「私の、先生になってください!」
眼前の少女は大きな声でそう言った。一瞬呆気に取られる。そういう要求が来るとは思ってもみなかった。部活云々の話ではない。まさに、自分のために私に働けと言っている。大胆な要求以外の何物でもない。人によっては非常識とも、無礼とも思われるだろう。
だが、不思議と不快ではなかった。自分が上手くなるために有効な手段が存在し、可能性が少しでもあるのならば挑んでみる。これは上達への手段としては間違っていない。そもそも、音楽とは少なからず自己中心的なところがある。それは決して悪いモノではなく、自己無き者にいい演奏は出来ないだろう。なにせ、自己がないとはイコールで芯がないことと同義なのだから。
とは言え、受ける理由はない。
「他を当たってくれ。そもそも君の技量は高校生にしては十分だろう。このまま普通に練習をしていけば、この学校の部活でも腕を落とさずいられる。部活は吹部か?」
「はい」
「ならそこで努力すればいい。私である理由はなんだ」
「父に演奏されている姿を見せてもらいました。世界有数のトッププレイヤーだと言われて、私もそう思いました。自分の演奏の未熟さを痛感して、同時に素晴らしさに圧倒されて、その日からずっと目指すべき音なんです」
「それは光栄なことだな。だが君が感銘を受けたことは、私が教えるべき理由にはならない」
「……はい」
「そもそも、私を使ってまで上手くなってどうする気だ。しかも、真っ当にやっていれば一定以上にはなれるというのに、どうして急ごうとする。君に答える義理はないが、少なくとも私をこんなところに呼び出したんだ。私には聞く権利があるはずだが」
「私は、特別になりたいんです」
「……特別」
「はい」
なんともフワッとした話だった。「なにで」という要素も言っていない。演奏家としてなのか、音楽家としてなのか。プロとしてなのか、吹部の中でなのか。大まかで、曖昧。逆に言えば、どんな風にでもなれる可能性があるともいえる。
「特別になりたいなら、尚の事どうしてここへ来た。立華か洛秋、或いは関西三強にでも行けばいい。君の技量なら、引く手数多だろうさ。家庭の余裕があれば他県の強豪校へ行くこともできる。私のように海外へ行くこともできる。もっと言えば、北中などに行かず聖女にでも行くべきだった。環境がすべてとは言わないが、よい環境は実力を高めるのに役立つ可能性が高い」
「それは……」
「意地悪を言っているようで済まないが、私はそう思ってしまう。ここの吹部に入ったとしても全国へは行けないだろう。特別が何かは知らないが、身を置いた場所で辿り着ける頂点に辿り着くのがそれになる道だとするなら、全国大会がそうなんじゃないのか? 違うか」
「……違いません」
「更に言わせてもらえば、北中という選択肢も今言った観点からみれば間違いだな」
「どうしてでしょうか」
「本気で全国に行けると思ってたのか? あの演奏で」
彼女はひどく傷ついたような顔をした。全国大会を目標に掲げる学校は多い。それを当然としている強豪校もあれば、なんとなく目指している北宇治のような弱小校もある。弱小とは言えないが、強豪とも言えない学校は大多数を占めている。そんな学校群にいるどれだけの部員が本気で全国に行けると信じているのだろうか。
「行けて関西が関の山。そういう実力だった。関西では出れてもおそらく銅か銀。私はそう判断した。尤もこれは私の私見であり、審査員ではないから正確ではないかもしれないが、結果として君たちは府大会ダメ金だった。決して誤った判断であると一蹴されるものでもないだろう。悔しさを引きずっているのかもしれないが、切り替えないと疲れるだけだ。郷に入っては郷に従えという」
嫌な言葉選びをしているとは思っている。だが私からすればこの頑固そうな子をどうにか納得させて引き下がってほしい。下手に隙を見せると押せばいけると思われかねない。何回も来られると困るのだ。
