あの日から数日がたった。今日は皆の待っていた合格者の発表日。誰も彼も、そわそわし、落ち着きがない。こればっかりは無理のない話だろう。どんなものであれ、結果発表というのは多少なりとも緊張するものだ。
この後松本先生が発表を行うのだが、予定ではその前で一つだけ行事が入っている。大きなことではないが、大事なことだ。部長や当人と相談してこのタイミングにすることにした。そうすれば、この後に来る発表の方が記憶内で印象強く残り、相対的に混乱を減らせると踏んだのである。
「この後、オーディション結果の発表ですが、その前に一つ、大事なお知らせがあります」
集合して各々好きな場所に立っている部員の前で、部長が話を始めた。何も知らない層がほとんどなので、皆何の話だろうと顔を見合わせている。
「それじゃあ、お願い」
「分かった」
部長に促されて、斎藤先輩が前に立つ。葵ちゃん……? と呟く黄前さんの小さな声が耳に入る。
「私は先生や部長とも話し合い、大会への出場を辞退することにしました。このタイミングで発表したのは、オーディション前に余計な混乱を与えたくなかったからです。今後は今回の結果でB編成となったグループに関わりつつ、サックスパートにも引き続き適度に関われたらと思っています。唐突な連絡になってしまいましたが、これは前向きな決定ですので、どうぞよろしくお願いします」
一定数の混乱はあるようだったけれど、取り敢えず退部するわけじゃないということが分かったのかそこまで大きな波紋を生むことは無かった。戸惑っている人もいるけれど大多数はその判断を尊重することにしたらしい。三年生を中心に拍手をされている。その拍手に、先輩はどこか困ったような顔をしていた。
ともあれこれで斎藤先輩の件はある程度何とかなったと思って良いだろう。今後は今回B編成になったメンバーを上手くコントロールしつつ上達へ繋げて欲しい。B編成は二年生は元初心者、一年生は全員初心者で構成されている。その中で長く経験者をしている先輩の存在は助けになるはずだ。
少し和らいだかに思えた空気は松本先生の入室と共にまた一気に張りつめる。先生は斎藤先輩に視線を向け、小さく頷いた後前に立った。松本先生も先輩を心配していたので、なんだかんだ残ってくれたのは良かったと思っているのだろう。どんな形であれ。
「それでは合格者を読み上げる。呼ばれた者は返事をするように」
全員の視線が一斉に先生へ向けられた。会話も無くなり、呼吸音だけが空間に満ちている。その重苦しい空気は、早く終わってくれと願っているようだった。三年生には説明しているが、85%くらいは出れる。だからと言ってその残りの15%に自分が入らないなんて断言できる人は少ない。
「まずパーカッション。田邊名来」
「はいっ!」
どんどんと名前が呼ばれていく。今回は三年生全員採用となった。もしこれで誰か一人でも落ちていたら。その時の混乱は今以上になっただろう。今回は部員がそこまで多くなかったこと、そして三年生が曲がりなりにも経験者だったこと、一二年生に初心者や元初心者が多かったこと、最後に最悪な話しながら二年生の退部者が多かったことに救われている。
去年の退部者は南中吹奏楽部の面々が大半。いずれも強豪中学で研鑽を積んだ実力者。もし今年残留していたら強力な戦力となっていたであろう面子だ。そうなった場合、合格確率は低下していただろう。最悪の事態もあり得た。
すすり泣く声も聞こえる。B編成になったのは二年生以下。来年もある。しかしそれは決して慰めになどならない。彼らが欲しかったのは今年における結果。それが叶わなかった人にかける言葉は見つからない。
教室の前で見ているというのは嫌なものだ。全員の顔がよく見える。複雑そうな顔の一年生、泣いている二年生、どこかで安堵を覚えざるを得ない三年生。人間の良くない部分まで見えてくる。誰も声を大にしては喜べない。重苦しい空気が澱んだまま漂っていた。
「では、最後にトランペット。中世古香織」
「はい」
最後のパート。そして問題のパート。それ以外のソロパートは基本三年生が担当だ。オーボエは二年生だけれど、他に奏者がいないのだから別に問題ない。ここだけが問題なのだ。
今までこの手のことでこんなにも重苦しかったのは記憶にない。私は常に受かる側だったし、落ちた側のことは気にしつつもそこまで痛みや苦しみを感じてはいなかった。そういう世界だと思っていたから。私のせいで栄冠を手にできなかった者を忘れたことはない。けれどそれに痛みを感じることは無かった。
