四月十九日木曜日
今年の自由曲は去年よりムズイ! 初心者の子がオーディションまでに最低限仕上がってる状態にしたいな。でも泣きながらやるのは違うと思うし……。難しいね
(梨々花)
コメント
言葉遣いには気を付けます(涼音)
ただでさえいつものがアレ、ですからね(奏)
……は?(涼音)
喧嘩は口頭でお願いします(梨々花)
先生はスコアを印刷し、全員分配ってくれた。学校のプリンターはこういう時仕事が早くて助かる。譜面には数多の音符がちりばめられていた。スコアで見ると改めてその難しさが分かる。
じっと楽譜を眺める。聴いていて思ったことではあったけど、核となるような旋律的主題が見当たらない。音を愛すとは合奏、つまりはミュージックではなくサウンドの方を指しているのだろう。調和のある混沌。一見すると矛盾しているようだけれど、表現としては見かけることもあるモノだ。一方でただの混沌で終わってしまう可能性もある。この部分の調整はかなりシビアだろう。
「今年度の課題曲は自由曲次第ではありましたが、この曲が選ばれましたので、Ⅳ番を採用しようと思います」
課題曲の方は先生に任せていた。Ⅳは郷間幹夫作曲の『コンサート・マーチ「虹色の未来へ」』だ。作曲者は「各奏者が自分の人生の軌跡を振り返り、「虹色の未来」へと歩むストーリーを曲に込めた」と言っている。これは今回の自由曲ともマッチするだろう。そういう意味でも、そして時間的な意味でも問題ない選曲だと思う。
「サンフェスの翌日からは本格的にコンクールの練習に入ります。合奏できるレベルまで、各自練習しておいてください」
「「「はい!」」」
今年は圧倒的に自由曲の方が難しい。毎年そんな感じではあるが、少なくとも『リズと青い鳥』よりも難易度は高いだろう。全体的な平均点が高い今の状態だからこそ選ぶことが出来た曲だ。さもないと、崩壊してしまう。もしくは、これを吹いてくれることを期待して託したのだろうか。後輩への挑戦状として。ちゃんと一定以上の実力者のいるパートに難しい部分が配置されているのも狙っているように思えてくる。
「何かありますか?」
「ドラムメジャー、お願い」
「はい」
梨々花さんに促され、私は前に出る。自分の兄の曲を自分が演奏することになるとは思いもしなかった。二年前の大会で、私は出来れば一緒に演奏してみたかった、と言った。それを覚えていてくれたのかもしれない。間接的にではあるが、一緒に演奏できるようにと。
「今回の自由曲は皆で選んだ曲になります。勿論、他の曲を希望した人もいましたが、それでも全体ではこの曲に決まりました。完璧に演奏出来たならばとても素晴らしい演奏になるでしょう。ですが反面、失敗すれば目も当てられません。ただし臆する事はありません。楽譜の一番最初を見てください。ここに書かれていることが、この曲に込められたメッセージです」
そこにはこう書かれている。「Do you love sound? Do you love yourself?」と。音を愛しているか、お前自身を愛しているか。これがまず最初に来る作曲者からのメッセージだ。
その下に手書きで、恐らくこれはスコアの現物に兄さんが後でメモ書きをしたのだろう。それもご丁寧に印刷されている。そこには「You are the protagonist of this sound—and of this story!」とあった。あなたはこの音と物語の主人公だ、という意味になる。あなた、が複数形として使われているのではないのがポイントだ。この曲を演奏する一人一人が主人公であり、欠かせない役目を持っている。そう伝えたいのだろう。
「皆さん一人一人が、この曲を演奏する際の主人公です。自分の奏でる音を、自分自身を愛しながら、堂々と演奏する。これがこの曲を奏でる際に最も大事になる事でしょう。まだ誰もこの曲を人間の手で演奏していません。世界で最初に演奏する私たちが、私たちなりの演奏をする。私たちのサウンドで、私たちのメロディーで、私たちの全てで全国金を獲りに行きましょう!」
「「「はい!」」」
大きな返事と拍手が返って来た。期待感を持って練習に臨めるのは素晴らしい事だと思う。後はこれをどこまで維持できるのか。各パート、各個人の練習が極めて大事になってくる。混沌としているからこそ縦横の連携も欠かせないし、全体のことを見る大きい視点も大事になって来る。出来るでしょう? と問いかけられている気がした。私も兄さんの後継者として見劣りする演奏をするわけにはいかない。最高の状態で大会に送り出す。それが私の務めなのだから。
