音を愛す君へ   作:tanuu

202 / 203
第LⅧ音 未来への約束

「はぁ~~」

 

 私のひとりごとめいた息が湯気の中に消えて行く。練習が終わってから遊んでいたら、思ったよりお風呂に入るのが遅くなってしまった。同室の三人は既に快眠状態になっている。大きいお風呂は好きだった。気持ちが洗われていくというか、ぼんやりと過ごすことが出来る。

 

 目を閉じれば色々な思い出が蘇って来る。入部してから二年間。本当に色々な事があった。楽しい事ばかりではなかったけれど、そのどれもが私を彩る大事な思い出になっている。その多くを共有した沙里先輩たちも、明日でお別れだ。

 

 お別れ。その言葉を口にすると、無性に苦しくなってくる。卒業式の時よりもずっと苦しい。あの時はまだ、沖縄があると思えた。それも無くなって、いよいよ最後になる。時間と言うのは残酷なものだ。過ぎ去って欲しくない時ほどあっという間に過ぎ去ってしまう。まるで、光のように。

 

「寂しい、なぁ……」

 

 幾分自分が素直になった気がする。寂しい、なんて言葉を素直に出せるようになった。周りに誰もいない貸し切り状態の大浴場だからかもしれないけれど、それでも言えるようになったのだ。これは成長だと、自分を慰めることにする。

 

 眠気の中で大きな欠伸が出る。同時に涙が出て来た。それが欠伸の作用なのか、それとも私の心が泣きたがっているのか、すぐには判別できない。誤魔化すように私はお湯をパシャリと顔にかけた。

 

 すると同時に、どこかで聞いたフレーズが流れてくる。顔をあげると、湯気の向こうで鼻歌を歌っている人がいた。

 

「あの」

「うわぁ!」

 

 驚きました、という声が響く。その声はよく知った相手だった。

 

「なんだ、涼音ちゃんか」

 

 希美先輩は安心したように胸をなでおろす。さっきのフレーズは懐かしの『リズと青い鳥』第四楽章だった。

 

「みぞれ先輩たちはどうしたんですか?」

「みぞれはもう寝っちゃった。夏紀は起きてると思うけど、さっきは今後の演奏曲考えてたよ。優子は凛音と滝野君に連れられてトランプ勝負の助太刀に行ったかな」

 

 優子先輩は何をしているのだろう。もっと言えば、兄さんと純一さんは何をしているのだろう。激烈に気になった。

 

「さっき一回入ったんだけどね。折角ならもう一回くらいゆっくりしようかと思って」

 

 希美先輩は私の隣でふー、と息を吐く。なんかスタイル良くなってる気がするのは気のせいだろうか。髪を上に結んで濡れないようにしている姿はいつになく色っぽかった。まぁ、恋人がいる関係性だしお互いにもうすぐ成人なので()()()()()()でも全く違和感はないのだけど。むしろその方が自然かもしれない。

 

「涼音ちゃん。一年間、お疲れ様でした」

「あ、ありがとうございます?」

 

 唐突に労われて、ちょっと驚いてしまった。なんか疑問形の返答になってしまったし。

 

「私は横から見てるだけだったけど、色々あったねぇ」

「はい、ホントに色々ありました……」

「なんて言うかさ、難しさを感じたよ。どこまで踏み込んで良いのかな、とか」

「そうだったんですか?」

「うん。毎日どうしたらいいのかなぁって思ってた。何か言ってあげたい気持ちがあったんだけど、軽はずみなことは言えないし、そもそも卒業生だからね。涼音ちゃんが自分で解決しないといけない事とそうじゃない事の判別なんて私にはまだまだ出来ないし。だからせめてと思って毎日お弁当だけはしっかり作って、お見送りだけはしようって決めてた」

 

 そんな風に思っていてくれたなんて全く知らないまま、私は毎日お弁当を受け取り、寝ぼけ眼をこすりながら登校していた。もちろん感謝はしていたし、しっかりと言葉にしていたつもりだ。揚羽にもそうしろと言われたし、私自身としてもそうするべきだと思っていたから。でも、希美先輩の内心は今初めて聞いたかもしれない。

