第二十六音 好事魔多し
青い空に白い雲。飛行機雲が線路のような航跡を描いている。熱気と声が響くホールの外で一息吐いていた。関西大会出場。その十数年ぶりの大戦果は確かに我々のものとして刻まれたのだ。
立華と洛秋がおなじみの顔ぶれで、残り一校は毎年違う。その枠に入り込めれば御の字。そういう狙いではあったが、本当に出来るかと言われれば話は別。理論通りに進めればそんなに楽なことは無い。そして、今その通りになってみると、少し楽になった気分だ。
いずれにしても、関西大会に出るというのは強豪の証。府大会ダメ金との大きな違いはそこに存在している。格としては名高い関西三強と同じということになる。文字通り、強豪校として振舞えるのだ。それくらいこの関門は大きく、そして厳しかった。
「先輩関西ですよ! 関西」
「桜地先生……私、私……!」
トランペットの後輩二人は目に涙を浮かべている。まるで私が泣かせているみたいに見える絵面なので、少し周囲の目が気にはなったが、泣いてるんだか笑ってるんだかよく分からない顔を見ると指摘する気にもなれない。
「よく頑張った。まだ先は長いけれど、取り敢えずまずは第一関門突破だ」
二人ともお世辞抜きによく頑張ったと思っている。その努力は大したものだった。その辺の先輩よりはよほど努力している。毎日遅くまで残って教えを乞うという、生半可な精神状態では出来ない行動を行ったのだ。それが報われないという事態は何としても避けたかった。
色々悩んだりもしたが、それでもこうなると一気に気が楽になったように感じる。結果が出るというのはこういう事なのだろう。自分の結果ではないけれど、自分のことのように嬉しい。それは教師や親が抱くような感情なのかもしれない。だとしたら高坂さんに『先生』と呼ばれる資格はありそうだ。
「ほら桜地! 何してんだこっち来い! 写真撮るぞ」
「うわっ、ちょっと待って、引っ張らないで!」
滝野に無理やり連行され、肩に腕を回される。反対側では野口先輩がニヤっとした顔で拳骨を突き出してきた。こちらも笑い返して拳骨をぶつける。男子組は大体集合写真では後ろの方になることが多い。単純に身長が高いからだ。
今年は先生も近くにいる。去年は撮る前に辞めてしまったけれど、今年は少しは楽しい気分で写真におさまることが出来そうだった。瀧川君や塚本君なども先生と肩を組んでいる。その先生の顔も楽しげだ。集合写真のカメラマンがレンズを構える。
笑いながらこの写真を撮影できることが、何より勝者になったことの証なのかもしれない。音楽準備室にたくさん並んだ歴代の集合写真。久しぶりに、そこにトロフィーが写っていた。
部長の集合で部員たちが集まる。冬服ばかりで暑そうなのだが、それを微塵も感じさせない笑顔で駆け寄って来る。青春真っ盛りという具合で何とも暑苦しい。ひまわり畑のような雰囲気を感じる。
「えーっと、こういうのは初めてなので何と言ったら良いのか分からないのですが皆さん、おめでとうございます」
「いえ! 感謝するのは私たちの方です。みんな……せーの!」
「「「ありがとうございました!」」」
「あ、はい。ありがとうございます」
何とも薄い反応だけれど、まだ通過点ということだろう。何と言うか、戦いはもう終わりという雰囲気を醸し出しているけれど、むしろここからが本番だと思う。練習の厳しさも、立ちはだかるライバル校のレベルも、ずっと。
春頃敵わないかもしれないと半ば諦めていた相手である立華などが次の対戦相手だ。そして、彼らはここ数年関西止まり。つまり上に行こうと思った場合、あの時無理だと思った相手より上手くないといけないのだ。当然、それは簡単なことではない。
「私たちは今日たった今から代表です。それに恥じないようにさらに演奏に磨きをかけていかなければなりません。今この場から、その覚悟を持ってください」
「「「はい!」」」
そう。この府大会でも多くの学校の夢が終わった。当然、我々はそれを終わらせた側の人間として、彼らに恥じない演奏をしないといけない。京都から全国行きがあったのは何年前だろうか。もうここ数年ずっと大阪府が強い状態が続いている。
