音を立てながら湯船からお湯が溢れていく。無駄に高い天井を見上げ、大きく深い息を吐いた。私の目の前で開示された情報は、余りにも重く大きいものだった。
「はぁ……」
自分を排斥した人間だと、希美先輩は苦痛の混じった表情で吐露してくれた。けれど、それ以上はもう何も言わなかった。言えなかった、が正解かもしれない。四年という時間が過ぎ去ったけれど、その時間は心の中の傷を癒すには短すぎる。
私がまだ中学二年生の頃、希美先輩は当時の三年生と敵対し――その結果として排斥された。いないものとして扱われ、徹底的に尊厳を貶められ、口汚く罵られ、そして部を辞めた。直接的な暴力は無かったと聞いている。けれどその何倍も精神的な苦痛を与えられ続けた。そんな地獄みたいな状況から早四年。地獄の記憶はこうしてまた降りかかろうとしている。
お湯の中に映る私の顔は苦悶の表情だった。気付けば手は固く握りしめられている。私の大事な、大事な存在を傷つけた人がのうのうと生きている。就活? 卒論? ふざけんじゃない。人一人の心を、尊厳を、色んなものを傷つけて幸せに生きようなんて道理が通るか。神が赦そうと私は許したくない。希美先輩の全てが正しかった、とは言えないかもしれない。でもそれは、他人を傷つけて良い理由にはならない。罪には罰を、仇には報復を、それが桜地の――
「違う」
私はそこまで考えて否定した。お湯を自分の顔にかける。それでは誰も幸せになれないし、何も生み出さない。それに当事者ではない私に、何かをする権利は無いのだ。でも、私は明日からどういう顔で本多さんに会えばいいのだろうか。あの子は何も悪くない。そんなことはとっくの昔に理解している。犯罪者の家族が犯罪者と同じ扱いをされるべきではないのと同じように、彼女の姉の所業と彼女自身の問題は分けないといけない。それがきっと、正しい事のはずだ。
「落ち着け……落ち着くのよ、桜地涼音」
この情報はあまりにも重すぎる。適切に処理しないと、あらゆる方面に飛び火してしまうだろう。それでは困る。考えろ、考えるんだ。誰に情報を渡すべきで、誰に渡さないべきなのか。信用できるのは誰だ。必要なのは誰だ。逆に言ってはいけないのは誰だ。あらゆる可能性が頭の中をよぎる。決して軽々しく扱っていい類のものではない。だからこそ細心の注意を必要とするのだ。
情報を渡すべき候補者は幾人かいる。まずは滝先生。顧問だ。顧問であればこそ、知っておくべきという考えが出来るかもしれない。ただ、それを知ったからと言って人間関係関連の指導がそこまで得意ではない先生に何が出来るだろう。それに当事者でもないし、伝聞でしか知らない事を持ち込まれても対処できない可能性がある。
「先生は知ったところで、何か出来るのかな」
小さく呟く。ぽつんと水滴が水面に落ちた。
次に副顧問の松本先生。彼女は本多さんの姉を知っている。同時に本多さんの学年団の先生でもある。新旧の北宇治を知る数少ない存在。彼女に情報を伝えるのはどうだろうか。希美先輩が苦しんでいた時、当時の顧問との関係性もあってあまり部に顔も口も出していなかったのは知っている。ただ、他の先生よりは事情に通じている可能性が高い。
「どの程度……動いてくれるのだろうか」
梨々花さんはどうだ。部長として、この案件を報せるべきか? 奏さんはどうだ。副部長はこれを知っているべきだろうか。両者ともに希美先輩とはそこまで深い関係性がないし、そもそも旧北宇治のことも知識としてしか知らない。ここに伝えたところで何になるだろうか。
「余計な感情を持ちこみたくはないけれど……」
成美さんたちフルートパートのメンバーはどうだろう。私たち三年生は希美先輩への思い入れが強い。ポッと出の後輩よりも圧倒的に強い。色眼鏡をかけて見ないと誓うのは難しいだろう。本多さんが姉の自慢話をするたびに、その知らない顔を想像するだろう。希美先輩を排斥した悪なる者として。ただ、何も知らないと地雷を踏んでしまうかもしれない。リスクは大きい。それに香奈さんは南中の後輩として希美先輩をかなり慕っている。そして香奈さんが本多さんの指導担当だ。
「後輩指導に影響が出る」
