音を愛す君へ   作:tanuu

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第XLⅥ音 冬の雨

「今後これから新しく部活を運営していくうえで、私の方針を発表します!」 

 

 冬の初め、年の暮れ。十二月になった北宇治高校の音楽室に、大きな声が響いた。前に立つ梨々花さんは、三年生がいなくなったとはいえ大人数の部員の前で声を張っていた。どこか緊張を孕んだその声は、一年前の先代を思い出す。そんなところは別に似なくても良いのになぁと苦笑した。

 

「これまで、色んなことがありました。特に今年は全国大会金賞を獲れたけど、だからと言って全部全部めでたしで終わっていい一年じゃなかったとも思います。反省しないといけない事、私たちにもたくさんあったんじゃないかなって。夏にドラムメジャーが指摘してくれたこと、皆もよく覚えてるよね?」

 

 私の苦い記憶が掘り起こされる。あの頃は色々と全体に余裕が無かった。全員冷静になって振り返れば、もっと違うやり方があったとも思える。けれど当時の私たちにはそんな時間的な余裕も精神的な余白も無かった。それでも、必死に藻掻いてはいたけれど。その末に私は先代の体制を批判した。具体的には、オーディション三回制度の決定方法に関する部分を。やり方はまずかった。それでも、言ったことは間違いではなかったと信じている。

 

「だから、私はとにかく風通しを大事にしたいと思うんです。誰かが勝手に決めたことをやるんじゃなくて、皆で進んでいきたい。これだけ人がいます。時間はかかるかもしれないし、中々上手く行かないかもしれない。いろんな考えがあって、でもそういうのを全部ちゃんと尊重できる関係性というか場と言うかを作れたらと、そういう風に思っています。先輩後輩の上下に関係なく、必要だと思ったことをドンドンと言いましょう。ドラムメジャーみたいに! もちろん、相手への尊重を忘れないでね」

 

 私みたいにはやらない方がいいですけどね、と内心で呟く。ここで余計なことを言って部長の方針演説の邪魔をしたくは無かった。

 

「えー、と言うわけで、私たち幹部三人は、色々話し合った末にこういう感じで運営していこうと思います。ご協力お願いします!」

「お願いします」

「お願い致します」

 

 梨々花さんに合わせて、横で立っていた私たち二人も頭を下げる。この方針を言語化するまでにはかなり色々な過程が存在した。梨々花さんの重んじたのは優子先輩から続く穏やかさの部分。フォローの輪、助け合いの空間、プラスな感情を部に満たすことである。一方の奏さんが重んじたのは特定個人に依拠しない空間。カリスマに依存した体制であったり、誰かに負担が集中するのを避けたいという狙いがあったようだ。同時に、トップエースが引っ張るよりも部員全員が均等に高い水準にあるオールエース構想を打ち出している。これはこれで難しいが、実現すればかなり有効な作戦だろう。

 

 私が重んじたのは公平性のある集団。言ってしまえば梨々花さんの言う通り風通しの良い部活だ。専制的に物事を決定するのではなく、きちんと相談する機関を機能させ、多くの部員の理解を得たうえで物事を進めていく。些事はともかく、オーディションの制度のように難しいものは特に。去年の反省、そして私自身の中学時代の経験を経てたどり着いたのがこの結論だった。

 

 それを全部いい感じに混ぜ合わせたのが梨々花さんの打ち出した言葉である。風通しのよさを第一に謳い、皆で進むに個人に依拠しない奏さんの方針を込め、相手への尊重は梨々花さんの重んじるところだ。私のを第一に採用してくれたのは、私が元部長経験者だからだろう。梨々花さんからはアドバイザーとしての活躍も期待して貰っている。先代にはあまりそういう面で貢献できなかったので、ここでは持っている知識や経験は活かしたい。無論、反省点も。

 

 音楽室内には拍手が響く。全員、何かしら今年について思うところはあるだろう。だからこそ、新しい体制は歓迎されているようだった。前の世代が悪いとは言わないけれど、反省点は当然どの世代にだって存在している。毎年そうやって反省を改善を繰り返して部はよくなるのだ。

 

「ありがとうございます。これから色んなことがあると思いますけど、思いやりの心を持って頑張っていきましょう! じゃあ、ここからは今後の練習に関してドラムメジャーから説明してもらいます。涼音ちゃん、お願い」

