朝、目覚めた時にはもう既に日は昇っていた。目覚ましをつけていないとこのざまである。それでも他の人よりはかなり早く起きているので、普段の習性というのは馬鹿にならない。昨日の夜は結局、練習の見直しとパート練習での伝達事項をまとめて次回以降に繋げるための改善案などを考え、その後仕事をしてたらあっという間に時計は二時過ぎになっていた。全然寝れないと首を鳴らしながら寝たのが二時半ごろ。起きたのが五時半頃だ。
寝息を立てている男子組を見てると、ちょっと面白い。人の寝顔なんてマジマジと見る機会はないので、余計に面白さが増していく。パートリーダーに後で渡すための改善案は既に出来ている。後は昨日しそびれた先生への報告だけだろう。眠い目を擦って頭を覚まし、他の部員を起こさないように部屋を出た。
朝の空気は熱を孕みながらも澄んでいる。その息を吸って深呼吸し、自分のやるべきことをやっていく。先生はきっともう起きているだろう。その予想通り、既に起床していた。
「おはようございます」
「おはようございます。早いですね」
「何か昨日と逆の会話をしてますねぇ。それはともかく、まぁ普段からこれより前には起きてますので。料理担当は辛いモノです。こちら、昨日の分の報告と、今日のパート練習などでの改善案です。この後各パートリーダーに渡して、いつも通りそれに従って練習を行ってもらう予定です。何かありますか?」
「サックスのピッチが少し気になる部分がありますね」
「どこですか? あー、ここですか。分かりました。追加しておきます」
「お願いします」
誰かと会話するとそれだけで大分眠気は薄れてくる。先生と話したおかげでスッと目が覚めてきた。頭が音楽脳になったと言うべきだろう。
「前にもお話ししましたが、本日から橋本先生がいらしてくれます」
「了解です」
「しっかりと寝ていますか? 若い間は多少の無理はききますが、あまり身体には良くないモノです。まぁかく言う私も、高校生の頃は日付を超えても起きていたものですが」
「ははは、関西大会が終われば多分、枕を高くして眠れそうですので、それまでの辛抱です」
「なるほど。……私がその状況を強いているという立場ではありますが、くれぐれも自愛してください」
「はい、勿論です」
そう返事はしたものの、昔からそこまで睡眠を重視してない人間なので何とも言えない。妹とは反対の体質のようだ。気を張っている間は少なくとも大丈夫である。倒れる時は限界を超えた時か、気が抜けた時だろう。個人的な感覚だが、9月の末くらいが怪しい。それまで何とか頑張っていきたいものだ。全国に行ってしまえば、後はボーナスステージ。多少は気も楽になる。そう信じたかった。
「昨日は他の学校見てたせいで来れなくて、ごめんなー。今日はボクがビシバシ指導してあげるから、任せてちょうだい」
橋本先生は元気いっぱいという感じだ。若者の私が半ば疲弊して、大人が元気なのはどうしてだろう。羨ましいことだ。しかしいつ見ても彼の服装センスはいまいちである。それさえ直せばきっと、もう少しマシだと思うのだが。
「相変わらず橋本先輩は元気ですね」
「それが彼の唯一の取り柄ですから」
少し離れたところで二人の先生が話している。橋本先生は滝先生と同期。先輩呼びから新山先生は一二年後輩なのだと分かる。どういう繋がりなのだろうか。他にも取り柄はあると思うだが……まぁ先生なりの友情表現なのだろう。個人的には女子高生に囲まれて楽しそうな橋本先生の今後が心配である。
「今日はお昼まで金管・木管・パーカッションに分かれて練習。その後昼から合奏をします」
「「「はい!」」」
指示に従い、部員たちは動き出す。ここからは私も戦場だ。今できることをするしかない。いつだって、そうやって生きていくのだから。
昨日色々あったのでちょっと心配だった井上も、今日は普通そうな顔をしている。あんまり目を合わせたくないようだが、それは元々かもしれない。一応ざっくりとした事のあらましは姫神先輩に説明してある。マジかぁという顔をされたが、まぁ何とかなるだろう。私よりも先輩の方が上手く接することができるフェーズに入ったものだ。
「では、十回通しに移ります」
