第百四十六音 花吹雪 Viewpoint from 希美
まだ少しだけ冷たさを孕んだ風がお屋敷の縁側に吹き込んできた。それに揺らされて、満開の桜がハラハラと花弁を散らしている。桜地邸の名の通りと言うべきか、このお屋敷には大きな桜の木が何本も植わっている。そして春になるとこうして淡紅色に視界を染め上げる。一刻値千金と花にも歌われる日本人の好きな景色が広がっていた。空は高く澄み渡って青々としている。
「ん~~! ここのお団子メッチャ美味しいわね」
「よかった」
桜地邸に人が集うようになってから一年が経過した。この少人数で住むのには広すぎるお屋敷にも、それなりに出入りが増えたのだと思う。その大半は優子たちではあるけれど。今も去年同様開催されている花見をしていた。花より団子と言わんばかりで優子は上品なお皿に乗ったお団子を頬張っている。用意した凛音はお酒がないと愚痴りながら涼音ちゃんの点てたお茶を飲んでいた。
もう混んでいる中お花見に行かずとも桜の巨木をいつまでも鑑賞できるということで、お花見はこの家で行われるようになっていた。人も全然いないし、何を食べても片付けが楽だし、レジャーシートを引く手間も省けるしでかなり好条件なのだ。そのうち子供たちとこうして桜を眺める日が来るのだろうか。今年の冬には二十歳を迎える身として、少しはそういう事も意識するようになっていた。
無意識のうちに、左手の薬指を撫でる。そこにはまだ、何の感触も無い。
「これ、どこの?」
「さぁ?」
「さぁって、アンタが買って来たんじゃないの?」
「いや、全然。なんかいい感じのない~? って外商さんに連絡したら、これを持って来てくれたから」
「……そういえばそういうヤツだったわ、時々忘れそうになるけど」
優子はあきれ顔で言いつつまた一口進めている。そういう文化があること自体、この家に来てから初めて知った。デパートって自分で行くんだって海外に行ってから初めて知ったんだよ~とあっけらかんと言われたのにはやっぱり面くらってしまう。そういうところでは育ちとかが違うのだと実感させられた。それでもまぁ、上手くやれていると自負している。
みぞれは和服の涼音ちゃんが点てた抹茶を飲んでいた。茶道の免許を持っているらしいので、かなり本格的に点てられるそうだ。でも、今はそう言うの気にしないで下さいと本人は言っている。あんまり堅苦しいのは好きじゃないそうだ。夏紀は抹茶が苦手なので、大人しく烏龍茶を飲んでいる。
「今年も開催できてよかったよ、みんな揃って」
「帰る日、ちょっと延ばしたからなぁ」
「最初は沖縄から直接帰ろうとしてたもんね」
「ホントはそのつもりだったんだけどね。なんか学長と学部長が揃って風邪ひいたんで教授会が来週に延びて、おかげで暇になったから」
凛音の隣に腰を下ろす。見上げれば桃色の欠片が私たちの上にゆっくりと降り注いだ。一枚の花弁が茶碗の中に入る。緑と桃色が良く映えていた。ピンク色は私の好きな色。したがって、春は私の好きな季節でもある。
「今年も、次は夏になるのかな」
「……多分」
「そっか」
申し訳なさそうに目を伏せながら、凛音は何かを言おうとして取りやめた。私をここに残してヨーロッパに住んでいること自体は望ましいとは思っていないみたいだ。けれど自分の音楽人生を裏切ることも出来ない。そういう人だと分かっているし、分かっていて好きになった。だから面倒な事は言わないけど、寂しいんだってことくらいは理解してほしい。それくらいはアピールしたとて罰は当たらないはずだ。
「気にしないで、とは言わないけど帰って来てくれるならなんでもいいから」
「それはもちろん。他に帰る場所も、帰りたい場所もないし」
「ならよろしい。高坂さんにはお目付け役を頼んだから」
「うげ、なんの?」
「お酒飲み過ぎてないかの」
「……」
「なんかあったら高坂さんがすぐに連絡してくれる手筈になってるからね」
「君たち、いつからそんなに仲良くなったの……」
「内緒でーす」
ヨーロッパ暮らしを始めるつもりの高坂さんからすれば凛音の存在は凄く頼れるものだと思う。同時に私にとっても高坂さんが凛音の近くにいることは、ちゃんと生活出来ているのかを第三者目線で伝えてくれることを意味する。それはとてもありがたい事だった。浮気しないとかは全然心配していない。でも元気で暮らしているのかは気になってしまう。
