音を愛す君へ   作:tanuu

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第三十音 影

「ストップ、今のところ、やっぱり少し気になる」

 

 夕方はとうに過ぎ、夜になった学校。電気が煌々と輝く教室の中で、いつも通りのトランペットレッスンである。色々問題が降ってきており、正直頭の中がかなり疲れている。仕事もあるし、休めないまま今に至っていた。

 

 けれど、この時間は割と気が楽である。あんまり気を遣わなくてもいい後輩二人であるという事もあるし、本業の指導ができると言うのは私としても楽しいものだった。

 

「吉沢さん、今日の全体練習でも注意したけど、勢いが弱いね」

「ごめんなさい……」

「高坂さん、何かアドバイスはある?」

「私ですか? そうですね……ちょっと臆病になってるかも。失敗することを恐れないで、そのまま指示通りに」

「ありがとう。私もそう思ってる。目覚めのラッパのような感じでやってみよう」

「分かりました」

 

 関西大会を見据えつつ、私の指導は一層熱が入る。最近やっているのは、高坂さんにも意見を求めることだった。特に吉沢さんの練習に関しては。これは将来を見据えてのことである。来年以降、この時間が存続するかは分からない。もし無理だったとしても、高坂さんがその役を引き継いでくれることを期待している。

 

 それに再来年は確実に私がいない。その時に彼女が音楽的指導を全体に施せるようにという布石でもある。今の一年生で、音楽的に一番技術があるのは高坂さんと川島さんだろう。ただ、高坂さんの方が厳しく言う、という事も出来るはずだ。

 

 指導は優しさだけじゃ成立しない。時には厳しいことを言う必要もある。川島さんにそれが出来ないともあまり思わないが、どっちかと言えば高坂さんの方が向いている気がする。それに、私があと一年強は直接指導できるので、その間に指導能力も鍛えられるというのが大きかった。

 

 実際、高坂さんの言い方なども工夫させている。彼女が私の跡を継いでくれることが理想だった。

 

「いいね、今の感じ。よし……今日の課題はこんな感じで良いでしょう。お疲れ様でした。明日は私がお休みなので、各自練習に励んでください」

「「はい!」」

「じゃあ、お疲れ様でした」

 

 帰っていく二人を見送り、その後電気と冷房を消して、職員室に向かう。今日の報告を行って、そしてやっと帰れるのだ。そして校門を通り抜けたところで深いため息が出そうになった。

 

「こんな遅くまで何してんるんですか」

「低音の……久美子ちゃんにこの時間まで帰らないって聞いたから」

「じゃあ帰るでしょうに、普通は」

「普段の時間じゃ話せないから」

 

 田中先輩もこの根性で捕まっているのだろう。ちょっとあの人も可哀想になってきた。この執念で来られたら、そりゃ無視も出来ないだろう。

 

「前にも言ったでしょう。話すべきは私じゃないです。田中先輩でも無いです。と言うより、田中先輩は諸々の問題を解決した上だったらすんなりと許可してくれるので」

「その諸々の問題って……?」

「それが分からないから、ダメなんです。自分自身がした、不義理な行為をもう一度考え直してください。私も問題が解決したら、戻って来ることに異は挟みません。後、明日はお休みなので来てもいませんから」

 

 カツンと音を鳴らして、私は歩き始める。立ち話をしていてもしょうがない。この調子だと埒が明かないままになる。もう大分夜も遅い。高坂さんたちが帰ってから先生と話している間、それなりに時間が過ぎている。これでは彼女の帰宅が遅くなってしまうだろう。

 

 部活もやってないのに制服でどこに行ってるのか。そういう心配を親がする可能性もある。それに、女子が一人で夜出歩くのは幾ら日本が世界的に見て安全な国であっても危険であることに変わりはない。彼女が危険な目に遭うことは当然望んでいる事じゃない。特に私や彼女の家の周りは街灯も少ないのだ。

 

