今からやろうとしていることは、正直正しいのかどうか分からない。きっと、傷つく人間がいるという時点で本当の意味での正しさからは逸脱しているのだろう。けれどこれ以上の方法は思いつかない。
それに、これ以上放置するともっと多くの被害者が出る。高坂さんと先輩以外にも、沢山。それは何としてでも防がなくてはいけない。今年こそ、去年とは違う方向に持っていくべきなのだ。そう出来ないようでは、何もかも無駄だったということになってしまう。
大会とは勝負だ。勝負に挑む過程で傷つくのは当たり前のことなのかもしれない。だがそれは少なくとも理不尽によってであってはいけないと思うし、その回数は少ない方が良い。涙の数だけ強くなれると言うが、そんなの間違いだ。泣かない方が良いに決まっている。
「先生、少々お話があります」
職員室に乗り込んだ私はきっと、ただならぬ様相だったのだろう。すれ違った他の先生がギョッとした顔をして通り過ぎて行った。先生はツカツカと席に歩み寄った私に向き直った。
「奇遇ですね、私も話したいことがありました」
「そうですか。では、お先にお願いします」
「分かりました。先日お渡ししたスケジュール表は覚えていますね」
「勿論です」
「前に相談した通り、今度ホールを借りて練習をすることにしています。前もってあなたが言ってくれたおかげでかなりスムーズに借りることが出来ました。他校に取られずに済んでホッとしています。ありがとうございます」
「いえ、大したことではありませんから」
「それで、その練習の際に、再オーディションを行うことにしたいと思います」
先生の言葉に、私が目を見開いた。こういう回答が出てくるとは思わなかった。どういう経緯で辿り着いたのか分からないが、私と先生は同じ回答に行きあたったようだ。
「驚きました。私の提案もそれでしたから」
「そうですか、やはり……。不透明性が問題であるならば、透明な場所でやるしかありません。そのためには、公開オーディションという形をとるしかないと思っています。全員で演奏を聞き、そして全員の拍手で決定する。それが現状取りうる最善だと、私は考えます」
「同感です」
「松本先生に助けられました。良いモノは良いと言わざるを得ない。そういうモノであるならば、高坂さんのソロで納得をさせられるはずです」
それは理想論だ。良いモノを良いと単純に言えるだろうか。良いの基準は人によって変わる。特にこういう私情が入りまくりの所では。けれどこれ以上に方法はない。責任の所在が我々にあるのが問題なら、それを分散するしかない。
それに、きっと大多数は拍手しない。空気の力とは恐ろしい。拍手できない空気が出来上がるだろう。先輩への感情と、上手さへの衝撃。その板挟み。それによりどちらに拍手すればいいのか分からない層が大半になるだろう。出来るのは、確固たる意思がある人だけ。そういう存在で多数が構成されているとは、到底思えない。
とはいえ、これはその実、再オーディションではない。その名を冠した、先輩に納得してもらうための会だ。だから最終的にはどんな審査結果になろうとも、本人が納得してくれるかにかかっている。でもきっと先輩は分かっている。自分より高坂さんの方が上手いと。あの実力を持っていて、分からないわけがない。普段聞いているのだから、なおのこと。それでも納得しきれないのだろう。三年生だから。最後だから。それ故に、自分を納得させる場を求めている。言わないだけで、心の中のどこかで。
「今度その旨を告知しようと思います」
「……待ってください、それには少し反対です」
「どういう事でしょうか」
「その話は、部員から出たということにしましょう。部長に協力を要請します。再オーディションのアイデアは部員層から自発的自主的に出たものであり、賛成多数で要請することが可決され、そしてそれを受けて先生が実行した。そういう形にするべきと考えます」
「なるほど、あくまでも生徒の自主性に則って私が行動したと、そういう風にするわけですね。しかしそのような回りくどいことをする目的が見当たりませんが」
