「求先輩、流石ですわ!」
低音パートの練習教室に黄色い声が響いた。言われた対象である月永君は困惑した顔を浮かべてはいるけれど、取り敢えず流している。声の主は
聖女から北宇治に行って全国を獲った先輩がいる、という話を聞いてその後を追って来たらしい。どう考えても川島先輩の話だ。三年間全く揺らぐことの無い演奏を奏で、兄さんや先生からも高い信頼を寄せられていた奏者である川島先輩の名前は、聖女でも結構話題だったらしい。
彼女自身は中京区出身で、超老舗の料亭の娘だそうだ。桜地家も利用したことのある店で、私も訪れたことがある。当家では結婚の挨拶などを行うことが多い。まぁ要するにお嬢様なのだが、それを言ったら梨々花さんに微妙な顔をされた。お前が言うなと顔に書いてあった。
ともあれ、こうしてお嬢様口調なのだが、月永君をリスペクトしているらしい。川島先輩直伝の技術は二年の時をかけてしっかりと物になっている。音量も音質も表現も文句はない。アクアラークでの演奏を聴いて、兄さんも直接褒めていた。中小路さんの技術も悪くはないけれど、まだ月永君には届かない。この一年でそれを高めて欲しい。
「僕の事を褒めても何も良いことはないから。とにかく、コントラバスは演奏全体に響きを加えられる楽器だ。外から、そして内からちゃんとその役割を認識して演奏しないと、その力を発揮できない」
「はい!」
川島先輩がこの光景を見たら喜びそうだ。相変わらず名前呼びを求める部分は変わっていないけれど、しっかりと後輩とコミュニケーションをとっている。奏さんや鈴木さんはパートリーダー会議でいなくなってしまうので、その間に低音パートをまとめるのは彼の役割になりそうだ。
手元のタブレットに状況を書き込む。コントラバスは月永君とも相談しつつ、少しレベルの高い練習から始めてもいいかもしれない。練習計画を立てるためにはとにかく情報が必要だ。こうして始動し始めた各パートを巡っているのもその確認のためだ。
なのだが、距離の近い中小路さんに対して面白くなさそうな視線を向けている奏さんがどうしても視界にチラチラ入る。その感情がどういう部分から去来しているのか考えると色々面白い部分はあるけれど、触れないことにしている。これは当人が自分で折り合いをつけるべきだろうからだ。
恋情、とは少し違う気がする。ただ、マイナスな感情ではないとは確信していた。
「まず、唇を震わせてみて。そこからマウスピースを唇に当てると、マウスピース自体が震えるでしょう? この振動が楽器に伝わって音が出る。だからリコーダーを吹くみたいに音を出す、っていう発想を捨てないといけない」
教室の端では鈴木美玲さんによるチューバの吹き方講座が解説中だった。今年のチューバは一人だけ。初心者の葛森さんが加入してくれた。元陸上部長距離走者だそうで、肺活量には自信ありとのこと。チューバはダブル鈴木に二年生も二人とかなり手厚く指導が出来る。釜屋さんも上石さんも元初心者だし、寄り添いつつ育てて行けるだろう。
「どうですか?」
「あ、お疲れ様でーす。いい感じですねぇ。調整はこれからですけど、ドカーンと音が出せそうです」
「いいですね」
釜屋さんは眼鏡をクイっと上げながら言う。知的なキャラのつもりらしい。あまり似合っていない、とは言わないであげた。
「釜屋さんも先輩風を吹かせていないで、音質の向上に努めてくださいね。あなたの最大の課題はそこなので。音量はもう文句ありませんから」
「うわ、こっちに飛んできた」
「低音は演奏の要。頼みますよ」
「分かってますって」
釜屋さんは陽気な生徒ではあるけれど、目端が効く。視野がかなり広いし、色々なものが見えている。義井さんと三木さんの間に立つのならかなり良い作用をもたらすのではないかと秘かに思っていた。義井さんとの関係性も言わずもがな、三木さんとも同じ中学なので関係性自体はある。
「ま、北宇治の清少納言と呼ばれるうちに任せておいてください」
「誰が呼んでるんですか、それ。というかどこからその要素が?」
「このセンスでドッカンドッカン笑い取ってるからですかね~」
清少納言にも清原氏にも笑いの要素はない気がするけれど、そこは触れないでおいた。