「「「はい!」」」
その大きな返事に眠気をわずかに感じていた頭が目覚める。十回通しとは、課題曲と自由曲合わせて十二分弱の曲を続けて十回、一回毎に二分の休憩を挟んで吹き続けるというものである。勿論部員にとってはかなりの苦行である。体力のある人や上手い人でもかなりへばってしまう練習方法だ。
審査員はこの感覚を味わっているのだろう。年によっては課題曲が集中することもあるし、当然連続して同じ曲を聞くことも増える。かなり大変だろう。審査員の仕事だけはあんまりやりたくないものだった。
練習終わりには地獄のような光景が広がる。死体の山。形容するならまさにそれが相応しいだろう。それでも二十分の休憩と宣言された時に「ちょっと吹いてくる」と言った田中先輩みたいな人もいる。あの人の体力はかなりのものだ。それに、恐らくユーフォが好きなのだろう。じゃないとやってられないはずだ。
十回通しが終われば教師陣の指導。全体バランスの滝先生、金管中心にシフト出来た自分、木管の新山先生、パーカスの橋本先生。かなり手厚い陣形だ。これでカバーできないのはコンバスくらいだろう。逆に言えばそれ以外は全部カバー出来るということ。
とは言え、今年のコンバスが川島さんで助かっている部分も大きい。彼女がかなり卓越してコンスタントに上手いので良いのだが、来年以降が心配だ。
「今の合奏で良いですが、この曲は単純なB♭メジャーが随所にある曲です。そこを綺麗に合わせるよう意識しましょう」
「「「はい!」」」
「あとスネアがちょっと後ろに感じるよー。もっと前に」
「はい!」
「それとティンパニ。今のところ、ワンテンポ早かったろ? 今そんなことやっててどうすんの? 罰金ものだよ」
「……はい!」
「チューバ。指は間に合っていますが、口が追いついていません。テンポを早めたらこの有様ですか?」
先生方の指摘に対して、返って来る返事は異口同音。その激しさと厳しさが気合の入り方を物語っている。対して木管の指導では静かだが、言っていることはかなり的を射ている。後で集中練習するタイプなのだろう。木管は向こうの管轄だ。スタイルがあるならそれでやってもらって構わない。大事なのは結果であるのだから。
「高坂さん、トランペットソロちょっと早い。61秒くらいで吹いてください。曲の七分の一が半ば君に充てられています。そのプレッシャーは理解しますが、私がこうして教えている以上、今の演奏のままではゴーサインは出せない」
「はい!」
「ただし変に伸ばさないように。それとホルン、最後の巻き上りはもっと派手に」
「「「はい!」」」
「サックスはパート練でやるようにと言った部分がまだ弱いです。引き続き練習してください」
「「「はい!」」」
「新山先生からもご指導があると思いますが、ソロの裏のファゴット。かき消えないように注意して、トランペットと合わせてください。どっちかがズレると崩れます」
「はい!」
「全体的に譜面を追いかけてるだけになってます。その演奏じゃ、関西では下の下になってしまいますから、音の処理をキチンとするように。表現力は基礎の上に成り立っています。基礎ができてないのに表現だけで出来るなんてそんな話はありません。よろしいですか」
「「「はい!」」」
最後の方は皆若干やけくそな返事になっている。
「先生、低音ですが……良いと思います」
「分かりました。私も同意します。ユーフォ、関西大会は先ほどのところ、二人で吹いてください」
「はい!」
田中先輩の返事はすぐ来る。
「黄前さん」
「うわぁぁ、はい!」
「返事は」
「……はい!」
黄前さんは小さくガッツポーズをしている。府大会では苦戦していた場所。確かにあの部分は低音域による16分刻みのメロディが続く場所だ。普通に難しい場所なので、府大会前は戦力外通告をした。
けれど彼女は先生の信じた通り、そして自分で宣言した通りしっかり戻ってきたわけだ。その努力はしっかり見ていたし、いずれは出来るようになると思っていたが、予想よりも早い復帰にその努力の跡を見る。だからこそ私も先生もOKサインを出したわけだ。
