音を愛す君へ   作:tanuu

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第二十八音 桜地凛音 Viewpoint from 希美

 その人は、自分に無い目の輝きを持っていた。だから、私は――――。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 吹奏楽部、祝・関西大会出場。その横断幕は学校の一番目立つところに堂々と飾られている。それはきっと十数年ぶりに掲げられたものなのだろうと思った。たった数文字の列に私の心は大きく揺さぶられる。手放しで喜べるわけなかった。

 

 関西大会。私が二年前、夢にまで願った舞台。そしてついに行くことは無かった舞台。府大会で終わりなんて信じたくなかった。それまでずっと関西大会の常連だったのに。それなのに自分の代だけ失敗した。そういう想いが頭の中をグルグルしていた。

 

 拭えない悔しさ。忘れられない絶望感。それは今でも変わらず抱いている。あの頃は夢にもたまに見ていた。あり得ないと思ったんだ。あの時はずっと。きっとあの結果発表は間違いで、大会運営の人が「すみません」と謝りながら駆けよって来るに違いない。頭の中でそう信じていた。そんなことはあり得ないと理解しながらも、受け入れられずに。

 

 隣では北中の子が叫び声を挙げている。彼らは関西だった。自分たちの行けなかった場所だった。あれからもう二年経った。今年の南中は関西進出。そちらの大会も観に行った。素晴らしいとしか言えない演奏。フルートソロに輝いている、自分の後輩。その姿は誇らしかったけれど、顔は出せなかった。中途半端な自分が行くべきじゃないと思ったから。

 

 先輩の夢は、私が叶えます。そう言って卒業した私を見送ってくれた彼女は、今や部長の座にある。夢を託した私だけが、何にもなれないまま取り残されていた。その上であの北宇治の演奏を聞いた。そうしたら、どうしようもなく自分が虚しくなってくる。

 

 だから、今度こそ。今度こそ、もう一度あの舞台へ。私はそう決意して連絡を取った。誰にするべきかずっと考えて、去年自分の背中を押してくれた夏紀にしたのだった。直接話をしたい。そう連絡して会った時の顔は、あまり喜んでいる感じじゃない。当然だと思う。いきなり迷惑な話だろう。

 

「それで……どうしたの?」

 

 夏紀は困ったような声で言った。夏紀は賢い。それは進学クラスだからとかではなく、単純に人として。だからこの時期に私が連絡することの意味を、多分分かってたんだ。

 

「こんな事頼むのは、自分でもどうかと思うんだけど」

「うん」

 

 夏紀の声は、顔色に反して柔らかかった。私の背中を押してくれたあの時と同じように。私を引き留めた彼と、正反対に。

 

「私、部活に戻りたいの」

「……」

 

 沈黙は長かった。カラン、と氷の溶ける音がする。話をした店の水は少しぬるくなっていた。暫く黙ったままだった夏紀は、意を決したように口を開く。

 

「分かった、いいよ。協力する」

「ホントに?」

「頼んだのに、なんで疑問形?」

「だって……正直かなり面倒だと思うし、夏紀だって忙しいと思うから」

「まぁ、それは否定しない。でも、希美がそうしたいなら、私は手伝う」

「そっか、ありがとう」

 

 夏紀を巻き込むことに、罪悪感はあった。けれど一人で挑むには相手が大きすぎる。少しでも仲間が欲しかった。だから私は、夏紀の友情に頼ることにした。それがどれほど厄介なことなのか、しっかりと理解しながら。それでも私はどうしても、どうしても諦めきれなかった。

 

 私は、あの夏からきっと前に進めていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 決意を固めて真夏の学校に乗り込んだ。部活を辞めたのは夏前。だからずっと夏休みの学校に登校するという行動自体をしてこなかった。久しぶりにしてみると、やっぱり暑い。今年の吹奏楽部は冷房をガンガンつけているらしい。それもこれも、凛音のおかげだと夏紀は言っていた。

 

 そう。彼も私が戻ることを許可してもらわないといけない人の内の一人。もう一人は当然あすか先輩だ。彼女は私を引き留めてくれた。熱量では勿論、凛音の方が上だったけれど、それでもここで筋を通さないわけにはいかないと思う。

 

 正直怖かった。あすか先輩じゃなくて、彼に会う方が何倍も。同じ教室にいて、目も合わせないし話もしない。私たちは去年の初夏からずっとその調子だ。お互い喧嘩別れしたまま、そのままずっと今に至っている。

