面談室には五人の人間が座っていた。生徒が私と梨々花さんと奏さんの三人。先生が滝先生と松本先生の二人。コの字型のソファに腰かけている。本来上座になる出入口から最も遠い中央の席に座っているのは、単純に話しやすいからだ。他意はない。
「まず……どこからお話したらいいのか、何とも言えない部分があります。聞き苦しいかもしれませんが、ご容赦ください」
そう前置きして、私は話を始めた。
「滝先生の赴任される一年前、つまりは兄や優子先輩たちがまだ一年生だったころ、北宇治高校吹奏楽部は今とは全く違う形態でした。滝先生はその片鱗を、松本先生はその当時をご存知と思います」
先生二人はそれぞれに頷いた。
「当時の北宇治高校吹奏楽部はお世辞にもまともな運営がされているとは言い難く……部活動の体裁すら疑わしい部類であったと聞いています。私自身体験したわけではありませんが。しかしその中でも改革の動きはありました。それを始めたのが希美先輩だったわけです。ですがそれは当時の三年生による精神的苦痛を伴ういじめと形容するべき行為により頓挫します。そして希美先輩を筆頭に当時の一年生の中核メンバーが部を去りました。その後始末を終え、私の兄も部を去った。以上が簡単な北宇治の過去に起こった出来事の顛末です」
「なんとなくは知っていたけど……みぞ先輩はそういうの言わなかったからなぁ」
「私も噂と伝聞でしか聞いたことが無かった」
梨々花さんも奏さんも詳細な部分は知らない。この件に関しては色々あった、で優子先輩たちも誤魔化していた部分があった。別に知ったところで何かいいこともないし、気分の良い話でもないので言わないことにしたのだろう。
「そしてその翌年、滝先生が赴任され、ほぼ同時に兄が再度復帰し、部が動き出すわけですが……」
「確かに大事な話だ。だが私たち全員を呼び出すことと、今の話にどういう関係が?」
松本先生の疑問も尤もだ。ここまでの内容なら、今更先生二人を呼び出す必要は無い。幹部で個人的に話をすればいいのだから。今のはあくまでも前提情報をちゃんと幹部で共有するための前振りにすぎない。
「本題はここからです。今年新入生として入部してくれた我がフルートパートの本多星莉花さんの姉は元北宇治高校吹奏楽部のOGであり、当時希美先輩を排斥した部員の筆頭格です。本多麻莉奈さんというらしいですが、松本先生はご存知ですよね?」
「……あぁ、知っている」
苦しそうな顔で松本先生は言った。
「姉妹揃って学年団を担当していたが、私の受け持つクラスの子ではなかった。今年度も別の先生が担任をされている。そうか、姉妹だったのか……。すまない、確認が遅れた」
「いえ、まずはご自分のクラスの生徒を把握するのが優先でしょうから。ともあれ、これが共有しておくべき事項です。今の北宇治の状況をその姉君がどう思っているのかは知りませんが、懸案事項ではあると思いますので、お伝えしました」
面談室の中は重苦しい空気に包まれている。これでもし何も関りが無いのなら問題なかったはずだ。トラブルの当事者同士は既にどちらも卒業している。わだかまりがあるにしろ、それは外部で解決可能な話でもある。ただ、事はそう単純ではない。関係者がまだ多少残っているのだ。特に希美先輩と繋がりの深い部員は一定数いる。
「なるほど」
奏さんは何かを理解したように呟いた。
「これを伝えたのは、まず本多さん本人がその事実を何らかの経緯で知ってしまい、精神的に参ってしまう可能性があったから。次にこの事実が部に広まり、彼女が部に居づらくなるような状況が発生するかもしれないから。そして、外部に指導をお願いする以上この件とは避けて通れないから」
「その通り」
特に二番目が一番マズい。こんな事になってしまっては、部内の印象は最悪だ。身内にイジメの主犯格がいます、の時点ですでにあまり良い目で見られないだろう。しかも相手が希美先輩なのが良くない。私の世代にいる希美先輩を慕う三年生の多くが白い目を向けるだろう。それが正しくないとしても、それで止められるほど人間は理性的じゃない。一番最悪なパターンを想像するのは当然のことだった。
「待ってね、それ桜地先輩は知ってるの?」
「まだ言ってない」
