音を愛す君へ   作:tanuu

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第三音 過去の自分

「あなたならば、こうして引き受けてくれるのではないかと思っていました」

「……そうですか。私からすれば、全然そんな予定はなかったんですけどね」

 

 放課後の応接室。数日前に啖呵を切ったこの場所に、私はもう一度座っていた。朝令暮改ではないが、あの時こっぴどく断ったにも拘わらず、戻ってきてしまった。なんとも気まずいものがある。私の感情を知ってか知らずか、先生は平然とした顔をしている。

 

「しかし、そうは言ってもどういう心境の変化があったのかは興味のあるところです」

「まぁ……色々ありまして。上手くなる、ということに真っ直ぐな一年生に少し絆されました。私も多くの指導者や先達によって技術を得ました。自分に能力があるなら、自分が次の世代への先達になるべきだと思った、どちらかと言えば思わされたのです」

 

 高坂麗奈の目は、そういう目をしていた。あの努力できる部分を、私は信じてみようと思う。

 

「というか、私の話はいいんです。吹部は今、何をしているんです?」

「現在は部全体の実力を確認しようと思っています。海兵隊の合奏を指示しました。各々のパートで練習し、合奏できるクオリティになったら呼ぶように、と」

「なるほど。それで様子はどうですか」

「練習している様子は見られません。楽しそうな声が各教室から響いています。時々音も聞こえますが、惰性的ですね」

「変化なし、と」

 

 先生は分かっていたはずである。なのでかはわからないが、特に焦りや憤りを見せることはなかった。もしかしたら隠しているだけなのかもしれないが。

 

「先生、今更ですが、本当にやるんですね?」

「はい」

 

 よどみなく、間髪入れず、まったくもって迷いなどないかのように、先生は答えた。その回答は実に明快で、これから待ち受けていることなどさして大したことではないように思えた。

 

「彼らは自分で選びました。勿論、私は楽しみながら演奏するという選択肢も提示しましたし、そうなった場合は受け入れるつもりでした。まぁ、最低限の実力はつけていただくつもりでしたが。ですが、この道を選んだのは彼ら自身ですから」

「高校生なんて、周りに流されてとか、敢えて変えるのもなんかカッコ悪いみたいなしょうもない理由で選んでいると思いますが」

「そうかもしれませんね。かくいう私も、高校時代にしっかりと選べていたかと言われれば自信はありません」

 

 ここで出来た、と言わないのは好感が持てた。過去の自分を今の自分の能力と同じであったかのように語ってしまうことはよくあることだ。今は出来ている精神的な選択や行動を、過去でも出来たかのように錯覚してしまうのだ。身体的な成長は誰でもわかる。背が伸びたとか、そういうのは。だが心の成長は明確にはわからない。ゆえに、過去と現在を混同してしまうのだ。

 

 生徒に、これから共にやっていく共犯者に、嘘を吐くことも見栄を張ることもせず、自分の弱みともいえる部分を見せている。それ自体は決して悪いことではないだろう。

 

「ですがそうであっても、私は生徒を子ども扱いする気はありません。大人とは、自分の選択に責任を持てる存在であると思っています。ゆえに、自分で選んだ選択には責任が付きまとうということを理解してもらいたいのです。それがたとえ、流された末の選択であったとしても」

「残酷ですね」

「そうかもしれません。ただ、私は部活をやる以上、何らかの成長がある方が好ましいと考えます。それは音楽的なものは当然としつつ、人間的な部分にも、成長に繋がるものがあってほしい。それが無いと、限りある時間を捧げる意味がありません」

 

 人間的な成長。確かに、部活は教育の場だ。であるのならば、学校教育の一環として、人間的な成長を得られる場所であるべきだという理論は納得がいく。幾分理想論的側面を感じるが、理想も叫べないようではその空間は終わりだろう。理想無き組織に、未来はない。理想だけでも未来はないが。

 

「そして、それはもちろんあなたも」

「私?」

「あなたも、普通の部員とは違うとはいえ、部活に参加するのです。我々教師が生徒から学び成長するように、あなたも部員から学んだり指導の中で得るものがあったりすることを願っています。大人数の指導経験は?」

