あの日以降、表面上はいつも通りの空気に戻った。それでもどこか、冷たい氷の幕のようなものが薄っすらと覆いかぶさっているようにも思える。それはきっと、誰も心のどこかで何らかの悪感情を抱いているから。それが何に対してかは分からないけれど、きっと再オーディション当日まで解決することは無いのだろう。
表面上戻ったのは高坂さんや先生への対応もだ。陰口はすっかり聞こえなくなった。それは私が聞いているだけではなく、実際に先輩や一部の人から聞いた話なので間違いないだろう。私のいないところでも、あまりその話は出なくなったそうだ。
実際はアンタッチャブルな話になっているというのが実情だろうけれども、何か思う所はあって欲しいと思っている。彼らの行いは決して褒められたものではなかったのだから。そう言った具合で一応は元通り練習を再開できるようになった。けれど戻っていないものもある。私と吉川は、あの先生への糾弾以来一切口をきいていなかった。
結果として行われることになった再オーディション。しかしこれで正しかったのかどうか、本当はどうなのかは分からない。それを決められるのは、当事者になってしまった二人だけだろう。それ以外は結局のところが外野でしかないのだ。
「面倒だね、過渡期は」
妹はそう言って冷たい目をしていた。その瞳に籠った冷たさの対象はきっと、私ではない。彼女はまだ許していないのだ。いや、恐らくどういう結末になろうとも北宇治高校吹奏楽部という存在を許しはしないのだろう。特に、今の二三年生のことは、永遠に。
「結局、全部兄さんの二番手争いなのに」
「……」
「だってそうでしょう? 兄さんが奏者として出れば、オーディションなんかするまでもない。争ってる二人のどちらもソロを吹くことはない。違う?」
「そうかもしれないな」
「まぁ譲れない気持ちは分かるけど。だからと言って関係ない人がしゃしゃり出てくるのは間違ってる」
「その筆頭格が吉川だぞ」
「優子先輩が……? あの人、そんな無茶苦茶なことする人じゃなかったはずだけど」
「人は変わるんだよ。環境によって、色々と。アイツだってもしかしたら退部していたかもしれない。それをそうしなかったのは、先輩のおかげだから」
「そう……」
少し苦しそうな声で呟いた声の後、水音が響く。急須からお茶が湯呑に注がれていた。夜中に近い時間。台所で明日の仕込みをしている私を眺めながら、妹は少し疲れた様子でお茶を飲んでいた。外はすっかり真夏の夜になっているけれど、この部屋は冷房が効いている。暑い部屋で料理なんかしたくない。
「オーディションはどうだった?」
「受かった。ソロも」
「それはおめでとう」
「当たり前。私の目指しているところを考えたら、当然のことだから。けど……」
「けど?」
「三年生でオーディションに落ちた子がいて。それでちょっと、軽く揉めた」
「そうか」
敢えて意見は言わない。きっとそれは求められていない。完璧な部長、眉目秀麗なお嬢様。そういう風聞と外聞が中学における妹の状態だ。優雅に、華麗に、大胆に、美しく、そして明るく。そういう風に自分を律し、ある意味で完璧な部長を演じている妹が、悩んでいる姿など見せるわけにはいかないのだろう。
そして当然、どちらかに肩入れすることはできない。我儘を言うことも許されない。そういう風に生きてきたからこそ、今更変えられない。その気持ちは理解できた。結局、彼女は嫌がるかもしれないけれど、我々兄妹は似ているのかもしれない。
「南中は大会ごとにオーディションだろ、まだチャンスはあるはずだ」
「そうは言った。けどへそを曲げられると、何も言葉は届かないから。……『部長には分かんないよ、一回も出来なかったことなんかないから。完璧すぎて、苦しい』って言われた。希美先輩だったら、お母さんだったらどうするのか、ずっと考えてる」
彼女の憧れの希美と、そしてもういないお手本。中高一貫の強豪校でどっちでも部長をやったカリスマ。それが私たちの母親だった。泉下の人間に問うても、答えは返ってこない。自己肯定感が高く、ずっと堂々としていた。面倒くさい義母と真っ向から話し合い、洛中の本邸から父と共に出てこの宇治に住んだのも、その信条からだった。
「それ以外の部分は全部順調。多分、関西は固い。だからこそ余計に……切り捨てたみたいになってる」