一回吹けただけではいけない。安定して、継続的に同じ質の演奏をしないといけない。それが出来ると我々が判断したと言うことだ。だが一方が立てば別の一方が立たないというのはどこでもある話である。
「……なあ、オーボエのソロ、あれでいいの?」
橋本先生によるその質問は突如として来た。分かってはいた。追々何とかしなくてはいけないと。特に全国を目指すなら、尚更。自分の顔が強張るのを感じた。それでも心因性の原因がある以上、その除去が出来なくては話にならない。そう感じて敢えてスルーしていた。けれど、橋本先生にその論理は通用しない。
滝先生が少し困った顔をしていた。みぞれに関しては、私に任せて欲しいと言ってしまった部分がある。現に、先生よりは当然彼女を理解していると思っているからだ。尤も、実は五十歩百歩かもしれないが。
「良くは、無いです。……まだその段階では無いと思い、敢えて放置していました。申し訳ありません」
「うーん。君が謝らなくても良いんだけどね。いやー、音も綺麗だし、ピッチも安定している。けどねぇ。一言で言うなら、ぶっちゃけつまらん。ロボットが吹いてるみたいなんだよ」
「……ろぼっと?」
その答えは不安げな様子でもなく単純に疑問系だった。
「楽譜通りに吹くだけだったら機械でいい。鎧塚さん」
「はい?」
「君はこのソロをどう吹きたいと思っている? 何を感じながら演奏している?」
「……三日月?」
「じゃあもっと三日月感出さないとー」
「善処します」
「善処って言い方してる時点でダメなんじゃなーい? もっと感情出せないー?」
「……すみません」
「謝る必要ないよ。クールな女の子って魅力的だと思うし。でも、このソロはクールでは困る! 『世界で一番綺麗な私の音を聞いてっ!』くらいじゃないと! ほら。トランペットのソロの子みたいに!」
「え?」
確かに橋本先生の言うことは的を射ていた。高坂さんはそんな感じの音だ。
「正直、君たちの演奏はどんどん上手くなってる。強豪校にも引けを取らないくらいにね。でも表現力が足りない。それが彼らとの決定的な差だ。北宇治はどんな音楽を作りたいか。この合宿ではそこに取り組んでほしい!」
「「「はい!」」」
「橋本先生もたまには良いこと言いますね?」
「いや。たまに、は余計だろう? 僕は歩く名言集だよ?」
クスクスと笑いが起きる。少し暗くなった空気を改善するために言ってくれたのだろう。彼はこういう場の空気も大事にするところがあった。そしてそれは、非常にありがたいことでもある。
「折角そう言うのが得意な人が側にいるんだから、ドンドン使っていかないと。ね!」
橋本先生はこちらに話を振ってくる。表現力の問題はまだまだそれ以外の部分に問題があると思っている現状では少し早いとすら考えていた。だがそれではいけないのだろう。関西大会は基礎だけ出来てれば勝てる場所じゃない。それに関する理解は、他校でも指導している彼の方が身に染みてわかっているはずだ。
「みんなが彼をどう思ってるのかは、ボクには分からない。けど、もしかしたら同級生とか後輩だからってどこかで舐めてない? でもそれはナンセンス! 彼、それでもって鳴らしたんだから。世界に引きずりこまれるってね。この部はまだまだ上に行ける。なら、そのために使えるものはどんどん使うべきだ。身近な才能を宝の持ち腐れにしないようにしないと」
フォローのつもりかは分からないけれど、持ち上げられても困る。私はあくまでも指導者としては経験が浅い。彼のようには上手くできない部分もあるのだから。
「分かりました。表現の話が出たので、そこについて少し深めましょう。私や先生にはこの曲の作りたい形があります。それは前に楽譜の読み合わせで説明しましたね?」
まだ初夏になりかかったばかりの頃、楽譜の読み合わせを行っている。この部分では何を表現しているのか、という説明だ。これは事前に先生と綿密に打ち合わせをした上で行っている。何を表現したいか、という指針に従って私や先生は指示を出している。
勿論、時々同じような解釈をしても意見が分かれる時はある。実際に演奏してみて思ったのと少し違うということもある。当然、全然求めるものに近づいていないということも。それらはその都度話し合って曲想を形にしていくのだ。