高坂さんとは夏の一件以来、それなりに距離を近づける事が出来たと思っている。優子に凄い懐いているのは知っていたけれど、心を開いてくれるとググっと距離が近付く子みたいだ。年末に凛音の招待でヨーロッパに行く時も許可を取ってくれたし。
「夏が来るのを末永ーくお待ちしてますね~」
「はい、申し訳ない限りです」
「じゃあ、その前にこれをお渡しします」
「なにこれ」
私は凛音の手に紙を何枚か渡す。
「瓦の葺き替え時期が来たみたいです」
「あぁ、そういう……。一、十、百、千、万、十万、百万、千……」
うげぇ、という顔になっている。私も最初に見た時、桁が一個か二個間違ってるんじゃないかと思った。ただまぁ、この広大な敷地全部のメンテナンスとなるとそれくらいになってしまうのかもしれない。
「あと、最近お風呂場の室内乾燥機の調子が悪いんだよね」
「マジか」
「冷蔵庫も耐用年数的に危ないかなぁ」
「前に工事してからそろそろ二十年だし、冷蔵庫も結構お年だからね。ま、仕方ない。ちょっと婆さんとも相談して何とかするから、もしあれだったら雫さんに見積もり取ってもらうように伝えて」
「はいはい」
雫さんは洗濯物の扱いは上手いけれど家の管理はそこまで得意じゃないと言っていた。涼音ちゃんは部活で忙しい。自然とこの家のことを見れるのは私だけだ。旦那さんの留守を守る役目、みたいな? ちょっと調子に乗っているかもしれないけど、これくらいは許してほしい。
「ほら、食べ過ぎだよ。そんなに食べて、またダイエット~とか言って色々騒ぐんだから」
「はぁ? そんなに騒いでませーん!」
「騒いでたって。工事の音でももう少し静かだよ」
「耳おかしいんじゃないの?」
優子と夏紀はどうでもいい事でまた揉めている。その真ん中で我関せずとみぞれはお茶を啜っている。涼音ちゃんは苦笑しながらお菓子を摘まんでいた。薄紅色の和服はこの春の光を浴びてよく似合っている。
「来年も、こうやって揃えるかな」
「大丈夫だよ。こういうイベントごとが好きな面子ばっかりだし、それにどうせ私がいない間も防音室とか使ってるんでしょ?」
「それはそうなんだけど、私は凛音も含めてっていう意味だったんだけどな」
「私は希美さんが帰ってきて~と言えば飛んできますとも」
「また調子のいい事言っちゃって」
肘で軽く小突く。冗談じゃないんだけどなぁ、と凛音はぼやいている。冗談じゃないのはよく分かっていた。だからこそ言わないようにしている。きっと寂しいと零せば彼は帰って来てくれるだろう。でもそうして貰ったら最後、私はそこからもう一度送りだ出せないような気がする。
それにこの距離が離れた恋愛も悪い事ばかりではない。顔を見れるまでの間が開いているからか、会えた時は凄く嬉しくなるし、日々が進むごとに想いは募っていく。こうして隣に座っているだけで幸せだった。同じ時間を過ごして、同じものを見て、同じ空の下で同じ世界を生きているだけで私は満たされている気分になる。
一陣の風が吹いて、花弁がヒラヒラと宙に舞う。花吹雪はまるで夢の景色みたいだ。いつまでもこんな景色の中にいたかった。凛音がいて、皆がいて、私はその中で笑っていられる。この一瞬だけしかない景色の中で留まっていたかった。けれど私の愛した人はそれを望まないだろう。だから一緒に歩いていくのだ。
「今年が、あの子の最後の年か」
「そうだね」
凛音の視線の先には涼音ちゃんがいた。彼の最愛の妹は私にとっても大事な存在だ。可愛い後輩で、未来の義妹になってくれるはずの存在で、同じフルート奏者として尊敬するべき相手だった。だからこそその一年を応援してきたし、自分なりに出来ることはしてきたと思う。そして、私たちを追いかけて北宇治高校に入学してきた彼女も、今年三年生になる。最後の年。高校三年生と言う、多分子供でいられる最後の時間がやって来る。
「私が見てあげられれば良かったんだろうけど……ごめん」
「謝らないで。これは自分で決めた道だし、何より誰かの力になれるのは嬉しいから。自分が貰った分を少しでも返してあげたいんだ」
「……ありがとう。希美が私の隣を歩いてくれる人で良かった」