「はい、承りました。改めまして、ドラムメジャーの桜地涼音です。先代の名を、兄の名を汚さぬよう、精一杯努めます。見習いの三木さん共々よろしくお願い致します。さて、今後についてですがまず大きく来年度までのこの数か月間に関する方針をお伝えします」

 

 私は黒板に向かい、チョークで文字を書いた。兄さんの行書体と私の書き癖は少し違う。そこには大きな字で「強化期間」と記した。言いたいことは読んで字のごとくである。

 

「強化期間、の言葉通り来年度に皆さんが上級生として相応しい実力を身に着けられるよう、この数か月もしっかりと練習を行います。大会の頃よりはペースダウンはしますが、その分個々の課題にしっかりと向き合いながら、ステップアップを進めていきましょう。そのための心強い助っ人も用意いたしました。お願いします」

 

 ガラガラと音を立てて扉が開く。颯爽と中に入ってきたのは高坂先輩だ。私が依頼して力添えを頼み、引き受けてくれた。個々人の課題にフォーカスし、それぞれがステップアップを進めていくためには、私と高坂先輩と先生の協力が不可欠だ。要するに、一時的に兄さんの時代と同じことをしようと考えている。私と高坂先輩で兄さん一人分の仕事をするのだ。

 

 高坂先輩の姿に、一部からはざわめきがある。引退したはずの三年生がどうしているのか、そこは疑問視されて当然のことだった。

 

「高坂先輩には私から依頼を行いました。この強化期間を有意義に使い、来年度も私たちが目標を達成するのに必要な力を身に着けるためにです。先輩は受験が来年の六月と遅いですので、その間はこちらをお手伝い頂きます。金管は先輩が、パーカッションと木管は私が担当し、各個人にフォーカスした指導を細かく行っていく予定です。夏休みに兄が行っていた指導に近いと思っていただければ、イメージしやすいかもしれません。先輩、挨拶をお願いします」

「一度引退した身でこうして戻って来ることには迷いもありましたが、北宇治がより強く、より上手い集団になるために力を貸せと当代のドラムメジャーより要請され、それを受け取りました。有意義な時間となるよう、努めます。よろしくお願いします」

「ありがとうございました」

 

 戸惑いはありつつも、部員たちは拍手している。高坂先輩の性格はともかく、その実力は本物だ。秋子先輩が後ろから猛追している状態だったので中々フルで指導に時間を割くことが出来なかったが、今はそういう心配も無いので全神経をこちらに注げるようになっている。その分これまでよりは細かな指導も出来るようになってくると期待していた。

 

「今後は我々で指導を行いつつ、発表の機会も増やしていこうと思います。詳しくはこの後説明しますが、アンサンブルコンテストとソロコンテストに関する予選等は今年も行います。またそれと並行して定期演奏会や各種コンサートの予定も入れていこうと考えています。機会を増やし、場慣れしてもらう事が大きな狙いではありますが、同時に少しでお多くの部員にスポットライトが当たる機会を作れればと言う狙いもあります」

 

 演奏会は大会とは違い、自由度も格段に高い。だからこそ、色々な曲を演奏することで多くのパートに活躍の機会を用意することも出来るだろう。普段の曲とは違う音楽に触れることは良い経験だし、初心者の子たちにしてみればこれまで決して多くは無かった演奏の機会だ。モチベーション向上と実力向上の両側面から期待が持てる。

 

「幸いなことに、今回の全国大会金賞で北宇治の名前に箔が付きました。よく知らない人にとって、金賞とそれ以外ではやはり大きな違いがあります。そのおかげで売り込みもしやすくなりました。私が卒業するまでの制約はありますが、当家の関係事業に営業をかけています。演奏機会は去年より増えるでしょう。一般の方々に応援される集団となるよう、一層の研鑽を期待します。以上です」

 

 北宇治は公立高校。全国大会には国公立の学校もそれなりにはいる。ただし、予算面ではどうしても私立の方が上回る。OB会がちゃんと存在して援助をしてくれている学校もあるそうだが、我々は数年の分断のせいでOB会がちゃんと機能していない。優子先輩を中心に再度編成しなおす動きが出ているけれど、メインは大学生。兄さんだけ社会人の状態だ。援助は大きく期待できない。

 

 楽器も古くなってきた。だましだまし使っているけれど限界が見えているものもある。数も対応できるか怪しい。マイ楽器に頼るのは現実的ではないし、やはりテコ入れをしたい。遠征費、輸送代、そういうモノを考えるとどうしても資金が厳しい。色んな家庭から来ているので、部費の支払いが苦しい家だってあるはずだ。そういう家庭の優秀な子に活躍してもらえるようにするのは、どこかしらで資金調達をしたかった。

