音を愛す君へ   作:tanuu

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第二十七音 傘木希美

 新しい指導者を迎え、北宇治のサウンドをもっと高めていく準備は整っている。田邊先輩率いるパーカッションパートに橋本先生は上手く馴染んでくれるだろう。実際彼らもその道のプロが来たとなれば嬉しいはずだ。トランペットパートでその道のプロである私がいるのに、そういう観点で喜んでいたのが高坂さんだけなのを思い出すと何とも言えなくなるけれど。

 

「では早速、今日の練習を始めますが、その前に一人紹介したい人がいます」 

「あ、まさか婚約者?」

 

今日の練習はこんな言葉から始まった。自分の婚約者を部員に紹介するファンキーな顧問だったらもっとやりやすかっただろう。いや、どっちかというと胃が死んでいたかもしれない。

 

「失礼しまーす」

「彼はこの学校のOBでパーカッションのプロです。夏休みの間、指導して貰うことになりました」

 

 先生の言葉にパーカスパートからは喜びの声が来る。専門家の指導となればまぁこれが普通の反応だ。先生の人脈に感謝しないといけない。

 

「橋本真博と言います。どうぞよろしく! あだ名ははしもっちゃん。こう見えても滝クンとは大学で同期です。滝君の事で知りたいことがあったら、どんどん聞きに来てー! あれ、反応薄いなあ」

「余計な事は言わなくて良いですよ」

「話変わるけど、滝クンモテるでしょー? 女子にきゃあきゃあ言われてるんじゃないの?」

「……はい。吹奏楽部員以外の女子には」

 

 どっと笑いに包まれる音楽室。確かに人気は高い。女子生徒からもそうだし、授業を取っている生徒からもそうだ。厳しくない音楽の授業なので、そこまで得意じゃない層からも評判がいい。文字通り、吹奏楽部以外からは人気の先生だ。実態は全然違うのだけれど。

 

「はっはっは! 吹部女子には人気ないかぁー。ごめんなぁー、滝君が口が悪いのは昔っからで、痛っ!」

「余計な事は言わなくてもいいと言いましたよ」

 

 先生が彼の足を踏んづけてる。この人にもこんな一面があったとは。少し面白い。気心の知れた友人同士という感じなのだろう。だからこその関係性だ。それはともかく、早速彼は部員の心を掴んだようである。

 

 先生が割と静かなタイプであるため、ああいう盛り上げる系の指導者とは縁が無かった北宇治である。そのためか、或いは先生にネチネチ言われている反動か、笑いを起こしてくれる存在への好感度は高いように見受けられる。一気に心を掴む。これもまた、指導者に求められている技能の一つだろう。私には、あまり向いてない。

 

「起きてる~?」

「えっ、あっ、はい!」

「新任のコーチなのに興味なし? 落ち込むなぁ」

「すみません」

 

 どこかぼーっとしていた黄前さんが餌食になっている。可哀想ではあるが、話を聞いていなかったのも事実だろう。真っ赤な顔になって俯いている。彼女がそういう風な注意を受けるのは珍しい。何かあったのだろうか。トラブルの予感がして、少しだけ不安を覚えた。

 

「まぁ、無理もないけどねぇ。その道のプロはボクで二人目なわけだし」

 

 黄前さんへの多少のいじりを含んだターンは終わったのか、別の話になっている。私の話なんてしなくて良いのに余計なことを、と思わないでもない。とは言え、これは一応彼なりの気遣いなのかもしれないと思った。私は先生の非常識とも言える方法でここに招かれている。当然その事情を知らないわけがない。

 

 古巣でどういう扱いを受けているのか、完全には把握してないだろう。けれど元吹部であるならば、吹部内での男子部員の扱いやそういう存在が指導役をしていることに対する風当たりなども想像できるはずだ。それゆえの発言なのだとしたら、感謝しないといけない。

 

「実際、彼はヨーロッパじゃ有名なんだよ。ベルリン・フィルの勧誘断ったって話だし。ねぇ?」

「まぁ、一応」

「ホントは大金はたいて雇わないと来てくれないような存在なんだし、ボクの存在が掠れるのも無理もないかぁ」

「そんな大層な存在じゃありません。私の報酬は皆さんが結果を出した時の感動した表情だけで十分ですから」

 