「なに、いきなり。そう思ってくれるのは嬉しいけどね」
もう彼と出会って数年が経つ。振り返ればあっという間だ。昔の私は、こんな風になるなんて思ってもいなかった。人生は想像できない事ばかり起こる。でもその想定外は嫌いじゃない。彼と一緒にいれば自分の知らない世界を知ることが出来て、いろんな出会いをしながら前へ進んでいける気がするのだ。
あの夏に私を泥の中から掬い上げてくれた手で、沢山の人に未来を示しているのだ。私はそれがとても誇らしい。花吹雪はまだ終わらない。私たちはその中で、何を言うでもなく手を繋いで見つめ合っていた。
「……」
「わぁ、みぞれ」
「よかった。みんないるのに、キスし始めそうだったから」
「流石にしないよぉ、こんなところで」
「その通り」
ホントかなぁと言いたげな顔でみぞれは首を傾げた。どうも、この子は私が色ボケだと思っている節がある。おかしいなぁ、同じ大学に通って、そんな事ないと知っているはずなんだけど。
「ほら、そこのポンコツ夫婦未満! 二人だけの世界作ってないでこっちでこれ食べなさい!」
「希美はポンコツじゃないでしょ」
「いや待ってくれ、私はポンコツって言いたいって事?」
優子と夏紀に向かって抗議しつつ凛音が立ちあがる。それに続いて私も立ち上がった。涼音ちゃんが私たちの分のお茶を点てている。
「夫婦未満で喜んでた」
「な、何のことかなぁ」
「希美は、昔から嘘が下手」
「えぇ!?」
みぞれは小さく笑って、皆の処へ歩いていく。私は親友にそう思われていたみたいだ。ちょっとショックかもしれない。でも、そんな話をできるようになったのも私たちの関係性が少し変わったことの証拠なのかもしれない。高校生の頃、こんな話は出来なかった気がする。あの頃はあの頃なりの良さがあったのかもしれないけれど、私は今の方が好きだった。
いつまでこんなみんなとの関係性は続くのだろう。今の自分には、将来は近くて遠いものだ。それでも気持ちが繋がっていれば、きっとすぐに戻れると信じている。
桜の枝に停まった青い鳥が小さく鳴いた。鮮やかな春だった。
「どうもご無沙汰しております」
凛音は大きくお父さんとお母さんに頭を下げている。去年の夏に私の実家を訪れてから半年ぶりくらいの訪問になるのだろうか。相変わらず少し緊張気味に、それでも前よりも慣れているような感じで、彼は私の家の敷居をまたいだ。
「こちら、よろしければお二人で」
「あらぁ、ありがとうねぇ」
お母さんは嬉しそうだ。欧州謹製のお菓子とお母さんの好きなハンドクリームの詰め合わせセットが紙袋に入っていた。こういうところでソツなくこなせるのが彼の凄いところだと思う。
自分の家にはたまに帰っている。涼音ちゃんが外泊している時とかは、実家でのんびりしていた。実家に帰るとどこか懐かしい匂いを感じる。この一年で桜地家の匂いも自分の家の匂いだと思えるようになった。それでもやっぱり実家の匂いには別種の安心感がある気がする。
「お義父さんも、お久しぶりです」
「あぁ、よく来たな」
お父さんも凛音のことを認めてくれている。厳しい人というか、真面目一徹みたいな人なので認めてくれたことは安心したし、嬉しかった。家族が仲良くしてくれるのは嬉しい。凛音の亡くなってしまったご両親とも会ってみたかった。凛音と涼音ちゃんを育てたご両親なら、きっと仲良くなれた気がする。
凛音とお父さんはリビングで話している。男同士、色々と話すこともあるのだろう。
「お母さーん、今日の夜なに~?」
「もう、あなたもまだまだ子供ねぇ」
「まだ大学生だし~」
「そんな調子で、向こうのお宅に迷惑かけてない?」
「かけてないもん」
私はもうすぐ二十歳になる。そうすれば大人の仲間入りする。それでも親の前ではいつまで経っても私は子供なのだろう。大人にならないといけないけれど、ここでは子供でいられる。それはとても温かい話だし、ありがたい話だ。
でも同時に思う。私にはこの家がある。厳しくも優しいお父さんと、明るくちょっとペラペラ喋りすぎるお母さん。この二人がいる。けれど凛音にはそういう、大人になっても子供でいられる場所はあるのだろうか。初めて出会った時から凛音は大人びた顔をしていた。大人にならないといけないと、そう張り詰めた顔をしていた。