例えば、自由曲における最初のファンファーレは星だ。星空には何となく静かなイメージがある。夜の闇、星空の下に一人のように。けれど、この曲はそこをあえて激しく表現している。特にトランペットのファンファーレ。それは何故だろうかと考えるのだ。
私の出した答えは満天の星空の美しさ、それも初めてそれを目にした時の言葉で表せない感動を示しているというものだ。巨大な宝石箱を見せられたようなそんなある意味暴力的なまでの美しさ。それが与える衝撃。星々の溢れる輝き。そんな世界を思い浮かべてみる。銀河鉄道の夜にそんな一節があったのを思い出し、先生との打ち合わせでもそういう風に告げて、それが承認されている。
と言うより、曲の読み合わせにおける解釈は6対4くらいで私の解釈が多く組み込まれている。この辺は作曲経験者に一日の長があるのだ。
「我々はその解釈に基づいて指導を行っています。何も適当にそれっぽいことを言っているわけではありません。明確な理想像に基づいた発言をしているのです。その意図を理解してほしい。表現とは、前に話した読み合わせでの解釈を理解し、指示に漫然と従うのではなく、自分のモノとして組み込んだ先に存在しています。まずはそれを意識してください」
「そう! まさにそういう事だね。ボクは先生と彼から当然どういう解釈でやるのかを聞いている。彼は非常に細かい! そして緻密だ。どういう風に演奏し表現させるのか。それをしっかりとかなりの量で記してる。それを叩きこまれてるんだから、今度は作り上げていくように意識しないといけない」
橋本先生は私の発言を拾って話を展開していく。
「楽譜通りに吹けるようになるのがこれまでの目標だとしたら、今後はそれは当たり前にしないといけない。それが出来るようになったら、飛んでくる指示は作りたい音楽の方向へ導く案内になるはずだ。そうなれれば、北宇治の演奏は関西でも余裕の金賞を取れるとボクは思ってる」
「はい! ありがとうございました。では、今の話を加味してもう一度」
「「「はい!」」
この後の指示は一層厳しくなった。それもそうだろう。楽譜通りに出来るのは当たり前、という視点で話が進んでいくのだ。私もそういう風に脳内を切り替えていく。どのタイミングで切り替えるか、悩みどころだった。何しろ私は関西大会はおろか府大会まで導いたことも無かったのである。当然全国など経験に無い。
どのタイミングが適切なのか。そのモデルケースを橋本先生は示してくれた。これは今後の指導に非常に役に立つ。確かに学ぶことばかりだ。音楽家としての私の経験に、この時間は大きく役立っているだろう。もし仮に奏者が出来なくなってもそれ以外の道を作ることができる。やはり、先生の誘いを受けてよかった。続く練習の中、そう思わされていた。
「うわー。みどり、麻婆豆腐も大好きですよー!」
川島さんのそんな声が響いていた。きっと昨日も同じようなことを言っていたのだろう。楽しそうで何よりだ。どんな環境であれ、楽しめるのは良いことである。
今日は中世古先輩がいる。と言うか、昨日はあんまり好きじゃない人と口論しながら冷めた飯を食べるという苦行だったのを思い出した。私は前世で何か罪を犯したのだろうか。現世で希美を助けられなかったのが罪と言うなら、まぁ確かにその通りなのかもしれない。
吉川だけはいないが、彼女は橋本先生に詰められていたみぞれに寄り添うべく違う卓にいる。
「あったかいご飯は美味しいですね……」
「そんな普段ご飯食べてないみたいなこと言わないで……」
中世古先輩は心配そうな顔をしている。
「昨日全然戻ってこないから、どうしたんだろうって言ってたんだよ」
「すみません、ご心配をおかけしました……。やらないといけないことが多くて」
「何かあったら、遠慮なく頼ってね」
「はい、お願いします」
先輩の優しさが身に染みる。昨日との落差が大きくて、ちょっと感動しそうになっていた。
「先輩、ヤバイことに気が付きました!」
「どうした」
「私、夏の宿題何一つ終わってません」
「え、ヤバくない? それ。普通にまずいよ?」
「助けてください……」
「えぇ、そう言われてもなぁ……。あ、そうだ。他の人は大丈夫ですよね?宿題」
「私たちは大丈夫だよ」
