「話があります」
「そうでしょうね」
職員室内で私は先生に厳しい口調で話しかけられていた。気が向いたらとうそぶいたけれど、その実あれは嘘である。当然言われた通りに出頭した。普段は普通に話している我々の剣呑な様子に周囲の先生方は何事かと言わんばかりで遠巻きにしている。
「何故、あのようなことを言ったのですか?」
「事実をきちんと整理しておかないと、余計な噂が独り歩きしてしまいます。それを止めるには、あの時何が行われていたのかをキチンと説明する必要がありました。そうしないと先生への不信感が募ってしまう」
「ですが……」
「先生、不信感と不満感は違います。後者はこれまでのようにコントロールもできる。けれど前者は一度植え付けられるとそう簡単にはぬぐえない。だからこそ、そうなる前に対処する必要がありました。もし不信感を抱くことを避け得ないなら、その対象をずらせばいい。それは比較的簡単な作業です」
「私は! そのようなことをお願いしたつもりはありませんよ」
「吹奏楽部を全国に行かせるために協力してほしい。最初に先生ご自身がそう言ったじゃありませんか」
私は淡々と答える。こうなってしまった以上、これ以上の最善は取りようが無かったはずだ。不満を持たれることは確実だった。その上で私は理性を信じすぎた。余計な情報が、よりにもよって不満を持っている最先鋒に伝わるという予想外のアクシデントがあった中ではよくやった方であるとは思いたいが、それでも吉川の理性を信じすぎたのが全ての敗因だろう。
先生が見誤っていたように、私も見誤っていた。吉川の先輩への感情の大きさを。
「先生がお気付きだったかは不明ですが、私はこうなることをオーディションの際にある程度予見していました。何らかの不満は出るだろうと。まさか先生の個人的関係から贔屓を疑う形で噴出するとは予想外でしたが、ともあれどこかで不満をぶちまける人間がいてもおかしくないとは思っていました。それが吉川かどうかも不明でしたが」
「ならば、どうしてあの時そう言わなかったのですか」
「あそこで高坂さんを選ぶことが吹奏楽部にとって、全国に行くという目標にとって最善だったからです。むしろ先生が判断基準をズラしてくれたことは私にとって僥倖でした。何らかの問題が発生した際に、私が責任を引き受けられる。この部で最も、デリートしても問題ない存在に」
先生にそういう意図があったとは思わない。むしろ、私の能力を信頼しての発言・行動だったのだろう。だがそれは時に責任の所在をズラすことに繋がる。結果として私がより悪いという構図が作り上げられる状況になった。
無論先生への不満は消えないだろう。先生が高坂さんを支持したのは事実だ。だがそれ以上に、それを覆す機会も権限もあったのにやらなかった方に批判は集まるだろう。それが先輩にお世話になっていて、かつ普段から立場の不安定な私ならなおのこと。
先生は唖然とした顔で椅子に深くもたれ込んだ。目頭を押さえるその姿は頭痛に耐えているようにも思える。
「それくらいの覚悟も無しに何かを為そうなんて、到底無理な話ですよ。上を目指すということは、それだけ多くの夢を壊すということです。それは大会である以上必定ですが、どうして部外だけに留まると言えるでしょうか。多くを犠牲にしたうえで、何かを成し遂げられるんですよ。それは先輩であり、私であり。前者はともかく、後者は安いじゃないですか。元々いなかったんですし」
「私は、そのような方針を断じて認めるわけにはいきません。あなたは、吹奏楽部の部員です」
「書類上はそうですけど、多くの部員はどう思っているんでしょうね。彼らからすれば私は仲間ではなく、先生、貴方の側なんですよ」
理想論を並べるのは自由だ。けれど先生の行動は一貫して何かを犠牲にしていた。ある時は時間を。ある時は自尊心を。ある時は望みを。何が違うと言うのだろうか。
「先生、今は悔いているかもしれませんが、そんなことはどうでも良いんです。私も先生もどういう感情を抱いているにしろ、それは後回しにしないといけない。今考えるべきは、今後理不尽な意見に晒される羽目になった高坂さんへの配慮です」
「それは勿論、何らかの対処をするべきと思っています。しかしながら、それはあなたの問題を棚上げしていい理由にはなりません」
「いいえなります。何故なら彼女は奏者です。私より重要度が高い」