「ないです。全体での演奏を聴いて、講評をしたことはありますが」

「ですよね。だからこそ、この未知の経験があなたの音楽家としての人生に深みと彩をもたらすのではないでしょうか。奏者だけでなく、指導者としても一流である存在になれる。私はこの部活を全国に連れていくため、あなたに協力を求めました。奏者としてのプライドすら曲げてくれるようにお願いしました。あれから色々考えましたが、私が提示できるメリットはこんなものしかありません。それでも、この部活には、そして私にはあなたの力が必要だと思っています。どうか、よろしくお願いします」

 

 先生はソファから立ち上がり、深々と頭を下げた。生徒にこんなにも深く頭を下げる教師を初めて見た。いや、もしかしたら彼は私を生徒としては見ていないのかもしれない。今この時、彼は私を一人の音楽家として、プロフェッショナルとして見ているのかもしれない。これは想像に過ぎない。それでもなんとなく真実であるような気がした。

 

 私も立ち上がる。礼には礼を。尊敬には尊敬を。それは、人間関係において非常に重要だと思っている。

 

「まったく手加減をする気はありません。先生の方針に異を唱えることもあると思います」

「構いません。むしろ、そのために私はあなたを呼びました」

「そうですか。では……こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 頭を下げた。これにより、もう私は逃げられない。でもそれで構わない。次はもう、間違えないと決めてこの部活に入るのだ。一度目は上手くいかなかった。救うべき人も救えず、未だにその痛みは心臓の奥でジクジクとうずいている。それでももう一度出来るならば。

 

 色々理由はある。先生に語ったことも嘘ではない。だが、その根底にはきっと――贖罪があるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「これからについてですが……」

「それに関してですが、少し考えがあります。戻りますと言って、はいそうですかというわけにもいきませんし、そもそも普通の部員じゃないですし。孤立無援は嫌ですから、戻るべき場所を用意しようと思います。そのために少し準備が必要でして。具体的には話を通したい人がいます」

「分かりました。お願いしているのはこちらですから、特に言うことはありません」

「はい。先生も、合奏準備ができたと連絡があったら教えてください」

 

 話がまとまったところで、コンコンと扉がノックされる。失礼します、と凛とした声がした。

 

「先生、こちらにいらっしゃいましたか」

 

 開けられた扉の所に立っていたのは見知った顔だった。今年の一年三組の担任であり、そして吹奏楽部の副顧問。軍曹とあだ名される厳しい教師と評判な松本美知恵その人である。

 

「松本先生、どうされましたか?」

「教頭先生が探しておいででしたので」

「そうですか、ありがとうございます」

 

 先生は頭をかいて、礼を言う。新任の教師ということもあり、色々と大変なことも多そうだ。部活動の指導は決して楽ではないうえに、業務の範囲外で行っていることが多い。吹奏楽指導専任というわけではないのだから、当然その他の業務もある。授業、その準備、学校行事、保護者対応などなど。

 

 そのうえで全国を目指すということは相当な努力を教師側も強いられる。まだ若いとはいえ、かなりの負担になることは間違いない。そんな苦労を自ら背負ってまで、この人はどうして全国大会に固執するのだろうか。まるで、それしか自身に目指すべき場所がないかのように。

 

「桜地……? どうしたんだ」

 

 松本先生はこちらを見ながら眉をひそめる。私は基本的に優等生として通っているつもりだ。自分で言うのは些か気が引けるが。成績は問題ないはずだし、問題行動を起こしたつもりはない。部活を辞めたことがマイナス点といえばマイナス点だが、それ以外に反抗的な行動をとったこともない。呼び出されているというのは些か引っかかったのだろう。

 

 そして、当然先生は私が去年辞めたことを知っている。その人物が新任の吹奏楽顧問と話している。疑問に思うのも当然だった。

 

「彼は、私がお願いした用事に関連してこちらに呼びました。そうだ、松本先生にもお話ししなくてはいけませんね。先日お伝えした私の補佐役をしてくださる存在です」

「……まぁ、そういうことです」

 