 決して言葉にはしないけれど、そういう考えもあって私はこの場を立ち去ることを選んだのだ。どうせ同じ方向なんだし、勝手に付いてくるだろうという考えがあって。

 

 無言で夜道を歩く男女。周りから見れば奇妙な光景だろう。街灯の光がポツリポツリと夜道を照らす。夜なのに気温は全く下がらないまま、熱帯夜の様相を呈していた。道の脇にある小さな畑には全く灯りが無い。濃密な闇がそこに満ちている。

 

「涼音が会いたがってる」

「そっか。部長さんで、頑張ってるみたいだからね」

「そうだ。多分家にいるぞ」

「……でも、会えないよ」

 

 絞り出すような声で、彼女は言った。

 

「今の私は、涼音ちゃんに会う資格なんかない。こんなところで停滞したままの私なんかが会っても、きっと失望されちゃうし」

「お前はッ!」

 

 大きな声を出しながら振り返った私に、彼女は驚いた顔をした。その目には昔のような自信を湛えた溌溂さはなく、ただ諦観と臆病さのようなものが見え隠れしている。その表情が無性に苛立って、同時にそんな顔をさせている一端が私にあるということを思い出して、でもその根本原因は彼女にあるということも事実で。そんな幾つもの事柄が私の中に同時に満ちていく。

 

 何と言うべきかも分からないまま、私は言葉を捻り出せない口を閉じた。妹が呪いのように追いかけているのは、こんな姿をした彼女じゃない。確かに今の姿を見せてしまっては、妹の心は壊れてしまいそうだ。

 

 あの夏から抜け出せないまま、希美の背中を追いかけ続けている妹に、それはあまりにも酷な話だろう。いつだって前を向いていたはずの存在はもうそこにはなく、その夢を託したはずの後輩に会うことすら避けている彼女に、かつての面影はなかった。お前が呪いをかけたんだろう。そう言いたくなった。でもそれは八つ当たりだと分かっていたから口を閉ざすしかないのだ。

 

「何でもない」

 

 私はそういうしか無かった。暗い夜の中に、漏れ出した吐息が消えていく。彼女を変えてしまったモノの中に私が入っているのだとしたら、私はきっと自分を許すことは出来ないだろう。

 

 けれど、と自己弁護する声が心の中で叫ぶ。私を変えてしまったモノの中に彼女は確かに入っているのだと。だから私は彼女を許さなくていいし、彼女に罪悪感を抱く必要など無いのだと。結果として、引き留めた私が正しかったがゆえに今の状況になっているのだから。

 

 その自己弁護が醜いものと分かっていても、私は止められそうになかった。そうでもしないときっと、自分が壊れていきそうな気がしたから。それからはどちらも何も言わなかった。夜の街に、靴音だけが響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな夜の翌日。ただでさえ気が重いのに、余計に気が重くなる出来事が待ち構えていた。

 

 耳にはお経の読む声が聞こえている。黒服で染められた集団が数十人、静かに座っていた。葬式よりは気が楽だけれど、この時間は好きじゃない。8月の盛りである9日。世間的には原爆投下で知られるこの日、私は部活を休んでいた。

 

 両親が死んでから早二年。今年は三回忌だ。これが終われば来年以降はしばらくやらないことになっている。私の両親のことだ、自分の法要より部活に行けと言いそうな気もするが、それはあくまでも私の想像にすぎず、またそれは親戚連中には通用しない話だ。 

 

 正直な話、会いたくない人ばかりである。それでもやらざるを得ないのは施主の務めだろう。気が重い話だった。読経はいつの間にか法話になっている。早く終わらないかというのが正直な感想だ。妹もあんまりここにいたくは無いのだろう。部活を率いる人間が大事な大会前に抜け出すのは好んでいないはずである。

 

「本日はお忙しいところ、御足労頂きありがとうございました。皆さまにお越し頂き、故人も喜んでいることと思います。心ばかりではございますが、お膳の用意を致しました。お時間が許される限り、どうぞごゆっくりおくつろぎください。本日は誠にありがとうございました」