兄さんは指導に来る。兄さんだって当事者だった一人だ。本多姉との関係は絶対に最悪だろう。保護者対応やOB会にも顔が効く兄さんが接触する可能性は考えられる。これを知れば怒り狂う可能性もある。そうなってしまっては厄介だ。一応兄さんが二年生の時、当事者が残っていても指導はしていた。ただ、それは直接の加害者ではなかったからだろう。直接の加害者を前に冷静でいられるだろうか。
「何をするか分からないし」
そして何より……本多さんをどうするか考えないといけない。彼女自身は意欲もあり、鈴谷さんとも上手く付き合う事の出来る貴重な人材だ。ただ、このままもし仮に事が露見してしまった場合、とんでもないことになってしまう可能性だってある。希美先輩の敵だった人はつまり兄さんの敵だった人だ。兄さんを慕う後輩はまだ各パートに多くいる。そこが一斉に敵に回れば、もう無事で部活を過ごすことはできない。
ある意味、それは復讐とも言える。姉は一人を部から排斥した。その人物の可愛がっている妹は、それが原因で部を追われた。そういう図式は、かつて希美先輩を苦しめた存在への復讐譚になるのかもしれない。ただ、それをするのはきっと正しくないはずだ。私の倫理観はそれを拒否している。けれど同時に良くない感情も顔を覗かせている。
とどのつまり、私も冷静ではないのだろう。風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かしている間もずっと思考がグルグルと回転している。手元にある携帯電話を使えば、桜地本家に電話が繋がる。祖母と兄さんの関係性は微妙だが、私と祖母はそうでもない。そしてあの祖母は希美先輩を気に入っている。身内を傷つけた相手をどうにかしてくれ、と一言伝えるだけで全てが動き出してしまうだろう。
一瞬だけ手が伸びて、それを無理やりひっこめた。これは私が勝手にやるべき事じゃない。兄さんや、何より希美先輩がどうしたいと思っているのかを聞いてからするべきことだ。もし絶対に許せないというのなら、私もしかるべき手段をとらないといけない。
「どうして、こうなるのかなぁ」
虚空へ消える呟きに応えはない。何度目かもわからない吐息を吐いて、私は廊下を歩いた。晩春の夜は薄暗い。仄かな灯りだけが廊下を照らす。窓の外、長い廊下を歩いて離れへ向かう人影があった。その先は雫さんの部屋兼アトリエなのだ。そこを目指して希美先輩が歩いている。追いかけるべきか迷ったけれど、追いかけることにした。辛いことかもしれないけれど、彼女の本当の想いを聞きたかったから。
雫さんの部屋の前の立つ。中から話し声が聞こえた。盗み聞きは良くないと知りつつも、その場から離れられない自分がいる。
「飲みますか」
「……ありがとうございます」
ハーブティーの香りが廊下まで漂って来た。お礼を言う希美先輩の声はゾッとするほど深く沈んでいて、同時にその表情までもありありと想像できてしまった。しばらくの間、沈黙が場を満たしている。二人とも言葉を探している。そういう雰囲気だった。
「どうしたら、良いんでしょうか」
何かが軋むような感情を覗かせながら、希美先輩の小さい声が響く。
「赦せない、とそう思っていますか」
「……」
雫さんの問いかけに、希美先輩は返事を返さなかった。赦せないと思っていたのなら、そう告げればいいだけだ。そういう気持ちを抱いているとするのなら、私だって全力で動く。肝心な時にいない兄さんの代わりに、出来る限りの支えになるつもりだ。
「意外ですね」
「なにが、ですか」
「てっきり、許せないものだとばかり」
「……今でも、嫌な気持ちになります。あの時の笑い声も、瞳も、態度も、言葉も……全部全部、覚えています。思い出したくもない思い出なのに」
「人間、嫌なことほどよく覚えているものです。生存本能なのでしょうね。それに、当然のことでしょう。希美さんは傷つけられた。それは純然たる事実です。思い出したい記憶であるはずがない」
「でも、最近になって思うんです。私にもきっと良くない部分はあったんだろうなって」
飛び出していきそうになるのを堪えた。そんな事ないと否定したかった。希美先輩の志は間違ったものじゃなかったはずだ。抱いた怒りも、理想も、夢も、決して間違いではないはず。私はそういう風に声を大にして言いたかった。
