音を愛す君へ   作:tanuu

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第三十二音 レンズ

 東京で行った仕事から夜の新幹線で帰宅した翌日。私は車に揺られていた。目的地は墓地。両親の眠る場所である。今日はお盆休み。学校も閉まっているため、部活も当然休みだ。その貴重なお休みを全く休めないまま過ごしている。今日の午後は比較的暇なので、それが数少ない休暇かもしれない。

 

 妹も同じ期間で休みのようだ。彼女も合宿があるということでプリントを見せられたけれど、その期間は北宇治と少しズレている。

 

「私がいない間、ご飯は大丈夫か?」

「大丈夫だから。適当に買って済ませる」

「それはあまり大丈夫とは言わないけど……」

 

 妹はどういう訳か、数ある物事の中で料理が出来ない。あまり得意ではないのは、包丁を触らせてもらえなかったからかもしれない。なんとなく包丁そのものに苦手意識があるようだ。ただそれでも家庭科の調理実習は何とかそれっぽくこなしたらしい。お嬢様は料理とかしないもんね……みたいな空気になって気まずかったとこぼしていた。

 

 じゃあ我が家で唯一の大人であり、現在もこうして運転中の我が従姉はどうかと言うと、こっちもこっちであんまり出来ない。普通に仕上がりはするのだが、かなり適当なのである。元々一人暮らししていたのに、どうしていたのかと尋ねたら全部外食か買って済ませていたらしい。ダメな大学生の典型だったようだ。

 

 そんなこんなで、私が我が家の料理担当を担っている。

 

「私が東京にいる間、何してたの? 休みだろ、南中も」

「ほとんど練習」

「健康に悪いな、それは……」

「でも、涼音さん一日だけどこか出かけてましたよね。余所行きの服で」

「ちょっと、言わないでください!」

 

 しまったという顔で涼音は雫さんに抗議している。余所行きの服ということはちょっとコンビニに、という感じでは無いのだろう。プール系では無いのは日焼けしてないので分かる。それに、水着を持っていったら洗濯担当の従姉が気付かないわけがない。

 

「友達か?」

「……兄さんには関係ないでしょ」

「何しに行ったのかくらい教えてくれても」

「映画」

「実写版のシンデレラ?」

「兄さんは私をそういうのしか観ないと思ってない? 普通に違うけど。細田守の方」

「あぁ、あれ。面白かった?」

「結構」

「それは良かった」

 

 観に行きたいという気持ちが無いわけじゃないけど、先立つ物が無い。あんまり贅沢は出来ないし、そのうちテレビで放送されるのを待つしかないだろう。音響が良いから映画館は好きなんだが、もう何年も足が遠のいていた。チケットの買い方も若干朧気である。

 

 しかし誰と行ったのだろうか。一人ということもあるけれど、そういう感じじゃない。分からんなぁと思ったが、下手に根掘り葉掘り聞いてこれ以上嫌われたくはない。なので取り敢えずここで追及は終わらせることにした。自分の予定を把握しようとしてくる兄など、若干気持ち悪いと思われても仕方ないからだ。

 

 景色は流れて、やがて止まる。向日葵の小さな畑の近くに、両親の墓地はある。毎年この時期には来ようと決めていた。それは子供として、せめてもの恩返しに近い部分がある。墓の中では眠ってないという歌もあった。確かにそうかもしれない。けれど、故人を偲ぶという意味では大事なことでもあるんだろう。そういう合理性ではない部分にこそ、芸術はあるのだし、またこういう行事も存在しているんだと思っている。

 

 私の友人の墓にもいつか行けるのだろうか。遠い異国の地で眠っている彼女にも、会いに行かないといけないだろう。けれどそれは全部終わってからだ。今背負っているモノが片付いてから。そうじゃないときっと、踏ん切りがつかないはずだ。

 

 線香に火を付けながら手を合わせた。色々言いたいことはある。生きていたら聞きたいこともあった。けれど今は取り敢えず、短く終わらせることにする。細かい報告はきっと、死んだ後で出来るだろうから。

 

