音を愛す君へ   作:tanuu

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第三十一音 太陽の下 Viewpoint from 希美

 結局、進展はない。当然と言えば当然かもしれない。元々厳しい話であると、ちょっと覚悟はしていた。まさかここまで取り付く島もないとは思わなかったけれど、それでもどこかで想定内と囁く自分もいる。何が悪いのか、優先順位とは何なのか。それの答えは未だに出ないまま。

 

 あすか先輩と凛音の話は多分別の話なんだろうと思う。彼の口ぶりからして。だとするなら、最低でも解決しないといけない問題が二つ。あすか先輩はヒントをくれない。その分「優先順位」というヒントが存在している彼の方が分かりやすいのかもしれない。

 

 でもきっと、どっちも私をすぐに部活に戻す気は無い。だからこそああやって煙に巻くようなことを言ってるんだろう。何度目かの挑戦の後、夏紀がたまには気分転換も必要だとプールに連れ出してくれた。そこまで来たかった訳では無いものの、考えても答えは出なかったし、思考の袋小路に入るより有意義なのかもしれないと考えて頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 真夏の太陽は眩しい。自分の肌がじりじりと焼けていく音がするようだった。太陽公園のプールは安い上にそれなりに規模が大きいので、昔から一定数の人気がある。中学時代やもっと昔に何度か来たことがあった。

 

 数日前の夜。校門の前での出来事を思い出す。あの時、私を見た彼の口ぶりはとても面倒そうだったけれど、その目の中にはあまり面倒だ、という感情は感じられなかった。無理矢理作り上げた感情を表に出しているようにも見えて、私はその不自然さが少しだけ気になっていた。

 

 あの時。彼は暗い夜の帰り道の中で何を言おうとしたのだろうか。平坦だった口調に感情を込めて、一体どんなことを口走ろうとしていたのか。あの言葉に続くモノが何なのか。私はそれも考えなくてはいけなかった。涼音ちゃんの話。そして会えないと返した私に対するあの言葉。きっとそこに、何かヒントがあるはずなんだ。

 

 南中は関西に行った。私が行きたかった舞台に。間接的ではあるが私の夢を叶えてくれたのだろう。けれどもしそれでも何か拭えないモノを私が残してしまっていたのだとしたら。南中に、染みついた呪いのようなものがあって、それがあの夏に始まったのだとしたら。それはきっと私がその呪いを生み出した張本人だろう。そして涼音ちゃんはそれを受け継いでしまったのだ。多分、最も濃い形で。

 

 だとしたら、呪いを生み出した張本人が会えるわけない。今の私に会ってしまったら、きっと彼女は失望するだろう。いつまでのカッコいい先輩でいたいという私の我儘な自尊心が彼女に会うことを拒否している。それにもし、それで失望されてしまったら。彼女が呪いを解除するべく戦ってきたこれまでの日々を否定してしまうんじゃないか。そういう恐怖もある。

 

 結局、私は責任を負うのを恐れているのかもしれない。彼女がどん底にいた姿を、一度見ているからこそ。

 

「……み、希美」

「あ、あぁ、どうしたの夏紀」

「どうしたのって、ずっと空見て固まってたの、アンタでしょ。大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 

 嘘を吐いた。また、嘘を。ここのところずっとそうだ。色々考えて、周りを見る余裕が無くなっている。それでも止まれないのはどうしてだろう。問いかけながら自分で答えは分かっていた。私が、あの夏から抜け出せていないからだ。

 

「ちょっと、飲み物買ってくるね」

 

 夏紀にそう告げて、私は立ち上がる。何か違うことをしていないと、おかしくなってしまいそうだったから。けれど運命というのはよく分からないもので。買いに行った先で、一年生のユーフォニアム、夏紀の後輩の黄前久美子ちゃんに会った。凛音にも注意されたように、彼女にも迷惑をかけてしまっている。ちょっとした後ろめたさが心の中にあった。

 