「だとしても、それは誰かを傷つけて良い理由にはなりませんね。どうしますか、情け容赦ない復讐を望みますか? 希美さんがそうしたいと言うのなら、多分そうなるでしょうから」
「……いなくなって欲しい、不幸になって欲しい。そういう風に思わなかったのかと聞かれたら、嘘になると思います」
私が問いかけたいことを雫さんは代わりに聞いてくれた。彼女はこの家の中で、唯一ちゃんとした意味での大人だ。大人相手だからこそ、希美先輩も自分の心の中にある黒いものを吐き出せるんじゃないかと思う。私が相手だったら、きっと遠慮して何も言わないだろう。仮面のように貼り付けた笑顔をしてしまうはずだ。そういう意味では、今までずっと抱え込んでいた闇を吐き出せる相手として貴重な存在なのかもしれない。
私に出来ないことを、雫さんがしてくれている。大人として、良い方向を探そうとしてくれている。
「もし、もしあの人が仮に何か不幸な目に遭ってたとしたら、私はきっとそれを聞いて留飲を下げていたと思います」
「人間としては、ごく自然な事でしょう」
「そう、なのかもしれません。けどそれは、あの人の一面しか知らなかったからです。私は今日、心の底から嫌いになれ無くなってしまいました。だって、妹の前だと優しくて、温かくて、確かに好きになれるような人だったことを知ってしまったんです。私だってそんなお姉ちゃんがいたら自慢していたなぁって。好きでいただろうって思ってしまいました」
「あなたにとって、その先輩がただの敵から人間になってしまったんですね」
「そういう、事なのかもしれません」
希美先輩の言っていることは理解できた。パーソナルな部分を知らなかったら、きっと敵のままと考えることが出来た。嫌いな人、理解できない存在としてカテゴライズできた。きっと性格はいつもひねくれていて、家族の中でも上手く行かないようなどうしようもない存在なんだと自分に言い聞かせて、留飲を下げられた。でもそうじゃないと知って、相手の人間性が見えてしまった。
優しすぎる人の悩みなのかもしれない。個人の部分を知ったからと言って、違う一面を見たからと言って許せないものは許せないと言う人は多いだろう。でもそこで希美先輩はその感情に躊躇してしまった。
「凛音を馬鹿にしたことも、言われたことも、赦したくはないんです。出来るなら、今でもぶっ飛ばしてやりたい気分ではあります。でも――でも、思うんです。妹とそんな風に接することが出来る人なら、違う未来もあったんじゃないかって。私がもっと大人で、もっと違う方法で関わろうとしていたら、何か違う世界があったような気がするんです。一緒に演奏したり、一緒に部活を頑張ったりして、大会に出て、笑ったり遊んだりして、卒業を祝って送り出す。そんな未来も、あったんじゃないかって――!」
「そうでしょうか」
「だって! だって、凛音と滝先生は上手くやってた。きっと凛音なら、本気を出せばあの空間だって変えられた。私も、もっと能力があって、大人で、経験があって、周りを巻き込んで行動できれば、あの人たちにも……何か違うものを渡せたかもしれない。頑張ることに意味があるって伝えられたかもしれないじゃないですか! 私はあの人たちのことを知ろうともしなかった。自分が正しいって信じて、正しい自分たちの意見を受けいれない相手は間違っている愚かな存在と決めつけて、断罪しようとして、矯正しようとしてた」
「それがあなたの後悔なんですね」
「……はい」
「大人になるとね、後悔することが増えます。色んなことが見えるようになって、気付けなかったことに気付いたりして、その分思うようになるんです。今の知識や経験を持ったまま過去に戻れたら、きっとこうするのにな、と」
「……」
「でもそれはいつも空想の夢。叶わない幻のままです。後悔しても過去には戻れないし、今は変えられない。希美さんが抱いた後悔も感情も間違いではないでしょう。もしかしたら言うように、違う未来もあったのかもしれません。でもその道を選ばなかったのはその人たちです。人生は自分だけのものですよ。誰かの未来や可能性にまで責任を感じるのは不遜というものではないでしょうか」
