『めんそ~れ』
飛行機で数時間のフライトを経て、私たちは沖縄は那覇空港に到着していた。三つ目の到着口が私たちの飛行機の出入り口になっている。朝五時起きからのバス移動で眠気の限界に達した私は、見事に機内で爆睡をかましていたため、今ちょっとだけ眠かった。
京都と比べると初春なのに気温が十度ほど高い。最高気温は二十度越えだそうだ。亜熱帯海洋性気候という温帯の本土とは全く違う天候に身体がちょっとビックリしているのを感じる。ちらほらと半袖の人も出歩いており、非日常の空間だった。
売店には見慣れないお土産、飾り付けられた造花のハイビスカスが眩しい。沖縄県に来たのは随分と前のことだった気がする。もうほとんど記憶にもない。部員たちの顔も南国の空気にあてられてか、かなり開放的かつ浮足立ったものになっていた。まぁ無理もない。
先輩たちとの最後の旅であり、最後の演奏の機会でもあるのだから。県外遠征も積極的には行ってこなかったし、楽しむ気持ちは理解できた。ただ、楽しみ過ぎて迷惑になってはいけない。
「涼音ちゃん、ここからはバスだよね?」
「迎えが来るから、それに乗る感じで」
「分かった。はい、注目! 昼食はホテルに着いてからの予定です。みんな、他のお客さんの邪魔にならないようにちゃんと整列してください!」
先頭を歩く梨々花さんのハキハキとした声が全体に響き渡る。この前の一件以来、少し思うところがあったのか全体の前ではピシッと話すようになっていた。のんびりした話し方をするのも彼女の良いところだったけれど、新一年生が入ることも考えるとこれくらいの方が適切なのかもしれない。
空港からバス、その後はフェリーに乗船する。本土との往復を行う巨大なフェリーだ。一応陸路はあるらしいのだが、このフェリーも含めてアトラクション、ということなのだそう。真昼瑠島は那覇のある県南部よりはどちらかと言うと県中央部から北部だ。自然保護区の多い地域なので、よく開発許可が下りたと思う。色々あったのだろう。
「「「おぉ~」」」
フェリーに乗っている部員たちの感嘆の声が響いた。船の進路の先には、巨大なホテルや遊園地、商業施設の建物が立ち並んでいる。豪奢そのものな空間は、まるで子供が描いた理想の島という感じがあった。ここに来れば全ての楽しみがある。そういうコンセプトで作られたのだそう。
その中でも一番目立つホテルが、今回の宿泊先だった。荷物を持って移動し、ドアボーイに迎えられ、メインエントランスに足を踏み入れる。高い天井、キラキラと輝くシャンデリア、傷も塵も無い大理石の床、真新しい深紅の絨毯。広々と開放的な中央には大きな植物を使ったアート。どこまで伸びているのか分からない階段に、空高く登るエレベーターへの入り口。奥の方にあるのはラウンジだろうか。
「ちょっと、なんか凄いところ来ちゃった……」
「親に自慢しないと」
「結婚式とかでしか来ないよ、こんなとこ!」
梨々花さんもわぁおという顔になっている。私たちの来訪を確認してか、フロントの奥からスーツ姿の男性がやって来た。
「ようこそいらっしゃいました。北宇治高等学校吹奏楽部の皆様でしょうか?」
「は、はい!」
梨々花さんが代表して、やや緊張しながら答えている。
「長旅お疲れ様でございました。私は当ホテルの支配人を務めさせて頂いております、金城と申します。部長の剣崎様でよろしかったでしょうか」
「はい」
「それと……顧問の滝様」
「私です」
滝先生も呼ばれて手を挙げる。
「お二人が代表の方と承っておりますので、受付の手続きをお願い致します。その間皆様はあちらの方でお待ちいただければと」
奏さんと二人で先輩たちを含めた大所帯を移動させ、整列させる。修学旅行だと床に座らせたりするのだけれど、こんな綺麗な床とはいえ先輩を座らせるのは気が引けたので立って待っていた。すぐに支配人と共に二人は戻って来る。
