夜のホテルは静まり返っている。興奮の醒めない部員たちも、夜になれば静かに眠りの世界へと入って行った。微妙に眠れないまま、私は自販機のコーナーへと歩く。私の足音以外に何もない静寂な世界。ほの暗い蛍光灯が廊下を照らしている。去年のこの時間帯、私は告白した。正直タイミングは全然良くないと思うのだけれど、それでもこれを逃してはダメだと思って。
あれから随分と時間が経ったような気がして、それでもまだ一年しか経っていない。自動販売機の白い光がぼぅっと私を照らした。何を飲みたいのかよく考えないで来たなぁと思いながら思案する。
「桜地さん」
「高坂先輩?」
後ろから声をかけられた。振り返れば、長い黒髪を垂らした高坂先輩が立っている。多分、彼女も眠れなかったのだろう。
「何か、飲む?」
「いいんですか? じゃあ……これで」
「分かった。はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
温かい紅茶のぬくもりが手に広がった。高坂先輩は冷たい物を選んでいる。彼女の白い光に照らされた横顔は、普段の何倍も緊張を孕んでいるような気がした。その首筋には銀色の光が見える。それは兄さんが彼女に渡したというロザリオの銀のチェーンだった。彼女は静かにベンチに座りながら、その十字架を触っている。
「桜地さん」
「はい」
私も先輩の隣に座った。彼女と、こうして一対一で話す機会はそこまで多くない気がする。練習の話なら良くするけれど、それ以外の内容での話をすることはほとんどなかった。ある意味で、一番ビジネスパートナー的な関係性だったのかもしれない。
「ありがとう」
「……はい?」
「これまで、色々助けてくれて」
「いえ、あの……私はあまり大したことは出来ませんでした。本当は高坂先輩を支えないといけない立場だったのにも拘わらず、先輩を率先して糾弾してしまいましたし。間違っていたとは思いませんが、もっと上手いやり方もあったと後悔しています」
「後悔、ね」
彼女はそう呟くと一口だけジュースを飲んだ。ごくり、とその喉が鳴る。
「別に、後悔しなくて良い。あなたはあなたのやるべきと信じたことをして、それを貫き通した。私があなたの立場だったら、同じように自分の信じたことをするだろうから。自分の信じたモノ、自分の信条としている物を貫くことは、間違いじゃない。私も私の信じたことをしたけれど、それが今回は間違いだっただけ。でも私だって、行いは間違いでも想いだけは間違いだとは思わないから」
「そう、ですね。自分の信じたモノを裏切れない。私たちは、そういう存在なのかもしれません」
私は自分を裏切れず、信じたモノに従って高坂先輩を糾弾した。そして高坂先輩は自分の音楽を裏切れず、公開オーディションで部長を指名しなかった。それは本質的には同じ想いゆえの行動なのかもしれない。だとすれば、頑固者の集まりというしかないだろう。けれどそれは妥協しないという事もであり、それ故に私たちはドラムメジャーとして活動できているとも言えるだろう。
「桜地さんは、音楽の道には進まないの?」
「はい」
「そう。秋子や久美子と同じなのね。私と同じ夢を見てくれるかもしれない、見て欲しいと思った人は皆違う道に進んでいく。結局、桜地先生の下には私しか残らなかった。その意地があったから、今回のオーディションでは勝ちたかった」
「……」
「また一からやり直しね。まぁそれは私の問題だから別に良いけど、とにかく桜地さんにはちゃんとお礼をしておきたかった。あの時、あそこでちゃんと引き留めてくれなかったら、もしかしたら戻れなくなってたかもしれない。全部失って、ここでこうして話すことも出来なかったかもしれない」
ため息を吐きながら、彼女は言った。今私の前に曝け出されているのは、高坂麗奈という人間の一番弱い部分なのかもしれない。彼女は高校生離れをした上手さを持っているけれど、必ずしもそれは人間としての強さには繋がらない。高坂麗奈だって悩んで苦しんでいる。そんな事は分かっている。いや分かっていた気になっていただけなのかもしれない。思えば、私たちの間にも対話が足りなかった。もし、もっとちゃんと話せていたのなら。そう思ってしまう。
「私が切り捨てようとしたものを、あなたがちゃんと拾ってくれた。だから北宇治はちゃんとここにいる。全国大会に挑むために、ここへ来ている」
「私は、高坂先輩の事がちょっと憎かったです」
「……」
「兄さんは、色々あって吹奏楽部をやめていました。それを引きずり戻す提案をしたのは滝先生ですけれど、それを受諾するきっかけになったのは、あなたでしたから。正直戻らない方がいいと思っていました。当時の北宇治は知っての通りの環境でしたし、傷つくだけだと思ったので。同じ学校に通うようになっても、妹である私や彼女である希美先輩より、あなたに注力しているように見えた。あなたに期待してるように見えた。逆恨みというか、兄離れ出来ていない妹の僻みでしかないですが。だからドラムメジャーに先輩が指名された時も、複雑な感情でした」
彼女は自分を見せた。ならば、私だって取り繕っているのは良くない。そう考えて、私は今彼女に自分の感情の奥底にあったモノを告げている。
「……ごめんなさい」
「いえ、別に謝らなくても良いです。全部過去形の話なので。私は兄さんの妹ですけど、あなたや秋子先輩のようには、音楽的な意味での後継者にはなり得なかった。それをこの前の公開オーディションでやっと心の底から理解しました。私はあの人に、あんな歓喜の顔をさせられない」
多分、フルートを始めることにした時からそういう運命だったのだろう。高坂先輩が兄さんの身内にはなれないように、私も兄さんの後継者にはなれない。そんな単純な話だ。それに気付くのに、こんなにも時間がかかってしまった。私は怖かったんだと思う。私の、残された家族の中に、私以外の人間が入り込んでくるのは。それも希美先輩とは違って全く知らなかったはずの存在が。まるで、自分の居場所が奪われるような気がしたから。
「思い返せば、北宇治の物語は兄さんとあなたが出会ったことで始まったような気がします。出会った順番で言えば、兄さんと滝先生が出会った方が先ですけれど、多分それだけでは足りなかったのだと思います。そして、その先にまわりまわって私の今の幸福がある」
もし北宇治が今の形になっていなかったら、私はきっとここへは来なかっただろう。兄さんは吹部に戻らず、希美先輩とも再び歩み出すことなど無く。もしかしたら兄さんがいなくとも北宇治は強くなっていたかもしれない。だとしても、私の幸福は兄さんのおかげだろう。そのきっかけを作ったのも、高坂先輩だった。