或いは、選ばれる彼らと選ぶ私の距離が近すぎるのが原因なのかもしれない。
「笠野沙菜」
「はい」
「滝野純一」
「はい」
「吉川優子」
「はい」
「高坂麗奈」
「はい」
「吉沢秋子」
「はい」
トランペットにおける唯一の落選者は加部だ。彼女は元々高校に入ってから始めた初心者だった。私が残した練習メニューも大会に出る用のものじゃない。それなりに吹けるためのものだった。スタート地点のズレは実力に大きく影響している。それは本人も自覚していたのか、そこまで傷ついている様子はない。一見するとだが。
先生はトランペットに六人もいるのか悩んではいるようだった。実際そういう話をオーディションの後に少しされた。けれど悩んだ末に六人にしたのは、私がいるからということである。専門としている人物がA編成を常に教えられる状態なら、トランペットを主力戦力の一つとして数えるのが有効と判断したそうだ。
責任は重大である。決してその期待を裏切ることがあってはいけない。奏者として吹きたいという思いは存在している。けれど、それは封印することにしている。
「以上六名。ソロパートは高坂麗奈に担当してもらう」
「えっ!」
誰かの、或いは多くの声が混ざった「え」という言葉。それがこの部活における大きな意見の集合体だった。先ほどまでの空気は困惑と混乱に変換される。一年生が、という声やどうして、という声も散見される中、衆目の視線を一身に受けつつ、高坂さんは返事をした。
「はい」
オーディションの結果は、確実に部員たちの心の中にさざ波を起こしていた。トランペットのソロパート。多くの人間の望みは叶わなかった。彼らはどこかで思っていたのではないだろうか。実力で決める。そうは言っても中世古先輩がソロを吹くだろう。これまでの部活における貢献を考えれば当然の感情ではないだろうか。
勿論、そうすることも出来た。高坂さんの演奏技術は超高校生級だ。その演奏に周りがついていけないかもしれない。だから、落とす。その可能性もあった。だが、それは我々の職務放棄に他ならない。周りの実力が足りないならそれを補う。それが我々の仕事なのだ。他にもこの結果になったのには様々な理由はあるが、それはいずれも高坂さんが落選する理由にはなりえない。
それに、そんな同情めいた経緯で手に入れた結果を、当の本人は受け入れるのだろうか。手放しで喜ぶのだろうか。誇りを持ってソロを吹けるのだろうか。自分と高坂さんの実力差を理解しながらそれでもなお。
そんなはずはない。彼女はそんな人ではない。どこかすがるようにそう考え、現実を見ないようにしていた。だが、理性は残酷に告げる。これがお前の選んだ道なのだと。彼女の優しさを傷付け、想いを踏みにじり、それでも上を目指すのだと。
「以上がA部門に出場する。次回からの合奏では滝先生の指導も厳しくなるだろうから、選出されたメンバーは気を引き締めていくように」
「「「はい!」」」
それでも返事をしてしまう。吹奏楽部員の悲しき性なのかもしれない。松本先生は何を思ってるのだろうか。平然とファイルをまとめている。
「今回B編成になった者は私が指導を行う。B編成だからと言って気を抜かないように。A編成に負けない練習をしてもらうからな。どちらの編成になろうとも、吹奏楽部員であることに変わりはない。それを肝に銘じて練習に励め。以上だ」
「「「はい!」」」
「よろしい。では解散とする」
先生が出ていくと音楽室の中には何とも言えない空気が漂った。それを敏感に察知して、部長が指示を出していく。多少なりともこの結果に思う所があるのだろう。けれども職責を全うしている。人の真価はいい状況よりも悪い状況で発揮される。彼女はきっと、そういう時に輝けるタイプなのだろう。本人は不本意だろうけれど。
「どうして、どうしてお前なんかが先生の期待の星なんだよ!」
ふざけるな、と言いながら目の前の青年は私の胸倉を掴んだ。年は何歳も離れている。向こうの方が上だった。その目には憎悪しかない。まるで理性が全部溶けだしてしまったかのような目をしながら、彼は私を睨んでいた。
「……放してくれますか。息が苦しい」
「黙れ! お前みたいな東洋人のクソガキに負けて、俺は!」
「人種差別なら、70年ほど時代がズレていますよ」
「うるさい!」
そう言いながら、彼は私を壁に叩きつけた。背中が痛い。幸い折れている様子はないが、子供相手に随分と乱暴なことをするものだと思った。