 

「ありがとうございましたー。一番直近なのは……アンサンブルコンテストとソロコンテストですね。二年生は分かっていると思いますが、一年生もいるのでもう一回説明します」

 

 梨々花さんの口から説明がされる。京都府のアンサンブルコンテストが行われるのは12月後半、関西は2月で、全国大会は3月という風になっている。これは全員参加だ。選考は去年と同じく部員投票行われるが、去年と同じように一般投票も行われる。つまり演奏会を開き、そこで投票をしてもらうという形式だ。

 

 メンバー決定は今週中。決まり次第紙に書いていくのも同じだ。多分この辺は去年のを踏襲すればうまくいくと思う。このアンサンブルコンテストも今年で三年目。そのうち伝統行事になっていくのだろう。サンライズフェスティバルと同じように。メンバー被りは禁止なのも去年同様だ。

 

「次に、ソロコンテストの説明をします。ただ、これは強制じゃありません。出たいなって人が審査を受けてください。代表は各校五人までなら出られます。去年は高坂先輩と涼音ちゃんが全国大会まで出てくれました。どっちも賞を貰って帰って来たので、そんな風になりたい! っていう子は是非是非応募しましょう。普段は一人一人の実力にフォーカスを当てることは無いですけど、個人の実力を高めたいという子にはお勧めです」

 

 三年生がいなくてよかったと思うのはこの瞬間だ。もしいたら、全部三年生に持っていかれてしまう。今年の秋子先輩なら全国大会まで行けるだろうし、余裕の顔で帰ってきそうだ。真由先輩もこういうのにはあまり興味なさそうだけれど、出たら出たで成果を出しそうな気がする。

 

 去年までは伴奏を兄さんが担っていたが、今年からは高坂先輩が担当してくれることになった。特技はトランペットとピアノと自分で言っていたので、相当な腕前があるようだ。聞いたことはないけれど、兄さんも上手いとは言っていたので多分大丈夫だろう。おそらく今年も練習場所は学校と私の家だと思う。スタンウェイは学校とウチにしかない。

 

「今後の各種連絡は以上です! じゃあ、早速今日から練習を頑張っていきましょう!」

「「「はい!」」」

 

 ミーティングは終わり、部員たちは一斉に動き出す。こういう時に行動が速い数名はすぐにグループ作成に取り掛かっていた。優秀な奏者はすぐに売れていく。義井さんなどは凄いスピードで複数名の二年生に取り囲まれていた。南中出身者は特に売れ行きが良いようだ。アンサンブルコンテストは既定路線なので、やるだろうと見越した気の早い数名からお誘いは既に受けている。ただ、幹部としてメンバーがある程度決まった後、中々上手く編成を組めない部員の手助けをするべきだと思って今のところは断っていた。

 

 アンサンブルコンテストの曲を練習しているところに高坂先輩が練習指導を行い、それ以外の演奏会用にパート練習などをしている際に私と高坂先輩で指導をするというのが今後の大まかな方針だった。どこまで上手く作用するのかは分からないけれど、まずはやってみないことには始まらない。来年以降この体制はもう使えないので、その時どうするのかも頭の中に存在している懸念事項の一つだった。

 

「高坂先輩もありがとうございます。ソロコンの伴奏もやって頂いて」

「桜地先生もやってたから、私もやらないわけにはいかないでしょ。自分が受けた恩恵は、ちゃんと次の世代に繋いで返すべきだと思うから。それは多分、桜地先生も望んでおられるだろうし」

「ですね」

「あくまでも主体は現役世代だから、しっかりやって。あんまり不甲斐ないと、私が秋子とか久美子と組んで殴り込んで、優勝かっさらいたくなるから」

「怖いですね。そうならないように全体を盛り上げていきます」

 

 高坂先輩なりの冗談なのだろうけれど、実際やりかねない怖さもある。そうなったら私たちでは太刀打ちできないのだろうという怖さも。さやかさんに「高坂先輩と秋子先輩のどちらかを目指していくのか?」という趣旨の質問をしたことがある。返答は「無理!」だった。どちらも高嶺の花すぎるらしい。

 

