあ、その時はお言葉に甘えて。後輩にお願いするのはちょっと情けない先輩だけどね」

 

 穏やかに真由先輩は笑った。少しだけ、憑き物が落ちたような気がする。きっと彼女を蝕んできた色んな後悔とかが少しずつ剥がれ落ちて、今最後に残ったのがそのかつての友人についてなのだろう。だからこそ、より鮮明に彼女の中に存在している。遠くからユーフォの音が聞こえてきた。アレは多分、黄前先輩の音。その音に、真由先輩は立ちあがる。

 

「そろそろ行かないと。あんまりお喋りばっかりしてたら高坂さんに怒られちゃう」

「それは困りますね」

「取り敢えずお話ししたいことは出来たと思う。お礼というか、なんて言うのが正しいのかは分からないけど、前を向けたってことはちゃんと伝えたかった。あの時、選んでくれてありがとう。最後まで、涼音ちゃんが応援し続けてくれたことは、とっても嬉しかった」

「私は私の信じる事をしただけです。でも、それがあなたの力になったなら良かった」

「そうだ。写真、撮ってもいい?」

「私のですか? 勿論構わないですけど」

「ありがとう。じゃあ、はい」

 

 彼女のカメラからシャッター音がする。私が屋上で風に吹かれている写真にどういう需要があるのかは分からないけれど、彼女にとって意味のある一枚になったのならそれで構わなかった。

 

「私の義姉になる人も写真が趣味なんですよ」

「そうなの? 何度もお話してくれる先輩さんだよね。大会の時いつも桜地先生と一緒にいる」

「そうです。今度、紹介しますね」

「楽しみにしてるよ」

 

 真由先輩は手を振ると、屋上を後にした。私はその背中を見送って、携帯を取り出す。時刻は午後。ヨーロッパは丁度早朝だ。飛行機は既に到着して、空港に停めていた車で家に帰り始めたというLINEが一時間前に来ている。多分、今頃はまだ運転中かそろそろ家に着いた頃だろう。繋がるかは分からなかったけれど、取り敢えず電話をかける。数コールの後、応答があった。

 

「ごめん、兄さん。運転中だった?」

『ちょうど今休憩してた。どうした?』

「ちょっと、お願いがあるんだけど。日本に来て欲しいっていう案件じゃないんだけど、頼みたいことがあって」

『それは、凄く大事な事?』

「うん、大事な事」

『そう。じゃあ、話して』

 

 私は用件を伝える。兄さんはそれを黙って聞いた後、静かに了承の返事をした。これがどういう風に作用するかは分からないし、本当に上手くいくのかも分からない。けれど、何もしないよりはいいはずだ。後の手腕は兄さんに期待するしかないのが歯がゆい。それでも、余計なお世話かもしれないけれど、もし少しでも誰かの後悔を減らせるのなら。

 

 『一年の詩』は後悔も絶望も経て、それでも前に進む曲。『リズと青い鳥』は別れや愛を経て、それでもまた出会うための物語。最後にはどちらも希望が待っている。人生がそんなバラ色ではないことくらい、この十七年で思い知っていた。それでも、希望を求めて足掻けるのならば、そうするべきだとも知っている。

 

 真由先輩と過去の友人がどういう繋がりだったのかは分からない。けれど、音楽だけで繋がっていたわけではないということくらいは、理解できた。高坂先輩と秋子先輩がそうであるように、或いは希美先輩とみぞれ先輩がそうであるように、きっと人間の繋がりはもっと複合的なはずなのだから。

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