「改めまして、当ホテルへようこそお越しくださいました。お部屋の方は全てオートロック式になっております。カードキーやアメニティなどは各部屋人数分ご用意しております。また、タオル類は地下一階にございます大浴場に備え付けとなっておりますので、お部屋からお持ちいただく必要はございません。お食事は昼の十二時、夜は十八時から二十一時まで、朝は六時から九時まで、いずれもビュッフェスタイルでご予約頂いております。館内ショップは朝の八時から夜二十一時まで営業しております。そのほか、何かご不明な点がございましたら、遠慮なくフロント或いは内線七番でご連絡くださいませ」
「あれ、ちゃんとフロア分けてくれました?」
「はい、お嬢様のご要望通りにしてございます」
「ありがとうございます」
「それではごゆっくりお過ごしください」
ここからは部屋割りだ。事前に決めた通りに部屋に荷物を置き、そこから昼食を済ませて練習と言う流れになっている。
「はい、今からカードキーを渡していくので、部屋の代表者は取りに来てください!」
梨々花さんの音頭に従って、キーを渡していく。現役部員は基本的に部屋割りがパートごとかつ学年ごとだ。男子は大きめのファミリー用の部屋に入ってもらっている。逆に先輩たちはもっと少人数で上層階の高い部屋にしておいた。卒業旅行の先輩方には折角ならいい部屋に泊まってもらいたいという私の想いによりこうしてもらっている。
なので、私の部屋もこのホテルでは比較的安いはずなのだが……。
「えぇ……」
無駄に広い部屋だった。確かにちょっとおかしいとは思ったのだ。渡された避難経路とかを書いた紙にはどう考えても角部屋かつちょっと大きめに記載されているし。というか、現役部員用に用意された部屋がどう考えても低層階じゃない。先輩方の一個下の階になっている。これは……多分忖度された可能性が高い。思わずため息を吐いてしまった。
「ひろーい!」
「ベッドふかふか~」
「枕四つもあるよぉ~」
同期の三人は喜び勇んで部屋に入っていった。あっちこっちから割とぶ厚いはずの壁を突破して喜びの声が聞こえる。まぁ、楽しそうならいいかと思うことにした。スーツケースを置いて窓を開けると、爽やかな海の香りが吹き込んでくる。快晴のせいか、窓の外にはオーシャンブルーが広がっている。あのエメラルドグリーンが、この地に多くの人を引き付ける理由なのだろう。
昼食を済ませて一階に降りる。先輩たちは美味しい美味しいとたくさん食べていた。まだ夜もあるのだけれど、お腹の方は大丈夫なのか。
ロビー集合になっていたのけれど、まだ集合時間までは少し時間がある。お土産でも物色しつつ、この大きなホテルの探索でもと思っていた。面白そう! と同期四人でウロウロしている。ちんすこう、紫芋タルト、シークワーサー系のお菓子、ここにしか売っていないようなものが多い。パイナップルケーキもあった。そういえば、空港にはスターフルーツが売っていた。どんな味がするのだろう。
「こっちは?」
「そっちはラウンジ。ケーキとか食べれるし、夜はお酒が出てきたりするかな」
「へぇ~……んん?」
成美さんが変な声を挙げた。何々どうしたとみんなの視線が彼女の見ている先に向く。大きなガラス窓の向こうにはオーシャンブルー。シーサイドの柔らかそうなソファー席には向かい合って座っている男女が二人。というかあれは……
「兄さん!? あと、希美先輩!」
そういえば、昨日の午後から現地入りしていた。なのでどこかにいるとは思っていたけれど、まさかこんな白昼堂々イチャイチャしてるとは思いもしなかった。なんなら希美先輩のケーキを一口貰っているし。というかそのケーキ美味しそうだ。
「……あ」
兄さんがこっちに気付いたみたいで、変な声を挙げる。希美先輩は少し遅れて気付いて、ひらひらと手を振ってくれた。ラウンジに至急おいでませ、とまだご飯を食べているであろう沙里先輩たちにメッセージ送信した。
「のぞ先輩~」
「来てたんですね!」
「なんで教えてくれなかったんですか~!」
「サプライズって言われてて……ごめんね」
久しぶりに会った後輩たちに目を細めながら、希美先輩は三人の頭を撫でている。私は普段会えるのでこういう時は譲ることにしていた。
「他の皆は?」
「優子と夏紀は食べ過ぎて苦しんでる。みぞれはその付き添い。滝野は運転で疲れて寝てる」