 松本先生は目を見開いて、私と滝先生の間で何度も視線を動かした。

 

「しかし、彼は生徒です」

「分かっています」

「部活動の指導を一部とはいえ生徒に委託するのですか?」

「無論、肝心な部分は私が行います。責任者も私です。ですが、音楽的なところであれば生徒間でも指導を行えるはずです。現に立華高校などの強豪校では演奏面でも生徒による自治がある程度行われています。それに、部活によっては各種手配や申し込みなども生徒が行っているところもあると耳にします」

「ですが、それでは彼の学生生活は……」

「先生」

 

 こちらを案じるような視線を感じ、私は口をはさんだ。この先生は決して悪い人ではない。厳しいが生徒を大事にしている。

 

「大丈夫です。全部、分かっています。そのうえで私の意思で以て引き受けました。発生する責任や失われる時間についても、全て承知の上です」

「……そうか。分かった。意志は固いようだな。だが、お前はまだ生徒だ。必要以上に責任を抱え込む必要はない。それは我々教師が引き受けることだ」

「はい。ありがとうございます」

 

 松本先生はこめかみを抑えながら私の言葉を受けて頷いた。本心ではまだ戸惑っているし、止めたいと思っているのだろう。それは、私の学生生活に関しての配慮から。私が奏者として戻るわけではないということは分かっているのだろう。

 

 堕ちている吹奏楽部を再建するという目標はおそらく両先生同士で共有はされているはず。その困難な任務に関わらせてしまっていることへの、自身に対する苛立ちにも見えた。

 

「滝先生」

「はい」

「教頭先生が終わりましたら、私からもお話がありますので、そのおつもりで」

「……はい」

 

 滝先生が苦情を言われることは確実だ。何を言われるかはわからないが、生徒に恐れられる、自他の区別なく振るわれる厳しさが降り注ぐことは間違いないだろう。それくらいは甘んじて受けるべきだ。二人の先生に別れを告げ、廊下を歩きながらそんなことを考える。さて、話を通すべき人に連絡をしなくてはいけない。

 

 携帯を取り出した。メッセージアプリに表示されるのは一年弱使っていなかった連絡先。一瞬だけ躊躇いながら、会話画面を開いた。文字を打ち込み、送信ボタンの上に指を置く。正直、躊躇わないわけがない。どういう顔をして会えばいいのか分からない。

 

 しかし、ここで止まっていてはどうにもならない。今後厳しいことや意にそぐわないことなどたくさんあるだろう。そこでいちいち躊躇しているようでは話にならないのだ。覚悟を決めて、送信ボタンを押す。

 

 優子と書かれた相手のアカウント名は、去年と変わっていなかった。

 

 

 

 

 

 

 廊下を歩く。返事は意外とすぐに、そして簡潔に返ってきた。了承の返事。無視されることを全く考えなかったわけではない。ただ、そういうことをする人間ではないだろうとも思っていた。キチンと交流したのは昨年の春から夏前まで。ただ、半年に満たない中学時代から名前は知っていた。

 

 何せ、吹部の女子は目立つことが多い。特にトランペットは色んな意味で目立つ人が集まる傾向にある。先輩しかり、今呼び出している吉川優子しかり。私もどちらかと言えばそうだろうし、高坂もそうだろう。ついでに言えば、ビジュアル面でも目立っていた。

 

 それだけでなく、同じ部活の後輩であった妹より名前を聞いたことはあった。ハキハキとした、良くも悪くも真っ直ぐな人だという評をいつだったか聞いたことがある。同時に負けず嫌いだとも。あれは確か、部活に入って間もなく聞いたのだったか。実際に妹の評通りの人間性であると理解するのにそう時間はかからなかった。

 

 わずか半年だが、その半年で色々あった。あの頃は随分と目まぐるしく過ぎていった。彼女が私をどう思っているのか、それは結局わからなかった。だが少なくとも、一年ぶりの呼び出しに応じてくれるのだから、嫌われているというわけではないはずだ。

 