「涼音先輩は何かご存知だったんですか?」
曲が決まった後のパートリーダー会議の中で話し合われるのは今後の練習について、そしてオーディションについてだ。その中で三木さんに質問される。作曲者の身内なのだから無理もないだろう。とは言え、私も何も知らされていない。
「いえ、何も。あの人こういう時何も言ってくれないんです」
「じゃあ完全初見だったんですね」
「そういう事になりますね。思い返してみれば、確かに兄さんの手癖のようなものは感じますけど」
今回の自由曲『音を愛す君へ』は五つの楽章で構成されていた。そしてそれぞれに名前がちゃんと付いている。
第一楽章:燃える情熱へ
第二楽章:絢爛たる光へ
第三楽章:飛び立つ翼へ
第四楽章:高貴なる志へ
第五楽章:音を愛す君へ
これは北宇治高校吹奏楽部に贈るためだけに書かれた曲だ。しかも、多分この世代に一番ダイレクトに届くように創り上げられている。別に他の世代が吹いても違和感はないけれど、感情を込めるならこの世代が一番適しているのかもしれない。
「これ、第三楽章に『翼をください』っぽいフレーズ入ってますね」
「兄さんが好きなんじゃないですか、多分。メッセージにも合っていますしね」
一瞬だけなのでスルっと次に行ってしまうけれど、多分探せば色々な要素がちりばめられている。心血注いで作られていることは、音楽に触れたことのある人なら分かるだろう。
「はいはい、ドラムメジャー同士の談義はまた今後にしてもらって、この後のことについて考えようか!」
梨々花さんが雑談にシフトしそうだったところを戻してくれる。曲の指導をしている仲間なので、三木さんとはどうしてもこういう話が長くなってしまう。彼女は彼女なりの解釈があったりとか考えがあるので、それを聴くのも楽しいし勉強になる。それぞれの解釈があるのも今回の自由曲では大事になる部分だろう。
「まずはオーディションについてです。去年から導入された三回制に関してだけど……何か意見はありますか?」
「制度の導入経緯はともかく、有効性に関してはしっかりあると思う。ここのメンバーには色々思うところがある奴もいると思うけど、それでも有効性はしっかり認めるべきだ」
「秋子先輩の絶唱もあの制度があったから生まれたみたいなものだしね」
北山君の言葉をさやかさんがフォローする。秋子先輩にお世話になっていたさやかさんとしては、彼女が最後の最後に勝利を掴んだことは喜ばしい事だったはずだ。その願い通り、スポットライトの下で輝いた彼女は金賞を掲げて卒業していった。
反面、葉加瀬さんのように不利益を被った人もいる。メンバーから外されるという事もあり得るのだ。それは奏さんも同じ境遇だった。私とて一回沙里先輩に負けている。でもあれがあったからこそ、自分の演奏に感情を乗せられるようになった。そういう意味ではあの時間も無駄ではなかったと思う。
「運営経験者として言うと、昨年も言った通りこの運用には覚悟が必要になります。当然、それはパートリーダーも逃れることはできません。自分がソロやソリになれない可能性を念頭に置きつつ、後輩たちの指導をして、どうしても雰囲気が悪くなりがちな時期を上手くこなしていく必要があります。効果は高い分、内部をしっかり固めないと崩壊してしまうかと」
去年の真由先輩の事が思い起こされる。真由先輩は三年生からの転校生だったけれど、今度は一年生がいる。一年生がソロになったりした場合、既存の部員がちゃんと対応できるか。或いはもっと悪いパターン、つまりは先輩がメンバーから外れてしまった場合にも動けるかどうか。真由先輩よりも立場の弱い一年生に負担を強いたくはない。それもいらない負担を。
「出来ることならば、もう公開オーディションのようなことはしたくありません。それは皆共通に思っていることだと思います」
全員温度差はあれど頷いた。アレを見てもう一回やろうと言うヤツの気がしれない。トランペットはともかくとしておきつつ、ユーフォに関しては久美子先輩が上手くまとめてくれただけにすぎない。久美子先輩の志と真由先輩の優しさに救われただけなのだ。どちらの心情も、考えるだけで苦しい。あんな経験を他の誰かにさせたくない。特に後輩には。
