音を愛す君へ   作:tanuu

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第二十九音 代替品

 頭を抱えていても話は始まらない。私が出来ることがあるなら、最大限やり抜く必要があるだろう。それにはスピードが必須だ。ここでもたもたしていては問題が大きくなる一方になる。なるべく関わる人数を最低限にしないといけない。

 

 部長への報告は副部長からしてもらおう。流石に報告連絡相談の観点から見て、何もしないとは考えにくい。という事は残りは吉川にみぞれのフォローをしてもらいつつ、ダブルリードパートでも様子を見てもらい、フルートパートは姫神先輩などと協力して井上をコントロールできるように努めて、低音パートに迷惑をかけないよう調整するだけ。

 

 やる事は多いけれど、それで済むなら楽だ。前の再オーディションの際はそれこそ部内全体を相手にしなければならない問題だった。けれど今回に関しては、相手をするべき場所が少ない。

 

 田中先輩が変な優しさを見せない方が良いとは思ったが、よく考えればのらりくらりとしてくれる方が助かるのかもしれない。もし真実を知ったら、関係各所に突撃しかねない。それくらいの行動力はあるんだ。そう考えると、あの対応で正解だろう。

 

「はぁ……」

「どうしたの?」

 

 会いたくない時に会いたくない人に会うものである。こういう展開はよくあるのだが、私はどうやらそういう星の下に生まれてしまったらしい。自分の運の悪さを呪った。よく考えてみれば、ダブルリードパートの練習教室はトランペットパートの教室に行く途中にある。出会っても不思議じゃない。

 

「あぁ、うん、何と言うか……」

「?」

 

 何が起こっているのか全く知らない彼女は無表情のまま首をかしげている。そんなにどんよりした顔をしているのだろうか。ここで彼女に現在起こっている事を知らせるべきか。それは迷う事項だった。

 

 ただし、ここで彼女を誤魔化したとしてもどの道いつか伝えないといけない。どうしてあの時言ってくれなかったんだ、となったら私への信頼が無くなってしまうだろう。それは避けたいことだった。正直に言うしかない。ここまできたら、もうそれ以外に道はないだろう。

 

「落ち着いて聞いて欲しい。直近でどうなるっていう話じゃないんだ」

「うん」

「……希美が、部活に戻りたいと言ってきた。さっきまで田中先輩と直談判中だった」

 

 こひゅっと空気のなる音がした。彼女の喉からだ。驚いたように見開かれた目、そして口。けれどそこから言葉が発せられることは無かった。首を絞められたような呼吸音を漏らす彼女は、微かに唇を震わせる。声にならない声が、そこからは聞こえてくるようだった。

 

「……そう」

「何か伝えることがあるなら……」

「ない」

「そうか。無理だけはしないようにしてくれ」

「それは、そっちもそうじゃないの?」

 

 彼女は表情を変えないまま私の目元に手を伸ばした。咄嗟のことで後ろにズレるのが遅れる。彼女の指が私の目の下を拭った。その細くて白い指には粉が付いている。手洗い場にある鏡には、黒い隈が色濃く私の顔に貼り着いている姿が映る。

 

「ほら」

「今は私のことは良いから。大事なのは君の方だ。彼女のことは何とかする。だから気にしないでとは言えないけど、あまり気に病まないで練習に励んで欲しい。例え、大会が好きじゃなかったとしても」

「……分かってる」

「ごめん」

 

 その謝罪が何に対するモノなのか、私にもはっきり分からなかった。希美を引き留められなかったこと、大会への感情を知りながら戦力として使っていること、希美より大会を優先させるように言ったこと。或いは、その全部。私にできるのはただ謝る事だけだった。

 

「今回の件は向こうに責任がある。だから君は本当に気にしないでくれ」

「違う。……全部、私のせい」

「何もかも全部自分が悪いなんてこと、あるわけないと思うけど」

 

