四月六日金曜日
課題曲は限界まで決めずに全て練習させ、その後に状況や自由曲との組み合わせを見て決める、という方策も存在します。どうするかは話し合いですが。
(涼音)
コメント
大分厳しいね……。強豪ってどこもこうなのかな(梨々花)
あくまで一例だから。この子は方策を無限に出してくるけど、中には結構無茶苦茶なのもあるでしょ。全部やる必要はないよ。取捨選択 (奏)
↑には色々言いたいことがありますけど、ボツならボツで構いません。それならまた何か考えますから(涼音)
フルートパートの練習教室を訪ねて来た彼女、一条さんの名乗った柏市立酒曽根中学校という名前は知っていた。吹奏楽王国とも言われるほど吹奏楽が強いのが千葉県だ。柏市や習志野市に名門校がひしめいている。東関東大会は大体いつも千葉県だったし、西関東大会は大体埼玉県なのだ。その中でも酒曽根中学校は去年の全国大会で金賞を獲得している。
そして一年七組という事から、私と同じ進学クラスという事も分かった。確かに頭の良さそうな感じはする。これはあくまでも雰囲気なのだけれど、滲み出るモノは存在しているのだ。関西が大激戦区と化していた去年の高校の部だけれど、それと同じくらい毎年激戦区なのが千葉県と聞いている。そこで勝ち上がってきた部の出身者というのは俄然期待が出る。
「柏市って……どこ?」
「千葉県ですよ、千葉県」
「あー、そうなんだ!」
まず成美さんは柏市の場所が分かっていなかった。まぁ、関西にいるとあまり耳にすることはないかもしれない。一応去年も同じ大会に県立柏が出ていたのだけれど、時程が合わなかったと記憶している。
「ずいぶん遠くから来たんだねぇ。どうして北宇治に?」
「父の仕事の都合で」
「なるほどねー」
真由先輩と同じような感じだろう。真由先輩は三年生になる段階だったけれど、高校生になる段階で転勤なら多少はマシかもしれない。ずっと千葉にいたならそこで構成された人間関係が崩れてしまうけれど、また作るのも入学の頃ならまだ難しくはない。転校経験のない身としては、そんな風に思った。
「それでも色々選択肢がある中でわざわざ北宇治を選んでくれてありがとう。これからよろしくね」
「……どうもありがとうございます」
あまりありがたいと思っていなそうな声音で彼女は頭を下げる。抑揚のない声だ。どういう風に思っているのかも読み取りにくい。声や瞳は内心を大きく代弁することもあるけれど、彼女からは何も分からなかった。ただ礼儀作法は心得ているみたいだし、鈴谷さんと違って何かを擬態している感じもしない。純粋に無感動なのだろうか。
「マイ楽器は持っていますか?」
「はい」
「分かりました。今度楽器決めがあるので、その際に詳しい自己紹介などをしてもらいます。楽器もその時までには持って来てください」
「はい」
最低限の返事だけしているので、AIと話しているような気分になった。麗奈先輩の初期ですらもうちょっと会話しようという意思はあったんじゃないだろうか。いや、本当のところは純一さんか秋子先輩辺りに聞かないと分からないのだけれど。成美さんたちもどうしたらいいのかなぁという感情が薄っすら見えた。
「本日は持参していないので、次回持ってきます。申し訳ありません」
「いえ、気にしないでください。入部届はお渡ししますので、保護者の方のサインを貰って滝先生か松本先生に提出してくださいね」
「分かりました。ありがとうございます」
それだけ言うと成美さんから入部届を受け取り、一条さんは再度丁寧に頭を下げて教室を後にした。用事が終わったから帰る、という動作に一切の躊躇を感じない。先輩や同期になるであろう鈴谷さんと喋ろうという意志は一切感じなかった。
「な、なんですか、あれ~! 涼音先輩に話しかけてもらって、あんな適当な対応許されないですよ!」