 

「あの家で暮らすようになってから、初めてお父さんとお母さんの気持ちが分かったかも。何か言いたいことは色々あるんだけど、結局迷った末に聞けなかったり、曖昧な言葉になっちゃったりするから」

「そういうもの、なんですね」

「うん。そういう物なんだと思う」

 

 足を伸ばしながら、希美先輩は遠くを見つめる。

 

「夏の頃さ、結構悩んでたじゃん」

「はい」

 

 オーディションの件、高坂先輩の件、下級生たちの件、真由先輩の件。悩みの種はそれこそ大量に存在していた。

 

「その時に上手く声かけてあげられなくてごめんね。いっぱいいっぱいになりかかってたの、もっと早く気付ければよかった」

「いいんです、そんな……。それこそ私が解決しないといけない問題でしたし。私は帰る家がちゃんとあって、そこで温かいご飯を食べられて、私の味方でいてくれる人が最低でも数人いるって分かっていただけでも、安心して動けましたから」

 

 そこには当然、沙里先輩たちが存在していて、その沙里先輩たちの心を作り上げたのは希美先輩や調先輩の存在であることは言うまでもない。それに、多分私の心持を知っているのは高坂先輩に聞いたからだろう。決して口にはしないけど、高坂先輩が気持ちを整理できたのは間違いなく希美先輩の力があったからだ。

 

 そういうところで私のために動いてくれた。私を助けてくれたあの温かさで、カッコよさで、高坂先輩の心も動かしたのだ。久美子先輩でも秋子先輩でもスムーズに出来なそうなことを、希美先輩はやってのけた。挫折の数は数えきれない。苦しんだ夜の数は、誰よりも多い。背負った疵の数は分からないけれど、その疵の数だけ、涙の数だけ希美先輩が強くなっているのは間違いなかった。

 

 泥中でも彼女は諦めないだろう。歯を食いしばって、大空に手を伸ばすだろう。その高潔さに、美しさに、私は惹かれたのだ。それはきっと兄さんも同じ。夏の青空のような少女が、私たちの青春を確かに青に染め上げて、光の方へと手を引いてくれている。

 

「私の方こそ、ありがとうございました。一年間、私のことを見守ってくれて、ありがとうございました。お礼ついでに図々しいですけど、あと一年だけお願いします」

「うん、任せて。涼音ちゃんの最後の一年、しっかり応援するから」

 

 にっこりと彼女は笑う。湯気に満ちる大浴場に、一輪だけ花が咲いたみたいだった。

 

「あの時の約束、少しは果たせたかなぁ」

「約束?」

「あれれ、覚えてないの~? ほら、私が高二の時の文化祭の夜にさ」

 

 それで思い出した。私は確か、兄さんの傍にいてあげてと言ったのだっけ。

 

「あれ以来自分なりに頑張ってきたつもりだし、その中で妹である涼音ちゃんの傍にもいられたらと思って来たんだけど」

「思い出しました。もう十分に兄さんにとっても私にとってもかけがえのない存在だと思いますし、約束を果たしてくださってると思います。でも、果したら終わりになっちゃうじゃないですか。それはちょっと、いえ大分困ります。ちゃんと兄さんと結ばれて、未来へと歩み出して欲しいんですから」

「それはもちろん、そうしたいと思ってるから安心して」

「良かったです」

 

 彼女を姉と呼ぶ日もきっとそう遠い日ではないのだろう。兄さんは夏になれば成人だし、希美先輩も今年の十二月には成人する。そうすればもう法律上は大人の側になったことになる。結婚式はもっと後かもしれないけど、プロポーズと婚姻だけは今年の間に終わってしまいそうな感じがある。

 

 そうなってくれれば、私も安心して進路を東京にすることが出来るだろう。

 

