四月二十五日水曜日
練習についてこれない子が出ないようにしたい。でも、個人差はあるから、もしそうなっちゃったらついて行けるように助けてあげたいな。今年の自由曲は去年より攻めてるし、だからこそサンフェスは楽しんで欲しい!
(梨々花)
コメント
今のところは計画通りに進んでいます(涼音)
そういうことじゃないんだよなぁ(奏)
どういうことですか。楽しむためには練習だって大事でしょうに。落伍者が出ないように気を遣っているつもりです(涼音)
まぁ、怒鳴っていないのは良いかもしれないですね(奏)
怒鳴ると疲れますし意味ないので(涼音)
涼音ちゃん、高坂先輩なら多少あけすけに言っても許されると思ってない??(梨々花)
先生に関する信頼があるのと無いのとでは大きく違う。麗奈先輩みたいになれとは言わないけれど、信頼されていない顧問の下では部が上手く回らない事もある。音楽的な部分に関しての信頼が無いというのは、全国大会を目指すうえでは致命的な問題になりかねない。
一方で先生を信頼している部員もいる。この分断を早々に解決しないことには今後が危うい。それに一年生も何があったのか蚊帳の外であることに不信感を抱きかねない。梨々花さんの方針が多くを巻き込んで部を運営していくというものであるのは既に周知の事実だ。であれば、こういう時に結局置いてけぼりにされてしまうのね、と一年生が判断してしまうと幹部陣の信頼まで消える。
きわめて大きい岐路に我々は立たされていた。今はまだサンライズフェスティバルの練習ということで誤魔化せる。この時期はまだ時間稼ぎが可能だ。ただ、それも長くはもたない。ゴールデンウィークに本番を迎え、それが終わればもう大会への練習だ。否応なしにオーディションに視線が向き始める。三年生は修学旅行もある。安心して迎えたいのが本音だ。
「部員だけでオーディション、そうですか……」
先生の言葉からは、どういう感情をしているのかを読み取るのは難しかった。
「全員が全員そうってわけじゃないんです。むしろ、反対意見の方が多くって。でもそういう声が一定数存在しているのは事実としてあって……。どの程度の規模なのかはこれから調べますけど、少なくとも数人以上はいるんじゃないかと」
梨々花さんがフォローするように言葉を紡ぐ。奏さんは何も言わない。去年、久美子先輩をあの壇上に立たせた張本人に対し含むところがあるのは当然だ。あの方が部がまとまるとか、色々ともっともらしい理由は言えるだろう。それでもそれは心の中にある想いまでは変えられない。
「昨年の公開オーディションの事が皆さんの念頭にあるのでしょうね」
「はい」
私は先生の言葉にハッキリと肯定で以て返答した。ここで誤魔化しても何も良いことが無いからだ。先生の言葉は少しの間出てこなかった。
「去年の秋子先輩が言った言葉、覚えていらっしゃいますか」
「えぇ、もちろんです」
「それが全てだと思います。あの時の秋子先輩が抱いた感情を、大なり小なり感じている生徒がいる。今の状況はそういう事ではないかと」
あの時、秋子先輩は言った。「一人目を選べなかった人に、二人目も選べるわけがない」と。痛々しいほどの諦観と失望がそこにはあった。最終的に彼女の悲願は叶えられ、兄さんの手により二人の三年間の軌跡は終着駅にたどり着いたわけだけれど、それはあくまでも結果論にすぎない。あの時の秋子先輩の感情を無かったことには出来ないのだ。
言わないだけで、麗奈先輩も想うところは確実にあったはずだ。想い人のダメな部分も直視してこそとは思うけれど、麗奈先輩の恋愛はなんだか少女漫画的というか変なところでメルヘンチックで潔癖症なので仕方ないかもしれない。
それはともかく、過去は消えずに清算を求めている。
「私は先生にお任せするべきと考えています。全体のバランスを見ることが出来て、指揮と指導をメインで担当し、音楽的な専門教育による知識とこれまでの経験を持っている存在は先生だからです。ドラムメジャーは私も三木さんも同じ意見ではあります。ですが、その場合三人目は選んでもらわないといけません。何があろうとも、絶対に」
私たちは伝聞でしか知らない、最初の公開オーディション。当時の三年生は自ら断頭台の刃を下ろして麗奈先輩に全てを託した。多くが選ぶことすらできない空間の中で、優子先輩の慟哭が響き渡っていたと聞いている。そして去年、その再演がなされた。同じ悲劇はもう起こしたくない。ああいう形での公開オーディションは封印したかった。最初の時に痛みを背負った兄さんの苦しみに報いるためにも。