「目的は責任を取らせるということです。この再オーディションというアイデアは高坂さんにとっても中世古先輩にとっても、多少なりとも傷つく結果を生むでしょう。確かに提案したのは我々です。しかし根本的な部分には、無責任に噂を拡大したり当人の望まない行動をとった存在に問題があると私は考えます」
「ですがそれは嘘を吐くことになりませんか?」
「私も部員です。書類上そうなっているのなら、決して嘘ではないでしょう」
都合よく立場を渡り歩いているが、これも方便である。そもそも不安定な立ち位置のメリットは少ない。けれど敢えてそれに甘んじているのはこういったメリットも存在するからだ。屁理屈を言っているように思われるかもしれないけれど、屁理屈も理屈だ。
オーディションが悪いのか? それは否である。何故なら、オーディションをやると言った時に組織的に反対運動をしなかったから。先生は最初から一貫して生徒の自主性を尊重すると言っている。だから強固に反対し、それで部内の意見を統一出来ればきっとオーディションは実施されなかっただろう。
全国に行くかどうかを選ぶ機会は二回あった。どちらも行くという選択を大多数が選んだ。それに従った行動をしているのに、贔屓だのという意見が出る。そしてその結果高坂さんへの誹謗中傷や先輩へのいらぬ同情が行われている。私や先生への非難や中傷、噂話の吹聴もそうだ。行動には責任が伴う。
再オーディションでも納得しない強硬派がいた場合、それを黙らせるには再オーディション実行の責任が部員の選択によって存在しているという風にすれば有効だ。私自身への攻撃は甘んじて受け入れるが、理不尽に攻撃されている後輩への仕打ちを許したつもりはない。だからこれは緩やかな復讐と言えるかもしれない。
或いは、私自身の責任逃れ。どう解釈するかは人の自由だろう。けれど一つ言えるのは、何の犠牲も払わずに結果を覆そうとすることは出来ないということだ。
「一度決まったことに異を唱え、そして理不尽に後輩を攻撃する。それに加え、現在根も葉もない噂が吹聴されています。吹奏楽部として、学校内の集団として相応しい態度とは思えません。行動には結果が伴い、その行動が正しくない要素を孕んでいるなら、必ず何らかの代償を伴うでしょう。何の犠牲も払わないで、無責任に動いて、そのくせ自分は受けないのに再オーディションだけはして欲しいなんて、そんな虫のいい話があって良いはずないじゃありませんか」
「……分かりました。ただし、必要以上に部員を攻撃することが無いように。その線引きはしっかりしてください。私怨と指導をはき違えないように。私も当然気を付けますが、あなたもそうしてくれると助かります」
「それは理解しているつもりです」
「それと、中世古さんと高坂さんには……」
「中世古先輩の方は再挑戦の機会があるならしたいという話でした。高坂さんの説得はこちらから行います。多分、嫌とは言わないと思いますが」
彼女も現状に不満はある。それは自分が正当に評価されていないという不満。それを解消できるならば、乗って来るだろう。
「そうですか。ならば、問題ないでしょう」
「では私はこれから部長との相談に移ります。多分同意してくれるとは思いますが」
現状を憂いているのは部長も同じだ。彼女は心情的には先輩に吹いて欲しいのだろう。けれど高坂さんが嫌いなわけじゃないし、彼女が理不尽な目にあって欲しいと思っているわけでもない。部長として責務を果たそうとしている。きっと遅かれ早かれ先生に意見しに行くつもりだろう。何も行動しないという選択を取る人ではないはずだ。
一礼して職員室を退室しようとする。しかし先生から呼び止められた。
「桜地君」
「はい、何でしょうか」
「昨日のことをずっと考えていました。私は、私たちは確かに全国を目指しています。しかしそれは全員で行くものです。一人を切り捨ててまで目指すようなものではないはずです。部活とは、そういうモノでなくてはいけない。私はそう考えます」