「さ、分かったら帰りなさい」
「それでも……それでも私は諦めたくありません」
「……」
「確かに、先輩の仰ることはその通りだと思います。同じ部活の子にも、同じことを言われました。『本気で全国行けると思ってたの』って」
同じ部活なのになかなかドライな部員だと思った。だが現実が分かっている。本気で目指している人がどれだけいるのか。それは環境によって変わる。つまり、北中ではその程度の目指し方だったということだ。これが真の強豪だと言葉の重みが違う。
強豪校にとって全国とは行かなくてはいけない場所だからだ。先輩も、その先輩もずっと行っている場所。自分でその伝統を絶やすわけにはいかないし、自分だけそこに行けないのは嫌だ。だからこそ必死に練習する。
「でも、少なくとも私は目指していました」
「何故?」
「目指すって決めたことを目指さないのは、嫌だからです。そんな無責任なことはできないし、そんなことをしている間は絶対に特別にはなれないと思います」
責任。確かにそれは存在する。目指していたのならば、そう自分たちで決めたのならば、夢を目指さなくてはいけない。それに、中学最後なら後輩を率いる立場だ。ならば夢を見せたのなら叶えるために導く責任も生まれてくると言えるかもしれない。
「もし私のこれまでの行動が正解じゃなかったのだとしたら、ここでは間違えたくない。今度こそ私は上に行きたい。特別になりたい!」
「一人だけ上手くてもしょうがないだろう」
「大丈夫です。今年から顧問の先生が変わりますから」
「……知ってる。滝先生だろう?」
「はい。滝先生なら、きっと大丈夫です」
何の根拠があって、と思った。しかし、同時に気付く。彼女がこんな吹部弱小校に来たのは多分、彼の事があるから。けれど決して凄い親密ではないらしい。もし親密なら彼が私を勧誘しようとしていることも知っているはずだから。知っていたら部に勧誘する方向での説得を行うだろう。個人教師になってほしいとは言わないはずだ。
「私のあの時の悔しさは、絶対に譲りたくないんです。悔しくて、悔しくて……死にそうだったあの時の想いは」
本気だった。愚直に、どこまでも本気で、彼女は特別になろうとしている。まだ輪郭がぼんやりとしか見えない特別を目指して走っているのだ。そして、本気で全国大会を目指したいと思っている。こんな部活で。
バカと一蹴してしまえばそれまでだろう。だが、そうはできなかった。彼女の強い意志の籠った瞳は、いつか見たものだったから。きっと、過去の自分もそうだった。上手い人の背中を必死に追いかけていた。貪欲に、愚直に。心血を注ぎ、魂を摩耗させ、音楽と闘っていた。そうまでしてでも、上手くなりたかった。
彼女の姿と、いつかの自分が重なった。あの時の自分が、今のような実力を手に入れられたのは挑ませてくれた数多くの先達の力添えが大きい。彼らが胸を貸してくれなければ、教えを授けてくれなければ、背中を見せてくれなければ。きっと今の私はいなかった。後進に教えを繋ぐ。そうして音楽の命脈を保たせる。一人でも多くに、届くように。それが音楽家の使命の一つなのかもしれない。
彼女がかつての自分と被るなら。もしそうなのだとしたら。私は私にとっての先達になるべきなのかもしれない。大きな溜め息を吐いた。それは平穏への別れでもあり、覚悟でもあった。
「大変だぞ、それは。この部の実力は知っているはずだ。粒はいるが、全体がどうしようもない。先生がいかに優秀でも、易々とはいかないだろう。君への反感は必ず出る」
「分かっています。だからこそ、技術で文句を言わせないくらい、上手くなりたいんです」
敵を作りやすい性格だ。だが、高校生ならこれくらいの方がいいのかもしれない。少なくとも、大人にならざるを得なかった私に比べればずっと真っ当かもしれない。