 

 初めて会ったのは、中三の夏明けだった。変わった時期の転校だと思ったけど、それ以上に彼は目立っていた。気だるげと言うのだろうか、どことなく覇気の無い病みそうな目。なまじ顔が整ってるせいでアンニュイな感じが良いと同じクラスの女子たちが騒いでいた。薄めの唇に白い肌、そして綺麗な目。確かにクラスの子の気持ちも分かる。

 

「へ~君、凛音っていうんだ。女の子みたいだね! あ、ごめん気にしてた?」

 

新たなお隣さんにこう声をかけてみた。途中でちょっと眉がピクッと動いたので気にしてたのかと思った。確かにちょっと無神経だったかもしれない。ただ、それ以上に気になったのは名前。凛音の部分じゃなくて桜地の方。それは私の後輩と同じ名字だった。

 

「気にしてない。言われ慣れてる」

 

 そう言った彼の雰囲気からあんまり話しかけるなオーラがもわもわと出ていた。ちょっとびっくりしてしまった。自慢じゃないけど、今まで人付き合いは上手くやれてると思ってた。じゃなきゃ部長なんか出来ない。絶対仲良くなって見せると、謎の対抗心を燃やした。他にすることも無かったからかもしれない。

 

 最初は適当に相槌をうたれたが、根気よく話しかけるとちゃんと返してくれるようになった。話すのは下手ではないし、聞くのも上手い。多分、こっちが本性というか本来の性格なんだろうと思った。そのまま色んな話をした。部活のことが中心だったけど。

 

 みぞれの話をしたときにオーボエについての知識が豊富だったことや時折私の口にする音楽用語をとくに違和感無く聞いて、また向こうも話してくるので経験者かを尋ねれば案の定そうだった。音大出てるというとんでもない情報を知った時は驚愕したけど、まぁそれはそれとして置いておいた。別に出身がどうでも特に関係はない。彼は彼だ。

 

 それよりも、その音を聴いてみたいと思った。だから、高校に進学したら吹奏楽部に一緒に入らないかと誘った。どこの高校に行くかも知らないのに先走りすぎだ、と言って笑われてしまったけど。その後、ある日言われた。

 

「妹を、助けてくれないか」

 

 それで初めて置かれた状況を知った。フルートパートに所属していた後輩。フルートを始めたのは去年の夏に南中の演奏会を見てからだと言っていた。私の演奏を見て、始めてくれたらしい。最初にそう言われた時は少し恥ずかしかったけれど、同時にとても嬉しかった。自分が誰かの憧れになれた。それは部長として、これから頑張らないとという決意をしていた私の起爆剤になっていた。

 

 彼女は上手かった。初心者に近い期間ながら、その実力は本物。元々音楽をやっていたようだったけど、それにしても上手い。追い付かれるという恐怖はあった。でもそれ以上に楽しかった。そして夢破れた私は、彼女に自分の夢を託して部活を去った。その後のことを知らなかったことを恥じて、私は迷うことなく彼のお願いを受けた。役に立つかは分からなかったけれど、少しでも力になりたかったから。

 

 

 

 

 

 暗い顔の彼に案内されたのは大きなお屋敷。和風建築というに相応しいそれは、映画やドラマの中でしか見たことの無いような家だった。自分の家から割と近いところにお屋敷があるのは知っていたけれど、表札なんて見たこと無い。後輩の家がそれだと知ったのもこれが最初だった。

 

 そこからどうしたのか、実はあんまりよく覚えていない。とにかく助けになれればとしか思ってなかった。自分の大事な後輩だったし、夢を託せる人材だと思ってた。だからそんな彼女がきっと、南中吹奏楽部には必要だと考えて動いていた。

 

 同情なんて出来ない。だって私には両親がいる。下手な慰めなんて言っても何もならない。だから取り敢えず、取り留めのない話をする所から始めたはずだ。それから段々と少しずつ話をするようになって、二週間くらいしたらまた学校に来てくれるようになった。部活にも戻ってきたと次の部長からお礼を言われたのを覚えている。

 