「夏紀もいるよ~、一緒に来てるから」

「あぁ、さっき会いました。あと、あすか先輩も」

「うっそ、あ……今日はやめとこうかなぁ」

 

 あすか先輩がいることも聞いたけど、結局何も変わらないだろう。それにここのところ迷惑をかけているのも分かってる。正直、追い出されないのはあすか先輩の優しさなのだとも思ってる。そんな人に休みの日まで迷惑をかけるのは良くないし、そんなことはしたくない。だから今日は止めることにした。

 

 私の言葉に微妙な声を漏らす彼女。一年生なのに、何事もなくコンクールメンバーになっているこの子に言い表せない感情を抱く。今の一年生は幸運だ。人数が少ないこともあるけれど、初心者以外の一年生は全員コンクールメンバーになっている。私たちが辞めたから。年功序列が無くなったから。その恩恵を一番に受けているのは彼女たちだった。

 

「二年の夏紀がサポートで一年の久美子ちゃんがコンクールメンバーなんだよね? それって、どうなの?」

 

 言ってから最低だと思った。この子は何も悪くないのに。そういう所が復帰を許されないところなのだろう。自分の方が年上だから。だから彼女はきっと大きく抗議したりしない。そういう嫌な打算がどこかに存在していたのだ。

 

 自分は苦労したから、その下の代も苦労しろ。そんな風な考えがどれほど良くない事なのか。私は身にしみてわかっているはずなのに。私は一番私がなりたくなかった去年の三年生に近い人間に、いつの間にかなってしまったのかもしれない。だとしたら、それは吐き気を催すような事実だった。

 

 けれど、泳いでいた彼女の目は少しの迷いの後にしっかりと前を向いた。その唇はピシッと横に張られて、意思の強さを感じさせる。

 

「し、仕方ない事だと思います。北宇治が全国を目指している以上、メンバー選抜の為にオーディションをするのは当然だと思います。コンクールでは個々の能力も当然重要です。だから、学年に関係なく上手い人が吹くのが一番いいと思います」

 

 そう言われてしまったら何も言えない。圧倒的な正論。芯のある答えだった。かつての私が同じ立場だったら、ここまで言えただろうか。私の意地悪な言葉に対する、真っ向からのストレートパンチ。私は少しだけ目を細める。その姿は、眩しかった。

 

「うん。私もそう思うよ」

 

 酷い顔になってないか、ちゃんと取り繕えているか心配だった。私は彼女に対して抱いた醜い感情に蓋をする。それを言えるのは、今の環境だからじゃないのか。という言葉を。目標は去年と一緒。ただ、それに対する実行性が違うだけで。努力は全て。かつてはそう思ってた。でも今は違う。努力には、環境が大事なんだ。努力できるのは、環境が良いから。それを痛いほど思い知らされている。

 

 でも彼女はそんな事は知らなくていいのだ。知らない方が良いのだ。その方がきっと幸せになれる。幸せに、練習が出来る。何より、今部活の指導に携わっている彼が何も触れていないなら、それを尊重しないといけないのだろう。

 

「北宇治、変わったなぁ……」

 

 漏れ出た言葉は、私なりの、せめてもの抵抗だったのかもしれない。過去の自分の正しさを叫ぶための、せめてもの虚しい抵抗だ。

 

「じゃあね」

「あの! 希美先輩はどうして部に戻ろうと思ったんですか?」

 

 その質問に一言で答えるのは難しかった。

 

「色々理由はあるんだよ、先輩の手伝いをしたいってのもホント。でもそれ以上に……羨ましかった」

 

 捻り出した答えはストレートすぎるものだった。でもきっとそれが偽りのない本音。私は羨ましいのだ。今の北宇治が。努力が報われる、今の環境が。

 

「南中最後の年、コンクールの結果が銀でさ。府大会だよ? あり得ないと思ってた。私が間違ってたみたいで、これまでの全部を否定された気がした。でもまぁ、そうは言っても過去は変えられないし、後輩に託して北宇治に来たんだ。高校でも府大会金賞くらいは目指そう! ってみんなと意気込んでた。弱小部活を私たちで変えてやるって」