「純一さん来てるの!?」
「あぁ、言ってなかったっけ。サプライズってことで。それに私一人で寝るのは寂しいし」
「しまった、もっと可愛い水着を用意しておけば……」
「こら、一応現役部員は遠征ってことになってるんだから」
海に行く可能性があるのならもっと可愛い服とか水着を用意するべきだった。失敗した。横着すると良いことが無い。これも教訓だろう。みぞれ先輩が来ているという情報を知れば梨々花さんが狂喜乱舞することは間違いない。まぁ先輩たちはあくまでも兄さんの友人として来たということなのだろうけれど、仲の良い先輩に会えるというのは二三年生には特に嬉しい事だった。
特に三年生は直属の先輩にあたる人たちもいる。久美子先輩にとっては夏紀先輩がそうだし、高坂先輩にとっては優子先輩や純一さんがそうだ。
「本当はもっと沢山連れて来たかったんだけどね。流石に予定が合わなかったり、単純にこっちの部屋が空いてなかったりで。ほら、秀塔の子たちもいるでしょ?」
「あぁ、そういえばそうだった。この後合わせ?」
「そうなるかな。ただ、私も忙しい身だから二校合同練習はともかく、それ以外の練習には参加できない」
「それで大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。信頼できる人間を連れて来たから。支配人の知り合いらしくてね、丁度いいやと言うことで誘っておいたから」
その存在に何となく心当たりがある。ともあれ、今はそんなことは後回しだ。全国大会以来数カ月ぶりに会えたのだし、積もる話もある。結局私たち四人と慌ててやってきた沙里先輩たちは集合場所の間近にいたにもかかわらず、遅刻寸前で滑り込むことになった。
兄さんの登場に三年生が喜びの声を挙げたのは言うまでも無い。
滝先生の指導を貰い、私たちはパレード練習を終える。大分汗もかいたし結構疲れた。旅の疲れは食事だけではとれないものがある。それでも数少ない練習時間に全霊を尽くす。もうすぐ本番だ。全国大会とは違った緊張感が場を満たしている。空気としては良い塩梅だった。この感じを維持したい。楽しみの中にも緊張感を。これが理想的かもしれない。
その後、先輩たちと合流する。三年生の指導は案の定橋本先生がやっていた。前よりも日焼けした茶色い肌に、沖縄でこそ真価を発揮するアロハシャツを着こんでいる。そして大きなホールの中に移動して、そこで秀塔大の面子と合流する手はずになっていた。
待つこと数分。ホールのドアが開き、ブレザー服の集団が入って来る。先頭にいて旗振り役をしているのが多分、先代の部長だ。ここで対面式をして、そこから合同演奏練習になっている。普段の倍の人数で演奏する都合上、音量などを含めて調整は必須だった。奥にいるのが顧問の北条先生だろう。滝先生と挨拶し合っている。
これからどんな演奏になるのか、それが楽しみだった。
「はい、右、右、ストップ。そのまま真っ直ぐバック」
緊張した面持ちでハンドルを握っている滝野に駐車の指示を出しながら、私は首を鳴らした。沖縄にやってきた旧友&彼女と再会したのが昨日のお昼のこと。滝野が優子の荷物持ちをさせられていた。哀れな彼を誘ったのは私。涼音のためというよりは、男子仲間が欲しかった。後藤は東京だし、彼に白羽の矢が立った。
希美と同じ部屋でもいいのだけれど、女子四人仲間で来ているのに一人だけ別というのも変だろう。逆に私一人部屋というのもつまらない。なのでこういうメンバーになっていた。加部も来れたらよかったのだが、親戚の集まりが入ってしまったそう。
合流してから市内を観光して、別のホテルに泊まり、今日真昼瑠島にやって来た。この後北宇治の子たちと秀塔大の子たちがやってきて、合同練習の指示だ。関西大会、そして全国大会で競い合ったライバル同士だが、両校の交流はほぼ無い。それこそ清良女子の方がまだ交流がある方だ。折角なのでこれを刺激にして良い学びを得て欲しい。