梨々花さんの顔が青くなる。その原因は予想するまでも無い。兄さんが指導を拒否したり、或いは何かしら条件を付けてくる可能性があるからだ。金賞請負人、などと一部で言われているのを本人は納得していないが、実際問題優秀な指導者であることに疑いの余地はない。
私個人としては、そこまでの事はしないと思うのだけれど、そうは言っても不安材料ではある。ここで何かを考えていた滝先生が口を開いた。
「この件に関していえば、桜地君にはキチンとお伝えするべきでしょう。指導をお願いする以上、そして彼自身も当事者の一人であった以上、それを黙っているのは不誠実ですので。その上で、私は彼が何らか指導において不適切な事をしたり、引き受けると言った指導を撤回するとは思いません」
「そう、ですか?」
「はい」
不安そうな梨々花さんに対し、先生は毅然とした声で言った。
「感情で指導に不適切な行いをしたことは、今まで一度もありません。彼は常に、部のためを考え、演奏のためを考え、より良い指導を模索し続けました。復帰後の、それこそ自身へのリスペクトなど欠片も無い相手でもそれは変わっていなかったと記憶しています。今回の件も、言葉を尽くせば理解してくれることでしょう。そうでなければ、部の中で信頼される存在にもなっていないはずです」
指導者としての兄さんを一番見てきたのはほかならぬ勧誘者である滝先生本人だ。どういう姿勢で、どういう姿で指導をしてきたのかは間近で見てきたことだろう。そこには指導者同士だからこそ築かれた信頼関係もあるはずだ。これに関していえば、私たちよりも理解している部分があると思う。悔しいけれど。
「桜地さん」
「はい」
「この件に関しては、誰が連絡を?」
「希美先輩が今日中にやると」
「分かりました。その結果次第ではありますが、桜地君には改めて私の方からも連絡をしてみます。この件に関しては職員会議などでも共有しておくことにします。松本先生、お願いできますか」
「えぇ。これは同じ学年団の私が適任でしょう。妹の方は明るく元気な生徒で、友人も多くいる印象です。色眼鏡をかけないように、事実を伝えつつも先生方の中にも徹底させます」
吹奏楽部の集団退部に関してはもう四年前の話だ。とは言え、移動した先生もいるが当時を知っている先生も一定数残っている。その先生方がどう思うのかは考えないといけない部分なのだろう。
「松本先生、当時の事情について先生方はどこまで知っていたのでしょうか」
「当時在任していた先生方は教頭先生を始め全員知っているはずだ。校長先生は交代されたので知らないとは思われる。桜地兄が職員会議で説明していたのを覚えている。すべて終わった後の、それこそ後始末という言葉が相応しい状況であったが。当然そこでは本多姉の名前なども出ていた。当時を知っている先生からすれば、要注意となるだろう」
「副顧問だったのにご存知なかったんですね」
「それに関しては……すまない。当時の顧問とは折り合いが悪く、部に関われない状況だった。とは言え、これは言い訳だな。私も何か出来る事があったと後悔している」
「……」
私は多少は文句を言う資格があるはずだ。希美先輩が退部したのも、兄さんが後始末に奔走する羽目になったのも、先生たちがちゃんとしていれば防げたかもしれないからだ。後始末が無いとそれこそ辞めた部員にまで被害が及んでいたかもしれないと聞いている。
「涼音ちゃん」
「分かってる」
梨々花さんは私が膝の上で握りしめた手をそっと触った。それ以上は今やらない方がいいと伝える声で。
「その本多さんのお姉さん? が今後何かしら部に悪影響をもたらす可能性は?」
「分からない。本多さん曰く、自分の部活動を応援してくれてるらしいから、北宇治が強豪になっていること自体は認識しているとは思うんだけど……」
「姉妹仲が良いってことはイベントとか大会の時とかに鉢合わせる可能性がある?」
「それは大いにあると思う」
奏さんは深いため息を吐いた。定期演奏会や各種大会、サンライズフェスティバルのようなイベント。そういう場所に応援に来ないとも限らない。もちろん、家族なのだからどういう過去があろうと応援に来る権利は存在している。とは言え、そこで希美先輩や兄さんと鉢合わせる可能性もある。優子先輩や純一さんもしかりだ。この人たちも当然悪印象を持っているだろう。そこから色々と飛び火する……という事も考えられた。