 

 僧侶がいなくなった後、定型文を述べる。これでまた金が無くなる。嫌な話だ。ぞろぞろと人の群れが移動している中、私は妹を呼び止めた。

 

「今からタクシーで学校に行ってきな」

「でもこの後も出ないと」

「それは私がどうにかしておくから。部長なんでしょ、行ってきなさい」

「……分かった、ありがとう」

 

 学生と言うのは便利なもので、冠婚葬祭に制服で出ていれば誰にも文句は言えない。なのでそのまま学校にも行けるという利点が存在していた。呼びつけたタクシーに乗せて、南中まで行くようにお願いする。残った親戚にはまた色々言われそうであるが、それはもう織り込み済み。こちらが耐えればいい話である。

 

 会場に戻れば、案の定良い感情を込めた視線は飛んでこない。彼らの半数以上が私と妹が死んだ方が嬉しいのだから、しょうがないだろう。両親の遺産はこちらにやって来る。だが我々兄妹が死ねば、また別の親族に流れていく。いずれにしても、我々が嫌いというのを婉曲に告げる面倒な人々だった。こんなのでも世間的に見れば立派な職業に就いている人ばかりなのだから救えない。

 

「凛音さん。涼音さんはどちらへ」 

「彼女は役目がありますので、そちらへ行かせました。ここにいなくともよろしいでしょう」

「桜地家の娘が法要を抜け出すべき事情など、ありはしません」

「人を導けと教えておいて、それをしようとするのを妨害するのはダブルスタンダードではありませんか?」

 

 和服の祖母は顔を顰める。直接会おうと電話で話そうと、我々の関係は良くならない。

 

「彼女も、私の学校も、どちらも結果を残しております。文句はないのでは?」

「ですが、あなたの宣言とはまだ程遠いですが」

「えぇ。ですから私も早く戻りたいのですけどね。アレを相手にしないといけないので」

「……」

「貴女だって、あの親族はお嫌いでしょう? ご自身の婿取りに随分と反対されたそうじゃないですか。貴賤結婚とまで言われたそうで。ねぇ、お祖母(ばあ)様」

「……無理を通したくば、この地で結果を残しなさい。話はそれからです」

「無論、言われずとも」

 

 ムカつく相手だが、もっとムカつく相手が沢山いるので相対的にはマシだ。私が産まれるのを待たずに死んだ祖父が生きていれば、我々の関係ももう少しまともだったのかもしれない。良い人から先に死んでいく。世の中は残酷だった。

 

 

 

 

 

 

 

 散々面倒な目にあった翌日。今日は花火大会のせいで早めに練習を切り上げないといけない。理由としては簡単で、交通規制のせいで車通勤をしている先生が家に帰れなくなるからである。それならしょうがない話だ。

 

 朝の学校は静かなもの。夏であってもそれは変わらない。夜と同じように人気はないけれど、どこか夜とは違う清涼さがある気がする。もっとも、気がするだけかもしれないけれど。少なくとも悪意と喧騒に満ちた法要後の会食よりは比較できないレベルでまともなのは事実である。

 

 昔はそこまで学校という物が好きではなかったが、それよりもっとひどいモノを体験すると印象も変わって来るものだった。

 

「おはよう」

「……おはよう」

 

 音楽室の扉を開けると、いつも通りリードを咥えた少女が窓際に座っている。挨拶をしたけれど、特段そこから何か会話が続くことは無い。彼女は再び練習を始め、私は他校の音楽の研究を行う。先生と私との間で行っているのが他校と北宇治の比較だ。これをすることで、北宇治に足りないものを探すという作業である。

 