「どんなプロポーズが理想なんですか?」

「えぇ~そうだなぁ~。なんでもいいけどねぇ、言ってくれさえするのなら」

「色々あるじゃないですか、そうは言っても。夜景の見えるレストランとか、花畑とか、何でもない時に家の中でとか」

「うーん、だったら告白してくれた場所だと嬉しいかも」

「なるほど」

 

 兄さんが希美先輩に告白したのは確か北宇治の藤棚だったはず。あそこでプロポーズするのは確かに良いかもしれないけど、どうやってやるかが問題だ。でもまぁ、卒業生同士ではあるのだし、入ること自体は出来そうだ。時間帯にもよるけれど。

 

「そういう涼音ちゃんはどうなの?」

「温泉旅館で二人きりの夜に、とか」

「へぇ~、そういう感じなんだ~」

「もぅ、いいじゃないですか」

 

 どちらからともなく笑い始める。二人しかいない大浴場の中で、私たちの笑い声はしばらくの間響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝の起床は早かった。レストランの朝食に舌鼓を打ち、部屋で身支度を整える。兄さんたちは昨日松本先生に怒られていたようで、朝から優子先輩にガミガミ言われている。あの辺の関係性はずっと変わらないようだ。兄さんと優子先輩の間にも謎の絆というかが存在している。同期組の絆って言うことなのかもしれない。

 

 今回のパレードでは衣装は貸与されている。先輩たちはアロハシャツか沖縄伝統のかりゆしウェアを各自で選んで着ていた。この二つの違いは柄らしいのだけれど、最近はもうごっちゃになっていることもあるそうだ。

 

 身支度を済ませ、会場へと移動する。パレードにはダンス部やチアリーディング部など、全国から呼び集められた名門校が勢ぞろいしている。北宇治もそこに勝るとも劣らない団体として認識されているはずだ。全国大会金賞なのだから、それくらいの自信は持っても良いはず。

 

 私はバトンを回転させ、調子を確認する。運動神経はそれなりに自信がある方だ。剣術しか出来ないけれど、鍛えてはいる。アクアラークの会場は華やかな装飾でいっぱいだ。間もなく開園を迎える。ゲートの外には今か今かと待っているお客さんが多くいた。

 

 先輩たちは会場のステージへ移動する。そして私たちは指定された場所へ移動だ。演出の一環として私たちが存在しているため、最初は開園挨拶を行う壇の下に収納されて待機になっている。私たちが先頭、そして他校の演武が続き、最後に秀塔大が〆るという形になっていた。

 

「全員います!」

「ありがとう」

 

 点呼が終わり、梨々花さんが前に出る。

 

「みんな、今日は本番です。大会とは全然違うけど、この晴れ舞台で北宇治のカッコよさを全国にアピールしましょう!」

「「「はい!」」」

「それじゃあ、ドラムメジャーも」

「分かりました」

 

 私も一歩前に出る。

 

「ここまで練習を積み重ねてきました。それでもまだまだ先輩たちには及ばないところがあります。だとしても、私たちの今できる全力を発揮しましょう。全国中継が入っています。私たちの演奏は、姿は、全国のお茶の間に今日何度も届けられるでしょう。胸を張って、堂々と。優雅に華麗に大胆に。全力をぶつけましょう!」

「「「はい!」」」

 

 ステージの下で、私たちは静かに熱狂を昂らせる。そして、開園の挨拶が始まった。多くの参列者がパイプ椅子に座り、その挨拶を聞いている。参列者の中央が大きな道になっており、ここからパレードが開始されるのだ。その映像は当然中継されるし、アクアラーク内のスクリーンにも映し出される。そして園内をぐるっと一周し、パレードを行うという計画になっていた。

 

『――こうして沖縄の地に新しい風を持ち込むことが出来たのならば、我々としても大変誇らしく思っております。我々の未来と、沖縄の未来に幸いのあらんことを祈念し、ここに、アクアラークの開業を宣言いたします!』

 