「本多は良くも悪くも仲間意識が強い生徒だったと記憶している。私の認識なので他の先生は違うかもしれないが、少なくとも私はそう捉えていた。身内には優しいが……というタイプだ。プライドも高い。傘木の行動はプライドを傷つけたのだろうな。純粋に面倒だったというのもあるのだろうが、傘木の言葉や働きかけを自分への攻撃と捉えたのだろう」
松本先生の言葉にふん、と奏さんが鼻を鳴らした。彼女が何を思ったのかは何となく理解できた。
「なるほど……」
そういう人格の人間に接した経験はある。自分への意見を攻撃と捉える人間は一定数いるのだ。私はそういう人物を良く知っている。まことに遺憾ながら、ではあるが。なにせ、中学の頃の顧問と近しいのだから。とは言え、音楽的な指導力があるか無いかという違いはあるけれど。
「まず桜地さん。今回の件の情報共有ありがとうございます」
「いえ……」
お礼を言われるようなことはしていない。直前まで迷っていた身としては、特に。
「今回の件は大変デリケートな話題です。しかし忘れてはいけないのは、本多さんは特段何もしていないという事です。私たちはそのことをしっかり理解したうえで、今後接していく必要があります。特に幹部の三人はそこを意識してください。何らかの不利益が本多さんに降りかからないように、目の届く範囲で構いませんので監督をお願いします」
「「「はい」」」
「我々教師陣の方でも情報共有を行い、バックアップ体制をとります。既に当事者は卒業しているとはいえ、関係者はまだ多く在籍していますので、細心の注意を払いましょう。この事は当然、他言無用です。よろしいですね?」
「「「はい」」」
先生に言われるまでもなく、理解している。姉がどうであれ、妹は妹だ。私の心の中には揺らぎがあるけれど、希美先輩に言われたことはちゃんと守るつもりでいる。彼女自身がどう振舞うにしろ、同じ部の仲間である以上守る義務があるのだから。背反する心は苦しいけれど、自分がしている行いは少なくとも間違いではないと断言できるからか、中学時代より幾分マシではある。
話はこれで終わりだ。とりあえず最低限の共有は出来た。パートリーダーや同期に共有するのは少し様子をうかがうことにする。信頼していないわけではないけれど、多くが知っていてもいいことはあまりないように思えたからだ。廊下に出ても私たち三人の空気は重い。如何せん、軽々しく扱える問題ではないからだ。
「涼音ちゃん、ありがとうね」
「どうして?」
「私たちの事、信頼しても良いと思って話してくれたんだろうから」
「それは……まぁ」
私はハッキリ勿論だと答えられなかった。希美先輩から信頼できる人にだけ話してくれと言われたときに、私はこの二人に話すことを躊躇した。それは無条件の信頼とは言えないだろう。そういう意味で、私は心の底からまだ二人を信じ切れていないのかもしれない。
臆病だ、と自分を客観視して思う。私はかなり臆病な存在だ。信じることが怖いし、他人を信じられなくなるような人生ばかり幼少期から過ごしてきた。それでも中学高校と人生を進んでいく間に、人を信じられるようになってきた。それでもまだ、怖い。梨々花さんや奏さんのことを信じ切るのが。
でも、怖がっているだけではダメなのだ。人に信じて欲しければ、まずは自分が信じないといけない。そう思って私はこの件を打ち明けた。先生二人を巻き込んだのは、顧問と部員の間に距離を作ってもあまり良いことが無いだろうと思ったからだ。それに、こういう案件で自己解決を目指すのは得策とは思えない。吹奏楽部を運営するチームである以上、巻き込まないわけにはいかなかった。
「迷った?」
私の揺れる瞳をじっと見つめていた奏さんは問いかけた。
「……正直に言えば、少し」
「そう。まぁそれでも最終的に話そうと思ってくれたなら、それでいい」
「ごめんなさい」
「謝る事じゃないから」
二人とも私が迷ったことには多分気付いていたのだ。それも最初から。であろうとも最終的にどうしたのかで評価してくれている。そこはありがたいところだった。
「でも大丈夫かなぁ。今年の夏は色々去年までとは違う予定だし……。桜地先輩が良くてものぞ先輩がどうかなぁ。このままだと、本多さんは多分……」
「それも含めて大丈夫、というのが本人の談だから」