「何かあれば、また連絡してください。パートのことでも、その他のことでも。奏さんもそこは頼りにしているはずです」
「了解です」
今度はふざけずに真面目な声が返って来た。ちゃんと切り替えが出来るのは良い事だ。
「佳穂は自分の演奏の癖、大分掴めてる。だから後はコントロールをもっと素早く」
「はい」
ユーフォの方は奏さんが指導を行っていた。ユーフォにも待望の新入生が入っている。名前は若狭ルナ。彼女も私の後輩にあたる。角倉さんに彼氏を奪われたサックスの久世さんとは仲が良かったと記憶していた。特段問題行動の無い、かなり良い部員である。
「若狭さんは時々音が詰まることがあるから、細かいところまでもう一回洗い直すようにしてください」
「はい」
「あとは――」
奏さんの指導は的確だ。伊達に久美子先輩&真由先輩のコンビの下で修練を積んでいたわけじゃない。一昨年大会メンバーだった関係で兄さんからの指導もかなり受けている。全国へ行ったことのある経験はかなり大きい。
ただ、一方で針谷さんと若狭さんの距離感はまだ掴みかねているようだった。実力では若狭さんの方が上手い。こればっかりは元初心者と経験者の差がある。自分より上手い後輩の存在、というのは誰でも多少は思うところがあるはずだ。針谷さんがどう感じているのかは、釜屋さん経由でヒアリングする必要があるかもしれない。
特に針谷さんは控えめなところがある。悪い事ではないけれど、最初の関係性構築ではどうしても受動的になりがちだ。奏さんがそこを上手くフォローしてくれることを願った。
四月というのは新入生指導係が一番忙しい時期だ。ここからサンライズフェスティバルにかけて、各パートに一年生がしっかり馴染めているのか、上手くスタートダッシュを出来ているのか。そういう部分を確認して行かないといけない。同時に練習を指導し、実力を向上させ、北宇治の平均値に近付けられるようにするという課題もある。
「新入生指導係から見て、今年の一年生はどうですか?」
「うーん、やっぱり南中の子たちは上手いね~。他にも結構上手い子が多いかなぁ。でも初心者の子も結構いるし、実力差がそれなりにあるって感じ」
「なるほど」
新入生指導係をしている鈴木さつきさんの考えは私と同じだった。今年は実力差が激しい。よほどのことが無い限りは大会メンバーも堅いという生徒もいれば、まったくの初心者もいる。その差をどう埋めていくのかが課題だった。特にホルンは初心者が三名中二名いる。こういう層をちゃんと部内に取り込んで、未来への財産にしていかないといけない。
初心者やB編成こそ将来を考えた際の要になる。兄さんは指導を開始した時、そういう風に考えて重要視していた。その考えは正しいし、受け継がないといけない。お荷物などとのたまう言説はもってのほかだ。彼らを守り、育て、未来へ受け継いでいく事こそ肝要なのだから。そうして新しい世代を引っ張る子たちが生まれていく。
目の前にいる彼女のように。
「上手い子にはやっぱり指導って難しいねぇ」
「そうですね……ただ、大事なのは堂々としている事ではないかと。あなたも三年生ですし、しっかりと耳も育って良い奏者になったと自他共に認めて良いはずですから、むしろそこで萎縮していると却ってよくないかもしれません。堂々として、ダメなところはダメとしっかり言ってあげる。それも優しさだと思います。もちろん、相手の特性や実力にもよりますが」
「なんだコイツって思われないかなぁ」
「そう思っている間は成長しませんね。伝えるべきことはどんな相手でも伝えるべきでしょう。それに、新入生指導係は上手くするのと同時に取りこぼさないことも求められています。私はむしろそちらを重視したい。部長も恐らくはそう思っているのではないかと」
セーフティーネットは幾つあっても困ることはない。パートリーダーやパートの先輩には相談しにくいことでも、部長や新入生指導係の先輩になら相談できるという事もある。そういう声を取りこぼさないことは梨々花さんの理想にも合致するし、これまでの北宇治の方針にも近しいはずだ。
