ある意味、この質問が出るのはこれまでの歴史を考えれば当然だったのかもしれない。けれど私たちにとっては想定の埒外から飛んできたものであり、それ故にすぐに回答することが出来なかった。
それが起こったのは、サンライズフェスティバルへの練習がいよいよ本格的にスタートした四月下旬のある日のことだった。去年も色々な事を前倒しにしていた部分はあったけれど、今年はより一層それを強めている。自由曲も課題曲も四月の時点で決定し、楽譜も配られている。初心者はまず楽器の演奏方法を叩き込み、その後はすぐに基礎力トレーニングからのコンクール楽曲練習へ移行。
そんなスケジュールが組んであった。だからこそ、オーディションの話も既にパートリーダー会議の議題に上がり、梨々花さんの断固たる決意の下で三回制度を維持することに決まった。決まったことは発表しないといけない。会議とは話し合って終わりではなく、それを部員に周知徹底するところまでが会議なのだ。
「上級生は分かっていると思いますが、一年生の皆さんもいるので改めて話をしたいと思います。北宇治では、毎年六月に大会メンバーを決めるオーディションを行っています。詳しくは各パートで説明を受けているはずです。大丈夫かな? 寝耳に水って子はいない?」
一年生たちは特段問題無さそうな顔だった。ちゃんと周知徹底するように伝えていたので、各パートリーダーはいずれかのタイミングで話をしてくれたのだろう。梨々花さんはそれを確認して頷き、話を続けた。
「それでですが、今後勝ち上がっていく場合、今年も各大会前にオーディションを行います。関西大会前は夏合宿中、全国大会前は文化祭の後頃です。各回でメンバーを選出するため、ソロパートなど含め当落が変わる可能性があります。毎回のコンクールにベストメンバーで挑めるようにするためです。この制度は去年から始まったものですが、今年も継続することにしました。ですので油断しないように、また希望を捨てないように頑張ってください!」
「「「はい!」」」
上級生の反応はまちまちだ。去年はそれ関連で本当に色々あった。その色々の一端が自分であるのは当然理解しているし、これに関してはもう少し上手く立ち回れたようにも思う。とは言え、多くが痛みを背負ったあの一連の出来事をきっかけに、北宇治はまた一つ階段を昇ることが出来たようにも思っていた。肯定したくはないけれど、何か一つくらいは良いことがあったと思わないとやってられないというのもある。
「なにか、質問はあるかな?」
「はい」
「どうぞ」
「失礼いたします。どの楽器が何人採用されるのか、などは最初に公表されるのでしょうか?」
「いえ、それも含めて審査されます。先生自身も、審査を終えるまで決定はしていないと思います。必要だと思われたらどこかが増員し、どこかが削られる。そういう感じです」
「得心いたしました。ありがとうございます」
中小路さんの質問は結構大事な話だ。聖女はもしかしたら最初に枠が決まっていたのかもしれない。そういう指導方法もアリだとは思う。ただ、そうすると柔軟な対応が出来なくなることもある。なので、北宇治では審査をして音量や音質などのバランスを鑑みたうえで最終決定がされていた。
枠が決まっていない、というのは結構大事な情報なのだ。それを質問してくれたことはありがたい。なにせ、後輩からすれば最初に枠が定まっていると、予想が始まってしまう。そこに自分が入ってないと分かると、努力を続けるモチベーションも減ってしまうだろう。そういう予想や予防線を防ぐためにも、枠が決まっていないという情報は大事なのだ。良い質問をしてくれた。そこは後でしっかり褒めたい。
「他になにか質問はあるかな?」
「あの……」
遠慮がちに手を挙げたのは後輩ではなく、同期の平沼さんだった。なにか今更聞きたいことがあるのかと思ってしまう。もう去年ので知っているはずだからだ。
「いや、こんな事言ったらダメなのかもしれないけど……」
「いいよ、言ってみて。言うだけならタダだしさ」
「うん……。滝先生に、任せっきりでいいのかなって……」
