目覚ましの音がする前に目が覚める。いつも通りの時間だ。天井を見上げながら小さく息を吐いて、起き上がる。カレンダーには大きな赤い丸。今日は府大会の日だった。
顔を洗って着替え、そして台所に立つ。中学校の府大会は既に終わり、南中は関西大会進出を決めていた。ゴタゴタはまだ解決してないようではあったが、それでも結果を残しているところは流石というべきかもしれない。その演奏は私も聞きに行った。南中は午前中だったので、いわば半休の形である。
先生はちょっと困惑していたけれど、私がよほど血走った眼をしていたのか、許可してくれた。おかげで無事演奏を聞けたのである。妹の晴れ舞台だ。何としてでも見ないといけないという意思で行動している。その演奏は素晴らしく、雫さんと一緒に二人で感涙を流したものである。
そんな妹は今日も普通に練習だ。彼女のための弁当を作り、冷蔵庫に入れる。今日は早くに学校を出発しないといけない。そのため、いつもより出る時間は少し早いのだ。
大学時代の友人からこの前送られてきたコーヒーを飲みながら、パンを立ったまま食べる。それが終わったら晩御飯の作り置き。一連の作業を終えて仏壇に手を合わせる。私が大会で演奏するわけじゃない。けれど、どうか見守っていて欲しいと願いながら。家を出る前に、部屋に戻って忘れそうになっていたモノを回収する。必要はないかもしれないけれど、持っておきたかったのだ。
玄関を開けようとしたとき、後ろから声をかけられる。そこには寝間着のままだけれどしっかり目を開けた妹が立っていた。少しだけ驚く。限界まで寝て体力を蓄えるタイプなので、まさか見送ってくれるとは思ってなかった。
「早いな」
「……北宇治、今日なんでしょ」
「あぁ、うん」
「そう……行けると良いね、関西」
「行くんだよ、必ず」
「……そっか」
そう言うと、彼女は小さく笑った。思えば、久しぶりに笑顔を見たかもしれない。
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
誰かに見送られるのは、一体いつ以来だろう。その声の温かさが私には嬉しかった。
「そう、良い感じ」
音楽室では最後の調整と言わんばかりにいつもの居残りレッスン二人組の様子を見ていた。時間はまだ集合時間の大分前。トランペットは持ち運びがしやすいので、こういう風に融通をきかせることもできるのだ。
「よし、取り敢えず大体は良いでしょう。最後、この前言った所だけもう一度」
「「はい!」」
朝から元気な声が響く。他にもいろんな場所でちょこちょこと音出しをしている音が響いていた。皆眠ってはいられなかったらしい。本番前に電池切れにならないか心配だ。
「おはよう」
音楽室のドアを開けて、中世古先輩が入って来る。高坂さんと吉沢さんはすぐに軽く頭を下げた。音を出している最中なのでしょうがない。この二人も随分と上達した。これなら主力パートとして申し分ない実力を発揮できるだろう。
「早いね、三人とも」
「本番ですから。二人とも、今の調子で。調整はこの辺で良いかな。後は自分たちで納得できるように」
「「はい!」」
ちょっと話しながら、二人は音楽室の隅っこで練習を始める。時計をチラリと見た限り問題なさそうだ。そうしている間にも続々と人がやって来る。
「桜地君」
「はい、何でしょうか」
「ありがとう」
「お礼を言われるようなことは、何も」
「そんなことないよ。私のワガママを叶えてくれたから。私、このままなんとなく三年間が終わるんだと思ってた。今年は揉め事なく終われば、それで良いって。でも……今はそれじゃあ終われない。もっと、もっと先を見てみたくなっちゃった。だから、そんな風に思わせてくれて、ありがとう。桜地君みたいな後輩がいてくれて、良かった」
「……ありがとうございます。でも、その台詞は全国大会の前まで取っておいてください」
「そっか、そうだね。そうだった。じゃあまたその時、改めて言うよ」
「はい。待ってます」
部長が音楽室に入って来る。そして先輩は部長のところへ行った。危ないところだった。これ以上話を続けていては、危うく泣いてしまう可能性があった。ちょっと涙腺が緩くなっているのかもしれない。