「なら、うーん。様子を見つつお任せするしかないかなぁ」
今年の部員数は百人を超える大台だ。この半数は大会に出れないB編成として夏を過ごすことになる。特に一二年生をその間遊ばせておくわけにはいかない。去年までは私や真由先輩もいたし、途中からは奏さんがいた。こういうちゃんと指導が出来る生徒が指導していたので、B編成も実力強化を行えたのだ。
ただ、今年はそういうわけにもいかない。三木さんに背負わせるのは無理筋だし、私だって五十人弱のメンバーを指導しつつA編成のことも自分の練習の事も受験勉強のことも、というのは不可能だと思う。兄さんや他の先生は全員A編成の指導に全投入したい。そこで白羽の矢が立ったのがOGであり、指導課程に進んでいる希美先輩だった。
本人もやる気があったし、ちょっと早めの実地演習というつもりらしい。流石にA編成の指導は難しくとも、B編成の子の実力強化なら出来るはずだ。専門的な教育を受けているし、それに加えて自身もそこにいたことがある。兄さんの指導方法などもよく知っている。これ以上ないほどにうってつけの人材だった。だからお願いして起用したのだが……こんなことになるとは思ってもいなかった。
「取り敢えず、サンフェスと自由曲決めに注力しつつ、見守っていこう」
梨々花さんの言葉に頷く。今のところはまだ何も問題は起きていない。五月が来る前にサンライズフェスティバルとコンクールの練習は始めておきたい。いわゆるお客様期間は間もなく終わる。そうでもしないと、今年も結果が出せるのかは分からないからだ。
二回全国大会金賞を獲った。三回全国大会に出場した。それでもまだ、正解かは分からない。麗奈先輩も去年同じ感情だったのだろう。私たちの足元をチリチリと焦がすこの感情の正体は、間違いなく焦燥感だった。
音楽室に全員が集まると狭く感じる。合奏隊形もギチギチだ。百人以上いるので致し方ないとは言え、広い音楽室が使える私立が少し羨ましい。その中央では黒板を背に先生が立っている。今日は去年よりも一段早く自由曲を決める日だった。
今年の自由曲は幹部やパートリーダー会議の話し合いの末、自分たちで決めることになっている。とは言え、無数にある曲の中から選ぶのは難しい。そこで先生が三曲候補を絞り、それの中からどれにするのか選ぶ形式を採用した。これならば先生もある程度方向性を決められるし、自分たちで決定することもできる。
北宇治では初めての取り組みだった。
「では皆さん。これまで既に説明されたように、本日は自由曲を選ぶために今から三つの曲を聴いてもらいます。皆さんの中には当然音楽的な経験や知識に差があります。経験や知識がある人はそれに基づいて、無いなら無いで自分の心や感性に従って聴いてみましょう。北宇治高校吹奏楽部では初めての試みです。皆さん自身で選んだ曲は変えることが出来ません。ずっと付き合っていく事となりますので、それを肝に銘じて考えてください」
「「「はい!」」」
「では、まずは一曲目です。解説などはその後にしましょう」
先生がCDを操作する。スピーカーからメロディーが流れて来た。マゼランだ、と隣に座っていた香奈さんが小さい声で言った。『マゼランの未知なる大陸への挑戦』は吹奏楽でも有名な一曲になっている。作曲者は樽屋雅徳。マゼランの魂が現世に残り、世界一周を続けたなら、というコンセプトで書かれた曲だ。
やはりと言うべきか、この作曲家は音の運びが大分独特だ。ティンパニやホルンがその影響を強く受けている。クラリネットによる連符の嵐、低音の鳴りの重要性、伴奏のピアノがあるなど見どころも多い。そしてトランペットの長いソロも人気を博している。これは去年やったら凄まじいことになっていただろう。グレードは4~5。まぁ、今の北宇治なら出来るだろう。
先生の解説でも私の感想と同じような事を語っている。演奏面のポイントや曲のコンセプトなどだ。まぁもっと言おうと思えば色々言えるのだろうけれど、ここでごちゃごちゃ言っても知らない人は混乱するだけだろう。それよりは、初心者でも素直な感性でいいと思った曲を選んで欲しい。解説はあくまでも上級者や経験者向けの選択材料としてやってもらっている。
「――以上になります。では、次に二曲目の演奏を聴いてもらいましょう」