「馬鹿にしやがって……」
「年下相手に胸倉掴んでわめいているんだ、馬鹿にされない方がおかしいでしょう。なんで私が期待されているのか? 私が結果を残しているからです。私が、私の方があなたなんかより上手いからに決まっているでしょう!」
私の吐き捨てた言葉に、相手はズルズルと壁に寄りかかって地面に座り込んだ。込み上げている嗚咽に私は冷たい目を向けながらその場を後にする。心臓は脈打って、指先は震えていた。
年も身長も相手が上。もしかしたらここで私の人生が終わっていたかもしれない。あの時の相手の苦悩なんて分かるはずも無かった。それを知るには、私が一度敗北を味わう必要があった。それはさほど遠くない時期に訪れるのだが、それはまだ先の話で。
入学したばかりのクソガキに、処世術などあるわけも無かったのだ。
「3分25秒です」
私の意識は過去から現実に引き戻される。今は時間調整を行っていた。演奏時間は12分。その時間内におさめないといけない。課題曲はあらかじめ楽譜が決まっており、それは変えられない。後はペース配分だけ。そこは各学校に任されている。今はそのためのペース確認をしている。
オーディション翌日からの練習は予想外にしっかりとしていた。減った椅子の数が、少しスペースの空いた音楽室が、否応なしに現実を突きつける。自分達が代表なのであると。楽譜を睨む目は真剣そのもの。ペンの走る音も随所から聞こえる。良い変化である。この程よい緊張こそが上達には必要なものだ。
「課題曲は今のペースが良いでしょう。コンクールの演奏時間は十二分。勿論、その時間をオーバーしてはいけませんが、焦って曲を台無しにしてしまうのはもっといけません。今のペースを忘れずにいきましょう。十分、時間内に収まります」
「「「はい!」」」
「では、本日はこれまでにします」
「「「ありがとうございました!」」」
「あの、先生。リストに書いてある毛布って?」
「毛布です。皆さん、家にある使ってない毛布を貸して欲しいんです」
毛布ならかなりある。昔まだ来客が多かった時代の名残だ。今や私の家を訪れる泊りの客なんてほとんどいない。年に数回あるかないかだ。ましてや今は夏。さして使うことも無いだろう。車を出してもらえるか、明日交渉してみるしかない。
「しかし、毛布なんて使うんですね」
朝の車内で運転しながら雫さんは言った。何に使うんだと言わんばかりの顔である。彼女はずっと美術をやっていた。音楽にはそこまで造詣が深くない。当然、指導法にも。トランクには毛布が何束か入っている。これで運んでくれるので大分楽だ。
「音を吸収するんですよ。疑似的なホールにするために」
「なるほど、そういう意図が……」
「あ、ちょっと止めてください」
「はいはい」
路肩に停車した車の窓を開けて、前方に歩いている特徴的なリボンを呼び止めた。
「乗ってく?」
私の声に振り返った彼女は、大きな袋を抱えている。毛布を持っているのだろうけれど、結構重そうだった。車の窓から覗く私の顔を見て驚いている。同じ中学出身なので家も割と近所だ。大通りを使おうと思ったら同じ道になるのも納得だろう。
「助かるけど……いいの?」
「私は別に。良いですよね」
「どうぞ」
「運転者が良いって言ってるから問題ない」
「じゃあ、お言葉に甘えて。お願いします」
吉川の言葉に雫さんは頷くと、トランクを開けた。セダンタイプの古い車なせいでトランクと乗車席は分離されている。タクシーみたいなデザインだ。いい加減買い換えたいのだが、そんな経済的余裕も無く、この年代物をいまだに使い続けている。
トランクに毛布を押し込んだ彼女は後部座席のドアを開けて乗り込んだ。雫さんに頭を下げてお礼を言っている。彼女は基本、こういう時は大人しくしている。外面が良いとも言う。基本優等生なのだ。
「それじゃあ、出しますよ」
シートベルトの確認をして、アクセルが踏まれた。普段の通学路も車だと違った景色に見える。吉川はずっと黙ったまま。彼女はオーディションの日から、私に対してどう接したらいいのか分からなくなっているようだった。それも無理はないだろう。私は先生と共に、憧れの人を落とした張本人なのだから。
「……ねぇ」
「なに?」
「……」
「……」
彼女は黙ったまま目を彷徨わせている。運転者は気を利かせたのか、交差点で左折した。学校への最短距離を取らない道を走っている。吉川はそれに気付かないようで、押し黙っていた。
「どうして、高坂だったの」
「実力だ」
「……そう」