静かに、しかし激情を持って。この職員室内で激論が交わされている。正直周りの人には本当に迷惑な話だろう。いくらもう半分以上人がいないからと言って、決して小声で話しているわけじゃない。
「私も見誤りましたが、先生はもっと理解されていないじゃないですか。部内での先輩の大きさを。だから必ず大きな不満が出ることなんてこちらは最初から分かってたんですよ。というより、今後もこう言うことは大なり小なりあると思います。先輩より上手い後輩、オーディションに落ちる三年生、そういうものが今後訪れますよ、必ず。特に中世古先輩は去年のこともあり、大きく皆から支持されています。不満が出る確率はかなり大きかった」
「また、去年の話ですか」
「そうです。先生にとっては関係ない過去の話かもしれませんけれど」
「しかし今の顧問は私です。オーディションを告知した際もそうですが、その切り替えをしない事には、この部は上に行けないでしょう」
「そう簡単に過去のことを意識せずにいられたら、誰も苦労しませんよ。私も、先生も!」
言ってからしまったと思った。先生が何かしら過去に不幸なことがあったであろうことは、この前話した時になんとなく分かっていた。妻も子供も無いと言った時のあの表情。それは過去に何らかの不幸を経験している人の目だった。あるいは、私がそうだからこそ同類の匂いを感じたのかもしれない。
いずれにしても、幾ら感情的になっていたとしても言ってはいけない事だったと思う。現に先生は目を見開いて黙ってしまった。その反応がますます自分が言ったことの信ぴょう性を高めている。
「……言葉が過ぎました。申し訳ありません。ともかく、高坂さんの件です。このまま何もしないと確実に火種は大きくなる。それは広がり、伝染し、そしてやがて爆発するでしょう。それも今以上に最悪な形で」
「……」
「先生が本当に全国に行くつもりなら、私を切り捨ててでも行く覚悟を決めてください。それでは、失礼します。また明日お会いしましょう」
形ばかり頭を下げて、他の先生の好奇の目を感じながら私は職員室の扉をやや乱暴に閉めた。何被害者面してるんだと自嘲する。それは同時に先生への嘲りであったのかもしれない。
確かに先生も言いがかりをつけられた側だ。これまで真摯に部活動の指導に取り組んでいたのはよく分かっている。なので今回の吉川の発言は先生からすれば大いに心外なことだっただろう。
けれど先生はあくまでも大人だ。そして教師である。そうである以上、同じ被害者でありながら生徒である高坂さんをどうにかするのが優先であろう。それなのに私と話している場合ではないと思う。優先順位を間違えている。確実に。この調子では埒が明かないだろう。高坂さんには私が少し話をする必要があるかもしれない。
正直、気分は最悪だ。けれどここで私が被害者面をして良いはずがない。優先順位を間違えてはいけないのだ。せめて、私は。
少し暗くなった校舎内を歩く。いつも通りに個人レッスンをするのかどうか分からないからだ。いないならいないでしょうがないと思っているが、いるならしっかりやらないといけない。
先ほどの騒動の時はいなかったけれど吉沢さんからは連絡が来ている。今日は高坂さんを優先してください、私はお先に失礼します。とのことだった。気を利かせてくれたのだろう。後輩に気を遣われるとは、情けない話だった。
いつも使っている教室には電気がついている。中々強靭なメンタルだと思いながら扉を開けた。普段と変わらないような様子をしている高坂さんが椅子に座っている。譜面台も用意されているし、一見すると何の問題も無いようだ。だがしかしだからと言って放置していいわけじゃない。
いかに強い精神を持っている人でも折れる時は折れる。それを私は去年の例を経て、身をもって体験していたのだ。同じ過ちを犯すわけには行かない。少なくともこういう事態に際しては。
「……大丈夫?」
何と話しかけたらいいのか分からず、私は取り敢えずそう声をかけることにした。様子を探らないといけない。これでもし危なそうならフォローを入れる必要がある。
「はい。今日もよろしくお願いします」
「うん、それは勿論やるんだけれど……」
私は机の上に譜面などを入れているファイルを置いた。今回の事態を招いたのは私の責任でもある。それは間違いない。しっかりそのことを謝る必要があった。
「吉川がすまなかった。どこかで不満が出ることは予想していたんだけれど、こういう形とは思わなかった。一応釘は刺したつもりだったんだが……いやそれも言い訳か。こんな形になったのはこちらの不手際が大きい。大変申し訳ない」