 そんな存在が力を貸してくれているのは貴重な機会だ。どうも兄さんの影響で北宇治は恵まれた環境への理解が乏しい。どこかしらでそれをしっかり認識してくれることを私は願っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 雪になりそうな雨がシトシトと降る寒い冬の日。入試に関連して三年生の保護者会があるからと部活は休みになった。アンサンブルコンテストに向けてのチーム編成などは着々と進んでおり、ソロコンに出場したいという生徒の審査エントリーも同時に数が集まってきている。

 

 私自身のチームはまだ決まっていない。初心者が多いチームに入って底上げをしたいという想いがある。もちろんやるからにはより良い結果を狙うけれど、私自身が上の大会に出るよりも部全体がより良い方向に向かう事を望んでいるという側面が強い。ドラムメジャーとして、優先するべきは全体の向上だった。

 

 そんな中なので、出来るだけ練習時間は今まで通り保ちたいところではあるけれど、受験生が佳境を迎える中なので仕方ないと理解できる部分もある。今日は家で勉強でもしようと思っていたら、さやかさんから連絡がきた。曰く、純一さんが風邪を引いて寝込んでいる、と。これは大変と急いで雨の中滝野家を訪れていた。

 

 チャイムを鳴らした私を、お母様が出迎えてくれる。

 

「すみません、急に押しかけてしまって」

「いいのいいの。私もちょうどパートに行かないといけなくって。申し訳ないんだけど、少しだけ見ていてくれないかしら?」

「はい、もちろんです。さやかさんは……?」

「あの子は約束があるみたいでねぇ」

「なるほど、それで私を……」

 

 彼女なりに兄である純一さんのことを心配しての選択だったのだろう。もし私が空いてない場合、彼女は自分の先約を取りやめた可能性が高い。彼女はそういう人だ。病身の家族を一人にするような人ではない。それは、私がよく知っていた。

 

「大した歓迎も出来ないけど、ゆっくりして頂戴ね」

「ありがとうございます」

 

 階段にある窓の外では静かに冬の冷たい雨が降っている。曇に覆われた空の下で、街は普段よりも幾分灰色がかって見えた。彼の部屋は階段を上がって廊下の突き当りにある。戸を叩けば、少しくぐもった声で返事があった。

 

「入りますね」

 

 寝間着を着た彼がぼーっと天井を眺めながらベッドに横たわっている。加湿器がゴーっと音を立てていた。少し顔の赤い彼は、やや潤んだ目でこちらに視線を向ける。いつも私の前では強がっている彼の、少し弱った姿は大分新鮮で、不謹慎なのは理解しているけれど可愛く思える。

 

「す、涼音ちゃん……?」

「はい、涼音です」

「どうして、ここに?」

「さやかさんから聞きました。逆にどうして教えてくれなかったんですか」

「移しちゃ悪いと思って……」

「そんな事気にしないでください。熱で寝込んでいる時は心細いじゃないですか。そういう時に寄り添ってあげたいと、私はそう思いますよ」

 

 相手に迷惑をかけたくない。それは私の事を大事に思っているからこそ出てくる感情なのだと理解している。けれど、迷惑をかけて欲しい。もっと頼って欲しい。そういう想いが出てくる。彼から見れば、妹と同い年、年下の私は妹のような存在なのかもしれない。だとしても恋愛に年齢は関係ない。好きな相手に頼られるのが嬉しいと思うのは、何も私だけではないはずだ。

 

 何も知らないままにされている方が、よほど傷つく。

 

「ごめん」

「良いんですよ、別に。私を想ってくれているのは、嬉しいですから」

 

 だからあなたは私に手を出さない。兄さんと希美先輩が()()()()()()になっていることは当の昔に察しがついていた。焦ったわけではないけれど、私たちだって一年以上の付き合いがある。別に自分で判断が出来ない年齢じゃない。でも彼は、私に踏み込んでは来なかった。兄さんが睨んでくるというのもあるかもしれないけれど、それ以上に私への大きな思いやりがそこにはあるのだと思っている。

 

「何か、お食べになりましたか?」

「ゼリーだけ……」

「林檎ありますけど、食べますか?」

「うん、ありがと」

「いいえ、お気になさらず。喉は大丈夫そうですね」

「熱と鼻水だけだから」

 

 見舞いに何を持っていくか悩んだ。もし希美先輩のように料理スキルがあれば、簡単なモノをパパっと作れたかもしれない。現に数年前、兄さんが風邪で倒れた時は代わりにご飯を作ってくれた。あの頃から上手だったけれど、今は相当磨かれている。毎食それが食べられるのだから、私は幸運な人間だ。