 明静工科、秀塔大附属、大阪東照の演奏はいずれも隙が無い。非常にハイレベルな演奏であるのは一目瞭然だった。いくつかの学校は発信にも力を入れているため、動画サイトなどでその演奏を聴くことができる。それだけ聞いても非常にレベルが高く、同時に音の厚みが存在しているのが理解できた。

 

 その上で北宇治に足りないもの。勿論色々あるが、この先課題になって来るのは明らかに表現力だろう。耳に突っ込んだイヤホンからは正確で、それでいて表現力豊かな演奏が聞こえてくる。まだだ。まだこのレベルには達していない。三強のどこか一角を明確に倒さないといけない現状、足りないピースを埋めていくしかない。だがその行動は、言うよりもずっと難しいのだ。

 

 途中で吉川も登校してくる。軽く目を合わせ、昨日の打ち合わせ内容を頭の中でもう一度反芻した。何でもないかのように、彼女はみぞれに話しかけている。そう。オーボエ吹きである彼女がもっと昔のように豊かな演奏ができるようになれば。きっと北宇治のサウンドは一気に上がる。高坂さんと合わせ、審査員の目を引くポイントになるだろう。

 

 だがそのために必要なことは、かなり難しいことだった。問題の根本に存在している根深いモノに、対処しないといけない。けれどそれには誰かが傷つくのは明白だった。傷つかないと前には進めないモノ。ただ、自分に対してそれを強制するのは構わないけれど、彼女にそれを強いるのは筋違いだ。他人の人生に、そんなことを強要してはいけない。

 

 明確な手段が思いつかないまま、演奏は流れていた。

 

「あれ、二人とも早いんだね」

 

 演奏が終わったタイミングで、吉川の声がする。顔を上げると、高坂さんと黄前さんが登校していた。時計を見れば、確かに随分と早い登校だ。やる気があるのは大いに歓迎するところである。

 

「おはようございます」

「おはようございま~す」

 

 キリっとした声の高坂さんと比べれば、黄前さんの声はどこか眠そうで間延びしている。朝が意外と苦手なのかもしれない。

 

「優子」

「ん~?」

「仲悪いの、その二人と」

「ぇ」

 

 声にならない声が吉川の口から飛び出す。何と言う直接的な表現を、と思わないでもない。確かにあの再オーディション以来、一年生二人と吉川の関係が好転するような事項は特に発生していないのも事実である。だからと言って今この場で言わなくても良いじゃないかと思いながら、あまりの直球さに笑いが零れる。

 

 そして流れる気まずい沈黙。マズそうなら手助けに入ろうと思ったけれど、まだ大丈夫そうだ。仲が悪いんだとしたら、9対1くらいで吉川が悪いので、そこら辺は頑張ってもらおう。

 

「え、え~っと」

 

 黄前さんが慌てたように取り繕う文言を探している。

 

「そうなんですか、先輩」

「どうなんだろうねぇ、後輩」

「ふふふ」

「アハハ」

 

 冷戦真っ只中という感じの乾いた笑いが音楽室に満ちていく。まぁ練習などでは普通に話すようになったからと言って、仲良くなったわけじゃない。きっと来年まで完全に仲良くという感じにはならないだろう。お互いに実力は認めているようなので、多分関係性がそこまで悪いという訳じゃないだろうけど。

 

「えーっと仲悪いって言うか、良いって言うか、普通って言うか……そう! 普通! 先輩と後輩って感じです、多分!」

「ふーん」

 

 黄前さんの必死の言い訳にも拘わらず、適当な返事が返って来る。さして興味が無かったのだろう。じゃあ聞くな、と黄前さんの内心がチラッと瞳に映った。まぁ大体こんな感じなので、黄前さんにも早く慣れてもらうしかないだろう。これを変革しようというのも中々難しい話なのだから。

 

「じゃ、じゃあちょっと外で練習してきます!」

 

 黄前さんは高坂さんを引っ張って外に出て行った。場の空気を読む力は彼女の持ち味であるように思う。人間関係調整能力は人より高そうだ。ああいう存在は組織に一人いると大変助かる存在なのである。性格も基本穏やかだし、人当たりも悪くない。年下の教育には向いていそうだ。