「……では、オーディションはどう説明するのですか?」
「オーディションが部活の全てではありません。その結果がどうであれ、全国大会を目指すチームであることには変わりないでしょう。オーディションの審査と切り捨てるという行動は一致しないはずです。何故なら、切り捨てるということはすなわち部活からも排除してしまうということなのですから」
「だとしても必要ならそうするべきでは? 特にそうしても問題ない存在なら」
「そうしても問題ない存在など、存在しません」
「それは理想論だ」
「えぇそうでしょう。ですが他ならぬあなたが理想論を否定するのですか? あなたが一番嫌うであろう、常識によって」
「これは合理性の問題です」
「合理性だけで良い音楽が創れますか? 作曲者でもあるあなたなら、それの答えは分かっているはずです」
「……」
「私がするべきなのは、必ず彼らを全国大会へ連れて行くという覚悟です。決して誰かを切り捨てる覚悟ではありません」
綺麗ごとだ。そもそも私を奏者でもない、教師でもない不安定な位置に置いたのはこの人のはずなのに。いや、けれどそれも責任転嫁だろう。最終的にそれを了承したのは私なのだから。拒む機会もあった。そうすることも出来た。けれどそうしなかった。それは私の責任だ。
「あなたが吹奏楽部の部員である以上、或いは指導者であったとしても、奏者で無かったとしても、あなたも北宇治高校吹奏楽部という一つのチームにいることは変わりありません。それに私は少なくとも、あなたを仲間だと思っている人がいると思います」
「……失礼します」
何の根拠もない言葉だ。私が仲間? 所詮よそ者に過ぎない私が、そんな存在になれるわけがない。去年の記憶を途中までしか共有していない私が。部員と同じ視座と感情を共有していない存在が。そんな風になれるわけがないのだ。
それに私は一番必要として欲しかった人に、結局頼られることの無いまま去年を終えた。その程度の存在なのだろう、きっと。記憶を共有していないというのはそういう事なのだ。去年は南中吹奏楽部の記憶を、そして今年が一年生の時の記憶を。それぞれ私は共有していない。それだけできっと、存在価値は大きく下がる。
それなのにどうして先生の言葉がこんなにも胸に刺さるのか。分からないまま私は廊下を歩いた。無性に、叫びたかった。
夕方の校舎には人が少ない。部長を探しながら特別棟を歩いた。自分の足音が響いている。今日は普段聞こえているはずの合奏音も個人練習の音も聞こえない。まるで昔に戻ったかのような空間の有様は、今部活が抱えている問題点がいかに大きなものであるかを物語っていた。
外からはトランペットの音。ソロの部分だ。高坂さんの音じゃない。ということは、まだ先輩は練習を続けているのだろう。その音に締め付けられるような苦しさを覚えながら階段を昇っている途中で黄前さんに出会った。
「黄前さん、丁度いい。部長はどちらに?」
「あ、倉庫にいると思います」
「なるほど。そう言えば……ありがとうございます」
唐突な感謝に、黄前さんは戸惑っているようだった。
「高坂さんのこと、フォローしてくれたのでしょう?」
「いえそんな大したことは……ちょっと話を聞いただけですし……」
「それでも、心の支えになってくれているのは事実でしょう。彼女には、今有形無形の圧力がかかっている。一年生の中には支持する部員も多いでしょうけれど、先輩の前で大っぴらにそれを口には出来ない。けれど君は、恐らくそれでも彼女の味方をするんじゃないですか?」
「……はい。そうだと、思います」
「なら、是非そうしてあげてください。明確に味方だと言ってくれる人が側にいるというのは、周りが思っている以上に当人にすれば心強いものですから」
彼女が所属している低音パートは余計な圧力がかからない場所だ。田中先輩はこういう場所を作ってくれているという意味では非常にありがたい。低音パートに手を出すと面倒だというのは周知なので、例え黄前さんが高坂さんの味方をしても誰も手出しできないだろう。彼女にとって、低音にいるのは幸運だったのかもしれない。