「先輩が落ちる事も、覚悟して行かないといけない。それが強豪校になるって事じゃない?」
鈴木さんは淡々と言った。冷静に俯瞰して物事を見ることのできる存在は助かる。なにせ、彼女の言った通りなのだ。強豪で先輩が落ちる事もあるというのは当たり前の話。立華や清良では日常となっているのだろう。それが正しいのかはともかく、北宇治が強豪となるために払った犠牲が去年の出来事ならば、今年からはそれを踏まえて成長した姿を見せないといけない。
しばらくの間沈黙が場を支配する。分かってはいることだ。南中でもあった。でも、簡単に受け入れるのも違う気がする。この痛みから目を背けてはいけない。全国大会金賞はそれだけの価値があるのか、という問いかけは私の中で明滅する。これは中三の時もそうだった。
「全員、ここにいる全員だけじゃなくって、三年生全員に覚悟してもらおうと思います」
梨々花さんが沈黙を破って、声を出す。
「今年も、オーディションは三回制を維持しようと考えています。反対意見があるなら言ってください。苦しい結果に終わるとしても、私は最善であると思う道を選びたい」
「その末に、部長がソロやソリに落ちることになっても?」
「もちろん」
奏さんの言葉に、梨々花さんは間髪入れず即答した。
「私たちはみんな、去年の久美子部長の行動を見ていたよね。あんな風になれるかは分からないけど、ならないといけないと思います。なろうと努力しないといけないです。例えどういう結果になろうとも、勝者を称えられる人でいるべきだろうから。あんなことはもう繰り返させない。最高のベストメンバーで挑めるように、私たちがしっかり土台を作ろう!」
「「「はい!」」」
梨々花さんの理想は皆で進んでいく空間を作る事だ。その背景には当然これまで見て来た二人の部長の姿があるのだろう。力強くオーディションの制度を続けると言った毅然とした姿には、優子先輩の面影を感じた。皆を納得させる言葉には、久美子先輩の面影を感じる。思わず目を細めたのは、懐かしさからだろうか。
月日は流れても、願いや祈り、信じたものは受け継がれて生き続けていく。生命を介さないけれども確かにここでは何かが継承されていた。それを人は魂と呼ぶのかもしれない。
「じゃあ、滝先生には去年と同じ制度でオーディションは回していくようにお願いします。練習計画の方はどうかな?」
「この後随時作成していきます。サンライズフェスティバルのものと同時並行で進めて行かないといけない都合上、一年生や初心者には負担になると思います。部長副部長とも相談しましたが、ドラムメジャー権限で今年の初心者はサンフェスにて演奏はしません。とにかく基礎固めと自由曲・課題曲の演奏に取り組んでもらいます」
麗奈先輩は容赦なく演奏させる方針を採用した。主にその対象となったのは金管楽器だ。陽光を浴びると変形してしまう楽器はポンポンを持って行進する係か旗を回す係になってもらう。今年もあの行軍の時期が来た。今年は私が先頭だ。
麗奈先輩の方針は理解しているし、一定の効果があったのも認める。ただ、今年は今年のやり方がある。去年のあれはあっちもこっちもになってしまった部分もある。負担も相当重かった。北宇治は座奏の学校だ。まずはしっかり基礎を固めて、成長を促進する必要がある。目の前の課題は選択し、なるべく一つに狭めて一つ一つクリアさせる。これが私の方針だ。
私には私のやり方がある。これを選ぶ権利は私が持っていた。勿論、幹部で相談し熟慮に上に決めている。自分で勝手に決めたわけではない。最終的に決断したのは私ではあるけれど。
「今年の自由曲はとにかく難易度が高い。課題曲も手を抜けませんし、初心者の子にしっかりと土台を固めてもらうにはこれがベストであると考えます。土台や基礎が固まっていれば、今後の練習の際に上達速度が上がり、応用可能性に幅が出来ますので。具体的な計画は新入生指導係とも相談し、近日中に配布します」
サンライズフェスティバルの曲を練習しないだけで、練習自体は普通にある。一刻も早く座奏の戦力として育てるため、他の部員が普通の練習をしている最中も別の課題を与えておくつもりだ。その管理監督は新入生指導係やパートリーダー、各指導担当部員が段階的に担っていく。その役割分担も既に済ませていた。指揮系統や指示の混乱は避けたい。