 

 来年度の人事も秋頃になると考えないといけない。そこら辺は部長と副部長の裁量になってくるが、なんとなく想像は出来る。次期部長が誰なのか、副部長が誰なのか。何人か候補はいるが、いずれにしても話がしやすい存在であることを祈るばかりだ。今年は部長が話しやすい人で随分と助かっている。

 

「あんなに色々あったのに、みぞれは部の人間関係に疎いのね」

「だって、興味ないから」

「まぁ、それがみぞれの良いところなんだけど」

 

 それなのに、吉川とあの二人の関係性については問いかけた。恐らく途中で興味を喪失したのは、そこまで悪くないと個人的な判断を下したから。だから大丈夫だと思った。興味ないと言いつつ、それは知らないと同義ではない。彼女だって再オーディションにおける諸々の出来事は体験しているのだから。

 

 その上で聞いたのは、吉川を慮ってのことかもしれない。いずれにしても、今回は吉川が絡んでいたから興味を示した。やはり、と私は思う。彼女は吉川の事を友人だと思っている。じゃなければあんな行動はしないだろう。例え希美との間に差はあっても、それは吉川への情が少ないことは意味しないのだ。吉川自身がどう捉えていようとも。

 

 

 

 

 

 

 

「それでは、本日の練習はここまでにします。花火大会で過度に浮かれることの無いように」

「「「ありがとうございました!」」」

 

 先生の言葉が終わると同時に、皆口々に予定を話しながら外へ出ていく。この光景はあがた祭りの際にも見かけたモノだ。吉川は加部と行くらしい。高坂さんは前回のお祭り同様黄前さんと。吉沢さんは今回は一年生同士で行くと話していた。私はどうしたもんかと思ったが、滝野に誘われたので同行することにする。

 

「私は一回家に帰るから」

「OK、じゃあ後で集合場所送るわ」

「了解」

 

 先生への報告も今日の分は明日に回していいという話になっている。こんなに早くに帰宅するのも、誰かと帰るのも随分と久しぶりに感じた。数日前の出来事はカウントしないことにしている。まだ夕暮れにすらなっていない学校。三時の日差しは眩しい。

 

「お前、挨拶回りとかしなくて大丈夫なん?」

「あぁ、それはもう済ませた」

「良い家も、それはそれで大変だなぁ」

「まぁでも楽になってる方だ。昔は花火大会の主催も古い家で持ち回りだったんだけど、今は私が高校生だから順番から外してくれてるし。やりますって言ったんだけどなぁ、高校生にやらせたら名折れとか言ってて。ありがたいことだ」

「それでも面倒そうだなぁ。俺には想像つかんけど」

 

 そんな話をしながら、下校するために昇降口にいると、耳に音が入って来る。柔らかい音。それはフルートの音色。温かみのあるキラキラとした演奏は、いつか聞いたモノだった。唇を噛みしめる。演奏は上手い。奏者が例え変わってしまっても、演奏の上手さは変化していない。それどころか少し磨きがかかったようにすら思える。

 

 その技術は今のフルートパートの誰よりも上手い。当然だろう。私の妹が憧れ、そして今なお追いかけ続けている演奏。努力の天才たる彼女が未だに追い付けないと言い続ける、元エースの技巧だ。

 

「これ、誰だ?」

 

 滝野の言葉で現実に戻される。

 

「希美だよ」

「そうか、傘木さんが……。でも、なんで」

「さぁな。本人に聞いてくれ。それにしても……つまらん演奏だ」

「上手いと思うけどなぁ」

「上手いさ。技術だけは。でも……こんな張りの無い音じゃなかった。もっと踊るように、楽しむように。フルートへの愛があった。でもこれじゃまるで自分に言い聞かせてるみたいに聞こえる。私はまだ、フルートが好きってな」

