音を愛す君へ   作:tanuu

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第二十四音 悲観と楽観

 悲喜劇こもごもありながら、再オーディションは幕を閉じた。しかし時間は待ってくれない。ホールを借りた理由は再オーディションの為ではなく、当然合奏練習をするためである。

 

 慟哭を響かせていた吉川も今は少し落ち着き、ウサギのような目と鼻であるがそれでも演奏する意思は見せていた。まだ完全に心を整理することはできないと思うけれど、それでも彼女なりに整理を付けようということなのだろう。

 

「では、これより本題である全体練習を始めます。今回は本番を意識すること。ホールという特殊な環境での演奏は、普段よりも意識的に音を出すことを求められます。当日は会場にいる観客も音を吸収する役割を果たしますので、今よりももっと求められる水準は高くなるでしょう。それを忘れないようにしてください」

「「「はい!」」」

 

 先ほどまではお通夜のような空気感が漂っていたが、いざ練習開始というとそういうわけにもいかない。これまでやってきた成果をしっかり大会で発揮するためには、今のこの状況が大事だと分かってるのだ。誰だって努力は報われて欲しい。こんな揉め事まで起こしたのだから、せめて府大会では良い成績を。それは大なり小なり抱いている、全員の総意であろう。

 

「では、お願いします」

「京都府立、北宇治高等学校」

 

 松本先生がアナウンス代わりにそう言うと、先生が構える。それに合わせて部員たちも各々の楽器を構えた。そしてB編成のタイムキーパーが旗を振り下ろすと先生が指揮を始める。本番を意識するということの中には、こういう風に時間を気にするということも含まれている。

 

 ホールでもしっかり12分に収まるか、或いはペースが速すぎてホールだと上手く聞こえないなどということが無いか、チェックをしないといけない。他にもチェックすることは多い。今現在の席は普段の練習時と同じ。しかし実際の大会でどうするかはホールで聞いてみないと分からない部分もある。

 

 反響板の存在もあるし、当然セッティングによる音響差も存在している。そのバランス調整は私に託されていた。先生も出来ないことは無いと思うが、セッティングによる音響差は結構難しい部分がある。ホール演奏に慣れているこちらに白羽の矢が立つというわけだ。

 

 課題曲と自由曲を一通り演奏する。そうしないと何が良くて何が良くないのか分からないからだ。表現を指示してみたけどイマイチ嵌らないということもある。逆に思ったより激しく強弱が付いてしまうことも。そういう修正を入れていくのがこの時間の作業だ。

 

 一連の演奏が終わる。取り敢えず、分かったことが幾つかあった。やはりホール練習は大事である。見えない部分が見えてくるのだ。

 

「時間は収まってます」

 

 タイムキーパーがストップウォッチを止めて告げる。表示された時間を見せてもらったけれど、多少の余裕を持って終われているようだ。これが時間ギリギリまで演奏していると些細なズレが命取りになったりするし変更しにくいという弱点を孕むことになる。

 

「桜地君、どうでしたか」

「取り敢えず弱いです。後ろの方だとあんまりよく聞こえません。もっと前に強く押し出すように! あと……ホルンの席順を逆にしてください。それとひな壇の上に乗せましょう。オーボエはもっと前で良くて、打楽器はもう少し横。サックス、間隔が狭いです」

「分かりました。ホルン、一度変更してみてください」

「「「はい!」」」

「それと、弱いのは事実です。もっと強く、ですがそれで雑になってはいけません。綺麗に一音一音を大切に。分かりましたか」

「「「はい!」」」

 

 ホルンは結構気を遣う楽器だ。トランペットやトロンボーンは音の出る部分が真っ直ぐ観客席を向いている。けれどホルンはベルの位置が横向きになっているのだ。その向きをどっちにするかでも聞こえ方は変わって来る。

 