府大会は去年も出た。それ以前も。けれどそれまでの北宇治と、今の北宇治は全く違う。何もかも、まっさらになったと言わんばかりに。だからこそここでは終われない。もっと先に、もっと上に。それが今までの日々に報いる、最も良い方法なのだ。
「はーいみんな聞いて、聞いて下さーい」
集合時間になって、部長が前に立つ。
「各パートリーダー、自分のパートが揃っているか確認して下さい。トランペット」
「います」
「パーカス、問題無し」
「フルート全員います」
「クラ揃ってます」
「ファゴット・オーボエ大丈夫でーす」
「ホルンいます」
「トロンボーンいまーす」
「低音オールオッケー」
「えーっとサックスも大丈夫。はい、わかりました。七時にトラックが来るので、時間になったら積み込みの準備を始めます。楽器運搬係の指示に従って速やかに楽器を移動してください」
「「「はい!」」」
どこか緊張の色が見える人、逆にそうじゃない人。こういう場面ではその人の性格が結構如実に表れる。譜面隠しを配っている間も深呼吸をしている音が幾つも聞こえた。
私が、緊張することは悪いことじゃないと思っている。過度な緊張は良くないけれど、程よい緊張は自分を律する手助けになる。それに、緊張というのは頑張ったからするモノだと思う。去年の北宇治に緊張があったか、と聞かれれば否だろう。今年に緊張の色があるのは、皆が頑張ったから。頑張ったからこそ、努力したからこそそれが報われないことを恐れるし、上手く行くか不安になるものなのだ。
この緊張感は、彼らの今までの積み重ねの象徴である。その姿は、とても頼もしいものだった。
朝とは言えやはり暑い。けれど私はまだマシな方だろう。出場する組は皆冬服を着ている。この真夏に冬服なのはどうかと思うのだが、演奏する場では正装でないといけない。学生の正装は当然冬服になるわけだ。
私の場合はスーツとかもある事にはあるし、家のことを考えればどっちかと言えば和服なのだが、今回は奏者じゃないので夏服のままでいる。単純にこの暑い中着たくなかったというのも多少あるけれど。
「お前ら気持ちで負けたら承知しないからな! わかったか!」
「「「はい!」」」
「はぁ……。はぁ……。すみません。お待たせしました」
松本先生のありがたい激励が終わった後、先生は二回目の遅れて登場である。サンフェスという前科があるので慣れてるが。手にタキシードを携えて、始まる前から汗をかいている。意外と時間にルーズなタイプなのかもしれない。
「みんな揃ってますか」
「ええ」
「そうですか」
しまらないなぁ、と思いながら苦笑いである。松本先生がこういう部分での厳しさを担っているので、バランスは意外といいのかもしれない。滝先生はこういった部分では緩いのだ。普段の練習では粘着イケメン悪魔と言われているのに。私が何と呼ばれているのかはあんまり考えたくなかった。
「先生、ちょっといいですか?」
部長が手を挙げる。
「どうぞ」
「森田さん、お願い」
「はい! えー、私たちサブメンバーのチームもなかがみなさんへのお守りを作りました。今から配りますので受け取って下さい」
「イニシャル入りです」
歓声というか感嘆というべきか、とにかくおおっ! という声と共に惜しみない拍手。加部から相談された時はちょっとビックリしたものの、反対する理由も無かった。生徒の自主性。この部のモットーである。
まぁそのせいで時々家庭科室でちょこちょこ様子を見ることになったので、それは結構大変だったのだが……それでも今日が実質初舞台の新生北宇治部員たちへ良い激励になったのではないだろうか。それならば多少の苦労も報われるというものである。
「皆行き渡りましたか? まず毎日遅くまで練習する中、全員分用意するのは本当に大変だったと思います。ありがとう。拍手」
再び拍手。冬服の集団が炎天下の下で熱気を放ちながら拍手してると少し暑苦しい。その拍手に対し、照れたように笑うB編成組を優しい顔で斎藤先輩が見守っている。彼女も夏期講習が沢山入っている中、演奏指導とこのお守り作成を手助けしてくれていた。私や先生が面倒を見切れない部分を、松本先生と先輩が見てくれた。本当にありがたい話である。
「では、そろそろ出発します」
「小笠原さん」
「はい?」
「部長から皆さんへ。何か一言」
「えっ! 私ですか!?」