「色んな人がいるんですよ、世の中には。別に態度が悪いわけではありませんし良いじゃないですか。むしろ礼儀正しい子だと思いますよ。少なくとも中学生時代のあなたよりは」
「うぐっ。でもあの子と私、三年間一緒なんですけど……。もちろん他にもメンバー増えるかもですけど。それに柏ってことは絶対上手いし……むぅ」
自分より上手い可能性がある奏者の登場、そして一緒にやっていく同期としてコミュニケーションが面倒そうという二点で鈴谷さんは警戒しているようだった。後者に関してはむしろあなたの方が心配ですけどね、という言葉が喉まで出かかって慌てて引っ込める。これは言わない方がいいだろう。
「取り敢えず、あなたも入部届を受け取ったら今日は保護者の方に見せてください。この後のことは追って連絡しますから」
「はーい」
なんとか彼女もいったん家に返し、残った面子は椅子で輪を作る。練習をしている場合じゃない。これは中々難しいことになった、という感情は全員が共通して抱いていたのだ。どういう風に後輩と接していくのか、誰が指導係として面倒を見るのか。そこはきちんと決めておかないといけない。まだ他にもパートメンバーが増える可能性はあるけれど、もし増えても一人か二人だろう。そこまで多くはないはずだ。
「さて……どうしよっか」
成美さんが困り顔で聞いた。
「なんか、凄い子が来ちゃいましたね」
「うん、凄いインパクト……」
二年生二人も困惑していた。
「でも巧美ちゃんは強豪出身じゃなかったっけ? 北中でしょ? ああいう子たち、いなかった?」
「確かに香奈先輩の仰る通りではあるんですけど……。北中はそんなに変な学校じゃないですよ。むしろあの鈴谷さんって香奈先輩の後輩でもあるんじゃないですか?」
「まぁ、そうなんだけどね。見ての通りの有様で……。アレでも随分マシになったんだよ。中学入学したての頃なんて、涼音ちゃんにも喧嘩売ってたし」
「えぇ……っ!」
「今のえぇ……! はどういうニュアンスなんですか」
信じられない、という声を出した巧美さんに、私はツッコミを入れる。明らかにこいつに喧嘩を売るとは信じられない、というニュアンスだった。私を何だと思っているのだろう。
「で、ある日怒られてああなっちゃったんだよ」
「なっちゃったんですか……」
「涼音ちゃん、何したの……?」
「校舎裏に呼び出したんだね」
成美さんが恐る恐る問いかけ、つみきさんは楽しそうに言う。どこに楽しい要素があったのだろう。校舎裏に呼び出して……なんて映画みたいな事はない。というか、彼女はどういう映画を観ているのか。どんな話をしたのかは覚えているけれど、流石に鈴谷さんの名誉のために黙っておくことにする。
「でも、あんな感じでも副部長だったんですよね?」
「確かに」
陽向さんの問いかけに成美さんが同調した。
「あー、それはねぇ」
「はい。色々と政治的な理由があるんでしょう」
南中組の私と香奈さんはそこをよく理解している。幹部がどうしてああいう編成になったのかもちゃんとわかっていた。
「まずあんな感じの子ですがちゃんと友達はいるんですよ、鈴谷さんなりに。軒並み実力も発言力もある子でしたが。そのため、彼女が副部長になったのは指導力とかを期待してではなく、彼女の周囲にいる人間を排除すると部が回らないからでしょう。同時に南中は各パートの選挙制ですので、推薦票が多数集まるのも自明でした」
「でも、そういう子って顧問が排除するんじゃないの?」
「……顧問の発言力は私のせいで低下しているものと思われます。演奏指導以外では特に」
私が部長時代に大反抗をしてしまい、それが受け継がれてしまったのだろう。義井さんは穏健派だったけれど別に顧問が好きだったわけではないし、私の路線を継続したのだと思う。その末に問題児世代は生徒の自治を錦の御旗にして、部の人事への介入を拒んだのだと推定された。