 我ながら嘘くさいと思うけれど、まぁ間違いというわけでもない。謙遜が美徳とされるのはどの社会でも一緒だ。出る杭は打たれる。出過ぎると打たれないが、それをここでやるには中々難しい。一年生などから存在しているいい人という評判を無くすわけにはいかないのである。

 

「まぁ、それはともかく、教えるからには本気でやろうと思ってるんで。北宇治高校がライバル校を蹴散らせるよう、スパルタでいかせてもらうよ。週にニ、三回は来ようと思ってるんで、パーカッションの子はそのつもりで」

「「「はい!」」」

 

 後は木管の指導者だけ。コントラバスはちょっと迷いどころであるが、川島さんが必要、或いはいてくれた方が嬉しいと言うのなら呼びつけることにしよう。全国大会に間に合うかは分からないが……。最悪来年の助けになってくれるはずである。

 

 

 

 

 

「はい、はい……ありがとうございます、それでお願いします。はい、失礼します……」

 

 電話を切ってからため息を吐く。相手は仕事関係。今度お休みを貰う関係の相手だった。スケジュールの最終確認ということで電話を貰ったのである。部活と私生活。どんどんと忙しくなっていく二つの時間は、確実に自分の疲労度を増す材料になっている。

 

 最近寝つきが悪い。寝ないといけないと分かっているのだけれど、違うことを考えてしまう。その結果寝れない悪循環だ。そろそろ睡眠薬に頼らないとマズいかもしれない。考える事が多すぎる上に、やらないといけないことも多すぎる。

 

 最悪頭を下げていけ好かない祖母か、或いはその祖母の影響で私の家に寄り着かない叔父夫婦に頼むしかない。そもそもウチの叔父は娘である雫さんが大学を中退して美大に入り直す際に勘当して以来会ってない。別に私と仲が悪いわけじゃないのだが、単純にあまり娘に関わりたくないのだろう。面倒な話だった。

 

 ともあれ、遺産を切り崩すにしてももう少し頑張ってからにしたい。あまりそれに頼っていると、この先不安だ。妹の進路もまだ決まっていない。この時期で決まってないのは遅いという話を貰っている。偏差値的に言えば洛秋や堀山でも受かる。吹部を続けたければ立華でも良いだろう。南中吹部の部長で関西行きともなれば、立華の吹部推薦ももらえるはずだ。

 

 とはいえ、それは本人が決める事。私立高ならそれなりに学費がかさむ。あの子がどこに行っても良いように、もっと頑張らないといけない。それでも疲れるのは事実。夕暮れの学校で、もう一度息を吐いた。今は吹部の練習に戻らないといけない。それ以外を考えるのは、この後だ。

 

 階段を昇っていると、低音パートの一年生三人に遭遇する。丁度いいので川島さんに先ほどの件を尋ねることにした。

 

「お疲れ様」

「「「お疲れ様です!」」」

「低音は、もう終わりですか?」

「えっと……まぁ……はい」

 

 妙に歯切れの悪い黄前さんが少し気にはなった。けれどまずは先に要件を済ませる。

 

「川島さん、ちょっと相談なんですけど」

「はい、何でしょう?」

「コンバスにも専門の指導者、欲しいですか? ここだけの話、木管にも呼ぶ予定なんです。欲しければ私が何とかするつもりなんですが、一度聞いておこうかなと」

「緑としては、いてくれたら嬉しいです」

「分かりました。任せてください」

 

 泣き落としでも何でもいいから、アメリカから呼びつけないといけない。今の時代は便利なもので、テレビ会議的なシステムを使えばわざわざ呼ばなくても何とかなるかもしれないが、やはり直接聞いて欲しいという思いはある。時差もあるし、このアイデアは最終手段にしよう。

 

「加藤さんと黄前さんも、困ったことがあれば何でも言ってくださいね」

「……あの! 一つ良いですか」

「葉月ちゃん、ちょっと……」

 