後は自由曲の楽器をどうするのか。それを考える必要がある。
「楽器、どうしよっか」
「コーラングレなんてあった? 無いよね?」
「チェレスタは確実に無いよ」
コルネットは一つだけあったはずだ。アルトフルートも無いはずなので、誰か私物で持っていないか確認しないといけない。まぁ持ってないと思うけれど。
「楽器の導入って出来ないのかな?」
様々な楽器を必要とするパーカッション的には新しい楽器も欲しいらしい。東浦さんはずっと新楽器の導入を訴えていた。各楽器、古くなっているものも多い。新しい楽器を持ってくるよりも先に修理やメンテナンスにお金がかかるのだ。それに加え遠征費や輸送費、合宿の代金で毎年の部費は消えていく。OB会もやっと動き始めたけど、メインの構成メンバーが学生ばかりなので、資金力は乏しい。十数年の断絶はこんなところで響いてくる。
「予算はもうカツカツです。中古でよければあるかもしれませんが、中古はピンキリです。募金を募る事も出来なくはないと思いますが、あまり現実的ではないですね」
「だよねぇ……」
せっかく決まった自由曲だけれど、楽器の問題はのしかかる。他の楽器で代用することは可能だろうけれど、出来れば本来のスコア通りにしていきたい。そうすることで作曲者の意図した本来の演奏になるだろうからだ。
「私立の強豪校なら持ってるのかもしれないね。借りれたら良いんだけど……」
私立の強豪で北宇治と関係が深いのは近くにある立華と大阪の秀塔大附属の二校だ。清良も該当するけれど、距離があるので中々気軽に頼みづらい。一回の演奏会くらいならまだしも、半年以上となると厳しいかもしれない。
「ダメ元で連絡してみるべきかもしれませんね。まずは先生に相談ですが。それに、あの候補曲を選んだのは先生自身ですので、何かしら考えているはずですし」
私たちだけで話し合っても解決しない問題もある。北宇治は元強豪だけあって、昔の羽振りが良い時代にたくさん楽器を買ってくれているため、普通の県立よりは恵まれている。それでも足りない部分はある。京都府が強化指定して予算を出してくれると良いんだけれど、そう簡単にはいかない。中古で買うにしてもお金がかかるし、レンタルするにしても管理はきちんとしないといけない。
「じゃあ、他に何もなければ今回の会議はここまでにします。コンクールの曲を早めに仕上げられるよう、工夫して頑張っていきましょう!」
「「「はい」」」
難しい曲に取り組むからこそ、より一層効率的に練習をしないと仕上がらない。特に今年はどこか特定のパートだけではなく、全部のパートが対象になる。私もアプローチを考え続ける必要があった。
フルートパートを構成する一年生三人は、程度の差はあるにしろいずれも経験者で占められている。その分、初心者向けの指導をしないで済む点は楽だった。本多さんには注力する必要があるものの、他の二名は特段問題なく先輩と同じ練習メニューを実施できると判断している。
そのため、パートとしての動き出しは比較的早かった。全員が主役になれる曲ではあるけれど、それでもフルートは出番が多くメインキャラクターになれる場所がかなりある。当然それは目立つことを意味し、高い実力を求められることも意味している。
「割り振りを決めて行こうか」
成美さんが前に立って音頭をとる。フルートパートは今回、普通のフルートに加えてピッコロとアルトフルートの三種類を使うことになる。それぞれ誰が担うのかはオーディションにも影響してくる大事な割り振りだった。
「まずなんだけど、アルトフルート持ってる人とかは……いないよねぇ?」
まぁいないよねというニュアンスの質問だったけれど、一条さんが手を挙げた。
「え、マジ!? 持ってるの?」
「はい」
アルトフルートにもランクによって様々な値段があるけれど、安くても二十万はする。高いと百万を超えることもある。普通のフルートも持っているので、二つマイ楽器を持っている数少ない生徒という事になるだろう。これはかなり大きい。
そもそもアルトフルートとは、inGの移調楽器で実音はコンサートフルートの4度下が鳴る。新しく運指を覚える必要がないので、その点は楽だ。ストレートタイプと折れ曲がっているタイプがあり、体格によって使い分けるのが通常になっていた。独特な音色を変幻自在に奏でることが出来るため、アンサンブルでも使われることがあった。北宇治では今まで縁が無かったが、強豪校では持っていることも多い。