「だから、こちらこそありがとうございました。高坂先輩に出会えたことで、兄さんの音楽家人生はまた前に進みだせたと思います」
「もしそうであるなら、嬉しい」
「そこは兄さんに聞いてください。でも、私は傍から見ていてそう思いました」
高坂先輩はきっと、私と同じ背中を見上げてきた。一番にはなれず、目の前には桜地凛音という大きな壁がある。そんな状態を三年間、続けてきたのだ。私も似たような人生だった気がする。多分この先の人生もきっとそうなのだろう。ただ一つ違うのは、高坂先輩は兄さんを超える事が出来るという事。
ジジ、と電灯の音がする。場には再び静けさが戻った。何も言わずに、私たちは視線も合わせないまま前を向いて薄い暗闇を見ている。
「全国大会金賞ってどんな感じ?」
「どんな、と言われても。そうですね……キラキラしてますよ。凄く輝いていて」
「そう。私は、獲ったこと無いから」
「明日獲ればいいじゃないですか。そのために、ここまで来たんですから」
高坂先輩は小さく頷いた。思えば、ソロコンはともかく普通の大会での金賞経験が彼女には無いままここまで来ている。そこから、私たちはおやすみなさいと告げ合って別れた。それ以外に言葉はなかったけれど、それで十分だった。やりたいことも欲しいモノも、今は同じだったから。
そして全国大会の日は、やって来た。流れるように過ぎた月日の帰結を迎える日が、やって来たのだ。名古屋の地に集結したのは、日本全国から選ばれた精鋭十数校。その中の一つに、私たち北宇治高校が存在している。
兄さんからは自分らしく行けというメッセージが来ている。それと、頼んでいたことは上手くいったらしい。希美先輩からはファイトというメッセージ、純一さんからも頑張ってというスタンプが送られている。三人にはこれまで支えられてきた。その恩返しを出来るように精一杯やるぞという闘志が湧いて来る。揚羽はテンション上げてこうというメッセージ。随分と彼女らしいと思う。
程よい緊張感が私たちの中に流れていた。今日の日のために全力を注いできたのだ。今度こそ、金賞を獲る。これまでここで紡がれてきた多くの想いを背負い、最後の演奏を行うのだ。その前に、そこに一つ付加価値を加えようと私は立ち上がる。頑張るのは当然だけれど、より士気を高めるにはこういうのも有効だと理解している。
「皆さん、お食事中に失礼します。本日十月二十二日はこちらの義井さんの誕生日なんです」
いきなり言い始めた私に、当の義井さん本人はビックリしつつ顔が赤くなっている。全部員の注目が集まっていることに照れているようだ。親しい人しか知らない話ではあるけれど、今日がどういう運命なのか彼女の誕生日なので、折角ならこれまで一年生の学年リーダーとして頑張っていた彼女への称賛があっても良いと思う。
「彼女の十六の誕生日に、全国大会金賞を送りましょう!」
「「「オー!」」」
拍手と共に威勢の良い声が響く。ダシにされた本人は凄く恥ずかしそうだが、同時にちょっと嬉しそうな顔をしている。釜屋さんに背中をバシバシ叩かれていた。こういう付加価値が足されると士気は上がるし、同時に気を張りつめすぎている人の緊張を少し緩める効果がある。そういう小さな部分でコンディションが良くなるのなら、それに越したことはない。それが分かっているから、部長も賛同してくれたのだろう。
北宇治の出番は三番。朝は少し早めに移動して、会場でスタンバイをする。会場の外で整列している時に、兄さんがやって来た。昨日の夜に家を出て移動してきたと聞いている。夜中に優子先輩たちを拾ってから高速道路を飛ばしてきたらしい。
「先生、お疲れ様です」
「お疲れ様です。桜地君も、わざわざありがとうございます」
「いえいえ、生徒の晴れ舞台ですから。これを見ずして何とするという感じですよ」
「他の方は?」
「優子たちはお手洗いです。まぁ皆とは終わってから合流で良いでしょう」
兄さんはスーツを着てびしっと決めている。一年生の女子生徒の中にはひそひそと黄色い声をあげている子もいた。他校の生徒の視線も滝先生と兄さんの方へチラチラと飛んでいる。
「では皆さん、移動します」
先生に連れられて、私たちは控室に移動する。それが最後の音出し機会。それが終われば、すぐに演奏が始まる。これまで費やしてきた時間に対し、演奏時間は僅か十二分。短いその時間に、私たちは全てを賭けるのだ。
控室では、最後の調整として音を出す。そして冒頭部分だけを練習した。先生は満足げに頷いている。難しい曲であろうと簡単な曲であろうと、冒頭が一番肝要というのが先生の持論だった。いつも通り、変わらぬ行動をする。そのルーティン化が普段の実力発揮に、一番役立つのだ。
「皆さん、準備はよろしいですね。これからの数分間、あのステージは北宇治のために用意された舞台になります。皆さんは今日という物語の主役です。今まで積み重ねてきたモノを信じましょう」
「「「はい!」」」
私たちの返事を聞いた先生は一歩下がり、そして幹部の三人が前に出た。全員を見渡して、部長が口を開く。その表情は、一番前故によく見えた。
「私は北宇治が好きで、滝先生が好きで、皆が好きです。そんな皆と、金賞を獲りたい。あとは本番だけ、悔いの無いように……やっぱり最後はドラムメジャーから」
部長は言葉を託された高坂先輩は、強く頷いて言葉を紡ぐ。
「一昨年、そして去年の今日、私たち三年生はこの場所にいました。今と同じように音出しをして、通し練習をして、あの扉をくぐり、ステージに立ちました。皆には色々な事を求めました。厳しい先輩であったことは認めます。でもそれは、今日という日を後悔したくなかったからです。納得したかったからです。これまで一緒に演奏した先輩たち、ステージに立てないメンバー、支え続けてくれた先生方、その全ての想いと一緒に、今日私たちは演奏します。演奏は一度きり。そして、三年生にとっては最後の演奏です。これまでの全てをぶつけてください。金賞獲りましょう!」
「それではご唱和ください! 北宇治ファイト―!」
「「「オー!」」」
拳を天に突き上げる。今日は勝てる。不思議と、そんな気がした。舞台袖は、毎年変わらない暗さ。相手の顔だけが見えるその少し埃っぽい空間で、私たちは最後の時間を過ごしている。ほんの数十秒後に本番が始まってしまう。終わらないでほしい。この緊張と不安に満ちた時間であっても終わらないでほしい。そんな事を思った。
「よし、みんな大丈夫そうだね」
沙里先輩は集まったフルートパートの前で頷いている。今日が、沙里先輩のパートリーダーとしての最後の仕事になるのだろう。それがどうしようもなく悲しい。