 夕方の廊下を歩く。窓から見える校庭ではサッカー部が懸命に走り回っている。自分の友人の小さな姿を発見し、少しだけ口角を上げた。この時間は練習時間のはずだと先生は言っていた。だが、その音はほとんど聞こえてこない。低音とトランペットがたまに聞こえるくらい。

 

 窓を開ければ、風に流れて音が聞こえてくる。懐かしい、金管の音。誰が吹いているのかはすぐわかる。そして、その上手さも。

 

「つまらない音だ」

 

 小さく呟いて窓を閉めた。何故だか無性に悔しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し日が傾いた教室。普段私が過ごしている教室は、昼間の喧騒とは打って変わって静寂だ。赤い光の色で、景色は全く違う光景に見える。その中にいる彼女は、硬い表情をしていた。特徴的なリボンは自己主張をするようにピンと天井に向けて張っている。

 

「……」

「まずはありがとう。吉川が先輩と帰らないで呼び出しに応じてくれたことには感謝だ」

「ホント、感謝してよね。折角香織先輩が誘ってくれたのに、断る羽目になっちゃったじゃない」

「申し訳ないとは思っている。断られるとも覚悟していたから」

「辞めてからずっと没交渉だったヤツから、いきなり部活について話したいことがあるって言われたら行くしかないでしょ」

 

 フンと鼻を鳴らしながら彼女は言った。確かにその通り。事実、彼女が来てくれるであろう文言を選んでいる。

 

「新入生は入ったか?」

「まぁね。2人。どっちも経験者だから、人の確保は出来てる。人数は問題ない」

 

 お前に戻る席はないという意味を込めてなのか、どこか突き放すような口調の返答が返ってきた。今更戻ってこられても困る。ただ、それを面と向かって言うには彼女は優しすぎた。あるいは、去年のことの負い目があるのかもしれない。

 

 結局のところ、希美がいなくなった後の二年生は針の筵に近い部分が多かった。三年生は悩んだ。非常にくだらなく、そして悪辣な悩みである。則ちそれは、いなくなってしまった存在、つまりは希美たちに対して抱いた苛立ちのはけ口をどうするのか。

 

 その先に選ばれるように行動した結果が私への激しい排斥となって降り注ぎ、これ幸いと退部した。と言っても大したことはしていない。ちょっとばかし喧嘩を売っただけだ。また、そもそもとして私は火種ではあった。上手さは努力の証であり、努力は報われなくてはいけないという理想を掲げた私の友人は、私が大会に出れないことに烈火の如く怒っていたのだから。無論、それは上級生も既知のことである。

 

 おそらく、吉川はそれをまだ覚えている。いや、忘れるには、まだ必要な時を経ていない。律儀に罪悪感か、もしくは別の感情か。なんにせよ、感情を抱いている時点で彼女のある種の善性はうかがえる。

 

「で?  私をわざわざこんな風に呼びつけて、したい話ってのはそんな世間話じゃないでしょ」

「あぁ、そうだな。すまない。単刀直入に言おう。私は吹奏楽部に戻ることになる」

「……どういう意味?」

「そのままだ」

「全然わかんないんですけど。戻りたいなら、『戻りたいんだ』っていう風に言うべきでしょ?  今の言い方だと……」

「誰かに命じられたみたい、か?」

「そうね」

 

 私の言葉の意味を探るように、彼女の目は光る。一年生が入ったばかりの時期に混乱を起こしたくない。ただでさえ先生のよくわからない海兵隊の練習命令でごたごたしているのに。そういう意思が見て取れた。少しずつ沈む日が、教室を黒紫に染めていく。

 

「正確にはそうじゃない。自分で決めたことではある。だが……きっかけは確かにそちらの想像に近いかもしれない。顧問、変わっただろ。あの顧問が私の元を訪ねてきた。そして頼んできた。この部活の指導を手伝ってほしい、我々は全国大会を目指しているってな」

「なに、それ……わけわかんないんですけど。なんで先生が生徒に頼んでいるわけ?  確かにアンタは上手いよ。それは、分かってる。悔しいけど、絶対勝てないって。アンタの経歴だって知ってる。でも、もう部外者でしょ?」