「そんな、なんで謝るんですか。悪いのは私たちじゃないはずです!」
「確かに君は悪くない。今回は完全に言いがかりをつけられた被害者だ。けれど私たち、つまり私や先生は管理者でもある。君に被害が及ばないように配慮する責任もあるんだ」
それを曖昧にしてはいけないと思う。きっとこういう事は来年もあるんだろう。先輩の方が上手ければ何の問題も無いけれど、世の中そうはいかない。いついかなる時も例外はある。高坂さんだってそうだし、広義では私もそうだろう。私の妹だって、去年は三年生を蹴落としていた。
だからこれは強豪では付き物。けれどそれで揉めていては上へはいけない。パートリーダーが上手くまとめてくれればいいんだが、今回はそのパートリーダーが当事者になっている。これで先輩が動くと話が余計に拗れるのだ。あんな風な目にあってまで後輩を庇ってるなんて可哀想という具合になる。
高坂さんはそれでもどこか納得いっていないようだった。抱えているものはきっと黄前さんに吐き出したのだろう。彼女が音楽室を飛び出した後、黄前さんが後を追いかけていた。何らかのやり取りがあったはずである。
「私は、間違っていましたか」
「音楽面では特には。物言いが良くなかったくらいかな。どんな時でも敬語は忘れない方が良い。その方が、多少印象はよくなる。まぁもっと上手くやる方法もあるんだけど……泣き崩れるのとか、嘘でもやりたくないでしょ?」
「はい、絶対に」
「だろうね」
ちょっと苦笑してしまう。それくらいにストレートな返しだった。
「私は間違ってないはずです。なのに、どうしてこんな風に言われないといけないんですか。私だって遊んでいて、それなのに選ばれたわけじゃないです。毎日努力して、ずっとやってきて、こうして時間まで頂いて、その上で挑んでるのに! あんなの、私だけじゃなくて先生と先輩への侮辱です」
「気持ちは分かるよ。私も沢山そういうことを言われた。これからもきっと、君はそういう事を言われるだろうね」
「そういう時、どうしてたんですか」
「最初は君と同じような事を言った」
あなたなんかより上手いからに決まっているでしょう! と叫んだ記憶がよみがえる。目の前の、悔しさに震えている少女はかつての自分と同じだった。努力した上で挑んでいるのに、勝手に強くなったみたいに言われる。天才には敵わないと、自嘲を込めた嫌味を言われる。
自分の努力が軽く思われているようで、無性に腹が立つ。そんな事ばっかりだ。ふざけるなと思って、怒って、そしてそのうち諦めた。そういう物なんだと思って。相手には相手の事情がある。だからこそ、そういうことを言ってしまう。環境もこれまでの人生も違うのだから、実力差があってもしょうがない。それを責めてしまうのも、しょうがないことなんだと思っている。
「まぁでもそれはきっと良くない事だったんだろうな」
「間違ってたってことですか、私も」
「話ちゃんと聞いてる? そういう事じゃない。君は0か100で物事を判断しようとするけど、それは結構危ない。その判断基準だと80や90も0と同じになってしまうからね」
ベターな選択肢も取らないといけない。特に人間関係では。0か100か、白か黒かで判断できるようなことばかりじゃない。矛盾もするし、間違いもする。そういう物のはずだ。
「何度も言うように、君は被害者だ。けど、それはあくまで私個人の意見だ。どちらが正しいかなど、立場が変われば変わってしまう。そんなものじゃないかな?」
吉川は吉川の信じる正義があった。だからそれが冷静に見れば間違っていると分かっていても実行した。時に信じる正義は、理性を飛び越える。それはいついかなる時代でもそうなのだろう。
「理解しようとしなくてもいいし、納得できなくてもいい。ただ、相手の事情を知らないままにしておくのは、きっと良くない事なんだと思う。そう言いつつ、私がそれを出来ているかは怪しいけれど……」
私が蹴落としてきた多くの事情を、過去の幼い私は知ろうとしなかった。相手には相手の正義があるんだろうけれど、それを知ってなお突き進まないといけないならそうすればいい。少なくとも、無知なままでいるよりはよっぽどいいはずだ。
「吉川のことは嫌いでもいいけど、どうしてああいう事をしたのか。少しだけでもいいから知ってあげてくれ。その上でどうするかは君の自由だ。突き進みたいなら、突き進めばいい。きっと君は、そうすると思うけど」