「これまでよく私についてきてくれました。本当にありがとう。あと少しだけ、この一瞬だけ力を貸してね。金賞獲って帰ろう!」
「「「はい」」」
「良い返事。じゃあ、最後はエース、お願いします」
「はい」
ご指名に応え、私は一歩前に踏み出す。託された、受け継いだエースの席。その誇りにかけて、私は今日、自分史上最高の演奏をする。そう固く誓っていた。
「優雅に華麗に大胆に、我らが至高のパートリーダーに栄冠を!」
「「「オー!」」」
私なの? と若干困惑している沙里先輩以外の全員が力強く掛け声を上げた。案内係に指示されて、皆歩き出す。暗幕の向こうの光の中へ、私たちは歩を進めた。
「涼音ちゃん」
なんだか府大会の前にもこんな事があったなぁと思いながら、私は振り向く。あの時は光と影の境界線にいたから見えなかった真由先輩の顔が、今日は鮮明に見える。その穏やかな雰囲気は変わらずに、その目には強い意志を宿して、彼女はそこに立っている。
「ここまで、来たね」
「はい。来ました」
「ここまで来れて、良かった。今年一年、色々あったけど……でも涼音ちゃんと一緒に部活が出来て良かったよ」
「私も良かったです。真由先輩、後悔は無いですか? 北宇治に来たことに」
「うん。無いよ。私はここに来れて良かった。ここで、一年間を過ごせて、良かった」
「それなら……それなら嬉しいです」
府大会の時、私は真由先輩に聞けなかった。あの時は聞かない方がいいと思ったのだ。そして、いつか聞くべき時が来ると思っていた。その時が多分今だったのだと思う。彼女にとって意味のある一年になったのなら、それ以上の喜びはない。多くを見失っていた彼女に希望を示したかつての演奏のように、何かを届けられたのなら私のいた意味はあったのだと思う。
「真由先輩」
「うん」
「清良の皆さんは観客席にいらっしゃるようですね」
「そうだね」
「真由先輩の後悔も、今日はいらしているそうです」
彼女の目が大きく見開かれた。
「お節介だとは思いましたが、兄さんに頼んでみました」
「そっか……そうなんだね。それなら、今まで以上に全力でやらないと」
最後に欠けていた何かのピースがハマったような音がして。そして真由先輩の纏っていた雰囲気が少し変化する。今まで以上に覚悟を決めた顔になった。多分、これが彼女の全力だ。後悔も希望も知っているのは彼女とて同じ。一年の詩を奏でるのに、これ以上ない人材だろう。
「行きましょう、この一年の最後を飾る舞台に」
光の下へと歩き出す。その熱と眩さを燦燦と浴びながら、私たちは席に着く。椅子に座り、譜面台に楽譜を置いた。沙里先輩やパートのメンバーのメッセージ、そして希美先輩や優子先輩たちのメッセージも端に書いてある。兄さんの達筆な筆記体は異彩を放っていた。私の心臓の鼓動はうるさいくらいに鳴っている。
そして指揮棒が振り下ろされた。
「お久しぶりです。お元気そうで何より」
朝早くからではあるけれど、新幹線でやって来た先輩たち三人のうちの一人と、先生と会う間に私は相対していた。元々小笠原先輩と香織先輩は来る気満々という様相だったけれど、残りもう一人いない事にはどうにも話が進まないだろうと思い、無理矢理呼びつけたのである。
「白々しい声で言うなぁ。恩を返せって脅してきたのはそっちなのに」
「それでもそんな無理くりな要求に応じてきてくださった辺り、気にしてはいたんじゃないですかね」
にっこりと笑って私は返答する。はぁ仕方ないとため息をついている田中先輩を無理矢理呼びつけたのは確かに私の所業であった。これまで一年間黄前さんは必死に部長職に取り組んできた。その末に待っていたのは、自分がソリになれないという結末。その結末に関して、別に不満があるわけではない。
けれど、これまでの彼女の努力に対して、何かしら報われても良いんじゃないかと思った。その時考えついたのがこの案だった。彼女は田中先輩の背中を追いかけて走って来たのだ。よく吹いている曲も、その先輩から貰ったモノだという。ならば、集大成を見せる事が黄前さんにとっての三年間のピリオドには相応しいだろうと考えた。
そして、そのアイデアを実現させるべく田中先輩に対して招待状を送りつけ、香織先輩には昔の恩を返したいなら、自分の後輩の晴れ舞台を見に来いと伝えてもらうよう頼んでおいたのだ。恩着せがましいというか、普通に恩の押し付けではあるのだが、その論理でも香織先輩ならどうにか説得してくれるだろうと思っていた。そして、見事にその思惑は成功したらしい。
「それに、別に脅してはいないですけどね」
「貸し借りなしって話になってた気がするんだけどなぁ〜」
「そうでしたっけ? 最近記憶力がどうも悪くて」
勿論ちゃんと覚えてはいるけれど、忘れたフリをした。あくまで香織先輩に恩返ししないと、という論理で話してもらったけれど、後ろに誰がいるのかはバレてたようだ。まぁ、無理もない話だろう。隠すつもりも無かったのだし。
「彼女には会いましたか?」
「後でいいかなって」
「そうですか。まぁ、折角来たんです。見てあげてくださいよ、彼女の成長を。随分と、大人になりました。まだまだ子供っぽいところもありますけれど、それでも前を向いて歩き続けています」
「知ってるよ。前にちょっとだけ、話したから」
二人が密接な時間を過ごしたのは僅か一年だ。けれど、時間の長さが関係の濃さとイコールなわけでもない。二人の間には二人にしか分からない世界があるのだろう。知っている、と語る先輩の横顔を見てそう感じた。
「では、ごゆっくり。私は連れを待たせているので」
「はいはい。君も、ちゃんと幸せになりなよ」
「言われなくても」
ハハハ、となんとも言えない笑いを浮かべて、私たちは別れる。久しぶりの対談は相変わらずの感覚を覚えさせられた。けれど、昔と何か違うことがあるとすれば、前よりは苦手意識を感じなかったということだろうか。お互いに立場も変わり、時間も経過した。先輩は失っていたものを少しずつ取り戻したのかもしれない。自分らしく生きる道、というものを。そしてそれは多分、私も同じなのだろう。
二年前のあの時何が出来たのか、私がいたことで何かを変えられたのか、ずっと疑問だったけれど。少しは意味があったのかもしれない。そう思えただけで、彼女を呼ぶべく手配した甲斐はあった。
田中先輩と分かれて、部員たちに挨拶する。秀塔大附属は午後なので、まだ会場に姿は見えない。どういう予定なのかは北条先生から聞いていた。部員たちが最後の音出し場所へ移動する前に、少しだけ話せる時間があった。希美は優子たちを引き連れて先に会場の席の方へ向かっている。滝野とも合流できたようだ。雫さんは静岡で仕事があり、ギリギリに滑り込む予定となっている。