「流石に受験生だしね。手を抜けないよ」
先輩たちは元より心配してない。今のでサッと目を逸らした加部と滝野。心配である。
「おい、二年生たち。露骨に目をそらすな。全く。高坂さんは……」
「終わってます」
「だろうね。ちなみに夏休みの始めの方にやるタイプ?」
「はい」
「そう言う先輩はどうなんですか?」
「私はほら、夏休みの前に夏休みの課題が終わるタイプだから」
「強い……。流石学年上位。進学クラスの打倒目標……」
加部が変な言葉をつぶやいている。
「え、私そうなの?」
「夏紀が言ってた。英語の成績悪い生徒がいると、比較されて怒られるって」
「私へのヘイト集めてんのか?」
二年生の英語はウチの担任と別の先生が教えている。別の先生は三年の担任なのだが、本当に勘弁してほしい。知らない人から恨まれたくないのだ。しかもかなり理不尽な理由で。
「ん? それなら先輩暇ですよね? 手伝って下さいー。学校にいるとき、練習の合間とかで良いですから」
「分かった分かった。仕方ない。高坂さんにも手伝ってもらいなさい」
「イエーイ。高坂さんもお願い~」
「う~ん」
「ウチに親戚から送られてきたみかんジュースが沢山あるんだけどなぁ」
「……分かった」
「わ~い」
高坂麗奈、チョロい。今普通にモノで釣られた。こんな一面があるのかと思うとちょっとビックリする。確かに柑橘系のジュースが好きという話をしていたけれど、こんなダイレクトに釣られるとは思わなかった。
「吉沢。俺に聞いても良いんだぞ?」
「あ、滝野先輩、そういうの良いんで」
「そ、そうか。くそ、何でこいつばっかり」
「滝野先輩、そういう所ですよ。ほら、友恵先輩も香織先輩も紗菜先輩も高坂さんも頷いてますよ?」
「ええ……」
「そもそも、滝野先輩はもっと周りに気を配って真面目にすれば良いんです。やることやってから僻んで下さい」
「グハッ」
「先輩、女の子の小さな変化気付けなそうですよね」
「分かる。それ、凄い分かる」
三年生コンビは微笑んで見てる。憧れの中世古先輩に助け舟も出されないというのが逆に真実性を増していて、滝野のダメージが増加していくのを感じた。
「ほら、それに対して先輩はちゃんとしてますよ? 今回の合宿前に前髪ちょっと切ったんですけど、練習中で気付いてくれたんですよ。先輩にそういう事が出来ますか?」
「グヘッ」
「先輩は女子力も高いんです! お弁当自作だし、こないだこっそり食べたらめちゃくちゃ美味しかったし、練習中に他の子のほつれたリボン凄い綺麗に直してたし、勉強も出来て走るのも速い。ほら、滝野先輩はどれか一つでも磨いてから色々言うべきです」
「ゴハッ」
先ほどから滝野へのダメージが半端ないことになっている。ちょっと可哀想だった。
「というか、前なんかお弁当少ないと思ったら君だったのか!」
「わ、ヤバい。高坂さんも一緒に食べてました!」
「え、ちょっと、裏切らないで」
その反応から見て確実に共犯だ。一年二人が仲良くなっているのは嬉しいし、そうして欲しかったのだけれど、ここまでしろとは言っていない。
「い、いいもん。俺だって女子と出かけるくらいはしてるもん」
滝野が試みた決死の反撃に今度は全員が食いつくことになった。
「だ、誰と……?」
「あれじゃない、文化祭の買い出しとか」
「違うわ!」
結構酷い加部の発言も、あっさりと否定する。私の友人に遂に春が来たのかと思うと嬉しいことだ。今は夏真っ盛りだけれど。
「滝野君、ホント?」
「ほ、本当ですよ。先輩に嘘なんて吐きません。吐いたら吉川に殺されるし……」
「年下ですか、年上ですか、同い年ですか? 他校ですか、それとも同じ高校?」
「ノ、ノーコメント」
「え~嘘っぽいなぁ」
「嘘じゃないぜ、ちゃんと写真だってあるし。この前映画観に行ったんだよ」
吉沢さんと加部に問い詰められ、高坂さんと先輩二人もジワジワ援護射撃をしてるのに色々上手く誤魔化している滝野。余程バレたくないのだろう。女社会で噂話はあっという間に広がる。それが良い話であろうと悪い話であろうと。