その言葉に音楽室が小さくざわめいた。オーディションをやるというのは吹奏楽部の部員経験者なら全員分かっているし、必要性も理解している。だからやらないという選択肢はない。そのせいか、審査員を顧問が勤めるということも半ば当然のように扱われていた。そこに疑義が飛んできたのは初めてかもしれない。麗奈先輩がいたら激怒していたことだろう。
ざわめきで満ちる音楽室の中で、梨々花さんも唖然とした顔をしていた。けれどすぐに表情を戻し、パンパンと手を叩く。
「どうしてそう思ったのか、教えてくれる?」
「なんていうか……去年のこと、あったじゃん。一年の子には何が何だかって感じだと思うけど、二三年生はちゃんと考えないといけないでしょ。先生がちゃんと選んでたら、ユーフォであんな事には……」
真由先輩と久美子先輩の公開オーディションの結果自体には部員の多くが納得している。というか、せざるを得なかった。敗者である久美子先輩が堂々と勝者を称える姿をみて、それ以上の感情を口にできる者はいない。トランペットに関して触れられていないのは、あれは二人+兄さんで完結していた世界の話だったからだろう。ただ、ユーフォはそうではない。
「副部長はそう思わないの?」
「ドラムメジャーだって抗議してたよね?」
深町さんや他の三年生からもちょくちょく声が聞こえる。去年が産んだ分断は部員同士のものだけではなかった。久美子先輩の努力により埋まったのを見て安心してしまっていた。けれど分断はそこだけではなく、顧問と部員の間にも広まっていたのだ。
「自由曲だって私たちで決めたんだよ。だったら、メンバーだって……。難しいかもしれないけど、方法はあるはずじゃん。やってる学校もあるんだし!」
平沼さんは力強く力説する。自由曲をみんなで決めよう。これは良い決定だったと思っているし、間違いとも思わない。自分たちで選び取った曲ということで、そこに関するモチベーションは極めて高いからだ。兄さんの曲という事もあり、恩返しを企図する部員もいる。結果的にこれは現状大正解だった。
ただ、それによる悪しき副次的効果もあったという事なのだろう。あれにより自信をつけたのだ。曲を選べるなら、オーディションだって……という自信を。
「えっと……」
梨々花さんは言葉に詰まっている。これまでの歴史、特に去年の帰結を見ればこういう意見が出るのは必然だったのかもしれない。私の想像力が及ばなかった不明を恥じる。金賞獲って万々歳、では済まない傷が色々なところで燻っていたのを見逃していたのだから。かといって、私もどう返すべきかすぐには思いつかない。
「あの~すみませーん」
どう返答するべきか逡巡する梨々花さんに対し、間延びした声で鈴谷さんが手を挙げた。
「よく分かんないんですけど、揉めるんなら別のところでやった方が良くないですかぁ?」
「一年は知らないと思うけど、去年――」
「いや、知らないものは知らないですよ。それは一年と関係あります? ナチュラルに蚊帳の外なの、普通に居心地悪いんで別のとこでやってくださいよ」
バッサリ切り捨てられた言葉は、確かに真実ではあった。一年生の子たちは去年の顛末を知らない。何がどうなっているのか、先輩は何を考えて話をしているのか、それすらも分からない空間にいるのは居心地が悪いと形容されても仕方ないと思う。
「知らないなら黙ってればいいのに」
「は? 言う権利くらいあるでしょ」
仲の悪い久世さんが突っかかって、鈴谷さんは応戦し、揉めそうになっている。私はため息交じりにカツン、と踵を鳴らした。途端に鈴谷さんと久世さんは前を向いて静かになる。その隙に私は梨々花さんに合図した。
「そうだね、一年生の皆は何の話か分からないと思います。ちょっとすぐには説明できない話なので、今日は一回この話は終わりにします。ただ、オーディションの日程だけは変わらないのでそこは忘れないでください。この後臨時でパートリーダー会議をします。詩織ちゃんも来てください」
「わ、私も?」
「自分で口にしたことはちゃんと責任を持たないと」
奏さんの言葉に、平沼さんは小さく頷いた。
「一年生は新入生指導係中心に行進練習をしてください。二三年生は自分の練習をしつつ、その補佐をお願いね。二年生は釜屋さんが指揮してあげて」
「了解でーす」