「よしっ、ならアルトフルート担当でいいかな?」
「問題ありません」
「じゃあお願い!」
一条さんは実力がしっかりある奏者なので、アルトフルートを担わせることで人材の選択肢が狭まる可能性はあるけれど、やってもらえるならやってもらった方が良い。
ただ、これまで演奏を何回か聞いたけれど、無味乾燥というかかなり淡々とした演奏をする印象があった。この演奏方法は私の過去の演奏に近いかもしれない。技術力は中学の頃の私よりあるとは思う。ただ、それは圧倒的な技巧で表現不足を補っている部分が多い。中学ではこれで通用したのかもしれないが、今回の自由曲では不安材料になる。
今回の自由曲では誰かが引っ込んでいたり、影の役割をすることが無い。特にアルトフルートは目立つ部分も多く、第四楽章にはユーフォとのユニゾンが存在している。ユーフォは多分奏さんがやることになるだろう。普通のフルートのソロ演奏も同時に展開されているとはいえ、それでもユーフォと上手く息を合わせることが出来るかが課題だ。奏さん的には合わせにくい相手かもしれない。
新山先生にもこの部分は突っ込まれる可能性があるし、それまでに矯正できるならばしてしまいたい。とは言え、パーソナルな部分に触れないといけないのならば、すぐに解決というのも難しいだろう。彼女の内心が変わっていけるようにアプローチするしかないのかもしれない。
「で、ピッコロは引き続きつみき担当でいいよね?」
「いいよ~」
「じゃあ残りは普通の練習をしていこうか」
「先輩~、予備は作らないんですか~?」
鈴谷さんが間延びした声で質問をする。リラックスしていると言えば聞こえはいいが、これは多分気を抜いているが正しい表現かもしれない。ただ、成美さんは気にしている様子はなかった。
「そっか、それも必要だよね。ピッコロは……陽向ちゃんいけそう?」
「大丈夫です」
「よし、それで行こう。アルトフルートは現状私物を使ってやる都合上、あんまり予備はおけないかなぁ。万が一の時はまた相談になるかも。運指は同じなんだよね?」
「はい」
「だとすると……涼音ちゃんにしておこうか。実力的にも応用力的にも、何とかなる可能性が高いし。いけそう?」
「いけます」
一条さんの代打となると他に選択肢も無いだろう。出来る限り持っている本人にやって欲しくはあるが、不慮の事故なども考えられる。スペアではないけれど、補欠を用意しておくことは大事な事だった。私が一条さんの代打になった場合、鈴谷さんか香奈さん辺りが私の代打になるだろう。
他に誰も出来ません、では演奏は成り立たないし、強豪校としての姿ではないと思う。担当楽器が決まってしまえば、あとは練習していくだけだ。北宇治のエンジンが本格的にかかり始めていた。
五月が近付くにつれて段々温かくなってきてはいるけれど、それでもまだ夜は少し肌寒い日が続いていた。
「服のチョイスミスった~」
揚羽は薄手の服で来てしまったため、予備校の自動ドアを出た後寒そうにしている。予備校の近くにあるコンビニはこういう時にありがたい存在だった。まだ春なので、ホットスナックコーナーには肉まんが置いてある。二つ買って、私たちは一個ずつ駐車場で食べていた。買い食いなんて、高校生になるまで縁が無かったけれどやってみるとそんなに抵抗感も無くなる。揚羽や周囲のおかげで、もうすっかり慣れてしまった。
「これがあると生きてるって実感する~」
「結構簡単だね、生きてる実感の獲得」
「ウチはこれでいいの~。それにぃ、こういう単純な幸福が人生を幸せにしていくんだぜ。空が青かったとか、風が気持ちよかったとか、そういう感性って音楽にも大事っしょ?」
「確かに」
京都市内の空は宇治よりも狭い。星もあまり見えない。東京の空はもっと狭いのだと聞いた。そんな場所で数年過ごすことが出来るのか、今の自分では確証が持てない。真由先輩は無事に引っ越しして、順調に大学生活をスタートさせているらしい。住んでいるお洒落なマンションの窓から見える空は、確かにそんなに広くはなかった。
「今日の英語むずくなかった?」
「そう?」
「なんで段落の最初と最後だけじゃダメなの~ってなってた」
「あぁ、そういう。キーワード見つけて抜き出して日本語にするのは結構国語力だから」