「私と、滝先生と、松本先生の三人でそう決めた。誰一人として、違う基準で選んではいない。勿論理由は細かく分ければ色々出てくるけど、結局は実力という言葉で括れる」
「でも!」
「分かってる。全部分かってて、私はそういう選択肢を選んだ」
私には、状況をひっくり返す力があった。それを彼女に言わなかったのは、私の弱さだろう。先輩を落とさないことが、彼女の望みを叶えることの出来た人間であると知られたら。そしてその上でなお、そうしなかったと知られたら。私はきっと、二度と許されることはないだろう。
だからこの場合は言えなかったが正しいのかもしれない。私は吉川を信頼している。それは同じパートの同期という理由もあり、人間的な部分もあり、様々だがとにかく信頼をしているのだ。だから最初彼女に話を通した。きっと助けになってくれるだろうと信じていたから。そういう人間なのだ。真っ直ぐで、誰かのためを思っている。だからこそそれは時々暴走する。
そんな相手に、私は正直に真実を告げられるほど、誠実じゃなかった。数日前の自分の言葉がそのまま私に投げ返される。一番誠実じゃないのは、私だった。
「でも、私は納得できない」
「……そうか。でもそれは仕方ないな。納得しないっていうのは感情だし、それは誰でも持つ権利はある」
「……先生の意見と反対でも?」
「部員なら、どんな意見を持っても構わないはずだ。それを表に出していいのかは別として」
「そう、ね」
最後には釘を刺した。ここで納得できないのは間違っていると言っても無駄だろう。意固地になって抱き続けるだけだ。だからこそここで一度肯定したうえで、外に出すのは良くないという。そうすれば、社会性のある彼女なら理解してくれるはずだ。その感情を表に出すのは良くないことだと。
最後の返事に分かってくれたのだろうと安堵する。それからはまた無言。学校に着いて毛布を下ろし、音楽室に運んでいく。その時にはもう普段の様子に見えた。だからこそ気付かなかった、気付けなかったことを後悔することになる。彼女の手は最後まで、膝の上で固く握りしめられたままだったことに。
持ち込まれた毛布は床に敷き詰められ、余ったのは壁に貼られる。これは音を吸収する毛布を貼り付けることで、より大きな音を出せるようにという金のない学校のコンクールの会場対策である。少々暑苦しいが。
「なんだ。みんなで泊まり込むんだと思ってた」
「したければしてもらっても構いませんよ。私は帰りますけどね」
先生が珍しくジョークを飛ばす。私も帰りたい。いや、でも私の部屋の冷房代が一日分浮くのならそれの方が経済的なのだろうか。実際泊まり込みで練習する学校もあると聞く。
「先生、終わりました」
「はい、ご苦労様でした。これでこの部屋の音は毛布に吸収されより響かなくなります。響かせるためにはより大きな音を、正確に吹く必要があります。実際の会場はこの音楽室よりも何十倍も大きい。会場一杯に響かせるために普段から意識しておかなくてはいけません」
「「「はい!」」」
「では皆さん、練習を始めましょう」
「「「はい!」」」
部員の顔は心なしか楽しそうだ。人は普段と違うことをすると楽しくなる。多少なりとも息抜きになるのなら良いだろう。日常のどんなところにも楽しめることは存在している。それに気付くかどうかはまた別問題だとしても。
「先生。一つ質問があるんですけどいいですか?」
「何でしょう?」
その声を聞いた途端、何か言い表せないような感覚にとらわれた。顔は張りつめて、思い詰めている。今から言うことが正しくないと分かって、それでも言わないといけないから緊張しているかのような、そんな顔。頭の中で警鐘がなる。彼女に、吉川にこれ以上言葉を発させてはいけない。そう告げるかのようだった。
「……滝先生が高坂麗奈さんと以前から知り合いだったって本当ですか?」
「それを尋ねてどうするんですか?」
「優子ちゃん、ちょっと!」
先輩の制止も聞かず、彼女は続けた。私は失敗したのだと気付く。彼女の理性を信じすぎた。いや、或いは彼女は私の信頼通りだったのだ。誰かのために動けるけれど、それが時々行き過ぎてしまうという、想像通り。あの朝の時には既に決意していたのだろう。だから私の言葉の意味を理解していながら、それでも行動した。
それほどまでに、先輩のことは彼女の中で重要だった。それでも私を責めず先生に行ったのは多分、力関係の問題だろう。顧問である先生と生徒である私には、明確に上下関係がある。普段の態度がどうであろうとも、それは一部員にはあずかり知らぬ話だ。