「よっ。待ってました、部長様」
先生に促され、少し驚く部長に、田中先輩が茶化す。これは彼女なりの激励と言うか、緊張をほぐすための手段だろう。お互いに思う所があるとは思うけれど、それでもこの二人は良いコンビであるように思えた。
「茶化さないの! 代わりに話させるよー」
「こほん。ではユーフォの歴史について」
「それはいいから」
二人のやり取りに笑い声が響く。見守る顧問二人も、勿論私も笑顔がこぼれる。
「えっと、今日の本番を迎えるまで色んな事がありました。でも今日は、今日できることは今までの頑張りを、想いを、全て演奏にぶつけることだけです。それでは皆さん、ご唱和下さい。北宇治ファイト~」
「「「おー!」」」
独特の掛け声に部員たちの熱気は一気に高まり高らかに手を上げる。
「さぁ、会場に私たちの三日月が舞うよ!」
「「「おー!」」」
「はしゃぎすぎだ!」
松本先生のお叱りを受けて、手がゆっくりと下がっていく。私と先生もしまったという顔で手を下ろす。先生も意外とノリがいいのかもしれない。もしくは実は結構緊張しているからこそそれを誤魔化すためという可能性もある。いずれにしても、この団結感は良いモノだった。掛け値なしに。
バスの中はひたすらに静かだった。緊張がピンとした空気を作り出していた。良い雰囲気だ。この程よい緊張が気の抜けない環境が自分の実力を引き出す。私はサンフェスの時と同じく、先生の隣。先生はただひたすらに楽譜を眺めている。五線譜を指でなぞり、何回も自分の中で反復しているようだった。
私はそれを横目に、ワイシャツの下に入れていた銀色の鎖を取り出す。その鎖は小さな十字架に繋がっていた。それを指で撫でて、そしてもう一度しまい込んだ。
「ロザリオですか」
隣の先生から、小さな声で話しかけられる。
「えぇ、はい。すみません、本当はこういうのあんまり良くないんでしょうけど」
「松本先生にバレなければ大丈夫ですよ」
「先生がそんなこと言っちゃダメじゃないですか……。でも、ありがとうございます」
「大切な物なのでしょうから」
「はい……そうですね。私は、別にキリスト教徒でも何でも無いんですけど、これだけは手放せなくて。大学時代の亡くなった親友が遺したものなので。私が大会に出るときはいつも持ってくようにしてるんです」
私は別に信仰心なんてない。むしろ、自分の親友を連れて行った神様なんて大嫌いだ。彼女が神に愛されたというなら、私はそれを凌駕する演奏を、生きてしてみせる。そうすればきっと、神様を後悔させられるんじゃないか。そう思っている。これを持っているのは、そのため。持っていれば、天の上から聞いてくれるんじゃないかと、そう思っているからだ。
「今日は私が出るわけじゃないですけど……私が教えた人たちが出るので。見守ってくれればいいなと、そう思ったのです。すみません、なんか湿っぽい話で」
「いえ、とても……素敵な話だと思いますよ」
先生はそう言って、どこか悲し気に微笑むとまた譜面に目を通し始めた。その表情を意味を、私もいつか正しく知るのだろうか。そんなことを考えながら私は目を閉じる。そう、きっと見ていてくれるはずだ。何よりも音楽が好きな、そういう人だったのだから。
「では、この扉を閉じたら音出しして構いません」
スタッフの学生に先生が頷き、最終調整が行われる。ここが正真正銘最後の調整場だ。各自でチューニングをして、最後に音合わせを行う。ある程度終わったら、先生が手で合図をした。それを受けて、クラリネットの鳥塚先輩から始まり次々と楽器が音を出し始める。
この音合わせですら、最初はガタガタだった。合わないまま延々と続いて、適当なところでカットしないと次に進めないありさまだった。けれど今は違う。水の入ったペットボトルに綺麗な波が出来ている。小さな、けれど一歩一歩積み重ねてきた成長に目を細める。
先生は満足したように頷いて、話を始めた。
「えっとー、実はここで何か話そうと思って色々と考えてきたのですが、あまり私から話すことはありません」
その何とも言えない発言に、少し困ったような空気が出来上がる。けれどそれを払拭するように先生は話を続けた。
「春にあなたたちは全国大会を目指すと決めました。向上心を持ち、音楽を奏でてきたのは全て皆さんです。誇って下さい。私たちは北宇治高校吹奏楽部です」