「部長だった倉森さんは優秀な子でした。バランス感覚に優れ、真面目で実直な生徒です。だからこそ、流石にそこは上回れなかった。政治的な思惑で配置された副部長と、真っ当な理由で選出された部長。逆に良く回っていたと思いますね」
倉森心菜、トロンボーン担当の良識派だ。彼女がいれば上手く抑えられたんだろうけれど、いなくなった今では中々難しいものがある。しかも、いわゆる鈴谷派の中心人物ばかりこっちに来てしまった。なんで秀塔に行ったのだろうと内心で少し恨む。確かに秀塔も良い学校だけれど。
「補足するとね、南中って色々諸事情あって結構特殊というかで……。みんな部長である涼音ちゃんのことは尊敬してたし好きだったんだけど、個々人は仲良くないところが多かったりしたの。なんて言えばいいのかな、横方向の矢印はいがみ合ってるんだけど、縦方向だけはしっかりしてる、みたいな? だから部長の言う事なら従うし、困らせたくはないから団結はするっていうスタンスの子も一定数いたんだよね」
「うーん、何というか、全部涼音ちゃんの撒いた種だったりしない?」
「…………」
香奈さんの補足を聞いたつみきさんがのんびりとした声で、しかしグサっと突き刺さる事をいう。実際何も否定できないまま私は黙るしかなかった。私はあの締め付けてばかりの時代を、私の統治それ自体を正しいとは思えないでいる。それは今でも変わっていない。ただ、だからこそギリギリのところで踏みとどまりながらも回っていたというのも事実として受け入れなければならないのだろう。
私の影響を受けて、というと自意識過剰かもしれないけれど、でもそう認識せざるを得ないような子たちが誕生して、こうして目の前に現れた。これは過去を見つめなおせという啓示なのかもしれない。この状況を精一杯好意的に解釈して、そう心の整理をつけることにした。じゃないと後悔と羞恥心で死んでしまいそうだったから。
「ともあれ! だよ」
パン、と成美さんが手を叩く。
「ここは北宇治であって南中じゃない。北宇治には北宇治の文化とかやり方があるし、りりりん部長の方針もある。それに合わせてもらうってのは絶対に必要な事だからさ。幸いというかなんというか、一応コミュニケーションは取ろうとしてくれてるからね。指導係はつみきと巧美ちゃんでやってみよう」
「はーい」
「私、ですか?」
「うん。あんまり近しくない人と関わって欲しいし、それに巧美ちゃんは来年三年生だよ?」
「確かに、そうですね……。分かりました、頑張ります」
「よし、その意気。で、もう一人の一条さんは取り敢えず私と陽向ちゃんが見てみる。いい?」
「やってみます」
陽向も小さく頷いた。コミュニケーション能力が高い成美さんと、穏やかな陽向さんならちょっと難しそうな一条さんの対応もできるだろう。悪い子ではないと思うし、少し接しにくいだけなんじゃないか。みぞれ先輩に近い感じだと勝手に予想していた。全然違うかもしれないので決めつけるのは良くないけれど、何も手掛かりがないのは厳しい。
というか、兄さんはどうやってみぞれ先輩が「友達」と言ってくれるような関係になったのだろう。紆余曲折あったのは知っているけれど、今になって興味が出て来た。みぞれ先輩本人に聞いてみようと思う。どうせ近いうちにウチの防音室を使いに来るのだから。
ともあれ、これで最低限の方針は決まったことになる。
「流石にもう一人くらいいてくれると助かりますね。初心者の子でもいいので、あの二人の間に立って橋渡しが出来る感じの子が」
「こればっかりは運だからなぁ。最悪他パートに興味ありそうな子を引っ張って来る? マイ楽器勢が多いおかげでフルートの在庫はまだあるし」
「それも視野に入れたいですね」
「じゃ、その子の指導は香奈がやろう」
「分かった」
流石にあんなキャラクターの濃い面子ほどの子がそうそういるとは思えない。希望的観測にすぎないのだけれど、そう祈るしかなかった。