「切り捨てた、か」
先生との話を思い出す。私を切り捨てればいいと、そう言った。先生はそれはしないと断言した。どちらが正しいのか、判断してくれる人は誰もいない。だが少なくとも妹は切り捨てることに抵抗を覚えている。正直、たった一人だけなら寄り添う必要があるのかは分からない。
南中吹奏楽部の状況は分からないけれど、他のメンバーの方を優先してしまうというのも考え方の一つだった。そしてそうすることで全国に行けるなら、それで良いとすることも。
「はぁ……でも前に進むしかないからね。何を言われても、動揺なんて出来ないから」
「それが選んだ道なら、好きにすればいい。でも苦しくなったらちゃんと言ってくれ。話を聞くくらいしか出来ないけど、それくらいはするから」
「分かってる、ありがとう。……私も、先輩みたいに皆を引っ張れるようになりたかったな」
そう言うと妹は湯呑と急須を洗った。その顔は相変わらず浮かない顔をしている。きっと彼女なりの気苦労があるのだろう。中学生は大人や年上から見れば子供でも、彼らなりの悩みや思いを抱えている。それは当然だ。
例えその悩みが他から見れば小さなことであったとしても、本人にとってすれば世界を揺るがしかねない大問題であることだってある。そしてそれはきっと誰でもそうなのだろう。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
今日はもう寝ることにしたのだろう。よほど堪えたらしい。苦しい、という言葉がきっとかなりダメージになったのだと思った。ずっと部活のために頑張って、色々と努力してきたのに、それを全部一言で否定されたような気分になっている。それが今の状態なのかもしれない。
けれど、周りに相談できる人もいないから、こうして家で吐き出すしかなくなっている。そしてまた学校に行くという悪循環だ。と言うか、多分口ぶりからしてフルートパートじゃないだろう。南中のフルートは少数精鋭のマイ楽器勢しかいない。
ならそのパートリーダーは何をしているのかという話になって来る。パートリーダーがオーディションそのものに落ちてたらお話にならないけれど。もしかしたら、部活全体が部長に依存している状態になっているのかもしれない。だからこそ、無理筋な話の解決を求めているのだろうか。だとしたら、あまり良い状態とは言えない。
皆を引っ張っていくことを意識して、完璧な部長を演じすぎたからこそいざ問題が対処可能領域を逸脱した時に大変なことになる。そういうことはよくある話だ。カリスマというのも考えようである。妹に必要なのはもっと人に頼るべきなのかもしれない。一人で解決できないからこそ、悩みなのだろうし。
けれど私の言葉が彼女に届くかどうか分からない。きっと素直に聞いてはくれないだろう。もし、その悩みが限界点を超えそうならば。取れるべき対処法はたった一つ。彼女が言葉を素直に受け入れるであろう人物に頼るしかない。同じクラスにいるのに一年近く口をきいていない、
「ちょっといい?」
全体練習の終わりに声をかけられた。終わるのを待っていたらしい加部は、私を引っ張って空き教室に連れて行く。その顔はかなり真面目なものだった。
「優子のことなんだけど」
「吉川?」
「そう。結構思い詰めてるみたいで。どうにかならないかな」
「どうにもならないんじゃないか。再オーディションが終わるまで」
「そっかぁ……。まぁ、そうだよね」
加部は困ったような顔をしている。同じパート内で揉め事なのだから、しょうがない部分もあるだろう。B編成だからと言って、巻き込まれないわけじゃない。吉川とも近しいこともあり、色々と気苦労も絶えないのだろう。
「私には、分かんなくって」
「……何が?」
「ソロのこと。私さ、初心者だったじゃん? 教えてくれてたのは嬉しいし、そりゃちょっとは吹けるようになった。オーディションも自分なりに頑張ってはみた。でも、あんなに悔しく思えなかったし、後悔も出来なかったんだよね。だからソロに拘るのも、勿論理解はしてるんだけど、そこまで実感が無くて。香織先輩で良いんじゃないかなって、ちょっと思ってた」
「そう……」
多分そういう声もそれなりにあるはずだ。先輩で良いじゃないか、というものも、高坂さんで良いじゃないか、というものも。間違った意見だとは思わないし、それもまた選択の一つだろう。それを再オーディションの場で主張できるかはまた別問題だろうけど。