そう思いつつのんびりとホテルで過ごしていた。練習を見る前にオープニングセレモニーの打ち合わせなど、事務的な事を色々片付けないといけないし、その前の羽休めという感じである。変なところで意地を張り合い食べ過ぎた優子と夏紀を、あきれ顔でみぞれが見ていた。そういう彼女も結構食べていたのだが。
と言うことで希美と二人でラウンジにいたら後輩と妹に発見されてしまう。涼音は締め切り数日しかない編曲依頼を出してきたので、今度会ったら一回文句でも言おうと思ったけれど、かなり楽しそうな顔で過ごしているのを見てやめることにした。こんな自然に笑顔を見せられるような精神状態になってくれたことが嬉しい。頑なに外さなかった敬語も同期や久石さんたちの前では外しているようだし。この子も成長しているのだ。少しずつでも、しっかりと。それが確認できただけでも安心した。
希美にはしっかりその心境を見抜かれていたようで、苦笑されてしまったけど。
そんなこんなで打ち合わせを終えて、北宇治と秀塔大の三学年全てを束ねた合同演奏会の時間がやって来る。これは記念になればと思って用意した。当初の予定では、後輩組と三年生は同じ舞台に立てない。どうせなら全員一緒に曲を演奏する機会を、と思ったのだ。曲目は『アクアラーク・マーチ』と『プラージュ・レダン』。いずれも自作の曲だ。
「初めまして、私は秀塔大附属高等学校吹奏楽部元部長、星野あかりです。北宇治高校吹奏楽部元部長の、黄前久美子さんですよね?」
「は、はい」
「こうしてお話するのは初めてだと思います。一度、しっかり色々話してみたかったんですよ」
星野さんは優しく微笑んでいる。ただ、今そういう表情が出来るのは全国大会で結果を出せたからだ。彼等は奮闘の結果北宇治と同じ金賞を獲得している。三年間追いかけ続けた背中と同じ場所に立てた星野さんをはじめとする秀塔大部員の気持ちはいかばかりだっただろうか。
黄前さんはそもそも他者との交流に凄く積極的ではない。なので、少し戸惑っているようだ。北宇治がライバル視されているのも当然認識はしているだろうから、もっとバチバチで来られると思ったのかもしれない。それをやるのは多分高坂さんだけだろう。副部長の武田さんもいるけれど、塚本君と挨拶している。塚本君が気圧されていた。高坂さんに近い何かを感じ取ったのかもしれない。気が強いという意味では同類なのは事実だった。
「北宇治さんに負けて、北宇治さんを追いかけ続けた三年間でしたから。今年でそんな想いをさせずに済みそうです。来年からは、対等に北宇治さんを見ることが出来ますし」
お前らに絶対負けないから、というオブラートに包んだライバル宣言に聞こえた。
「私たちも、最初は秀大附属の演奏を聴いたりして、勉強していました。お互いに桜地先輩の下で学んだ同士よろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
黄前さんもいい感じに相手を立てつつ流すことにしたようだ。賢い選択だと思う。確か秀塔大の当代部長はオーボエの昭島さんだ。奇妙な偶然ではあるけれど、北宇治もオーボエの剣崎さんが部長。後で挨拶し合うことになっているけれど、いい刺激になれば何よりだ。
「では、また後ほど」
「は、はい……」
黄前さんはそう言って見送った後、少し疲れたという息を吐いた。塚本君も同様の表情になっている。
「お疲れ様。どうでしたか? ライバル校の元部長副部長とご対面、というのは」
「凄い緊張しました……」
「なんかメッチャ圧を感じたんですけど」
「まぁ仕方ないですね。辛酸をなめ続けた世代ですから。それでも最後に皆さん同様、しっかり花を咲かせられたので、こうしてにこやかに話が出来ているわけですが」
「あの部長さんなんですよね、先輩にアタックしたの」
「そうですよ。名ギャンブラーだと思います」
塚本君の問いには冗談めかして答えたけれど、彼女の必要な時に賭けるべきものに賭ける能力は確かだと思う。決断力、実行力は間違いなく高校生の中でも随一だろう。黄前さんも勿論優れているとは思うけれど、星野さんとはまた別ベクトルだ。
「そうそう、黄前さん」
「はい」
