「お帰りなさい」
私の挨拶に、高坂先輩はゲッソリした顔で呻きながら返事をした。まるで屍みたいな顔になっている。まだアンサンブルコンテストの編成期間中であるこの期間、高坂先輩は一時的に渡欧していた。ちょうどオーストリアでは兄さんのメインステージであるいつもの世界大会がやっていたので、それの見学に行っていたと聞いている。
渡航費だけ高坂家が出しているけれど、向こうでの滞在は全部兄さんが手配していたそうだ。兄さんが滅茶苦茶なくらい高坂先輩に入れ込んでいる証ではあると思うけれど、そんな好待遇を受けた割には随分と疲弊した様子だった。
「何があったんですか」
「色々と、ちょっと……精神的に」
「はぁ、そうですか……」
「前半は良かったの。ミュンヘン空港まで迎えに来てくださって、その後ノイシュバンシュタイン城とか連れて行ってくれたし」
「めっちゃ観光してるじゃないですか。雪のノイシュバンシュタイン城とか憧れですよ」
「そう。それは良かったんだけど、後半の大会会場で桜地先生がいきなり同じトランペットの奏者たちに喧嘩売り始めて……」
「はい?」
「なんか、私が桜地先生をぶっ倒す予定だから、あなたたちはこの子を倒さないと私に一生勝てないよ~みたいな事をもっと真面目な感じで言ってた」
「えぇ……。具体的には誰がいたんです、その場に」
高坂先輩が答えた名前は、トランペット界隈に詳しくない私でも知っているような名前ばかりだった。世界で活躍する名奏者たちであり、同時に全員が兄さんの背中を追いかけ続けている存在なのだろう。そんな存在からすれば自分たちが見上げ続けている兄さんが、己を倒す存在として期待されている存在が自分たちではない事に面白い感情を抱くはずがない。確かに言葉を選ばずに言えば喧嘩を売っているという事になるのだろう。しかも高坂先輩の代理で。
「それで、多くの奏者の方から睨まれたと?」
「いや、それは特に。はいはいって感じでスルーされて……」
「あ、そうなんですね。じゃあ良かったじゃないですか。思ったよりプロの方は人格者が多いみたいですね」
「良くはないでしょう……? 精神的に凄い緊張したから。人格者が多いというよりは……桜地先生の性格に慣れている感じ?」
それはあるかもしれない。奏者の間には横のつながりもあるようだ。多分、ヨーロッパで活動する奏者の間なら結構しっかりした繋がりがあるんだと思う。それに、大会の常連ならよく会う顔だろうし、それなりに性格なども知っているのも納得だ。兄さんは普段はまともだけれど、奏者として活動している時はいくらかキャラを作っているようなので、こういうやや傲慢な態度を見せているようだ。
「と言うか、兄さんはなんでいきなりそんなことを?」
「さぁ、それは教えてくれなかった。でも緊張したけど、誰も私が桜地先生や自分たちを倒す存在とは思ってなかった。こんな子が? って顔で笑ってる人もいた。それが……どうしようもないくらいに悔しい。私が足りないのは知ってるけど、それだけじゃなくて、桜地先生や秋子の実力まで笑われてる気がしたから」
高坂先輩が軽んじられるということは、それを推挙している兄さんも軽んじられていることになる。演奏の腕は超一流でも、弟子を見る目は二流かと思われた可能性だってあるだろう。それに、高坂先輩を笑うということは、それに勝った秋子先輩も貶されているのと同義でもある。その場にいたのは超一流の上を行く人たち。そんな人からすれば、高坂先輩も秋子先輩もまだまだなのだろう。でも、それが高坂先輩には許せなかった。
「仕方ないですね。高坂先輩のことを知っている方でも精々兄さんの弟子くらいの認識でしょうし」
「分かってる。だから、あの人たち全員が私を意識するようになるまで頑張るしかない。十年以内に何とか追いついて見せる。桜地先生にも、他の誰にも負けない特別な存在になって、優勝インタビューで私に勝った最高のライバルの話をしてやる。それが今の、私の目標になった」