 祈ったのはただ一つ。これからも見守ってて欲しいということ。きっといつか、今自分が直面している物事と向き合わないといけない時が来る。彼女に求めているだけじゃダメなのだろう。きっと、私も動かないといけない。分からないと言うのなら、教えるしかない。そうしないのはきっと、自分の八つ当たりでもあるのだから。

 

 ごめんなさいと素直に言える勇気が、今は欲しかった。蝉はうるさく鳴いている。門前の向日葵は大きく胸を張って太陽にその黄色い顔を向けていた。遠くの山は深い緑に満ちている。静寂だけがある墓地の中にあっても、ぬぐえない夏の生と熱に満ちた空気が、私を取り巻いていた。

 

 

 

 

 

 

 墓参りの翌日にある合宿の集合時間は午前七時だった。当然その時間ピッタリに到着すればいいわけじゃない。ただし、普段の練習では六時くらいにはなるべく着くようにしている。なのでむしろ余裕があると言ってもいいかもしれない。

 

 今回の引率は松本先生が担当であり、滝先生は直接現地入りすることになっている。生徒には知らされていないが、木管楽器専用の先生も今回から参加してくれることになっているそうで、こちらも直接現地入りらしい。

 

 バスに揺られること数十分。到着したのは府大会のずっと前からお盆休み明けに確保できるように手配していた合宿所。日程合わせには苦労したが、早め早めに抑えたために確保できた。元々府大会がどうであれ、実力アップのために合宿はする予定であった。そのため、どう転んでも無駄にはならないのである。

 

 合宿所に着いたときは制服だが、それ以降は皆各々吹きやすい格好になった。クラスTシャツとか体操服が八割方を占めている。

「おはようございます」

「あぁ、桜地君。おはようございます」

「お早いですね」

「松本先生一人に任せるのも、どうかと思いましたので」

「なるほど。そうだ、こちらお口に合うかは分かりませんが」

「これはご親切に、どうもありがとうございます」

 

 渡したのは軽い東京土産。独身の一人暮らしなので量の調整に苦労した。松本先生の方は家族がいるのも考慮して渡している。仕事で行ったとは言え、一日部活も休んでいるわけなので、迷惑料代わりということである。別名を付けるなら、賄賂だろう。

 

「そうだ、丁度いいところに来てくれました。紹介しないといけない人がいますので。どうぞ」

 

 先生に促されて入って来たのは、温和な顔の美人である。いきなり出てきたのでちょっとビックリした。

 

「今回の合宿から木管楽器の指導をしてくださる、新山聡美先生です」

「新山です、どうぞよろしくお願いします」

「桜地凛音です、こちらこそ木管楽器は門外漢ですので、どうぞご指導ご鞭撻頂ければと思います」

 

 お互いに会釈をして挨拶を交わす。先生の知り合いということもあり、恐らくしっかりとした実力者なのだろう。温和な顔ではあるが、騙されてはいけない。こういう人ほど練習には厳しかったり、ストイックだったりするのである。

 

「お噂はエリーゼさんから伺っています。非常に優秀な奏者の方とご一緒できるのは、光栄ですね」

「うげっ!」

 

 大学時代の友人の名前が出て思わずギョッとする。昔の仲間だ。同じ木管畑を進んでいるのだし、確かに接点があっても不思議ではないが、何を話したのか非常に気になる所である。しかもよりによって、そこそこまともじゃない人に話を聞いているので、彼女の中の私の像がどんなものなのか、不安だった。

 

「そ、そうですか、ハハハ」

 

 あのお嬢、覚えておけと心の中で毒づいて適当に誤魔化す。こちらは何を言われるか分かったもんじゃない。部員に余計なことを言わないでくれと願うしかなかった。それからは打ち合わせに入る。練習メニューの確認、橋本先生は翌日から参加するらしいので、その旨の確認なども入って来る。またイベントとして花火も用意しているので、それの打ち合わせも含んでいる。

 

 この合宿は一気に実力を上げるために必要な機会だ。余計な要素も入らず、練習に集中できる。この機会を逃す手など、あるはずが無いのだ。

 