 そうなの……? という感じかもしれないけれど、強豪校はこの拘りもしっかりしているのだ。神は細部に宿るとも言う。細かい部分に拘ってこそ一流と言えるだろう。セッティングはそれだけで音色に変化をもたらす。決して軽んじることなどあってはいけない分野なのだ。

 

「あらかじめ言っておくと、多分今日は何回も移動してもらうことになります。申し訳ないですが、こればっかりは聞き比べないといけないので、ご協力をお願いします」

 

 申し訳ないとはこれっぽっちも思っていないけど、一応言っておく。微妙な調整を経て、音楽は完成していくのだ。一人でやるモノでもなければ、機械音声でもない。ソロ演奏なら好きなようにすればいいし、他者に気を遣う必要もない。機械音声ではこういう調整はしなくても均質な音が出る。

 

 だが吹奏楽はそうじゃない。そうじゃない場所に魅力が詰まっている。オーケストラにだって引けを取らない魅力がしっかりあるのだ。

 

「では今の話を受けてもう一度行きます」

 

 先生はまた指揮台に立って腕を振り始める。指揮者は指揮者で結構体力を使うのだ。奏者も体力勝負だけれど、指揮者もそれなりに要求されている。その証拠に、先生の顔は紅潮しているし、汗ばんでいる。みんな真剣だ。当然、私だって。

 

「課題曲、スネアのリムショットちょっと一回ほんの少し手前側にできますか? トロンボーン塚本君、この前のところ出来てるけどまだ弱いです。自信を持って、恐れないで。トランペット、レガートの部分でもっと跳躍前の下の音をしっかり鳴らす。前も言ったところです」

 

 私もこの熱気に応えるべく、気になった部分をドンドンと指摘していく。この際遠慮なんてしていられない。全部直す勢いでやらないといけないのだ。この調子で演奏をして、私や両先生の指示が飛び、そしてまた演奏をしての繰り返し。折角のホール練習、一分一秒も無駄に出来ない。

 

 気付けば時間はあっという間に過ぎ去り、舞台上の部員の顔には疲れが見えている。かなり長い時間練習していたので、さもありなんという感じであるが、まだ終わりではない。

 

 セッティングの調整は大体終わった。恐らくこの感じでやればいい響きを与えられるだろう。この後は本番を想定したリハーサルだ。それには舞台袖の待機時間も含まれる。

 

 本番前には舞台袖のガンガン冷房が効いた空間での待機を求められる。その時間は約15分。前の学校が演奏してる間は待機だ。その空間の温度というものも、当然楽器のコンディションに影響する。繊細な楽器ほど影響を受けやすいのだ。しかも個体差があったりもする。長年付き合っている楽器だとすぐ分かるのだが、そうもいかない人もいるだろう。

 

「それでは一度、リハーサルを行います。待機時間も含めて本番だと思うようにしてください。それでは、移動をお願いします」

「「「はい!」」」

 

 疲れている中、次が最後だということでもう一度自分を奮い立たせて、部員たちは舞台袖に消えていく。待機時間からの入場の導線、椅子の距離、ベルの高さ、起立のタイミングなどもリハーサルに含まれている。起立などは演奏とは関係ないし、審査対象でもないのだけれど、客に見せるという意味を考えれば練習するべきだと判断した。

 

 この辺は先生と私の感覚の違いだろうか。先生はそこまでするべきか少し迷っていたようだが、私はするべきと主張した。客商売として音楽をやっているからかもしれない。観客に動きから魅せる。堂々とした立ち居振る舞いには好感を持ってもらえるのだ。来年の部員確保にも関与するかもしれない以上、気を抜けない。

 

 時間がやって来る。アナウンス代わりは再度松本先生だ。

 

「京都府立、北宇治高等学校」

 

 舞台袖からやって来た部員は、あらかじめ定められた通りの動きを行って各自の持ち場へとスタンバイする。

 

「課題曲Ⅳ番、自由曲は堀川奈美恵作曲『三日月の舞』。指揮は滝昇です」

 