「まぁ、ちょっと今後どうなるのかは全く分かんないんだけど、このパートに来てもらった以上は仲間だし、そこは忘れないようにしたいと思う! 間違ったことはちゃんと間違ってるって言って、なんか理不尽な目に遭ってたら絶対守る。一年生たちがどういう子でもそれは変わらないでいたい。先輩たちから受け継いだものは、そうやって繋いでいかないといけないからさ。それで、りりりん部長の方針通り、ちゃんと一年生の声も聴いていく。まずはこっちが受け入れる姿勢じゃないと、向こうも入ってくれないと思うし」
このパートはずっと居心地の良い空間だった。それは多分この場にいる全員に共通している感情じゃないだろうか。希美先輩と調先輩が空気を作り、それを沙理先輩たちが継承してくれた。そうやって今の北宇治高校吹奏楽部フルートパートが出来上がっている。希美先輩を追い出したあの頃の空気は残っていない。何年もかけて、それは少しずつ変化し浄化されて行ったのだろう。その変化を途絶えさせてはいけないのだ。
「誰かに尊敬されるにはまず自分たちが尊敬できる人にならないとね。言葉だけじゃなくてちゃんと行動で示していこう!」
「「「はい!」」」
パートリーダーとして大きく鼓舞した成美さんの言葉に、全員が頷いた。パートリーダーに求められているのはただ一つ。何人もいるパートをまとめることが出来るかどうかだ。去年の沙理先輩がそうだったように、成美さんも明るく朗らかにパートを引っ張っていけるだろう。
今年の三年生の中心にいる人は、梨々花さんを中心に前に引っ張っていこうとする明るい人たちが多い。これはとても素晴らしい事だと思う。ただ、世の中は性善説だけで回っていない。時には厳しく言葉を使い、場を引き締める人間も必要なのだろう。先生では人間関係面などに介入できない。それがきっと私に求められた役割なのだ。
私は兄さんのようにはなれない。それでも悪役になることくらいは出来る。自分を曲げられない頑固な女でも、それくらいの使い道はあるはずだ。高い理想、繋げていきたいと願う志。そういうものを守ることが出来るのなら私はどんな風に見られようとも構いはしない。
仲間だと思ってくれる人は、少なからずいるのだから。
「新入生勧誘期間ですが、様子はどうですか?」
滝先生は私たち幹部三人を前に、穏やかに問いかけた。新入生勧誘期間は明後日で終わりであり、同時にその日は楽器決めの日だ。入部希望者はその日に必ず集合するようにと告知している。既に入部届を貰ったり出しいる一年生もいるそうだけれど、正式決定は一律その日という事になっていた。
午後の職員室には温かい春の日差しが差し込んでいる。滝先生の机にはコーヒーのマグカップとパソコン。彼の担当クラスに配るのであろうプリント、そして大学生の頃と思しき先生と仲間の写真。橋本先生と新山先生がいる。名前の知らないもう一人は多分、先生の愛する人だ。
その顛末を私は知らない。ただ、独身だという先生と兄さんの曖昧な笑みから察してはいた。
「結構来てくれてます~。経験者もそれなりにいますね」
「それは何よりです。今年は三年生が大変ぶ厚いですが、来年以降のことも考えると一定数の人数はいた方がやりやすいですからね」
全国大会金賞というのが大きな効果になっているのは先生も認識しているのだろう。
「先生としては、どのパートに増やしたいという類の希望はおありですか?」
「そうですね……。どのパートも人数はいますが、強いて言うのならば低音やダブルリードなど下支えの楽器には人が欲しいところではあります。特にオーボエなどは技術の継承という意味でも欲しいですね。後はコントラバスにどなたかいることを願います。月永君一人では何かと心もとないですし」
「緑先輩がいなくなってしまいましたしね」
奏さんの言葉に先生は頷く。
「川島さんもそうですが、去年の三年生は大変優秀な生徒たちでした。本来の桜地君の計画では、去年全国大会初出場になるというものでしたし、ともかく彼が全霊を注いだ生徒たちの集まりでした」