あぁ、これが狙いだったのかなと思った。全国大会金賞という、高坂先輩が中高の六年間を懸けて追い求めた結果を手に入れた結果、高坂先輩の大きな願望は成就したことになる。もちろん、その末にあるのはプロの世界に入ることだろうけれど、全国大会金賞とプロになるのには大きな差がある。その差が大きいがゆえに、高坂先輩のやる気が宙ぶらりんになってしまうのを恐れたのだろう。
つまるところ、高坂先輩に発破をかけようとしたのだ。多くのプロは当然無名の高坂先輩を脅威とはみなさない。それは、日本の吹奏楽界隈ではそれなりに名前の売れている彼女からすれば憤懣やるかたない対応だったはずだ。そうなることを見越して、或いはそういう風に振舞ってもらって、高坂先輩がもう一回スタートラインに立って走り出せるようにしたのだと思う。
やり方がやや遠回りではあるけれど、高坂先輩には合っているやり方にも思えた。その辺は三年間の付き合いのなせる技だろう。現に、兄さんが多分思ったであろう通りに彼女は奮起している。同時に、秋子先輩を一緒に栄冠の舞台に連れて行こうとしているのだろう。それくらいには、きっと秋子先輩は特別な存在なのだ。追いついて、追い越した相手なのだから、無理もないだろうけれど。
「プロとしての兄さんはどうでしたか?」
「言語化できないくらいに凄まじい演奏だった。他の人も全員上手かったけど、やっぱり桜地先生が一番だと思う。それに、自分に足りないものを掴めた気がする」
「得るものがあったようで良かったです。それで、お帰りになって早々に申し訳ないのですが、そろそろアンサンブルコンテストのチーム編成が終わります。既に決まっているグループには指導が始まっていますので、本日から早速お願いします」
「分かった。どれくらい決まってる?」
「半分くらいは」
グループ分けは中々難しい。これだけの大所帯なので、性格的に合う合わないというのも存在するし、単純にやりたい曲と編成がかみ合わない時もある。元初心者と競合出身者ではどうしても売れ行きに違いが出てしまうという事実もあった。
「相変わらず久石さんは手が早いわね」
「今年こそは勝ちたいでしょうからね、彼女も」
「あなたはどうするの?」
「私はこの辺のメンバーを上手く集めて編成を作ろうと思います」
「ほぼ全員初心者ね。あなたと月永君と加千須さんだけ大会経験者、か」
「仕方ないですね、その辺は。サックス組は正直圧倒的に経験が足りないと思っています。一年生はまだしも、二年生も半分以上が大会メンバーに入れていません。ですから、ここを立て直さないと人数だけいる割に今一つ成果の出せないパートになってしまう危険性があるかと思いました。後はまぁ、コントラバスは中々編成に入りにくいですので。それをカバーできればと」
「底上げ狙いの編成、ということね」
「はい。無論、勝ちに行くつもりでやりはしますが」
最初から負けるつもりでやる気はない。当然、狙うのは学校代表の座だ。一昨年は高坂先輩・秋子先輩・川島先輩・久美子先輩の四名だった。今考えると化け物ぞろいの黄金メンバーすぎる。全員エース級で構成されているのだ、負けるはずがないというのが正しいだろう。去年はクラリネット組が出場した。こちらもこちらでハイレベル。今年どうなるかはまだ分からないが、大本命はクラリネット八重奏か久石さんが編成した金管八重奏だと思う。ここに食いつけるかが大事になって来る。
「残りはまだ待っている状態ですが、剣崎さんが上手くチームを組んでくれています。正直、メンバーさえ決まってしまえば曲は後でどうにでもなるので」
「後は、部の備品に楽譜があるかどうか、ね」
「兄さんがいらない楽譜をドカッと寄付してくれましたけど、正直クラシック系が多いので。如何せん最近の流行りとか、吹奏楽の曲は多くありませんから。そこは工夫でどうにかするしかないかなと」
楽譜は結構いいお値段がする。流行りの曲や最新のヒット曲なんかはかなり値が張るので、そう簡単に導入は出来ない。兄さんの曲は作者謹呈で楽譜をくれるけれど、難しすぎて今のところ埃を被っていた。予算と睨めっこするしかないのが辛いところだ。これでガタがきている楽器も幾つかあるのだから困っている。
「資金難ね」