「まぁそれもあるんですけど、去年の諸々って基準が曖昧だったこともあると思います。練習の際にはどういう方向性を意識するべきなのか、選考基準として考えられるものなどの説明が多少あるだけで、結果に納得感が生まれるのではないかと。今年は人数が多いですから、余計に先生側からもアプローチして頂かないと、上手く行かない可能性もあります」
奏さんが淡々と言った。要するに我々が求めているのはどれだけ判断の難しい状況であろうともちゃんと選ぶこと、そして選考の基準をフラフラしていないで明確にすることだ。後者に関しては練習の段階で目指す方向性や演奏の指示の意図などを話すだけで解決する。落ちた後のフォローや足りないところの改善指導などは私も出来る。南中時代にはやっていたので、昔取った杵柄という事になる。
「昨年、私の至らなさが原因で皆さんに迷惑をかけてしまいました。久石さんと桜地さんの言ってくれたことはいずれも正しいと思います。私は、あの場で選ぶべきでした。例え石を投げられようとも、選ばなくてはいけなかった。最後の最後にそこから逃げた私に、皆さんを審査する資格は本質的に無いのかもしれません。桜地君からも、一言言われてしまいました」
「なんと?」
「教師が逃げるな、と」
兄さんの言葉は大分鋭利だった。とは言え、トランペット組はまだしもユーフォの顛末に関してはかなり複雑そうな顔をしていた。麗奈先輩の成長のきっかけにはなったし、真由先輩の心の中にあった苦しみも少し和らいだと思う。ただ、そもそも公開オーディションをすること自体に賛同はしていなかっただろう。
「桜地君の言う通り、いかに言葉を並べようと逃げたと言われてしまっては反論が難しい。吉沢さんや高坂さんにも、苦しい思いをさせてしまいました。それに、黒江さんの立場を思えば、他にもやりようはいくらでもあったように今ならば思います」
真由先輩が報われたのは、ひとえに部員の善性と久美子先輩の力だ。そんな不確実性の高いものに頼るべきではないと思っている。とは言え、先生もずっと悩んで苦しんでいたのかもしれない。語っている時の顔は普段生徒に見せる顔とは全く違った、憔悴すら感じる表情だったからだ。先生なりの成功体験や信頼に基づいての行為だったのだろう。悪意からではないはずだ。
それは正しさの証明になどならないけれど、何も感じていないよりはずっとマシだ。人が過ちを犯しながら進む存在なのだとすれば、次はきっと正しい道を選べるだろうから。あの判断を正しいとは言えない。それでも先生を嫌いになれないのは、こういう部分があるからなのかもしれない。
「ですから、皆さんが私の審査は信用ならない、自分たちで選ばせて欲しいと言うのならば……拒む言葉を持ちません。無論今年も任せて頂けるというのなら、きちんと皆さんの目標が達成されるように審査を行いますが」
「信じて良いんですね?」
「はい」
梨々花さんの問いに、先生は頷いた。奏さんは小さくため息を吐き、そして頷いた。二人の視線が私に向けられる。音楽的な判断を担うのは私の担当だ。最終的に幹部としての意見をどうするのかは私に委ねられていた。部員で選ぶなら、私の指導は一層重要性を増す。それに、去年公開オーディションに対し一番抗議したのは私だ。だからこそ、二人は私にどうするのかを問うている。
「……言葉では何とでも言えてしまいます。ですから行動でも示してください。先生が腹を括って挑むなら、私はそれについていく所存です。そうしてくださるのであれば、少なくとも私は幹部として例年通り先生にオーディションの審査をお願いしたいと思います」
「全体としても、今のところはこの意見が主流なんです。多少妥協することになるかもしれないですけど、基本は例年通りにするように幹部としては持って行きます。先生もその方向でお願いします」
梨々花さんが告げる。これはある意味、もう一度繋ぎなおすための作業だ。先生と部員の間に出来た心の断絶を修復しようとしている。先生が選ぶ、という約束の不履行を行ったのは向こうだ。だからこそ、これは幹部である私たちからの最後の歩み寄りだ。信頼関係は、お互いに歩み寄らないと作れない。だから、今回は歩み寄る。でも次はない。それは梨々花さんも奏さんも私も同じ気持ちでいる。