雫さんの声は淡々としていた。説得するでも、諭すでもなく、ただ自分の考えを伝えようとしている。後悔していることはきっと沢山あるのだろう。両親のところを飛び出してこの家に転がり込んでからの日々でも、それ以前の人生でも。それでも自分の人生を誰かのせいにしないで生きている。
「もし仮にあなただけが記憶も経験も持って高校一年生の春に戻れるとしたら、相手に何と声をかけますか?」
「それ、は……まだ分からないです」
「では、希美さんはそれを考えないといけませんね」
「どうしてですか? だってそれは、叶わない夢で、幻だって」
「そうです。普通の人にとっては、もう変えられない過去として記憶の海を揺蕩っている。その痛みも苦しみも感じた想いも、いつかは遠い思い出の谷に放り込んでしまう。そうやって誤魔化しながら、何とか笑顔を浮かべて生きていくんです」
「だったら……」
「でもあなたの行きたいと願う未来はそうじゃないでしょう? あなたが進む進路で出会うのは、いつかの自分と似た存在だったり、どこかで見た誰かと同じような想いを抱いて生きている存在なのかもしれないのですから」
希美先輩の進みたい進路を私は知っている。確かに学校という場所はそういう場所だ。未来を生きんとする生徒が集まる場所。そこには色んな存在がいる。育った環境も、これまでの人生で思ったこともバラバラな存在。その中にはいつかの自分と同じような存在がいるかもしれない。逆に自分が大嫌いだった人と同じような存在もいるかもしれない。そこでどうするのかは、確かに考えないといけない課題なのだろう。
「だから考えましょう。あなたが正しくないと思って対峙していた先輩と同じような生徒があなたの前にいるかもしれません。そういう存在にどういう声をかけたいですか? どういう方向に導きたいですか? 希美さんの感じた痛みや苦しみを伝えますか? それとも伝えませんか? それを考えることは、もう変えられない過去を憂うよりもずっと建設的で未来志向だと思います」
「私は……」
希美先輩はそこから先の言葉を紡がなかった。ただ静かな沈黙が夜の中に消えていく。
「赦したくないのなら赦す必要は無いでしょう。どうすればいいのか、に対する答えはこれになります。それは希美さんの権利ですし。でもそれだけ考えているのでは、きっとあなたのためにはならない。過去の存在を赦せないなら、赦せないなりに未来に出会う存在にどう対処するのか。一層考えないといけませんからね」
私は踵を返して部屋に戻った。未来を考える。それは厳しい言葉だった。希美先輩は果たしてこれを受け入れたのだろうか。赦せないと泣き喚いたとしても誰も文句を言わないだろう。でもそれじゃ何も変わらないと
そんな問いの答えなど、見つかるはずも無かった。
翌朝、重たい気分のまま目を覚ました。全くもってスッキリはしていない。あの後部屋に戻っていろいろな事を考えた。でも、どれも今一つまとまり切らず、とりとめのないモノとして頭の中でメビウスの輪を描いている。
「おはようございます」
「おはよう」
希美先輩の声は静かだ。朝ごはんは既にテーブルの上に置かれていて、湯気を立てている。作ってくれた先輩本人は背中を向けたまま料理をしている最中だ。
「いただきます」
手を合わせて箸を動かす。あまり味がしなかった。私が食べ終わったのを見計らってか、希美先輩がこちらを向く。その表情は決して明るくない。今でも苦しそうな顔だ。私に向かって何かを言おうとして、でもやめて、それでもやっぱり言おうとして。そんな葛藤が見え隠れしている。そしてしばらくしてから、意を決したように口を開いた。
「昨日ね、雫さんと色々お話したんだ。大事なアドバイスを貰えたりもしたけど……ダメだね、どうしたらいいのか分からない、って言うよりハッキリと言えない自分がいるの。折り合いが付けられていないって言うか、受け止めきれないっていうか、とにかくモヤっとしたモノがある感じかな」