「三年生は……」
「求君にお願いしては?」
「だね。月永君、全体の方と合わせてお願いして良いかな。ごめんね。何かあったらすぐに教えて」
「分かった」
「じゃあ、一回解散します。各自、言った通りに行動してください」
「「「はい!」」」
名前呼びを求める月永君ではあるが、こういう場では名字でも許してくれる。兄さんが説得したらしい。ともあれ、何とか場は一時的に鎮めることが出来た。義井さんと三木さんを会議に引っ張ってしまう都合上、二年生のまとめ役は釜屋さんに任せるほかない。将来的な幹部候補だし、そつなくこなしてくれるはずだ。一年生も鈴木さんと釜屋さんで上手くまとめてくれることを期待している。
三年生も中心人物がいなくなった場合の指揮を任せられる人間が少ない。まぁそれが普通ではあるのだが。マーチングに関しては川島先輩直伝の技術を持っており、ああ見えて意外と面倒見も悪くない月永君に任せておくのが安全だった。奏さん自身が認めないだろうけれど、結構信頼はしているようだし。なんだかんだ三年間やってる同期の関係性は深いのだ。だから推挙したのだろう。
ゾロゾロと部員たちが移動していく。これから各所で行進の練習などを行う。真由先輩直伝の清良式練習メソッドはちゃんと残してある。こういう時に大助かりだった。月永君と釜屋さんならその辺を上手くやってくれるだろう。同じパート同士でもあるのだし。
それより問題はこちら側だった。
パートリーダー会議用の教室は重苦しい雰囲気に包まれている。私たちが雁首揃えて全く考えもしなかった議論が出てきたのだから無理もない。かくいう私も、昔なら気付いただろうにと嘆息している。ここにいるメンバーの多くがオーディションに受かってきた経験が多い。だからこそあまり審査過程に注目していなかったのだろう。或いは、北宇治に入ってからオーディションは先生の仕事という認識があったのか。
「じゃあ……どうしよっか」
梨々花さんが困り顔で話を始めた。座っているメンバーはそれぞれの表情を浮かべつつも、すぐには言葉を出せないように見える。それを見て奏さんが助け船を出した。
「取り敢えず、もう一回ちゃんと説明して貰ったら?」
「そうだね、じゃあお願い」
「え、私が……? 分かったけど……」
意見だけ言って後は任せた、というわけにはいかないのが三年生というものだ。最高学年として部を統括する責任は各個人にも存在している。意見を言うのは自由だけれど、言ったからにはちゃんとその主張を続けてもらわないと困る。発言には責任が伴うものだ。特に、ああいう全体の場で言ったのだとすれば。
「滝先生を馬鹿にしてるとかじゃなくて、でもなんかほら去年の事とかあったから、それでいいのかなって」
「あれはもうみんなで納得したんじゃないのか」
北山君の厳しい声音が響く。同じクラリネットパートなのに何の相談もなく、という想いが彼の中にあるだろうというのは察せられた。
「違うよ、そっちじゃない。夏休みの話じゃなくて、公開オーディションの方。あれって結局久美子先輩のおかげでどうにかなったけど、そうじゃなかったらとんでもないことになってた可能性だってあるじゃん。ドラムメジャーだってそう思うでしょ!? だから、あの時松本先生に食って掛かってたんじゃん!」
「……えぇ、まぁ、可能性の話でよいのなら危惧していたのは事実です」
選ばれる側の痛みが不本意な結果に終わる時の痛みなら、選ぶ側の痛みはどんな難しい判断でも決断しないといけない時の痛み。そうやってお互いに苦しみ痛みを抱えながら、それでも未来のために行う。それが、オーディションという制度だと私は思っていた。
あの時、真由先輩の方に投票してくれた部員が思ったより多かったのは、嬉しい誤算だった。勿論久美子先輩がダメというわけではなく、ちゃんと自分の意思や基準に従ってくれる部員が多かったことに安堵した。とは言えそれはあくまでも結果論。半数は久美子先輩に入れ、そして最終的に真由先輩が選ばれたときも拍手ではなく困惑が最初に満ちた。
それを久美子先輩が打破したけれど、これは彼女の人間性に救われたに過ぎない。奏さんの目が揺れている。あの時の彼女の慟哭は、きっといつの日か兄さんが聞いたという優子先輩のそれと同じものなのだろう。私の耳に静かに残り続けているあの声を繰り返したくはなかった。