 

 

 

 

 合奏の準備が整ったのは打ち合わせ後すぐのことだった。今日は二日間の休みのブランクが存在する。それを考えて、基礎練習を少し多めにとっていた。エビングハウスの忘却曲線ではないが、音楽も練習を一日怠るだけで実力はガクッと落ちる。だから小時間でも毎日触れることが大事なのだ。特に、僅かな差が明暗を分ける領域になって来ると、なおのこと。その証拠に私だって毎日練習時間を用意するようにしている。

 

 基礎練習をすることでまずは感覚を取り戻す。指や脳を音楽に合わせたモノに戻していく。そういう作業である。

 

「この三日間、ここは北宇治が貸切っています。お金のことをあまり細かく言いたくはありませんが、皆さんの保護者の方から頂いた活動費で、今回の合宿などは行っています。今自分がここにいる一分一秒が、当たり前のものではないということは留意してください。決して安くない金額を払っている以上、それに見合うだけの何かを今回の合宿で身につけて欲しいと思います」

「「「はい!」」」

 

 活動費は当然部費であるが、それは保護者から出ている資金で賄われている部分もある。学校からの活動費もあるが、普通に足りない。なので定期徴収をしないといけないのだ。今の会計担当は中世古先輩である。遅れると吉川が先輩よりうるさく取り立てに来るので、皆すぐに払っていた。

 

 当然、私も払っている。自分で稼いだお金であるが。なんで大会には出れないし部員かと言われると微妙なのに彼らの活動費を稼いだ資金から出さないといけないのかと思ったこともあるが、もうそんなことを言ってもしょうがないだろう。名簿上は部員なのだし、仕方ない。

 

「さて。まず練習を始める前に皆さんに紹介したい人がいます。どうぞ」

「「「うわあ……!」」」

 

 入ってくる人を見たほぼ全員が感嘆をもらす。まぁ、確かに美人ではあると思う。その姿に男女問わず見とれている人が多いようだ。

 

「今日から、木管楽器を指導して下さる新山聡美先生です」

「新山聡美と言います。よろしく」

「やった!」

「超美人じゃん……」

「流石、滝先生」

「え? そうなの?」

「午後は木管は第二ホール。パーカッションと金管はこちらで練習します。新山先生は若いですが優秀です。指示にはきちんと従うように」

「優秀だなんて。褒めても何も出ませんよ?」

「いえいえ。本当の事を言っているだけです」 

「まぁ、滝先生にそう言って頂けると、嬉しいです」

「なになに!?」

「マジなやつ?これマジなやつ?」

 

 ワイワイと盛り上がっている部員一同。先生との関係性は一見すると確かに疑わしい。ただ、そういう関係ではないだろう。確たる証拠があるわけでは無いが、空気感が違うと私は考えている。

 

 ふと視線を移すと、高坂さんが死んだ魚のような目をしていた。ハイライトが行方不明になっている。まるで失恋した少女の如くだ。彼女が滝先生に思い入れがあるのは四月の時点で分かっていたけれど、よもやそういう感情だったとは。私と話しているときは当然そういう話はしないので、今日新たに知った一面だと言える。

 

 とはいえ、先生はそこそこ良い歳の大人。きっと高坂さんがいかに大人びていても当然対象外であろう。むしろ対象内だったら私は心底軽蔑するかもしれない。妹の持ってる恋愛小説や少女漫画ではありそうな展開だが、在学中の生徒と教師の交際なんて普通にあまりいい気分にはならない。

 

 まぁ人の恋愛を否定する気は無いけれど、大っぴらに応援も出来ない。彼女の恋は前途多難だろう。ただ、あの子は割と気が強いので、そういう子が先生に対して特別な感情を持っていた場合、トラブルが発生すると面倒なことになりかねない。具体的には再オーディション前の時のように。

 