 加藤さんの意を決したような声に、黄前さんが焦ったような顔をする。それは知られたくない事を隠す子供のような顔だった。何かが起きている。確かな確信が私の中によぎった。トラブル。それも低音絡み。しかし低音にそんな問題を起こす生徒はいないはず。

 

 ここにいる三人じゃないとすれば、田中先輩・中川・後藤・長瀬の四人。チューバ組は大人しい二人だし、田中先輩はそんなことしない。そもそも何かあったら話が来るだろう。だとするなら中川だろうか。けれど彼女は別に問題児じゃない。吉川とよく喧嘩しているが、今年の起こした問題度で言えば吉川の方が上だ。それも圧倒的に。

 

「どうしましたか、加藤さん」

「私たち一年生も、吹部の一員だと思うんです」

「それはもちろん。大事な存在です」

「だったら、何が起こってるのかくらい知りたいんです!」

「……はぁ、それはどういう?」

 

 ちょっと要領を得ない発言に困惑する。何か揉め事があった。けれど一年生は仲間外れ。そういう事だろう。一年が関係ないけど二三年が巻き込まれている。その時点でスッと寒いものが走った。去年の件。それ以外に考えられない。

 

 でもどうして今更。去年の件に起因する出来事はもう終わったはずだ。中世古先輩の再オーディションで部の方針は決定している。今更それを覆そうとは思わないはずだ。あんなことを二度やりたいと思う人はいないだろう。

 

 なら、何が起きているというのだ。

 

「えっと、夏紀先輩が別の先輩を連れてきて、部に戻して欲しいってお願いしてて……。それで先に帰ってて欲しいって感じになったんです」

「別の先輩?」

「はい。確か……のぞみ? 先輩だったと思います。多分府大会でも見たような……? あ、あと先輩も探してたみたいです」

 

 黄前さんの言葉にサーッと血の気が引いていく。何で、どうして、よりにもよってこのタイミングなんだ。関西大会まであと数週間しかない。彼女の存在が及ぼす影響は本人が思ってるよりもずっと大きい。やっといい具合に回るようになったと思ったのに。軌道に乗った途端に脱線事故が起きる。最悪だ。しゃがみ込んで泣き出したい気分になる。

 

「あれ、ですよね。去年辞めちゃった先輩が沢山いるって言うのに関係してると思うんですけど……」

「黄前さん、今まだ話し合い中?」

「はい、多分」

「そうか……。ありがとう。君たち一年生には、迷惑をかけるね。またこの話だって思ってるかもしれないけど。取り敢えず、後でちゃんと話す。と言うより、一回どこかでしっかり説明するべきだったね。遅くなったのがこんなことになってしまった。君たちも練習を邪魔されて迷惑だと思う。申し訳ない」

 

 吉川といい、今回の件と言い、いつも迷惑をかけているのは上級生だ。いい加減腹が立ってくる。なんでこうなんだろうと。上級生なんだから下級生の模範になって欲しい。なのにいつでも問題の原因は上級生じゃないか。挙句の果てに不信感を生むような行動をしている。

 

 確かに、今回の件に一年生は関係ないし、話し合いにいたとしても何もできないだろう。けれどだからと言って説明責任を果たさなくていい理由にはならない。説明したいのはやまやまだけれど、今はそれどころじゃない。話を通さないといけない場所がある。それも早急に。

 

「今は急遽行かないといけない場所が出来てしまいました。本当に申し訳ない。明日以降必ず話します。加藤さん、今はそれで我慢してくれませんか」

「は、はい!」

「じゃあ、さようなら。気を付けて帰ってください」

 

 別れの挨拶も早々に、夕方の校舎を全力疾走する。多分、田中先輩に話をしに行ったのだろう。じゃないと辻褄が合わない。去年、田中先輩は彼女を引き留めていた。そういう筋道で行ったのだと思う。だが大きな間違いだ。順番が何もかも間違えている。一番最初に行くべきはそこではない。当然私やみぞれ、吉川でもない。行くべきなのは、フルートパートだ。