一気にモチベーションを上げる戦略は本当に上手い。こんな時だけ、全力で肯定する。だけれど今はこれでいい。今必要なのは厳しい言葉じゃない。全力を出せるように送り出す、そんな言葉だ。先生の目がこちらに向けられる。軽く頷いて、私は前に出た。
「春、先生に声をかけられました。自分の手伝いをして欲しいと。何言ってんだこの人と、あの時私は思いました。全国大会出場なんて、おとぎ話に過ぎないだろうと」
無理だと先生を一蹴した。自分の誇りを汚されているような気がして、怒鳴りもした。それでも高坂さんの情熱に過去の自分を見て、一年生に去年のような思いをさせたくないと思って、戻ろうと決めた。
その先に待っていたものは全く持って楽しいものばかりじゃなかったし、何ならほとんど辛いことばかりだったけれど、それでもここまで何とかやってこれた。自分のやった行いが正しいとは、今でも思っていない。けれど、頭ごなしに否定するようなものでも無いんじゃないかと、自分で少し思えるようになった。
「実はまだ半信半疑です。なので見せてください。常識も、限界も跳ね返して、先に進む姿を。皆さんの奏でる魂と努力と汗が見える音色を、私は待っています。最後に、練習は悲観的に! ……続きは?」
「「「本番は楽観的に!」」」
「そうです。その通り。これまでやって来た自分を信じて、何とかなるさと言い聞かせ、挑んでください。健闘を祈ります」
「ありがとうございました。そろそろ本番です。皆さん、会場をあっと言わせる準備は出来ましたか?」
咄嗟に返事の出来ない彼らに向かって先生はなお問いかける。
「始めに戻ってしまいましたか? 私は聞いているんですよ? 会場をあっと言わせる準備は出来ましたか?」
「「「はい!」」」
「では皆さん、行きましょう。全国に」
先生は扉を開け放ち道を指す。その道の先に、夢への道が広がっている。けれどそれは簡単なものじゃない。茨で満ちた、砂利道だろう。これまでよりももっと苛酷になる。しかし、彼らはここまでの道を歩いて来た。だから、私は見たいのだ。奇跡を掴みとろうと懸命にひた走る、彼等の結末を。願わくば、それがハッピーエンドでありますように。
「緊張してきました……」
舞台袖で小さい声ながら、吉沢さんが震えている。ちょっと今日は冷房が効きすぎているような気がした。多分、彼女の震えはそのせいだけじゃないと思うけれど。
「大丈夫」
「でも~」
「大丈夫だから。君の演奏なら、大丈夫だ。他ならぬこの私が言っているんだよ。もっと信頼してくれないと」
彼女もよく食らいついてきた。元々高坂さん用にカスタマイズされていたレッスンは正直生半可なものじゃないと思う。自分でもちょっとギリギリかなぁというラインを攻めていたつもりだ。それでも今でも参加しているその根性なら、きっと並大抵の舞台は何とかなるだろう。
それに、言葉と態度は緊張しているようだが声音は存外平気そうな声をしている。ただ単に励まして欲しかったのかもしれない。だとしたら結構図太い性格をしている。勿論、誉め言葉だ。他者に簡単には動じない。それが彼女の良いところであると私は最初の面談で思った。きっとそれは少しずつ形になっているのだろう。この部活の中で。
前の学校の演奏が終わる。それはすなわち、北宇治の出番がやって来ることを意味していた。
「桜地先生。行ってきます」
高坂さんの言葉に私は頷きながら返答する。
「あぁ。ぶちかましてこい」
扉が開き、煌々たるスポットライトへの道筋が開かれた。高坂さんは勝気に笑うと、前を向いて歩いて行く。頼もしい後輩だ。だからどうか臆することなく演奏をして欲しい。私が倒したいと、そう思える演奏を。
「プログラム五番。北宇治高等学校吹奏楽部。課題曲Ⅳ番に続きまして、自由曲は堀川奈美恵作曲『三日月の舞』。指揮は滝昇です」
扉の向こうから聞こえるアナウンス。かつてそこで演奏した身だからこそ分かる。彼等の目には指揮者の顔しか見えない。ホールの暗闇の中で光に照らされるその姿しか、目には映らない。観客など眼中から消し去り、その全力を自らの楽器にこめる。中原中也曰く、観客は鰯。誰も知らない彼等の実力でその喉を鳴らすのだ。