 思い返せば、あの時彼女は自分よりも先生を中傷されたことに怒っていた。ともすればやはり、先生関連の揉め事では冷静でいられなくなる可能性が高いし、先生に対して盲目的になることが予測される。恋は盲目、あばたもえくぼ。そういう話だ。ちょっと警戒しておくに越したことは無いだろう。少なくとも、現状は。

 

「では、練習を始めましょう」

 

 先生の合図で練習が開始される。とは言え、特段変わったことは無い。不十分な部分を指摘して、修正させる。それだけだ。小さなずれが命取りになるのは、精密機械を作る時に似ているのかもしれない。

 

 演奏とは、ある意味では機械産業に似ている。古い機械時計のように、手作業でやっていかないといけないのも似ている。小さな歪みやズレが大きな問題につながるのも、丁寧に修正を繰り返していくのも、産業革命前の手工業を思わせる部分があった。

 

 同じ曲を何回もやるのは奏者も指導者も結構苦痛なものだ。ただし修正を繰り返す間に少しずつ改善されているのも分かる。それだけで大きな収穫だ。加えて木管への指摘がぐんと増えている。やはり、専門がいるのは大きいだろう。先生の人選に満足して、私は再び修正作業の確認に戻った。

 

 

 

 

 

 

 夕食前はパートリーダー会議が入っている。今後の合宿中の予定を部長が再度確認し、練習に関する懸念事項を話し合うのだ。今となってはこのパートリーダー会議も結論ありきの有名無実なものから、部の運営に必要なものと化している。これもまた、大きな変化だろう。

 

「以上が今後の予定になります。なにか、質問はありますか? 無いようなら桜地君の方からお願い」

「分かりました。合宿は非常に貴重な機会ですが、当然睡眠環境などなれない環境でもあります。心身の不調を抱えている人がいないか、確認とフォローをお願いします。特に男子パートリーダーのお二人は、パート内の他の三年生にお願いするなどして対処してください。また、個別課題の達成状況に関しても、各自確認をお願いします。ご自分の練習でお忙しいところ恐縮ですが、全体の実力向上のためにご協力ください」

 

 男子パートリーダーである田邊先輩と野口先輩では女子生徒の確認はできない。男子はまとめで大部屋にぶち込まれているので、男子部員同士は確認できるのだが、女子は流石に無理だ。なので同じパートの三年生女子にお願いすることになる。分かっているとは思うが、改めての確認だ。

 

「最後に、木管パートのパートリーダーは少しだけ残ってください。練習状況の確認と取りまとめをしたいので。以上です」

「ありがとう。他に連絡事項のある人は? 大丈夫そうなら各自解散で」

 

 部長の締めで会議は終わる。フルート、ダブルリード、クラリネットの木管パートは新山先生の練習状況を確認しておきたい部分がある。別に能力面の心配じゃなくて、部員がどういう上達状況なのかをこれまでのデータと比較するのだ。盗める部分は盗みたい。一応低音でも川島さんは木管パート行きだったが、まぁそこは後で個別に聞けばいいだろう。

 

「木管パートはどうでしたか」

「トライアンドエラーの繰り返しって感じでもう……」

「優しい顔して結構、ね……」

「はぁ……」

 

 三人のパートリーダーは口々にため息を吐く。なるほど、中々にスパルタだったようだ。そこからは個人個人の状況把握をする。一人ずつ素早くメモをしていった。そうしないとパートリーダーのご飯を食べる時間が無くなってしまう。全ての確認を終える。何とかなっているようだった。実力も確実に向上している。

 

「お三方、お時間をいただきありがとうございました」

 

 そう言って頭を下げる。その後、喜多村先輩に少しだけ話しかけた。彼女はダブルリードパートのパートリーダーであり、この前みぞれの様子見をお願いしていたのである。一応了解という旨の返事をしてもらっていたが、その後の確認をしたかった。

 

「みぞれは、どうですか」

「う~ん、どうって言われてもねぇ。見た感じあんまり普段と変わんないけど」

「分かりました。まぁ大きく問題にはならないと思いますが、何かおかしなところがあればお願いします」

「はーい」

 