 

 生ぬるい風が吹き抜ける。あの時、その理想を語った。皆賛同していた。曖昧に笑っていた彼の顔を今でも思い出す。彼は知っていた。空気を変える難しさ、年功序列を打破する困難さ。そしてそうしようとする存在に対する、抵抗の大きさを。差別の風が吹き荒れる世界の中で、その存在を示し続けてきた人だ。当然全部分かっていたのだろう。

 

 だけれど私の理想を否定することなく聞いてくれていた。いつか挫折しても、きっとそれくらいなら受け入れてくれただろう。もしくは、私のこの身勝手な理想がもう少し色んな存在に寄り添ったモノになっていたら、あの夏の悔しさを塗り直すようなもので無くなっていたのなら、手を貸してくれたはずだと思ってる。でもそれはあり得なかった過去の話だ。それをするには、私は現実を知らな過ぎた。

 

「でも、いざ部活に入ってみたら全然上手く行かなかった。私たちが一年生の時、三年生の人数が凄く多くてさ。しかも吹部って運動部気質って言うか、体育会系って言うか、上下関係に厳しいでしょ? だからいくら一年の私たちが一生懸命やりましょうって声かけても、みんな全然聞いてくれなかった。むしろウザがられてたかな。二年生とかも三年生が怖いから従うしかなかったし……。まぁ陰では結構色々言ってたらしいけどね」

「随分ギスギスしてたんですね……」

「まぁね。最後には無視されちゃって。何を話してもダメで、と言うよりいないモノ扱い? 存在ごと空気みたいな扱いだった。連絡とかも回ってこなくなってたし」

 

 立ち話をしていても疲れるし暑かったから、久美子ちゃんを誘導して屋根のあるベンチに座る。ちょっと温くなった飲み物の蓋を開けた。水滴が缶を伝って太ももに垂れる。何もかもが暑い世界の中で、それだけが少し冷たかった。

 

「決定的に破綻したのは、コンクールのメンバー発表だったかな」

「一年生全員Bだったんですか?」

「まぁ、それなら仕方ないと思ってた。年功序列これに極まれりって感じだけど、一応平等ではあるし。でも、それだけじゃなかった」

 

 彼女の小さな喉が動く。

 

「香織先輩とか小笠原先輩とか、そういう真面目にコツコツ練習していた二年生がBだった。しかも、三年生で流石に55人もいないから、コンクールメンバーの枠は空いてるんだよ。でもB編成。私たちを庇ってたからだと思うけど。そういう報復措置をしてくるのは許せなかった。それに……」

「桜地先輩ですか?」

「……そうだね。久美子ちゃんは、凛音の演奏聴いたことある?」

 

 彼女はちょっと考えるような仕草をした。首を捻ってうんうんと唸りながら記憶を探っているようにも見える。

 

「あれ? 無い……かもしれません」

「そっかぁ。じゃあ一回聞いてみるといいよ。凄いから。ホントにもう、息が出来なくなるくらい上手いから。ずっと意識を向けてるとさ、息とかするのも瞬きするのも面倒になって来る。全部全部その演奏を聴くのに注ぎ込みたい! って思うような感じ」

「それ、麗奈よりですか?」

「麗奈って、あのソロの子? あぁ、うん、あの子も相当上手いけど、でもまだ届いてないと思う。ただちょっと似てるなって思ったから、きっと凛音が教えてるんだね。まぁそれはともかく、それくらい上手いんだよ。今年は演奏してないみたいだけど、去年は何回も聞く機会があった。それは他の人もそう。なのに……メンバーから落とされてた。絶対受かるべきだったのに」