「分かりました。私にもう一度与えられた最後の機会であると思っています。皆さんの信頼に応えられるように全力を尽くしましょう。今年の自由曲の『音を愛す君へ』、この曲には……奏者である皆さんだけではなく指導者である私も多くの問を投げかけられているように感じました。皆さんと作り上げろ、というメッセージも感じます。独りよがりになるのではなく、双方向のコミュニケーションを行えと。良い音楽を、北宇治として後悔の無い音楽を作れるように協力をよろしくお願いします」
先生はそういうと、深く頭を下げた。私たちもそれに返すように深く頭を下げる。まずはここからだ。幹部と先生のこれまでややぎこちなかった関係性を回復させる。神格化でも、逆に軽視でもなく、新しい信頼関係を積み重ねていくのだ。未来のためにも、私たち自身のためにも。
オーディション関連でざわめきが起きている中であろうと、時間は過ぎるのを待ってくれない。パレードの練習に妥協は出来なかった。皆でやるイベントというのは貴重な機会であるし、北宇治のお披露目をし、日ごろから応援してくれている保護者や近隣の人に対して成果を見せる場でもある。今年の北宇治はどういう具合なのかを気にしてくれている人への報告は欠かせなかった。
かつては惰性と楽しむためだけで参加していたイベントも、今や大事な意味を持ち始めている。ある意味、伝統が正しい意味で機能を果たしていた。
「歩き方に注意してください。観客が見た時、パレードから入ってくる情報は視覚情報の方が大きいです。音よりも動きの方が目立ちます。まずは動きをしっかり固める。綺麗に歩けると上半身がブレません。これにより怪我の減少や体力の温存、音の安定、見た目の良さなど恩恵が得られます」
「「「はい!」」」
言っていることは去年真由先輩から教わったことをそのまま転写しているに過ぎない。私は別にマーチングの専門家ではないので、この辺りは経験者だった真由先輩の言葉が大きく役立っている。なにせ清良はマーチングでも全国に進んでいるのだから、その知見は非常に有効だった。
「動きが固まるまで楽器は持ちません。まずは動き、次に楽器を持って、最後に演奏しながら。段階を踏んでいきます。まずは今自分が何をするべきなのか、意識してください」
「「「はい!」」」
「では、始めます」
ホイッスルを咥え、音を鳴らす。ピ、ピ、ピ、という規則正しいリズムに合わせて部員たちが行進を始めた。五メートルで八歩、一歩で六十二・五センチ。この歩幅をまずは頭に叩き込まないといけない。
ペットボトルを使って歩幅を練習させる方法は既に各パートで行ってもらっていた。去年フルートの後輩たちに行った練習だったけれど、結構効果を発揮しているように思う。それに既存の部員は数か月前に沖縄での演奏に向けて練習したばかりだ。それも相まって、例年よりは楽な状態で始められた。
だが、その分一年生がちゃんとついてきているのかを確認しないといけない。練習を統一することでパート間で差が出るのは防いだものの、個人差はある。体力であったり、いわゆる運動神経であったり様々だ。座奏メインと聞いていたので……という部員もいないわけではない。それでも出る以上は真剣にやってもらわないといけないのだ。
「サックス神谷さん、歩幅がずれています。今のうちに周囲と比較しながら調整してください」
「はい!」
「ホルンの遊佐さん、列からはみ出ています。横よりも縦の方が確認は容易でしょうから、気付いた段階で修正してください」
「はい!」
「マーチングは中々急に止まれません。立華のやっている大会のように激しい動きではありませんが、それでも安全第一で――全体停止!」
私の声に全体の動きが止まる。停止と言われたらちゃんと止まるようにと指示していた。ここで止まれないと怪我に繋がる。
「トロンボーンの下田さん。顔色悪いですが、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です……」
「……一回休憩としましょう。今日は日差しも強いです。全員、しっかり水分補給と日陰で休養してください」
「「「はい!」」」
京都の夏は暑い。まだ四月なのだが、日差しは既に段々と夏の様相を帯びてきていた。地球温暖化これに極まれりという感じだが、それは練習にとっては悪影響。あまり顔色の良くない部員を無理に練習させたくはない。