 実際に近いアナウンスの後、B編成組と私の拍手が響く。先生が手を構えた。視線が一気にそちらに集中する。他の観客がいない空間では、部員の息遣いまで聞こえてきそうなほどの静寂が広がっている。課題曲の立ち上がりからスペインを思わせる情熱と湿気を含んだ音が鳴り響く。その後は風が移動し、フランスへ。そしてまたスペインへと帰って来る。

 

 自由曲では星と月の輝きを意識しながら、トランペットのメロディーにより始まる。それを継ぐように流れ込んでくる多くの音。フルートとクラリネットが踊り、ダブルリードの対旋律が楽譜通りに流れる。教え始めたころに比べればかなり上達している。完璧かと言われればまだ遠い。けれど府大会なら十分上を狙えるレベルだろう。

 

 甘く切ないトランペットのソロパートを奏でた後、曲はクライマックスに向かう。セッティング良好、聞こえ方に問題はない。音量も出るようになったし、それでいて雑にならない工夫もされている。これならば、いける。そう確信できるレベルには育っていた。そして終焉を迎えた。先生は荒い息をしながら、呼吸を整えている。

 

「良いでしょう。本番でも今日の演奏を忘れないように」

 

 観客席ではB編成の部員たちが拍手をしている。演奏にズレはない。後ろを振り返った先生に、私は大きく頷いてその意思表示をした。

 

 全国大会出場。遠い夢物語だと思っていた。けれど存外、そうではなかったのかもしれない。まだ府大会すら終わってないけれど、希望は存在しているように思えた。希望的観測、楽観的予測ではなく、確実な事実に基づいて私はそう思えたのだ。

 

 

 

 

 

 上手い演奏とは、人の心を動かす。それはこれまでの人生で多くの音楽に触れて実感したことだった。そしてそれはこの部活においてもそう。あのオーディションにおける高坂さんの演奏を聞いて、多くの部員は感化されたようだった。無理もない話だろう。音楽をやっていて、それもしっかりと上達を目指している人ならば、何も感じないということはあり得ない。

 

 あちらこちらで行われる練習の真剣さは一層増し、その目には必ず関西に行くという強い意志を感じるようになった。演奏にもどこか力強さが出てきた今日この頃。夏の熱気にも負けないその熱量は、青春真っ盛りというに相応しいだろう。府大会まで、両手の指で数えられるまでになりつつあった。

 

「トロンボーン、今出だしがズレたのは誰ですか」 

 

 今日も自由曲の音が夏の学校に木霊する。蝉の声など、職員室では全く聞こえなくなっているそうだ。しかし案外他の先生からはそこまで文句を言われない。上手い演奏が常に聞こえているのは、そう悪い気分でも無いようである。そして我々指導陣の要求するレベルも、部員の実力向上に合わせて、圧倒的に高くなっていた。

 

 先生の厳しい追及に、忸怩たる思いという顔で塚本君が手を挙げる。

 

「練習で出来ないことは、本番では絶対できるようになりません。そのつもりで取り組んでください」

「……はい」

「では、158小節目から」

 

 再び演奏が再開される。上手く行っているとき、手元にある楽譜はピカピカ光っているような感覚がある。カラオケの採点表示みたいなものと言うのが適切かもしれないけれど、そもそもこれ自体が自分の感覚でしかないので何とも説明しにくい。のだがその光が無い箇所があった。

 

 該当箇所はこの前バランスを考えて追加した部分。ユーフォとコンバスとのユニゾンにした箇所だった。いきなりぶち込んだのはこっちなのだが、それでも出来ている人もいるわけで。元々無かった箇所なので決して必須という訳ではないが、それでもあった方が良いのは事実だった。二人の方が音量的には安心だが、もし無理そうなら一人でやってもらうしかない。

 

「はい、止めて。ユーフォ、162から一人ずつ聞かせてください。黄前さんから」

 