トランペットパートの場所へ向かう。多くのパートを見てきたけれど、やはり私の一番の居場所はここだった。
「吉沢さん」
「はい」
「いけるね」
「全く問題ないです」
彼女は静かに答える。その姿に何ら異常は見受けられない。普段通りに、穏やかに。けれどその目の中には青い炎を灯している。そんないつもの彼女がそこにいる。マイペースに、自分のやり方を貫くことが出来る。それが彼女の最大の強みだった。だからこそ諦めることなく歩みを止めず、最後の最後で高坂さんを超える事が出来た。最初は手が届かなかった星を捕まえた。
「緊張してガクガクになってたらどうしようかと思った。とは言えよく考えてみれば、君は最初の大会から割と結構余裕があったね」
「懐かしいですね、最初の府大会。あれからもう大分時間が経ったような気もしますし、まだ自分はあの時間の中にいるような気もします。ちょっとは成長できたかなと思える部分もあって、でも変わってないなぁって自分で思う部分もあって。それでも一つ、あの頃とは違う感情もあります」
「それは?」
「今、凄く楽しみです。どんな演奏が出来るのか、自分の舞台に凄くワクワクしています」
「その高揚感は、突き抜けた人にしか味わえないモノだ。君がその感情を抱けるだけの人物になったことを、私は誇らしく思う」
彼女の目には爛々とした輝きがあった。彼女にはやっと来た晴れ舞台。人生最大級の大一番なのだ。これまで積み上げたものが、彼女にとって大きな自信と自負となっている。重圧にも屈しない、場の雰囲気にも飲まれない。その彼女本来の強さが、この場になっていよいよ本格的に発揮されている。
「その場や空気に流されないのは、君の強さだった。それを信じていきなさい。世界の誰も、まだ君の存在を知らない。その彼らに見せつけるんだ。君の生き様の全てを」
「もちろんです」
堂々と言う彼女に、私は頷く。
「そうだ、先輩。金賞獲れたら、何かご褒美ください」
「えぇ……」
随分と心臓が強いようだ。メンタルが強靭すぎる。このタイミングでこれを言えるのはもう才能だと思う。
「分かった分かった。焼肉でも寿司でも何でも奢ってあげるから。少なくとも三年生の分は」
「みんな~聞いた~?」
「「「はーい」」」
嵌められた、とは思ったがこれでやる気がさらに増してくれるのなら必要経費だろう。妹が呆れた顔をしているけれど、見なかったことにした。カードの限度額が大丈夫か後で確認しないといけない。空気感が緩んだが、軽く咳払いをしてもとに戻す。
「さて、高坂さん」
「はい」
「君が悔しくて死にそうと走り出した日から、三年の月日が経過した。そして高校生活最後の大会がやって来た。自分と向き合い続ける三年間の答えがもうすぐやって来る。頑張れとは言わない。頑張るのは、プロには当たり前。それに加えて、楽しんでくるように。そうやって楽しみながら演奏している者に、天使は微笑む」
「はいっ」
彼女の首には銀の十字架がある。何よりも音楽を楽しんでいた
「他の皆も同じ。緊張しているのは自分が頑張って来たからに他ならない。何も気負わない、というのは無理だろうけれど、前だけ向いて行きなさい。大丈夫、世界一が出来ると言ってるんだ。出来ないわけがない」
「「「はい!」」」
目を細めて彼らを見つめる。その瞳はどれも輝いている。世界中にある宝石をかき集めても、その眩さには敵わないだろう。先生が控室に移動する合図を出している。私はしばし、お別れの時だ。
「では、行ってらっしゃい。私は観客席で、君たちの演奏を聴かせてもらう。その未来に、幸いあれ」
これまでの二年間、私は舞台袖で全国大会を見てきた。教え子たちの集大成を見守って来た。その特等席には今年から立てない。それが少し悔しい。せめて、そのきらめきを観客席から目に焼き付けようと決めていた。
控室に進んでいく彼らの背中を見守る。特に三年生の背中を。随分と大人になったな、と思わされた。もし、何か一つ願いが叶うならば、彼らと一緒に大会に出てみたかった。小さな心残りを抱きながら、私は希美たちの待つ観客席へ向かう。彼らの夢が報われることを祈って。
「お待たせ」
私が観客席に戻ると、他の面子は既に揃っていた。滝野や加部も来ているけれど、バラバラにチケットを取ったので別の場所に座っている。先輩たちも同じだ。私がまとめてチケットを確保した五人分だけ横に並んでいる。みぞれはここでも淡々とした顔で座っていた。らしいと思う。優子と夏紀はソワソワしていて落ち着かない感じがある。そこの二人で行動が似ているのも、それらしかった。
「言いたい事、言えた?」
「問題ない。言うべき人には言えた」
「そっか。なら良かった」
希美は優しく微笑んでいる。
「あぁ、そうだ。長瀬さんたちも間に合ったみたい」
「それは良かった。あと、涼音の事、ありがとう。あの子が万全な状態で挑めるのは、希美のおかげだ」
「大したことはしてないよ」
本当になんでもないように、彼女は言う。その太陽のような優しさに、私たち兄妹は何度も助けられてきた。
『続いての演奏は、プログラム三番、関西代表、京都府立北宇治高等学校吹奏楽部の皆さんです』
アナウンスが流れ、観客の視線が一気に壇上へ注がれた。私たちも、ジッと前を見つめる。舞台袖から部員たちが歩いてきて、そして席に座る。その威風堂々とした立ち居振る舞いは、舞台袖で見るよりもずっと立派に見える。先生も指揮台に立った。
『課題曲Ⅰ、自由曲は戸川ヒデアキ作曲『一年の詩』、指揮は滝昇です』
破裂するような拍手が鳴り響く。妹の、弟子の、後輩たちの姿がよく見えた。良い席を取れたおかげで、彼らの表情まで手に取るようにわかる。研ぎ澄まされた刃のように、先生の指揮棒が振り下ろされた。
課題曲は何ら問題なく、全て予定通りに終了した。秀塔大も同じ課題曲だったので彼らの練習で培えたフィードバックを余すところなく使ったのだ。問題など起こるはずもない。
そして、自由曲が始まる。クラリネットの独奏を奏でるのは高久さん。静寂の中にひたひたと、春の音色が満ちていく。背後からはフルートとオーボエが寄り添うように音を紡いだ。木管楽器のアンサンブルは全く問題なく立ち上がる。冒頭部分は完璧だった。そこから一気にフォルテで奏されるトランペットのファンファーレとチューブラーベルの打ち鳴らし。春爛漫を歌うのはこの華やかさだ。