「全員が全員賛成してくれないのなんてわかってる。でも、当落線上にいるような子はみんな多少は不安なんだよ。先生はちゃんと選んでくれるのかって。桜地先輩がいたならちゃんと選んでくれたのにって」
「あの時は久美子部長が選ばれても黒江先輩が選ばれても、先生だけの判断じゃ絶対いい方向に向かわないのが分かってからああしたんだろ。今回はそうじゃない」
「そんなの分かんないじゃん。あれが初めてじゃないって、知ってるでしょ!」
北山君はそれを言われて答えに窮した。一回目だったらまだよかったかもしれない。ただ、あの公開オーディションは二回目だった。秋子先輩もそれで怒っていたし。一度あることは二度ある。二度あることは……三度ある。
「何人も思ってる人、いるから。今回はたまたま私が質問しただけで、さ」
「まぁ言いたいことは分かるかも」
葉加瀬さんは同意しながらぼやくように言う。ソロどころかメンバーからも落とされた身としては思うところは大きいはずだ。
「自分があんなことになったら普通に病みそうだし」
「黒江先輩と久美子部長のメンタルが強くてよかったけどねぇ」
葉加瀬さんと屋敷さんの言葉には同意せざるを得ない部分もある。次にあれを繰り返されてはたまったものじゃない。今年は幹部三人、全員担当楽器にソロがある。後輩に優秀な奏者がいる都合上、万が一の可能性は考えないといけない。それに他のパートだって、先輩と後輩で再オーディションというのは避けたいだろう。
「一回落ち着こう。詩織ちゃんたちは、去年の公開オーディションみたいなことになるくらいなら、先生より自分たちでメンバーを選んだ方が良いんじゃないかって主張だよね?」
「そうだよ」
「分かった。まずは言ってくれてありがとう。後で言われるよりも今言ってくれた方がこうやって話し合えるからね」
一回場を収集させ、梨々花さんは平沼さんにお礼を言う。確かに後出しで言われるよりはまだこの段階の方がいいのは事実だ。
「その上で、ドラムメジャーの見解も知りたいな。仮に詩織ちゃんのアイデア通りにやったとして、方法はともかく演奏とかコンクールを目指すのに支障はあるかな?」
「あります」
「具体的には?」
「全ての部員が全体のバランスなどを基準に選べません。この基準を理解しているのは全体の指揮をしたことのある人、つまりは先生や私、三木さんくらいなものでしょう。二三年生はまだしも一年生や初心者にそれを求めるのは酷です。パート内で上手い順に選べばいいというものでもありません。他の奏者との相性、全体の音量や音質。そういう様々な要素を勘案し、より良い演奏を作るためのプレイヤーをパズルのように組み合わせるのがオーディションの役割です。ただの上手い人選抜ではダメです。これが一番大きな理由です」
「なるほどね。美乃ちゃんは何か付け足すことはある?」
「大体は涼音先輩が仰ってくれましたが、敢えて言うのならさっき中小路さんの質問にあった人数の枠に触れてしまうかなと。人数の枠が決まっているというのは、緊張感の低下や誰がメンバーに入るのかの予想大会となってしまい、モチベーションの維持が難しくなる危険性を孕んでいます」
良い補足だった。三木さんの言ってくれたことと私の発言が反対する理由になる。北山君もそうだ、と言わんばかりに腕を組みながら頷いていた。
「ドラムメジャー二人は反対、って考えて良いかな?」
「はい」
「少なくもと現状の案の状態では、反対に回らざるをえません」
明確な反対意見が幹部から出てきたことで、場の空気は反対論に傾き始めていた。
「滝先生はこれまでの実績がきちんとあって、全体の構成を考えられる先生だ。去年だって、結果的に金賞を獲れた。黒江先輩じゃなくて久美子部長だったら金じゃなかったのかは分からないけど、ソロだけが全てじゃないだろ。大事なのは全体のバランスだと思う」
「音楽的な素養というか、教育を受けてきた知識と経験じゃ、どう頑張っても私たちでは勝てないから……。その判断を全部支持するとは言わないにしても、私たちには荷が重いと思う」