「そう言えば、最初に聞いた答えは見つかりましたか。去年の大会の結果をどう思っているのか。どう、思うべきだったのか」
「まだ、ちゃんとは分かってないです」
「そうですか。でもきっと見つかると思いますよ。君がこの先音楽を続けていくのなら」
彼女が悔しさを明確に知るのは、もうちょっと時間がかかるかもしれない。けれどきっとそう遠い未来ではないはずだ。この先必ず壁に当たる。それは彼女だけじゃなく、多くの部員がそうだろう。そしてその中で知って行けば良いはずだ。
「引き留めてしまって申し訳ありません。ありがとうございました」
「は、はい、失礼します!」
ぺこりと頭を下げて黄前さんは走っていく。きっとまだ練習をするのではないだろうか。彼女は結構真面目だ。この状況でも自分を曲げることはないだろう。高坂さんと接しているのならば、なおのこと。その背中を見送ってから、最上階まで上がった。楽器倉庫は音楽室の隣にあるが、階段を上がって左側には倉庫が存在している。黄前さんが言っていたのはそこだろう。案の定部長はそこにいた。その視線の先には、話している中世古先輩と田中先輩。
「部長、お時間よろしいですか」
「……なんか前にもこんな感じのこと、あったね」
「確かに。斎藤先輩の件ですね」
「うん。あの時も、まごまごしてた時に桜地君が来て何とかしてくれた。けど今回は私も成長したからね。ちょっと動こうと思ってて」
「そうでしたか。ちなみに、どういったことを?」
「今から皆を集めようと思う。そこで、今の状況に対して全体に注意して、その後で……今の状況に、オーディションの結果に不満がある人にしっかり意見を表明してもらう。陰でこそこそ言うより、きっとそっちの方が良いから。そうしたら私が先生に伝える。このままよりはずっとマシだと思う。それに、桜地君が言ってたのってこういう事でしょ? 事実を伝えたうえで不満があるなら、どうするかは自主性に任されてるっていうのは」
「はい。そのつもりで言いました」
ちゃんと私の意思が汲み取られていて、少し嬉しく思う。これならばこちらから何もかもお膳立てしなくても部長が動いてくれる。少し軌道修正だ。不満があるとしっかり意見を表明させることで、再オーディションを行う責任からは逃れられなくなる。
再オーディションというアイデアでなくても、そうせざるを得ない状況を部員が作り出した、というのは自主性の現われであるからして、当然責任も伴う。そういうことに出来るならば、部長のアイデア通りに進行するのでも問題ないだろう。その上で、もし必要なら再オーディションを行うという意見は私から出たモノにすればいい。出来る限り先生には無傷でいてもらいたいものだ。無用な反感を生まないためにも。
「私は部長のアイデアに賛成です。もし難しそうなら自分で何とかするつもりでしたが、部長が動いてくださって助かりました。私の心労も、大分軽くなっています。音頭はお任せして構いませんか?」
「うん、こんなのでも一応部長だし」
「分かりました。お願いします」
やはり、この部活がこの代にこの人を部長に戴いたのは幸運だっただろう。もし他の人だったらばここまで上手く行ったかどうか分からない。去年の三年生は良い存在とは言い難いが、少なくとも部長の指名だけは良い選択をしてくれた。彼らは毒にも薬にもならない存在を選んだつもりかもしれないが、実際はかなり良い薬であったわけだ。これを幸運と言わずなんと言えようか。
ともかく、これで事態は動き出す。後は先生を適切なタイミングで召喚すれば完璧だ。その手はずはこちらで整えよう。それが最もスムーズな形のはずだ。
校舎を走り、個人練習をしていた高坂さんを捕まえる。大体いつもいる場所は決まっているので、見つけやすくて助かった。
「どうしたんですか、そんなに息を切らして」