 

「ちょっとお台所お借りしても?」

「大丈夫」

「分かりました」

 

 固形物は食べにくいし、消化するのに胃が疲れる可能性もある。なので、すっと食べられるようにすりおろす必要があった。滝野家の台所はよく知っている。お母様が彼とさやかさんを育て上げるために毎日立っていた場所。私はまだ、そんな風に出来るほどの腕前が無い。多分、私の人生において一番向いていないことなのかもしれない。

 

 すりおろしてお皿に入れ、二階に持っていく。ベッドの上に上体を起こした彼は、ぼーっとした顔で座っていた。

 

「はい、どうぞ。お口を開けてください」

「いいよ、自分でやるからさ」

「遠慮しないでくださいね、病人なんですから。ほら、抵抗しないで」

 

 気恥ずかしそうに遠慮していた彼に対し、やや強引に私はスプーンを差し出す。他人の看病なんて初めてやったけれど、上手く出来ているのだろうか。誰かのために何かをするのは元々嫌いじゃない。苦しんでいる彼の助けに少しでもなれたのなら、私としては十分だった。

 

 食べ終わった後、彼はまた横になっている。私は彼の部屋の椅子に座りながら、その手を握りつつ話している。幾分か穏やかな顔になっているのは、解熱剤の効果かもしれない。或いは昼間だから少し熱が下がっているのか。そこで油断すると夜にまた苦しくなるので、大人しく寝ているのが一番だ。

 

「そういえば、病院は行かれましたか?」

「行った行った。インフルとかじゃないってさ」

「それはなによりです。素人診断が一番危険なので、行ってくださって良かった。兄さんなんて全然病院行かないですから……」

「涼音ちゃんは、さ」

「はい」

「将来は医学部だっけ?」

「そのつもりです」

「どうして?」

 

 どうしてか。その問いは凄く大事なところだった。私にとって、人生に選択肢が与えられた経験は少ない。もちろん小さな選択はいくつもあった。明日は何をするとか、どんな部活に入るかとか。けれど、進路のような大きな選択肢を選んだのは高校に進む時が初めてだった。兄さんが家を継ぐことを決意して以来、私は自由になっている。大学だって好きに選べる。職業も、どんな相手と結ばれるのかも。

 

 だからこそ私は悩んだ。どんな未来を選ぶのか。直近にある選択は当然大学受験。理系なので理系の学部にすることは決まっていたけれど、そこから先をどうするのかは相当悩んだ。けれど、その末に私は今の選択にした。

 

「知っての通り、私の両親は既に他界しています。亡くなった時、即死じゃなかったらしいんですよね、詳しくは分からないんですけど。事故で病院に搬送されて、救急治療を受けて、その末に亡くなったと。そのせいかは分かりませんけど、兄さんは病院が嫌いになりました。救急車の音も聞きたくないと言っています。そのせいで全然病院とか検査とか行ってくれないので、身内としては困りものですけど」

 

 語らないだけで、恐らく兄さんの亡きご友人の件も絡んでいるだろう。聞いた話、あくまでも人伝だけれど、どうやらその後友人を搬送する救急車を呼んだのには兄さんだったらしい。孤児院出身で、身寄りのないその人は連絡する家族がいない。だから兄さんが病院に付き添い、そして――

 

「兄さんは八つ当たりみたいなものだと理解しているようです。だとしても、どうしても愛した人たちを救ってくれなかった病院が嫌いなのでしょう。でも私は違う感想を持ちました。時が経って、冷静になって、それであの時気付かなかったことに気付けました。あの時、あの病院の方々は懸命に両親を助けようとしてくれた。だから兄さんと私に報告するとき、あんなにも悔しそうな顔をしていたんでしょう」

 

 落ち着いて過去を振り返れるようになったのは、高校に入ってからだった。中学時代は色んなことにいっぱいいっぱいで、そんな余裕はとてもではないけれどなく。ただ藻掻きながら生きるしかなかった。

 

「私の両親は亡くなってしまいましたけど、あの時懸命に戦ってくださった方々のことは忘れてはいけないと思ったんです。医療現場は常に人手不足と聞きました。私一人がいたところで出来る事は限られている。けれど、もし私がいることで救える命があるのなら。あの時戦ってくださった方々のようになれるのなら。そうありたいと、思ったんです。それが、一番大きな理由でした。まぁ他にもいくつか理由はありますけど、それが一番大きなものですかね」