高校に入って、色んなことがあって、少し年相応の表情を見せてくれるようになったような気がする。私がもしそうなってくれた一因なのだとしたら、これからも彼が彼らしく振舞えるように傍にいる存在でありたい。
「でも、成長してる部分もあるわね」
「え?」
「子供はね、自分の人生を生きるモノ。それは大人になっても一人ならそれでいいと思うのよ。でも、結婚したり親になったりするのならそれじゃダメで、誰かのために人生を生きないといけなくなる。自分の幸せは、相手や子供の幸せになる。希美は凛音君の幸せを、自分自身の幸せと言える?」
「――言えるよ」
私はそう断言した。私が彼のことを愛しているように、彼も私を愛してくれている。私が凛音や将来の子供たちのために人生を生きるのだとしても、きっと凛音は私のために人生を歩いてくれるはずだ。そうやって双方向に向き合っていれば、それでいいのだと思う。支え合って、繋がり合って、手を取り合って生きていく事こそ人生のパートナーという事なのだろうから。
喜びは分け合いたい。苦しみはもっと分け合って一緒に考えていきたい。守られているだけのヒロインなんかになりたいくない。私は生きている限り、彼がそうしてくれたのと同じように彼を愛すだろう。いつかこの身体が朽ち果てて、愛していると伝えるための喉が枯れるその日が来ようとも。彼と幸せな人生を歩むことが、今の私の生きる意味だ。
夢も、愛も叶える。それは強欲かもしれないけれど、当世風のヒロインならこれくらいの強欲さでちょうどいいのかもしれない。
「すっかり、大人になっちゃって。いつの間にか、こんなに大きくなってたのね」
「まだまだだよ。涼音ちゃんのことを一年間見守ってきて、思った。誰かを見守るって難しいね。どうやって声をかけたらいいのかとか、そもそも声をかけるべきなのかとか。自分に出来ることは少なくって、それが悔しかったりもして。あったかいご飯だけはちゃんと出そうと思って頑張ってみたりとか。お母さんたちも、こんな気持ちだったのかなって」
「……知ったような口を聞いちゃって、もう」
お母さんは私の背中をバシッと叩いた。その声は少しだけ震えていた。
「ほら、お父さんと凛音君にお茶渡してきて」
「はーい」
私を育ててくれたこの台所の流し台にはまだ、私の分のマグカップが置いてある。ここはちゃんと私の帰る場所だった。凛音がそう思ってくれる場所を作りたい。そしていつか、自分の子供たちも私と同じように自分の家を買える場所だと無邪気に思い続けられる場所にする。それがきっと親の役目なんだろう。それはまだ先だろうし、もっと学ばないといけないことは多い。なにせ、私と凛音の子供なんて絶対頑固だろうし。
「二人とも、お茶だよ」
「ありがとう」
「あぁ」
お父さんは短く言って飲み干した。リビングには読みかけの小説と、無造作に置かれた新聞。こういう小さな部分に実家だなぁと思う。テレビの横の写真立てには私の大学の入学式の写真が追加されていた。横にはゴルフ仲間とお父さんが撮ったであろう写真もある。
「お義父さんゴルフやられるんですね」
「あぁ、それなりにな」
「私も出来ますよ」
お父さんの目がキラリと輝いた。
「流石だな」
「恐縮です」
「どうかな、今度時間が合えば」
「あぁ、それはもう是非是非」
なんかお父さんと知らないところで仲良くなってる。これなら「娘さんを私にください」って挨拶してもすぐに許してもらえるかもしれない。義両親との関係って言うのは夫婦関係の中でも拗れると面倒なところ、と雑誌とか涼音ちゃんの持ってる恋愛小説には書いてあった。だから良好であることは凄く望ましいと思う。
「そういえば、希美の成績表が届いたんだが」
「え」
実家にも送付されるんだ。そんな事を今更知った。
「私、ちゃんと単位取ってるよ」
「それは知ってるんだが、普通の大学と違いすぎて何をしているのかさっぱりわからん。この楽器別指導法ってのは何をやってるんだ」
「あぁ、それはメンテナンス方法とか指導法だよ」
「メンテナンス……?」
露骨に?マークを浮かべているお父さんに、凛音が助け舟を出してくれる。