 一人で演奏させられる時間と言うのは、奏者にとってかなり厳しいものだ。問題があることが全員の前で白日に晒されるわけなので、当然嫌がる人も多い。事実、黄前さんもちょっと焦ったような声をしていた。田中先輩が基本注意されることはほとんどない。とすれば、黄前さんに問題があったと考えるのが自然だ。私の耳もそう告げている。

 

「はい、そこまで」

「先生、ここはやはり……」

「……いえ、もう少し。黄前さん、ここ、難しいですか」

 

 私の言わんとしていることは理解しているのだろう。それでも先生はもう少し待つつもりのようだった。ここは素直に引き下がる。黄前さんがどこまで出来るのか、正直な話未知数である。本番は近い。不安定な状態で出すくらいなら、最初からやらない方が良いというのは安全策なのだろうか。不安材料は全部消しておきたかった。

 

 勿論先生の意図も理解しているし、異論はない。待つと言うのなら待つ。黄前さん個人がここを乗り越えてくれれば、より実力のある奏者になるのは明白だったからだ。来年田中先輩はいない。その際、もしかしたらユーフォ奏者が中川と二人だけという可能性もあるのだ。そうなったとき、彼女にリードしてもらいたい。

 

「本番までにできるようになりますか」

「はい」

「本番で出来ないということは、全員に迷惑をかけることになります。もう一度聞きます。出来ますか?」

「……はい! 出来ます!」

 

 大きな声で堂々と、彼女は出来ると主張した。それは、前に発破をかけたときに出来ると言った高坂さんの声によく似た雰囲気をまとっている。類は友を呼ぶ、或いは朱に交われば赤くなるということか。友人同士は得てして、よく似ることもあるらしい。

 

「……分かりました。よろしいですね」

「勿論。黄前さん、指摘された理由は自分で把握していますか?」

「はい」

「じゃあ問題ありません。本番も近いので、全員に対して一度お話しておきますが、必ずこの時期には、と言うより本来はいつも意識していて欲しい言葉があります。それは『練習は悲観的に、本番は楽観的に』というものです。一度、声に出してください」

「「「練習は悲観的に、本番は楽観的に!」」」

「はい、ありがとうございます。これは私が常に意識していることです。本番と言うのはどうしても色々な要素で100%完璧にやるというのは難しいモノです。それは当然私も。ですので練習では出来なかったところ、苦戦しているところを正しく分析し、ミスを矮小化したりすること無く真っ直ぐ受け止めて練習を行っています。だからこそ悲観的に、という言葉を使いました」

 

 緊張やその日のコンディション、慣れない環境、背負ったプレッシャー。そういう物が沢山本番には存在している。これらを消し去ることはできない。練習で100%出来ていても、80、70と落ちてしまうこともあるのだ。だからこそ練習で120%を目指さないといけない。完璧の、その先へ。油断するとすぐ実力は落ちる。満足してはいけないのだ。

 

「けれどいざ本番になったら楽観的に。『あれだけやったんだから、きっと大丈夫』という努力という根拠に裏付けられた自信を持って、何とかなるさという心構えをすること。この切り替えは難しいですが、出来る人は良い結果を残しやすいモノです。演奏がどんどん良くなっている今だからこそ油断せず、練習は悲観的に。よろしいでしょうか」

「「「はい!」」」

「今の言葉を意識して、続きから」

 

 常に上達を意識するのは難しい話だ。出来ていないことを直視するのも勇気がいる。けれど大事なことであると私は信じている。そうすることで一歩でも前に進めることができれば、それは確かな成長なのだろう。

 

 

 

 

 

「なぁ。私を恨んでるか」

 

 個人練習の時間。夕暮れの空が赤く染まる。真夏の夕暮れはいつだって蒸し暑い。その暑さの中、私は吉川に対峙していた。そもそもの発端は彼女がちょっと見て欲しいところがあると言われたからである。だから今こうして、時間を作っていた。

 