三出制度、つまり1999~2013年まで存在した「3年連続出場制度」である。これは結構単純明快で、3回連続で全国大会に出場した団体は、翌年は出場できない決まりになっていた。これには賛否両論様々存在しており、例えば強豪校でも運が悪い代だと全国に行けない三年生が出たりするので、そういう意味では不平等だ。逆に、同じ顔触れで支配される全国大会、という状況を打破する効果も期待されていた。
私の普段出ているオーストリアの大会にこれがあると、私はもれなく出禁になるので無くて本当に助かった。それはともかく、これがつい2年前に廃止された今となっては三強を阻むものは無いのである。
帰りのバスは話す人、寝る人など様々だ。府大会は県内なのであんまり疲れていない人もいれば、もうへとへとという人もいる。基礎体力はこういう時に役立つ。先生はまだ元気そうだった。そして帰りも行きと同じように隣の席である。
「先生すみません、業務連絡です」
「はい、何でしょうか」
「府大会の結果待ちであったので遅れましたが、8月の9日日曜日と14日金曜日、お休みさせてください」
「そうですか……何か、あるのでしょうか?」
「後者は仕事です。ちょっと東京の方に行かないといけなくて。それで前者は……法事です。両親の、三回忌なので」
少しだけしまった、という顔をして先生は了解の言葉をくれる。そこまで気にする必要はない。面倒くさい親戚の相手をよりにもよってこの時期にしないといけないのが嫌なだけだ。両親のことはもう割り切っている。
それに、今年で三回忌なので年忌法要もそろそろ区切れる。次にやるのは十回忌くらいだろう。それはもう何年も後の話。お墓参りは学校が強制休みの日に行く予定なので問題ない。このままだとこの席だけ暗い空気になってしまいそうなので、話題を変えることにした。
「それはそうとやっぱり……そろそろ厳しいですよね」
「何がでしょうか」
「三人体制です。松本先生はB編成担当なので実際にはA編制二人体制ですけど」
「そうですね……。我々はどちらも金管を専門に生きてきました。当然楽器は違うわけですが、やはりそろそろ木管・打楽器にもプロフェッショナルな意見を取り入れたいところです」
「先生においては、何か対策は?」
「関西行きが決まったら正式にお願いしようと思っていたそれぞれのプロ奏者がいます。幸い快く引き受けてくれたので、彼らに来てもらう予定です」
「なるほど、それは良いですね。フルートやダブルリードはそろそろ手一杯になるところだったので。より専門的な指導をお願いできるでしょう」
どんな人かは分からないが、恐らく先生の知り合いなのだろう。多分同じ大学の出身者と見た。そういう繋がりは案外馬鹿に出来ない。大学の交友関係は社会人になっても続くことが多いのだ。
「桜地君の方は、どなたかいらっしゃいますか? 猫の手も借りたい状態ですし、コントラバスなども出来れば欲しいものです」
「まぁ……いないわけじゃないですけど……全員外国人ですよ? 大丈夫ですか?」
「……そういう問題はありましたね」
「はい。それに、頼みこめば来てくれるとは思いますけど、多分関西じゃ無理だと思います。全員プライド高いですし、そもそも結構忙しいので」
「なるほど。では、もし出来そうならどんな形であれ協力してもらえるようお願いしてみてください。個別の楽器でなくても、全体の形という面でも意見があるだけで参考になりますから」
「了解しました」
連絡先を知っている人は多いし、それなりに伝手もあるけれど、日本の高校にわざわざ協力してくれるかどうかは分からない。なので、私の最も近しかった仲間を召喚するしかないだろう。同じバンドメンバーなので、他よりもかなり仲が良い……と勝手に思っている。今でも郵便物はたまに届くのだ。
ベルリン・フィルに二人、シカゴ交響楽団に一人、スイスで指揮者をやってるのが一人。揃いも揃って変わった性格をしているので、呼んでも素直に来てくれるかは分からない。とは言え、頼んでみる価値はあるだろう。
「それにしても、よく似た者同士で友人関係を築いているようですね」
「えぇそうで……ちょっと待ってください、それどういう意味ですか。私は一番まともです」
「問題児は得てしてそう言うものです」
「いやいや、それはおかしい」
先生の間違った認識を正そうとしたが、結局学校に着くまで笑ってはぐらかされた。その人を食ったような笑顔が最初は何とも腹立たしいが、最終的にはもうどうでもよくなってしまう。意外とこういう手段で交友関係を築いていたのかもしれない。今度来る人たちが先生と似たような人じゃないことを切に祈った。具体的には私の胃のために。