今年の一年生は実力差がある。それは当人たちも分かっているだろう。南中の部員だった子は特にそれを理解している。彼らは強い競争社会の中で過ごしてしまった。その原因の一端を担っている私がこんなことを言うのはおかしいかもしれないが、それでも過ごした環境から染みついたものは消えにくい。
一年生の間に分断が起きるのは避けたい事態だ。実力差が絶対視されてしまうとそういう現象も時折起きる。特にそれが顕著になるのはこの春の時期と、オーディションの前後だ。
「大事だよね、そういうのも。初心者の子に楽しいって言ってもらえると嬉しいし」
「はい。兄さんもそう言っていました。演奏の楽しさ、そういう部分にも目を向けて欲しいですね。特に南中の子は図らずも……強い競争社会の中に身を置いていましたから。違う価値観を受けいれるのは難しいですが、色々な方面からアプローチするのは大事なはずです。当然、新入生指導係からのアプローチも」
「だね! 頑張らないとな~」
加藤先輩から受け継いだ魂のようなものはちゃんと彼女の中に息づいている。これがまた誰か新しい世代に受け継がれて、連綿と続いて行けばいい。そうやって、目に見えない形で次へとバトンは渡されるのだから。
「各パートの様子と新入生の実力はある程度掴みつつあります。それを基に練習メニューを作るので――」
そこで少し言葉を止めた。私一人で全部作るのは容易い。ただ、それでは今までと同じだ。
「基盤は作りますが、それが出来次第また相談させてください。あなたと義井さんの意見を取り入れて最終草案を出して一年生に提示しましょう」
「OK! サリーちゃんにも話しておくね」
「お願いします」
他の人の意見も巻き込んでいけばいい。新入生指導係を私の意見に賛意を示すだけの上意下達な存在にしたくはない。そのためには、構成員である二人と話し合いながら計画を構築していくべきだろう。
奏さんは私を諫めてくれた。彼女の意図した通りになっているのかは分からないけれど、私の心の中に彼女の言葉が存在している事だけはまごう事なき事実だった。
四月も中盤に差し掛かった日曜日に歓迎会は実施されることになった。この機を逃すとサンライズフェスティバルの練習でかなり忙しくなってしまう。会場は去年と同じく私の家だ。他の子の家よりも広さが確実に担保されているという点で楽なのだ。親兄弟に許可を貰うよりもやりやすいという事情も存在している。
十人くらいなら余裕でダイニングに入れる。今年のフルートパートは全部で九人なので、それを考えても問題なかった。昼下がりに駅で集合したメンバーがやって来る。鈴谷さんは地元なので勝手知ったる道だろうけど。私は家で準備を済ませて待機している。チャイムが鳴らされたので、玄関を開けた。
「「「お邪魔します!」」」
「どうぞ、いらっしゃいませ」
玄関の引き戸を開ける。それなりの人数ではあるけれどこの程度で狭くなるほどウチの家は小さくない。全員分のスリッパなどは既に用意していた。その辺で手抜かりはない。
全員普段は見ない私服を着ている。特に一年生三人はそれぞれ全く違う装いだった。鈴谷さんはガーリーな衣装、一条さんは大人びた服、本多さんはスポーティーな感じだ。性格の違いが良く出ている。三人並ぶと鈴谷さんが一番身長が高かった。
一条さんが来てくれてよかったと思う。誘った時は微妙な顔だったけれど、他の奏者について知ることは連携が大事な演奏においては意味があると思うという趣旨の説得をしたら来てくれた。理論で攻めると動いてくれる。なんとなく付き合い方が見えて来た。
「このお屋敷の中ってこんな感じになってたんですね~!」
本多さんは目をキラキラさせて周囲を見ている。普段はあまり感情を見せない一条さんも戸惑っているというか驚いているというか、文化財を見学している修学旅行生のようだった。玄関に生けてある花をマジマジと見ている。鈴谷さんは何故かドヤ顔をしていた。あなたの家ではないのだけれど。
「知ってるんですか?」
「そりゃ有名ですよ。ほら、小学生の時に調べ学習かなんかで地域のこととかやるじゃないですか。あの時にグーグルマップとか見たらデーンとでっかいのあるんで、みんな何だろうってなってたりしてたんです」