「…………明日の朝、7時半にここへ来なさい」
「引き受けて、くださるんですか?」
「まだ保留だ。決める条件は明日話す。それで構わないな?」
「はい。ありがとうございます」
彼女は深々と頭を下げた。黒髪がはらりと躍動する。心なしか、彼女の顔は高潮しているように思えた。喜ぶにはまだ早いのだが、まぁいいだろう。無感動でいられるより、よっぽどいい。
「もう行きなさい。今日も部活はあるはずだ」
「お時間、ありがとうございました」
この時期だとまだ楽器決めがどうこうとのんびりやっているころだろう。なら部活も大分余裕があるはずだ。それに、どのみちあの部活は余裕しかない。そのくせ無駄に上下関係はしっかりあったのは閉口したが、それは言ってもしょうがないことだろう。
朝、目を覚ました時小さく息を吐いた。確かにある程度覚悟はしている。だが、面倒でないと言えば嘘になる。出来ることと出来ないことの間には出来るけれどやりたくないことが無数に存在するのだ。
普段はもう少し遅く出ても間に合う。ただ今日はそういうわけにはいかない。人を待たせているのは私なのだから、遅れるわけにはいかない。不本意な用事であっても後輩相手であっても、そこを妥協してはいけないはずだ。
彼女が幻滅してくれれば勝手に諦めてくれるだろう。だが、私が断り通すのならばともかく、申し出ておいて勝手に諦められるのは非常に腹立たしい。そんな風に幻滅などされて諦められるのは私の人間として、音楽家としてのプライドが許さなかった。
校舎裏へ向かう。体育館からはボールの弾む音が響いていたし、グラウンドでは掛け声が聞こえる。朝から多くの部活は練習に励んでいた。吹部は相変わらずの様子であり、朝練などない。
「ふぃー、ちょっと休憩……お、早いな、どうしたん?」
ユニフォームで汗をぬぐいながら、体育館の分厚い金属扉を開けて柏原が出てきた。校舎裏で待っている私を見つけ、怪訝そうな顔をしながらやってきた。私がこの時間に登校しているのも珍しいことだし、こんなところにいるのは確かに謎だろう。
「あぁ、まぁ、ちょっとな」
「! もしかして、昨日の子? やっぱ告白だったパターンか? それでお前は返事待たせてる的な!」
「なんでそういう方向に繋げるんだか。全然違う」
「面白くないヤツだぜ」
彼はケラケラと笑う。私からすればあまり愉快な状況ではないのだが、そんなことを彼は知らない。
「昨日の子ってところは合ってる」
「マジで!?」
「だからな……」
「分かってる分かってる。でもさぁ、心配なんだぜ。去年のことがあってから、あんまりちゃんと笑えてないように見えるから」
「……そんなことないと思うんだがな」
「……ま、良いことあるといいな」
「なんだそのぐちゃぐちゃなまとめは」
苦笑しながら言う。彼なりに気遣ってくれているのは理解できた。じゃあな、と言って彼は体育館に戻っていく。それと入れ替わるように彼女はやってきた。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう」
「ご友人ですか?」
「見てたのか。まぁ、そうだな。友人だ。君も、友達は大切にした方がいいぞ。きっと自分にとっていい影響があるはずだ。ちゃんとした友達なら」
「……そうですね」
微妙に歯切れの悪い彼女に課題を渡す。中身はCDと譜面。これが私が課した試験だ。CDは実際に演奏した音が収録されている。有名な曲ならばともかく、これはオリジナル。私が吹いたバージョンしかない。練習用として去年の秋頃に書いたものだったが、ここで使うことになるとは思わなかった。お蔵入りしていたのでちょうどいい具合に活用場所ができてよかったとさえ言えるかもしれない。
「自力でどこまでできるのかを見たい。これを完成させてくれ。練習曲だ。期限は三日後。三日後の朝、今日と同じ時間に成果を見せてくれ。問題ないな?」