「私もそう思った。だが本気だ。その後もまぁ、色々紆余曲折あった。だが結論として私が出した答えは、その願いを聞き届けるという選択だ」

 

 理解できないことに対するいら立ちを募らせているのか、彼女の眉はどんどんと傾斜を厳しくしながらひそめられていった。

 

「あの先生、何考えてんの……?」

「それは単純だろ」

 

 滝先生が何を考えているか。それは明々白々だ。

 

「全国大会に連れていくのさ。この部活を。そのためならば必要な手段は惜しまない」

「でも、そんなの」

「私も正直半信半疑だ。だが、あの先生が本気なのは疑えない。本気じゃない教師が、わざわざ生徒に頭を下げるか? 深々と頭を下げて、生徒の助けを乞うだろうか」

「……」

「常識的にはあり得ない。だが、常識に縛られていては達成できる目標じゃないってことだろ」

 

 そうなのだ。非常識ともいえる、おとぎ話じみているともいえる、そんな目標を成し遂げるためには通常の手段は有効性を持たない。誰でも出来ることで、誰でも考えられることで全国へ行けるなら、今頃コンクールは崩壊している。

 

「言いたいことはわかった。でも」

「今更戻ってこられても困る、か」

「……」

 

 無言は肯定だった。

 

「確かに、その気持ちは理解できる。けど、私が戻る戻らないに拘わらず混乱は必ず起こる。海兵隊、練習してないだろ。合奏練習に至っては一度も。今のうちに言っておくが、多分このままだと先生は何もさせないぞ」

「何もって、どういう……」

「そのままだ。今後のサンフェスやらコンクールやらには一切出さない。確実にそうなるだろう。伝統云々と吠えても、何も変わらない。なにせ、監督者の名前が無ければイベントには参加できないのだから」

「そんな……!」

「そもそも出てどうなる。無様な行進に参加賞しかもらえないコンクール。やる意味があるのかすら疑わしい。多分先生もそう思っている。だからこそ、全国を目指すという目標を実行させる意味も兼ねて、合格するまでその他のことはさせないだろう。いかなる不満が出ても」

 

 これだけ言えば、そうなった場合に部内がどうなるかは分かるはずだ。彼女は顔が広く、声が大きい。物理的な声量も大きいが、影響力という意味で大きい。そして他人の感情の機微を分かる側の人間だ。起こりうる事態を予測できないような人間じゃない。

 

「確かに結果は全然よくない。多分海兵隊も全然できない。でも、しょうがないじゃない。それでよかったのよ、北宇治は。郷に入っては郷に従え。そうでしょ?  頑張ったって、ここじゃどうにもならないのよ。それに、全国掲げてるけどホントに目指してない学校なんて星の数ほどある! だったら、私たちだって別にいいじゃない。別に、いいのよ、今更……」

 

 彼女は何かを噛みしめるようにして言った。最後の方は、まるで自分に言い聞かせるみたいに。それはきっと後悔と今まで何もできなかったことに対する自己嫌悪。二年生にはどこかに横たわっているのだろう。去年の騒動と、その時の自分の振る舞いが。ある者は静観を決め込んだ。ある者は上級生に加担し、無視した。ある者はそもそも知らなかった。その結果起きた出来事は誰にとっても幸運なことなどではなかったのだ。

 

「今更頑張ろうなんて、虫が良すぎるでしょ」

「……そうかもしれないな」

「希美に対してもそう。他の子に対してもそう。勿論……私たちが犠牲者にしたアンタについても、そう」

「別に気にしなくていいんだがな。アレは、私の選んだ選択だ。後悔はない。どの道、ここにいる意味は半分以上失われていたんだから。確かに吉川の言うように、郷に入っては郷に従えだ。目指してない学校もたくさんある。頑張ってもしょうがない。それでいいのかもしれないな」

「そうよ。わかったら……」

「吉川さ」

 

 私は彼女の言葉を遮るようにして口をはさむ。黒が増えていく教室で、少しだけ下を向いていた彼女の視線がこちらを見据える。

 

「つまらない音吹くようになったよな。私の知っている限り、君の演奏する音色はもっと、もっと弾んでいた」

 