「だから高坂さんも、ちょっと意固地だなぁって少し思ってた」
「思ってたってことは、今は違うのか?」
「完全に違うとは言い切れないけど、でも全く同じでもない。だって、高坂さんも、頑張ってたんだよね。頑張ってたんだから、そりゃあ譲りたくないよ」
遠くを見ながら彼女は言った。譲りたくない気持ち。それを理解できる人はそこまで多くないのかもしれない。けれど少なくともここに一人、理解しようとしてくれる人がいる。それはきっと高坂さんにとって大事なことなんだろうと思う。
去年の失敗は、誰も相手を理解しようと思わなかったこと。私は少なくともそう思っている。もしそれが正しいのだとしたら、加部の今のこの態度こそ、理想にするべきモノなんじゃないだろうか。
「私みたいなあんまり上手じゃない人のことなんて何とも思ってないと思ってたけど、でもそうじゃないんだろうって思った。きっと、気にする暇もないくらい全力なんだろうなぁ」
「君は、高坂さんに投票するのか?」
「どうだろう。それでもやっぱり私は香織先輩かもしれない」
「そうか」
「ごめんね」
「いや、謝る事じゃない。自分の意見なんだから、貫けばいいと思う。高坂さんのことを理解してくれようとしただけでも、私はありがたいと思う」
きっと彼女は誰かに寄り添うのに向いている。吉川にしろ、吉沢さんにしろ、何かを抱えている人の心を見つけるのが早い。それに、出来ない人の気持ちを一番わかっている。パートの中で、一番。彼女は初心者の指導に向いているのかもしれない。
「それよりも今は優子のこと。まぁさ、あんまりいい気分じゃないかもしれないけど、優子も後悔してる部分もあるみたいだし、ちょっと歩み寄ってあげて欲しい。取り敢えず、今はそれだけ」
「……分かった。出来る限り、善処する」
「それ、やらない流れじゃない?」
「いやいや、そんなことはない。まぁ真面目な話、やるだけやってはみる」
「うん、お願いね。私じゃそこまで助けになれるか分からないし」
それじゃ、練習に戻るから。そう言って彼女は教室から出ていく。助けにはなっていると思う。きっと、彼女のような存在がいることで救われている人もいるはずだ。少なくとも吉川はきっと、幾分か気が楽になっていると思う。
ある程度問題が解決しても、消えないものはある。現在のトランペットパートには、そういう空気が漂っていた。パート練習は最低限。それ以外はずっと個人練習をしている。それでも実力が落ちているわけでは無いので、注意も出来ないし現状は見守るしか選択肢がない。
今日も普段トランペットパートに割り当てられている教室に行ったけれど、ほとんど人はいないままだった。高坂さんはいつもの場所で個人練をしているのを先ほど確認した。それ以外の人がどこにいるのかは分からない。教室に残っていた数少ない人に聞くことにした。
「笠野先輩。皆はどこへ?」
「香織はお手洗い。高坂さんは個人練だね。優子ちゃんと滝野君は知らないけど、どこかで個人練してるんだと思う。秋子ちゃんはちょっと飲み物買いに行ったけど、そろそろ戻ってくると思うよ」
「そうですか……。この教室には揃いませんね」
「正直、皆集中出来てないしね。仕方ないよ。特に優子ちゃんと高坂さんは、同じ教室にいてもお互い会いたくないだろうし。そんな感じだから空気も悪くって。だから、滝野君とかもいないんだと思う」
笠野紗菜。三年生。トランペットパートの二人しかいない三年生の片割れ。しっかりと実力は保持している。中世古先輩には少し劣るが。表に出て目立つタイプでは無いものの、縁の下の力持ちと言うべき人材である。去年以前の混沌とした部活でも、中世古先輩と一緒だったためか練習に励んでいたので実力者ではあった。
「それでさ」
楽器の手入れをしながら話しかけられる。
「はい、何ですか?」
「どこまで桜地君のアイデア?」
「と、言いますと」
「よくよく考えると言っちゃ悪いけど、滝先生が急に方針転換するとは考えにくかったし。部長が意見を言ってもそんなすぐに『はいそうですか』ってなるタイプには見えなくて。何か裏で糸引いてたのかな? と思ったんだよ」
「今回は特に何も。強いて言うなら松本先生が功労者ですよ。同じアイデアは思いついていましたけど」