一年生は限界でも中々言い出せないものだ。であるからこそ、先んじて先輩側が気付きフォローするのが正しいと思う。熱中症は怖い病気だ。最悪死に至るし、そこまでいかずとも耳などに障害が残る可能性もある。部員を守るのも幹部の務めだ。休憩を指示し、各員がしっかりテントの下なので休んでいるのを確認しつつ、私は月永君のところへ向かった。
「どうですか?」
「大丈夫だと思う」
「ありがとうございます」
彼は今年も旗係になっている。かつて川島先輩が行っていた旗係のリーダーを務めていた。淡白ではあるが指導はちゃんとしてくれるということで、後輩からの人気は高い。育ちの良さと、クールな感じと端麗な容姿が相まって、一年生からは滝先生とは別ベクトルの黄色い声が出ることもあった。
「しっかり撮れていますね」
「これ、意味あるのか?」
「意味はありますよ。自分の視界から見えている情報は少ないです。動きを注意されたタイミングを客観的に見るとどういう風に見えていたのか。これを第三者視点で認識することで、意識を深めることが出来ます。人間、意識して動くのと意識しないで動くのでは効率に差が出ますので」
ビデオカメラで撮影された行進を見ると、注意されたタイミングでどういう風に自分がずれているのか、これを理解できる。幾ら言葉で言ったとしても分からない事もあるのだ。百聞は一見に如かず、とも言うし見ることで分かることもあるだろう。様々な角度からアプローチをして効率化を図りたかった。
「そちらの方はどうですか?」
「特には問題ない」
「順調に進んでいるのなら何よりです。では、パートの方は?」
「そっちも特には。今のところ問題は起きてない」
「そうですか。まぁ、低音パートは少人数ですので上手く回していけるかなと思いますが。ただ、縦の繋がりだけではなく横のつながりも大事にしてあげてください。数年後、彼らが最高学年になった時、三人で連携してパートを運営して行かないといけないですから」
「そういうのは久石の領域だろ」
「彼女も忙しいですから。今は意識調査に走り回っていますし」
同期の中でオーディションの審査についてどう思っているのか。これを調査する仕事をしていた。個別に話を聞かないといけない都合上、学年全体に顔が広い彼女が適任だった。多分彼女のことだから、先生への不信感を減らせるように説得などを試みているのだろう。私情はどうであれ、愛した先輩の遺したモノを守りたいという願いは本物だ。
「色々あるんですよ、あなたには見せないかもしれませんけど。折角同じパートの仲間なんですから、もう少しだけ見てあげてください」
「まぁ、そう言うなら……」
どうして私がそんな事を? というような表情を浮かべながらも月永君は一応頷いてくれた。どうして、という問いに一言で回答するのは難しい。ただ思うのだ。三年生、特に幹部というものは中々心の中や弱さを外に出せない。久美子先輩もそうだし、きっと優子先輩もそうなのだろう。梨々花さんや奏さんにだって、心の中に抱えている色んな重たさがあるはずだ。
それを外に出せる存在とは、自分が自分のままでいられる存在のことだと思っている。その点彼は割と適任ではないだろうか、というのが私の思惑だった。兄さんと優子先輩のような男女の友情という感じではないけれど、やいのやいのとやっている間は自然体に見えるのだ。
向こうで低音の一年生が釜屋さんたちと話している。低音の二年生三人は幼馴染同士で空気感も悪くないし、一年生の三人とも馴染めているのだろうか。中小路さんがこちらに気付き、月永君に向かってブンブンと手を振っている。大型犬みたいだと思った。
「楽しそうですねぇ」
「げっ……」
「げ、とは酷い。こんなに素晴らしい人間を前にして」
ぬるっと私たちの間に割り込んだ奏さんを見て、月永君が何とも言えない声を挙げている。げ、は随分酷いとは思ったが、その表情が面白くて笑ってしまった。
「去年までの誰かさんを見ているみたいじゃない?」
「は? あんな感じじゃなかっただろ」
「鏡ってご存知?」
「仲がよろしいようで何より」
「「良くない!」」
こういう時だけ息が合っているのがまた何とも面白い話だ。なんだかんだで相性がいいのかもしれない。優子先輩と夏紀先輩もそういう感じではあったし。本気で嫌いあっているのなら、そもそも喧嘩にはならないだろう。