大会が終わっても練習は終わらない。なんなら府大会が終わった午後から、関西に行くための練習が始まるのだ。中々ハードなスケジュールではあるが、しょうがないことだ。学校に戻って来た時には既に祝・関西大会出場の横断幕が発注されていた。中々スピーディーな行動をした教頭は、ほくほく顔である。これで来年度から自慢できることが出来たのだからさもありなんと言った感じか。
なんなら、この後八月中に存在している中学三年生対象の学校説明会とかでも自慢するつもりなのだろう。それが新入部員獲得に繋がるなら大歓迎だ。
「皆さん、行き渡りましたか?」
配られた予定表には割と空欄があるように見える。しかしこれは落とし穴。この日は特に何も特筆すべきことは無い練習日という意味になっている。何もなくても練習するのが当たり前だ。
夏休み期間は午前がパート練習、午後は合奏練習という形になる。私は解散後に学校を閉めるまでいつも通りのレッスンだ。苦笑いしつつも気合いを入れる部員の姿につくづく今年は去年と違うと思い知らされる。それだけ皆賭けているのだ。
今日が5日の木曜日。10日に花火大会がある。その後15・16日の休みを経て3日間の合宿だ。これは前々話していたもので、既に予約は済んでいる。何事も早め早めの行動が大事なのである。そして本番は27日の木曜日になる。これが大まかな8月のスケジュールだ。
先生に伝えたように、私は9と14も休む。15も東京だろうし、恐らく墓参りは16だろう。遊んでいる暇もないとはこのことだ。けれどやっと仕事が入り始めている。今の時期を逃せない。しかも次は放送電波、つまりテレビ。それなりの収入になる。逃す手は無かった。私の生活がかかっているのである。
「8月の17、18、19の3日間近くの施設を借りて合宿を行います。今日帰ったらきちんとご家族に話しておいて下さい」
この合宿ではほとんど練習漬けになるだろう。家に帰る時間なども惜しんで出来るので非常に効率的である。この時期はお盆期間に近いので塾も休みらしく、斎藤先輩や他にも夏期講習が入っている組が参加できるようになっている。日程調整に苦労した。
「その前の15と16が休みっていうのは?」
「そのままの意味ですよ」
「休むんですか!?」
勤勉な生徒の集いのようだ。休むことに驚きを感じている。休めることに嬉しさを感じるのではなく、不満を感じる。その態度が人間として正しいのかはともかく、関西大会突破を目指す吹奏楽部部員としては非常に模範的だろう。
「練習したいのは山々なのですが、その期間は必ず休まなくてはいけないと学校で決まっているらしくて」
「自主練もダメなんですか?」
「学校を閉めるらしいですよ」
「外でやろう」という声が聞こえる。非常に良いことではあるが、熱中症には気をつけて欲しい。それで倒れられては元も子もない。最近は猛暑を通り越して酷暑だ。真昼に至っては暑すぎて蚊も飛ばない。
「残された時間は限られています。三年生はもちろん、二年生と一年生も来年もあるなどとは思わず、このチャンスを必ずモノにしましょう」
「「「はい!」」」
「では、練習に移りますが、その前に……」
扉を開けるとB編成組、通称チームもなかの入場である。
「えーっと、皆さん。関西大会出場おめでとうございます」
「私たちチームもなかは関西大会に向けて、これまでと同様皆を支え、一緒にこの部を盛り上げていきたいと思っています」
「おめでとうの気持ちを込めて演奏するので聞いてください!」
実はこれには私も一枚噛んでいる。Bメンバー最初の練習でこれくらいはさらりと出来ると良いよねということで渡した楽譜がある。有名な曲の方が練習の上でもメロディーなんかが分かるし、良いだろうと思って渡した。曲名は『学園天国』。一般にも超メジャーな曲である。
この曲は1974年、フィンガー5というユニットが出した曲である。学園生活をテーマにしており、その歌詞やメロディーから今の世代にも広く知られている。一番有名な使用方法は高校野球で、甲子園では流れることが多い。冒頭の掛け声はGary U.S. Bondsというヒット曲「New Orleans」から来ている。作詞は数々の名曲で知られる阿久悠だ。