「単刀直入に言う。この状況を改善する方法があるんだ。私と先生は再オーディションを行うつもりでいる。けれどそれは君にとっては迷惑な話だし、失礼な話でもあるだろう。だが少なくとも現状を改善することは出来る。こんなことをお願いしないといけないのは、指導者として忸怩たる思いだが、恥を忍んでお願いする。どうか受けてくれないだろうか」
「……分かりました。それで、余計な意見を無くせるなら、やります」
「すまない、本当にすまない。私がもっと上手くやれていたら、君をこんな目にあわせないで済んだ」
情けない話だ。自分に教えを乞うてくれる後輩をこんな目に合わせてしまうということが、本当に情けない。しかもその原因は上級生にあるのだから。中世古先輩ではない。彼女は一言も要求してない。納得していないのは事実だろうけれど、それを押し殺している。だと言うのに他の先輩は勝手に行動し、挙句こんなことになっている。一番怒る資格があるのは、やはり彼女だ。
それを考えれば、本当に申し訳ない。許してくれとお願いするしか、私にできることはないだろう。こんな形で迷惑をかけてしまうことが、本当に腹立たしかった。
流石にまだ帰った生徒はいなかったようで、音楽室には珍しく全員が揃っている。しかしその態度は緩み切っていた。部長が前に立っても話がやまない。これまではスッと押し黙っていたのに、そのような態度は見る影も無くなっていた。
部長が手を叩く。それでもまだ僅かに話し声。もう一度手を強く叩くと、やっと全員の視線が部長に集中した。
「もう少ししたら先生が来ると思うけど、その前に皆に話があります」
はっきりとした口調で、部長は話を始めた。どこか浮ついた空気だった音楽室が少し張りつめる。
「最近、先生や桜地君、高坂さんについて根も葉もない噂をあちこちで耳にします。そのせいで集中力が切れてる。コンクール前なのに、このままじゃ金はおろか、銀だって怪しいと私は思います。一部の生徒と知り合いだったからと言って、或いは家庭環境がどうだったからと言って、オーディションに不正があったことにはなりません」
表立ってはっきりと非難されたことにより、多くの部員が下を向く。大なり小なり皆がある程度噂話に興じていたことだろう。そういう自覚があるからこそ、部長の発言は耳が痛いはずだ。個別に注意されるのではなく、堂々と皆の前で非難されているわけなのだから。
「それでも不満があるなら、裏でこそこそ話さず、ここで手を挙げてください。私が先生に伝えます。オーディションに不満がある人」
その言葉を受けて、一瞬の躊躇いの後、吉川が真っ先に手を挙げた。それに釣られるように、二三年生が次々と手を挙げていく。元々部内の人数は三年生が多い。そうなると過半数近くなるもの当然だった。逆に一年生で手を挙げている人はいない。高坂さんをどう思うかはともかく、不満は無いということだろう。
そもそも、トランペットパートのことなんて関係ないし、と思っている一年生もいるはずだ。中世古先輩の人望はあるけれど、それはあくまでも二三年生の間での話。去年のことを知らない一年生には関係ない話だ。
「分かりました。正直に答えてくれて、ありがとう」
部長の視線がこちらに向く。取り敢えずやりたいことは終わったから、何か話したいことがあればどうぞ、という意味だろう。その間部長は私と相談した通り、先生の元へ行く。そして今の結果を伝えて、対策を講じるように要請するという算段だ。その上で先生には音楽室に来てもらうよう、話をしてある。
部長が音楽室を出ていく。それでも誰も何も話さない。重苦しい空気の中、私は全体の前に立った。
「先ほど、オーディションの結果に不満があるという意見が多くありました。ですが残りの半分近い部員は特に不満が無いと思っているわけです。部長はお優しいので聞きませんでしたが、私は敢えて聞きます。先ほど挙手した人で、
誰も手を挙げない。先ほどの部長の問いかけの際、中世古先輩は手を挙げていなかった。と言うより実際は挙げられなかったが正しいかもしれない。先輩は別に不満があるわけじゃない。ただ、納得しきれていないだけ。だからあそこで手を挙げるという選択肢を選ばなかった。それが良くないことだと思っているから。