 酷評する私に、彼女は顔を歪ませる。誰だっていい気分はしないだろう。だが、事実だ。彼女の音は劣化している。それは練習時間の少なさに起因するもの。おそらく中学の半分以下だろう。前に聞かせてもらった演奏は、今よりもっと輝く音だった。

 

「そんな音を聴かせられるのか、過去の自分に。頑張ってもしょうがないって言えるのか、二年前の吉川優子に」

 

 時間が止まったように、彼女は硬直した。怒りもない。悲しみもない。驚きも、喜びなども当然ない。彼女の顔は、本当に時が止まったままみたいだった。

 

「結果が分かった時、悔しさも大会というシステムの孕む理不尽さへの怒りも、あらゆる負の感情がごちゃ混ぜになったと聞いている。それを語る希美の顔は普段の様子では想像がつかないほどに暗かった。あの時悔しいと、みんな思っていたんだろう。私にはわからないさ。南中吹奏楽部だけが抱えていて、共有している悔しさだ。その悔しさを抱えていた過去の自分に、今の言葉を言えるのか。お前の頑張りは全部無駄だから、やらなくていいって。やってもしょうがないって。過去に誇れるように、今を生きてるのか」

 

 彼女は何も答えなかった。答えられないが正しいのかもしれない。

 

「そして、私たちの分まで頑張れと言った後輩たちに今の姿を自信を持って見せられるのか。今の南中吹奏楽部三年生は毎日遅くまで必死に練習して、下級生の練習の面倒を見ている。あの時先輩たちが感じた悔しさを、私たちが必ず乗り越えてみせると言ってな」

「そんなの……そんなの想像でしょ!」

「違う。今の南中の部長は、私の妹だ」

「ッ……!」

 

 希美の背中を追いかけて、あの子は毎晩遅くまで頑張っている。誰よりも上手く、そして誰よりも頑張って。だって先輩はそうしていたから。あの子はそう言っていた。私が燻っている間もずっと、真っ直ぐに。あの日閉じこもっていた自分を日の当たる場所に戻した、優しい少女の影を慕って、ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現状維持をよしとする。そういう風に言いながらも、彼女の本心は全く現状でいいなどとは思っていなかった。むしろ、ずっとどこかで思っていたはずだ。このままじゃいけないんだと。でもどうすればいいのか分からず、そして一人ではどうすることも出来ないから、そのままでいることにしていた。

 

 無論、先輩のためにそのままにしていたという部分も大きいだろう。そうしたら、波風立たずに部の時間は進んで、先輩たちは大会に出れるから。だが今はそんなことはどうでもいい。今大事なのは、吉川優子の心を動かすこと。エゴイズムであり、自己中心的な心であってもだ。大なり小なり音楽家はエゴイストだ。じゃなきゃ、演奏なんていう自己表現の極みであり、自己顕示の極みをしない。だから吉川優子のエゴイストな部分を掘り起こす。

 

 そして、私もエゴイストだ。なにせ、こうすることで部活に戻りやすくなると踏んでの行動だからだ。完全に不満がないなどということにはどうやってもならないだろう。彼女が私が指導者として戻るのを受け入れることと、私に不満があることは両立できる。だがそれでも、他の部員からの感情的な攻撃には弁護的な論調を張ってくれる可能性が高い。吉川優子はそういう情に弱い部分がある。

 

 あとは容易い。副部長は自分が吹ければそれでいい。利害は対立しないだろう。部長は押しに弱いところがある。理詰めで説得すれば首を縦に振る。そして……中世古先輩は優しい人だ。だからこそ、強く拒めない。この三人が追い出す方向に舵を切らない限りは今年の三年生は動けない。

 

 二年生は吉川を上手く引き込んでしまえば後はトランペットの残り二人を説得してトランペットに居場所をつくる。一年生は高坂さんがいるから問題ない。後のもう一人はあったことがないが、数の有利はこちらにある。これでトランペットパートという居場所を完成させる。そうすれば部内の避難場所ができる。他パートに恨まれた場合に発生する問題が少し減るのだ。

 