またスピーカーから旋律が流れた。クラリネットの優美なソロから始まるこのメロディー。なるほど、これを選ぶかと思わされる。二曲目に先生が選んだのはベルト・アッペルモント作曲の『ブリュッセル・レクイエム』だ。これは先ほどのマゼランより難しい。グレードは確か6くらいだったはず。
これはかなり新しい曲だ。実際の事件をもとに作曲されている。2016年にブリュッセルで発生したテロ事件をモデルにしていたはず。ただ、作曲者が表現しているものは事件そのものではなく、このテロ行為により引き起こされた恐怖、悲しみ、怒り、そこからくる希望や信仰。そういう感情だった。ユーフォの連符、トランペットやトロンボーンのソロなど見どころもかなりある。言ってしまえば映える曲だった。
「この曲はAu Clair de la Lune、日本語で言えば「月の光に」という言葉をテーマにしています。テロ事件をモデルにしたレクイエムではありますが、絶望だけではなくそこからの復興や再生、立ち上がる力などを訴えかける曲になっているのが特徴でしょう。しっかりと演奏出来れば、感動と勇気を与えることが出来るはずです」
難易度自体はそこそこあるものの、演奏自体は可能だろう。メッセージ性が強いが、それは『リズと青い鳥』で通った道である。今のところこの曲が自分の中ではイチオシだった。カッコいいのが良ければ一曲目、誰でも主役にと思えば二曲目だろうか。ただまぁ、新規の曲なので今年は演奏する団体が多そうだ。編曲次第で大分味付けも変わる。被るのは心配かもしれない。
「さて三曲目です。ただ、三曲目は一番最新の曲であり、まだ既存の団体が演奏している音源がありません。今から流すのは機械音による演奏である、という事には留意してください。では、流します」
『ブリュッセル・レクイエム』はかなり新しい曲だが音源自体はある。それすらないとなると、それこそ新品書下ろしレベルになるのだろう。どんな曲なのかと耳をすませる。
地底から湧き上がるようなパーカッションの演奏からその曲は始まった。徐々に高まりを見せ、そしてトランペットの鮮烈なメロディーがガツンと聞くモノを殴って来る。金管楽器のハーモニーが躍るように配置され、木管がそれに続きキラキラとした音色を放っている。
しかも最初から難易度がかなり高い。トランペットに至っては、聴いている限りパート内で全く違う動きをしている。多分これはコルネットが一人いる。このコルネットがトランペットを先導するように演奏していて、それに追随するように二つに分かれたトランペットの旋律が螺旋を描いていた。そしてトランペットのソロとコルネットのソロが絡み合い掛け合いをしている。
なんだこれは、と目を見開く。長い事吹奏楽部にいたし、色々な曲に関する知識も持っているつもりだ。でも、この曲は知らない。聞いたことも無い。それなのにどうしてか凄く惹きつけられる。多くの部員も身を乗り出して聴いていた。
おそらく楽章は次に移動した。グロッケンシュピールの音が光り輝くナニカのように鳴っている。フルートとクラリネットがゆったりと雄大なメロディーを奏でていた。ホルンとトロンボーンがそれを支えている。先ほどまでの鮮烈さよりもどこか優しく包み込むような温かさを感じる曲調だ。トランペットはやや弱めに、しかし落とし過ぎずに存在感を見せている。
アルトクラリネットのソロが華麗に締めくくり、次の楽章に移動する。曲の速さが楽章によって全く違うのが感じられた。これはかなり難しい。速さや大きさだけではこの演奏は成り立たないだろう。何か一個崩れてしまえばあっという間に崩壊するであろう危うさを持っている。
低い音が鼓膜を震わせた。これはコントラバスと……コーラングレ? アルトオーボエとも呼ばれるオーボエより深みのある低い音を出す楽器だ。それにファゴットとオーボエが合わさって空気を色づけている。物柔らかく、静かで、それでいて消えない夜の星のような演奏。音の波はゆっくりと、しかし確実に大きくなり、夜明けを告げる鶏のようなシンバルによって雰囲気が変わる。少しずつ他の楽器が加わり、晴れ渡る空のような演奏が響いた。