先生は小さく息を吐く。兄さんが遺した遺産は偉大だった。それこそ、先生すらも振り回すほどに。多分、先生の想定を超えて先輩たちは育ってしまったのだ。優秀過ぎる生徒は時に指導者の感覚を狂わせる。打てば響く生徒ばかりではないのだから。
「こんな事を生徒である皆さんに言うのは正しくないかもしれませんが……私も手探りな部分があります。生徒との関りや人間関係の調整は私には不得手と皆さんに任せてばかりでしたが、そのせいで去年は多くに迷惑をかけてしまいました」
それが真由先輩と久美子先輩、或いは麗奈先輩と秋子先輩の事を言っているのは明白だった。梨々花さんは曖昧な表情をする。奏さんは露骨に眉を顰めた。そこに込められた感情は察するまでもなく分かる。私だって、いい気分ではなかった。なんなら秋子先輩はまだ許してない部分があるだろう。
「言い訳ではありませんが、どうしても大人である我々教師では見えない部分があります。皆さんにはそこに関して頼ってしまうでしょう。ですが、何でもかんでも自分たちで解決する必要はありません。難しいと思えば、相談してください。松本先生含め、出来る事を考えていきます。また、何か疑問があれば聞きに来てください」
「「「はい」」」
三者三様、思う事は違うだろう。私自身としては先生も変化しようとしているのだと捉えた。兄さんに投げないといけなくなったトランペットの選抜には思うところも大いにあったのだろう。私が麗奈先輩と大衝突した諸々の経緯も多分久美子先輩辺りから聞いているはずだ。
先生だって完璧な人間じゃない。そんなことは百も承知だし、完璧な人間であることなど期待してもいない。ただ、大人としてするべき正しさを貫いてほしかった。だからこそ去年の公開オーディションには憤ったのだ。結局あれは真由先輩と久美子先輩だったからこそ成り立ったものであり、二人の精神性に救われただけにすぎないのだから。それは多分、正しくない。
「それに関して、一つ注意があります」
「なんでしょうか」
「今年の新一年生の中にも例に漏れず南中出身者がいます。今の二三年生はともかく、新一年生の世代は自治性の強い部を形成していたようです。顧問だからと言って素直に従ってくれるかは分かりません。先生は理不尽な事は仰らないので大丈夫とは思いますが、念のため念頭に置いてくださると助かります」
「分かりました。私自身としては生徒の皆さんが自分で考え、自主性を持って行動してくれることは望ましい事ではありますが……」
「ですが、限度はありますでしょう?」
何かあった時に最後の手段として大人の力が機能しないのは普通にまずい。それだけは避けたい事態だった。最悪の一歩下を想像しておくことが万一の事故を防ぐためには肝要と知っている。
「今年のコンクールで何の曲やるのかは決まってますか?」
少し張り詰めた空気を解すように、梨々花さんが話題を変えて問いかけた。
「いくつか候補はありますが、まだ全ては出揃っていないのが現状ですね。去年は幹部の三人に意見を募りました。今年も、今のところはそうするつもりです」
「全員に聞く、ってことはしちゃダメですか?」
「もしそういう方針でやりたいということであれば、部内で合意を得てくだされば何も言う事はありません」
「分かりました」
一昨年とその前は兄さんと滝先生の二人で決めたと聞いている。それはそれでよかったはずだ。少なくとも『リズと青い鳥』は兄さんがいなければあの解釈で演奏されていない。去年は幹部の三人で決めたというのは知っている。その意見を受けて滝先生は『一年の詩』に決定した。それが間違っていたとは思わないし、実際正解ではあった。
ただ、この件から見ても分かるように去年は幹部の権力が強すぎたのだろう。それが最終的に夏に軋み、破綻しかけた。梨々花さんは風通しの良い部活、そして皆で進んでいく部活を目指している。誰かだけの声ではなく、皆の声を聴いたうえで曲を決めたいと思っていても不思議ではない。