「今回
「そうでしょうか」
「そうだよ。きっと色んなところで動いてるんだと思う。去年みたいに」
「何故、それを?」
「今の生徒会長が香織と同じクラスで、その縁でちょっと。私たち、廃部になる可能性があったんでしょう?」
生徒会には話が流れていたらしい。道理で予算が降りたはずだ。正直毎年ある程度退部者がいて、かつ去年に至っては集団退部。そんな部活がまともに運営されているのか怪しいというのは真っ当な意見だった。
それに、普通の教室を使っている以上、大なり小なりその教室で普段過ごしている生徒の目にも入っているはずだ。お菓子を食べて、トランプをして。楽器の音が聞こえない。そんな状態を知った時、他の部活がどう思うかという話になる。もっと予算をくれ、と運動部から突き上げがあってもおかしくない。
挙句の果てに、大会の応援演奏とかもしてこなかったと聞く。その有様では、反感を食らうのも当然だった。それは他の部活の顧問たちも同じ感情だろう。結局こちらが先んじて教頭先生に話を通したり色々したために何とか今年もいつも通り運営できるようになっているという現状がある。
そのため、廃部になる可能性が存在していたというのは嘘ではない。火のない所に煙は立たぬというが、煙も盛大に上がっていたし火も存在していたのだからある意味当然とも言えるが。
「……どっちの味方になるの?」
「どちらにもなれません。私は、審査をする側でした。どちらかに肩入れすることはできません。昨日高坂さんを庇ったのは、彼女に著しい被害が出る可能性があったからです。去年のようなことは、私だって嫌ですから」
「そっか……ゴメンね、変なこと聞いちゃって。私、自分がどうしたら良いのか分からなくなっちゃって。高坂さんが上手いのは知ってる。でも、友達を応援したいのもホント。だからどうするのがいいのか、分からなくて」
先輩はため息を吐きながら言った。絞り出すような声は、一般の部員の声なのかもしれない。どちらを取ったらいいのか分からない。そういうモノなのだろう。きっと、どちらかをはっきりと決断できる人の方が少ないのだ。
「どちらを取るにしろ、しないにしろ、ご自分のしたい方を取ればいいのではないでしょうか。中世古先輩を応援するも良し、高坂さんに寄り添うも良し。どちらも選ばず、解答を放棄するのも1つの手です。先輩はオーディションに不満があると言わなかった。ならば、この第三の選択肢を選ぶ権利があります」
「選ばない、か……でもそれはちょっと無責任だよね。三年生で、同じパートなのに」
「それは、先輩がどう思うかじゃないですか。どっちにしても、後悔の無い選択をしてください。それがきっと、これからやっていく上で大事なんじゃないかと私は思います」
「そっか。そうだよね。もう少し、考えてみるよ」
「はい」
それから、どちらも口を開かなかった。開けるような雰囲気ではなかった。二人しかいないはずの教室に漂う気配がとても重い。誰もが悩んでいる。それは争っている両名に近ければ近いほど、真剣に。相談しても、話し合っても晴れるようなものではない。
それに、きっとどちらを選んでもどこかで後悔するのだ。あの時違う選択肢を選んでいたらどうなっていたのだろうと。私だって自分の人生はそんな事の連続だ。だからこそ、今どうしたいか、どうするべきなのかを考えないといけない。将来の自分を、納得させるために。
今日も最後にレッスンが入っている。今やトランペットパートの一年生用と化しているが。夏なのでまだほんの少し外が明るい中、いつもの教室に向かう。扉に手をかけた時、中から話し声が聞こえた。
盗み聞きしているような気分になるが、一年生同士で何を話しているのか気になって少し陰に隠れる。扉が閉まっていても、普通の声で話している以上内容は普通に聞こえていた。益々なんだか悪いことをしている気分になったけれど、今は必要だと割り切ることにした。
「ごめんね、高坂さん」
「えっと、何が?」
「高坂さんが色々言われてる時、何も出来なかったから」
「別に……特に気にしてないから」
「そっか、ありがとう」