 兄さんの声が高らかに響き渡る。参列者の拍手の音。同時に園内のゲートが一斉に解放され、お客さんが入場してくる。それを見計らって、鮮烈なトランペットのファンファーレが鳴り響いた。この天高く響く歌声の如き演奏を奏でられるのは世界でただ一人。世界一の称号を持つ兄さんだけだ。壇上にて大勢の参列者の前で演奏している。その音が鳴りやむのと同時に私はバトンを掲げ、合図を行った。

 

 私たちの前にあった幕が一斉に上がり、まばゆい光が差し込む。そして、私たちの演奏が始まった。驚く参列者の中央を胸を張りながら高らかな演奏で歩いていく。驚きはすぐに賞賛と歓喜に変わった。そして参列者たちのもとを通り過ぎ、大通りに出てお客さんたちの前を歩いていく。南国の空の下、私たちは熱に浮かされるように歩き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 大成功に終わったパレードの裏では北宇治と秀塔大のステージ演奏が行われていた。北宇治の演奏は時間の都合上見れなかったものの、秀塔大の演奏は時間があったので見学できた。私たちと同じ全国金の団体だけあって、流石の実力。しかも、わざわざ『リズと青い鳥』を選んで演奏していた。

 

「あ、あの、私! 去年からずっとあなたに憧れてて、あなたみたいな演奏がしたくて……! 少しだけでも、届いていましたでしょうか!」

「うん、綺麗な良い音だったよ」

「~~~! ありがとう、ございます」

 

 クールビューティーという感じだった向こうの三年生がフルートを抱えて泣きながら希美先輩に頭を下げている。兄さんの曲を使うことを選んだ学生指揮の人だったはず。去年の関西大会で希美先輩の演奏を聞いてからずっと憧れていたらしい。あの大会で秀塔大は悔しい想いをしていたはずなのだけど、それでもなお惹きつけてしまう魅力があったということだ。あの演奏なら無理もないと思う。

 

 久美子先輩は向こうの副顧問の先生と何かを話している。同性かつ教職の先輩ということで色々聞きたい事もあるのだろう。こちらとしても研究するにはちょうどいい材料ではある。身近な強豪がどういう演奏を形づくっているのかと言うのは、今後北宇治がどういう演奏を作っていくべきなのかを研究するときには欠かせない視点だ。無から生み出すのではなく、他者の良い点を学び、自分たちなりに組み替えて形成していくことが肝要だと思っている。

 

 間もなく、秀塔大と北宇治の合同演奏だ。学年も関係なく、先輩との最後の演奏が始まる。北宇治側の音頭は久美子先輩に執ってもらうことにした。それが相応しいと、私たちの全員が思ったからだ。久美子先輩が前に立つ。その髪にはイタリアンホワイトの髪飾りが陽光に反射して煌いている。

 

「えーっと」 

 

 久美子先輩が口を開いた時、秀塔大の方から大きな声が響いた。

 

「せいやッ! せいやっ! せいやっ! せいやっ!」

「「「せいやッ! せいやっ! せいやっ! せいやっ!」」」

「せいやッ! せいやっ! せいやっ! せいやっ!」

「「「せいやッ! せいやっ! せいやっ! せいやっ!」」」

「秀塔大ぶちかませーー!」

「オーーー!!」

 

 先代星野部長と思われる大きな掛け声。随分と熱血だ。そういえば、割とスポコンな学校だと兄さんが言っていたっけ。久美子先輩は唖然としていたけど、すぐに咳払いをして私たちを順に見回す。その真っ直ぐ伸びた背筋に、一年前に緊張しつつ壇上に立っていた面影はない。

 

「三年前に入学して、吹奏楽部に入って……みんなと一緒に三年間を過ごせてよかったと、私は心の底から思っています。今日の本番だって、受験があって大変な時期だったし、沖縄って遠いし、まさか全員揃うとは思っていませんでした」

 

 久美子先輩は色々な想いが込み上げてきたのを呑み込むようにして、自分の胸に手を当てている。

 

「だからこそ、今日は桜地先輩が用意してくれた奇跡みたいなステージだなって感じています。今日はお客さんを楽しませるのはもちろんのこと、私たち自身も全力で楽しみましょう」