 彼女は垂れている長い髪を手で撫でた。彼女は顔に表情が出ない。その代わり、注視して見ていると意外と感情がしっかり存在していることが分かる。困ったとき、動揺しているとき、そういう仕草をするのを何度か見てきた。

 

「南中、関西行ったって聞いた」

「うん」

「おめでとうって、言っておいて」

「分かった」

 

 そう言うと、彼女はまた静かに教室に戻っていく。ただ、その背中はいつもより小さく見えた。手も微かに震えている。違うことを考えたり言ったりして気にしないようにしているのは明白だった。

 

 取り敢えず、伝達することはした。これで何も知らなかった、という状態は回避できる。問題はこの後だった。吉川を頼るしかないだろう。私や希美などがいない間、彼女に一番接していたのは吉川なのだ。である以上、きっと何らかの対策なりを考えてくれるはずである。そうでなくとも寄り添っているだけで、多少は安心感が持てる。

 

 吉川は彼女を見捨てたりしない。例え、どれだけ近くにいても優先順位が変化していないとしても。

 

 

 

 

 

 

 鎧塚みぞれという人物について、私が知り得ていることは表面上のことに過ぎないのかもしれない。その深層心理を読み解くことはきっと難しい。それこそ、一生かけて向き合わないといけないのだろう。とは言え、それはきっと他の人でも同じことで。彼女は表面が見えにくいからこそ、余計にそう感じてしまうのだろう。

 

 出会ったのは希美からの紹介だった。自分の友達ということでの紹介だったのだが、希美はよくわかっていないのだ。友達の友達同士が出会ってもすぐには会話が続かないという事を。とは言え、彼女のようなタイプが苦手なわけじゃない。何も考えていないわけじゃないし、感情だってしっかりある。

 

 この時ばかりは奇人変人面倒なヤツばかりの大学における交友関係に感謝した。彼らと知り合っていたからこそ、比較的容易に話すことができたように思う。自分と仲の良い人同士も仲良くなってくれればもっと嬉しいという、善性を煮詰めたような考えにより引き合わされたわけだが、その仲介人がかなり積極的だった事もあって、それなりの関係値を築けていると勝手に思っている。

 

 その証拠に、何だかんだ去年辞めると言った時にもう一度考え直すことを進められたのだから。とは言え、あの時はそれ以外に選択肢はなかった。希美の残した爪痕は大きく、その修復には誰かが尽力しないといけない。それに、下手を打つと揉め事になることは予想できた。希美は学年でも中心的存在。それと三年生の学年間対立など望むところじゃない。

 

 結果として今に至るが、たまに話す程度とは言え、他の女子とは違う行動をしてくれるので正直助かっている部分はある。この前の再オーディションに関しても、特段問題行動をすることなく、誹謗中傷に加担することもなく、淡々と練習をしてくれていた。そういう普通の行動をしてくれる存在が、どれほど嬉しかったことか。今となっては言い表せない。

 

 何故希美が彼女に退部を告げなかったのか。それは様々な憶測ができる。結局、本当のところは本人にしか分からないし、もしかしたら本人も分かってないのだろう。きっと一つの要素だけではなくて、色んなものが組み合わさっての行動だったはずだ。

 

 一番は彼女がコンクールメンバーだったから。でもそれだけじゃない。他にあるとしたらそれはきっと……嫉妬だ。

 

 

 

 

 

 

 

「以上が事態のあらましだ。正直、困ってる」

 

 その日すぐに吉川に相談した。これは速度が勝負なのだ。関係各所に必要な処置を。出来るだけ早く。そういう心構えが無いと対応が後手に回る。

 

「そっか……希美が……。これ、みぞれには?」

「さっき伝えた。まぁ、反応はお察しの通りだったけど」

「やっぱりあの子、抱えてるのね」

「同じ釜の飯を三年以上食ってきて、何も言わないでさようならなんだ。ショックを受けても仕方ないだろう。それに関しては、もうしょうがない」

「で、どうする気なの」

「どうするもこうするも、反対するしかないだろ。現状戻したところで何一つ良いことなんてないんだから」

 