「……当然じゃないですか、それは。私だって赦せない気持ちがあります。兄さんもあの人たちのせいで随分と苦労させられてました。希美先輩が退部した日、防音室の中であらん限りの罵倒をその三年生に吐いている兄さんを見かけました。後にも先にも、あんな姿はあの時だけです。兄さんのことも、希美先輩のことも傷つけた人を赦したくはありません。私が言うのはおかしいかもしれませんけど……」
「ありがとう。私の、私たちのために怒ってくれて」
「そんな、お礼を言われるようなことじゃありません」
私は慌てて希美先輩のお礼を否定した。人間として、家族として当然の反応だと思う。普通の家なら誰だってそう思うはずだ。自分の大事な人を傷つけた存在を赦しますなんて言えない。そんな風な精神状態になれるほど、私は聖人じゃないし博愛主義者でもない。
「涼音ちゃんは誰かのために怒って、誰かのために行動できる。そんな優しい子だって私は知ってるよ」
「そんなことは……」
「ううん、私はそう思ってる。自分でどれだけ否定してもね。だから――だからこそ、そんな涼音ちゃんにお願いがあるの」
「なん、でしょうか」
希美先輩は真剣な目で私を見た。その瞳は揺らいでいる。今から言おうとすることに対し、先輩の中でも迷いがあるのだろうという事が何となく伝わって来た。その手は固く握られたままだし、唇だって薄く嚙んでいる。それでも先輩は口を開いた。
「あの子を、星莉花ちゃんをしっかり守ってあげて」
「……え」
「今後どうなるかはさっぱり分からない。あの人がどういう風に過ごしているのかも、どういう風に妹の部活に関わる気なのかも知らない。でももし、仮にあの人の過去が広まったら星莉花ちゃんは大変なことになっちゃう。お姉ちゃんは実はいじめっ子でした、なんてことになったらショックは凄いだろうし、周りからも受け入れてもらえなくなっちゃうかも。でも、それじゃダメだと思う。同じことの繰り返しになる。それに何より、あの子は何も悪くないでしょ?」
「それは、そうですけど。でも、そんな事ばっかりじゃないですか、世の中なんて」
「そうかもね。だからこそ涼音ちゃんにはそうして欲しくない。あの子の事を守れるのは、涼音ちゃんしかいないんだよ。相手がどれだけ孤独でも手を差し伸べられる。去年だって、そうしてくれたんだよね? だから、今年もあの子のことをちゃんと守ってあげて欲しい。どんな未来がこれから待っているとしても」
分かりました、と即答するべきなのかもしれない。でも私にはそれが出来なかった。希美先輩の言っていることが正しいということは百も承知だ。とっくの昔に理解している。でも、そう簡単に受け入れることはできない。だってあの子の愛している姉は、私の大事な人を、家族を踏みにじった。なんでそんな奴の幸せになるような事をしないといけないのか。
心の中の怒りが、黒い感情がそう叫んでいる。姉の罪なら妹に償わせろと、理不尽極まりない言葉を叫んでいる。これを殺せなかった。私は愚かしいのかもしれない。罪を赦せぬ存在なのかもしれない。激情に囚われ、感情に支配される奴隷なのかもしれない。だとしても、赦せないものはある。
就活の行先を潰して、親と妹の前ですべてを暴露し、関西から追い出してしまいたい。それが出来る方法を私は知っている。今すぐそうしてしまいたい。そうして、踏みにじった過去を一生後悔しながら、みすぼらしく惨めな人生を過ごしてほしい。そんな気持ちがある。
でも、私は言われてしまった。他ならぬその大事な人に「守ってあげて」と。心から軋むような音が鳴る。感情と理性が矛盾に悲鳴を上げている。私はどちらかを選ばないといけない。感情に従うか、理性を選ぶか。そして私は前者を選べない。そういう人生を送って来たし、何より希美先輩の言葉を無視するという選択肢はなかった。
「分かり……ました」
きっと苦虫を嚙み潰したような顔だろう。それでも私は確かに了承の返事をした。約束は違えないし、嘘は吐かない。それが私の生き方だ。だから、この約束も守らないといけない。どれほど苦しく、険しい道のりであろうとも。その途中で感情は常に叫び声を上げ続けるとしても。
「ごめんね」
「いえ、これがきっと……正しい道なのだと思います。そう思わないと、やっていけないって言うのもありますが」