「はい……。優子先輩がOB会を組織してくれたそうです。トランペットパート中心に発起しているとかなんとか。ただ、新生北宇治で社会人なのが兄さんくらいですから、全員お金に余裕がないみたいです」
「あと数年はかかるわね」
「ちょっと今、うちの家も使って十数年前のOBに連絡がつかないか試しているところです。三年連続でこの活躍なので、昔の強豪だった頃のOBが上手く協力してくれるんじゃないかと思いまして。一見すると怪しいですけど、桜地の名前があれば少なくとも信用はしてくれるんじゃないかと言うのが、今の幹部の意見です。滝先生と同年代や年上の方もいるでしょうし、学生よりは寄付をお願いしやすいかなと」
「その辺りは私もノータッチで来てるから、多分歴代会計に聞いた方が良いと思う。希美先輩はあなたが一番近いし、香織先輩なら私と優子先輩で繋がれるから、色々聞いてはみる」
「よろしくお願いします」
歴史の断絶が北宇治の大きな影になっている。この時代になってそれがもう一回表層化するとは思わなかった。強豪にあることの多いOB会がちゃんと機能していない。名前だけはあったらしいけれど、ほぼ形骸化していたそうだ。優子先輩が一から立ち上げてくれているので、その辺に期待するしかないだろう。
部費は当然徴収しているし、学校が全保護者から集めているお金を等分した資金も入ってはいる。けれど、遠征費や運送代、バス代、サンライズフェスティバルの衣装代などに溶けていくのだ。
「取り敢えずお金の話は卒業生たちにお願いするとして、私たちは行きましょうか」
「そうね」
私たちは連れ立って廊下を歩く。冬の寒さが津々と私たちを包み込んだ。間もなくこの古都は雪一色に染まるだろう。そういう時期が、またやって来たのだ。そんな中、私たちはまだ熱を燃やしている。ただ、どうしても熱量は人によって差があるのも事実。それに対してどうにかこうにか薪をくべていくのが私たちの仕事だった。
「山下さん」
「は、はい」
「前に言った部分は出来るようになっていると思います。ただし、この曲の序盤は混沌していますが、混沌と無秩序は違います。自分が今どの部分で何をしているのか、全体の構成の中でしっかりとイメージ出来ていますか?」
「……すみません」
「謝って欲しいわけじゃないです。イメージ出来ているのかを聞いているので、「はい」か「いいえ」で答えてください」
「いいえ、です……」
「奏者は聞くのが七割、吹くのが三割です。これは何度も言いました。他者の音、自分の音をしっかりと聞き取る。そして、自分の音を他者の音の組み合わせの中に位置づける。それが合奏です。これまで福井さんの下で何をしていたんですか? 模範となるべき演奏が近くにいたのに学び取る機会を逃がしたのは大きな損失に……」
「はい、まぁ取り敢えず次に行きましょう」
「……正直山下さん以外にも言いたいことはたくさんあります。特にトランペット三人! そんな体たらくで桜地先生に顔向けできません」
「「「はい」」」
「高橋さんは一番出来てます。あなたが中核になって引っ張るようにしてください」
「はい」
しょんぼりした空気が室内に満ちる。高坂先輩は少しだけ困ったような顔で眉をひそめた。もっと元気よく反骨心に満ちた返事が返ってくるのを期待していたのだろう。やったるぞーという気合いは今のこのメンバーからは感じられなかった。
このグループは金管八重奏で高橋宏樹作曲「水の惑星への賛歌」を演奏する。これまた難易度は高い曲だ。最初は混沌とした導入、その後洗練されたコラール、後半は再現部のあと「未来はどちらの方向へ向かうのか」という問いかけの意を含んだコーダで構成されている。現代音楽に分類される、やや前衛的な曲だ。センスはあると思う。
メンバーは坂本るかさん、高橋雪深さん、松武愁吾君、武川ゆきさん、針谷佳穂さん、上石弥生さん、山下ケイトさん、吉澤洋さんの八名。トランペット三人組は一年生の仲では上位にいるかなと思えるメンバーだ。残りはまだまだ成長途中。武川さんはおっとりしているけれど根性はあると思う。B編成での練習中、結構質問に来ていた記憶がある。