冒頭の立ち上がりはしっかりと出来ている。何度も口を酸っぱくして言ったところだ。一番最初とは言わば挨拶。そこが崩れると、その先どんなに建て直しても印象が悪い。第一印象を与える大事な部分であると。
スパニッシュな演奏に湿気を含んだ音は木管の響きだ。課題曲の最初のスペイン部分。ここも出来ている。後ろで響く打楽器がそれを後押ししていた。最初は揺らいでいたホルンも今となってはかなり安定している。扉を挟んでいるため鮮明ではないのが悔やまれるが、配置を移動したのは意味があったようだ。
転調、跳躍。注意した部分が出来上がっている。一つ一つの部分を確認するように聞き、そして小さく頷き続ける。トロンボーンの勇壮さ、ユーフォとオーボエの物憂げなユニゾンも完璧だ。
フランス部分に移っても問題なく曲は進行していく。マーチのコツは余計な部分を削ぎ落しつつ、それでいて肉のある演奏をすること。軽やかさを持って、しかし薄っぺらい音にならないようにすること。何度もそう言って、そしてそれが実行されている。立華と洛秋の課題曲は別の曲だ。府大会のⅣ番はウチが一番上手いだろう。
華やかな終幕を迎えた課題曲。そして少し間をおいて、自由曲が始まる。最初はトランペットのファンファーレから。その音を聞いて、何度でも思ってしまう。あの舞台に、あの華やかな場所に、スポットライトの真下に、私も立っていたいと。けれどそれは叶わない。ならば今は、あの場にいる彼らに夢を託すしかないのだ。
「大丈夫?」
小さな声で斎藤先輩が話しかけてくる。
「何がですか?」
「手、血が付いてるから」
気付かないうちに、ロザリオを握りしめていたらしい。手には薄っすら血が滲んでいた。全く気付きもしなかった。そんな痛みも忘れるくらい、演奏に集中していたのだ。気付いた今でも、痛みが襲ってこない。それよりももっと、滲んだ紅い血液なんかどうでもいいほど、演奏を聞いていたかった。
空虚だった部分が埋まっていく。この十字架のかつての持ち主が鬼籍に入ってからずっとどこかで抱えていた虚しさ。それが少しずつ埋まっていくのを感じた。音楽はやはり、私の生きがいだ。失った心すら、埋めてくれる。
演奏は続く。高らかに歌うトランペットのソロ。合わせるようにファゴットが滑らかに音を奏でる。そのソロの美しさは、十分演奏するに足るものだった。きっと高坂さんは私を超えてくれる。
そして演奏が終わる。その後に降り注ぐ拍手。その喝采は全ての努力が報われる瞬間と言ってもいいだろう。興奮に頬を紅く染めたB編成組。その顔の輝きは、良い音楽を聴いた時にしか見られないものだろう。
「君たちも行くんだ。来年、あの場所に」
私の言葉に、彼女らは大きく頷いた。
演奏は無事終わる。他の学校の演奏もある程度聞いてはいたが、恐らく今年も洛秋と立華は問題なく関西行きだろう。残りの一校を争う戦い。最初私はそう定義した。その一枠に入り込めた自信はある。私の耳は審査に特化しているわけじゃないけれど、良し悪しくらいは分かるつもりだ。
けれどそれはあくまでも私の判断。複数いる審査員がどう思うかはまた別問題。今は客席でただ発表を待ち望む。結果発表までの時間はまるで永遠のように長いものだ。
何百もの顔が、一斉に一つの場所を見つめている。熱気に身を任せながら、手を握りしめて。誰もが、そうこのホールにいる全ての部員がそうしていた。自分たちの夢や願いを託しながら。去年はそうではなかった。託す夢なんて無かった。でも今年は違う。きっと叶うはずだ。そう言い聞かせても、心臓は鼓動を止めない。
隣に座っている先生も手をきつく握りしめている。その姿があまりにも震えているように見えたので、私は少し余裕ができてしまった。自分より緊張している人を見ると余裕が出てくる、あの現象である。
「大丈夫ですよ」
前を向きながら言った私の言葉に、先生はハッとしたようにこちらを見てくる。
「私は大丈夫だと確信しています。だから、先生も自分の生徒を信じてください」
ちょっと驚いたようだったが、その後握りしめていた手は少し緩くなった。そして優しく微笑む。先生だって今年の努力が報われるかどうかの第一関門である。緊張しているのも無理はない。それでも、彼の生徒は信じるに足る演奏をしたように思う。
「きた!」