快晴、と思わず感じるような演奏の雰囲気を継続したまま、チェレスタの透明感のある音色が重なった。一応ピアノと同じく吹奏楽コンクールでも使用できるはずだ。凛とした演奏は堂々と、そしてゆるぎない。フルートとアルトフルートがユーフォニアムとユニゾンを奏でている。厚みのある演奏に下支えされながら、この三つの楽器が絢爛な演奏を披露している。
そして曲は終わりへと近づいていく。これまで登場したメロディーが再び形を変えて現れる。各パートが凄まじい暴れ方をしていた。それでいて調和がとれているのは奇跡的なバランスもさることながら、クラリネットとパーカッション、トランペットが中心となるメロディーを築いているからだろう。
それでも耳で捉えるのは難しい。スコアが無いとどこの楽器が何をどう動かしているのか分からない。少なくとも初見で完全に理解するのは不可能なはずだ。それなのに圧倒される。凄まじい勢いで演奏は駆け抜け、最終局面に入る。一つ、また一つと楽器たちが合流し、壮麗な演奏を形作る。翼を広げた天使が今にも飛び立つときのような、祝福にも似た演奏はクレッシェンドにより最大の盛り上がりを見せ、閉幕した。
「……以上になります」
難しいどころの話じゃない。何だこれは、何なんだこれは。作曲者は人間じゃないと思う。いや、確かに超絶技巧で魅せるだけの曲ではない。どの楽器も一切の隙も無く配置され、いずれも大事な役割を果たしていた。どの楽器も主役で、どの楽器も大事な存在。それ故にインパクトは絶大であり、聞くモノを惹きつける。それは同時に凄まじく難易度が高い事を意味していた。
これを自分が演奏する姿は中々イメージ出来ない。思わずため息を吐く。ただ、演奏してみたいという気持ちはあった。難しいかもしれないし、大変なことになるのは間違いないだろう。それでもこれを大会で、コンクールのあの大ホールで奏でることが出来たらどれだけ楽しいだろうか。そういう気持ちにさせてくれるパワーがある。
どの曲にも魅力がある。私はドラムメジャーだ。ドラムメジャーとして、北宇治が良い方向に向かう曲を選びたい。とは言え、皆がどういう選択をするのかにも大きく左右されるのだが。
「最後の曲に関しては、敢えて解説はしません。しても良いのですが、すると膨大な時間がかかりますし、スコアが無いと難しい。それに今皆さんが感じたことを大事にするべき曲ですので。少しだけ時間をとります。誰かに相談するのではなく、今の自分が良いと思った曲、演奏したいと思う曲、演奏するべきと考える曲を選んでください。では部長、お願いします」
「はい。決まった人から目を閉じてください。全員閉じたら集計を始めます」
悩ましい。個人的には二曲目と三曲目で迷っている。個人的な趣味もあるけれど、北宇治が演奏するのなら、全国で吹くのなら、指導を行っていくとするのなら――。そういう様々な要因を重ね合わせて、どうするのかを決めた。
私と奏さんも前に出て、集計作業を手伝う。大事な投票なので、数え間違いはしたくない。悩んでいる人も多かったが、最終的に全部員の目が閉じた。
「では、まず一番が良いと思った人」
パラパラと手が挙がる。十五人ほどではあるが、一定数希望者はいた。
「次に二番目が良いと思った人」
こちらは一番よりは多い。二十五人ほどいる。ただ、この結果を見る限り、どうなるかは予想するまでも無かった。
「最後に、三番目が良いと思った人」
幾つもの手が挙がる。六十人以上の人間がこれに挙げていた。過半数に届かない場合は多いモノ二つから決選投票とするつもりだったが、過半数を超えている。私も三番目に票を投じている。
「手を下ろして、目を開けてください。票数が過半数を超えたため、今年度の北宇治高校吹奏楽部は三番目の曲でコンクールに挑むことになります。多分分かってると思うけど、滅茶苦茶難しい曲です。全員で協力して、良いものになるように頑張っていきましょう!」
「「「はい!」」」
部員たちが力強く頷く。それを確認して、先生は一歩前に出た。
「分かりました。余計なバイアスを持ってほしくなかったので明かしませんでしたが、この曲に決まったというコトであれば問題ないでしょう」
そう言って先生はチョークを持つと黒板に文字を書き始めた。それを見て、私は息を呑む。他の多くの二三年生も驚きの声を漏らしていた。
「作曲者、桜地凛音。三月に沖縄で演奏をした際、作曲者謹呈として譜面を頂いた書き下ろしの曲です。タイトルはご覧の通り――『音を愛す君へ』です」