 吉川との関係はあの再オーディション付近で一度気まずくなったけれど、現状は元通りになっているような気がしている。勝手に私が一方的に思っているだけかもしれないけれど、少なくともそういう風に捉えていた。それに、例え関係性がどうであれ連絡しないことはあり得ない。私情と公益は別の話だ。

 

 もう段々暗くなってくる。今日も高坂さん達がいつもの場所で待ってるだろう。とは言えもう少し待ってもらわないといけない。今はこっちの方が優先だった。

 

「アンタは、それでいいの?」

「良い。あのわからずやにはあれくらいでちょうどいい」

「あっそ」

「私のことは良いんだ。今はとにかく大事な時期だ。いや別にそうでなくても大事だけれど、輪をかけて大事な時期なのは分かってると思う。みぞれのことは頼んだ」

「分かってるわよ、言われなくても」

「頼む。喜多村先輩とかにはこっちから話を通しておくから。そっちは任せた。彼女の数少ない友達だし、引き受けてくれるとは思ってたけど」

 

 私の言葉に、吉川は少しだけ下を向く。その表情には深い影があり、悔しそうな顔をしていた。

 

「みぞれは、希美以外を友達だと思ってない」

「いやそれはないだろ」

 

 即座に出した否定の言葉に、彼女は達観したような顔を見せる。その弱々しさはこの前の騒動の時にすら見せなかったものだ。思わず眉を顰める。

 

「アンタなら分かってるでしょ? あの子は自己肯定感が低い。だから、最初に話しかけてくれた希美をずっと追いかけてる。その分、黙って辞められたことにショックを受けてる」

「それは……まぁ。けど、この一年ずっと構ってたんだろ? なのに何も感じてないなんてあり得ないだろう」

「……アンタには、分からないわよ。あの子の心の鍵を持ってるのは希美だけだった。希美じゃなくて時間をかけてでもその鍵を開けられる人がもしいるなら、それはアンタしかいない」

「なんで」

「だって、希美がアンタをみぞれと引き合わせた。だから、みぞれにとってアンタは希美の……!」

「代替品ってこと?」

「……」

 

 その沈黙が真実であると告げていた。ある程度分かっていることだった。みぞれは希美を拒絶しながらも、どこかで欲している。だからこそ私にその残滓を感じているのかもしれない。

 

「それに、アンタは心を引きずり出す才能がある」

「無いと思うけど、そんなの」

「嘘ね。絶対持ってる。人の心を読み解ける力。人の感情を察する能力。だから色んなところに手を回せる。人が求めてることも言えるし、求めてないことも敢えて言える。怖いくらいに。全部読み解けるから達観してられるんでしょ。そりゃそうよね。私はそういう所、あんまり得意じゃないけど」

「この話、前もしたな」

「そうだったかしら? よく覚えてないけど」

 

 嘘だ、と感覚的に分かった。本当に覚えてないなら、敢えて同じようなことを言ったりするだろうか。こうして一対一の状況で。

 

「ともかく、だからみぞれの心を無理くりでもこじ開けられる可能性があったのは、去年の時点だとアンタだけだった。そういう意味でも辞めないで欲しかったんだけど……まぁちゃんと話して辞めただけマシよ。何倍もね」

「それは、褒められてると思ってよろしい?」

「耳鼻科行く?」

「結構だ」

「特別な人って言うのはいるのよ。私はそうじゃないだけ。だからみぞれの心も開けない」

「……そうは思わないけど、やっぱり」

「アンタ、話聞いてた?」

「聞いたうえで言ってる。そりゃ、優先度に違いはあるさ。君だってあるだろ。中川と滝野だったらどっちを優先する?」

「そりゃ夏紀よ、なんで滝野が先になるわけ?」

 