「はい。どんなことを言われても、譲る気はありません。必ずねじ伏せます」
「そうか。ならそうしなさい。取り敢えず私は君の味方でいるつもりだから。ただし、言い方には気を付けること。いいね?」
「……はい」
ちょっと拗ねたような声で返事が返って来る。大丈夫かなぁと思わないでもないけれど、理解はしてくれたはずだ。納得してくれたかはまた別問題だけれど。取り敢えずこれで高坂さんの精神状態はなんとなかったと思いたい。ただこれで放置ではなく、定期的に様子を見ておかないといけない。
吉沢さんに頼りたいところだけれど、それをすると彼女の立場まで微妙になってしまう。ここは中立でいてもらうのが良いだろう。同期と先輩の板挟みなんていう最悪なポジションだけは回避してもらおう。幸い、彼女は他のパートにも友人がいるようだし、そこら辺は何とかしてくれるんじゃないだろうか。
ここで高坂さんを切るという選択肢はあり得ない。彼女を守りつつ、上手く事態に決着をつけるには、方法は限られてくる。しかしこの方法でも誰かが傷つくことは避けられない。他に何かないものか。探しながら、高坂さんの指導に入った。
けれどその日の彼女はどうしても少し、不調気味だった。
やはりと言うか案の定というか、翌日からの練習の合間には色々な声がする。
「結局さぁ、どうなんだろうね」
「高坂さんをソロにするためのオーディションだったって話もあるし」
「でも桜地君違うって言ってたけど?」
「けど先生と生徒だし、ねぇ。先生が無理に言わせてるって可能性もあるでしょ」
「香織、やっぱり可愛そうだよね。去年からずっと頑張ってきたのにさ。親に権力がある後輩が入ってきて。桜地君にも結局、裏切られたってことだし」
「確かに。言ってることがホントなら最低だよね。戻ってきたときに色々してもらったのに、あの態度って」
「マジあり得ない」
「ちょっとムカついてたんだよね、偉そうだし。先輩を先輩と思ってないって言うか」
「ね、ね、聞いた話によると桜地先輩のお家、親いないらしいよ」
「えー、じゃあどうやって生活してるの?」
「音楽系の仕事とかで食い繋いでるって」
「えー! じゃあ高坂さんのお父さんと繋がりがあるってこと?」
「可能性は高いね。お仕事潰されない為に仕方なくって可能性は大いにあるよね。普段練習終わりに教えてるのだって、色々言われてるからかもしれないし」
「でもその練習だか指導だかだって、言っちゃえば贔屓でしょ?」
「言えてる。それなのに責任を持つとか贔屓じゃないとか、カッコつけてるだけでしょ。ダサ」
「なんでもいいけどさぁ、香織先輩を取って欲しかったよねぇ。やっぱり」
「それなぁ~」
エトセトラエトセトラ。根も葉もない噂から、絶妙に真実の混ざった話まで多岐に渡る。その中でトランペットパートは不気味なくらい黙々と練習していた。先輩の配慮もあるのだろう。皆の顔はお世辞にも明るいとは言えなかった。まるで、練習することで何かを忘れようとしているかのようだった。
先生も、何も触れない。臭いものには蓋をしてと言うが、この場合は蓋などしてはいけなかった。この何もせず、風化するのを待つかのような姿勢はかえって反感を買い、部内の空気は目に見えて悪くなり不穏な気配が漂う。不満は溜まり、練習にも反映される。
ここはあの先生の苦手な分野なのだろうと勝手に推測する。吹奏楽は当然一人では出来ない。多くの人が必要だ。人が居れば居るだけ揉め事のリスクも大きくなる。顧問として、ここはビシッと対応すべきなのだが、それが出来ていない。オーディション前のような熱意溢れる空気は風に流れ、雑談は増える。面談期間なのにも関わらず、この有り様だ。大会はそう遠くないと言うのに。
三年生では部長や中世古先輩、斎藤先輩などが色々と言ってくれているようだ。私や高坂さんへの噂話を止めるようになど、本当に色々。しかしそう簡単には効果は出ない。結局のところ、不信感は存在しているのだ。
オーディションは閉じられた空間である。そういう形式をとっている以上当然ではあるが、閉じられたオーディションはそれだけ不信感を買いやすい。見えないという事実は不透明性と同義であるからだ。
この問題への対処で手一杯の時に、もう一つ行事が入る。正直自分のことなど考えている場合ではないのだが、こればかりはしょうがない。面談を受けないというわけには行かないので、仕方なく席に座っていた。