 言ってしまえば私は最低な人間だ。全部計算して、上手くいく可能性の高い選択肢を取っている。だが、私はそれを最低と自嘲しながら受け入れる。私の役目はこの部活を全国へ連れていく。その補佐だ。ならば、その目的達成のために有効な手段を取る。たとえ最低なものであっても。私はそういう生き方しか、出来ないのだから。

 

 そのために、まずは目の前の少女に私の復帰を納得させないといけない。しかも、指導者とかいう訳の分からない方法での復帰を。吉川は苦悩しているように見えた。彼女の中で、いろんな感情がぶつかり合っているのだろう。

 

「強豪校を夢見てきたわけじゃないのは知っている。でも少なくとも、今の自分の音は、態度は、性根は、誇らしくいられるものじゃないんじゃないか」

 

 彼女の瞳を真っ直ぐに見据える。丸い宝石のような瞳が揺れているのが分かった。彼女は今、心の奥底にあったプライドや不満をほじくり返されている。強豪出身だというプライド。現状維持で『仕方ない』という風に諦観した際に抱いた、小さな不満。そしてそれは積もり積もって、今に至るはずだ。

 

 これは全部想像でしかない。人間の心理に確固たる証拠なんてない。それでも私はこれに賭けるしかない。

 

「あぁぁーー!もう、わけわかんないッ!」

 

 彼女は頭を抱えながら叫んだ。教室はもう暗い。それでも私の目にはハッキリと彼女の姿が映っていた。

 

「分かってるわよ、そんなこと! 現状維持でいいなんて、あの上級生たちと同じだってことくらい、嫌って程に!」

「なら今が最後のチャンスだ。今ならまだ間に合う。今からなら、私と滝先生で何とか出来る。先輩との最後の年を、一番良い成果で以て終わらせられる、最後の機会だ。少なくとも、関西までは約束する。だから私が戻るのを認めてほしい。最後に私を引き留めてくれた、君に。そして、君自身が、過去の悔しさを呑みこんで、誇れるような音を奏でられるように。今だよ、今なんだ」

 

 彼女は私をキッと睨む。その視線は厳しく、そして直線的だ。それが彼女の良いところでもあり、よくないところでもある。私はどちらかと言えば前者としてとらえているが。

 

「後、面倒そうな後輩が来ただろう? その子の手綱を握る役目もやろう」

「高坂を……?」

「そう。その高坂さんを」

「もう訳わかんないわよ……。自分の考えてることも、自分の感情も、アンタのことも、部活のことも、これからのことも」

「じゃ、分かるまで向き合うしかないな」

「私、アンタのそういう謎に達観してるとこ、苦手」

「それは残念」

「けど、信念あるとこは嫌いじゃなかった。……でもまぁ、そうね。良いんじゃない?  戻るくらいなら。その指導者?っていうのはまだいまいち分からないけど、本気なのは分かったから。本気なヤツをダサいとか馬鹿にしたりするほど、私は落ちぶれたつもりはないし。協力は約束できないけど……ま、パートにいるくらいなら良いわよ」

 

 心中で安堵の息を吐く。

 

「恩に着る」

「あ!  ちゃんと香織先輩にも挨拶しなさいよね、戻る前に」

「分かっているさ」

 

 最初にして最大の関門を越えてしまえばあとはそう問題はない。

 

「あと、みぞれにも」

「……善処する」

 

 お茶を濁した私の返答に吉川はジト目を向ける。そしてそのあとすぐに小さくため息を吐いた。

 

「一応言っとく。多分、明日くらいに限界が来る。合奏なんか一回も練習してないと思うけど、先生を呼ぶことになると思うから」

「そうか……ありがとう」

「どーいたしまして」

 

 彼女は面倒なヤツに乗せられちゃった……、とぼやいている。濃紫が教室のほとんどを支配するようになった。自分が今、安堵以外にも嬉しさを感じているのに気が付いた。それにあまり気づかれたくはない。闇のおかげで隠れていることを祈りながら、プンスカという擬音語が聞こえてきそうな()()を見る。

 

 やっと、私の新生活は始まろうとしていた。

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