 軽い口調で彼女はスタスタご飯を食べに行ってしまった。あれで本当に大丈夫なのか若干心配にはなるが、一応様子見はしてくれているようなのでこれ以上を求めるのは酷だろう。気にかけてくれているだけで御の字だ。

 

「それで……姫神先輩。まぁあまり良いお話だとは思いませんが、何でしょうか」

「調がさ、結構危ないかも」

「……ですか」

「まぁ分かってたとは思うけど。希美の話は一応もうそこそこ知れ渡ってるからさ。みんな遠慮してあんまり触れてこないけど。当然隠せるわけも無いし、頼子とか京子、つねなんかと話して伝えることにしたわけ。そしたらまぁ案の定というかかなり動揺してた」

 

 深いため息を吐き出して、私は椅子に腰かける。分かっていたことではあるが、やはり希美は優先順位を間違えている。一番先に行くべきはフルートパートなのだ。何故ならそこが復帰後の彼女の居場所になるわけだから。当然良い感情は持っていないと思うけれど、それでもそこをはき違えてはいけない。田中先輩は最後の方なのだ。例え個人的にどんな感情を抱いていても。

 

「こればっかりはもうどうしようもないと思うわけ。私じゃ何もできないし」

「何も出来ないってことは無いと思いますけど」

「去年、先輩に同調してたし調にもそうするように言った側が、今更何を言っても同じ穴の狢が傷をなめ合ってるだけだから」

「……こちらに何とかしろと?」

「出来れば」

「はぁ……了解しました。どうなっても知りませんからね。フォローはしてくださいよ」

「それはするわよ、後輩なんだし」

「……そうですか」

 

 去年も出来ればそのマインドでいて欲しかったんですけどね、という喉元まで出かかった言葉を呑み込んで、私は頷いた。

 

「じゃ、伝えたから」

 

 そう言うと姫神先輩は戻っていく。軽く頭を掻いて、私は無言で先ほど聞いた情報をまとめていつも通り先生に報告する用のノートに書きこんでいく。この作業をしている間は色々集中して考えることができる。

 

 井上の件はもう、完全に希美にどうにかしてもらうしかないだろう。斎藤先輩の時とはわけが違う。私が何を言ったところで、どうしようもないはずだ。正直、井上とは練習で必要な会話以外ほとんどしていない。そのせいで人間性が掴めないところが大きい。

 

 向こうは多分私が好きじゃない。その理由は色々あるのだろうけれど、多分去年の諸々が関係しているのは確かだった。気付けば時計の針は大きく回っている。集中していたために全く気付かなかったようだ。ご飯を食べそびれたことを今更ながら思い出す。まぁしょうがないとため息を吐いた。

 

 もう片付けてしまっただろうから、諦めてまた作業に戻る。練習について考える間に脳内に浮かぶのはこの先どうするかという問題。関西大会までは引き延ばす。問題はその後だ。そこからどうするかは正直分からない。来年について考えるなら問題は解決した方が良い。だが言うのは易しいが行うのは難しい。大きくトラブルになる可能性もある。しかしみぞれの演奏は関西までにどうにかしたい。

 

 新山先生が魔術師ばりの腕を持っていても、こればっかりはどうしようもない話だろう。精神的な問題を解決するのは、技術面じゃないのだから。音楽家なんて精神性があってなんぼだ。じゃないと機械で十分になる。考えている私の前に、ドンとお盆が置かれた。

 

「……どうした?」

「持ってきてあげたんだから、ありがとうじゃないの」

「ありがとうございます」

 

 緊張感を孕んだ目で、井上は私を見下ろしていた。

 

「でも、どうしてわざわざ?」

「話があったから、ついで」

「それはどうも」

 

 冷めきっているが、腹に入らないよりはマシだ。カレーは冷たくても食べれはする。無いより全然いいだろう。

 

「それで、話って」

「決まってるでしょ、希美のこと」

「あぁ、そう。先に言っておくけど……」

「復帰には賛成してない。琴子先輩も言ってた」

「なら、何が言いたいんだ」

「……」

 