 肝心の該当箇所はすぐ終わった。次が控えているのだけれど、それでも練習と関係無い話をしてしまったのは、あの再オーディション以来、もっと言えば先生を糾弾したあの事件以来、どことなく話すのを止めていたのが原因かもしれない。

 

「……あの話、本当だったの」

「私に選択権があった、という部分か?」

「そう」

「本当だ、とそう言ったつもりだったけど」

「先生を庇ってるとか、方便とか、そういう納得させるために言ったでまかせとかじゃないのよね」

「……あぁ、その通りだ」

 

 嘘を吐くことも出来た。実際は先生が選んだものであり、今コンクール前に顧問の信頼を落とすわけにはいかないから嘘を言って責任をズラした、と。そしてこの話は決して嘘ではない。顧問から私に対象をスライドさせようとしたのは事実だ。それがどこまで成功したのかは分からないけれど。

 

 けれど嘘を吐くべきじゃないと思った。少なくとも、間違った道だとしても、彼女は誠実になろうとしていた。自分の思いに。だとしたら私が嘘で応えるべきではないのだろう。

 

「どうして、高坂を選んだの」

「前にも言ったけど、理由は勿論実力だ。だけど、きっとそれだけじゃない。私は……自分を裏切れなかった。音楽家として、演奏家として、そしてこれまでトランペットに人生注いできた、これまでの自分、今の自分を。そうしたらきっと、私は死んでしまう。音楽家としての私は、先輩を選んだ時に間違いなく死を迎える。そう思ったんだ」

 

 実力がどっちが上かはよく分かっていた。私のレッスンが無くてもきっと、高坂さんが勝っていただろう。それを裏切ってでも先輩を取ることは選択肢としては可能だったけれど、それは絶対に出来ない事だった。自分を裏切ってまで、音楽をやっていたいとは思わない。譲れない部分は誰にだってあるのだ。

 

「それだけは絶対に譲れなかった。君が、先輩の件で私の忠告を無視してでも、その想いを譲れなかったように」

「うっ……確かに。……最初の質問だけど、別に恨んではいないわよ。確かに最初は恨んだけど、それは筋違いだって分かってたし。先生を恨むのだって、きっとそう。恨むべき相手なんていない。でも……黙ってることも出来なかった」

「そうか」

「アンタこそ、私に文句の一つでも言いたいんじゃないの」

「いや、別に。面倒なことをしてくれたなぁとは思ったけど、それにタダ乗りしてる人の方にもっと文句を言いたかった」

「そういうの、嫌いよね」

「そりゃそうだ。自分で言わないくせに、人に言ってもらおうなんて……反吐が出る」

「だから、去年の辞めた子たちもそんなに好きじゃなかった。そうでしょ?」

「その通り」

 

 彼らは別に間違った思想を抱いていたわけじゃなかった。けれど、その大半は愚痴を言うだけ。そして行動力のあって、正義感だけ無駄に強かった一人を祀りあげて、自分たちの願いを通そうとした。本当に困っているときに寄り添うこともしないで。だから私は彼らを助ける気にならなかった。

 

 或いは、希美が神輿としてそこまで機能しないと分かった時に、私を代用品にしようとしたときの、あの媚びるような目が嫌いだったのかもしれない。どちらにしても、彼らの為に動く気にはなれなかった。

 

「ともかく、私はアンタを恨んではいないわよ。ムカつくけど」

「なんだそれ」

「しょうがないでしょ、ムカつくものはムカつくのよ!」

「そんな理不尽な……」

 

 やっと声にいつもの調子が戻って来る。しおらしくしているのは大人しくてやりやすいけれど、ちょっとつまらない。いつもの感じが一番楽なのだ。

 

「ま、私は別にいいけどさ。謝るべき人に謝っときな」

「……善処する」

「それ、高坂さんと同じこと言ってる。案外キミらは似たモノ同士かもね」

「はぁ!?」

「高坂さんとか先生もそうだけど、それ以外に何かやってそうだからな。心当たりがあるなら早いうちに謝っとけ。普段通りに接してくれてるかもしれないけど、それは相手の優しさに甘えてるだけだから」