一番の人気ネタは恋愛ネタである。まぁ恋多きお年頃。花の女子高生が集まってする話の定番は恋バナであるからして、全く不自然では無いのだが。なので特に恋愛ネタは広まるのが早い。部内恋愛であれ、部外恋愛であれ。さりげなく聞いていると、同学年のネタもあったりして普通に驚く。
しかし最近映画を観に行ったみたいな話を妹から聞いている。まぁ高校生が夏それなりの額で涼もうと思ったら映画館がちょうどいいだろう。夏は色々やっていることだし。私も行きたいものだ。
食事が終われば、今日はパートリーダー会議もお休みなのでちょっと余裕がある。この隙に報告関連は済ませておきたかった。この後には花火も控えている。流石にそれには参加したい。それまでにさっさと済ませておきたかった。
「よう、元気?」
私の前で陽気な声がする。浅黒い肌と独特の声で橋本先生とすぐに分かる。
「はい、何とか……」
「うんうん、あんまり根詰めすぎないでねー」
「ありがとうございます」
「いやいや、お礼を言うのはこっちだよ」
橋本先生は私の前に座った。手を止めようとしたが、そのまま続けてと促される。
「正直、滝クンが明るくなってて良かったと思ってる。奥さん亡くなってから、ずっと抜け殻みたいだったからね。この話を貰った時も、ちょっと泣きそうになったし」
「そうですか、やはり……」
「流石、キミはやっぱり賢いねぇ。気付いてたんだ」
「妻も子供も無い、と昔仰っていまして。その時の顔がなんとなく引っかかって。離婚したって感じでも無かったので、多分死別したんだろうなと。私も、両親を亡くしたのでなんとなく、同類の匂いを感じました」
「そうか……。だからこそ滝クンは君を誘ったのかもね。同じような境遇だったからこそ、理解し合えると思ったのかもしれない」
「さぁ、どうでしょう。私は先生にとっては厄介な存在かもしれません」
「そんなことないさ。現に昨日言ってたし。色々助かってる、いないのを想像すると怖いくらいだってね」
「それは……」
私は先生の言うことに唯々諾々と従う存在じゃない。当然違うと思ったら真っ向から反対するし、思想だって違う。先生の理想とは異なる行動をとることもしばしばだろう。これまでも、これからも。
「滝クンが無茶苦茶なことをキミに背負わせてるのはよく分かってる。正直なんで引き受けたのか疑問になるくらい、今の待遇はその実力に合ってないね。それでも滝クンと同じモノ目指して、今の仕事を引き受けてくれてる。友人として、本当に頭が下がる思いだよ。本当はキミとか言っちゃいけないんだろうね。ボクたちも桜地先生って呼ぶべきなんだよ、ホントは。そういう存在だとボクは思ってる」
何と返したらいいのか分からないまま、私は手を止めて橋本先生の顔を見た。いつもの陽気な感じは鳴りを潜め、今は静かにそしてしっかりとした表情をしている。
「でもボクはまだキミを先生とは呼べない」
「それは、私が未成年だからでしょうか」
「いやいや、それは関係ない。未成年だろうが何だろうが、学歴はボクたちと同じだし、持ってる賞の数ならボクたちよりずっと上だからね。でもボクがキミを桜地先生と呼ばないのは、キミがどこかで、もしかしたら自分でも気付かない部分で妥協していると思うからだ」
その言葉に私は眉を顰める。どういう意味なのか、その続きを待つしかなかった。
「ボクは音楽をやる以上、そこに上手い下手の差はあってもそれ以外に差をつけるべきじゃないと思ってる。年齢とかね。高校生に何求めてんのって思うかもしれないけど、それ自体がナンセンス! 高校生とか関係ない! どんな音楽を作りたいのか、どんな風に演奏したいのか。今はまだみんなそれを考える段階にいないけど、もっと強豪になりたいならそれを自分たちで考えて滝クンとかを動かすような校風にしないといけない」
「それは……思っていました。言われた音楽をやるだけの機械にはなって欲しくないと」
「共感してくれて助かるよ。でも、キミは指導の中でどこかで妥協して彼らを見ていると思う。だからこそさっきのオーボエソロをあれで看過した」
「……」
「出来なくてもしょうがない。今は後回し。そうなるのも分かるよ。キミは元々奏者なんだし。自分より下手か上手いかは重要だ。そしてキミより上手いトランペット奏者は現状いない。だからこの部の全員、楽器は違えどキミよりは下。当然だよね。まぁそれが支えになる時もあると思うよ。女子社会は怖いからね。ボクも経験者だし。何か言われても、自分の方が上手いと思うのは心の支えだ」