 私の言葉に、彼女は少しだけ黙る。その間に私は手と口を動かしておく。案の定というかあんまり美味しくは無いが、食べれただけマシだ。そう思い聞かせることにした。

 

「前から思ってたけど」

「なに?」

「君、私のこと嫌いでしょ」

 

 私が水を飲みながら言った言葉に、彼女は思いっきり目を見開いた。

 

「まさかバレてないとでも思ってた?」

「別に。でもいきなり言うとか、何考えてんのって感じ。てか、そっちもそうでしょ」

「そりゃそうだ。好きになれる要因が私たちの間に存在していたとは思えない」

「じゃあ、お互い様ね」

「私が君のことを好きじゃない理由は明白だけれど、正直君から嫌われるようなことをした覚えはないのだけれど」

「……ムカつくのよ。あんたも、傘木も」

「それを理不尽な嫉妬、或いはコンプレックスって言うんじゃないのか」

「分かってる! そんなの分かってる! 悪いのは去年あの子を見捨てた私。助けもしなかった自分、そりゃしょうがないじゃない、怖かったんだから! 先輩に逆らって、あんな風に惨めな部活生活なんて送りたいわけがないじゃない!」

「そう」

「そうよ。あんたには分からないかもしれないけどね! あんたは怖がられてた。去年の三年生だって嫌味は言うけど決定的なことは出来なかった。知ってるわよ、市議会にも、府議会にも、色んな会社にも、あんたの親戚がいる。でっかいお屋敷構えてる。そんな存在だから先輩も決定打は打てない。そんな状況でぬくぬくしているヤツに、私みたいな平凡なヤツの気持ちなんか分かりっこないじゃない!」

 

 流れる滝のように彼女は私への罵倒を続けた。いや、或いはこれは罵倒では無いのかもしれない。希美を見捨てたことに対して抱いていた罪悪感の責任転嫁。助けなかったのは彼女自身の決断だ。そうしなかったのは彼女自身の選択だ。それを咎める権利は、本来私にはない。経緯はどうあれ、彼女は自由意志がある人間だ。その行動にケチをつけていいのは、少なくとも私じゃない。

 

 けれど、私にだって彼女を嫌う権利はあっても良いと思っている。無論、練習で私情を挟んだことは一度も無い。必要なことはしっかりと行う。それが指導者としての責務だ。

 

「出来る癖に動かなかったのは、そっちじゃない」

「そうだな。理由があったとはいえ、動かなかったのは事実だ。でもそれを糾弾していいのは、動いていた希美や中世古先輩みたいな人じゃないのか。少なくとも、君のコンプレックスと罪悪感のはけ口にされる謂れはない」

「……ッ!」

「私は確かに君のことが好きじゃない。当然だ。同じパートだった希美に寄り添うこともしないで、それだけならまだしも先輩に同調して一緒に無視してた。好きになれるわけがない。でもそれで君に罵倒される謂れは無いと思うんだけど。私は少なくとも公平に接してる。練習で私情を挟んだことも無い。本当に嫌いなら、君のことをオーディションで落とすことだって出来た。先生は私に引け目がある。それを使えば、そんなことだって容易い。でもしない。それは私の矜持に反するし、何よりそれが指導者としての責務だからだ」

 

 淡々と答える。罵倒されるのも、嫌味を言われるのも慣れてる。それでもう、怒ったりなんかしない。今大事なのは、目下の問題を解決すること。そのために必要な手段を取る。もし井上の件が解決するなら、希美の復帰への問題が一つ消える。それは問題解決に繋がる出来事だ。

 

「私に君の気持ちが分からないように、君にだって私のことなんて分からないだろう。親が死んだその葬式で、残された子供から全部奪い取って施設送りにして、財産を山分けしようと画策する会話を目の前で聞かされたことは? 何をしても親族の前で嘲笑されるような環境にいたことは? 音楽を道楽扱いしていた奴に、結果を出した途端くるりと掌を返されたことは? 金持ちの子だからムカつくという理由で、妹をいじめられたことは? 無いなら君に私の気持ちは分からない」

 