「噂になってるんです。オーディションのとき、先生が贔屓したんじゃないかって! 答えて下さい、先生!」
「贔屓したことや、誰かに特別な計らいをしたことは一切ありません。全員公平に審査しました」
「高坂さんと知り合いだったというのは?」
「……事実です」
その言葉にざわめきが起こる。知り合いだったことはずっと知っていた。だがそれを今まで特段意識した回数は多くない。普段の指導だって全くそういう気配を見せることは無かった。当然、贔屓したなどありえないだろう。なぜならどちらを選ぶかという選択肢で私と同じ結論に至っているのだから。
だがこれは不覚だった。それは確かに高坂さんのウィークポイントなのだ。先生へ大なり小なり不満のある部員は多い。不満ではないにしても、完全に好感だけを持っている方が少数派だろう。そういう存在にとってこの事実は大スキャンダルに移る。私はコネも大事な音楽界に生きすぎた。だからこの事実をあまり不自然に思わなかった。
中世古先輩のことを不満に思っている。けれど実力で選んだと言われては言い返せない。それを否定することは自身の耳が劣っていると自白するようなものだから。けれどここにその有形無形かつ無理筋な不満を正当化出来る材料が与えられた。
きっと吉川も分かっている。これが無理筋な、言いがかりに近いことだと。けれど止められなかった。僅かでも希望を見出してしまったら、人は蜘蛛の糸にだって縋るのだ。
「父親同士が知り合いだった関係で中学時代から彼女を知っています」
「なぜ黙っていたんですか?」
「言う必要を感じませんでした。それによって、指導が変わることはありません」
「だったら……!」
カタカタと椅子の震える音がする。しまったと思った。吉川に意識を集中し過ぎた。ここで目を向けるべくだったのは吉川じゃない。大事なのは、言いがかりを付けられているもう一人の相手。すなわち、高坂さん。
「だったら何だって言うの」
その声は剣呑で、瞳には怒りが浮かんでいる。制止する間もなく、彼女は普段は見せない感情的な声で言葉を発した。
「先生を侮辱するのはやめてください。なぜ私が選ばれたか、そんなの分かっているでしょう? 私の方が香織先輩よりも上手いからです!」
私の方が上手いから。それは過去、私が言った言葉を一瞬で想起させた。どこか震えた声は、自分の過去と重なって見える。けれどそれは言ってはいけない言葉なのだ。処世術としては大失敗である。ここでの正解は、泣き崩れること。そうすれば被害者になれる。
実際高坂さんは被害者だ。吉川の言い分は彼女にすれば言いがかりでしかない。けれど周りがそうは思わない。もし周りを味方にしたいなら、吉川を悪者にするしかない。それには泣き崩れてしまえばよかった。そうすれば勝てる確率が上がる。吉川が言い過ぎという風になる。けれどそれをするには、彼女は真っ直ぐすぎた。
「っ! あんたねえ! 自惚れるのもいい加減にしなさいよ!」
「優子ちゃん、やめて!」
「香織先輩があんたにどれだけ気を遣ってたと思ってるのよ! それを……」
「やめなよ!」
「うるさいっ!」
先輩も中川も、彼女を止められない。けれどこれ以上何もしないということは出来ない。こんな風な形とは思わなかったけれど、どこかで非難されることは想定していた。その場合の対処法も。カツカツと足早に高坂さんに詰め寄る吉川に近付く。そして彼女の手首を掴んだ。
「そこまでだ」
「ッ!」
「吉川、そこで止まろう。一番見ないといけない人の顔を見るんだ」
吉川は少しだけ落ち着いて視線を動かす。その先には、今にも泣きそうな顔をしている先輩の姿。そしてサッとその顔が青くなる。感情に任せてやり過ぎた。それは明白だった。
「ケチ付けるなら、私より上手くなってからにしてください」
ここで黙っておけばまだ軌道修正できたのに、更なる言葉を放って高坂さんは出ていく。余計なことを、と思わないでもないけれど、彼女は被害者だ。その苛立ちは理解できる。止める権利はないだろう。もとより、私がもっとしっかり吉川を制止しておけば良かったはずだ。
「吉川も、そうじゃない人も良く聞いてください。あの時、先輩を落としたのは私です。全責任は私が持っています」
「桜地君!」
「先生は黙って」
口を挟もうとした先生をキッと睨んで制止させる。ここで口を挟まれては台無しだ。先生への不信感を生むわけには行かない。それは部の為にならないし、当然、目標達成には遠のく。