「私もね、ずっと苦しいままなんだ。もしかしたらこれは一生消えない疵なのかもしれないって思ったりする。忘れかけても、どこかでまた思い出しちゃう。そういう種類の疵なんだろうね」
どうしたら、いいのかな。そう消えそうな声で呟いて、希美先輩は取り繕ったような笑顔を浮かべた。その表情を晴らしてあげることは、私には出来ない。遠くの空の下にいる兄さんなら、出来るのだろうか。肝心な時にいないことが恨めしかった。
「本多さんを守れるようにはしたいと思います。ただ、どこまでこの事実を伝えるべきでしょうか」
「涼音ちゃんが心の底から信頼できる人にだけ、お願い。それ以外は絶対に漏れないようにしてね。そうじゃないと、あの子を守れないから」
「分かりました」
心の底から信頼できる人。それはあまり多くない。揚羽はまず真っ先にカウントできる。純一さんもそうなるだろう。ただ、そこから先があまり出てこない。幹部の二人は心の底から信頼出来ているのだろうか。一瞬でもこんな疑問が出てくる時点でまだまだなのだろう。
でも、信頼というのはまずこちらから働きかけないとして貰えないものだ。自分を信頼してくれない人を、どうして信頼できようか。なら、ここで一歩を踏み出しておくべきなのかもしれない。
「行ってらっしゃい」
見送る顔も、陰りがある。思い出したくない事を強制的に思い出す羽目になったのだから、無理も無いと思う。あの太陽のような笑顔を曇らせた存在に対する怒りが湧いてくるけれど、なんとか収めた。
私はドラムメジャーだ。部を動かし、部長や副部長を支え、全国大会金賞に部を引っ張り上げる存在。それが私情で動いていたのでは示しがつかない。罪のない一年生を不幸な目に遭わせるのは間違っている。理性がやっと仕事をし始めた。
ドラムメジャーとして、幹部として、私のするべきことをする。それは本多さんを守る事であり、部の演奏を良い方向に導くことだ。私にはそれをする義務がある。かつて麗奈先輩を糾弾した存在である私が、同じような轍を踏むわけにはいかない。
ただ、今後の事は考えないといけないだろう。信じるべき人に、前提情報を伝えないといけない。だからどうした、という反応が来る可能性もある。ただそれでも、知らないのと知っているのでは心構えや今後の行動も大きく変わてくるはずだ。奏さんも情報は力だと言っていた。部に関することは、ちゃんと伝えないといけない。
「おはよう~」
「今日は随分遅かったけど、体調不良?」
梨々花さんはいつも通りののんびりした声で、奏さんは一応私を気遣いながら声をかけてくれる。うだうだ悩みながら登校していたら、普段よりもだいぶ遅い登校時間になっていた。
「顔色悪いよ、大丈夫?」
「体調が悪いなら早退しても――」
「二人とも」
私は心配する二人の声を少し遮った。二人は怪訝そうに「どうしたのか」という顔をしていた。
「ちょっと、話がある」
「話?」
「大事な、話。あと、滝先生と松本先生も必要だから、この五人で話したい」
「……分かったよ」
何の話なのかと疑っている奏さんに対し、梨々花さんは了承の返事をしてくれた。先生二人がどこまで動いてくれるのかも、伝えたからと言ってどうなるのかもわからない。ただ、去年は明らかに部員と顧問の間に溝が出来ていた。それを埋めるためにはこちらからも働きかけないといけない。この情報共有はその一助になるはずだ。
二人を連れて職員室を訪れる。幹部三人の来訪自体は珍しくないが、私の切迫した表情に先生は何かしらを感じ取ったらしい。
「どうしましたか、幹部三人そろって」
「先生、お忙しいところ申し訳ありません。松本先生も交えて、大事な話をしたいのでお時間いただけますでしょうか」
「構いませんが……どういう趣旨のお話でしょうか。何かトラブルが?」
先生の問いかけに私は息を吐く。実際にトラブルが発生したわけではない。ただ、これからどうなるかは分からない。それを未然に防ぐことだって大事なはずだ。
「まだ何も。ただ、これから起こるかもしれない、という可能性の話です。内容としては――そうですね。北宇治の、北宇治高校吹奏楽部の暗い部分に関して、ということになるでしょうか」