グループの色もあると思うけれど、根性! という感じの生徒がいないのが特徴だった。それはそれで良いと思う。ただし、高坂先輩とはやや相性が悪い気もする。と言うより、今の一二年生にそこまで反骨心や克己心に溢れている生徒が多くないようにも見える。これも今後の課題かもしれない。久美子先輩は上手く誘導していたが、それも今はない。梨々花さんはそういう感じの部長ではないだろう。中々難しい状態だった。
「高坂先輩の仰ってくださったことは正しいです。現代音楽は構成が難しいですから、自分が今どこで何をしているのかをしっかりと意識してみましょう。まずはCDからでも構いません。あ、ここで自分の楽器が出すべき音が鳴っているな、と認識して、演奏する。それを何度か繰り返している間に、段々と自分のするべきことが見えてくるはずです。そうしたら、今後は他の楽器の音にも気を配ってください。徐々に徐々に視野を広げて、全体の中の自分を掴みましょう」
「「「はい」」」
「トランペットはとにかくハリをもっと出して。たわんだ音になっているのが一番カッコ悪いから」
「「「はい」」」
「まずは個人でしっかり出来るようにしてから合奏してください。今のまま合わせても意味がないです。以上です」
そういうと、高坂先輩は話を切り上げた。厳しいなぁと思いながらその背中に視線をやる。言っていることは全部正しいし、実際そうするべきだとも思う。けれど、どうにもこうにも対人コミュニケーションに難がある。正確には、フォロー役がいないと大変というのが正しいだろうか。
今まではドラムメジャーとして厳しい指導をしても、先輩である三年生が上手くフォローしている場面も多かった。A編成とB編成に分かれてからは私や真由先輩と久美子先輩がフォローする回数がそれなりにあった。そういうのがあるからこそ、マイナスな感情を上手くコントロールして前に進めていたのかもしれない。
けれど、今はその三年生がいない。高坂先輩の地盤は無い状態に近いだろう。もちろん彼女を慕う後輩も多いけれど、ある種のカリスマである彼女は近付きにくさもある。希美先輩や久美子先輩のようなカリスマとはまた別の種類だろう。地盤である三年生もいない現在、高坂先輩はもう一回自分個人と一二年生たちとの間に関係性を構築する必要に迫られていた。後輩しかいない空間、というのは彼女にとってそれなりにやりにくいらしい。
「中々、上手く行かない」
高坂先輩がボソッと廊下で呟いた。私はそれに同意するけれど、そうですねと言うのもなんだか他人事すぎる気がして上手く返事が出来なかった。
「個々人の指導は難しい。桜地先生みたいには……」
「まぁ、あの人はなんだかんだそういうのは上手かったですからね」
高坂先輩だって、全体での指導力は大変優れたものがある。指摘している箇所で間違っていることは無いし、音楽的な能力は相当に練り上げられている。微妙な部分にもよく気付く耳を持っているし、センスもある。兄さんの弟子として相応しい能力を有しているのは間違いないのだ。ただし、それが現状では上手く相手に届いていない。
全体での指導ならば各パートが持ち帰り、パートリーダーが嚙み砕いたりして再度練習が始まる。一方、個人個人に指摘していくスタイルではそのワンクッションが無い。その分高坂先輩の圧がダイレクトに部員に浴びせられるのだ。それに臆してしまう部員もいるのも事実。自分を肯定してくれる存在ばかりではない中、彼女は苦戦中だった。
端的に言えば、部員が中々心を開いてくれないのである。特に一年生は。無理もない話だろう。一年生から見れば、特にB編成の子たちから見れば、高坂先輩は雲の上の存在で、手の届かない場所にいる三年生。そこに隔絶したモノを持ってしまうのも仕方ない話だ。
「男子部員には、もっと遠ざけられてる気がする」
「単純に怖がられてるだけだと思いますけどね」
「どうして……?」
「塚本先輩への態度がきついからでは?」
「……」
「そこはお互いに北中同期の信頼があるからだとは思いますけど、傍から見ているとそんなの分かりませんからね。まぁ、私もあまり偉そうなことは言えないですが……。なにせ、元々高坂先輩みたいな感じで指導していましたし」