「楽器って結構メンテナンス必要なんですよ。自分の専門楽器、希美の場合はフルートだけじゃなくて、それ以外の例えばトランペットとかのメンテナンス方法とか仕組みを学ぶんです。もちろん、奏法とか指導法の基礎みたいなのも。ベースとドラムじゃ全然違うじゃないですか」
「なるほど、そういうもんか……。君もやってたのか?」
「似たような感じのは」
「こっちの合奏って言うのは?」
「実際に吹くんだよ」
指導コースに入ったから演奏とは無縁かと思っていたら全然違った。器楽科のみぞれほどではないにしろ、実際に演奏することもコースの中に組み込まれている。新山先生と凛音とエリーゼさんの指導を受けていた経験はこんなところでも滅茶苦茶生きている。天才ぞろいと言われる音大の中でも高い評価を貰えていたし、器楽科に行かないの? と先生に聞かれたこともある。
音大主席の実力をこんなところで思い知っていた。私たちが受けていた指導は確立された理論に基づきつつ凛音なりの色を加えた凄まじく専門的な内容だったのだから。これを知ることが出来るのは私やみぞれ、高坂さんなどの限られた人だけだ。全国大会に三回も送り出した実力の高さを、実際に同じ立場を目指して噛み締めている。
とはいえ、諦めるという選択肢はない。練習したり勉強したりするのは難しいこともあるけれど、未来への道はしっかり見えていたし、高三の時とは全然違う。むしろ努力して出来るようになることは楽しさすらあった。
「うわ、音楽史だ。これ私も似たようなのを大学で授業やらされてるんですよ。作曲と理論学みたいなのも……。本業は実技指導のはずなんですけどね」
「出来ると色々押し付けられるな」
「全くです。音楽史の授業めっちゃさぼってたなぁ」
「これに関しては私も何も言えん」
お父さんも留年寸前だった時期があるらしいし、この二人はそういうところでは似た者同士なのかもしれない。その点私はちゃんとフル単を獲得してるし、GPAだってコース内で上から数えた方が早い場所にいる。高い学費を払ってもらっている分を回収しないといけないし、将来に向けて努力は欠かせない。
「あら、何の話?」
「私の受けてる授業の話」
「あ、それ私も知りたかったのよ」
お父さんの持っている成績表を、お父さんの右隣の凛音と左隣のお母さんが覗き込んでいる。三人の後ろからお父さんの肩越しに眺めている自分としては少し恥ずかしい。それでも私の大学生活の話を聞くときの両親の顔は、いつになく嬉しそうだった。
激務の凛音がなんとか時間を捻出しながらスパルタで指導をしてくれた。勇気を出して相談したら、両親も最後は応援してくれた。そういう多くの助けを貰って私は夢への切符を掴んでいる。才能ではばたく青い鳥にはなれないのかもしれない。けれど、きっと大地を走る事は出来る。そう信じてから一年以上の時が経過した。あの時信じたことは何一つ揺らいではいなかった。
ピピピピ――とアラームが鳴る音で目が覚めた。高校生でもないのに随分早起きな生活が続いている。自堕落な生活を続けるよりはよっぽど健康的だった。四月の夜はまだ少しぶ厚い布団が欲しい時期。温い世界から抜け出すのに数分ほどかかった。
朝の支度を済ませて大きな欠伸をしながら台所に立つ。水はまだ冷たい。作るのは朝ごはんと涼音ちゃんのお弁当だ。お弁当、と言っても昨日の夜の残りが多いし、新しく作るものはそんなに多くはないけれど。作業していると、凄く眠そうな目をしながら涼音ちゃんが起きてくる。暮らしてみてわかったけど、この子は結構朝が弱い。起きてるんだか寝てるんだか分からないような顔で気絶しそうになりながら歩いている。
「おはよう、ございます……」
「おはよー」
しょぼしょぼした目を擦りながら椅子に座った涼音ちゃんはそのまま突っ伏して寝そうになっている。この子が目を覚ますのは、いつもご飯を食べた後だ。今日から新学期が始まる。一年生たちが登校してきて、本格的な活動がスタートする。涼音ちゃんの最後の一年が幕を開けるのだ。
「ほら、今日ミーティングでしょ?」
「みーてぃんぐ……はい、そうでした……」
頭が回ってない中、それでも手を合わせてパンを食べている。凛としたお嬢様の姿を見ている学校の子たちからすれば、こんな姿は意外なのかもしれない。誰にだって家でしか見せない顔がある。当然私にだってあるけれど、それは安心していないと出てこない。私と言う存在がいたとしてもこの家が安心して過ごせる場所のままであるのは、私としても喜ばしい。