北山君の意見に付け足すように鈴木さんが言った。彼女は滝先生を崇拝しているわけではない。かなり冷静に物事を見ている。その上で知識と経験の部分から反対意見を述べた。これは実際正しい。音大で受けた教育や理論、これまで数年分の経験は私たちには無いものだ。
ただ、やはりこれで納得させられるかは難しいかもしれない。結局のところ「去年の公開オーディションは手放しで賞賛していいものではないはずだ」という感情に基づいて意見が出ている以上、感情の部分と理性の部分の交わらない戦いになってしまう。
「妥協案を出せるとしたら、ソロ・ソリの奏者はブラインド式かつパート内の対象者全員を選考対象とする形での公開オーディションでしょうか。これくらいなら、妥協ラインとして提供できます。まぁこの場合、ソロオーディションの方を先に行う形にはなりますが」
去年の例で言えば、久美子先輩・真由先輩・奏さん・針谷さんでソリのオーディションを行い、その上で誰か一人を選ぶ。そしてその人+何人かを先生が選ぶという形式にする、ということだ。ここまでなら妥協しても構わない。上手い人が選ばれるのは必定だからだ。
「それは……初心者の子も対象にしても良いんですか?」
「省くわけにもいきません」
「でも、去年は秋だったからみんな結構耳も育ってましたけど、六月時点ではまだ……。平等ですけど、判断基準に採用して大丈夫ですか?」
三木さんの質問は耳が痛い部分だ。平等性と実力主義の担保を同時並行は中々難しい。民主主義を実施するのであれば平等でないといけない。でも、それでどこまで上手く行くのかは未知数に過ぎる。知識も技術もまだまだの状態の部員と実力者の一票が同じ重さでは不満が出る可能性もある。
「そこで妥協して良い演奏になるのかな。それに、去年みたいに上手く行くか分からないよ? たまたま久美子先輩と真由先輩で半々になっただけで、そうならない可能性も全然あった。忖度が一切無いって、信じられるかな。実力主義でいたいなら、明確な基準は欲しいよ」
さやかさんが厳しい事を言う。トランペットパートはガチガチの実力主義社会なので、そこの出身らしい言葉だった。
「難しいのは分かってるの。でもせめて、滝先生と松本先生だけじゃなくて、ちゃんと選んでくれる桜地先輩を呼ぶとか――」
「あの!」
平沼さんの言葉には続きがありそうだったのを、私は無理に遮った。
「私の兄さんを便利なポケモンか何かだと思っていませんか? 最大三回も戻って来いって言うんですか? 私たちの都合に合わせて? 兄さんだって仕事があって、家庭があるんです。この部のための便利な装置じゃないんですよ。無償で来てもらって、その上であれもこれもなんて。そんなことになったら、お金を払っている秀塔大附属の方がよほど誠実じゃないですか」
兄さんを信頼している生徒が多いのは理解しているし、それは兄さんの行いの結果によるもので、家族として嬉しい部分はある。去年の公開オーディションでしっかりと弟子二人の決着を選び取ったことで信頼があるのも理解している。
ただ、それが行き過ぎて逆に恩恵を当たり前のことのように考えている部員がいるのも事実だと思っていた。今までは見て見ぬふりをしていたけれど、こうして表面化してしまうと口を出さずにはいられない。
「去年だって、無理を言って戻ってきてもらったんです。そもそも、どうして戻って来てくれたか理解していますか? 平沼さんだけではなく全員ですよ、この場にいる全員。私が呼んだからであり、麗奈先輩と秋子先輩の事だったからです。オーディションのたびに戻ってきてほしいなんて、彼女である希美先輩ですらしてない事を平気でしようとしないでください」
帰ってきてほしいなぁと思っているのは希美先輩のはずだ。でもあまり言葉にしないで日々を過ごしている。兄さんが戻って来るのを一日千秋で待っているのはよく知っていた。一番会いたいであろう希美先輩がそんな感じなのに、どうしてただの後輩であるこの部がそんな厚かましいお願いが出来るのか。
秋子先輩と麗奈先輩は特別なのだ。あの二人は兄さんと特別な絆がある。秋子先輩は兄さんが能動的に音大へ誘った唯一の存在であり、麗奈先輩は兄さんが自分の打倒を託した存在だ。それと比べて勝っている者は、今の北宇治にいない。