「「「はい!」」」

 

 ぴたりと揃った声に、久美子先輩が大きく頷く。私は腕を構えた。周りのみんなも準備をする。秀塔大が相当デカい声でコールをしていたのだ。私たちだって負けているわけにはいかない。沖縄の青空の下で、息を吸い込む音が何十と響く。

 

「それではご唱和ください。北宇治ファイトー」

「「「オーーー!」」」

 

 一斉に突き出された拳が天に向かってまっすぐ伸びる。誰もが笑っている。誰もが楽しんでいる。音楽って楽しい。そう思える時間がもうすぐ始まろうとしていた。兄さんが私たち両校の生徒の前に立った。

 

「間もなく本番となります。指揮は私が担いますが、皆さん準備のほどはよろしいでしょうか?」

「「「はい!」」」

「良い返事です。楽しんでいきましょう!」

「「「はい!」」」

 

 そして、私たちの今年最後の大舞台が幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 打ちあがる花火が沖縄の空を色鮮やかに彩る。広がる水面を鏡のようにして、いくつもの花が視界の中に咲き乱れた。南海の月は煌々と輝き、その下に花開く色とりどりで絢爛なる花々を見下ろしていた。バブル期もかくやというド派手な演出が豪華に催され、砂浜のあちらこちらから歓声が上がった。

 

 アクアラークは無事にオープンし、千客万来の様相を呈している。昨日はまだ私たち北宇治生と秀塔附属生しか宿泊者のいなかったホテルも、今は国籍を問わず満室状態だった。駐車場は満杯、フェリーも何十往復としながら大量の観光客を運び入れている。夜になっても消えぬことの無い灯りが島を照らし、アトラクションや施設の電飾が光り続ける。島外から見れば、ここはまさに不夜城のように見えるはずだ。

 

「なんとか大成功だ」

「よかったね。でもこれからお客さんが継続的に入るかどうかが大事でしょ? 最初はみんな物珍しさで来るんだから」

「その通り。ディズニーやらUSJやらに負けないテーマパークに育て上げるにはまだ時間がかかりそう。まぁそこは気長にやっていくしかない」

「そうだね」

 

 兄さんはぼんやりと空を彩る花火を眺めている。私たちのパレードや先輩たちの演奏はかなり受けていたし、大成功と言える。これで兄さんの家中での地位も高まったとみていいのだろうか。間もなく二十歳を迎えれば、兄さんが晴れて祖母の後を継ぐことになる。とは言えしばらくは欧州に留まり続けるのだろうとは思うけど。

 

 テーブルの上のパインジュースの氷がカランと音を立てる。兄さんは酒が飲めないと文句を言って、希美先輩に怒られていた。

 

「北宇治に入って、どうだった」

「まだ終わってないんだけど。私が卒業するみたいじゃん」

「二年間終わって最後の一年を迎える前に、一回整理しておいた方が良いんじゃないかと思ってさ」

「そう? まだ、どういう形で私の高校人生が終わるのかは分からないけど……意味はあったと思う。希美先輩を追いかけて、三日月を聞いて、あんな演奏がしたいと思って入って来た。去年も今年も色々あったけど……それでも誰かの人生に意味ある存在にはなれたかな。自分のしたい事とか、裏切れない物とか、そういう物が見つかったし」

「そっか」

 

 兄さんは息を深く吐き出した。

 

「楽しい?」

「楽しいよ。辛い事とか苦しい事とか面倒な事も多いけど、演奏するのは楽しいし部活は楽しく思えてる」

「なら、良かった」

 

 目を細めて、兄さんは微かに笑う。簡単な事ばかりではないし、楽な事ばかりでもない。それでも兄さんに告げた言葉は嘘偽りなかった。

 

 これから、私がそういう風に思えた空間を守り、続けて行けるのだろうか。三年生はこの沖縄を最後にして本当にさようならになってしまう。個々人の関係は続いても、全員と出会うことは無くなる。個性的な面子だった。全員にそれぞれの想いがあり、人生があり、理想があり、譲れないものがあって、それでも私たちは同じ方向を向いて最後には同じステージに立った。