「おかしいですね。不満はあるけど自分のじゃない。これは変じゃありませんか」
「アンタ、分かってて言ってるでしょ!」
「その通り。吉川の言う通りだ。私は分かってて敢えて言っています。はっきり言いましょう、トランペットのソロパートのオーディション結果に不満があるのでしょう。違うという人は?」
またしても誰も挙手しない。まぁ当然だろう。それが原因で問題になっているのだから。けれどそれをはっきりとしておく必要がある。彼らの要求ははっきり言って迷惑千万なのだから。本人が不満ですというならまだしも、自分の意見を押し通す材料に先輩を利用している。そんなことしてくれなんて、誰も頼んでいないのに。
「迷惑な話だと思いませんか? 先輩はそんなこと頼んでいないのに、勝手に不満があると思って、勝手にボイコットしている。そして自分たちの要求を押し通そうとしているわけです。それにもっと迷惑なのは、実力で選ばれたのに、これまでの努力を無かったことにされ、挙句の果てに噂話の的にされている、高坂さんじゃないんですか!」
私の大きな声に目の前の一年生がビクッと震える。ちょっと申し訳ないことをしてしまった。一年生は悪くない。悪いのは、結局何も変わっていない上級生。
「私は確かに自主性に任せると言いました。不満があるならそれを意見としてまとめ、今のように部長を通して先生に言うのも構わないでしょう。けれどもしそれで何らかの形で再審査になった際、迷惑なのは高坂さんではないですか? 一言でも、彼女に了承を取りましたか? もし不満が多いからソロを変更となってしまったら、踏みにじられた努力や感情はどうするのですか。それなのにコソコソと陰口をたたいて、直接言う勇気もない。卑怯者と同じです。恥を知るべきです」
私は少し怒っている。正直な話、こちら側にミスがあったのは事実だ。それは大いに反省しないといけないことだろう。けれどそれは先生を根も葉もないことで糾弾したり、高坂さんの努力を貶めていい理由にはならない。私は彼女が頑張っていたことを知っている。この部活に入ってからの努力を見てきた。
「先に言っておきますが、彼女が私の教えを個別に受けているのはお願いされたからです。先生が最初に言っていたように、この部は自主性が尊重されています。自主的に教えを乞いに来たならば、誰でも受ける権利があります。なのでこれを理由に贔屓だの、教えられててズルいなどという意見は受け付けません」
正直生半可なレッスンじゃなかったと自負している。けれど彼女は自分でそれを希望し、しっかりついてきていた。それこそ、皆がまだ遊び惚けている頃ですら。それを踏みにじられたとあって、黙っているわけには行かない。それは私の指導すらも馬鹿にしている。許せるわけが無かった。私はずっと殴られているだけのサンドバックじゃない。殴ったら殴り返されることを覚悟するべきだ。例えそれがどんな相手でも。
「オーディション結果に不満があるのは構いません。それは内心の自由です。けれどそれは彼女を貶めていい理由にはならない。やっていることは、去年の三年生と何が違うんですか。寄ってたかって一人を叩く。ほら、やっぱり何も変わっていない! 私や先生は良いんです、そういう役目ですから。でも一部員を対象にするのは間違いです。そもそも、さきほどの投票だって、今の状況だって、内心迷惑に思っている人もいるでしょう。ソロなんてそのままで良いじゃないかと思っている人もいるはずだ」
何人かの一年生が目を逸らす。実際にそう思っているのだろう。高坂さんがソロで何が悪いのか。そういう意見だって立派な意見のはずだ。
と言うより、我々上級生が抱えている去年の問題だって一年生には何の関係もない。けれど地雷と化しているのだから、彼らからすればいい迷惑だろう。いい加減それを何とかするべきなのかもしれない。この問題が横たわっている以上、多分今後も何かしらの問題が噴出することになりかねない。