 憐れだった。もしかしたら滝野が先になるかもしれないと思ったが、普通に中川らしい。心の中の滝野に合掌した。

 

「それと一緒だ。まぁ今のは例がちょっと微妙だけれど、友達同士でも優先度に違いはあるだろ。そういうもんだ。誰しも平等に同じくらいお友達、なんて幼稚園でもありはしない。確かにみぞれの中で希美が一番かもしれないけど、二番目に吉川がいないなんてことは無いと思うけど」

「ほら、分かってる。だから欲しい答えを返せるのよ。私が欲しい答えを分かってるから、本心がどうだとしても一番それに近い答えを出したんじゃない?」

「心外だな」

「まぁでも……ありがと」

「どういたしまして」

 

 私の言葉のどれが真実なのか、自分でもよく分かっているわけじゃない。とは言え、今言ったのは別に嘘でも方便でもないつもりだった。もしかしたら吉川にはそうは聞こえていないのかもしれないけれど。

 

 友達に優先度があるのなんて当たり前の話じゃないだろうか。親友という存在、普通の友達、たまに話す程度の友達、同じクラスにいるだけの友達と言えるか微妙な存在。そういうのをひっくるめて、広義では友達という。なら当然その中にランクがあって、順位を無意識でもつけているのは当たり前の話だと思う。

 

 それをあまり良いことと捉えない人が多いかもしれないけれど、ごく自然な話だと思う。同時に遊びに誘われた時、どっちに行きたいか。内容にもよるだろうけど、同じ場所だった場合パッと先に内心で選び取った方が優先する方だ。これを人でなしなどと言われるのは心外でしかない。

 

「友達なんて持ちつ持たれつ。利用して、利用されて生きていくもんだ。別に変なことは無いだろ。その上で、そういうのを全部排除して、相手が好きだと思えたら、それが大事な相手のはずだ」

「……先生みたいなこと言うわね。ちょっと年寄りくさい」

「生憎と、面倒くさいを極めたような人間たちと四年間いたもので。こんな考えになってしまったわけです」

「類は友を呼ぶのね」

「なんだとこら、もう一回言ってみろ」

 

 甚だ不本意なことを言われた。先生と言い、吉川と言い、私を何だと思っているのだろうか。私は至極真っ当な人間である、つもりだ。

 

「話は戻すけど、彼女のことは頼んだ。それ以外は任せて欲しい」

「分かってる。その辺はまぁ、信用してるから」

「それはどうも。はぁ……後は先生と、一年生か……」

「一年生?」

「黄前さんたちだよ。巻き込まれてる以上、何も言わないわけにもいかない。掻い摘んで話すさ」

「またあの子なのね」

「また? あぁ、そういう……」

 

 黄前さんは再オーディションの際に堂々と立ち上がり高坂さんを支持していた。あれの件を言っているのだろう。当然吉川も把握していたはずなので、何かと物事の中心部に近いところにいると思っているのかもしれない。確かに、言われてみれば彼女もトラブルに巻き込まれる体質だ。同じ星の下に生まれたのかもしれない。彼女には嫌がられそうだが。

 

「みぞれも良いけど、アンタも自分を大切にしなさいよ」

「どういう意味?」

「そのまま。希美の件で、何も感じてないわけないでしょ」

「私はまぁ……優先度は低いから。君がまた何かしでかさなきゃ、私は安心できる」

「はいはい、申し訳なかったわね」

 

 適当に茶化してその場は終わりにする。吉川の優しさはありがたいけれどそれに甘えるわけにはいかない。私自身が何らかのダメージを負っているとしても、それは自分で選んだ道の末の結果だ。それを誰かに甘えて分散するなどあってはならない。そんなことでこの部の部員に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先生への連絡、いつものレッスン。これらを終えて帰宅した頃にはもう夜八時を回っていた。先生は希美の件についてこちらで処理するので入部許可は私を伴っている時にして欲しいとお願いしておいた。流石に去年の件は松本先生や教頭先生などから聞いているのか、触れない方が良いと判断してくれたようである。