 流石に事情が事情だけに、誰も涼音ちゃんを責めることは無かった。責める子がいたら私も怒っていたと思う。それよりも、彼の喜び方の方が尋常じゃなかった。あんまり兄妹の仲は改善できなかったけれど、それでも外に出てくれただけで嬉しかったらしい。泣いて感謝された時はちょっと困ってしまった。

 

 そこからかもしれない。割と話すようになったのは。「傘木さん」「桜地君」と呼んでいたのが名前になったのも、その辺りからだった。彼はどうも拘りがあるらしく、先輩は名字+先輩、同学年は名字(たまにさん付け)、後輩は名字+君orさんだった。そのせいでしばらくはずっと他人行儀だったけれど根負けしたのか私のお願いを聞いてくれた。他人というには、お互いに色々知りすぎていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 それからの卒業までの日々はそれなりに楽しくやれていたと思う。今となっては、幻のようなものだったかもしれない。高校に進学したら吹奏楽部に入った。けして上手くは無いのは知っていた。ここ十年近く大会の成績はボロボロ。あるのは過去の栄光のみ。あの時は夢見てた。きっと私がここを変えてやる。そんな不可能な夢を。今まで三年生として、部長として振る舞ってきたのにいきなり一年生に逆戻りという事もどこかで面白くないと感じていたのか、それを助長させた。

 

 最大戦力になれるだろう凛音。そして友達の夏紀。こういう元吹部じゃない人を引っ張って来たのだから頑張らないとという想いも存在していた。正直そのあと連れてきたことを後悔する。彼はトランペットの三年から嫌われていたのだ。その時始めて演奏を聴いたが、確かに上手かった。それも、凄まじく。

 

 だから、分からなかったのだ。上手いことを誇りもせず、貶されても何も言わないその姿が。圧倒的に嫌みしか言わない三年より上手いのに。きっと努力してきたのに。頑張っている二年生・一年生が報われないのはおかしい。そう思った。正義感に燃えていた。

 

「この部活は上を目指していない、部内の秩序を乱しているのは1年であり、みんな迷惑に思っている」

 

 そう言われた時に、自分の正しさが崩れる音がした。でも、それ以上に許せないことがあった。それは、三年生が彼を嘲笑っていたこと。それも、その努力を。天才だから、そう言いながらも口元は歪んでいて、その目には悪意しかなかった。何も言わないで無視しているのが納得できなかった。人の努力を、どうしてあんなにもあっさりと踏みにじれるのだろう。そんな怒りが心の中で燃え滾った。

 

 上手くないのはもう正直しょうがないと思い始めていた。そういう風に説得されていたから。周りから孤立していき、フルートパートで無視されるようになってからずっと、話し相手は同じくトランペットパートを追い出されていた彼しかいなかった。そこでそういう風に諭されて、しょうがないと思い始めていた。でも、あの言葉だけはしょうがないなんて思えなかった。

 

「天才だから努力して無いなんて間違ってます! それに、凛音の実力はずっと頑張って来たからなんです。ずっとずっと、だからあんなに上手に吹けるんです。それが正しく評価されないなんて、絶対おかしいです! 自分が出来ないのを棚に上げて、彼の努力を馬鹿にしないで、謝ってください!」

 

 この時はまだ信じていたのかもしれない。心を込めれば、きっと届くはずと。それでも返ってきた言葉は、私の心を折った。

 

「なに、アンタらデキてんの?」

 

 嘲笑するように、そう言った顔を私は忘れない。それに誰も抗議しない。それどころか、クスクス笑う声がする。傷のなめ合い、お似合いだ。そういう風に馬鹿にする声が、私についにここから去る決心をさせた。私はある意味で、絶望したのかもしれない。北宇治高校吹奏楽部に。そこにある、どす黒い空気に。

 

 もう、こんなところにいることに耐えられなかった。私の心は、もう砕け散っていたのだ。

 

 

 

 

 

 退部を決意して、それを告げた時に彼が必死に引き留めてくれたのは正直少し嬉しかった。この時までは。それでも決心は変わらない。ここにいても、自分の心も壊れるだけ。だったら、と。

 

 結果、大喧嘩した。人生で始めて怒鳴り合いなんかしたと思う。随分酷いことを言ったし、言われた。持ちうる限りの罵倒を尽くした気がする。最後の方なんか言葉にならない悪口の応酬だった。あんな風なことをしたのは人生で初めてだったかもしれない。そのまま、そこで喧嘩別れした。それは今でも続いている。

 