 

 私は、私たちはどういう未来を作れるのだろう。真っ白いキャンバスには、まだ何の絵も描かれていない。どういう景色を映し出すのかは、私たちの手に委ねられていた。緊張と不安、期待と高揚。相反する感情はいくつも混ざり合っている。来年最高学年になり、自分たちで夢を叶えないといけない私たち。そしてそれを見上げてくれる新一年生や新二年生たち。彼らの希望の灯となれるのか。

 

 いや、きっとなれるのかじゃない。なるんだ。そういう風に決意しないと、人は前に進めない。私の頑張る理由は沢山ある。それは秋子先輩が教えてくれた。頑張る理由を探して彷徨っている子がいたのなら、その子に示せるようになりたい。己の正しさを貫いていいのか迷っている子がいたら、沙里先輩のように見守りたい。いつか見上げた幾つもの星の輝きに、自分もなりたいのだ。

 

「黒江さんにお礼を言われたよ」

「なんて?」

「素敵な場所をありがとうってさ。あと、涼音をこの部に連れてきてくれてありがとうだそうだ」

「そっか」

「良かったじゃないか」

 

 兄さんはそう言って私の頭に手を置く。

 

「希美みたいになりたい。それが最初の願いだったんだろ。初めて自分が抱いた、憧れた姿が希美だった。あの太陽に惹かれた」

「そうだけど……?」

「その通りになったじゃないか。だから良かったな。黒江さんにとって、お前は間違いなく太陽の光だったはずだ。じゃないと、ああいう顔にはならない。あの子はやっと、自分の物語の主人公になったんだろうから」

 

 兄さんは真由先輩と接する機会は決して多くなかったはずだ。それでもちゃんと真由先輩について理解している。その理解力と言うか、察する力と言うか、そういうのがこの部を大きくしたのだろう。

 

「大事な先輩だし、同じ部活の仲間だし、それに……大切な()()だから」

 

 その言葉に兄さんは少しだけ目を丸くして、そして「そうか」と言って頷いた。

 

「桜地先生、ここにいたんですね」

「あぁ、高坂さん」

「桜地さんも、良かった」

 

 高坂先輩は兄さんと私を探していたらしい。

 

「私に何か御用でしたか?」

「まぁ、少し。あとで同じパートの高橋さんとかから貰えるとは思うけど、私からも先に渡しておこうと思って」

 

 そう言って、高坂先輩はカラフルな袋からコンパクトブルーの包装がされた小箱を取り出した。

 

「三年生から二年生に贈り物をしようってことになったの。パートの子にはもう渡してきたから、あなたにもと思って。私の後任として、ドラムメジャーを務めてくれるから」

「ありがとう、ございます」

 

 まさか高坂先輩から贈り物を貰えるとは微塵も思っていなかった。なので、ちょっとビックリしてしまう。小箱の蓋を開けると、その中にあったのはスカイブルーの石がトップについたネックレスだった。丸みを帯びた石は、とろみのある柔らかい色合いをしている。多分、シーグラスだろう。海岸で見つかるガラス片だ。

 

「あなたはもっと高いモノとか、もっとちゃんとした宝石のあるものを持っていそうだけど……せめてものお礼と思って」

「お礼、ですか?」

「そう。これまで正直面倒くさいし頼りない先輩だったと思う。迷走していた時期も長かったし。それでもあなたは見捨てなかったし、ちゃんと向き合おうとし続けてくれた。私の中にあった迷いとか、そういう物を真正面から受け止めて、言葉にしてくれた。それに感謝できるようになるのにこんなに時間がかかってしまったけど、それでもあの時の感情に気付かないままこれからの人生を過ごすよりも、ずっと良かったと思う」

 