「……分かってるわよ」

「そう? じゃあ私は次の所に行くから」

 

 私は校舎の中に向かって歩き出す。

 

「……ごめんなさい」

 

 蚊の鳴くような声だったけれど、確かに私の耳にはその力無い声が響いていた。どこか不満気でもあったけれど、それはそれで彼女らしい。返事をするのも少し違うような気がして、私は黙って手を挙げる。そして彼女に背中を向けながら軽く振って、校舎の中に入った。

 

「もうちょっと素直になればいいのに」

 

 呟いた言葉は、彼女に対して言ったつもりだった。けれどよくよく考えれば、トランペットパートの人間に、もっと言えば吹奏楽部全体に当てはまっているかもしれない。まぁそもそも楽器をやっている人間なんて言うのはどこか素直じゃないところがあったりするものなのだ。私も含めて。

 

 この後、吉川は高坂さんや先生に対して何かしらするだろう。その詳細は多分、知る必要はない。きっと、良い形にしてくれるだろうから。彼女にはそういう能力があると、私は信じていた。

 

 

 

 

 

 

 翌日も練習は続く。一日の休みも無く、練習は続くのだ。

 

「トランペット、今のところが雑です。もっと音区切って。笠野先輩はもっとください。吉沢さんも。滝野は最後にへばらない」

「「「はい!」」」

「ホルンはもっとください」

「「「はい!」」」

 

 私と先生の指示が交互に飛んでいく。私は先輩の場合一応先輩と呼ぶことにしていた。余計な理由で反感を食らいたくないからである。とは言ってもこの猛練習の中で愚痴より手を動かすことに集中している部員からは、もう変な抵抗は感じなかった。私をあまり好いていなかったであろうフルートやホルンも今では言うことを聞いてくれる。パートリーダーを通した間接的な影響力の行使をしないといけなかった初期と比べれば雲泥の差である。

 

「それと……ユーフォ。今のところは田中さん一人でお願いします。田中さん、聞こえましたか」

「はい」

 

 前に先生がもう少し待つことにした場所。そこで行われたのは黄前さんへの無慈悲な戦力外通告。しかしこれは妥協できない問題だ。その目にショックを浮かべ、そして演奏中膝の上で手を握っていた彼女の顔を見て思うことが無いわけでは無いけれど、同情も妥協も許されはしない。

 

 しかし、私は逆にこれをチャンスと思っている。彼女は今まで悔しさを知らなかったのではないだろうか。聞けば、中学からずっとオーディションに合格していたらしい。塚本君によれば、それで先輩から疎まれていた時期もあったようだけれど、それでもずっと上手い奏者であり続けた。

 

 田中先輩に負けても良かったのは先輩がある種特別感のある存在であり同時に年上だから。なので彼女は挫折経験がそこまでない。そのために実は結構プライドの高い人だと思っている。塚本君の話を参考にすれば、オーディションで抱いていた感情もきっと、落ちたらどうしようではない。先輩より上手かったらどうしようだ。ナチュラルな自覚無き傲慢さ。それが良い作用をするときもあれば、きっと悪く作用することもある。

 

 なのでここで挫折を軽く知ったのは良い経験になるんじゃないだろうか。彼女は出来る奏者である。悔しさを自覚することが成長に繋がると判断した、私の最初の面談は間違っていなかったらしい。やはりあれは来年もやろう。きっと効果がある。

 

「黄前さんの件ですが、私に任せてはもらえないでしょうか」

「別に構いませんが……」

 

 その日の終わり、先生といつも通り報告を行っている時にそう言われた。戦力外通告を突きつけられて少なからずショックを受けている様子なのは私も先生も理解する所だった。何かしら対応をしないといけないと思ってはいたが、その後の演奏はしっかり行っていたのでどうしたものかと考え中だったのである。