彼らの担当は松本先生だが、一緒に吹いている斎藤先輩も随分と貢献してくれた。この程度のレベルなら造作もなく吹けるので、恐らく普通にAメンバーでも問題ない人だろう。そんな存在を身近な指導役に出来るとあって、今年のB編成はかなりレベルも高い。
その証拠に、誰もが手を叩きリズムに乗っている。綺麗な音が出ている。A編成組は当然耳のレベルも上がっているので、生半可な演奏ではウケないだろう。それがこの感じなので、来年は大会に出られる生徒も多いと見た。まだ足りないが、一つの曲くらいなら仕上げられている。取り敢えず、三日月の舞くらいはAメンバーに見劣りしないくらいにはできるようにしたいと、そんな計画を練っていた。
曲が終わると拍手。誰しも応援されるのに悪い気はしないものだ。それに混じって部長の泣き声が聞こえる。この人は本当に涙もろい。
「部長。何泣いてるの?」
「ごめんごめん。ありがとうございました。皆も、忙しいのに……ふぇぇぇぇー」
「もー、 こういうときは景気のいいこと言ってしめなきゃダメでしょう?」
泣き止まない部長に代わって副部長が立ち上がる。
「はい、いくよー。北宇治ファイトー」
「「「おー!」」」
「あ、それ私の……」
その掛け声に合わせて、私も拳を突き上げる。思わず、松本先生と滝先生も手を挙げていた。こういうのは乗った方が楽しいのだ。
だがうかうかしてもいられない。ここから新しいフェーズが始まる。逆に言えばここまでは大いなる序章に過ぎない。ここからは強豪ひしめく魑魅魍魎の住処。伏魔殿である。一層気合いを入れなくては。頬を叩いて、気持ちを入れ換えた。
現実的な話をするなら北ば、やはり三強のどれかを倒す必要がある。三強とは、関西の常連かつ、全国出場常連である。明静工科、大阪東照、秀塔大附属の三校である。ここが大阪の代表であり、倒すべき敵だ。先は長い。いずれも全国の、しかも金に名前を載せることが多いのだ。課題は山積みである。
「おめでとうございます。関西出場だなんて……驚きました」
家に帰るといきなりクラッカーを食らったので何事かと思った。誕生日でもないし、そもそも私の誕生日は一ヵ月近く前に過ぎ去った。ケーキも何も無いし、ほとんど忘れ去られていたけれど。今どきは便利で、アプリの通知で友達の誕生日を知らせてくれる。
その機能のおかげかは分からないけれど、トランペットパートやみぞれ、クラスの友人二人などはメッセージをくれた。それだけではあるが大分嬉しかったのを覚えている。ともあれ、いきなりクラッカーを食らい困惑していた私を他所に、一回り離れた従姉は我が事のように喜んでいるのであった。
「は、はぁ……どうも……。でも、私が出るわけじゃないですけどね」
「何を言ってるんですか。生徒の功績は先生の功績でもあります。何も努力して無いならまだしも、一緒に走って来たんじゃないですか。きっと皆そう思ってますよ」
「……そうだと良いですけど」
散らばった紙吹雪を片付けていると、帰って来た妹がもっと困惑した顔で見下ろして来る。広いとはいえ、玄関でわちゃわちゃしている二人はさぞ奇妙に見えたことだろう。
「関西、決まったんだ」
「あぁ」
靴を脱ぎながら、何でもないかのように彼女は言う。
「良かったね。兄さんを使っておいて関西に行けないなんて、どうしようもないことは無いと思ってたけれど」
「それはどうも」
「別に……褒めてないから」
まったく変わらないトーンで話されてしまうと反応に困る。私の能力には信頼を置いているのだろうけど、きっと性格面が好きになれないのだろう。それはそれと割り切るのは何とも彼女らしいと言えるかもしれない。
多分普通に嫌いな人はいるんだろう。だがそれをおくびにも出さず、平等に接しているはずだ。そういう教育を受けていると聞いている。私が日本にいない間、遊び惚けている(という扱いになっていた)私の代わりに期待されていたのが彼女なのだ。そのせいもあって私が疎まれているというのもあるかもしれない。
いつか、元に戻る日は来るのだろうか。もし来なくても、私からの感情が変わることは無い。彼女は大切な存在だ。いかに嫌われようと、罵倒されようと、それは変わらない。煩い祖母にハイエナのような親戚。私の扱いに困っている叔父夫婦。それらを除けば、もう二人しかいない家族の内の一人なのだから。