 助けて、と言えば助けてくれたのかもしれない。けれどそれを言うことは出来なかった。きっと、自分が傷ついてでも、どんな手段を使ってでも助けようとしてしまうから。そういう人なんだとなんとなく分かっていた。

 

 そうして別れた後、私は最後に夏紀に相談した。少し揺れていた心に最後の決心を付けるため。彼女ならきっと、自分の背中を押してくれると思っていたから。

 

 

 

――そして私は、部活を辞めた。

 

 

 

 

 結局、そのまま一年が過ぎ去ろうとしていた。進級して、また同じクラスになっても何も変わらなかった。没交渉のまま。担任の先生にも、それとなく聞かれたけど、誤魔化してしまった。

 

 春。新しい顧問の滝先生が呼びに来たのは知っていた。黒髪の美人な後輩が彼を探していたのも。そして人伝に知ったのは、部活に戻ったということ。そしてその役目が指導者だったと言うこと。確かに出来るだろう。不可能じゃないはずだし、才能もある。経験もある。相応しいかもしれない。

 

 でも彼がどうして戻ったのか。それはよく分からないままだった。それ以上に、あんな状態の部活をどうにか出来るはずが無いと思っていた。……どうにか出来て欲しくなかったのかもしれない。だって、そうしたら、辞めた自分がバカみたいだから。絶望して、泣いていたあの日の時分が嘘になる気がしたから。

 

 

 

 

「そこのトランペットもっとください」

 

 ちょっと様子を見たいと思ってやってきた音楽室の扉の向こうから、彼の声がする。矢継ぎ早に指示を飛ばしていた。府大会の曲を聞いて思ったけれど、今年の北宇治はトランペットをいくつかある主力パートにしている。当然の判断だった。優秀な指導者がいるんだから、そうするのも当たり前だろう。

 

 音楽室のドアにある硝子から、少しだけ中を除く。中央にいるのが滝先生だ。音楽の授業で会うので知っている。隣にいる浅黒い肌の先生は知らないけれど、きっと外部の人だろう。そして反対側には凛音がいた。

 

 指示を出しているが、時々目頭を押さえている。目の下には薄っすらと隈。多分、涼音ちゃんのお化粧かなんかを使って誤魔化してる。あんまり寝てない証拠だった。前にもそんな時があったのを覚えている。家計の為にと走り回っていた時期の彼はそんな感じだった。彼を頼れなかったのは、私のために割く余裕なんてないと思ったからというのも大きい。

 

 やっぱり、ちょっと無理している。私が戻ろうとすることはきっと心労を増やしてしまう。それを理解して、これからやろうとしている行いを躊躇した。それをしてしまっては、彼の心が壊れてしまうのではないか。夏紀から断片的に話を聞いている。これまで吹部の辿ったあらまし。その中で起こった出来事も。

 

 でも止まれない。罪悪感や躊躇する心以上に自分の中であの夏の幻想が叫んでいる。まだ諦められないと。終わったはずの夢が私を突き動かす。私はひどく、自分勝手だった。ちょっと逸る気持ちがあって、思わず低音パートの子に声をかけてしまった。

 

 天然パーマのような髪型をした、のんびりした感じの一年生。私よりちょっぴり背が高い。持っている楽器からユーフォニアム。あすか先輩と夏紀の後輩だと分かった。確か大会でも吹いていた気がする。やっぱり変わったんだと分かった。北宇治は、実力主義になった。だから夏紀が落ちて、彼女が受かっている。

 

「ちょっと~」

「うわぁ! はいっ!」

 

 ちょっと上擦った声で彼女は私の呼びかけに応えた。

 

「あなた、低音パートの一年だよね」

「はい」

「あすか先輩、いる?」

「ちょっと希美!」

 

 後ろから私を咎める鋭い声が響く。後にしようという約束を破ってしまったのは私だ。協力してもらっているのに、申し訳ないという後ろめたさがあり、思わず変な声を出してしまう。

 

「アンタ何勝手なことやってんの。七組で待っててって言ったじゃん」

「あ、いやでも……」

「変な真似して、厄介なことになったら困るのはアンタなんだよ」

 

 言い返すことは出来ないまま、悪いことをしたのが見つかった子供みたいに私は目線を下げるしか出来ない。

 

「……分かった。夏紀、ありがとうね」

「お礼なんて……言わなくていいよ」

 