思えば、ドラムメジャー二人とも厳しめの指導しかできないにはちょっと問題かもしれない。三木さんは私よりは全然優しいけれど、なんだかんだスパルタな南中出身なので若干普通の感覚がおかしいところがある。
「桜地先生は……どうやっていたのか気になる。あの指導ノートには個人的な部分まで結構書いてあった。それに多分、あそこに書いて無いことも沢山知っていると思う。それを打ち明けてくれるような関係性をどうやって築けるのか、よく分からないままここまで来てしまったわね」
「私もよく分かりません。もうこうなったらしょうがないですね。知ってる人に聞きましょうか」
「知ってる人?」
「はい。部活中の兄さんをよく知っている人です」
そう言って、私は高坂先輩を伴って自分の家に帰った。結局あれから幾つもグループを回ったし、自分のグループも指導をしてくれたけれど、全体的に高坂先輩に向けられる反応は堅かった。嫌われているわけではない。むしろ尊敬されているのだろう。ただ、どうしても取っつきにくさを感じている部分は目立った。
それがより顕著なのは、個人練習で声をかけた時だろう。褒めるにしても注意するにしても、内容に関係なく縮こまっている部員が多い。梨々花さんが優しい反動なのかもしれないが、余計に高坂先輩が厳しく見えているのかもしれない。私は多分、北宇治に来てから幾分か丸くなったせいなのか、或いはこれまでずっとB編成の指導に携わってきたからなのか、そこまで堅い反応を返されることは無かった。
やはりこれは解消しないといけない。なので、私は部活中の兄さんについてかなり知っているであろう人に会うべく自宅に戻ったのだった。何のことは無い、希美先輩と高坂先輩を引き合わせるだけなのだが。希美先輩はB編成だった頃に兄さんの指導をよく見ているだろう。他の三年生が受験勉強中で一二年生はどうしても発言に遠慮が入るこの状況で、兄さんの指導について一番率直に聞きやすいのが彼女だった。
一番兄さんが指導をしていたのは高坂先輩と秋子先輩だけれど、二人に接する態度と他の人に接する態度は当然凄まじいまでの差があった。そのせいもあって、高坂先輩は戸惑っているのだと思う。
「ただいま帰りました」
「お邪魔します」
緊張した声で高坂先輩は家に入った。何度来ても彼女はお屋敷の門や玄関を見渡している。
「あ、お帰りー」
「お帰りなさい」
玄関に靴があったのでいるかなとは思ったけれど、やはりみぞれ先輩が来ていた。みぞれ先輩は時々こうして我が家に来ている。大体は私が学校から帰る前に帰宅してしまうけれど、今日はまだいたようだ。うちにある大きな防音室はみぞれ先輩にとってもありがたい存在らしい。時々美味しいお菓子を持ってきてくれるので、それが使用料の代わりになっていた。
「みぞれ先輩、いらしてたんですね」
「うん。お菓子、食べてた。それより、珍しいね」
みぞれ先輩の視線が私の後ろにいる高坂先輩に向けられる。ぺこりと頭を下げた高坂先輩に、みぞれ先輩は何とも言えない表情で挨拶を返した。この二人も結構微妙な関係性と言うか、兄さんや希美先輩がいないとあんまり関わりのない間柄かもしれない。
「高坂さんもいらっしゃーい。今、お茶出しちゃうね」
「すみません、ありがとうございます」
「いいのいいの、この家広いせいで全然人気が無いからねー。お休みの日の昼間なんて、私と雫さんだけで生活してるから静かでちょっと寂しいくらいだし。お客さんは大歓迎だよ」
紅茶の香りがダイニングに満ちていた。少しひんやりとした冬の空気が、電気ストーブと紅茶の湯気で温められている。テーブルの上にはお菓子の箱が置いてあった。
「東京會館ですか? 日本橋とかにしかお店無かったはずですけど、よく手に入りましたね」
「お父さんが実家に出かけてて、そのお土産」
「東京なんですね、ご実家」
「うん。広尾」
「あそこ良いですよね、住みやすそうで」
「散歩してると、楽しい」
みぞれ先輩は懐かしそうな口調で言った。従兄弟が関東の方にいるらしいし、鎧塚家は元々あっちがホームなのかもしれない。そういえば、修学旅行の時も兄さんや希美先輩より詳しかったそうだ。やはり、帰省している回数が多いからだろう。