苦手な教科はないつもりだ。中でも英語は特に得意な方だった。流石に帰国子女である兄さんほどではないにしろ、私だって結構出来るつもりではいる。あの人はドイツ語の方が得意ではあるけれど、英語の実力は極めて高かった。日本語が一番不得手まである。独語を英語に翻訳してから日本語訳している時もあるくらいだし。
「今度の模試行くっしょ?」
「行かないといけないから。本当は部活に出たいんだけど……。取捨選択して、取り敢えず次のだけ行くつもり。次は夏までカットする」
「桜地センパイはなんか言ってる?」
「結果はちゃんと報告しろってだけ。お金出してもらってるから当然の話だし、むしろ静かな方だよ。他の子の親とか、結構色々言ってくる人もいるみたいだし」
吹部に入っていて、全国大会常連という事を理解していても、親心としては心配な部分もあるんだと思う。部活で推薦を狙うならまだしも、そうじゃないとなると受験をどうするのか、という考えが頭の中をよぎるのは無理ない。一方で生徒は部活のことで頭が満杯だったりするので、そこで喧嘩になるというのは吹奏楽部あるあるだった。
ピカーと車のライトが私たちを照らす。コンビニの駐車場に一台の車が入って来た。見慣れた青いベンツの車体に初心者マークが目立っている。窓が開いて、希美先輩が顔を覗かせてくる。
「お待たせ~。おいしそうな物食べてるねぇ」
「すみません、夜ご飯の前に」
「気にしないで。塾帰りの買い食いは高校生の特権だから、むしろどんどんやらないと」
あの日以来、希美先輩の様子はいつも通りに見える。直接関係のある人が傍にいないのであまり気にしなくて済むからかもしれない。普通に生活している分には逢う事も無いのだろうし。
「おぉ! センパイ免許取れたんですね」
「そうなんだよ。ほら、揚羽ちゃんも乗って乗って」
「感謝です!」
教習所に通っていた希美先輩は、この前免許を取った。免許証の写真はどうしても本人と見比べると違和感がある。みぞれ先輩や夏紀先輩も微妙に違和感があった。優子先輩はまだ教習所に通い中である。私の知っている中で一番運転が上手いのは雫さんだ。次点で兄さん。希美先輩も駐車のやり方とか実際の道の走法とかを叩き込まれているらしい。そのおかげか、狭いスーパーの駐車場に一発で泊められたと喜んでいた。
「ありがとうございました~!」
「はーい、気を付けてね」
園崎呉服店本店の前で揚羽は降りていく。そこからは私と先輩の二人だけだ。助手席が私の指定席になっている。
「今日は先輩なんですね」
「雫さんに「夜も走らないと慣れないですよ」って言われて。まぁ折角だし色々試さないとね~」
ペーパードライバーなのは勿体ないし、と言いながらハンドルを切っている。基本的に顔が良いので何を運転していても映える。軽自動車でも家庭的に見えるし、スポーツカーでもカッコよく見えるので無敵だ。
「スコアはまだ見てないけど、自由曲聴いてみたよ」
「どうでした?」
「確かに演奏したらすっごい楽しそうだよね。どの楽器の担当でも目立たないなぁとか、そういう不満を感じる事ないまま演奏できると思う。めっちゃ難しいけど、自分の出番がちゃんとあるっていうのはやる気にも繋がると思うしね」
確かに部員たちの士気は高かった。自分たちで選んだというのもあると思うけど、出番があるというのは誰だって嬉しいものだ。特に普段目立たない楽器ほど、それを熱望している。
「凛音の癖とかはあるけど、ちゃんと曲の中に変化もあるし。メッセージも高校生だけじゃなくって誰にでも刺さるだろうからね」
「どういうメッセージを感じました?」
希美先輩がまだスコアを見ていないなら、兄さんが書いた文言を知らないはず。そういう人が演奏だけを聴いて何を思うのかは気になる。
「言語化するのは難しいけど、敢えて言うなら……お前はお前のままで輝け! かな」
「なるほど」
比翼連理、の言葉通りかもしれない。流石というべきか、希美先輩は自分のパートナーの事をよく理解していた。勿論高い音楽的な知識や素養からくるものかもしれないけれど、それでも作曲者のメッセージをちゃんと読み取っているのは感服する以外ない。
誰もが主人公になれる曲。自分のままで輝ける曲。それをこの世代が選び取ったということの意味は大きいのかもしれない。夜の街の灯りが車窓に流れていく。私の頭の中では、自由曲のフレーズが鳴り響いていた。