そして再び緩やかなのどかさ。春の日和のように温かく、オーボエとハープのソリが響く。剣崎さんはみぞれの後継者として、その演奏を一身に受けて勉強してきた。その成果はここで遺憾なく発揮している。そしてその後継には加千須さんがいる。オーボエの持つ独特かつ魅力的な音が、春風に揺れる花と新しい日々の始まりを予感させる。添えられたハープを奏でるのは北田さん。部によっては無いこともあるハープは極めれば挿入楽器として高い効果を発揮する。パーカッションはファッションと謳っていた彼女だが、ハープの座をしっかりと先代の大野から受け継げている。ファッションと考えれば唯一無二の楽器であるというのが上手くハマったようだ。
そして再度来る盛り上がりの中、トロンボーンが映える。福井さんのバストロはその低音を見事に演じ切っていた。彼女も元初心者からここまで這い上がっている。低音をカッコよく吹ききる事が彼女の目標だったが、そこから随分と進化して進んできた。全国大会からメンバーに滑り込んだ浅野君も良い腕をしている。葉加瀬さんを蹴落としたその実力は伊達ではない。
トランペットの号音と鮮やかなサックスアンサンブルでは牧さんが良い働きをしている。彼女も初心者からパートリーダーにまで駆け上がっている。斎藤先輩直伝の腕は磨きがかかっていた。内田さんも牧さんに請うた教えが活きている。貴水君も音に磨きがかかった。元々肺活量は大きかったが、その音を活かしながら丁寧にやるという課題をこなせている。吉沢さんにビシバシ鍛えられた成果だろう。
そしてクラリネットのアッチェレランドにより加速した曲は次の章へと向かう。ここでリズム感を崩すという心配を、この部にする必要はないだろう。その平均値の高さをこれでもかと言わんばかりに見せつけている。クラリネットのメンバーの成長曲線があるとすれば、それはずっと右肩上がりになっているはずだ。植田さんの演奏はより繊細に、芦田さんの演奏にはより自信がついて、平沼さんはより拘りを強く、高野さんの演奏はより丁寧に、井村さんはより大胆に。何度も何度もしつこいくらい積み重ねられてきた基礎がちゃんと効果を発揮している。端田さんの明るくシャープな音色も他と差別化出来ていた。
春。そこは全ての始まりだ。希美に手を引かれて吹部に入ったのも春。高坂さんに弟子入りを願われたのも春。先生の頼みを引き受けたのも春。多くの出会いがあって、新しい一歩を歩みだしてきた。今の三年生との出会いも、二年生との出会いも、全部春だ。そこで面談をして、彼らとの関係性を築いてきた。ここで演奏しているメンバーもそうでないメンバーも、全員と出会い、ゆっくりと、しかし確かに進んで行った。軋んだ音に苦しんだ一年目。再び回り出した歯車の中で孤独を感じた二年目。そして、最後こそはと歩を進めた三年目。全て、遠く、それでも鮮やかな思い出だった。
夏が始まる。鮮烈なファンファーレは夜空に輝く花火か、或いは夏の生命力そのものか。下降とともにテンションを落としたのちクラリネットによる流麗な主題歌の演奏。涼音が最強の後輩として後事を託した義井さんは流石の演奏。一年生でも群を抜いて上手い。北山君も涼音の腹心として活躍してきた腕は衰えず、進化を続けていた。バスクラの坂崎さんと松崎さんの二人もしっかり音を形作れている。上級生の貫禄を遺憾なく発揮できていた。
小気味いい刻みを伴ったそのテーマは、トランペットや木管高音群など次々と主役を移し替えていく。トランペットの旋律は一番目立っている。私としては実に鼻高々だ。最強と言っても差し支えない集団に育て上げてきた。その系譜はしっかり高坂さんと吉沢さんのおかげで繋がっている。小日向さんもかつて北中でそうだったような自信たっぷりの演奏をしている。華やかな展開の随所にトロンボーンやチューバなどによる合いの手が入って、曲を引き締めていく。塚本君の安定した上手さは彼の持っている強みだ。一瞬の旋律に気を抜かないでいる。赤松さんはフルートからの転向組だった。それも既に遠い昔、塚本君に負けず劣らぬ演奏をしている。
アップテンポの音楽は、その盛り上がりの末に調性を変ホ長調にまとめる。やがて全てを賭けたあの夏は終わり、やがて秋へと至る予感を感じさせながら曲は静かになっていった。鈴木美鈴さんのチューバが深く低く、秋の深まりへ進んでいく季節を描き出す。川島さんのコントラバスの重厚なサウンドは、終わり行く夏の最後の輝きであり、空に消える入道雲のようですらある。黄前さんの持つユーフォニアムのまろやかさは、かつての田中先輩を感じる。あの時の先輩に、もうとっくの昔に並んでいたのかもしれない。
夏。それは変化の時期だった。退部届を叩きつけた一年目の夏。サンライズフェスティバルを経て、公開オーディション。十字架を背負った末の府大会。希美との関係性を再スタートさせた二年目の夏。動き出した関係性が一つの区切りを迎えた三年目の夏。どの夏も思い出深い。決して良い思い出だけでは無いけれど、それもまた人生だ。悲劇と喜劇と歓喜の繰り返しをしながら、私たちの生涯は前へと進んでいく。みぞれと希美とを結びつけようとし、二年間も奮闘した。その末に完成に至ったリズと青い鳥は、他校の生徒の心すらも動かした。
一瞬の静寂。秋が訪れる。そして、世界は止まった。私の口角が上がるのと反比例するがごとく、会場中の時間が止まっていた。明確に分かる。手に取るように分かる。人は、本当に素晴らしいモノを目の前にした時、その呼吸を、瞬きを忘れる。鼓動すらうるさいと感じてしまう。秋、宿命の時。朗々と歌い上げられた吉沢さんの演奏が、この会場中をどんなド素人でもはっきりと分かるくらいに包み込んでいる。嘆き、苦痛、悲嘆、苦悩、嫉妬、絶望、怨嗟、屈辱、そして奮起。歩き続けてきた、歌い続けてきた、星に手を伸ばし続けた少女の叫びと祈り。それがこの名古屋の大地に響き渡っている。世界が塗り替えられて、彼女の色と物語に染まる。どこからか、こひゅっと喉を鳴らす声が聞こえた。或いはそれは、私の音だったのかもしれない。
寄り添うように奏でられた黒江さんの演奏。彼女もまた、きっと多くの後悔や苦しさと共に生きてきたのだろう。別れと出会いを恐らく一番知っているであろう彼女の演奏は、優しさの中に儚さと切なさを孕んで、吉沢さんの絶世の調べと手を取り合う。手がしびれる。身体中が震えたつ。これだ。これが音楽だ。彼女たちは痛みを知りながら、苦しさを知りながら、それでもまだ歌い続けようとしている。そこにあるのは絶望ではなく、一筋差し込む月光のような光。