「はい、大丈夫です」
「今吹部は何してるんだ?」
「この前楽器決めが終わりました。今日の放課後に先生と顔合わせです」
「あぁ、そういう時期か」
ならまだまだ余裕があるだろう。こっちの練習をしても問題ないはずだ。そもそも、基礎練習なんてほとんどしていない部活なのだから時間はあるはず。トランペットは比較的マシなパートではあるけれど、それでも団栗の背比べ。
三日でどこまで仕上げられるのか。それを見たかった。それは現在の実力、練習で習得するのにかかる時間、そして本気度を測る指標になる。完璧にしたければ一週間は欲しいはずだ。序盤は楽だが、最後の最後でメロディーが難しくなる。油断すると息が細くなり、音が小さくなってしまう。それまでは大きめに吹いていたのでそこで失速すると目立つ設計だった。
なので完璧になるとは思っていない。どれくらいの能力があるのか。それを見るのが目的なので敢えて難しい練習曲を渡した。あんまり出来ないでくれた方が楽なのは事実だ。断るいい口実になる。それでもどこかで、いいモノを聴かせてもらいたいと思っている自分もいた。それは、自分の曲がしょうもない演奏をされたくないという心なのかもしれない。もしくは、自分の中で面倒以外の感情が湧いているのか。後者な気がして肩を落とす。なにか随分と、絆されてしまったような気がした。
あの、爛々と輝いていた瞳の色に。
――――――――――――――――――――――――――――
「えぇッ! じゃあ、その高坂って子に教えるのか?」
「声がでかい」
昼休み。サイダーの蓋を捻りながら生駒は告げた。こいつは声量が大きい。普通に話していても大きいのだから、普通じゃなければどうなるかは……言うまでもないだろう。内緒話という概念に最も向かない存在かもしれない。
「まだ保留だ、保留。自力でどこまでやれるのか見たい。そうじゃないとどうしようもないからな」
「でも、その言い方だとよっぽどじゃなければ受けてあげるってことだろ?」
「……」
私の沈黙を肯定と受け取ったのか、生駒はやれやれという感じで肩をすくめた。柏原はコーヒー牛乳の紙パックを持ちながらこちらを見ている。言わんとしていることは二人とも同じように思えた。それでいいのか、そう問いたいのだろう。なにせ、去年も同じクラスだったのだ。去年、何があったのかは大体知っている。
「もしかしてこないだの先生が来たヤツも吹部関連か? 戻って来い的な」
「大体そう」
「無茶苦茶言うなぁ、滝先生も。でも断ったんだろ」
「なんでそう思ったのさ」
「いや、受けたんだったら言うと思ったから」
「それもそうか」
確かに友人に黙っているというのは無い選択肢だ。生駒の言葉に私は納得し、視線を窓の外にやった。空は清々しいほどに晴れている。春から初夏へ移る前の最後の段階。そういう気候が京都を包んでいる。開けられた窓から吹き込む風に、カーテンが揺らめく。春風はまだ、冷たさを持っていた。
高坂さんの件は悩みの種ではある。しかし、個人的にはそれよりも憂鬱なことが存在していた。だからなるべく昼休みが終わって欲しくない。
「5限、音楽だけど大丈夫か?」
「だから憂鬱なんだろ、察してくれ」
「わりぃわりぃ」
ストローで中身を吸いながら、軽い口調で柏原が言う。
「俺美術だし」
「羨ましいことで」
「でも、お前が選んだんじゃん」
「そうだけども。友達と同じ選択科目にして、その友達と仲悪くなるとキツイということを失念していた去年の自分を叱り飛ばしたいな」
大きな溜め息を吐く。本日が学期が始まって最初の音楽の授業。我らが北宇治は入学して最初の方に選択科目を選ぶ。候補は音楽、美術、書道の三つ。そして当然私は音楽を選んだ。というより、他を選ぶ理由が特になかった。楽器は当然できるし、歌だって下手くそなつもりはない。なら別にいいだろう、友達もいるしと選んだのだが……今となっては別の物にしておくべきだと後悔している。