 高坂先輩らしからぬ、と言っては失礼かもしれないけれど、随分と真っ直ぐかつ素直な言葉だった。沖縄の空気と温度、そして高揚感が彼女の心の蓋を開いているのか。或いは、秋子先輩や久美子先輩によってもうその蓋はとっくに開いていて、頑なだったのは私の方なのかもしれない。

 

「私は、滝先生が好き」

「知ってますよ」

「……それを追いかけて、ここに来た。そして、桜地先生に出会った。最初は部の為とか、全くそう言うのは考えていなかった。目標のための通過点、みたいな感じだったかもしれない。全力でやるつもりはあったけど。でも、それでも今の私は北宇治が好きだし、この部の演奏がずっと良いまま続いていってほしいと、心の底から願ってる」

「はい、それは私も同じです」

「この部を、北宇治高校吹奏楽部をお願い。あなたにしか出来ない事、あなたにしか伝えられない事があるはず。それを使って、剣崎さんや久石さんを支えてあげて。あなたの厳しさや正しさは、きっと誰かを導くから」

 

 高坂先輩は私を真っ直ぐ見据える。私もそれに応えるように見つめ返した。

 

「託されたものは必ず次の世代に受け継ぎます。より良い形で、より良い姿で。ですから、ヨーロッパの大地に安心して飛び立ってください。欧州の伏魔殿で、北宇治高校吹奏楽部の名前があなたの活躍と共に広がることを願っています」

 

 私が手を差し出す。高坂先輩は少し戸惑いつつも、それを握り返した。私も彼女も兄さんの背中を見て来た。その末に選んだ道は全く違うものだけれど、それぞれ受け継いだものはある。私ではどう頑張っても兄さんの音楽的な後継者にはなりえなかった。孤高の玉座より引きずり下ろすなんてことは出来そうにもない。

 

 だからこそ、その役目は彼女に託す。音大は難しい世界だと聞いている。そこでは全国大会金賞など何の称号にもなりはしない。幼い頃から成果を残している天才がゴロゴロしている。その秀才天才が極まったほんの一部だけがプロになり、そしてその頂点に兄さんが君臨している。この果てしなく長大なピラミッドに挑む姿は素直に尊敬していた。

 

「桜地涼音さん、未来をよろしく」

「もちろんです。麗奈先輩」

 

 私は初めて彼女を名前で呼んだ。握手をしたまま、託す者と託される者として私たちは微笑み合う。ドン、と大きな花火の音が響く。夜空が明るく照らされ、春の風が私たちの頬を撫でた。弟子と妹の静かな継承式を、兄さんは優しく見守っている。

 

「涼音ちゃーーん! 沙里ちゃんたちが呼んでるよー!」

「麗奈ちゃん、そんなとこいたのーー?」

 

 砂浜の向こうから、希美先輩と秋子先輩が歩いてくる。その奥には沙里先輩たちも。

 

「行きましょうか」

「そうね」

「ほら、兄さんも」

「分かってるから引っ張らないで」

 

 季節は周り、一年の詩は静かに最終章を紡いだ。しかしまた新しい一年の唄が奏でられる。人も変わり、環境も変わり、それでも変わらないものを慈しみながら、未来へと進んでいくのだ。八重山桜の花弁が風に舞い、私たちの下へと飛んでくる。

 

 打ちあがり続ける金色の輝きに照らされながら、私たちは歩き出した。希美先輩たちのところへ。

 

 

 

 ――そして、まだ見ぬ未来へ。




アクアラーク編はこれにて完結になります。同時にここまでで原作に掲載されている範囲は全て終了となりました。これまで二百と数話、本当に長い期間お読みいただきまして、誠にありがとうございます。皆様の応援のおかげでここまで来ることが出来ました。

ここからは梨々花世代の三年生編→高坂麗奈音大編(おそらく十話程度)→エピローグと進んでいきます。ピリオドを打つのにはまだ一年はかかりそうですね……。しかし必ずお話は書いていくつもりでおりますので、ご期待頂ければと思います! それでは、次のお話でお会いしましょう。


――そして、次の曲が始まるのです
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。