「学校生活で問題はないか?」
「大丈夫です。友人もいますし」
「成績は……大丈夫か。出来れば俺の授業をもうちょっと起きてくれると嬉しいんだがな。まぁ良いぞ。面談はこれで終わりだ」
「はい。ありがとうございました」
受け答えをしながらも頭の中はこの後の練習をどうするかを考えていた。
「部活の方は大丈夫か。昨日、滝先生と揉めていたと聞くが。もし仲立ちが必要なら……」
「いえ、多分大丈夫です。何とかしますので。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「それは別に良いんだが。……なぁ、桜地」
「はい。何でしょうか?」
「先生は、深くは聞かない。ただな、早く仲直りしないと一生引きずるぞ。こういう年頃だし仕方ないところもあるだろうが…」
「……何をおっしゃりたいのでしょうか?」
「その、色々あるのかもしれないが、一度その、傘木とちゃんと……」
「善処します。お話は以上ですか?」
「……あぁ、以上だ。お疲れ」
担任の言葉を振り切り教室を出る。まさかそこまで気を遣われているとは思わなかった。そういう気遣いが出来るなら、別のクラスにして欲しかったのだが、それは今言ってもしょうがない話だった。それ以上に、出来るのならそれどころではないのを察して欲しかった。
面談を終えて職員室に行く。滝先生に会わないといけない。昨日のこともあり、気まずい部分ではあるが、逃げることは出来なかった。
「先生。行きましょう」
「……えぇ」
昨日のことは無かったかのように話をする。そうするしか方法が無かった。お互いに、触れるのを拒んだのだから。
「高坂さんとは昨日、少しお話をしました。全くソロを譲る気は無いようです。昨日は流石に少し疲れていたようですが、恐らく今日は立て直して来るでしょう」
「それは良かった……」
「しかし、彼女の強さに甘えてもいられません。どうにかしなくてはいけないのも事実」
「分かっています。しかし、有効な対策というのは中々思いつかないものです」
「問題は不透明性です。我々がいかに主張しても、それは彼らにしてみれば分からない話ですから」
暗い話をしながら音楽室に行くと敷き詰められていた毛布は撤去され、部屋の隅に転がっていた。先頭で扉を開けた時、しまったと思った。だが時すでに遅し。先生は私のすぐ後ろにいる。
「どうして、片付けてるんですか?」
底冷えのする声だ。
「あ、いや、片付けてるんじゃなくて、皆が暑いって言うので練習が始まるまで……」
「私は、取っていいなんて一言も言ってませんよ! 戻して下さい!」
空気が固まった。先生が大きな声を出している姿など、部員は初めて見たことだろう。感情的になることなく、常に冷静に指導を行っているのが普段の先生の姿だ。
「戻しなさい。今すぐ!」
「……はい」
渋々と言ったように動き出す。辺りを見回すと不満げに毛布を運ぶ部員の中に、壁際に座り込む吉川優子の姿があった。その顔はどこか後悔に満ちているように見えた。目を反らしてなにかを見ないようにして。その思い詰めた顔に泣き出しそうな壊れてしまいそうな顔をしている。
彼女は自分の正義を実行したつもりだった。その結果、傷つけたくなかった人、一番守りたかった人を傷つけた。そして今、部内はぐちゃぐちゃになっている。それを理解しているのだろう。きっと、誰よりも。そしてその責任を感じている。
なら最初からやらなければいいのに、というのは理想論だろう。それでもやらないといけない理由が存在していた。私が知らない場所、知らない部分に。きっとそれは私がいなくなった後。その時間を私は共有していない。所詮私は、除け者だ。後から入って来ただけの、部外者。だから真の意味で彼女の感情を共有することはできない。
もう、ここにいては胸が一杯になってしまいそうで、音楽室を後にする。どのみち、今日も合奏は無理だ。最適解を取ったつもりだったけれど、それは結局こういう結末を招く。だがまだ事態は推移している最中だ。諦めるには早すぎる。
そうだ。今動けるのは誰かを考えないといけない。現実逃避している場合ではない。私に課せられた最大の課題は現状の打破。軽々しく出来ることではない。ソロは文字通り一人だけ。当然、一人が選ばれればもう一人は落とされる。分かりきった事だ。だが、ただそうなっただけではどちらにしろ不満が出る。