「俺がいるじゃん」
「でもお前音楽苦手じゃん。先生のお情けで評定3だろ、去年。良かったなぁ、去年までは激甘イージーだったから。今年は分からんぞぉ」
「……他よりマシだから」
目を逸らしながら生駒は呟く。確かに、絵と字は酷いもんだった。あれは何というか……むしろ才能すら感じる。ボールを蹴るのに才能を持っていかれたと本人はぼやいていた。
そして去年の音楽教師は――つまりは元吹部の顧問だったわけだが――その彼女は今年は産休でいない。私はいい印象などないので、別にどうにも思わないが、消去法で音楽を選んだ彼からすれば死活問題だろう。どんよりしている音楽選択組の隣で、柏原がケラケラと笑っていた。
「厳しかったらどうすっかなぁ」
「諦めるしかないだろ、もう。まぁでも音楽は基本的に受験科目じゃないから。多少は甘めにつけてくれているはずだ。内申点があるから」
「やっぱりさ、部活組としては指定校欲しいわけよ。一般組に追い付けるかは五分五分だし、楽な道があるならそっちの方がいいし」
「気持ちは分かる。私だって面倒な道が嫌だから進学クラスを蹴ってこっちにいるんだし」
「そのせいで七組の担任に未練持たれてるけどな。去年の三月、すんごい勧誘されてたからなぁ。『校内テストの結果的に十分! あなたならもっと上を目指せる! 一緒に上位大学を目指そう!』って」
「あぁ、あれな。なんであそこまで必死なのか怖くなってた」
進学実績がいいと評価に繋がるからだろうか。それとも、私が在学中になんらかの音楽的成果を出すことを望んでいるのだろうか。そもそも、私の学歴は大卒。私の為を思っているのならばもっと上になどという必要は特にない。どうにも私利私欲という感じがする。もしくは自慢の種にしたいのか。
今の担任、去年と同じであるが彼はそういうことは特に言わなかった。学校生活を楽しめ、と面談で言われて呆気にとられた思い出がある。去年の春のことだった。
「ま、私の話はともかく、出来ないなりに頑張ってる姿勢を見せるのが大事なんじゃないかと思うけど?」
「もうそうするしかないからな。選択肢がない以上、頑張ってる姿勢は見せるつもりだ」
「それはそうと、明日英語小テストだぞ」
「うわぁぁ……」
「忘れてたな」
「ノ、ノート……」
「はいはい、夜送ってあげるから」
「神……!」
生駒が手を擦り合わせながら拝んでくる。御利益など別にない。一応こうして友人でいてくれていることに感謝はしているので、出来る限り力になりたいと思って入る。それに、部活を頑張って青春の汗を流しているヤツの助けならそう悪い気はしない。使いっ走りはごめんだが、そういうわけでもないのだから。
英語は得意、というより生活言語の一つだった時期が結構な期間ある。四年もいれば、独英は使えるようになった。ドイツはかなり英語が通じる。特に北方の港町であるハンブルクは。
ノートを貸すたびに感謝の念仏のようなことをする彼が、今日も私を拝んでいるときガラガラと扉は開け放たれた。
「すみません、ちょっと遅れました」
時計の針は授業開始を一分過ぎていた。チャイムが鳴らないなぁと思っていたが、そういえばちょっと壊れていたらしく修理しているのを思い出す。朝のHRでそんな話をしていた。
めいめいに話していた教室が静かになり、全員が前を向く。なお、音楽の授業は二クラス合同だ。我々二年三組は隣の二組と合同でやっている。人数で調整していると聞いた。私たちも前を向いて先生を見つめた。私は若干、澱んだ瞳で。
「まずは自己紹介を。始業式でも挨拶をさせて頂きましたが、今年からこの学校に赴任しました、滝昇です。二年五組の担任を持っていますので、学年集会などでもお会いすることになるかとおもいます。昨年までの先生が産休に入られるということで赴任しました。部活は吹奏楽部の顧問をしています。これからよろしくお願いします」