「でも、希美先輩も上手いじゃないですか」

「まぁね、下手だとは思ってないよ。でも努力の量が違うんだなぁって一瞬で分かった。凄まじい努力と血と汗の結晶が、あの演奏なんだと思う。でもあろうことか三年生は言ってた。天才だからどうでちゃちゃっと出来ちゃうんでしょ、とか。バカにしてるとか。他にもまぁ、思い出したくないようなことを色々と」

 

 自分のことは自分が我慢すればどうにかなる。でも他人のことはそうじゃない。何もかも失ってでも我慢できなくなったのはあの時が最初で最後かもしれないと、今になって思う。

 

「それで言ったんだよ。努力してた人を馬鹿にしないで、謝ってって。でも鼻で笑われちゃった」

「そんな風だったんですね、二人」

「そうだよ。昔は普通に友達してたしね。無視されてる私にずっと話しかけてくれる数少ない一年生だった。同じクラスだったし、割と家も近いからね。先輩から嫌味を言われてるときに公然と割り込んで連れ出してくれたりしてたし。今は、あんな風で……まぁ多分嫌われちゃってると思うけど」

「それは……多分ちょっと違うと思います」

 

 久美子ちゃんは、あまり大きくない声で、それでも確かに私の言葉を否定した。それは言い間違えでも何でもなく、確かに彼女の本心であるように見える。

 

「桜地先輩、希美先輩のこと嫌いじゃないと思います」

「どうして? 一年間一回も話してないのに?」

「あんまり上手くは言えないですけど……桜地先輩、希美先輩の話をしてる時ちょっと苦しそうな顔をしてるので。嫌いな人の話をする時にする顔じゃないと思います。それに、麗奈からちょっと聞きました。先輩言ってたみたいです。『昔、他人の努力を貶されるのを許せなかった人がいた』って。それって、希美先輩のことじゃないんですか?」

「どう、だろうね。色々過去の密度が多いから、私じゃないかもしれないし」

 

 それが私のことなのかどうか、私にはよく分からなかった。もっと言ってしまえば、自分のことだと断言できるほど自分に自信が無かったのだ。彼の中で、私はどういう存在なのだろう。どういう思いで、私と話したのだろう。もし何か一つ魔法が使えたら、全部本当のことが分かる魔法を使うのに。今、そんな事を思った。

 

「どうしてあすか先輩と桜地先輩なんですか? 部活、復帰したいなら先生とか部長のところとか……」

「どっちも引き留めてくれたの。だからかなぁ。ずっと心の中に残ってた」 

 

 

 

 

 

 

 

 職員室に退部届を出しに行ったその時、あすか先輩に呼び止められた。『バッカみたい』とそうはっきり言われた。真面目にやってる人が報われないで、くだらない存在がのさばってる場所なんていても意味がない。そう言った記憶が残ってる。でも先輩はそのくだらない三年生はもう少しでいなくなるって、あっさりと言い切った。その時ちょっとだけ先輩のことが分かった気がした。あぁ、この人も三年生のことは嫌いなんだって。

 

 でも私の反論にあすか先輩は『そう』としか言わなかった。一応でも引き留めてくれたんだと、後になって気付いたけれど、その時にはもう既に大分時間が経っていた。

 

 凛音との喧嘩はもっと大規模だった。今でも思い出す。放課後の空き教室に呼ばれた。何でも無い様子でいたけれど、その目には確かに私を引き留めようとする意思が残っていた。

 

「辞めるの?」

 

 彼はそう短く聞いた。

 

「うん」

「そう。でも絶対後悔するよ」

「……」

「だって軽音に行かなかったんでしょ。それはまだ、吹奏楽に未練があるから。この部活にじゃなくても、吹奏楽という存在には未練がある。だからそれを完全に捨て去る軽音には行けなかった。フルートを諦めきれなかった。だって希美はまだ、あの夏の中にいる」

 

 彼はゆっくりと私に近づいてきた。私の目を覗き込むようにしてくる。どこか他とは違う、特別な感じをした目。それが私は結構好きだった。その目に、どこか惹かれていた。自分に無いモノを人に求めるのは人の性質なのかもしれない。だとしたなら、私は確かに自分に無いモノを彼に求めていた。彼は、私のなりたかった自分だったのかもしれない。