「課題曲はどうでしょうか?」
「課題曲は自由曲次第になる部分がありますね。今の皆さんならどの曲でも十分に素晴らしい演奏が出来ると思います。ドラムメジャーが推進した課題曲全部練習計画の成果でしょう」
「ありがとうございます」
それなら猶の事、私たち自身の手で曲を選んでも構わないはずだ。課題曲は先生に任せ、自由曲は生徒自身で。今年はそういう方針で行けるだろう。半年近く向き合う曲なのだから自分たちで選びたいというのも理解はできる。ただ、無数にある吹奏楽曲から選ぶのでは収拾がつかないため、候補を出してもらう形にはなるだろうけれど。
「どういう形で決めるのであれ、自由曲の候補は近日中に公開できるようにします」
「よろしくお願いします」
梨々花さんが先生に頭を下げた。私たち三人がそうであるように、先生も私たちとの距離感を掴みかねているような感覚を覚える。これは時が経つにすれ変わっていくのだろうか。現状はまだ何とも言えないとしか答えを出せないのが少し歯痒かった。
去年も大分前倒しで動いていた。今年もそれと同じか、より前倒すのか……それも考えないといけないだろう。職員室を後にして三人で音楽室に向かう。
「さて、曲決めはどうしたい?」
「私は……先生に任せるのかどうかも含めて話し合いたいところではあるかな。奏は?」
「一年生の、それこそ初心者の子も同じ土俵で話し合えるのかっていう問題はあるでしょ」
「それも含めて、じゃない? 曲の好き嫌いくらいは分かるでしょ。だから三年生とかはどういう演奏になるのかとか、北宇治に合ってるのか、みたいなのを判断材料にすればいいし、そうじゃないならそうじゃないなりに判断すればいいと、私は思うけど……。涼音ちゃんは?」
「部長の方針に従う。どんな曲であれ、演奏できるようにするのが私の仕事だし」
一年生の中にも色々いる。吹奏楽部に慣れていて音楽的な素養も高い子もいれば、そうじゃない初心者もいる。けれどそれによって区別はあっても大事な決定から外したくはない。それが梨々花さんの想いなのだろう。ただ、先生に任せるべきという意見も分かる。奏さんの言うように、殊この件に関しては一票の重みが同じな事への怖さはある。
それに、私たち全員今まで自分たちでコンクールの曲を選ぶという経験をしたことが無い。幾つか候補は出してくれるとは言え、それで本当に上手く行くのかは分からなかった。これが実権ならまた繰り返せばいいけれど、今年一年は一回こっきりしか来ない。実験をするには、その時間は重すぎる。
「オーディションをどうするかも皆さんで考えてください、だからねぇ」
「三回制度は良い制度。運用に覚悟がいるだけで、それ自体は悪いものじゃない。どう? 覚悟のほどは」
梨々花さんの目を覗き込む。彼女の瞳が揺れていた。この大人数、三年生だけで四十人超え。こんな状況でオーディションを敢行すればどうなるのかは目に見えている。既にフルートには即戦力が最低二人は来た。三木さん調べではトランペットやサックスも同じように即戦力が入ることになるだろう。それを考えれば梨々花さんの心が揺れるのも理解できた。
こんなことを友達であり部長でもある彼女に問いかけるのは酷な話なのかもしれない。けれどこれはしっかり言わないといけない。私にしか言えない言葉だ。運用経験があり、そしてそれで成果を出したことのある身として厳しくとも言わないという選択肢はない。去年のことも当然念頭にはあった。
「他にも考えないといけないことはごまんとあるからね」
奏さんは私と梨々花さんの様子を見て、強引に話を変えた。オーディションをどうするのか。これもまたそのうち話し合わないといけない事なのだろう。これに関しては運用責任者である三年生全員、或いは代表者の集まりであるパートリーダー会議で。