まるでこの前のことは嘘かのように、大層物腰の柔らかい姿だった。深く頭を下げている。非常に丁寧な姿とそのルックスに、女子生徒からはかなり熱視線を受けている。一方の男子生徒にも悪印象を抱きようのないふるまいである。
「昨年までの方針は分かりませんが、音楽を選択してくださった以上、その巧拙に関係なく音楽を楽しんでほしいと考えています。部活動では全国大会を目指すことになり、ハードな練習を行うことになりました。ですが、授業ではそうする必要は無いと思っています」
隣の生駒は小さくガッツポーズをする。確かに、言っていることを有言実行してくれるのならば非常に当たりの授業と言えるだろう。音楽や美術、家庭科などのいわゆる副教科を重要視していない生徒は多い。むしろ、才能に左右されるところが大きいとして芸術教科を忌避する生徒もいる。そういう生徒層からしては大変いい授業方針だろう。
もし音楽が得意であっても、楽しめることに文句を言う人はいないはずだ。かくいう私も普通にやってくれればそれでいい。吹部の方針を話した時にチラリとこちらを見たのは気のせいなのか、偶然なのか。意識させること自体が目的なのかもしれない。
楽しめる、か。私はこの言葉自体には含む所はない。音を楽しむのが音楽だ。だが、このスローガンを掲げていた去年の部活は酷いモノだった。去年の顧問の指導力をとやかく言うつもりはほとんどない。だが、皆が楽しめるようにと言ったのならばそうできるよう方々に気を配る必要があったのも事実だ。そしてそれは、行われていたとは言い難かった。
それだけは、どうしても流す気にはなれなかった。
「マジで大当たりじゃん!」
狂喜乱舞する声が廊下に響く。騒がしい休み時間に紛れて、その声はさして目立たなかった。あまりの喜びように困惑しながら、私は教科書を抱えて歩く。そこかしこから話し声が聞こえてくる。
「よかったなぁ」
「いや、ホントに。あの先生いいなぁ。俺全然出来ないけど、ちょっと楽しみになってきた」
去年一年間音楽のたびに憂鬱そうだった顔が嘘のように、期待を込めた顔をしている。その顔を眺めながら、少しだけ嬉しい気分になった。音楽が嫌いでいられるより、好きでいてくれたほうが嬉しい。どんな立場であれ、だ。奏者として必死に大会を目指していても、楽しさを持っていた方が良い演奏になると思う。逆に全然演奏はできなくて、聴いているだけであったとしても楽しく聴けるのが一番だろう。
「スタートダッシュを切ろうとしている生徒に対して、この部活の状況はどうでしょうか」
先生の言葉が頭の中に響いている。今年の一年生は今の状況で音楽を楽しめるのだろうか。この後、一年生を待っているのは平穏ならざることであると容易に想像はできる。先生はきっと、練習を要求する。上級生は当然反発する。そのゴタゴタに長い時間を要してしまったら。その間、彼ら彼女らは置いてけぼりだ。
本来参加権利があるはずの部活運営に、彼らは意見を出すことができない。年功序列、先輩と後輩の関係。文句があっても表立って言えない空気が確実に存在しているのだろう。そんな状況で、楽しいのか。音楽をやっている意味を見出せるのか。
特別に、なれるのだろうか。
晴れがましい友人の顔を見つめ、私はひたすらにそんなことを考えていた。
――――――――――――――――――――――――――――
何の結論も出ないまま、三日という日々はあっという間に過ぎた。いつも通りの日常。放課後になっても聞こえてこない演奏。それは、現状何も変わっていないことを示している。先生が上手くいっていないのか、まだ様子見なのか。いずれにしても、下手くそな演奏すら、聞こえてこないのだ。巧拙以前の問題がそこには大きく横たわっている。