 

 

 

 

 

 走った先で教室のドアを叩き、開ける。ポカンとした顔で私を見つめるフルートパートの面々。確かに、息を切らせながら入ってきた私は軽く不審者だろう。

 

「姫神先輩、ちょっとよろしいですか。緊急の要件です」

「え、ちょっと、でも今は……」

「お願いします。割と、洒落にならないレベルの」

「……分かった。みんな、取り敢えず私抜きで合わせてて」

 

 いきなりの訪問だったけれど、普段とは私の様子が違うということを感じたのか、先輩は割とあっさり承諾してくれた。廊下に出て、フルートパートの練習教室から少し離れた場所で話をする。

 

「それで、なに?」

「単刀直入に申し上げます。今、低音パート、もっと言えば田中先輩のところに希美が来ています」

「……え」

 

 その言葉に、姫神先輩の顔色も悪くなる。今年度の最初期。パートリーダーを説得する材料に、去年のことを持ち出した。それは彼女が多少なりとも思う所があると思ったから。

 

 決して改革に協力的ではなかった彼女だが、別に悪い人ではない。むしろ普通の人だろう。面倒くさいことは嫌いで、やらないといけないことをサラッとやってさっさと終わらせる性格をしている。ただ、そんな人物でも去年のことは引きずっている部分があった。

 

 彼女は希美を嫌っていたわけじゃない。ただ好きでも無かったのだろう。だから敢えて自分の先輩に抗弁してまで守ろうとすることはなかった。或いは彼女も希美の強さを見誤っていたのかもしれない。いずれにしても、希美は退部した。先輩がその時何を思ったのかは分からない。ただ、今はそれはどうでもいい。大事なのは彼女がフルートパートのパートリーダーであるということ。

 

 話を通すなら、まずは地盤を固めないといけない。フルートパートが味方になってくれるのだとしたら、大きな影響力があるだろう。田中先輩も頷くほかない。だから順番が違うと言うのだ。前からそうだ。一度決めると一直線。そのせいで軌道修正が難しい。

 

「待ってよ、良い感じにまとまってるのに……。それに最悪私たちはどうでもいいのよ、どうせ好かれてないと思うし。それはしょうがないにしても、調の立場がなくなる!」

「私に怒鳴らないで。でも仰る通りです。井上への影響が心配だ」

 

 井上調。一人残されたフルートパートの二年生。彼女が直接の後輩指導を担っている。来年のパートリーダーは自動的に彼女だし、それは自覚しているのだろう。そういう意識を持った振る舞いをしている。私は嫌われているけど、まぁそれはしょうがない。

 

 私情と部活運営は別だ。彼女は大会メンバー。大事な戦力である。だがそこに入部時点で大分差のあった希美が戻ったら? 最悪自分が外されると思うかもしれない。そうでなくても、持ち前のカリスマ性を発揮する彼女に、井上はどう思うだろうか。自分の居場所が奪われた、或いは奪われる。そう考えても不思議はない。何にしても無感動はいられないだろう。

 

「どうもこのままだと肝心のフルートパートが仲間外れになりそうだったので、蚊帳の外になる前にご報告をと思いました」

「そう……。ありがとう、これでちょっと考えられる」

「井上に何かありましたら、ご報告ください。彼女にはあまり好かれてない自信はありますが、それとこれとは別ですから」

「分かった。私は手放しで賛成できない。関西が終わった後ならまだしも。……そっちは個人的には賛成? 反対?」

「反対です。条件としても同じですね。せめて、関西の結果が出てから。そう思っています。ともあれ、ご報告でした」

「分かった。それじゃあ、戻るから」

 

 そう言うと頭を抱えながら姫神先輩は教室に戻っていく。井上に関してはこれまで二年弱一緒にやって来た先輩の方が詳しいだろう。他の三年生の先輩もいるし、ちょっと話し合うなりして対応を考えて欲しい。

 