 

 これで余計な介入をされたらまた事態が複雑化してしまう。先生からすれば、来年を考えると是非欲しい人材であるのは事実。フルートパートは大事なパートだが、来年一番密度の濃い音を出せるはずの三年生は現状井上だけ。音の厚みを考えれば、欲しい逸材だ。

 

 なのだけれど、そういう単純な話でもない。恐らく田中先輩を経て私を通過するまですっ飛ばして先生の所へ行くことは無いと思うけれど、万が一を考えると布石は打っておきたい。追い詰められると人は何をするか分からないからだ。一応希美のことは信用しているけれど、中川が勧めないとも限らない。

 

 家に帰る頃にはすっかり眠い。みぞれに露見してしまった目の隈はまたその後に塗り直して誤魔化した。妹の化粧品がこんなところで役に立つとは思わなかった。今ではソファの上でグデっとした状態で妹が横たわっている。

 

「『裾が大きく広がって、人魚のようにしばらく体を浮かせて――そのあいだ、あの子は古い小唄を口ずさみ、自分の不幸が分からぬ様子――まるで水の中で暮らす妖精のように』」  

「私はオフィーリアじゃない」

「そんな風に見えるけど。今ご飯用意する。ちょっと待ってて」

 

 妹はゆっくりと起き上がった。その顔には疲れが浮かんでいる。練習だけによるものじゃないような気がした。我々は似ているのかもしれない。どっちも練習以外の部分で悩みを抱えている。そしてそれの解決は難しいけれど、誰かを頼ることも出来ないまま漂っている。

 

「そろそろ関西前のオーディションじゃないのか」

「そう。だからこんななの」

「この前の子、何とかなったのか」

「さぁ。私には分からない。審査結果は先生しか知らないから」

「何とかならなかったらどうする」

「どう、しようかな……」

 

 長い髪を乱しながら、彼女はボーっと天井を見上げた。古い木の木目が彼女の目に映っているだろう。それを眺めて、何か解決するとは思えないけれど、それでもそうしていないときっと、感情が安定しないのだろう。

 

「あの先生めんどくさい」

「優秀だって聞いてたけど」

「それはね。指導だけは優秀。でも部内のことは全部こっちに丸投げ。色々揉めてるって分かってる癖に、何もしないし」

 

 それは滝先生にも一部刺さる台詞のように思えた。まぁとは言え先生は一応動いてくれたわけだし、私が何もしなくてもきっと再オーディションというアイデアには辿り着いていただろう。行動しようという意思が無いわけでは無く、方法論が思いつかないだけだったはずだ。

 

「何が生徒のトラブルは生徒で解決した方が良い、よ。管理者責任放棄しないで欲しい。中学生に何期待してるの、所詮15かそこらの子供の集まりなのに。教師なんだから生徒の仲裁に入ってくれないかなぁ……。部活にお給料出てないのは知ってるけど、なら指導もしないでくれないと。やりたいことだけやって、やりたくない事はこっち行き。生徒は指揮者の音出す人形じゃない。あの人、ホントイライラする……。そのくせ部長はもっと視座を変えて個人に寄り添ってって。十分寄り添ってるよこっちは!」

 

 包丁を動かし、レンジを起動し、鍋を火にかけながら吐き出される言葉を聞き続ける。暗い目で呪詛のような言葉を吐いているけれど、きっと明日の朝になったらいつも通りのすました顔で登校するのだろう。そしてきっと、普段通り完全無欠の部長を演じるのだ。優雅に華麗に、自分には一切の瑕疵ないように努めて。そんな二重生活は明らかに彼女のメンタルを削っていた。それも問題が起きている時は一層削れるだろう。