だが私には今のところ関係ない。今の私に関係あるのは、課題の結果だけ。そして、約束の期日になる。目の前の少女は些か緊張した面持ちでそこに立っていた。ちょうど、私に願いを申し出たあの日のように。
「約束の日だな」
「はい」
「準備に問題はないか?」
「大丈夫です」
「では、いつでもどうぞ」
私は腕を組みながら一歩下がり、演奏を促す。彼女は金色に光り輝く楽器を口元に近づけた。小さく息を吸う。そして、私から絶対に視線を逸らさない、というようにこちらに目を合わせる。息を呑むほど、真っ直ぐな目をしていた。純粋に上手くなりたい。そう告げているようだった。
息が吸われ、音が響きだす。まだ朝で、光の差し込まない校舎裏に、その音色が揺蕩いだした。上手い。そう思わざるを得ない。薄暗い校舎裏に、まるで星が大地に降り注いだような明るさをもたらす。この学校で、このレベルのトランペットを聴くことはないと思っていた。
先輩も下手ではない。むしろ、練習時間さえあれば強豪校とすら戦えるだろう。吉川も上手かった。即戦力と言ってよく、流石南中と賛辞を送れるレベルだった。だがそれはあくまでも高校生にしては、という前置きがあってのもの。超高校級という言葉が相応しい演奏。それが私の前で鳴り響いている。
最初はパッと輝く花火のように。その後は流麗な彗星の尾のように。私の作った意図通りに音が紡がれていく。一度落ち着いて、最後にかなりの高音が連続して続く。苦しそうにしながらも、彼女は吹いていく。僅かに、ホンの僅かに音が小さくなる。だがそれ以外は目立った瑕疵などはない。そして、滑らかなメロディーをそのままに曲は終わりを迎えた。
特別になりたい。その言葉に負けぬ演奏がそこにはあった。
正直驚いた。もっとレベルは低いと思っていた。彼女の演奏を聴いたのは半年以上前の大会。それだけでは上手い、以外の明確な判断材料がなかった。また、呑み込みのスピードも分からない。だからこうして初見の曲で試験した。よく観察すれば、彼女の目元には小さな隈がある。
荒い息をしている彼女の足元に置いてある楽譜。風で少しだけ中身が見えた。びっしりと書かれていたメモ。この三日間、文字通り寝食を惜しんで練習したのだろう。そこまでして、上手くなりたかった。私に教わりたかった。そして特別になりたかったのだ。狂気の沙汰と、何も知らない者に見せたら言われそうな熱意と行動。だが、その狂っているとさえ言える練習や精神性がどこかに無いと、プロになるのは難しい。
音楽を愛しながら、音楽と闘いながら、音楽という人類が生み出した狂気の芸術と踊っていく。目の前にある彼女の在り方は、まさに過去の自分そのものに思えた。熱意と狂気と、そして未来の自分はきっと今よりも上手くなっているという、練習に裏付けられた自信。その眩しいほどに蒼い姿は、自分が失った色に思えてならない。
彼女は荒い息をしている。三秒ほど、瞑目した。彼女は覚悟と決意を示した。私はそれに応える義務があるのだ。
「高校生の演奏という観点なら満点だ。音も綺麗だし、ピッチも安定している。こちらが忍ばせているポイントも大体問題なくクリアしている。正直な話をすると、ここで終わるつもりだった。だが……君の可能性の上限はここで終わりじゃない。だから、もっと上の観点から言うとまだまだだ」
いいモノにはいいと言わざるを得ない。私は自分の音楽に関することを裏切ることはできないし、するつもりもない。でも、お世辞も言わない。上手いなら、それにあったレベルで応えるべきなのだ。
「最後のところ。自分でも分かってるだろう」
「……はい。すみません」
「謝らなくていい。あと何日ならできた」
「三日、いえ二日あれば」
「ならいい。正直、五日で完璧になるレベルだとは思ってなかった。出来ても最低一週間くらいかかると見込んでいた。これはそういう曲だ。最後のところが際立って難しいから分かりにくいけど、要所要所に短いながら幾つも難しいところを入れている。だから、バランス配分を間違えた練習をすると最後以外もおぼつかなくなる。気付いただろう?」