「え、なにそれは。そんなのやってるんですか……」
確かに、とかそういえばやったなぁという声が成美さんたちからも聞こえてくる。逆に南中出身の三名は全然知らない話だった。もしかしたら、南中学区の話をすると私の家の話になるので意図的に避けられていたのかもしれない。可能性はある。
「ま、まぁとにかく大きいだけですが、どうぞ。こちらです」
二三年生は何度か来たことがあるはずなので、比較的反応は薄い。一年生三人はあちらこちらに視線を向けながら廊下を歩いていた。かかっている絵は雫さんが売り物にならないと置いているものや、置き場がないので取り敢えず掛けてある絵が多い。アクセントにはなるけれど掃除が面倒なのが玉に瑕だ。
「成美さん、具材は?」
「バッチリ買って来たよ」
「ありがとうございます。機材の準備は終わりましたので」
「OK~」
途中でお手洗いの場所の説明などをしてダイニングへ繋がる扉を開ける。勝手に家の中をウロウロするような子はいないので、そこは安心だ。
「こちらが本日の会場です」
「いらっしゃーい」
声をかけてくれた希美先輩は台所で作業中だ。頑張って肉を捏ねている。冷蔵庫から出したばっかりだと冷たいんだよ~とさっきまで嘆いていた。
「「「お邪魔します」」」
「こちらこそごめんね。高校生だけの空間の方が良かったんだろうけど、夜ご飯の支度をしないといけなくって」
「いえ、むしろこっちの方がお邪魔させてもらってるので! のぞ先輩が快く場所を貸してくださってありがたく思っています」
「おぉ、パートリーダーっぽい挨拶。立派になったねぇ」
成美さんも希美先輩の前だと少し背筋が伸びている。一年生たちにも希美先輩が家にいることは伝えておいた。元南中部長であり、北宇治においてはあの伝説の『リズと青い鳥』でソロを務めた名奏者。今は音大にて指導を勉強中で私の兄の彼女(実態はほぼ婚約者)という情報を渡している。
「わわ、メッチャ感激です! 私、北宇治の『リズと青い鳥』大好きで~。あ、涼音先輩から聞いてらっしゃるかもですけど、一年生の鈴谷萌花です。あのソロも涼音先輩がやるんだとばっかり思ってたんですけど、演奏を聴いたらこれはもうこの人以外に適任いないって確信してました。良かったら色々教えてください!」
「まだあの演奏を好きって言ってくれる子がいるのは嬉しいなぁ。もう奏者としては現役生の皆には勝てないと思うけど、役に立てるなら何でもやるよ。でも、多分頼れる先輩が沢山いるから、成美ちゃんたちに聞いてみた方がきっと上手く行くんじゃないかな?」
にっこりと笑って受け入れつつ、鈴谷さんの気持ちを否定しないままに成美さんたちを頼るように誘導していた。流石の操縦術は元部長の貫禄だ。ポジティブな表情と声音と言葉遣いを選んでくれるため、相手もなんだかんだと気分よく意見を受けいれられる。計算してではない部分が大半のこの行動に、私たちの多くは未だに尊敬心を抱いていた。
鈴谷さんもあなたが言うなら、という顔になっている。好きな曲を圧倒的な情感を込めて演奏しきった希美先輩の言葉は彼女の中では重いのだろう。実力主義者は徹底的に実力を重んじる。それがたとえ引退した先輩であろうとも変わらない。
「はい、ありがとうございます」
「良い返事だね」
今年で二十歳の希美先輩と十六歳の鈴谷さんでは経験値が違う。これは多少は薬になってくれただろうか。彼女が引っ込んだ代わりに一条さんが手に持っていた紙袋を置く。二三年生の皆はいそいそと準備をしていた。
「こちら、お口に合うかは分かりませんが」
「わざわざ買ってきてくれたの? ありがとうね」
「いえ、お招きいただいたのですから当然です」
デパートの紙袋はどこで買ったのかを顕著に示していた。育ちが良いと思っていたけれど、その感想は間違ってなかったようだ。
「ごめんなさい! そういうの全然買ってませんでした! 気が利かなくてすみません……」
「ううん、気にしないで。楽しんでくれればそれでいいからさ」
「ありがとうございます!」
本多さんのフォローをしつつ、一条さんにもみんなで食べるね、と声をかけている。全員と上手く話を回せるのも流石のコミュニケーション能力だと思う。大学でもみぞれ先輩と一番距離が近いらしいけど、他にも沢山友人関係があると聞いている。さもありなんと私は思ったものだ。