 

「希美先輩の頃は、こんなじゃ無かったのに……。どこで間違えたのかな……」

「弱みが見えないと、人は怖く思うんじゃないのか。敵を作らない者は、決して友達も作らないものだ」

「それ、誰の言葉?」

「アルフレッド・テニソン」

「イギリス人の詩人男爵と部長を一緒にしないで」

「そうか? 普遍的な文句だと思うけど」

 

 疲れた顔で彼女は少しだけ笑った。その笑顔は純粋なものではなく、多分に嘲笑を含んだものではあったけれど、少しは気が楽になったのかもしれない。

 

「上手くはなってるの、どんどん部の実力は上がってる。色々犠牲にしながら。だから……どこかで崖から転がり落ちそうで不安になる」

「……そうか」

「それなのにあの顧問、私を駒みたいに扱って……」

 

 小さな声で呪いの歌が響く。どこも問題だらけみたいだ。ちょっと南中吹奏楽部が心配になってくる。関西大会が終わったら、一回様子を見に行った方が良いのかもしれない。ただ、それにはいい口実が無い。

 

 いや実際にはOB訪問と称して希美を利用すれば行けなくもないのだが、それはそれで不自然だし、そもそも肝心の希美というカードは使えない状態にある。後何かあるとしたら……合同練習とかだろうか。

 

 全国行きがどっちも決まれば、同じ市内なのだし強豪校どうし交流してもいいかもしれない。そういう風な手段を取れば、合法的に妹の視察ができる。ただしそれは全国行きが決まらない事にはどうしようもない。流石にその前ではお互いに迷惑だ。

 

 希美の頃はそうじゃなかったと彼女は言った。けれど、本当にそうだったのだろうか。彼女はどこか希美を美化しているところがある。恋は盲目だ。それに近しい感情なのだろう。希美だって完璧人間じゃないので、普通に欠点も問題点もあったはず。けれどそれが見えていない。理想の姿はいつだって完璧だ。それに追い付こうとしていればどこかで破綻する。そしてそれがなまじある程度達成できてしまった時の姿は完璧すぎて苦しいと形容できるだろう。

 

 きっとあの夏だ。二年前のあの夏。南中吹奏楽部が府大会銀賞だったあの夏。希美も、涼音も、みぞれや吉川も、きっとあの夏から抜け出せていない。そして私はその記憶が無い。だから気休めしか言えず、深いところで理解し合えないし、アドバイスも出来ない。

 

 みんなあの夏の中に、まだ取り残されているのだ。あそこからきっと、全ての物語は始まったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 翌日の練習はいつも通りに行われた。橋本先生の指導は適格だし、パーカッションパートはそれで大分良くなっている。問題だとは思っていたけど改善方法が上手く伝えられなかった部分がすっきりと綺麗になっていると、気分がいい。

 

「トランペット、入りがモサっとしてます。もっと勢いよく、パーンと出すように。それに、音量が増すと雑になってますね。一音一音に気を遣って。運動部の声出しじゃないので、大きければいいわけじゃありませんから」

「「「はい!」」」

 

 田邊先輩のパートもかなり綺麗に決まるようになった。少しずつ改善している。音はしっかりと良くなっているのだ。それは明白に分かる。

 

「全体的に遠慮がちで大人しい印象がある。普段の皆がそのまま演奏に出てる感じだね。もう少しお互い図々しくなった方が良い。気になったところはどんどん言い合うとかしてね。分かった?」

「「「はい!」」」

「今のところに注意して、もう一度行きます」

 

 橋本先生のアイデアはやらないでいたことだった。これまでの北宇治の雰囲気でそんな事をしている余裕はなかったし、そうしていたら揉め事の温床になっていただろう。けれどこれからは強豪校としての振る舞いや練習が求められる。

 