「はい。BとDのところに、二つくらい。あと、Eにも一つ」
「そう。この曲は私が作った、上級者用の練習曲だ」
私の話を聞きながら、彼女の瞳は揺れている。結局合格なのか、どうなのか。また適当に弁舌で以て逃げられるんじゃないか。そんな不安すらあるように見えた。もしそうなってしまったら、自分の努力が無駄になるのは明白。不安に思うのも、無理はなかった。
「……君は努力して覚悟を見せた。なら、私にもそれに応える義務がある。ただし、君一人で上手くなってもそれは格下相手に無双していることにしかならない。加えて言えば、部活の後に教えていてはお互いに時間がかかるし単純に効率が悪い」
「確かに……そうですね」
「もし本気で全国に行くんだったら、かなり遅くまで練習するだろう。それを待っているのは私も正直なところお断りしたい。しかし渡りに船と言ってはなんだが、私は今、君の顧問から勧誘を受けている。『私の手伝いをしてほしい』と」
彼女は驚いた顔をする。だが、君も大概同じようなことをしているのだが、と私からすれば思ってしまう。
「先生の依頼を受ければ君の願いも叶うと思うが、どうだろう。最初君が望んでいたような個人教師にはなれないけれど、代わりに必ず全国へ行けるようにしてみせる。先日のミーティングで決まったんだろう。全国を目指すと。それが出来るようにする。課題までやらせたうえで君の願いを完全な形で叶えるわけではないことは申し訳ないと思う。だが、これがベストだと私は思う。勿論、君にはしっかり教える」
彼女の目は輝き出した。期待と興奮、それで彼女の心が満たされていく様が外から見ていてもありありと分かる。
「この条件を君が吞んでくれるなら、私は喜んで君に教えよう。君が、特別になれるように」
私は手を差し伸べる。その手を一瞬の躊躇もなく、彼女は握った。チャンスを掴み逃がさない握力と判断力はある。これらが無いと、どんなに上手くても成功はできない。チャンスは、必ず逃してはいけない。
「これからよろしく、高坂さん。君が私に師事した二年間が、君にとって有益であるように努めよう。人よりも厳しく指導するかもしれないが、問題ないな?」
少しだけ笑いながら、私は問いかける。その笑みが、どういう意味のモノなのか、自分でも分からない。けれど一つ分かるのは――
「はい、よろしくお願いします。桜地先生」
――心の炎がもう一度、灯り出したことだった。
登校し教室へ向かう生徒で廊下は埋められていた。その中を、ただひたすらに闊歩する。自分自身を奮い立たせるように。正直、まだ心の底からやりたいとは言えない。引け目も、負い目も、嫌な思い出も多い。それでも、自分で決めた。私は、私の意思で行動しているのだ。
職員室の扉を叩く。ガラガラという振動を手に感じながら、私は開いたドアから前に進む。そのまま二年生の先生の集まる島へ。先生は私を見つけた。目が合う。もしかしたら彼は、私がこうして来ることを見越していたのかもしれない。あるいは、そうさせるつもりだったか。いずれにしても、どんな手段を使ってでも上に行く気なのはわかった。さもなくば、私を使おうなど正気の沙汰ではないのだから。
だが、先生の行動が正気の沙汰ではないとしたら、それに乗ろうとしている私も同様に正気の沙汰ではない。これから起こることの問題は私も背負うことになるだろう。だが、それでもし贖罪になるのなら。前を向こうとしている人、前を向いて歩いている人の助けになるのなら。自分に背中を示した多くの先達のようになれるなら。それで構わない。
先生は私に小さく笑いかける。柔和な笑みの後ろに、どんな思いがあるのだろうか。そんなことを考えながら、私は口を開いた。
「この前の件は、まだ有効ですか?」
先生は大きく微笑んだ。