 

「吹部がどんな形になるかなんて分からない。でも、いつか今の二年生も一年生も、上級生になって大会に出るようになる。その時に改善すればいいじゃないか。自分が三年生になった時、舵取りをすればいい。それまでは雌伏して、仲間を増やして、そしてもう一回挑めばいい」

「それまで、待てるわけないじゃん。今のまま、あと二年近くもいろってこと? そんなの……無理だよ」

「そうやって諦めるの? 自分の心に嘘ついて、そして諦めて。それで後輩に誇れる? みんなは上を目指して頑張ってね、でも自分はもう無理だから諦めますって、そんな風に言って、自分の夢託した人に胸張って会えるの?」

 

 それはきっと図星だった。だからカチンときた。それ以上に、そんな事言って欲しくなかった。私が辛かったのを知ってるくせに。苦しんでたのも分かってたくせに。でもそれは八つ当たりだった。彼はきっと『助けて』って言えば助けてくれた。自分を犠牲にして、何もかも投げ捨てて。でも私はそんなお願いをする勇気が無かった。

 

 家のことや家計のことで走り回ってる彼に、平気そうに見えて人並みに傷ついている彼に。そんな重荷を、私の利己的な夢を、託せるはずが無かったんだ。でもその時はカッとなって、口走った。

 

「あの悔しさを知らないくせに、知ったような口きかないでよ!」

 

 それからはもう、まともな話し合いじゃなかった。分からず屋、頑固者、向こう見ず、視野が狭い。そんな風に言われた。でも多分、こっちの方が酷いことを言ってたと思う。頼らなかったのは自分なのに、それを棚に上げて助けてくれなかったとか、そんな厚顔無恥なことを言っていた。他にも、思い出したくないくらい沢山。

 

「もういい、分かった。好きにしろ!」

「言われなくても好きにさせてもらうよ!」

 

 そうお互いに叫んで、その場は終わった。その次の日から私たちの間には壁が出来た。当たり前と言えば当たり前だろう。でもごめんなさいと謝れないままの日々が続いた。自分の言ったことは間違ってなかったと、やったことは間違いじゃないんだと、まだ冷静じゃなかった頭でそう考えていた。

 

 でも一週間くらいして、少し落ち着いて、それで気付いた。自分の言ったことややったことが恥知らずだってことに。謝らないといけなかった。でも向こうに話しかけようとしても、どこかへ行ってしまう。それは当然だろう。こっちも向こうが話しかけようとしたときに無視してたんだから。そして子供の喧嘩のような出来事は、そのまま仲裁者がいないまま、今に至っている。

 

 職員室前にいつも飾られている大きな書道の作品。『樂毅論夏侯泰初世人多以樂毅不時拔莒』と書かれている。その意味がよく分からなかったので、昔彼に聞いたのを思い出した。その後に『即墨為劣是以叙而論之』と続くと彼は言っていた。楽毅という中国の古い軍人が、莒と即墨という城を落とせなかったことを以て世間の人が彼を嗤ったという内容だと教えてくれた。要するに、凡人に大局観は理解できないという内容らしい。当時の私は楽毅が楽器に似てるということしか考えていなかった。

 

 その文字列は今でも職員室の前にある。用事があって通るたびに、ジュクジュクと胸の中で痛みが増す。私は世間の人だ。そして先輩や凛音のような人が楽毅なのだろう。何も分からないまま、自分の正義を信じている、視野の狭い愚か者。それがきっと私だ。私は……特別な存在にはなれはしないのだろう。

 

 

 

 

 彼女と話をしていると惨めな気分になってきた。話せば話すほど、抱いていた感情の正当性が見いだせなくなる。こんなんだから彼にも信頼されないままだったし、部活に戻るなど夢のまた夢なのだろう。

 