「ま、俺にはよく分からんけど。行こうぜ、遅くなると混む」

「分かった」

 

 滝野に半ば引きずられるように、私は歩き出す。校舎の外に出れば、その演奏は一層はっきりと聞こえた。二つある棟を結ぶ渡り廊下の最上階。よくトランペットパートが練習に使っている場所の一つだ。そこで吹いているのだろう。風に揺れるポニーテールが見える気がした。

 

 家に帰ると、またフルートの音が聞こえる。もう頭がおかしくなりそうだった。それにしたって、今日は花火大会だと言うのに出かけもしないのだろうか。気分転換をしないと病んでしまう。そう言えば、と思い出すがお祭りの日も彼女は家にいた。そしてずっと練習していた。

 

 ちょっと音楽に触れすぎている。彼女の精神は今結構限界に近いはずだ。だから心なしか追い詰められているような演奏になっている。これでは本調子とは言えないだろう。兄として、一人の音楽に携わる人間として、そして曲がりなりにも部活の指導をしている人間としてこの状況は見過ごせない。

 

 防音室の扉を開け放った私の勢いに、彼女はビックリしたように身を震わせた。

 

「な、なに、兄さん……」

「外に出なさい」

「なんで」

「そんな練習ばっかりしてると頭おかしくなるだろう。気分転換でもしなさい。折角の花火大会なのに、誘ってくる友達もいないのか?」

「……」

「前も言ったけど、やっぱり怖がられてるんじゃないのか。さぁ、行くぞ」

「でも練習しないと、大会も近いんだから!」

「あのねぇ、課題曲Ⅰ番でキリストの受難が自由曲でしょ? それでその演奏してダメなら、それは君のせいじゃなくて別の人のせいだから」

「けど」

「良いから浴衣にでも着替えてきなさい! じゃないと明日のお昼抜きにするぞ」

「……分かった」

 

 渋々と言った様子で楽器を片付けると防音室から出ていく。その姿を見送りながらため息を吐いた。あんな状態のまま放置しておけるわけがない。家で吐き出している分、学校ではかなりのストレスが蓄積しているんだろう。強豪校と言うのも大変だ。

 

 あの夏から抜け出す方法がもしあるとするならば、それはきっと呪いを解く手段が見つかったときだろう。その手段とは何なのか。私にもまだはっきりとは分からなかった。或いは、私には見つけられないのかもしれない。あの子自身が自分に課している幾つもの鎖の中から、あの子を見つけてくれる人に出会うまでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 滝野に一人増える旨を連絡して、不承不承という感じではあるが着替えを済ませた仏頂面の妹を引き連れて、待ち合わせ場所に向かう。幸い、すぐに見つかった。

 

「悪い」

「おっす、ちょっと遅かったな……は?」

「あ、彼女が一人増えるって言った子だ」

「そういう意味の彼女、じゃないよな……あぁ、妹さんか」

「なんで分かった?」

「目がよく似てる」

 

 何がおかしいのか、滝野はケラケラと笑っている。そんなに似ているのだろうか。私にはよく分からない。

 

「兄がいつもお世話になっております。妹の桜地涼音です、どうぞお見知りおきを」

「えっと、こっちこそお世話になってます。滝野純一です」

「よく、兄からお話を伺っていますよ」

 

 少しだけ微笑んでいる顔は完全に余所行きのそれだ。滝野は知り合いの妹なのに結構緊張しているように見える。まぁ確かに、身長も166センチとそれなりに高いので、滝野と目線が近いし、生来の顔つきのせいか大人びているので多少緊張するのも無理はないのかもしれない。

 

「涼音、コイツにそんなに気を遣わなくていいから」

「なんだと~! 俺だってやる時はやる系の男子なんだぞ」

「いつも吉川に負けてるのに?」

「それは……アイツが強すぎるんだよ」

「やれてないじゃん」

「別ジャンルで頑張ってるんだよ」

「ふーん」

 