「ご、ごめん」
「分かって頂ければいいんです。私の兄さんは皆さんの道具じゃないですから。金賞請負人とかふざけたことを大真面目に言ってる人、全員反省してください」
「ドラムメジャーの言う通りだし、そもそもこれくらい自分たちで解決できないと、来年以降に差しさわりが出る。来年来てくれるかなんて分からないわけだし」
奏さんがフォローを入れてくれる。家族の話は私にとってあまり粗雑に扱って欲しくない話題である。その辺を奏さんは理解してくれているのだろう。両親亡き私の学費などを兄さんが出していることは、同期なら大体知っている話だし。
「これまで出た案としては、今まで通りに滝先生と松本先生に任せる、完全に全部自分たちで選ぶ、ソロとかソリだけは先に選んでそこから先生たちに任せる。この三つだね? 正直、これは今日今すぐに結論が出せるモノでもないと思う。一回先生とも話し合わないといけないから。サンフェスの練習の時間も削りたくないし、今日は一回解散して、また次話し合おう。それでいいかな?」
「「「はい」」」
「美乃ちゃんは二年生、サリーちゃんは一年生に聞き取りをしてみて。三年は私と副部長でやってみます。ドラムメジャーは引き続きサンフェスの準備で」
「「「はい」」」
「じゃあ、お疲れ様でした」
「「「お疲れ様でした!」」」
このまま議論をしていても煮詰まったままだろう。これで一度空気のリセットと部内の考えの調査をしたいという梨々花さんの思惑は理解できた。代表者だけでは分からない空気感もある。
「さっきはありがとう」
「あぁ、気にしないで。家族が大事なのはわかるし……流石にあれは無いと思うから」
奏さんは疲れた顔で返事をする。兄さんはかなりフレンドリーに接している。指導は厳しいけれど、理不尽な事は言わないし親しみやすく接していたからこそ距離が近い後輩も多い。それは構わないけれど、距離の近さは何でもしていい事と同義じゃない。そこをはき違えている人もいるようだ。
親しき中にも礼儀ありという。演奏云々以前にそこを何とかしたい。世界一の奏者に対する尊敬とか、そういうものが見えてこない。他者の時間を使わせることに無頓着になってもらっては困る。
「これ、滝先生にどう相談したらいいの~」
梨々花さんは困り顔で嘆いた。確かに相談はしにくい話題だ。しかし報告しないわけにもいかない。廊下の窓から覗けば、中庭で行進の練習をする下級生の姿が見えた。月永君がちゃんと音頭をとっている。彼はこういう時に頼れる存在になってくれた。川島先輩との出会いや奏さんの存在が彼の心を色々な方面から溶かしたのだろう。
「失礼します……」
意を決したように職員室の戸を叩き、梨々花さんは入室した。私たちも後に続く。
「おや、三人とも丁度いいところへ来てくれました」
「何かあったんですか?」
「楽器についてですが、目途が立ちました。チェレスタは秀塔大附属が、コーラングレは立華がそれぞれ在庫を一年間貸し出ししてくれるようです。今年一年使用する予定はないから、壊した場合の修理はこちら持ちという約束です。担当の部員には借りものであることを周知徹底し、より一層丁寧に使用管理するように伝えてください」
「「「はい」」」
ライバル校が貸してくれたのは大変ありがたいことだった。立華とは近所なので交流が続いているし、秀塔とは兄さんの縁で繋がっている。これで壊したりした日にはとんでもないことになるので、絶対に安全第一だ。
「それで、何か用でしたか?」
「あの……その、何と言えばいいのか……」
梨々花さんが言葉に窮している。どういう風に伝えればいいのか、という表情だ。このまま部長に任せても角が立つ可能性がある。厳しい事を言うのは私の担当だ。
「先ほど、オーディションの時期に関する説明をしたところ、質問が出ました。今年は部員でオーディションを行えないか、という趣旨のものです。パートリーダー会議で話し合いましたが、結論はまだ出ていません。何故こうなったのかは……」
私はそう言いながら先生に視線を向けた。言いたいことは、これで伝わるだろうから。