とはいえそれは本題からズレるので今はやらないが、きっとどこかで解消しないといけない問題であることには変わりないはずだ。悩ましいが、逃げられないものでもあると感じている。アレはきっと、この部の上級生が全員どこかしらで背負わされている十字架なのだろう。
「それをよく自覚してください。意見を言うのは悪いことではありません。それは許された権利です。けれど権利の行使には義務と責任が伴う。誰かを傷つける意見なのではないか、それを考えないで行動することは正しいとは言えないでしょう」
私が言えた義理ではないと思う。斎藤先輩の件しかりだが、私の行動は誰かを傷つけるものであることに変わりはない。けれど何も考えていないわけじゃない。それこそ、一通り悩んだ末に実行している。それでもそれによって正当化出来るとは考えていないが。
音楽室の扉が開き、部長と先生が入って来る。途端に視線が先生に集中した。部長の要請を受けて、どう判断したのか。その結論が出たからここに来たのは明白だった。尤も、こちらからすれば既に結論は出ていて、それをどう発表するかという話だったのだが、それはこちらの話。
「皆さん。小笠原さんから意見は受け取りました。当然特段何も不満に思っていない生徒もいると思います。なので出来る限りそう言った生徒に邪魔にならない形で要望に応えることにしました。来週、ホールを借りて練習することは伝達してあると思います。その場を少しだけ借りて、希望者には再オーディションを行います」
その言葉に一気に場がざわめく。本当に意見が通った、そういう感情になっている人もそれなりにいるだろう。いつものように毒舌で封じ込められるのではないか、そう思っていた人もいるだろう。けれどそれは間違いだ。先生は基本首尾一貫している。自主性を尊重するという言葉に嘘はない。そういう先生ではないだろう。
「前回のオーディションの結果に不満があり、もう一度やり直して欲しい人はここで挙手してください。来週全員の前で演奏し、全員の挙手によって合格を決定します。全員で聞いて決定する。これなら異論はないでしょう。無論、B編成になってしまったけれどA編成になりたいということで再オーディションを希望しても構いません。現在の編成は54名。後一枠ではありますが空いている事には空いているので」
別に中世古先輩と高坂さんの件だけでやっているわけじゃありませんよ、というアピールだ。誰かを特別扱いしていないということを証明するには、表向きは誰でも希望できるようにすることが求められる。誰かのために再オーディションを行うなど、幾ら部員からの要望でも特別扱いに他ならない。
オーディションの結果に不満がある、という投票しかしていないので、こういう方便も使えるわけだ。
「では聞きます。再オーディションを希望する人」
全員の視線がゆっくりと一人に集まる。カタリと音をたて、視線の先にいる彼女は立ち上がり、真っ直ぐピンと手を伸ばす。その瞳に迷いは無い。もう一度与えられた奇跡のようなチャンスだ。これで受かれば万々歳だし、落ちても納得が出来る。彼女の心中での割合はおそらく後者が高いだろうけれど。それでも納得したい。そういう気持ちが、彼女を動かしている
「ソロパートのオーディションをもう一度やらせてください」
「分かりました。では、今ソロパートに決定している高坂さんと二人、どちらがソロにふさわしいか、再オーディションを行います。高坂さんも、よろしいですか」
「はい」
何故そこまでソロをやりたいのか。そう思う人もいるかもしれない。けれど私には分かるのだ。トランペットを愛し、向き合い、そして共に歩んできたからこそ、痛いほどその気持ちは分かる。何としてでもやりたいという気持ちも、何としてでも譲りたくないという気持ちも。
五線譜に人生預けて、空気の振動に魂を注いだからこそ、分かる。その思いは絶対に否定してはいけないし、否定なんてさせない。二人の想いだけはきっと、この場の中で数少ない正しい想いなのだから。