「秀塔大の副顧問をされている里見先生は、元吹部じゃない先生です。そういう存在としても、また同性で比較的年が近い教職の先輩としても非常に参考になる存在ではないかと。後で話を聞いてみると良いと思います。話は通しておきますので」
「ありがとうございます」
希美もそうだが、黄前さんにも何か発見とか学びがあってくれれば幸いだ。こういう機会はめったにない。活かせる時に活かして、経験値を積んで欲しいのだ。彼女たちの未来はまだ不透明。そこに至るまでには悩みや苦労もあるはず。その時に今後を考える材料は無いよりある方がいいはずなのだから。
移動してから会場のドアを開けると、全員が座って待っていた。私が用意を終わらせている間に準備は済ませていたらしい。これならばスムーズに始めることが出来る。
「それでは両校の皆さん、早速練習を始めていきましょう」
指揮棒を構え、指揮台に立つ。二百人近いメンバーがいるのは壮観だった。普段は二名しかいないコンバスも、今は倍に増えている。こんな大人数で演奏するという機会は早々ないだろう。指揮する方としても感慨深いものがあった。なにせ、秀塔大附属とこうして演奏することになるなど、数年前では考えられない事だったから。
これまでしっかり練習を積んできたのだろう、現役生も三年生もしっかりと良い音を出せている。受験生の多い北宇治ではあったが、それでも高坂さんが上手いことお尻を叩きながら三年生の実力を戻してくれたのだと思う。
ただ単に上手いだけではなく、両校ともしっかり楽しく演奏出来ている。音を楽しむと書いて音楽。橋本先生が口を酸っぱくして言っていたことだけれど、彼らなりの楽しさを見出してくれたのなら喜ばしい。音が倍になってもバランスを崩すことなく、適応できている。現役生の様子には妹の苦心の跡が見て取れた。
「ありがとうございました。演奏面において、私から言うことは特にありません。これまでの練習の中で、しっかりと求めに応じた仕上げをしてきてくれたと感じています」
会場の中に安堵した空気感が流れる。随分とリラックスした空気で演奏出来ていた。私はこれでいいと思っている。大会は緊張するものだけれど、それと同じ緊張感で挑む必要などどこにもないのだから。彼等ならきっと上手く行くだろうし、万が一失敗してしまってもそれはそれでいい。高校生の間に失敗できることは失敗しておいた方がいいのだから。
それでも固くなっていた生徒は橋本先生が解してくれたのだろう。彼にはそういう力がある。だからこそ滝先生は彼を頼り、北宇治の指導をお願いしたのだ。私や先生ではできないことが出来ると知っていたから。
「さて、『レダン』のソロを決めないといけませんね」
その言葉を出した瞬間に、会場に一瞬だけ緊張感が走った。南の島の晴れ舞台。この大一番を飾りたいと願う生徒が多いのは当然だった。
「クラリネットは星野さん、ユーフォは……黄前さんで行きましょう」
高久さんと限界まで迷ったけれど、今回は星野さんを採用した。彼女は部長としての側面が強いけれど、その裏で奏者としても超一流に仕上がっている。自分がまず上手くないと部をまとめられないと考えて猛練習していたらしい。その成果はこういうところで出てくるのかもしれない。あとは単純に内部進学なので練習時間が多かった。
その点では黄前さんはよく頑張ったと思う。金管は私の領分なのでかなり色々叩き込んできたし、その結果なのだろう。黒江さんも悪くは無かったが、そこは練習時間の差が勝敗を分けた感じがある。さて、そして問題はトランペットだ。これに関して北宇治が選ばれるのに不満を言う秀塔大生はいないだろう。彼らも彼我の実力差は理解している。全国津々浦々集う名古屋の大地で、一番上手いのがここのコンビだった。
高坂さんも吉沢さんも「当然私を選びますよね?」という顔で私を見ている。これは苦しい選択を迫られた。と言うか、吉沢さん引退後もずっと練習していたはずなのに数週間で追いつかれている高坂さんはなんなんだ。あとでお説教しないといけないかもしれない。
「……最後にトランペット。今回は……大変悩ましいところではありますが……」