どうも調子を狂わされているようだ。高坂さんと黄前さんの関係性はよく分からない部分が大きいけれど、吉沢さんとの関係は割と分かりやすい。黄前さんには申し訳ないけれど、多分吉沢さんの方がコミュニケーション能力は高いんじゃないだろうか。実際、元々同じ中学だった上に過去の発言で接点があった黄前さんとは違い、高校で初対面ながら割と普通に話せるようになっている。
まぁそれまでの過程には色々あったわけだし、多分吉沢さんが優しかったから何とかなった部分もそれなりにあるのだろうけれど、何にせよそこそこの関係になってくれたならありがたい限りだ。中世古先輩と笠野先輩みたいになってくれることを願っている。
「でも私はどっちにも拍手できないかもしれない」
「それは、どうして?」
高坂さんは少し落ち込んだような声で尋ねた。きっと同じパートの一年生として、そしてこの時間に参加している者同士として、何らかのシンパシーは感じていたのだろう。だから、ちょっとショックだったのかもしれない。
「香織先輩のことは好きだけど、でも高坂さんが頑張ってるのは知ってるから。知っちゃったら、どっちにも吹いて欲しいと思っちゃう。ソロなんて無かったらきっと二人ともこんな風にならなかったのにって、時々思う」
「……さっき、香織先輩に言われた。同じ部活の仲間だから良い演奏しましょうって」
「香織先輩らしいね~」
「うん、だからちょっと……やりにくい」
「でも止めないんでしょ?」
「それは勿論。桜地先輩まで巻き込んだんだし、ここで退けない」
「じゃあ中途半端な気持ちじゃダメだと思うな。全力で挑まないとね。香織先輩のためにも」
「……そうね」
のんびりした声のまま、それでも言っている内容は全くのんびりしたことではない。吉沢さんは上手く高坂さんの元気を出そうと頑張っているように見えた。中世古先輩のフォローをしてくれる人は沢山いる。だけれど、表立って高坂さんをフォローしてくれる人は少ない。
先輩が本来やるべきことまでやらせてしまったと少し後悔する。仲良くしてあげて欲しいとは言ったけれど、負担になっていないか心配だった。吉沢さんには彼女の人生がある。高坂さんに付きっ切りになって壊れてしまわないかという心配はあった。
けれど、今は取り敢えずそんなことは無さそうなので安堵する。歪んだ友人関係はいい未来を招かない。欠点を受け入れることはしてもいいけれど、欠点ではあると指摘できることが一番大事だと私は考えていた。そろそろ盗み聞きも止めないとと思い、扉を開ける。
「「お疲れ様です」」
「はい、お疲れ。じゃあ、今日も始めようか」
ファイルを適当な机に置いて、椅子を引っ張り出して座る。敢えてここではいつも通り。そうすることで、余計な不安だったりを感じさせないつもりだ。
「先輩、大丈夫ですか?」
「大丈夫って、何が?」
「昨日、凄い怒ってたみたいだったので。大丈夫かなーって」
吉沢さんがちょっと恐る恐るというような感じで聞いてくる。余計な心労を与えないつもりだったけれど、元から持たれていたのではあんまり意味のない気遣いだったようだ。
「別に、大丈夫だよ。そもそも、一年生に怒ってたわけじゃないし。どっちかと言うと上級生が主だから」
「なら良いんですけど……。普段先輩とかから色々言われても全然怒らないのに、昨日は珍しかったので、ちょっと心配で。他の一年の子も言ってましたよ。よっぽどだったんだな~って」
そこまで言わせるつもりは無かったのだけれど、自分でどんな顔をしていたのかは分からない。もしかしたら必要以上に怖がらせてしまったのかもしれない。私は指導者という立場で先生の下にいるけれど、決して教師ではない。だから基本的に怒ったりするのは先生の役目だと思っている。昨日のはあくまでもかなりのレアケースのつもりだ。
それが却って普段怒らない人が怒ると怖い現象を引き起こしているのかもしれないけれど。
「まぁ、あんな事はもう無いと思うから。人の努力を馬鹿にしたり、貶めたりするようなことが無い限りは」
「どうして、自分のことじゃないのに怒れるんですか。年上に向かって、あんなに」
高坂さんは純粋に疑問に思っているようだった。もしかしたら私の言動は彼女のプライドを傷つける行動だったかもしれない。ならばしっかり謝らないといけない。
「あんまりいい気分じゃなかったかな。何回も引き合いに出して申し訳なかった」
「いえ、別にそれは全然気にしてないんですけど、単純に。そんなに怒ってらっしゃるとは思わなかったので、どうしてかなと」