それは確かに私が思っている事だった。去年の三年生に何を言われても、今年何かを言われても、いつも思っていた。でもこいつらは私よりトランペット下手だし、と。それを見抜かれたようで私は少しだけ目を見開く。
「でも指導者はそれじゃダメなんだ。どんな時も妥協したらいけないし、諦めてもいけない。自分より下手というのを基準に彼らの可能性を諦めることはしたらダメだと思う。出来なくてもしょうがないなんて、間違っても思っちゃいけない。気付かない部分でも、ほんのちょっとでも持っててはダメだ。分かってる問題点を後回しにしてもいけない。何か理由があるのかもしれないけど、指摘しないのはいけない。ボクは、そういう行いは一人の対等な奏者であり、音楽を作るチームメイトでもある彼らにも失礼だと思ってる。だから厳しいようだったけど、さっきのオーボエは指摘した」
「そういう厳しさが、私には無いと?」
「あくまでもボク個人の考えや推理だけどね。どう、当たってる?」
「そういう所が自分にあるのは、事実かもしれません」
「やっぱりボクは名探偵だね」
「どっちかというと、最初に殺される被害者枠みたいですけど。ホラー映画の」
「おぉ、言うねぇ」
彼の言うことは正しいのだろう。私はみぞれに気を遣っていた。だがそれは友人としてすべきことで、指導者としてするべきことではなかったのかもしれない。彼女の可能性を、やるべき領域を勝手に決めつけていたのだろう。今はこれでいいと、そういう勝手な判断をしていた。
「キミの緻密な計画とか報告はこの部の凄まじい財産だ。音感、表現力、構成力、諸々含めて、正直どこの強豪校も欲しいと思うだろうね。全体のバランスとか、色々考えているのかもしれない。だけどその中で個人の可能性を妥協する選択肢は取るべきじゃないと思う」
「……」
「キミが難しい立場なのは分かってる。でも大会にすら出ないで、指導者であるとキミが自分で決めた道を貫くなら、ボクは指導者の先輩としてそれを尊重した指導者になるためのアドバイスをする必要があると思う」
「ご指導、ありがとうございました」
私は丁寧にお辞儀をする。個人の可能性を妥協する選択肢。耳が痛い話だった。みぞれがどういう存在になりたいのか。私にはまだはっきりとは分からない。もしかしたら本人もよく分かってない可能性がある。だとしても、そこで妥協しては指導者としては失格なのだ。
私は不安定な立場にある。でもそれは逆に言えば融通が利くとも言える。指導者としては彼女のような存在に敢えて厳しく可能性を広げる指導を行い、友人として、先輩後輩として悩んでいるようだったら生徒としてのアプローチを行う。そういう二重のアプローチが出来るはずなのだ。
自分で選んだ道。それは本当にその通り。彼は私を先生と呼ばないと言いつつ、その実私を一人の奏者・指導者・人間として尊重している。だからこそ敢えてこういう発言をしたのだ。高校生にしては、この年齢にしては指導が上手いというのでは私が納得しないだろうと思ってのアドバイスなのだろう。
彼もまた、一人のプロフェッショナルだ。彼は私と同じ景色を見たことがある。だからこそ、私のプライドを理解している。それは先生には出来ない分野の話なのかもしれない。
「自分を見直すことにします」
「そう? ボクが役に立ったなら良いけど」
「それはもう、とても」
妥協。それは忌むべきものであると思っていた。けれど自分の中に、彼の言うように気付かない場所に、それは存在していたんだ。計画通りと言うけれど、それだってあくまでも私の推定に過ぎない。それ通りに進んでいるからOKでは無いのだ。それ以上を行ってもらえるように、アプローチをしないといけない。
あくまでも彼のは一意見だ。けれど参考にするべきところも大いにある。やはりこの仕事は学びがある。部活に戻って得るモノを、先生は経験だと春に言った。そしてそれはその通りになっている。この経験を得られただけでも、私はここにいた意味があったのだろうと、強く思った。