二人の圧の強い笑顔が向けられる。シンプルに怖い。なんで指導者に圧をかけていくんだ。その強靭なメンタルはどこから来るんだろうか。私が育ててしまった可能性を棚に上げながら内心で呟く。
「…………高坂さんで行きましょう」
「はいっ!」
むぅ、という顔になるけれど吉沢さんもギリギリのところで全盛期を取り戻せなかったかと納得してくれてはいるようだ。高坂さんも強化されているところがある。多分、全国大会での吉沢さんのソロを聞き、彼女なりにそれを吸収して解釈して自分の演奏を再構築したのだろう。その時間があったことが彼女の勝因だった。
「では、今のメンバーにソロパートはお任せして、次の演奏に入りましょう。五分ほど小休憩をしてから再開します」
「「「はい!」」」
休憩時間になると、交流に積極的な生徒が両校の垣根を超えて話し始める。1stや2ndで席が決まっているため、学校に関係なく隣合ったりしている都合上、交流はしやすいのだろう。トランペットパートでは1stにいる高坂さん・吉沢さん、そして秀塔大の武田さんと内藤さんが話している。秀塔大の二人はめちゃくちゃ悔しそうな顔だ。
「まぁ、これで私の勝ち越しね」
「ん? それはおかしいんじゃない? だってほら、これは大会じゃないわけだし」
「でも選ばれたのは私だから」
「受験してたんだから、そこはフェアじゃないなぁ」
音大と言う進路を選ばなかったとはいえ、それでも吉沢さんは高坂麗奈という奏者のライバルの席を譲るつもりはないようだ。やいのやいの言っている二人には三年間積み上げてきた信頼関係が見える。
一生ものの出会いなんて、人生の中で何度あるだろうか。その一回を二人は確かにこの場で引き当てた。それが私の意図により始まったものであったとしても、積み上げてきた時間は確かに彼女たちのものなのだ。
練習を終え、部員たちは解散した。今日は早めに終わりにして、明日の本番に備えることになっている。明日は朝から色々と忙しい。今のうちにしっかり休んでおくのは大事な事だった。
「この忙しい時期にお引き受けいただきまして、ありがとうございました」
「皆さんの希望でしたし、黄前さんたちの世代には苦労を掛けてしまいました。その罪滅ぼしではないですが、何か出来ればと思っていましたので、これは願っても無い話でしたから」
滝先生は穏やかな顔で言う。全国大会が終わってから、少し背負っていたものが軽くなったような表情をするようになった。ずっと抱え込んでいたのだろう。奥さんのこともそうだし、そしてこれまで努力し夢を見せた生徒たちへの想いもまた、心の中にのしかかっていたはずだ。
「こちらこそ、急ピッチで自由曲三曲のメドレー編曲をしてくれたと聞いています」
「あぁ、あれはまぁ、私からの贈り物です。締め切りが短すぎるのは困りましたが、妹に頼まれたのではね。断れませんよ」
ホテルのテラスからは波の音が聞こえてくる。夜の海の上には大きな月が昇り、海面を銀色に染めていた。
「先生」
「はい」
「本当は、黄前さんを選びたかったんじゃないですか」
「……」
その沈黙とやや伏せられた目が全ての答えだった。
「最後の最後まで、私は自分の判断に自信を持つことが出来ませんでした。二年前、最初のオーディションで中世古さんと高坂さんの選択をあなたに委ねた時から、私は成長できていない。子供たちはあんなに成長しているのに。情けない話です」
「ま、そこは反省しないといけないかもしれませんね。でも結果的にはアレでよかったのかもしれません。黄前さんも黒江さんも、あれで救われた節はありますから」
片方は理想を遂げ、片方は積年の想いが報われた。根本的なところで鏡合わせでありつつも、同時に根本的なところで違う思想を持った二人。その両方は結局変わることは無かったように思う。二人の願いは平行線だし、どちらかが歪まないと交わることは無い。
でも交わることは無かったけれど、それでも二つの道は同じ方向を向いて歩き出した。二人はどちらも歪むことなく、さりとてどちらかが不幸になることは無かった。頑固で、意固地なのかもしれない。けれどそれでいいのだ。例え愚かと謗られようと自分の信じた理想を、未来を貫こうとする人だからこそ、その周りに人が集まるのだ。高坂さんや星野さんにも同じことが言えるかもしれない。