夕飯の支度をしながらテレビをつける。今日は高坂さんと吉沢さんのレッスンはお休みにした。流石に休んで欲しかったのと、私が休みたかったのである。9と14も休みになることを伝えている。高坂さんはなんで? という顔だったが、何かを察した吉沢さんが話を変えてくれたので助かった。
テレビの画面の向こうからは清良女子の吹部の演奏が流れている。あそこは福岡の名門女子校だ。プロにも匹敵する演奏は全国金の常連。むしろ外した時は何があった? となるレベルである。マーチングも上手い学校で、そっち方面でも名前を連ねている。
私の母と雫さんの出身校でもある。前者は吹奏楽部部長、後者は美術部部長だった。今の顧問は亡き母の同期だった人らしい。年賀状が来ていたのを思い出す。あのような上手い学校と競わないといけないのが全国だ。その壁は高い。だがああ言う演奏を聞けばきっと刺激にはなるだろう。
「……合同練習、というのも一つの手か」
京都府でそれっぽいイベントを探してみる。一つ思い当たるのがあった。駅ビルコンサート。京都駅でやるコンサートだ。あれに呼ばれれば、或いは。そのためには全国出場が必須である。もしくは立華高校、中学が行けるなら同じ市内の南中。そういう所とたまには交流を持つのも大事かもしれない。お互いに良いヒントを得られることもある。
提案してみるかと思いながら、手を動かした。やはり今日はどこか機嫌がいいと、自分でも自覚する。この調子が続いて欲しいと願っていた。
翌朝も早めに家を出た。部員の中には早めに来る人も増えている。当然私が重役出勤という訳にはいかない。打ち合わせや確認事項もある。個々のレベルの報告などもしたいし、結局朝出る時間は変わらないのだ。
音楽室には一人しかいない。こちらなど気にせず一人だけでオーボエを吹いている。彼女こと鎧塚みぞれは吹奏楽部唯一のオーボエ奏者だ。オーボエは木管の中でも最難関。故に奏者人口が少ない。
その演奏は非常に上手い。それこそ機械のように。だからそこが却って気になり続ける。府大会前は余計な混乱を恐れて指摘しなかったが、今はそれをどうにかしないといけないかもしれない。全国大会に出るのに、彼女のような部内トップクラスの奏者の実力は必要だった。
彼女がこうなってしまった原因はよく知っている。知っているからこそ、その音は痛々しい。過去の過ちや不甲斐なさを咎められたような気分になって、耳を塞ぎたくなる。誰もいないから仕方なく椅子に座り楽譜を広げる。新たな課題を見つけた。これの解決が果たして先生の呼んだ木管奏者に出来るのか。その正確無比な演奏を聞きながらそう考えていた。
だが次第に眠気が襲ってくる。それと戦いながら、今後の計画を練っていた。
「……のー、あのー、大丈夫ですか?」
「! 何か、ありましたか?」
「え、いや、あの、死んだみたいになってたので……すみません」
「黄前さんと……高坂さん。寝てましたか。こっちこそすみません。人の寝顔なんて、見たいものじゃないでしょうに。ありがとうございます」
「いやー、あはは」
「鎧塚先輩と話してるときも全然起きなかったので体調悪いのかと思いました。先生、ちゃんと寝てますか?」
「大丈夫だよ。そうは言っても、後輩に心配かけてる時点でダメだけどね、アハハ……」
「笑い事じゃないですけど……」
どうやら気付かない間に舟を漕いでいたらしい。きっと機械的とはいえ上手いオーボエの音が良い具合に作用したのだろう。オーケストラなどでも寝ている観客はたまにいる。それはどうなの、と昔は思っていたが、いい音楽で寝るのは実は自然なことだとどこかで聞いた。
ともあれ、後輩に迷惑をかけているようではまだまだだ。私が自身を律しないで、一体何を律せるというのか。もう一度気合を入れなおしたはずだったのに、どこかで緩んでいたのかもしれない。
「先生、大丈夫ならちょっと聞きたいことが」
「分かりました。ちょっと待ってね」
そう言いながら音楽室を後にする。扉を閉めると、音楽室には彼女一人だけ。その空間には、えらく淡泊な音色が響いていた。
翌日、学校に行くと少し変わった車が置いてあった。教職員の車ではないように思う。今まで一度も見たことが無い。来客か、或いは業者かと思って職員室を開けると、見知らぬ私服の男性がそこにいた。しかも先生と話している。一体誰なのかと考え、この前の会話を思い出す。きっと、木管か打楽器の奏者のどちらかなのだろう。