 井上に関してはもう先輩の報告待ちだろう。下手に接触するよりそっちの方が良いはずだ。希美は貴重な戦力になる。去年の時点で希美と井上の実力差は大きかった。今もきっと、そこまで変わってない。仮に逆転していても、すぐに元通りの可能性がある。いてくれれば大きな戦力だ。だけれど、それを阻む障害が大きすぎる。

 

 いずれにしても賛成はできない。みぞれの件もあるので、吉川にも後で話をしないといけない。やらないといけないことが多すぎる。だが何もしないと、確実に爆弾は大きくなる。一分一秒が惜しかった。

 

 それにしたって、なんでフルートの井上はこうなんだ。パーカスの井上さんは素直な子なのに……。鳴り響く頭痛を無視しながら、低音パートの教室に走った。

 

 

 

 

 

 私が彼女との奇妙な出会いを果たしたのは中学三年生の時分である。友人を喪い、両親を喪い、傷心を抱え茫然自失となっていた私は地元の中学校に転入した。そこで彼女と出会った訳だ。同時に必然的に鎧塚みぞれとも邂逅するのだがそれはまた別の話である。

 

「へ~君、凛音っていうんだ。女の子みたいだね! あ、ごめん気にしてた?」

 

 ファーストコンタクトがこれだ。何故か隣の席になってしまった。こいつは何だ、いきなり不躾に、とそう思った。私はしばらく悲しみに浸りたいんだ、ほっといてくれ。そんな思いでいっぱいだった。

 

「気にしてない。言われ慣れてる」

 そう言って会話を切ろうとしたのだが、こいつは中々に厄介で、次から次へと話しかけてくる。根負けして相手をしていた。吹奏楽部の部長を勤めている話。大会で惜しくも敗退した話。だから高校こそ、良い結果を出したいという話。

 

 そこで気付いた。彼女は、自分の妹が、まだ暗く塞ぎ込む前だった妹が話していた存在じゃないかということに。彼女なら、何とか出来るんじゃないかと思って相談を持ち掛けた。両親が亡くなって以来、妹はすっかり塞ぎ込んだまま部屋から出ようとしなかった。原因は色々あるだろう。単純なショック、葬儀の席で遺産相続で揉める親族、取り成しをしない祖母、不干渉だった叔父夫婦、悲しんでなどいないように敢えて気丈に振る舞っているのが却って無感動なように見えてしまった私。多くに傷つき、そしてそのまま内に籠ってしまった。

 

 希美は府大会が終わった後に引退してしまい、その後は吹部に顔を出していなかった。だからこそ、練習に参加していない妹のことも把握していなかったようだったのだ。言ってしまえばただの先輩と後輩。彼女に妹を助ける義務はない。けれど他に方法が思いつかないまま、一縷の望みを賭けて助けを乞うた。

 

 それからは早かった。相談したその日の放課後に彼女は私の家にやって来た。誰とも話そうとしなかった妹と扉越しに話していた。翌日も、その翌日も。決して暇では無いのだろうに、彼女はやって来た。そしてそれと比例するように、妹は少しずつ外の世界に戻って来た。

 

 どうしてそこまでするのか。私はあまりの献身に問うた。それを聞いた彼女は不思議そうな顔をして言った。「大切な後輩が困ってるなら、力になりたい」と。唖然とした。彼女にとって、この行為はさしたる献身ではなかったらしい。その精神性に面食らいながら、私は彼女に託すしかなかった。

 

 かくして、二週間ほどの後に妹は学校に行くようになった。それ以来、私はこの件で頭が上がらない。家に引き籠っていることを問題視していた祖母も、流石に驚いたようである。結局のところ、桜地家は彼女に恩があるのだ。それもかなりの大恩が。

 

 それからというもの、彼女とはよく話すようになった。名前呼びになったのも、この頃だったかもしれない。同時期にみぞれとも知り合った。そうしたら高校で吹部に入らないかと誘われた。どこの高校に行くかも聞いてないのにである。元々世間体のために中学に入ったに過ぎない。高校に行く理由はなかった。けれど、少しだけなら良いかもしれないと思ったのだ。きっと彼女がいるなら、それなりに楽しめるだろうと。

 