一条さんの持って来てくれたお菓子はこの家の住人の口に入るより先に防音室を借りに来た優子先輩たちの胃袋に吸収されそうだ。どうせ祖母が贈って来る謎のお菓子群もあるので、丁度いいのだけれど。私の分も一個くらいは残っているだろう。
「ほら~、のぞ先輩とのお話も良いけど準備できてるよ~」
成美さんたちの声で全員がテーブルの周りに集まる。去年同様のクレープ会だ。同じ具材ではつまらないので、去年いた組は多少工夫をしている。甘いものだけではなくちゃんとサラダクレープの具材も用意してある。味覚は様々なので、個々人の好き嫌いに合わせて調整できるようにしていた。アレルギーはいないと事前に確認している。
「じゃあ、どんどんやっていきましょ~!」
「「「おー」」」
クレープの良いところは作るのが楽で、すぐに出来上がるところだ。料理が出来ない私もこれくらいは作れるようになった。思い思いに好きな具材を使って食べていく。その様子を希美先輩がフライパンを動かしながらキッチンから微笑みつつ見ていた。
「甘いモノ、好きですか?」
ハムハム、という感じで食べている一条さんに話しかける。クールな顔とは違って可愛い食べ方だった。
「あまり食べ物に好き嫌いは無いです。美味しいとは、思います」
「それなら良かった」
美味しいモノの前では誰しも多少は打ち解けやすくなる。鈴谷さんもあのナチュラルな上から目線を除けばそれなりに付き合いやすい人ではある。本多さんを介すことで中和されている部分もあるのかもしれない。二年生の二人とも普通に話している。
誰が一番上手く作れるのか競争している三年生三人が一番はしゃいでいるかもしれない。こんな風にのんびり遊べるのも今だけかもしれないと思うと、少し残念だった。
「楽しい、空間なんですね」
「混沌とも言いますけどね」
「家に帰っても……一人の食事ばかりなので」
一条さんは小さい声で言った。彼女がどういう家庭環境にあるのかはまだ知らない。それを打ち明けてくれるのにはまだ、関係地を築けていないのだろう。少し俯いたその瞳は寂しそうな色をしている。感情を表に出さない彼女の珍しい姿に思えた。
でも、彼女もまだ十五歳なのだ。迷ったり悩んだり困ったりするのは当たり前なのだろう。希美先輩の言う色眼鏡というのはこういう事を指しているのかもしれない。彼女は大人っぽく感情を出さないと勝手にキャラクターとして当てはめていた。ただ、人間はそう単純じゃないのだ。
「……そうですか。それは、少し寂しいかもしれませんね」
「…………はい」
「私も少しだけですけど気持ちが分かります。私は幸いにして
彼女は小さく頷いた。そしてまたハムハムとクレープを食べる。餡バターだった。滅茶苦茶美味しそうだ。私まで食べたくなってしまう。
「土日や夏休みはパートで揃ってご飯の時もあります。普段の日だって、三年七組に来てくだされば私はいますし、他の先輩も拒んだりはしませんし迷惑にも思いません。こうして揃ってというのも、部活にいれば出来ますから。いつでも教室のドアを叩いてください」
「ありがとう、ございます」
あなたは一人じゃない。それはちゃんとメッセージとして発信したかった。彼女の背景に何があるのかは分からないけれど、それでも自分の今できるアプローチをするのがきっと正しい事のはずなのだ。
北宇治に来てくれた理由は何でもいい。それでも彼女は千葉から希望してきてくれた。それなら真由先輩と同じで、何かしら得るものがあって欲しいし、ここでの日々が来てよかったと思えるものであってほしいと思う。兄さんや多くの先輩たちが守り繋いできた場所を守らないといけない立場であるからこそ、余計にそう思う。
真由先輩にとって私が味方であれたなら、一条さんにとってもそうでありたいと思う。どこか放っておけないのは、昔の自分を見ているように思う時があるからだろうか。
「その餡バター美味しそうですね」
「これです」
「ナイス」