「私の話も良いけど……」
みぞれ先輩はちらりと高坂先輩を見た。
「高坂先輩。カップの持ち方が違います。取っ手を持つ時は親指と人差し指です。あと、ソーサーは置きましょう」
「はい」
「あはは、なんだか涼音ちゃんが先生みたいだね。普段と真逆になっちゃった」
希美先輩が愉快そうに笑っている。高坂先輩が後輩に「はい」なんて言っているのは相当に珍しい景色だろう。一年生が見たら目を丸くするんじゃないだろうか。高坂先輩が色々と教えて欲しいというので、こうして機会があれば伝えていた。兄さんは適当そうに見えてこういうところは凄くきちんとしている。箸の使い方に代表されるテーブルマナーとかドレスコードなども完璧に抑えている。揚羽には、隠しきれない育ちの良さが見えると言われたのを思い出す。
「あの、お二人に聞きたいことがあります」
高坂先輩は自分の飲み方を修正した後、そう言った。
「今、私たち二人で一二年生の指導をしているんですが、全体指導はともかく個人指導では中々上手くいかないんです。これまで個人にフォーカスした指導はそこまでしていなかった私の落ち度ではあるんですが、どうもビクビクされてしまって……。桜地先生みたいに信頼してもらえるには、どうしたら良いんでしょうか」
中に溜めていたものを吐露するように、高坂先輩は続ける。
「今までは先生の後を追わないと、と思ってひたすらがむしゃらにやってきました。正しいプランに従って、絶対に金賞を獲るために。その過程で色んなものを見失ったりもしましたけど、最終的には成功したと思っていたんです。ただ、こうやって一歩引いたところから見ると言いますか、今までと関係性とか環境が変わった中でやろうとした時に、私のこれまでの指導は押し付けだったんじゃないかって、そんな風に思えてしまう時もあって。桜地先生の時はもっと、みんな指摘されても「頑張るぞ!」っていう雰囲気だった気がするんです」
「そっか。中々上手く応えてくれないんだね。高坂さんが頑張って色々言っても、縮こまっちゃう感じかな」
「……はい」
希美先輩とみぞれ先輩は顔を見合わせた。どっちが先に喋るか、というアイコンタクトでの会話の後、みぞれ先輩が口を開く。
「凛音は、否定しなかった。あと、どうでもいいことをよく言ってた」
「と、言うと?」
「なんで出来ないのとか、そういう事を言わない。出来ないことは悪い事じゃないし、出来るようになってもらうのが、仕事だって。それで、全然練習と関係ない話もよくしてた。好きな食べ物とか、テレビとか、そういうの」
「それが、練習に繋がるんですか?」
「直接は分からない。ただ、私の事を見てくれてるんだ、知ろうとしてくれてるんだっていう感覚はあった。友達として付き合う時も、そう」
私はあなたの事を知りたいと思っています。受け入れたいと思っています。あなたの事を教えてね。そういう姿勢は確かにあったのかもしれない。もちろん兄さんだって相手の伝えたことを全部を知っていたわけではない。でも、その世界について知ろうとしていたのは事実だ。アニメが趣味の子がいれば、その作品について調べたり視聴したりしていた。手芸、観葉植物、ロードサイクル、演劇鑑賞、日本刀、等々みんな好きなことはバラバラだ。それでも知らないことを知って、相手の好きに自分を合わせようとしていたのは事実。
そういう部分は確かに信頼を得やすいかもしれない。奏者じゃない自分の部分をしっかり見てくれているというのは、安心感や肯定感に繋がるのだろう。自分は兄さんにとって背景ではなくちゃんと大事な後輩だと思われている、という。それで悪い気分になる人は少ないと思う。
「もちろん、全部が全部最初から上手く行っていたわけじゃないとは思うけど。特に二三年生には、厳しかったし、怖がってる子も最初はいた、ようには見えた。でも一年生には初めから寄り添おうとしていた、気がする」
みぞれ先輩は意外と周りを見ている。何も見ていないようで、それでいて観察はしているのだ。
「高坂さんはさ、どうして上手くなって欲しいの?」