 そうして祖母の小言を無視して私は北宇治高校に入学した。

 

 

 

 

 

 

 そこからが問題だった。私は彼女の勧誘通り吹奏楽部に入った。……そしてトランペットの三年に嫌われた。原因は入部の際の実力チェックだろう。そこで自分よりうまかった事が気にくわなかったのか、今となっては分からない。想像するしかないが、原因となるのはそこだろう。

 

 正直どうでも良かった。吹いてられれば良いとはまた違う、自信によって裏付けされたどうでも良いという感情である。この人がどれだけ喚こうが、私には勝てない。そう思いながら軽く流して吹いていた。だが、彼女はそうはいかなかった。彼女は許せなかった。真面目にやっている生徒ではなく、遊んでばかりの三年生が大会に出るのが。正確には義憤に燃えるのは彼女のみでは無かったが。

 

 決定打となったのは「この部活は上を目指していない、部内の秩序を乱しているのは1年であり、みんな迷惑に思っている」という三年生の言葉だろう。そして、それに対する反論が出なかったこともまた彼女の心を傷つけた。

 何故か知らないが、私がメンバーに選ばれないことにも憤慨していた。分かりきっていたことを何を今さらと思っていた。もとより出られるなどと微塵も思ってなかったのに。

 

 そして、退部を決意するに至る。私は引き留めた。この時の行動に打算はあった。この部活に未練などない。だが、世話になった人はいる。その人が来年トップになったとき、困らないようにしたかった。彼女が抜ければ、彼女によってここに繋ぎ止められてると言っても過言ではない鎧塚みぞれはここを離れる可能性があった。彼女は唯一のオーボエ奏者。逃がすわけにはいかない。

 

 それが打算の部分。けれどそれだけでは無くて。私は確かに、心の底から辞めて欲しくないと思っていたのだろう。必死に引き留めた。それこそ、怖いくらいに。怒鳴り合いの口論の末、ついに私は諦めた。そして彼女は去った。

 

 来年まで待てば、上は消える。そうすればいくらでもやりようはあるのに。そして喧嘩別れして、そのまま。私はその後残った二年生が被害を受けないように根回しして、彼女が変えようとした部活そのものが消えないように職員室に働きかけ、その上で全てが終わった時に辞めた。もう燃え尽きてしまったのだろう。だから中世古先輩や吉川の引き留めも断ったのだ。

 そして、同じクラスながら挨拶もしない奇妙な関係が出来た。クラスメイトも担任もそれは分かっているようで、手出しはしてこないのが幸いなのかもしれない。このままで良いと思っていた。このまま、卒業し、バラバラになる。それで私と彼女の縁は今度こそ完全に切れる。それで良いのだ。彼女にとっても私にとっても。

 

 

 

 

 だから私は今こうして少し苛立っている。あの時あれほど強くここから去ると言ったではないか。何故今さら戻ってきた。……私は一体何のために。そういう思いが渦巻く。分かってる。これは身勝手な言い草だ。だが、それでも私は納得出来ないのだ。過去の私の悩みが無駄だったのだと突きつけられる気がしたから。私が誰かの為に悩み苦しみぬいた時間の全てを否定された気がしたから。それが正しさの証明にはならないとしても。

 

 走る。走る。廊下を走る。全部投げ出して、叫び出したい気分になりながらそれを必死に抑えて。勿論分かっている。この部は変わった。彼女を踏み台にして。その末に今がある。黄前さん曰く、府大会に来ていたらしい。ならば思っただろう。栄光の舞台に、何故自分がいないのか。

 

 何故、自分を見ないフリをした者たちがスポットライトの光を浴びて、トロフィーを持って、そして微笑んでいるのかと。それは当然の怒りでありながらも理不尽な怒りだ。こうなるかもしれないと思っていたわけでは無いだろうけれど、私や田中先輩の言い分が結果として正しかったのだから。

 

 勿論これは結果論に過ぎない。だから正当でありながら理不尽でもあるのだ。

 