ここまで来たらソロの人選は変えない方が良い。だったら、それを納得させなくてはいけない。ならばどうするか。皆が不満に思うのは二人の実力差を知らないから。私たち審査員は聴いていたが他の部員は知らないだろう。
解決策は存在している。それは既に脳内に提示されていた。だが、こんな方法しか思い付かないのが嫌になる。これは高坂さんも、中世古先輩もどっちも傷つけることになるだろう。それどころか、多くの生徒も傷を負う。正直、無責任に噂を拡散している人間に対して怒りを覚える部分もある。けれどだからと言って傷ついて欲しいわけでは無い。
斎藤先輩の時と同じことをするのか。そういう風に頭の中で警告が鳴らされる。やろうとしていることは案外単純だ。だからこそ昨日、自主性に任せると言ったのだ。自分たちで思いついて実行してくれれば、我々はそれを拒めない。賛成多数であれば、それは実行される。
けれどそうならないなら、いやそうなるにしても本人の意思を確認しないといけない。廊下を歩く。目的の人を探し歩く。そして見つけた。ここにいるのではと思っていたのは正解だったようだ。
聞こえてくるのはソロパート。吹けなくなってしまった、それでも諦められないモノ。
「お疲れ様です」
「あ、うん。お疲れ様。……聞かれちゃったか」
「いえ、別に悪いことでは無いですから」
取り繕うようにそう言って、臆病な自分を罵る。
「……先輩は、ソロを吹きたいですか?」
「ソロは高坂さんでしょ。私はただ、納得したいだけだよ」
「納得」
「笑っちゃうよね? こんな未練たらたらなんだから」
「……先輩は、もしもう一度チャンスがあるなら挑みますか」
「それを聞いて、どうするの?」
「いえ、その……答えにくかったら申し訳ありません」
思わず下を向いた。傷口に塩を塗るようなことを言ってしまった。戻れない過去を思い出させるなど、人として絶対に望ましくない行いなのに。
「挑戦すると思うよ。そうすることで自分がその結末に納得できるなら」
「その道が茨であっても、自分にとって望む結末でなくても、それでも進めますか?」
「進めるよ。だって私は、トランペットが好きだから」
「……そうですか」
確固たる決意。それは並々ならぬ意志として伝わって来る。どうしてこんな風になってしまったのか。二人ともどちらも悪くないと言うのに。思わず抱えていた言葉が零れ落ちる。
「先輩、どうして私を、私を恨まないんですか。私が先輩を落としたのに。先輩の夢を奪ったのは私です!」
「桜地君は、自分の信念に従った。そうでしょう? だったらそれを恨んだりなんて出来ないよ。例え、もし本当に私を落としたのが桜地君でも、恨んだりなんてしない」
「それは、どうして」
「だって、桜地君も大事な後輩だから。優子ちゃんや高坂さんと同じ、大切な後輩。だから、かな」
「……ありがとうございます」
そう言って逃げるようにその場を後にする。やらねばならない。例えどんな結末になろうとも、あの人に報いる最後のチャンスだ。これが私のエゴイズムによるものであっても、やらねばならないのだ。
納得したいだけと彼女は言った。だから用意するべきなのはそう出来る場所。きっと高坂さんはこの事態を打開するためなら了承してくれる。最初からやるべきだと思っていた行動をやらないといけない。それが正しい方法じゃなくても。誰かを傷つけるモノでも。傷ついてしまうであろう人が、それを望んでいるのなら。私はそれを行わないといけないんだ。
その解決策は、再オーディション。それも、公開で。今度ホールを借りて練習する。その時に全員の前で。そうすれば誰もが納得できる場所を作れる。不透明性が消える。判断基準を先生や私から皆に移せば、贔屓の話も消える。最終的に大事なのは、先輩が納得できるかどうか。皆の判断は実は二の次三の次だ。先輩が納得すれば、他は黙るしかない。それが吉川でも。
嫌な方法だ。最悪な方法だ。納得させるためでも、この事態を解決するためでもこんな方法は取りたくなかった。まるで先輩を踏み台にするような行動を。「大切な後輩」。そんな言葉を聞きたくなかった。聞いてしまったから余計に、やりたくなくなる。いっそ恨んでくれた方がどれほど楽だったか。
「ッ!」
廊下の壁を殴る。手に鈍い痛みが走った。呟いた言葉にならない声は廊下の空気に融けていく。その後は無言で職員室を目指した。決意が冷めないうちに、事を為すために。