 

「私はまだ、彼女の出来ますという言葉を忘れてはいませんので」

「なるほど、ではお任せします」

 

 下手にフォローしては私の願いは叶わない。彼女は知らないといけないのだ。悔しいという感情を。悔しくて悔しくて死にそうだった、あの時の高坂さんの感情を。先生には何か、考えがあるらしい。ちょっと不安ではあるけれど、任せることにした。何でもかんでも私がやると言うのも変な話だ。先生に思惑があるのなら、それの推移をみるのも大事なことだろう。もしダメそうなら、テコ入れすればいいだけの話なのだから。そう思って頷くことにした。

 

 そして翌日。それは思わぬ形で結果となって現出する。朝早く。いつも通り一番乗りはオーボエだ。彼女は本当に早い。しっかり寝てるのか心配にはなる。

 

「何時に寝てるの?」

「10時」

「それで何時に起きてる?」

「4時半」

「なるほど」

 

 ちょっと老人みたいな時間感覚だと思ってしまったけれど、黙っておくことにする。吉川がこんなこと言ってたら思いっきり言うのだけれど、彼女にはそういう事はしない方が良いと思っていた。真面目にショックを受けられても困る。その演奏はいつも正確無比だ。ただ、正確すぎて少し無味に感じることもある。

 

「みぞれはさ、もうちょっと……」

「もうちょっと、なに?」

「……いいや、何でもない」

 

 感情を込めて、と言おうと思ったが、府大会の直前に余計なことを言って混乱させたくない。それでパフォーマンスを落とされては一大事だ。オーボエは一人しかいない上に結構大事なパートが多い。彼女に全て託されているのだから。なのでそういうアドバイスは今はしないでおく。府大会を突破出来たら、言えばいいだろう。そう思って別のことを言おうとした瞬間、勢いよく音楽室のドアが開いた。

 

 唖然とした顔でそちらを見れば、息を切らした黄前さんが立っている。

 

「どうしましたこんな朝っぱらから息を切らして。元気ですね」

「先輩!」

「は、はい」

 

 思わずちょっと後ずさる。こんな熱血な感じの目をしている子だっただろうか。そう言えばと思い出す。昨日の夜忘れ物をしたということで黄前さんが先生を訪ねてきたらしい。その時に、きっと昨日話したフォローを先生がしたのだろう。朝そんなことを伝達された。

 

「私、分かりました!」

「何が」

「あの時の麗奈の気持ちが! あの時は全然悔しくなかったです。でも……今思えば悔しくあるべきだったんです。でも昨日分かりました。昨日、悔しくて死にそうだったから!」

「そ、そうですか、それは良かったですね……」

「はい! ……あ」

 

 いきなりドアを物凄い勢いで開けた挙句、よく分からない演説を聞かされたみぞれは隅っこでオーボエを盾にしつつ怯えている。それを見た黄前さんはやっと我に返ったようだった。ちょっとした興奮状態だったらしい。

 

「ま、まぁともかく。君がそういう感情を抱いたのは良いことだと思います。最初に聞いた、自分の変化に対する答えを見つけられましたか?」

「はい!」

「ならばよろしい。朝から元気なようなので、早速練習してもらいましょうか。先生に言われたのでしょう? 忘れていないと」

「はい、よろしくお願いします!」

「いい返事です。でも、その前にそこで怯えている子を何とかしてくださいね」

 

 慌てて黄前さんが固まったままのみぞれに駆け寄る。あの熱意のある目は、やっぱりどこか高坂さんに似ている。朱に交われば赤くなる、という言葉は本当だったらしい。友達というのはそういうものなのだろう。感化され、影響され、そして関係を深める。彼女らの友情が、彼女たちにとって良いモノであることを願った。

 

 朝の日差しは既に眩しく、暑い。府大会まであと数日だった。

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