 少しだけ困ったような、もしくは自分を責めるような声で夏紀は返事をする。その自分を否定するような声の意味を考えることも出来ないまま、私は言われた通りの場所に戻ることにした。これ以上迷惑をかけるわけには行かない。今だって、先走った結果全部台無しになるかもしれなかった。

 

 成長できていない。そう実感させられた。

 

 

 

 

 

 

 胸の中には苦しいモノが満ちてる。きっと上手くはいかないはずだ。でも、話くらいは聞いてくれる。少なくとも彼なら。あすか先輩には断られるかもしれない。大会前の面倒ごとなんて嫌だろう。それでも私には、もう戻る選択肢はなかった。

 

 本当に良いんだね、と夏紀に念を押される。先輩は去年私を引き留めた唯一の先輩。副部長でもある先輩の許可は絶対に欲しかったし、当然問題はない。夏紀に導かれて、私は低音パートの教室を尋ねた。

 

「……希美ちゃん?」

 

 長瀬さんが驚いたような声をあげる。後藤君も息を呑んでいた。

 

「私、部活に戻りたいんです!」

 

 そう言って頭を下げる。

 

「……はぁ?」

 

 あすか先輩の声は、ゾッとするほど冷たかった。

 

「希美を部活に復帰させてやってください!」

「いやいやいや、私に言ってもしょうがないでしょ? 私は副部長だよ、しがない中間管理職」

「お願いします! あすか先輩の許可が欲しいんです」

「どうして? 希美ちゃんが許可を取るべきなのって、私じゃなくて桜地君じゃない?」

「凛音は……先輩の許可を貰った後に話をするつもりです。まずは、先輩の許可が欲しいんです。そうしないと戻らないって決めてるんです!」

「迷惑なんだけどなぁ、そんなこと言われても」

 

 あすか先輩の迷惑だと思う気持ちは理解できた。私だって関西大会前にそんな事言われたら、ちょっと困るだろう。本気で困っているような先輩のため息混じりの声を、私は頭を下げながら聞いていた。自分の事のように頭を下げてくれる夏紀への罪悪感は募っていく。

 

「希美、本気なんです!」

「……ごめんね、悪いけど今練習中なの。帰ってくれる?」

 

 あすか先輩の声は平坦だった。絞り出すような声で、後藤君が言葉を紡ぐ。

 

「一年生は先に帰って欲しい。……ちょっと話し合いたい」

 

 それからの話し合いはずっと押し問答だった。当然、私に今年の大会に出る気は無い。と言うより、流石にそんなお願いは出来なかった。規定人数満員じゃないのは知っているけれど、上の大会に出るときはそれまでの大会と人数が同じじゃないといけない。そんな非常識は当然するつもりなんて無かった。

 

 先輩の手伝いをしたいという思いも言った。それは嘘じゃない。ただ、全部じゃない。本当の奥底には、自分があそこにいたいという願いがある。でも本当に先輩の最後の年を支えたいという思いもある。そこは信じて欲しかった。

 

 後藤君は押し黙ったまま。長瀬さんもフォローはしてくれるけれど、あすか先輩の気が変わる様子はない。時計の針が一回りして、夕暮れの日差しが教室に差し込んでいた。

 

 ガラガラと音がする。どんよりとした目が目立った。私は思わず息を呑む。その表情が起こっている事態を全て理解して、私のお願いの内容も知っていて、その上できっと良い答えをしようとしているわけじゃないと分かったから。

 

「中川、練習妨害か? 私が斎藤先輩に頭下げて指導を頼んでるのに、油を売るなんて」

「待って、夏紀は悪くないの! 私が頼んだから……」

「あなたには聞いてませんよ、傘木さん」

 

 夏紀を庇おうとした言葉はもっと強い言葉に制止された。呼び名すら変わってしまったその言葉に込められた強い感情は、一年間の断絶と変わってしまった関係性を象徴するみたいに思えた。力なく椅子に座り込む。カタンという音が、酷く虚しく響いていた。

 

「田中先輩も、後藤や長瀬も、そして一年生三人組も関西大会に向けた必死の練習の最中だ。それを邪魔しないでくれ」

「だから邪魔にならないように……」

「余計な思考を割かせるような行いをしている。この時間も練習に使えたはずだ。田中先輩、返事は」

「断ったよ」

「そうですか。なら、明日以降も来るだろう。その度に一年生を追い出すのか? 黄前さんは田中先輩に教わることが多い。貴重な時間を無駄にしないでくれ。頼むから、止めてくれないか。頼むから……」