 私の視線の先に、この先進まないで下さいと書いた看板が立っている。それはただの警告文。でも私の人生における警告文でもあるようだった。大事なところで決定的に選択肢を間違える。それが私の人生なのだろう。もしかしたら違う道があったのかもしれない。あの時、北宇治を選ばなければ。あの時、変な理想を抱かなければ。あの時、辞めないという選択をすれば。あの時、素直に謝れれば。きっと今は……。

 

「そんな部活が、今年関西大会だって。正直悔しいよ。私が馬鹿だったみたいじゃん。友達だった子と、怒鳴り合いの喧嘩までしてさ。そう思わない?」

「そんな事……」

「一生懸命に動いても誰も聞いてくれなかった。みんな先輩が怖くてさ」

「あすか先輩は……」

「あの人はまぁ、自分が吹ければいいから」

「じゃあ、桜地先輩はどうして動かなかったんですか? 今の感じから見てると、先輩に何か言われても全然気にしてない感じでしたけど」

「あぁ、それ多分嘘だよ」

 

 するりと否定したことに、久美子ちゃんは少し驚いているようだった。

 

「嘘、ですか?」

「うん。多分言える人がいないから言ってないだけで、結構心の中でイラっとしたりムカッとしてると思う。それに、多分傷ついてるところもあるだろうし、言いたいことは沢山あるんじゃないかな。でも言わないのは多分……自分で選んだ道だからだと思う。それで、何で頼まなかったか、だっけ」

「はい」

「そんな人、だからかなぁ。きっと何とかしてくれると思う。でも、多分手段を選ばないから、去年の三年生みんな一掃されてたんじゃないかな。けどそれは私の願いじゃなかった。それに、その過程できっと沢山傷ついちゃう。そんな姿は見たくなかった。あと、部活があんまり無いから沢山仕事してたんだよね。バイトとかも」

「え、桜地先輩バイトしてたんですか?」

「うん。駅前にお洒落なイタリアンあるでしょ? あそこだよ」

「知らなかったです」

「もう辞めたんだろうねぇ。多分、吹部があるから。まぁそんな風にしてる人に頼れなかったよ。私の個人的なお願いなんて、優先度は下がるし」

 

 自嘲気味に私は言う。彼の中の私の優先度は、きっとそんなに高くないのだろう。彼は普通の人と同じ部分だって沢山ある。けれど、どこか特別だった。

 

「練習なんてしなくていいって言ってた人が、今年ケロッとした顔で関西大会出てるんだよ。去年三年生に同調してた先輩が、笑って集合写真撮ってる。何様って感じだった。なんでそんな顔で笑えるんだって、去年傷つけた人が側にいるはずなのに」

 

 私の顔は今、きっと凄く歪んでいる。まくし立てた言葉は、自分の一番汚い部分だ。唇を噛みしめる。喉から漏れたか細い音は、悲鳴のようにも思えた。

 

「ねぇ、聞いても良い?」

「なんですか?」

「悔しいって思うの、おかしいことだと思う? 辞めたこと後悔するのだって、変じゃないよね。後一年、もう一年生まれるのが遅かったら。そうしたらきっと久美子ちゃんみたいになれたのかなぁって。滝先生が去年から顧問だったら、きっと笑っていられたのに、あのスポットライトの下に私もいたのにって、そう思うのは悪いことなのかな」

 

 握ったジュースの缶がベキっと音を立てた。

 

「悪くなんか、ないですよ」

「ごめんね、ありがとう」

 

 私にはそう言うしかない。いくら彼女が芯のある子だと言っても、ここで私を糾弾したら完全に悪役だ。そんなこと出来るはずが無い。だからこれは、言わせてしまったようなものだろう。そう言って欲しかったんでしょう、と頭の中で私を嘲笑う私自身の声が聞こえる。

 

「昔から、全国に行きたかった。吹奏楽はじめた頃から夢だった。別に大会に出なくてもいい。辞めた私がそんな事言うなんて厚かましいし。でも手伝いくらいはしたい。B編成の子たちの指導役でも何でもするのに」