誰かが叫ぶ。前にバサリと結果の書かれた紙が広げられる。一瞬会場全体が静まり、誰もが探す。我が校は何処だと。
金だ。その声はどこからも聞こえる。我が校は久しぶりに金賞を獲得したのだ。そして爆発的な喜びが連鎖し、誰もが飛び上がるようにしてその事実を噛みしめる。だが、ここで終わりじゃない。これはあくまでも通過点。本当に大切な発表はこの後にある。
「えー、この中より関西大会に出場する学校は……」
壇上に立った司会者の間延びした声が響く。もっと緊張感を持ってやって欲しい。だがそれもすぐ忘れる。北宇治は五番。立華も洛秋もその後だ。故に、もし北宇治が関西行きなら、最初に呼ばれるならこの学校になる。
ゆっくりと開かれたその口から発せられる音を、誰もが待ち望んだ。きっと大丈夫。一番楽観的になれていないのは、自分かもしれない。
「プログラム5番、北宇治高等学校吹奏楽部」
一瞬おいて、大歓声が響き渡った。喜びにガッツポーズをきめる者、泣き出す者、跳び跳ねる者。十人十色の喜びが紡がれる。
誰もが喜んでいた。誰もが感動していた。関西大会への切符を、北宇治は手にしたのだ。誰もが渇望する、夢の切符を。拍手を送る。彼等の努力に。これまでの日々に。込み上げる嬉し涙を隠すように、私は拍手をし続けた。
栄冠はきっと、彼らの頭上に輝くのが相応しいだろう。私がこの奇跡のような一幕に、少しでも貢献できたことは誇れることだった。努力すれば、結果は変わる。そう簡単にいかないと言うのが現実だ。けれどここではしっかりとその言葉通りになった。犠牲にしたものに報いることはきっと出来たはずなのだ。
喜びのフェーズが終わると、どっと疲れがやって来る。思わず椅子に深く腰掛けた。先生も安堵の息を吐いている。
「先生、お疲れ様でした」
「はい。……ですがまだ、ここからです」
「えぇ。まだまだここから。第一関門をクリアしたにすぎません。ですが、大きな一歩です。今はそれを祝いましょう」
私は先生に右手を差し出す。先生はすぐに手を出し、そして握った。
「これから厳しくなりますよ。あなたにも、今まで以上に頑張ってもらわないといけません」
「覚悟の上です。きっと彼らなら付いてきてくれるでしょう」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
頷き合いながら互いに手を固く握る。私はまだ、夢の続きを見れるらしい。
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見知った高校の制服から歓声が響いた。そのアナウンスは私の耳にも確かに届いていた。関西大会。中学三年生の夏、夢にまで見た舞台。そしてついぞ、行くことの叶わなかった舞台。その舞台に、北宇治高校は進めることになった。
悔しさが滲む。あの時、どうして頷けなかったのだろう。残って欲しいという言葉に、君が必要だという頼みに。彼の説得も聞かないで、酷い言葉を言って、飛び出したまま一年が経過した。同じ教室にいれば、嫌でも耳に入って来る、部活の話。
彼が友達と話す、部活の話。同じような道を辿ったはずなのに、私と彼は全然違う場所にいる。あの栄光の光は、きっと彼にも降り注いでいるのだろう。圧倒的に上手くなった吹奏楽部の実力向上に関与していないわけがない。
演奏が終わった時、拍手をする自分の手が震えていた。そして、関西大会行きが発表された時も。もしあの時、違う選択肢を取っていれば。私もあの中にいられたのだろうか。北宇治のいる場所を見下ろす。手を取り合って喜んで、涙を流しながら叫べたのだろうか。
去年は何を言っても動いてくれなかったのに。先輩に、同学年に向かって出た黒いモノを呑み込む。いなくなった者に、何かを言う資格なんて無い。でも、もう一度挑めるなら。恥知らずでも、恩知らずでも、人でなしと罵られても、もう一度あのスポットライトの下に行けるなら。
大会が終わった外では、北宇治が楽しそうに集合写真を撮っている。男子部員や後輩に囲まれて笑顔を見せている彼がいる。小さく唇を噛みしめた。もし、まだやり直せるのだとしたら。きっと今しかないのだ。
――そして私は決意した。例えそれが最低の道でも、もう一度あの場所に行けるなら。やるべきことは一つだけなんだと。