先生への不信感はやる気を削ぐ。そうすれば状況はまた最初に逆戻り。これまでの全部が水泡に帰す。それだけは断固として阻止しないといけない。だからヘイトコントロールをするしかないのだ。あの時審査した中で一番いらないのは……私。
異物である自分を排除するしかない。そうすれば敵意も不信感も私に向く。先生への敵意を逸らすことができる。それが一番この場においては合理的で、部活のためになることだ。
「審査の中で先生と松本先生は高坂さんを支持しました。まず、この時点で贔屓したという論理は破綻しています。何故なら、松本先生と高坂家には何の繋がりもありません。当然同じ顧問同士、立場は対等。何なら先生としては松本先生の方がベテランです。贔屓したと言うのはおかしい」
まず最初は先生と松本先生の弁護。
「そして、最後に先生は私に言いました。『桜地君はトランペットの専門家であり、もしあなたが違う生徒を支持するならば我々はそれを尊重する』と。合理的な判断ですね。私は三人の中で一番トランペットに長けている。だから私の判断を尊重するのは至極当然です。ここで高坂さんじゃない選択肢を選ぶ可能性を私に与えました。そして私が別の人を選んだら、その人になっていたでしょう。特定生徒を贔屓している人が、そんなことをしますか?」
次に問題になっている判断をしたのが私であるということにする。実際この話は嘘じゃない。先生はそういう趣旨の事を言った。そんなことを贔屓している人がするわけない。私が先生の意にそぐわないことを言うのは当たり前だ。
「だから責めるなら私を責めればいいのです。あの時、先輩ではなく高坂さんをソロに選んだのは私です。無論私だって贔屓などしていません。何で私が高坂さんの父親に頭を下げないといけないんですか。向こうが下げに来るべきでしょう。『娘がお世話になっています』って」
これで敵意は私に移る。敢えて高坂さんの父親を軽く見るような発言をして、私たちが贔屓などしてないと強調したうえで、傲慢さを見せる。そして事実を並べる。それだけで内心で抱いていた私への反感が加わり、不信感の対象は私に移動するはずだ。
お世話になっているはずの先輩を、味方でいてくれた先輩を、あっさりと切り捨てた人非人。そういう評価になるだろう。実際、今の音楽室内で囁き合う声は「そこまでする……?」というものになっている。
「再度言いますが、非難したいなら私を非難すればいいのです。何を言われようとも一切気にしません。ただ事実だけを述べます。好きなだけ叩いてください。ただし、高坂さん本人に決して悪意を向けないでください。彼女はただ純粋に努力してオーディションを受けたのです。それだけはどうか、お願いしたい」
幾分か軽減できても、彼女に降りかかる悪意は存在するだろう。それを一つでも減らせたなら、私のいた意味はある。
「繰り返しますが、今回の判断の全責任は私にあります。それを忘れないでください。先生、後はお任せします。私はきっと、今はいない方が良いですから」
「……分かりました。この後、職員室に来てください」
「気が向いたら行きます」
最後のは嘘。ちゃんと行く。けれどこういうことを言ったのは、私が先生の下にいるわけじゃないとアピールするため。先生と私との間に上下関係があり、それでやむなくという可能性を消し去るためだ。
「最後になりますが、私が伝えたのは全て事実です。その上で納得できない人もいるでしょう。もしそうなら、それでどうするのか。それは皆さんの
これが吹奏楽部にとって有効な行動のはず。そう信じて、私は小さく頭を下げて音楽室を出る。背後からは「手を止めないで。練習を始めます」という先生の声。その声は普段よりも固い気がした。六月の廊下は蒸し暑い。その気色悪い熱気の中を歩いていく。
最後の言葉の意味に誰かが気付いてくれることを祈るしかない。事態を解決する方法は残されている。それには二人の意思が必要になるが、それさえクリアできればどうにかなる。問題は不透明性。そこにあるのだから。
「なんでこうなるのか……」
失敗ばかりの人生、後悔ばかりの生涯だ。段々嫌気がさして来る。きっとまた不正解を選び取ってしまったのだろう。そんな気がしてならない。明日からまた、私を取り巻く環境は最初に逆戻りだ。いや、最初より酷いかもしれない。吉川は私を許さないだろう。
運動部の掛け声が外から聞こえる。夏の雲が浮かんでいた。ボーっとそれを眺める。何もかも投げ出してしまいたかった。