「それ、二人は知ってるんですかね」

「あすか先輩は知ってる。多分、凛音も分かってると思うし、そうじゃなくてもあすか先輩とかから話は聞いてると思う」

「じゃあ、どうしてなんですかね」

「それが分からないからキッツイの」

 

 ため息を吐きながら手を空に伸ばす。太陽は私の血管を透かしてその強い光を送っていた。

 

「あの時違う選択肢を取っていれば、っていつも思う。何回でも思った。手を振りほどいたのは私なのに、またもう一回差し伸べてくれるんじゃないかって思ってる。なんであの時素直になれなかったんだろう。たった一言だけで良かったはずなのに」

 

 私は逃げてしまったのだろう。臆病者だ。その臆病さに払わないといけない代償がもしあるとするなら、きっとこれなのだろう。

 

「優子先輩と鎧塚先輩は……」

「優子とみぞれ?」

「はい、お二人とも同じ南中の吹部ですよね」

「うん」

「ふたりはどうして辞めなかったのかなぁって」

「優子は誘ったけど、もう少しやってみるって」

「鎧塚先輩は?」

「みぞれは……声かけなかったから」

「どうしてですか?」

「オーボエ一人だったし、あの子にはうるさく言う先輩もいなかったし。それに、最初からコンクールメンバーだったし」

 

 それは本心だった。そういう理由から私はみぞれに辞めると告げなかった。もし付け足すなら、あの子を吹奏楽の世界に連れ込んだのが自分だっていう自覚があったからかもしれない。けど、思い出すともっとどす黒い、それに気付いちゃいけない何かが存在していた気がする。それは、今でも。でもそれに気付くと、自分が自分じゃいられない気がして気付かないふりをした。今も、あの時も。

 

「なんでそんな事聞くの?」

「先輩方がどうして復帰を認めないのか、何かヒントがあるんじゃないかなって」

「あった?」

「ない、です」

「だよね。あすか先輩にね、私が戻ってもプラスにならないって言われたんだ。凛音は、優先順位が違うって。悪いとこがあるなら直すって言ったのにな。私、私何がダメなんだろう。……もう何も、分かんないよ」

「すみません……」

 

 こぼれた涙をなんとか拭う。後輩にこんな顔をさせたかったわけじゃない。そんなの、先輩として失格だろう。多分、今日の言動行動の大部分が先輩失格だと思うけど。

 

「大丈夫、気にしてないよ。じゃあね、ありがとう!」

「先輩、私が聞いてみます! 二人に! どうして希美先輩が部に戻っちゃダメなのか! 私が!」

「ありがとう。でも、大丈夫。気持ちだけ受け取っておくよ」

「あ、えっと……」

「それより、行かなくていいの? 友達待ってない?」

「……あ!」

 

 焦った顔をして彼女は挨拶もそこそこに走っていく。関係ないこの子に迷惑をかける訳にはいかない。でも本当は縋りたかった。藁でも、蜘蛛の糸でも構わないから。けど彼女はコンクールメンバー。ただでさえあすか先輩を占領しているのに、これ以上負担を増やすわけにはいかない。だから断った。

 

 友達のもとに帰る彼女を見送る。あの子は、自分には何の得も無いのにやると言ってくれた。もしかしたら好奇心なのかもしれない。それでも、その言葉は私にとって嬉しいモノだった。そしてその姿は、どこか眩しい。

 

 私はどうするべきなのだろうか。結局、何が問題なのかはさっぱり分からないまま。もっと頭が良ければ。そんな風に思ってしまう。でも一つだけやらないといけないことは分かった。これは彼女と話していたからこそ、分かったことだろう。

 

 次に会った時に、その時こそ。私は言わないといけないのだ。あの時言えなかった言葉を。この口で、ハッキリと。蝉の声がうるさく鳴り響く。真夏の太陽は変わらず私を焼いている。愚か者と嗤うように。

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