 彼女は今冷静じゃない。冷静にさせるのは、彼女の熱に冷や水をぶっかける必要はある。そしてそれに役立つと思ったのがこの情報を知らせること。現に、重たい話を聞かされて、彼女は少し唖然としている。想像できない領域の話を一気に、それも沢山聞かされたのだからしょうがないだろう。

 

 今まで知らずにいた部分。華麗なる一族と揶揄される関西に千年根付く呪われた血脈。金と血で出来た繁栄の果てに、私たち兄妹はいる。この血のおかげで音楽で早くに栄達できた。けれどこの血を誇りに思ったことなど、一度も無い。

 

「君が私を嫌いなのは、去年何も出来なかった自分も無力さを突き付けられるからじゃないのか。希美はいないけど、私がいるから去年のことを何回も突き付けられているような気分になる。だから会いたくないし、見たくない。違うか?」

「……そうよ」

「確かに、私は君を許すことは無いと思う。でもそれ以上に、私は自分を許してない。それにだ。これから先どういう関係を築いていくかはまだ分からない」

「どういう意味?」

「そのままだ。罪悪感と劣等感を拗らせているのは勝手だが、じゃあいつまでもそれを放置しておくのか? その感情を抱えたまま? それはお勧めしない。罪悪感は解消できる。今度こそ、希美を助けることで。出戻りに対する目は決して優しくないだろう。だけれど君が味方にいれば、少なくとも来年は同じ三年生同士で支え合える」

「じゃあ、劣等感の方はどうするのよ!」

「知らないよ、と言いたいところだが……もうそこまで行ったら殴り合うしかないだろう。夕陽の土手で、と言えば理想的だけれどそれを勧めたら私が捕まる。だから自分が納得する方法で殴り合って来ればいい。ま、ありていに言えば喧嘩しろ喧嘩。対話不足なんだよな、結局全部」

 

 そう。去年も今年も、言葉を尽くさないで抱え込んでいるから拗れる。それは言っている自分もそう。大きなブーメランが刺さっているのは理解している。人に勧めるのは簡単でも自分の感情となるとそうはいかない。

 

「奏者なら、音楽で殴り合え。私ならそうする」

 

 結局、音楽をやっている人間が辿り着く答えはそこだろう。きっと、どんな経路をたどっても。

 

「言っておくけど、私が復帰に反対している理由は二つ。一つは君には関係ない話だけど、もう一つは君が理由だ。私の個人的感情がどうであれ、それで君に不利になる行動をしたりはしない。私は吹奏楽部の味方だ。吹奏楽部じゃない人と部員だったら、当然部員を取る」

「吹奏楽部員同士だったら?」

「より部活が良い方向に向かう行動を行う」

「……やっぱあんたは特別だから、分かんないよ。何もかも」

「そう。まぁ私のことは良いけど、取り敢えず君は自分の心と折り合いをつけてくれ。君が真に特別視しているのは私じゃない。私はあくまで代替品。私というレンズを通して君が見ているのは、いつだって一人のはずだ」

「……」

「それじゃあ、また明日。運んでくれてありがとう」

 

 黙ったままの彼女を置いて、私はノートと食べ終わったトレーを持って立ち上がった。ここからはどうしようもない。彼女が自分で解決しないといけない問題だ。フルートパートに関しては、希美より井上の方に問題がある。このまま井上が本調子じゃないと練習にも差し障る。なのでちょっと解決できるように動いたわけだが、ここからどうなるかは分からない。

 

 でも少なくとも、悪い方向にはいかないだろう。抱え込んでいたモノを吐き出す場所が今だったはずだし、今後どこかで希美と話して吐き出してくれるはずだ。恐らく彼女はそうする。もしそう出来ないなら、私が希美に掛け合っても構わないと思っている。それがきっと、部活のためになる。

 

 そう、結局は対話不足なのだ。私だって。いい加減、大人にならないといけないのかもしれない。たった一言、言えば良かっただけの話はこんなにも拗れてしまった。なら、今度会ったら。私が言うべきなのだろう。あの時、言えなかった言葉を。

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