 ムキ―ッという顔をしている滝野を見て、少しだけ妹の顔に笑顔が浮かぶ。一瞬だけだけれど、余所行きという訳でもない顔だった。意外と効果があるのかもしれない。そう思い、私がいると話しにくいだろうと考えて話を変える。

 

「私はかき氷でも買ってくるけど、何が良い?」

「私、レモン。無ければイチゴ」

「ブルーハワイでヨロシク」

「了解。では、若い二人はしばしご歓談を……」

 

 私は妹を友人に預けて買いに行くことにする。滝野に何か劇的な効果を期待しているわけじゃないけれども、彼は彼でそれなりにコミュニケーションが出来る人間だ。日々吉川に揉まれているからだろう。じゃないと吹奏楽部でやっていけないというのもあるが。

 

 元々陽気な人間なので、内に内にと籠りがちな妹にはいい刺激になるんじゃないかと思ったわけだが、幾分か効果はあるらしい。余所行きの顔であったとは言え、学校で聞く限りの様子とはまた違った感じを見せている。

 

 授業参観みたいなものがあった際に雫さんが見に行った限りでは、どうもお人形のような感じだったらしい。それに比べれば幾分か明るい顔であるように思えた。

 

 何か少しでも変化を与えてあげたくて、今回連れ出したわけだが。少なくとも家に籠ってずっと自分と向き合い続けているよりはマシだろう。それに耐えられるのは一部の狂人だし、中学生の間からそうである必要なんて全くないと思っている。今しかできない事をもっとして欲しかった。それが例え、鬱陶しい親と同じような想いだとしても。

 

 かき氷の屋台は幾つかあったが、取り敢えず注文通りレモンがある所を発見したので購入しておく。自分の分はメロンにすることにした。かき氷のシロップは皆同じ味で、匂いだけ違うというのは聞いた話だが、そんな無粋なことを今言う必要はないだろう。

 

 ちょっと時間がかかるようにして歩いていたのだが、そろそろ戻っても大丈夫と判断した。きっと滝野のことだ。彼はそんなに沈黙が好きでは無いので、きっと良い感じに話を繋いでいるはずである。それに一応相手が楽しんでいるかくらいは分かるはずなので適切な話題を振ってくれるという信頼はあった。今日だって、私が希美の演奏を聞いていたのを無理やり連れだしたのは、配慮をしてくれたからだろう。

 

 ポケットから振動が来る。携帯にメッセージが来た。一端かき氷を置いて確認すると、妹が変な男に絡まれたので避難したらしい。今は何とかなってるので大丈夫とのことだった。そういうリスクもあるのか……と思いつつ、一応男と話しているのに声をかけに行く集団の神経が良く分からない。

 

 間もなく花火が打ちあがるというアナウンスが流れた。滝野が送って来たメッセージに示された場所はそれなりに良く見える穴場らしい。そこにたどり着くと、ご歓談を通り越して結構仲良く話している二人を発見する。この十五分ニ十分に何があったのだろうか。

 

「おっと~?」

 

 そんな独り言を発しながら二人に近づいた。私の後ろからは一発目の花火が上がる音がする。振り返れば、夏の空に大きな花が咲いていた。

 

「おーい、こっちこっち」

「兄さん、遅い!」

 

 二人の呼ぶ声がする。悪い悪いと言いながらかき氷を渡した。冷たい氷と、暑い外気。それにも負けない人々の熱気。そして濃密な黒を背景にした光の華。妹の楽しそうな声と陽気な友達の声。それに混ざっている自分。全ての問題なんてどこか遠くに置き去って、今だけ昔に戻ったような時間が流れていた。もし叶うならば、この束の間の平穏が永遠に続きますように。

 

 三人の影が、提灯と花火に照らされて長く伸びる。少しだけ重なったそれは、天に咲く徒花より脆いのかもしれない。けれど今だけは確かに、そこにあったのだ。

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