「それはもちろん、来年以降の北宇治がより良い場所になって、より良い結果を残せるようになるためです」
「そっか。それは大事だよね。でも、部員のみんなはどうかな」
「皆もそれを望んでいると思いますけど。だって、皆全国大会金賞を目標にして、ここまで一緒にやってきました。想いは同じはずです」
「もちろんその通りだと思うよ。けど、部員のみんなには、金賞っていう結果以外に何も残らないのかな」
「それは……」
高坂先輩は困ったような顔になった。
「高坂さんが皆に上手くなって欲しい、っていう凄く強くて大きな願いを持っているのは、皆ちゃんと分かってると思う。それが北宇治のためで、巡り巡って将来の自分たちのためだってことも。でも、それだけじゃ頑張れない時もあるんじゃないかな。高坂さんは北宇治のために活動していて、それは素晴らしいことだけど、皆のためにっていう部分が加わったら、もっと良くなると思うよ」
「皆の、ため?」
「うん。凛音曰く、部活の指導をしていて嬉しかった瞬間が二つあります。一つは全国大会に行けたこと。さぁもう一つは何でしょう?」
「教えていた生徒が上手くなったこと、ですか?」
「うーん、若干近いけど正解じゃないかなー。正解はね、初心者の子が楽しいって言ってくれたこと、皆が全国大会が終わった後に楽しいって言ってくれることだって」
そういえば、兄さんは毎回聞いている。楽しかったか、と。兄さんは音楽を愛しているのだろう。愛しているからこそ、他の多くの人にも愛してほしいと願っている。愛して、好きになって、楽しいと思って欲しいのだろう。全国大会を目指す苦しい練習の中でも、楽しい場面はちゃんとある。そういうモノを見つけて欲しいのかもしれない。
前に見た指導報告の、加藤先輩のページを思い出す。まだ加藤先輩が一年生だった五月のある日の場所にはこう書いてあった。「加藤さんが、黄前さんたちときらきら星を合奏。楽しいと言ってくれた。良かった」と。瞳先輩とか、牧先輩のところにも同じようなことが書いてある。それも、かなり太い字で。
あの頃の苦しい兄さんの中で、楽しいと言ってくれた初心者の声は救いだったのだと思う。
「アンサンブルコンテストは、確かに来年に向けた大事な布石だよね。でも、それだけじゃないと思うんだ。そういう練習なら、コンクール期間に山ほどやったし、今年はオーディション三回だから、もなかの子たちもずっとコンクール曲を練習してたよね?」
「はい」
「だからこそ、アンコンではやりたい曲を、楽しくやることも大事なんじゃないかな。出来ないことより、出来る事とか出来るようになった事に視線を向けて、出来るって楽しい! って相手が思ってくれるようになれば、言葉も届きやすくなると思うよ。もちろん、笑顔を忘れずにね」
来年の北宇治により良い成果を。私も高坂先輩もそう思う一心で指導を行ってきた。確かにアンサンブルコンテストもソロコンテストも、そういう目的で兄さんが始めた取り組みだ。でも、それだけではない大事な役目もある。そのことを、私たちは忘れていたのだろう。解決しないといけない問題や不安が多く目の前にあったからこそ、部活として大事なモノを見落としていた。
「なんて偉そうなことを言ってみたけど、何か参考になったかな?」
「ありがとう、ございます。もう一回、指導を見直してみたいと思います」
「私も、同じくですね」
「お役に立てたなら何よりだよ。ね、みぞれ」
みぞれ先輩は静かに頷いた。玲瓏な瞳が私たちを映す。そこには優しい色が含まれていた。時々何を考えているのか難しい時もあるけれど、みぞれ先輩も基本的には善性の人だ。それには疑いようがない。紅茶を一口飲んだ後、その桜色の薄い唇がゆっくりと開いた。
「二人は、凛音じゃないから。凛音にしか、出来ないこともある。でも、二人にしか、出来ないこともあると思う」
それは、私たちの探すべき命題であり、今後追及していくべき課題だった。私たちにしかできないこととは何か。その答えを見つけ出すことが、この数か月の間にするべきことなのだ。それがきっと、北宇治や私たちがより良い未来を掴むための一番の方法なのだろうから。