「どうしてだろうね」
自分の努力が適当に扱われるのは良かった。けれど他の人の努力が不当に扱われるのは許せなかった。それも近くでその努力を見てきた存在であればなおのこと。そう考えて、昔の記憶が蘇る。去年の初夏。そう叫んでいた声が、鼓膜の奥から響いてくる。先輩に向かい、抗議する声。何と言っていたのか、こういう記憶ばかりは鮮明に思い出せる。
「天才だから努力してないなんて間違ってます! それに、凛音の実力はずっと頑張って来たからなんです。ずっとずっと、だからあんなに上手に吹けるんです。それが正しく評価されないなんて、絶対おかしいです! 自分が出来ないのを棚に上げて、彼の努力を馬鹿にしないで、謝ってください!」と、あの時彼女は言っていた。
そう声高に意見が叫ばれたのは、去年の六月頃だったか。あの時なぜ、あんなにも怒っていたのか。庇われている側である私にはさっぱり分からなかった。天才なんだから努力とかしてないんでしょ、と言われるのも慣れていた。才能があって上手いからって調子に乗るな、と罵られるのもよくあることだった。
それに何も感じることは無かった。雑音、雑踏の中に聞こえる話し声くらいにか捉えていなかった。けれど彼女はそれを許すことは無かった。自分が嫌味を言われているときは黙って頭を下げていたのに、他人のことになると猛然と食って掛かった。最終的に上級生が嫌味ではなく無視を選ぶほどに。今思えば、あれは上級生からの敗北宣言だったのかもしれない。
「猪突猛進で向こう見ずで自分を曲げられなくて、それでも真っ直ぐなヤツがいてね。そいつは自分が何を言われても頭を下げてお願いするだけだったのに、他人の努力が貶されるのを絶対に許さなかった。なんでそんなに怒ってるのか、当時はさっぱり分からなかったけど、こんなことになってやっと少し分かったから、かもしれないね」
結局一年経っても分からなかったその怒りや憤りは、今やっと少し分かった気がする。こんな風にならないと分からないなんて、随分と私も愚かしいことだと自分で思う。
彼女が絶対に正しかったとは思わない。間違っていた部分もあっただろう。それは事実だ。けれどそれは彼女の人間性を損なうものではなかった。最後まで自分の信じたモノが正しいと信じ抜いた。やり方は正しくなかったし、わからずやだったけど、抱いていた想いや理想は間違っていたとは思いたくない。
「そんな人がいたんですね」
「そう。そしてもう、ここからいなくなってしまった」
「友達、だったんですか?」
「私はそう思ってたけどね。普段の視野は広いくせに時々狭くなるし、思い込みが強いし、一直線すぎるし、優先順位とかすっ飛ばすし、結構空気読まないし、面倒くさいときはホントに面倒くさいし、能天気だし、器用貧乏だし、熱血すぎて時々暑苦しいし、結構プライド高い」
列挙していく言葉に、二人は顔を見合わせてどういう表情をしたものかという雰囲気を出している。いきなり人を罵倒し始めた先輩相手にはそんな顔にもなるかもしれない。このままだと悪印象しか残さないので、一応フォローもしておく。
「けど、律儀で、誠実で、たまに合理的で、明るい。それに、優しかった。あの優しさは私には少し眩しすぎたけれど――そういう所はまぁ、結構好きだった」
きっと今もこの部活にいたら、二年生を率いる中心だっただろう。そして来年の部長候補として内定していたはずだ。フルートのエースだっただろうし、課題曲ももしかしたら変化していたかもしれない。高坂さんほどではないにしても、高校生にしては十分すぎるほどに上手かった。
今、この部活の状況を知っているのかは分からない。けれどもし知っていたのなら、どういう感想を抱くのだろうか。私の話を聞かずに飛び出したわからずやとはあまり話したくないのでずっと没交渉だけれど、それは少しだけ興味があった。
「さぁ、お話は終わり! 練習に入ります」
「「はい!」」
「よし、じゃあ今日はこの前の続きから。そろそろ真面目に府大会が近いので、課題曲の方は終わらせてしまいたいから……」
過ぎ去った過去は戻らない。だからこそ前を向いていかないといけない。皆少しずつ傷を背負いながら、それでも前を向こうとしている。今回の再オーディションだって、きっとその一つ。私だけがまだ、過去の中に取り残されていた。