「私は、迷うことも悩む事も悪いことだとは思いません。誰だって悩みはあるし、苦しみはあるし、迷いもある。大事なのはきっと答えを出すことなのでしょう。それがどんな形であれ答えを出さないといけない日は来る。人生に、モラトリアムなど本質的には無いんですから」
「あなたには、教わる事ばかりです」
「それはこちらも同じです。先生にも、この部にいる多くの子たちにも、私は色々な事を学んできました。それは多分ウチの妹も同じなのでしょう。桜地の一族は伴侶に恵まれても友人には恵まれないことが多かった。足りなかったのは、こういう空間に身を置くことだったのかもしれません」
吹奏楽部でなくてもいい。そういう意味では私の父親の代から少しずつ変わり始めていたのだ。変わらない物なんてない。桜は散ってもまた花を咲かせるように、このかび臭い一族にも変化の風が吹き込みつつある。
「そうだ、先生に渡さないといけないものがありました」
「なんでしょうか」
「こちらをどうぞ」
私は鞄の中から大きな封筒を取り出し、先生に渡した。
「これは……」
「私から、北宇治高校吹奏楽部への贈り物です。どう使うかは自由ですし、先生や現役生にお任せします」
「分かりました。ありがとうございます」
「いえいえ、私の自己満足みたいなものですから」
或いは、私のワガママだったのかもしれない。私や滝先生、多くの大切な存在が過ごした記憶を誰も思い出せないくらい未来になっても、受け継がれるものがあって欲しいという、私のワガママ。
「あ! やっと見つけたっすよ」
瀧川君が走りながら駆け込んでくる。
「どうしたの?」
「今秀塔大の面子と男子組でトランプしてるんすけど、全然勝てないんで助けてください」
「滝野は?」
「滝野先輩、まったく役に立たないです」
「なに~? 情けないなぁ。分かったすぐ行く」
もう半分修学旅行みたいになっている。他校がいるって言うのは少し修学旅行とは違うかもしれないけど。
「と、いうことなので後輩たちの助太刀に行ってきます」
「桜地君」
「はい?」
「ありがとうございました」
「こちらこそ。夏になったら飲みに行きましょう」
私はそう返して瀧川君の後を追って走り出す。先生の口元に浮かんでいた微笑みの意味を私はよく理解している。私は部員の前では先生かもしれないけれど、結局先生たちの前ではまだ子供なのだろう。この不安定を恐れたこともあったけれど、今はそうは思わない。いつしか先生側にしか立てなくなっていた今の自分からすれば、心地よくすらあった。
男子組の大部屋では白熱の勝負が繰り広げられている。全然面識のなかったはずの秀塔大の生徒とも仲良くなれている滝野のコミュ力は流石かもしれない。
「おぉい、これボロ負けじゃないか。なんで神経衰弱でこんな敗けるんだよ」
「しょうがないっすよ、こいつらがめっちゃ強いんです」
ドヤ顔をしているのは秀塔大の芝浦君とウチの月永君だ。
「求が裏切ったんですよ」
「裏切ったわけじゃないです」
月永君が塚本君に文句を言っている。月永君にも男子組の中でしか見せない顔がある。彼も大分良い表情をするようになった。川島さんや久石さんの尽力があったのかもしれない。
「よし滝野、優子を呼んでこい。アイツなら勝てる!」
「ちょ、それはズルです」
月永君が焦った顔で止めてくる。
「いいですよ、誰が相手でも俺には勝てません! 桜地先生には悪いですけど、彼女がいてムカつくのでボコボコにします!」
「おい、先生だぞこっちは」
「今は無礼講で」
「そういうのはこっちが言うんだ」
なんでこんな男ばっかりのところに呼ぶのよ! と半ギレ気味だった優子が芝浦君を完膚なきまでに撃破し北宇治勢から大喝采を貰い、鼻高々に帰還する。その後夜遅くまでこんな感じでやっていたせいで「早く寝ろ! 桜地は大人側なのに一緒に騒ぐな!」と松本先生に怒鳴り込まれてしまう。自分の一族で経営するホテルなのに引率の先生に怒られるという中々ない事態を受けつつ、沖縄の夜は更けていった。
次回、アクアラーク編完結