夫婦喧嘩は犬も食わないというし、ここにいては巻き込まれかねない。プロレスみたいなもので、これが二人なりのコミュニケーションなのだろう。少しうるさい時もあるけれど。私は温かく見守りつつ退散することにした。月永君に確認したい事も確認できたし、もう用はない。
休憩時間にはパート内の様子が見える。それを観察するのも大事な仕事。外から見ていると色々なものが見えてくることもあるからだ。情報は共有し、より良い空間の創出に努力する。ドラムメジャーだからと言って部内の様子に無頓着ではいられない。無頓着になるとどうなるかはよく知っている。
自分のパートはその点そこまで大きな問題はない……と思いたい。
「お疲れ様です。一年生の三人、ちゃんと休めていますか」
「「「はい」」」
「良かった。水分補給はしっかりしてくださいね。健康第一で行きますので」
「私、めっちゃ上達してますよね~?」
「まぁ、はい」
「ですよね~~~」
心底嬉しそうな顔で鈴谷さんは小躍りしている。確かに中学時代から比べれば、その実力は極めて高い。文字通りの即戦力だったし、その態度も自分の技量からくる自身の裏返しと考えれば理解できない事も無かった。
「本多さんは大丈夫そうですか?」
「はい! お姉ちゃんとマロンの散歩とか行ってるんで、体力は自信あります!」
マロンというのは本多家で飼われている犬の名前だ。写真を見せてもらったことがある。デカいアイリッシュ・セターだった。運動を好む犬種らしいので、それに付き合っているおかげで自然と動くようになったらしい。確かに引き締まったスタイルをしているし、運動神経も良かった。
「ペット、ペットねぇ……」
「先輩も興味ありますか?」
「無いわけじゃないんですけど、私に動物の世話は向いてない気がして」
桜地家で動物を飼っている人の方が少ないかもしれない。親族一同を見渡しても、ほとんどいなかった。家の庭にある池には昔は鯉がいたらしいけれど、今はいない。洛中の本邸もそんな感じだ。あのお屋敷は犬とかを飼うにはちょうどいい広さなのかもしれないけど、そもそも兄さんが動物をどう思っているのかよく分からない。
いつか希美先輩との子供に「犬欲しい」なんて言われた日にはどうするのか、ちょっと気になる。私自身は凄く興味があるというわけではなかった。犬と猫なら犬の方が好きかもしれない。
「大丈夫ですよ、先輩優しいですし」
「だと良いのですけど」
優しい、という評価が自分にはどうにも適切には思えなくて、曖昧な返事をした。
私は彼女の背後にあるモノを知っている。今のところ何も問題は起きていないし、普通の先輩後輩として接しているつもりだ。そうするべきだと思うし、そうして欲しいと願われたからには、私は行動を自分で意識的にする義務がある。そこから来た評価だとするのなら、素直には頷けない。
こういう時に一条さんはあまり会話に入ってこない。というか、あまり会話をしたいと思っている雰囲気が無い。歓迎会での様子を見る限り、別にうるさいと思っているわけではないし、邪魔だと思われているわけでもなさそうだ。一人が好き、というのとも違う気がする。単に入る気が無いのか、それとも興味はあるけどどう話したらいいのか分からないのか。
「中学時代もマーチングはありましたか?」
「はい」
そこから話題を広げる気はないみたいだった。なんというか、この感じは凄く既視感がある。何んだろうかと記憶を探せば、それは中学時代の私だった。基本的に業務上必要な会話以外はほぼしないまま、私は部内を駆けずり回っていた。そのせいか、南中フルートパートは練習に人生を捧げているストイックすぎる集団と化していた。北宇治に来て、この明るさと解放感に面食らったのをよく覚えていた。
「吹奏楽王国は流石ですね。今年の一年生はマーチングも出来ている子が多いですが、あなたはぴか一ですよ」
「ありがとうございます」
「座奏メインの学校として売り出しているので、違和感を感じる子も多いかもしれませんが、それでもこれはこれで大事なイベントですから成功させたいですね」
「……先輩は」
「はい」
彼女が珍しく何かしら話を広げようとしてくれている。そう感じて、続きを待った。促すよりも、向こうから来るのを待った方がいいと判断している。
「これに……意味があると思いますか?」
「それは何においてですか?」
「コンクールにおいて、です」
「なるほど」