月永君のコントラバスも、川島さんと並んで良い調べを奏でるようになった。牧さんと共にアルトサックスをやる細野さんも、このソリ二人が奏でる恐らく日本最高峰の演奏によくついてきている。去年、リズと青い鳥のソリには多くが置き去りにされていた。今年は少なくともそんな生徒はいない。それが北宇治のレベルの何よりの証明だろう。定期的に挟まれる山根さんのピッコロの高音がしっかり生きている。
秋の終わり。間もなくやって来る冬の訪れ。それを知らせるように、ゆっくりと消えゆく音たち。最後に散る葉を示すがごとく、瀧川君と鈴木君のサックスの響きが会場に満ちた。遠藤君のバリトンサックスもちゃんと存在感を示せている。そして秋は終わり、最後まで世界を惹きつけ続けた吉沢さんの演奏が、もっと聞いていたという欲望を私たちに与えながら静かに消えていく。
秋。それは私たちにとっては終わりの時期。一年間を注ぎ込んだ大会の終わり。一年目には全国大会など遠い彼方の何かであった。二年目には、奇跡の積み重ねの末に至れた舞台だった。三年目は綱渡りの末に、そして私にとっては是が非でも取りたい大会だった。それでも敗れ続け、四年目の今に至っている。悔しい思い出が多いけれど、それでも部員たちは悔いなく、楽しかったと言って会場を去った。それだけは、私の救いであり、誇りだ。
冬、全ての終焉が訪れる。第三楽章の余韻を受け継いだクラリネットやフルート、ファゴットといった木管楽器群が深々と降る雪の如く演奏する。彩を加えるのはハープと前田蒼太君の奏でるグロッケンシュピール。釜屋つばめさんの出すマリンバの軽快ながらも穏やかな音は、キラキラと舞う雪の粉のよう。ファゴットの兜谷さんと籠手山さんが艶めいた音を出す。ファゴットの持つ色気も、随分と出せるようになった。
チューバの重厚なサウンドは、静まり返った冬の持つ独特な重さ。加藤さんの演奏が光っている。三年間諦めずに続けてきたいぶし銀。銀世界を表現するのにはピッタリな人物かもしれない。鈴木さつきさんと釜屋すずめさんの音がある事で、チューバのバランスはしっかりと保たれている。ティンパニの林さんの作るリズムも世界観を構築するのに役立っていた。
その途上で新たな予感を告げる鐘の音。ここは去年の第四楽章を大いに参考にしたと言っていた。滝野さんと浅倉さんの3rdトランペットは流されず調べを形成できている。滝野に追いつきたいと思って研鑽を積んできた滝野さん。私の一番弟子たる加部が腕によりをかけて鍛えた子だ。その演奏に瑕疵は無い。高坂さんを憧れと慕う浅倉さんも同様に。私の弟子に伝えた技量は、後継者にちゃんと伝わっている。
前田颯介君のシンバルが絶妙なアクセントを加えつつ、曲はフィナーレに向かって畳まれていく。堺さんのバスドラムの響きが全体を引き締める。音楽の趣味が合った彼女とも結構長い付き合いだ。交流は続いているので、部活とは関係ないところで交友関係の続いている後輩の一人となっている。その彼女と共に関係性の長い井上さんのスネアドラムのサウンドもしっかり届いている。どの楽器にしてもコンスタントに完璧なリズムを奏でるのが彼女の上手さの所以だった。
一糸乱れぬホルン隊のサウンド。森本さん率いるホルン隊はその音がまるで一人が奏でているような音にすら聞こえてくる。それでいて音量は四人分だ。瞳さんも随分と成長した。ララ聞いちゃいましたで知られたゴシップ女王もきりっとした顔で演奏している。屋敷さんと三木さんの南中コンビも涼音にバシバシ鍛えられた成果を見せつけている。四人でこの演奏。全国でも類を見ないレベルに鍛えられたホルン隊だ。
フルート組も随所随所で輝いている。高橋さんは涼音と競い合っただけの事はあり、希美の全盛期に迫る勢いを見せていた。小田さんと中野さんの演奏は井上の魂を感じる。優雅に華麗に堂々と。去年までに残された遺志はここにも継承されている。当然トランペットで1stを務める高坂さんは最早言うまでもないくらいに最高級の演奏だ。高坂さんと吉沢さんの演奏を目当てで来る人がいてもおかしくないだろう。この二人で演奏会をしたら、私の前座で出しても誰も文句を言わないと思う。
全部員が成長している。特に三年生は。私が彼らの歩みをずっと見続けてきた。彼らが一年生だった時、彼らを支持母体にしたいという打算的な行動から始まった関係性だったけれど、結果として一番長く付き合った。私は彼らの成長を見守って来たし、彼らも私を信頼してくれたように思う。上手くいかないことに苦しんでいた子たちが、悩みの中で前に進もうと藻掻いていた子たちが、成功したことに喜びをあらわにしてくれた子たちが、あんなにも立派に誇らしげに演奏している。指導者として、これ以上の喜びなどどこにあろうか。抑えきれない涙が滂沱となって地に落ちる。
こんなにも素晴らしい演奏を奏でられる集団になった。こんなにも誰かの心を打つ演奏を出来る奏者になってくれた。悲しいことも嬉しいことも、全てを詰め込んで。そのプラスマイナス全部混ざった記憶を、一年を、全てこの曲に込めて放っている。眩いばかりのスポットライトの下にあるのは、まぎれもなく彼女たちの三年間。青春の結晶そのもの。世界中の金剛石を全てぶちまけたかのような光の束だ。彼らの声、彼らの歌、彼らの願いと叫び、そして彼らの笑顔。この三年間、楽しかったと伝えるような、そんなメロディー。彼らに微笑む天使の姿が見えたような気がした。思わず舞台に手を伸ばす。もしかしたら私が探し続けた
最大限のフォルティシモ。そしてすべての楽器が渾然一体となった盛大なクライマックスが響き渡る。けれどまだ終幕ではない。そして、次の曲が始まる。そう告げるのは、涼音のフルート。どこまでも清涼に、どこまでも涼やかに。彼女自身を体現したかのような音色が凛と響いて、彼らの物語は閉幕した。
そうだ。演奏は終わっても、世代が変わっても、音楽は終わらない。演奏は確かに続いていく。音楽は受け継がれていく。永遠なんてない。不変なんてない。それでもきっと誰かの心に届いた音楽は、その心の中で生き続ける。この場にいる誰かがこの演奏に明日への活力を、希望を見出すだろう。音を愛し、愛された者たちの奏でる響きが、未来へと繋がるのだ。
『ただいまの演奏は、京都府立北宇治高等学校吹奏楽部の皆さんでした』
大喝采。そう形容するのに相応しい音が会場中に響き渡る。舞台袖からも聞こえているので、次の学校が思わず手を叩いているのだろう。勝った。全国大会の舞台でそう感じるのは、今回が初めてかもしれない。それでも私は確かに、この人生をかけて育てた耳と勘で感じ取ったのだ。今回は勝った。間違いなく、今日の団体の中で極まった演奏をしている。三年かけて最強にする。そういう計画の末に生まれたこの世代はこれまでの北宇治の中で一番上手かった。