「おはようございます」
「おはようございます。丁度いいところに来てくれました。桜地君、紹介します。今日からパーカッションの指導をしてくれることになりました。私の同期の橋本先生です」
「橋本真博です、どうぞよろしく」
「よろしくお願いします」
少し日焼けした肌に蛍光ピンクのシャツを着ている。その背は先生に比べると幾分か小さい。女子部員とあまり変わらないようにも思えた。自分から見ても見下ろす形になる。茶色い髪に、太い縁の眼鏡をかけていた。
スッと差し出された手を握り、軽く握手をする。こういう仕草がスルっと出てくる辺り、先生より圧倒的にコミュニケーション能力が高そうだ。なるほど、恐らくこの人が引っ張っていく形だったのだろう。そしてこの感じから察するに、何回か海外経験もあるはずだ。
「彼はこの学校のOBなんですよ。楽団に所属する傍らでいくつか吹奏楽部の指導にも携わったことがある人材です」
「よくピンポイントで見つけてきましたね、そんな的確な人材」
先生の大学時代の交友関係について小一時間ほど話を聞いて人格把握の助けにしたいところである。
「滝先生の要望で現在北宇治高校吹奏楽部の特別指導をしています、桜地凛音と申します」
「よく知ってるよー、滝クンに聞いたときめんたま飛び出すかと思ったもん。どっからそんなお金出したんだーってね。しかも詳しく聞いたらタダって、どんな魔法使ったんだって感じだったよ」
「光栄です。色々とまぁ、説き伏せられまして」
先生が若干目を逸らす。非常識である自覚はあったらしい。それを理解しつつ、私は目を細めて口角を上げる。先生の逸らした目がもっと遠くを見始めた。
「いやぁ、ボクの頃も君みたいな存在がいれば全国金は余裕だったかもなぁ~」
「そんな、滅相もありません。私は指導者としてはまだ勉強中の身です。どうぞ、ご指導ご鞭撻のほどお願い致します」
親しみやすい感じを覚える人ではあるが、実際どういう人間なのかは付き合ってみない事には分からない。胸襟を開くのは大事なことだけれど、開きすぎてもいけない。その辺りは段階を踏んだ行動が必要だ。
「それで、早速相談なんだけど、部員の子の実力が分かるものがあるって聞いてるんだけど……」
「あぁ、はい。分かりました。こちらになります」
「お、サンキュー」
渡したのはこれまで書いてきた部員の成長記録を綴ったノートである。パートごとに何冊も存在しており、いわば育成記録のようなものだ。受け取った橋本先生は真剣な顔で暫くそれを読みふけっていた。
「なるほど……大体分かってきたぞぉ。いや、これ凄いね。非常に分かりやすい。どうすんの、滝くん。彼、再来年いないよ?」
「考えないようにしています」
「ともかく、非常に参考になった。どういう指導をしようか、実際に見てからにしようと思ってたけど、これなら早速練習に入れそうだ。ありがとう」
「恐縮です」
「あれぇ緊張してる? ボクが昔知り合いに聞いたのはもっとこうドヤっとした感じの印象だったけど。全世界トランペット奏者を挑戦者にした男ってので、どんな怖い子かとこっちがビクビクしてたもん。よかったぁ、サムライ凛音って言うから変なこと言ったら斬り殺されるかと思ってた」
「その頃は若気の至りです……あんまり触れないでください……」
あんまり思い出したくない部分に触れられる。なんだかんだ今よりずっと調子に乗っていたのが大学時代四年間の記憶だ。謙遜なんてした記憶がほとんどない。
それはともかく、彼はすぐに部員の実力を把握した。これまでの経験もあるだろうし、この部にとって非常に有益なはずだ。それにパーカッションのレベル上げになるし、その間私や先生の指導を別のパートに集中させられる。
関西に向けて必要なものがドンドンと整ってきた。練習計画も順調に進みそうだし、ここから何か大きな問題が来ることは考えにくい。皆で協力して、上に進むための努力ができるだろう。その環境づくりにも貢献しないといけない。
あまりにも順調なこの状態に、嫌な言葉を思い出す。好事魔多し。そういうことわざがあった。けれど言葉に出すと本当になりそうで、言わないことにする。きっと上手く行くだろう。そういう楽観論を抱いていた。
――――そう、この時までは。
作中の年度は不明ですが、2015年度の課題曲を使用しているのでそれに合わせることにしています。