「ごちそうさまでした」
食べ終わるとやっと覚醒した顔になっている。エンジンがかかり始めて、そしてドラムメジャーとして今日も頭を回していくのだろう。私が出来るのはその手助けだけだ。
「はい、今日のお昼」
「いつもありがとうございます。今日からまた一年間、よろしくお願いします」
「そうだね~。今日からもう、三年生だもんね」
「はい……!」
その返事の中には色々な感情が見え隠れしていた。希望もあるし不安もある。最高学年として振舞えるのか。最後の大会に挑むにあたって、結果を出すことが出来るのか。どんな子が入ってきて、今年一年どういう運営が行えるのかはまだ誰も分からない。自分の進路についてだって考えないといけない。
自分について、他の人について、大きく悩まないといけない時間。それが高校三年生という一年間なのだろう。自分がそうであったように。私の高校最後の一年はそういう時間だった。感情に振り回されて、色々な想いがグルグルと頭の中を巡り続け、それを解消するまでに随分と時間がかかった。
それでもあの時間は必要だったと思うし、あの時間がなければ今の私はいないだろう。音楽というものは自分と見つめ合う時間を強制的に与えてくる。個人練習をしている時、合奏をしている時、向き合い続けないといけない。自分の良い所も、当然悪いところも。足りない物、醜いところ、そういうものを強制的に直視させて来る。音には感情が出るし、気持ちは演奏を左右する。
でもだからこそ、価値がある。音楽と向き合う中で自分と見つめ合い、そうやって未来に進むための糧になる。学校の吹奏楽になにか意味を与えるのだとしたら、こういう意味もあるんじゃないだろうか。私は凛音のおかげで、リズと青い鳥のおかげで、そして周りの多くのおかげでそういう風に思えるようになった。涼音ちゃんにも有益な時間であって欲しい。意味があると自分で思える時間を過ごしてほしい。
「目指すのはやっぱり全国金、かな?」
「全員で決めないといけないのでまだ分かりませんけど、梨々花さんはそのつもりみたいです。去年から託されたものを自分たちも次に伝えていきたいと、三年生は思っている人が多いはずですし」
全国金を獲る事だけが全てではないと思っている。けれど、この子たちが撮りたいと思っている願いだけは嘘ではないし、否定してはいけないのだろう。コンクール第一主義との向き合いは、音大の中でも問われ続けている。私はいつか指揮を執るにあたって、そこを考えて行かないといけない。でもそれは大人が考えればいい事じゃないだろうか。がむしゃらに、欲しいものを目指して走ればいい。その中で自分たちの音楽が見つかるはずだ。未熟者ながらそう考えている。
「ドラムメジャーとしての意気込みは十分みたいだね」
「もちろんです。桜地凛音の妹として、高坂麗奈の後釜として、その蹄跡を無駄にしないよう努めるつもりです」
「いいね、やる気満タンだ。じゃあしっかり食べて頑張ってくださいな」
私には応援する事しか出来ない。演奏のアドバイスくらいは出来るかもしれないけれど、でも精々それくらいだ。こんなに真面目に、真剣に、真っ直ぐ努力をしている子の願いは叶って欲しい。だから帰る家で待っている。
玄関を開ければ綺麗な青空。まだ桜の花は咲き誇っている。お屋敷の門まで続く長い石畳の上には花の絨毯が出来上がっている。
「最後の一年、後悔しないようにね」
「はい、頑張ります」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
レッドカーペットを歩くみたいに、涼音ちゃんは綺麗な髪をたなびかせて学校へ向かっていく。私も彼女もまだまだ未完成な存在なのかもしれない。それでも未完成ながら、不完全ながら、舞台の上で今できる精一杯を出し尽くす。彼女が躍る舞台はどんなものになるのだろうか。美しく、気高く、優雅で大胆。彼女の持っている良さが十分に発揮された、そんな舞台であれば素晴らしいと思う。
「さーて、課題やらないとなぁ」
どんな一年になるのだろう。私のように悩みつつも楽しかったと心から言えるようなものであって欲しい。
――