希美は目を細めて手を叩いている。あんな演奏を、と唇が動いていた。彼女の次の目標は、ああいう演奏を生徒にさせる事なのだろう。優子はずっと泣いていた。それを慰めている夏紀の目にも光るものがある。みぞれの口元は、ほころんでいた。その視線の先に剣崎さんがいるのは言うまでもないだろう。手が真っ赤になるまで、私は拍手を続ける。
きっと彼らに後悔など無い。私にも、あるはずなど無かった。
演奏が終わる。荒い息の中、万雷の喝采を受けていた。歓喜の祝福の中、私たちは舞台を後にする。もう後悔など何もない。全てを出し切って、今出来る最大限の演奏をした。その自負がある。流れる汗を拭う。舞台袖に引っ込んだ時に見たら、加藤先輩などは既に泣いていた。
ぞろぞろと会場内を移動し、一度集合する。ここからどうするのかは自由だ。結果発表までの時間は自由になっている。
「ここからは自由時間となります。会場で他の学校の演奏を聴くことも貴重な勉強です。時間のある方は是非そうしてください」
「「「はい!」」」
先生の合図で一斉に解散となった。私はこのまま他校の演奏を聴いて来年以降の参考にしたいと思っている。二年生や一年生の多くはそうするようだ。逆に三年生は見に来ている先輩に会いに行ったりしている。
「真由先輩、お疲れ様でした。この後よろしければ……」
「真由!」
私が彼女に誘いをかけた時、遠くから彼女の名前を呼ぶ声がする。清良高校のセーラー服に身を包みながら、しかし演奏メンバーとは一緒にいないことから恐らく一人であることが伺えるその姿。ぎゅっと拳を握りしめ、決して柔らかくはない視線で真由先輩を見つめている。それが誰なのか、私にはすぐに分かった。兄さんに頼んでいた事は、ちゃんと実を結んでいる。
「実理ちゃん……」
「真由先輩、行ってください」
「でも、私は」
彼女が来ているのは知っていた。だから、これまで以上に全力で挑んで、その結果を示した。ともに演奏していてよく分かる。第三楽章の秋子先輩と真由先輩のソリは、卓越という言葉で表すのすらおこがましいようなレベルになっていたのだから。あれが届かないはずがない。響かないはずがない。一度でも音楽に触れていたのなら、必ず琴線を動かすに足る演奏だったはずだ。
それでも直接会うという一歩を踏み出すのは怖い。その気持ちはよく理解できた。もしかしたら、兄さんと希美先輩もこういう感じだったのかもしれない。けれど、その一歩を踏み出してしまえば、何かが変わるかもしれない。逆に踏み出さなければ、何も変わりはしない。
「真由先輩、行ってください。彼女はここまで来たんです。兄さんが清良の大友先生に働きかけて、この結果になりましたけど、でも彼女にだって来ない権利があったはずです。でも来てくれた。それはつまり、あなたに会いたかった、会うべきだと思ったからに他ならないのでしょう。だから、行ってください。あなたの最後の後悔と向き合うために」
「けど」
「けど、なんですか。傷つけてしまっても、そこからだってやり直せることもあります。話したいことがあるんでしょう。伝えたい事だってあるんじゃないですか。もし言葉で難しいなら、音楽で伝えればいい。それが、私たちのはずです。さぁ、行って」
私は少し強引に、彼女の背を押す。少し震えるその足で、けれど彼女は歩き出した。そこから先にあの二人がどういう会話を繰り広げるのかは分からない。分からなくて良いのだろう。きっと、それはあの二人だけが知っていれば良い事なのだ。お節介だと思う。余計なお世話だと思う。こんな事をする必要は無かったかもしれないし、上手くいかない可能性だってあった。それでも、もし何かが変わるのだとするならば。その可能性がほんの少しでも残されているならば。ハッピーエンドを目指すべきなのだ。
会場に戻る。そしてその後真由先輩が戻って来たのは、既に秀塔大の演奏が始まろうとする時だった。時間にして、既に一時間以上は経過している。
『続いての演奏は、プログラム十五番、関西代表、秀塔大学附属高等学校吹奏楽部の皆さんです。課題曲Ⅰ、自由曲は桜地凛音作曲『我が第二の故郷に告ぐ』、指揮は北条聡です』
真由先輩が、私が確保していた席に静かに座った。その頬には拭い難い涙の後があって、その目は紅く充血している。
「お話、出来ましたか」
「うん。……ありがとう」
「お礼は兄さんに言ってください。手配してくれたのは、全部兄さんですから。私はきっかけに過ぎません」
手を叩いて秀塔大の演奏を見つめる。これ以上、真由先輩とその話をすることは無かった。上手く行ったのだろうという確信だけで十分だったから。
怒涛の速度で終わったような気すらする全国大会は、もう結果発表の時間になっていた。私は席に座って、沙里先輩たちと共に結果を待っている。部長と副部長は既に壇上に整列していた。
空間には緊張が満ちている。ここにいるのはどこも強豪ばかり。運で来たような学校は存在しない。兄さんの曲を存分に使いこなした秀塔大。音量と美音を両立させた龍聖。相変わらずのプロ顔負けな演奏をする清良。どの曲も素晴らしい演奏で、そこに優劣を設けるなどもしかしたら無粋なのかもしれないと思わされるほど圧巻だった。
部長がどういう気持ちなのか、多分この場で私だけが知っている。結果を聞きたいようで、聞きたくない。これを聞けば、もう終わってしまう。自分の高校の、この部活での生活が終わってしまう。けれど聞きたい。どんな結果だったのか知りたい。そんな相反する感情を抱いている事だろう。そして、どこか現実感が薄い中、もう何も思い残すことは無いと心に決めて、そこに立っている。
『続きまして、結果発表に移ります』
始まった。心臓がうるさい。こんな時に思い出すのは、これまでの一年間だった。ソロで一番目立ってみせると純一さんと約束した去年の全国大会。あれから、丁度一年間が経過してしまった。約束は守れたけれど、金賞かどうかはまだ分からない。そこから黄前先輩が部長になり、少し頼りないと思いつつもアンサンブルコンテストに挑んだ。
兄さんたちが卒業して、希美先輩が家に来て、欧州へ行った兄さんの代わりに希美先輩に支えられてきた。真由先輩が転校してきて、私たちの奇妙な物語が始まった。一年生が入学し、義井さんの神社へ行き、秋子先輩に背中を押され、沙里先輩と席を競い合いながら府大会へ行った。
兄さんが戻って来て、合宿の時のオーディションで大いに揉めて。あの時私は真由先輩の味方になると宣言した。その約束を、多分守れただろう。高坂先輩と論戦をして、久石さんに諭されて、傷つけ傷つき合いながら私たちは関西大会へと駒を進めた。