 田中先輩はどういう対応を取るだろうか。ここで中途半端な優しさを見せないで欲しい。ダメならダメと、理由も含めてしっかり断って欲しいのだ。みぞれの件も、井上のことも分かってるだろう。フルートもダブルリードも欠かせない部分だ。

 

 走りながらダブルリードのパートリーダーである喜多村先輩に連絡を入れる。普段はそこまで仲良くしている感じは無いが、みぞれの面倒を見ているのはあのファゴットの二人だ。万が一の際にフォローしてくれることを期待する。寡黙な後輩にあの二人が多少なりとも先輩としての義務感を感じていてくれることを願うしかなかった。

 

 後は先生にも連絡しないといけない。変に思い詰めて手段を選ばなくなると先生に直撃する可能性がある。上手い奏者を逃したくない先生だ。来年のことを考え入れてしまうかもしれない。それだけは断固阻止しないといけないのだ。問題を何も解決していないのに、受け入れるわけには行かない。

 

 低音パートの教室内からは話し声が聞こえる。どこかに行かれていては困るところだった。息を整えて、扉を叩きそして開く。一番会いたくない人が、そこにいた。引き入れたのは恐らく中川だろう。何の事情も知らないで、と言いたくなったが彼女は彼女なりの義侠心で以て行動したのだろう。それを大きく咎めることは出来なかった。

 

 視線が私に集中する。息をのむ音が聞こえた。希美が鳴らしたそれを無視して、私は取り敢えずの事態解決を図る。

 

「中川、練習妨害か? 私が斎藤先輩に頭下げて指導を頼んでるのに、油を売るなんて」

「待って、夏紀は悪くないの! 私が頼んだから……」

「あなたには聞いてませんよ、傘木さん」

 

 中川を庇うように立ち上がった彼女の方を見ないで言った。見てしまったら、心が揺らいでしまいそうな気がしたから。他人行儀な言葉のせいか、彼女はカタンと音を立てて力なく座る。

 

「田中先輩も、後藤や長瀬も、そして一年生三人組も関西大会に向けた必死の練習の最中だ。それを邪魔しないでくれ」

「だから邪魔にならないように……」

「余計な思考を割かせるような行いをしている。この時間も練習に使えたはずだ。田中先輩、返事は」

「断ったよ」

「そうですか。なら、明日以降も来るだろう。その度に一年生を追い出すのか? 黄前さんは田中先輩に教わることが多い。貴重な時間を無駄にしないでくれ。頼むから、止めてくれないか。頼むから……」

 

 最後の方はもう半分泣き落としのようになってしまった。中川に制止してもらうしかない。そうでもしないと止まらないだろう。やっと上手く行くところだったんだ。みぞれの件もこれから少しずつ改善していけるように計画を考えていたんだ。それなのに、もう何もトラブルが起きないはずだと信じていたのに。泣きたい気分でいっぱいになる。

 

「とにかく、練習妨害はしないでくれ。中川の義侠心は理解しないでもないけど、今は是が非でも止めてくれないか。百歩譲るとしても、順番が違う。話を通すべき順序がある。田中先輩は最後の方だろう」

 

 いの一番はフルートパート。その後は吉川などの旧南中メンバー。当然みぞれも入っている。その後に田中先輩と部長。最後に先生と私。そういう順番が本来正しいはずだ。彼女はあくまでもフルートパートのメンバーだったのだから。

 

「お願いしますよ。これ以上トラブルを起こしたくありません。大会前に起こったトラブルがいかに面倒か、部長経験者ならよくわかるでしょう。違いますか、傘木さん?」

「待って、お願い……話を聞いて」

「それを頼むべきは、私じゃない」

 

 私は目を見ないまま、冷たく告げる。これが現在取りうる最も有効な手段と信じて。吹奏楽部の中に切り捨てるべき人はいないと先生は言った。だけれど彼女は吹奏楽部の部員じゃない。なら、こうするしかないのだ。例えそれがまた、間違いだったとしても。

 

 涙を浮かべた目を、私は見なかったことにした。教室を出て、扉を閉めて、そして屋上に繋がる階段の前に座る。抱えた頭の奥で、鳴りやまない頭痛が響いていた。

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