「ぼさっとしてると夏休みになっちゃう。今年も特別講師の先生方が来てくれるのかどうかは死活問題だと思う」
「新山先生と橋本先生は滝先生経由で抑えてもらうとして……」
二人の目線はこちらへ向いた。
「
「それ、兄さんの前で言わないでね」
奏さんの言ったあだ名は嫌がるだろう。去年の状況からすればそう呼ばれること自体に不自然さはないけれど、そういう風に評されるのは生徒の努力が見えなくなっていて嫌だと言っていたから。
「そして先に謝っておくと、七月は秀塔に取られた」
「えぇぇ~~」
梨々花さんは不満です、という顔をしている。星野部長は相当やり手かつ抜け目ないギャンブラーだ。全国大会が終わった翌日、改めてお礼と共に来年も七月だけでいいのでどうかよろしく! という旨のメールを送り付けたらしい。我々が万歳三唱をしながら浮かれていた時期にすぐさま次の手を打っている。これはしてやられた。
それでも七月だけにする辺り、まだ秀塔なりの誠意みたいなものは見える。七月は学校もあるし、一日全部を練習に使える日数的には八月より圧倒的に少ない。合宿もあるし。その点北宇治はまだ恵まれていた。
「というわけで、兄さんは八月から参加になるって」
「まぁ、それは仕方ないかぁ。でもこの人数を先生三人で回すのはなぁ。もなか組の指導も、美知恵先生一人にぶん投げるのもなんか大変そうだし……」
「高坂先輩、いらっしゃると結構便利だったんだね」
奏さんの若干辛らつな言葉。まぁこればっかりは仕方ないと思う。ここは色々あったのだし。とは言え言っていることは間違っていない。麗奈先輩はいると凄くありがたい存在ではあった。元々高い音楽的素養に兄さんが徹底的に叩き込んだ理論に基づき、間違った指導はしていなかった。指導方法やそれ以外の部分に少々問題はあったにしろ。
そんな彼女は周囲が大学生活を謳歌し始める中、まだ受験生、というかそういう看板が無いと日本国内じゃ無職みたいな存在になっていた。本人にそれを言うと凄く嫌そうな顔をしていたのを覚えている。もうすぐ兄さんによって欧州に呼び出されて鞄持ちだそうだ。受験生ではあると思うのだが「今更落ちるような教え方はしていない」とのこと。
ともあれ、もなか組ことB編成の指導も松本先生一人でやらせるのは大変だ。去年は真由先輩の協力を仰ぎつつ私も手を貸したけど、三木さんにやらせるのも酷だしそもそも論真由先輩と同程度の存在がいない。あの時期の麗奈先輩は全体で手一杯だったところもあるし、私とてどうなるか不明だ。ただ、解決策は存在している。
「それらに関して、B編成の指導担当には心当たりがあると兄さんが。私より実力も経験も不足してはいるけれど、指導理論については一応叩き込まれている。ちょっと早めの実地研修というコトで君たち次第だけど引き受けてはくれるはずだ、ってさ」
「え、誰?」
「桜地先輩のご友人とか?」
正直猫の手も借りたい状態の大人数部活で、今後を担うB編成組に的確な指導を叩き込めるであろう人物はそう多くない。先生の交友関係は広くなさそうだし、兄さんの音楽家の友人は大抵外国の人だ。みぞれ先輩は普通に忙しいし指導には向いていない。でも、確かにいたのだ。音大吹奏楽指導コースに在籍中の身内が。くせ者ぞろいの南中組にだって対応できるかもしれない。そんな期待も込めつつ、私はその人の名前を言った。
「
<北宇治高校吹奏楽部・新一年生部員紹介 No.2>
フルートパート
名前:一条
誕生日:5月18日
性別:女性
星座:みずがめ座
身長:150㎝
血液型:A型
好きな色:藍
担当楽器:フルート。演奏できる楽器はピアノ、アルトフルート、バスフルート、コントラフルート
趣味:なし
得意科目:数学
苦手科目:美術
特技:切絵、あやとり
尊敬する人:母親
好きな物:思いつかない
嫌いな物:雑談、家での食事、暇な時間(何をすればいいのか分からないため)