座奏をするコンクールに対し、サンライズフェスティバルの練習にどんな意味があるのか。それは難しい質問だった。
「敢えて答えるのなら、同じイベントに出ることで団結力を強化する、北宇治の練習に慣れてもらう、序盤の達成感を味わってもらう、成功体験の付与、部外の保護者や地域の方に貢献するなどがあるかもしれません。部活は自分たちだけでは出来ませんからね」
「……」
「ただ、そうですね。全国大会で金賞を獲るのには直接関係ないかもしれません。そういう意味では、無意味でしょう。マーチングの練習しても、自由曲が上手くなることには直接繋がりませんし。無駄で、無意味かもしれません」
「なら――どうして?」
「逆にいけませんか? 無駄で無意味な行為をしては」
「……え」
「私たちは吹奏楽部です。コンクールで金賞を絶対に獲る部でもありませんし、結果を出すことを期待されてお給料を貰っているスポーツ選手などとも違います。全部を全国大会のために注力させることはもちろん可能ですが、それでは吹奏楽部では無くなってしまう。部のために大会があるのであって、大会のために部があるわけではないでしょう?」
金賞は確かに目指す目標だ。そのために毎日頑張るし、時には揉めたりもしながら毎日を歩んで行く。金賞のために全部を注ぐというのは、私が部長だった時代の南中の姿そのものだった。あれは結果が出たから辛うじて救われたものの、そうじゃなかったらとんでもない事になっていただろう。
「人生なんて、傍から見れば無駄な事ばかりです。友達と話すことも、一緒に帰ったりすることも、お菓子を食べたり遊んだり……無駄と切り捨てようと思えば全部切り捨てられるものばかりです。コンクールの練習の合間に好きな曲をやってみたり、個人練習をしていたらいつの間にか合奏になっていたり、そういう小さな喜びとか楽しさだって無駄と一蹴することはできるでしょう。ソロで競い合ったりすることも、金賞という大きな目標からすれば些事かもしれません。でも、だからこそ価値がある」
私が切り捨てようとしていたものにも価値がある。高校に来て、私はそう教えられた。正確には中三の時からかもしれない。お祭りに行くことは当時の私からすれば無意味だと思ったけれど、そこで私は運命に出会えた。
高校では揚羽に出会った。遠回りの何が悪いと笑い飛ばしながら進んでいく彼女の姿は私には眩しかった。希美先輩や調先輩がいて、同期のメンバーがいて、優子先輩が力強く引っ張る北宇治の空間には確かに楽しさがあった。遠回りしたことも沢山あったかもしれないけれど、だからこそ青さや人間性に満ち溢れていた。効率だけで、あの『リズと青い鳥』は生まれない。
「良い奏者になりたければ多くの経験をしろ、と言う言葉もあります」
「誰の言葉ですか?」
「世界一のトランペット奏者、桜地凛音――私の兄の言葉です」
兄さんは麗奈先輩を吹奏楽部の外側の世界に連れ出した。秋子先輩と引き合わせて。秋子先輩曰く、高一の時はもっとつっけんどんだったそうだ。私から言わせれば、高三の時は大分人間味にあふれていたと思う。一緒にくだらないことが出来る仲間がいたからこそ、あの演奏はよくなったのかもしれない。その証拠に、麗奈先輩の演奏は学年を経るごとに情感のあるモノになっていった。
「練習そのものは効率的にやった方が意味があるでしょう。でも、それだけでは足りない。無意味に思えることにこそ、意味があるものです。奏者の技術ではなく、心を成長させるための」
「こころ」
「はい。音楽は心の中にある想いを音にして外に出す芸術ですから。あなたはどんな想いがありますか?」
「私は……」
一条さんは言葉に詰まった。中学時代、多分練習ばっかりさせられていたのだろうと思う。指導者に恵まれなかったのかもしれない。そうでなければ、こんなに苦しそうな顔をしていない。
「今年の自由曲は自分らしさを出すことを求めてきます。あなたの色を出せるようになりたいですね」
「……難しいですね」
「だからこそ挑み甲斐があるというものです。とは言え五里霧中では大変でしょうから、何か一つ言えることがあるとすれば――」
そろそろ休憩時間も終わりだ。この子に必要なのは、かつて私が貰ったメッセージなのかもしれない。晩春の青空が澄み渡っている。校舎の影の中にいる一条さんを振り返り、私は口を開く。頭上に降り注ぐ太陽の光が眩しかった。私に言葉をくれた彼女と同じように。
「――音楽って、もっと自由ですよ」