 つまり、これまでのような態度ではいけないということだ。事実、多くの強豪校は先輩後輩に関係なく指摘しているという話を、今朝の打ち合わせで橋本先生より聞いている。それを活かさない手はない。

 

 以前の北宇治はパート間の独立性が強かった。パートリーダーが守護大名で、それを部長という名の将軍が統治している感じだろうか。各領国には相互不可侵の感じがあったし、指摘し合うというのはパートリーダーや三年生のプライドを傷つけるという観点でやってこなかった。

 

 だがもうそんなことしてる場合じゃないのは皆分かってるだろう。あの再オーディション以来、実力主義の空気が少しずつ北宇治に形成されている。まだ小さな部分だが、強豪校になっていく過渡期にしては十分だろう。

 

 一見するとこっちは順調だ。だが順調じゃない部分も存在しているわけで。

 

「なに、今日も来てるの?」

「はい……」

 

 練習は終わっているし、時間は確かに解散時間だ。ここから練習するかどうかは個人の裁量に任されている。帰る人が多いので多分田中先輩もそうしたいのだと思うけど、そう出来ない事情が今日もやってきてるようだった。

 

 こればっかりはどうしようも出来ない。練習時間や実質練習時間に含まれている時間ならばともかく、そうじゃない時間である今は練習妨害というカードを切れないのだ。よって田中先輩の被害を無視すれば、彼女の行動を止めることはできない。昨日言われたことがよっぽど堪えたのか、一応気を遣ってるようだった。

 

 ガックリしている私に、黄前さんは苦笑いである。低音三人娘には今日も今日とて迷惑をかけている。田中先輩もだんだん疲れてくるだろうし、そのしわ寄せがどこに行くか、正直考えたくない部分だ。

 

「あぁ、そう言えば去年の話をするって言ってましたね……。聞きたい?」

 

 私の言葉に、彼女らは遠慮がちに頷いた。そう言われては私も話すしかない。

 

「彼女は元南中吹奏楽部の部長です。去年の部活はまぁ、ハッキリ言ってしまえば今年の数倍悪かった。下手くそなのもそうなんですけど、それ以上に空気が最悪でした。それに加えて、年功序列が当たり前でした。出る杭は打たれる。それが日常でしたね。それを変えるべく動いていて、結果戦いに敗れたのが彼女です。その経過で今の上級生は大なり小なり傷を負いました。でもそれは一年生には、文字通り関係ないこと。巻き込んでしまっている事に、多少は皆罪悪感を抱いているはずです」

 

 掻い摘んだ説明だけれど、取り敢えずそれで納得してくれるだろう。事態の把握は出来たはずだ。今の北宇治が改善された姿を見て、戻りたいと思った。自然な流れだし、どこもおかしな話は無いだろう。実際この流れで大きく外れということも無いはずだ。

 

「納得してもらえましたか?」

「はい、ありがとうございます」

 

 加藤さんも少し腑に落ちたような顔をしてくれる。それならば良かったと安堵した。結局彼女らは巻き込まれているだけだ。それなのに何も知らせてくれなければ、そりゃ不満も溜まるだろう。

 

「あ、そう言えば」

「どうしましたか黄前さん」

「希美先輩、桜地先輩を探してました。麗奈と吉沢さんのレッスンが相当遅くまであるから、それが終わらないと空かないって言ったんですけど……待つって」

「……そうですか、分かりました。教えてくれてありがとうございます。それでは三人とも気を付けて帰ってください。また明日」

「「「お疲れ様でした!」」」

 

 帰っていく三人の背中を見つめる。仲が良いのは良いことだ。同期で同じパートなのだ。仲良くしているのが一番だろう。仲良くできないパートもあるけれど。本当に待つつもりなのかは知らないが、そうするとかなり遅くなってしまう。そんな遅い時間まで残らせるわけにはいかない。頑固者めと思いながら、西日の学校を歩く。関西大会まで、あと三週間を切っていた。

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