「そっか……」

「私に誰かを助ける資格があるのかは分かりません。でも、それで躊躇するのは嫌だから。だから私は、この道を目指すことにしました。兄さんは、あんまりいい顔はしませんでしたけど」 

 

 進路選択アンケートで医学部志望と書いた私に、兄さんは少しだけ眉をひそめた。色んな葛藤がそこにはあったのだと思う。自分の中にある複雑な感情と向き合っている時の顔は、今でも忘れない。その日、希美先輩と何かずっと話していたのを、私は知っていた。

 

「けれどそれでも、行きたいところに行きなさいと言ってくれたんです。お金は心配するな、だから勉強だけしていろと」

「アイツらしいな」

「はい。私もそう思います」

「そういう理由で、涼音ちゃんは選んだんだ」

「重たいですよね」

「確かに。でも、良いと思う。医者って、命を預かる仕事だから。だから、軽い気持ちで選ぶよりずっといい。重たいくらいで、丁度いいはずだって俺は思う。絶対俺より涼音ちゃんの方が頭いいし、応援するって言って何が出来るのかは分かんないけど、それでも俺は応援するよ。多分傘木さんもそうだろうし」

 

 私は静かに頷く。希美先輩も応援すると言ってくれた。大学受験が終わるまで毎日必ずお弁当作ると、そう言ってくれた。多分希美先輩の結婚式で私は感謝を述べ続けるだろうし、私の結婚式でも兄さんと希美先輩への感謝のスピーチは長尺だろうと今から簡単に予想できる。

 

「もしかしたら、私たちは遠距離恋愛になってしまうかもしれません」

「……かもなぁ」

「兄さんと希美先輩は早晩籍を入れるでしょうし、いずれ子供も生まれるかもしれません。私は六年間大学生活ですし、現役合格できるという保証もないです。なので、東京に行ってしまう可能性も、否定できないです。別に一人で行くわけじゃなくて、多分揚羽と同棲ですけど」

「園崎さんか……。あの子、時々俺に厳しい……」

「それは、まぁ……否定できませんね」

 

 揚羽は私の事を好いてくれている。その分純一さんへの目線が厳しくなっているのだろう。兄さんはさやかさんと揚羽に純一さんの監視を頼んでいた。()()()()()()()ことをしないように、と。兄さんと純一さんだって相当仲がいいはずなのにそんなことを頼んでいる辺り、兄さんが私をどう思っているのかがよくわかる。シスコンと言われて堂々としている辺り、筋金入りだろう。嫌な気分ではない。時々重たいけれど。

 

「でも、なら安全かもな」

「私もそう思います。あの子、あんな感じで結構うぶですので」

「いや、反応に困る……」

「ともあれ、もしかしたら距離が離れてしまうかもしれません。私は、そうなったら寂しいなと、そう思っています」

「俺もまぁ、本音で言えば京都にて欲しくはある。ただ、俺のせいで夢を叶える邪魔だけはしたくない。だからアイツと傘木さんみたいに、離れていても心が繋がっているなら大丈夫だって、俺はそう思ってるよ」

「浮気、しないでくださいね」

「しないよ。むしろ俺の方が怖いくらいだし」

「そこは安心してください。桜地家は一途です。一族で浮気者はいませんので」

 

 変な血筋だと思うけれど、名族のくせに愛人を囲っていたりした人がいない。そもそも、祖母は一目惚れした二十も年上の祖父を口説き落とし、曽祖父は侯爵家のご令嬢と結ばれるために奔走して結婚までこぎつけたらしい。

 

「将来のことも大事ですけど、まずは病気を治しましょう。未来のことはまだ分かりません。追々ゆっくりと、考えていけば良いんですから」

「そう、だね……」

 

 彼の声がゆっくりになっていく。大分リラックスした表情になっていた。呼吸が穏やかになっている。眠れるなら寝てしまった方が良い。私は話しかけず、静かに手を握るだけに留めた。やがてスース―と寝息が聞こえる。その表情はとても穏やかだ。顔は熱のせいで赤いけれど、氷枕を換えたのも功を奏したようで大分楽になってくれた。

 

 窓の外の雨は降りやまない。その雨音と彼の寝息、そして機械的に駆動する加湿器のセッションを聞きながら、私は静かに寝顔を眺めていた。未来は不透明で、先の事なんてわからない。でも一つだけ誓えることがあるとすればそれは、

 

 ――繋いだこの手は離さない、ということだろう。

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