 

 夏紀に頼んでいる声は、最初は力強かった。けれど段々と、自分でも気付いているのか分からないけれど、弱々しくなっていく。その姿と声に、あすか先輩の目が少し見開かれた。夏紀も何かを言おうとして、力なく口を閉じる。もしかしたらこれは彼が初めて見せる弱った姿なのかもしれない。

 

「とにかく、練習妨害はしないでくれ。中川の義侠心は理解しないでもないけど、今は是が非でも止めてくれないか。百歩譲るとしても、順番が違う。話を通すべき順序がある。田中先輩は最後の方だろう」

 

 順番。私はあすか先輩の後に彼のところへ行くつもりだった。でもそれが逆ということ? もしくは他にしないといけないことがある? 彼の数少ない助け舟とも言うべき言葉だったけれど、私は色々なことで頭が混乱していたせいか、あんまり冷静に捉えることが出来なかった。

 

「お願いしますよ。これ以上トラブルを起こしたくありません。大会前に起こったトラブルがいかに面倒か、部長経験者ならよくわかるでしょう。違いますか、傘木さん?」

「待って、お願い……話を聞いて」

「それを頼むべきは、私じゃない」

 

 冷たい言葉で軽くあしらって、彼は外に出ていく。この時までの私は心のどこかでまだ、期待していた。誰よりも引き留めてくれた彼がきっと取りなしてくれると。仕方ないと言いながら、また笑って迎え入れてくれると。でも、現実は残酷だった。そんなものは夢でしか無くて。喧嘩別れしたのはつい昨日のことであるかのように、私たちの溝は深かった。

 

 話も聞いてもらえず、私はただその場に呆然と座り込むしかなかったのだ。彼の優しさに甘えていたのかもしれない。勝手に都合のいい幻想を作って、それに縋るしか私に残された道は無かった。そうでもしないと、やっていけない気がしたから。勇気が出せない気がしたから。

 

 でもそれは醜い自己弁護。きっと、私は許されることは無いのだろう。あすか先輩はさっきまでの冷たい感じは少し薄れて、どこか同情するような声で話を戻した。

 

「とにかく、私は賛成できないから。少なくとも、関西大会が終わるまでは。滝先生は全国行き狙ってるけど、ちょっとそんなに甘くはないと思ってる。けど、それと練習とはまた別問題だし。桜地君も言ってたけど、普通に練習の邪魔になるんだよね。だからもう来ないで欲しい。関西がどうなるにしても、今年の代が終わったら幾らでも好きにしてくれていいよ。そこは私の管轄じゃないし」

 

 話は終わりね。そう言うと先輩は自分のユーフォを持って教室を出た。これ以上話したくないというような具合で。私や夏紀に何かを言う隙も与えないままその場を後にする。

 

 残された二年生だけの教室に沈黙が重たいくらい張りつめる。エアコンの駆動音だけがその場にゴーゴーと響いていた。夏紀も私も何も言えない。分かっていたことではあった。見ないようにしていただけで。きっと賛成はされないだろうと。でも想像するのと直面するのとでは全然違う。どうしたら良いのか分からないまま、私はただその場を後にするしかなかった。

 

 夏紀が気分を変えようと、今度吹部が休みになる時に遊びに行こうと誘ってくれる。それになんて返答したかもよく覚えていない。ぼんやりと家路を歩いて、そのまま家に着いた。部屋のベッドに倒れ込む。

 

 視線を横に移せば、写真が何枚も貼られていた。中学の部活で撮ったもの。あれは確か、まだ結果が出る前の六月くらいに撮ったものだろう。涼音ちゃんとのツーショットもある。その頃の私はまだ綺麗に笑えていた。あの写真のように堂々とした笑い方なんて、もう出来そうもない。

 

 時間を戻せたらいいのに。頭の中でありえない願いを抱く。そうしたらきっと、もっと良い道を辿るのに。あそこで、辞めないって言う決断をするのに。助けて、苦しいって言えるのに。もう戻れない過去は残酷に私を締め付ける。天井を見上げたままこぼれてくる涙を止める方法を探した。

 

 そんなもの、ありはしないのに。

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