そこから最後のオーディションがあって、公開オーディションでトランペットとユーフォニアム、二つの楽器に青春を捧げた四人によるプライドのぶつかり合いを見た。多くの出会いがあって、多くの出来事があって、その末に今私たちはこうしてここにいる。いつの間にか、私の手は固く握られていた。何にかも最早分からないけれど、何かに祈りを捧げるように。
『二番、東京代表、八王子学院高等学校、銀賞』
二番目の学校の生徒が落胆の声を漏らすのが聞こえる。壇上にいるあの学校の部長が手を握りしめた。悔しさを隠すように。いよいよ次だ。時間がゆっくりと流れていく。バクバクと激しい音を立てる鼓動の中で、光も音も緩やかにしか推移しない。
『三番、関西代表、北宇治高等学校』
静まり返ったホールの中に、その声は確かに響いた。
『ゴールド金賞!』
気づいたら、私の喉からは悲鳴のような歓声が飛び出していた。恐らく人生で、最初で最後かもしれない大歓声。二年前は部長だったが故に叫べなかった分を乗せるように、私は涙ながらに歓喜を迸らせていた。
ぼやける視界の中で、部長が証状を、副部長がトロフィーを受け取っている。現実だ。これは紛れもない、現実だった。高坂先輩が呆然と座っているのを、加藤先輩と川島先輩が泣きながら揺らしている。沙里先輩はもうずっと突っ伏して号泣していた。真由先輩の顔を振り返れば、釜屋先輩と一緒に泣いている。芽衣子先輩はもう泣いているんだか笑っているんだかよく分からない顔だ。蕾美先輩もおんなじような顔になっている。
「嬉しくて、死にそう」
高坂先輩が絞り出すように言う。声からして、嗚咽交じりだった。秋子先輩は静かに泣いている。彼女が泣いているのを、私は初めて見たかもしれない。無冠の強者の頭上に、今何よりも輝かしい栄冠が掲げられている。
「やった」
言葉を口にして、やっと実感が私の中に満ちていく。
「やりました、やりましたよ」
「はい」
喜色満面の義井さんの言葉に、私は頷く。
「私は、幸せです」
その言葉は、過去の私に告げたものだった。そして、私を案じているであろう兄さんや今は亡き両親にも告げる言葉だ。大丈夫、あなたの願いはちゃんと叶うから。だから苦しくても前を向いて、歩いて行けばいい。懊悩の中にいる遠き日の自分に、私はそう語りかける。あなたの人生は、信じたモノは、間違いじゃないと。
何もかも、遠い日の思い出の中になりつつある。この三年間、色々な日々を過ごしてきた。先輩、同期、後輩たち。多くとの交流の中で、学んだことも得たモノも大きい。その結末が今、ここに示されようとしている。お願いだ。もう二年分、悔しい景色は見てきた。私が一番手塩にかけて、一番上手くなるように育てた彼らには、最高の結果を。祈る手が震える。
『三番、関西代表、北宇治高等学校』
多くが過去の中の思い出になっていても、その中でも色あせないモノはある。悔しいと叫んだ高坂さんの声。私に手を差し伸べた希美の笑顔。頭を下げた滝先生の姿。胸を張って理想を貫いた黄前さんの雄姿。星に手を伸ばし続けた吉沢さんの奮闘。悲劇を繰り返さないようにと誰より気を配り続けた、優子の優しさ。頼りなくとも愚かしくはないとその身で証明した小笠原先輩の伸びた背筋。彼女が吹くべきだと己の願いと決別した香織先輩の表情。私に成長を示した、加部の晴れやかな声。控室へ向かう、今の三年生たちの背中。
託して、託されて、そうやって希望を繋いできた。少しずつでも、ゆっくりでも、三年の月日をかけて立派にここまで歩んできた。
『ゴールド金賞!』
会場後方の席にまで、その声はハッキリと聞こえた。優子と夏紀は涙で抱き合っている。みぞれは涙こそ流さないけれど、手を握りしめていた。私は少しだけ呆然としながら座っている。金賞。その言葉がやっと形になって私の理性へとたどり着く。そして気付けば涙が溢れていた。
OB組で固まっているせいか、先輩や他の同期の様子もよく見える。滝野は男泣きしていた。加部たちも喜びと涙が混じっている。小笠原先輩は松本先生からティッシュを強奪し、それを嗜めている香織先輩の瞳も既に赤い。田中先輩の顔はよく見えないけれど、その肩が震えていた。珍しく泣いている後藤に、長瀬がハンカチを差し出している。
「終わった、やっと……終わった」
金を獲るまで終われない呪いが、私と滝先生にはかかっていた。生徒たちの三年間をここに費やすように夢を見せた私たちには、責務という名の呪いがあったのだ。それがやっと終わる。香織先輩や高坂さんの夢を壊し、誰かの願いを無碍にし、その末にここまでやって来た。それでも、もし人生が結果論だとするならば、これ以上無い結末を迎えたと言えるだろう。
「終わりじゃないよ。また、ここから始まるんだから」
希美は笑顔で手を叩いている。彼女の言う通りだった。ここで物語は終わらない。彼らの人生はここからも続いていくし、北宇治の物語だってこれからも続いていくのだろう。そうやって綿々と受け継がれていく連鎖が、次の世代が音楽を作る原動力になる。この結果は、まだまだ長い人生の一区切りに過ぎない。
希美の瞳には、どんな未来が見えているのだろう。その未来の景色を、一緒に見られるのが楽しみだった。
「そうだな、その通りだ」
彼らはきっと、明日からも音楽を奏でていくのだろう。それは自らの相棒たる楽器を使った音楽でもあり、彼らの人生という名の音楽でもある。そして、次の曲が始まるのだ。未来への、希望を謳いながら。
今章(=アニメ三期の範囲)はこれにて完結となります。2020年に連載を始めたこの物語も、既に五年の月日を経て、200万字を超える、ハーメルンでも上から数えた方が早いであろう長い物語となりました。この月日を支えてくださった方々に深く御礼申し上げます。連載初期から多くの感想をくださったことと氏を始め、多くの方に励まされここまで来ることが出来ました。深く、感謝いたします。
また、原作を創り出してくださった武田先生、素敵なアニメを作ってくださった京都アニメーションの方々、キャラクターに命を吹き込んでくれた声優の方々、素晴らしいサウンドをくださった洗足学園音楽大学の方々、その他関係者の方々全てにも深く御礼申し上げます。
さて、アニメの範囲はこれで終わりとなりましたが、原作勢の方はご存知アクアラーク編、そして原作ではほぼ描かれていない奏世代三年生編、麗奈音大編、加えてこの物語のエピローグはまだ残っております。それ故に、ピリオドとはしないで、少しの間お時間を頂き、しかる後にまた次のストーリーを描きたいと思います。これまでどうもありがとうございました。これからも引き続きのご愛顧をよろしくお願いいたします。
――そして、次の曲が始まるのです