彼女の差し出してきた餡子を取る。この交流会にも意味はちゃんとある。普段の部活だけでは見えてこない一面があって、良いところがあって、そういう人間らしいところに気付ける。先輩だからと言って雲の上の人ではないと示すこともできる。
「へぇ~、じゃあお姉ちゃんも吹部だったんだ」
「はい! 上手……じゃないとは思いますけど、それでも私に教えてくれたんです」
「いいお姉ちゃんだねぇ」
「そうなんです。一緒にマロンの、あ、飼ってる犬の名前なんですけど、散歩してくれたりするんですよ」
本多さんは楽しそうに話している。自分の姉の話のようだ。そういえば、お姉ちゃんも北宇治のOGと言っていた。年上の兄弟の話は本人がいないところでしか出来ない。本人のいるところでするなんて恥ずかしくて死んでしまう。兄さんの話をすると悪いところも出てきてしまいそうだし。
「今、何歳なの?」
「えーっと、今年で二十二歳になりますね」
「じゃあ就活とかだ。大変そうだねー」
「はい。でも私とお出かけとかしてくれるんですよ。入部も応援してくれましたし、
その時、バリーン! という凄まじい音が響き渡った。慌てて台所に駆け込むと、呆然とした顔の希美先輩が立っている。足元にはお皿が数枚割れて、白い破片を木目の上に散乱させていた。
「希美先輩! 大丈夫ですか!?」
「あ、あぁ、うん、ごめんね。割っちゃった……」
「動かないでくださいね。今、新聞紙と掃除機持ってきます」
「ごめん、ありがとう」
目の中から動揺が消えないまでも平静を装いつつ、希美先輩は応答している。後輩たちにも手が滑っちゃった~と言っていた。大丈夫かと顔を覗かせていた後輩たちも安堵した顔になっている。新聞紙で大きな破片を包んで、細かいものは掃除機で徹底的に吸い込んだ。先輩に怪我がなくてよかった。
そこからは特に問題なく歓迎会は執り行われる。その間中、希美先輩はずっとどこか貼り付けたような笑顔を浮かべていた。
楽しかったです、と言って皆が帰った後、希美先輩は夕食の準備を終えて部屋に戻ってしまう。私が後片付けをして、夜ご飯の時間というタイミングで戻って来た。
「何かあったんですか?」
「それがちょっと何とも……」
雫さんも怪訝そうな顔をしながら冷蔵庫からビールを取り出している。これに触れるべきかどうか迷った。でも、無視するのは違うと思いなおす。何か抱えていることがあるのなら吐き出して欲しいし、私に出来ることなんか大したことではないかもしれないけど、話すことで少しスッキリすることもあるかもしれない。
「あの、希美先輩」
「……うん」
あのタイミングで話されていたのは本多さんのお姉さんの話。二十二歳になると言っていた。つまり、希美先輩の二個上。北宇治のOG、吹奏楽部。点と点が線で繋がる。でも、これは――本当に最悪の線だ。
「本多麻莉奈さん、ですね?」
「…………」
希美先輩はキッチンの台の上に手をついたまま下を向いていた。少しの間苦しそうな声が漏れる。そして呟くような声を漏らした。
「そういえば、妹がいるとか言ってたっけ。なんだ、家だと凄く優しくていいお姉ちゃんしてるんじゃん」
そこには苦しみと悲しみとやるせなさと、ほんの僅かな憎しみや怒りが込められているように感じた。
「なんでこうなるのかなぁ。自分の過去からは逃げられないって事なのかな。どんな気持ちで、どんな気持ちで妹の吹部を応援してるの? もう、昔の北宇治じゃないのに」
「あの、」
「本多麻莉奈、その名前忘れたことはないよ。当たり前じゃん。だって――」
辛そうに息を吐き出して、希美先輩は顔をあげて私を見た。
「その人、私の先輩だもん。私が一年の時の、三年生。凛音への扱いに抗議した私に『なに、アンタらデキてんの?』って言った人だよ」
<北宇治高校吹奏楽部・新一年生部員紹介 No.5>
低音パート
名前:
誕生日:6月9日
性別:女性
星座:ふたご座
出身地:京都府中京区
身長:159㎝
血液型:O型
好きな色:水色
担当楽器:コントラバス。演奏出来る楽器はピアノなど弦楽器
趣味:ランプ収集、裁縫
得意科目:古文
苦手科目:体育
特技:弦楽器は大体弾ける、茶道
尊敬する人:信念のある人
好きな物:お茶菓子、お祭り
嫌いな物:お化け屋敷、ブロッコリー