音を愛す君へ   作:tanuu

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第三十四音 勇気

 線香花火のいのちの玉を落としけり。そんな句を思い出した。綺麗な線香花火の火の玉が地面に落ちる。まるで命のように。夏特有の儚さ。生命に溢れてるこの時期にある胸を締め付けるような郷愁や寂寥。そんなものが込められてるようだった。

 

「こらぁ、花火振り回さないで!」

 

 はしゃいでいる部員はどこか子供に戻ったよう。まぁ言ってしまえば高校生なんて子供なのだろう、きっと。自分がどこかで大人だと思っている間は子供のままなのかもしれない。もしかしたらこれが本来あり得るはずだった姿。普通の高校生像だったのかもしれない。ある意味では、練習こそすべての環境は普通ではない。

 

 勿論強豪になろうという時に、上を目指していこうという時にそういう感情は邪魔なものになる。現に先生はそれをドブに捨てると表現した。けれどそれは本当に正しいのだろうか。練習こそ大事というのは、それこそプロフェッショナルを目指す存在にだけ当てはまる事ではないだろうか。

 

 部活動は学校生活の中に存在している。あくまでも、長い人生の間の数年間に過ぎない。人生100年時代に際して、この三年間など一体何パーセントを占めるというのだろうか。その中でどこまでやるのか。やらせるのか。教頭先生も言っていた。もうスポコンの時代は終わりつつあると。新しい部活像がこれから十年二十年で作られていくだろう。その中で、この学校はどういう風に進んでいくべきなのか。まだ過渡期にあるからこそ、悩めるのかもしれない。

 

 答えは出ない。一生出ないかもしれない。しかし私がここで指導者としているのならば、それも考えなくてはいけないのだろう。

 

「先輩、難しい顔してどうしたんですか? 花火、消えてますよ」

「あ、あぁ、ごめんね。ちょっと考え事してて。吉沢さんは楽しんでる?」

「はい!」

「それは良かった。家の中で死蔵してたのも持ってきて正解だったね」

 もう買って数年経つけど使わないでしまったままだった花火も持ってきている。何本かは湿気ているだろうけれど、それでも使い物になるやつもあるはずだったので、持って来ることにした。家ではもう、多分やらないだろうから。

 

「先輩」

「どうした?」

「高坂さんって滝先生のこと好きですよね、多分」

「……どうだろうねぇ」

「その言い方、ほとんど合ってるって事じゃないですか」

「ま、まぁ本人のために私は何も言わなかったことにしておく。というか、本人から聞いたわけじゃないし。ただなんとなく視線とかで分かるけど」

「ですよねぇ。先生気付いてるのかなぁ」

「さぁ、そればっかりは何とも」

 

 花火の火が色とりどりに飛び散っていく。肝心の高坂さんは少し紅い顔で先生と話していた。何を話しているのかはなんとなく分かる。新山先生と付き合ってないのかどうかなどを聞こうとしているんだろう。ずっとそれを気にしていたみたいだから、そうだと思っている。

 

「まぁでも、女子高生に告白されてOKする先生はちょっとヤバいですけどね」

「だよねぇ」

「はい」

「先生もそれは分かってると思うよ。多分」

「じゃないと怖いです」

 

 リアルな女子の声だった。やはり、教師と生徒の恋愛は恋愛小説や少女漫画の中だけで許される行いなのかもしれない。

 

「見てる分には面白いんですけどね」

「友達ならそれでいいけど、こっちはそうもいかなくて……」

「あぁ……そういうことですか、う~ん」

「いつかどっかであの恋心が変な方向に曲がりそうで心配だ」

「その時は先輩がビシッと言えばいいんじゃないですか?」

「恋は障害が多いほど燃え上がるんだよ。それに、私は再来年いないし」

「……」

 

 燃えるキャンプファイヤーの前では、野口先輩が先生の物真似をしている。最初の方に言った印象深い言葉「なんですか、これ」の再現だ。しかも結構似ていて思わず笑ってしまう。それ以上、高坂さんの恋愛について話すことは無かった。きっとこれは遠くで見守っているべきなんだろうと思う。

 

 身近な年上に憧れるなんて言うのは良くある話だ。いずれ収まる、軽い風邪のようなものだろう。いつか彼女が大人になってもその気持ちが変わらないなら、それは本物なのかもしれないが。けれどあの様子では、きっと叶わないだろうとどこかでぼんやり思っていた。

 

 彼女は憧れているモノに盲目的になるきらいがある。きっと、それは理解とは遠いところにあるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 花火も終わり、皆寝静まっている。合宿所は静かなものだ。昼間はあれだけ煩い蝉も、今は声すら聞こえない。夏の夜のど真ん中、月の下で私はパソコンで仕事を続けている。締め切りはまだ先だ。けれど早めに終わらせて、次を引き受けたい。かと言ってクオリティーも妥協できない。だからこうして夜の時間に進めていた。

 

 時計は今日も二時半を回っている。明日は午前中に合奏練をしたら学校に帰れる。その間は寝ていればいいから、多少は無理をしても問題ないだろう。ある程度完成して、ふーっと息を吐いたとき、部屋の外から人の気配がした。こんな夜中に誰だろうと思って立ち上がり、ドアを開ける。

 

「うわっ!」

「深夜徘徊とは感心しませんね、不良少女黄前さん」

「あ、あははは……」

「盗んだバイクで走り出さないでくださいね」

「?」

「通じないのかな、今の子は」

「先輩も一歳しか違わないと思うんですけど……」

 

 まぁ眠れないことはあるのだろう。部屋の中に招き入れた。手にはジュースの缶を持っている。

 

「先輩は何してたんですか?」

「うん? あぁ、仕事です、仕事。出来る間にやっておきたくて」

「そうなんですか……」

 

 彼女は聞いておきながら、あまりそれが本題ではないという顔をする。きっと別の話題を出したいのだろうけれど、聞いて良いのか分からなくて困っているのだろうか。練習の話じゃないと言うのはすぐ分かった。練習の話なら、切り出せばいい。私に拒む理由が無いのはよく分かっているはずだ。

 

 ということは別の話。現在彼女が抱えていそうな懸案事項を考える。演奏に関しては戦力外通告を解除されたし、問題ない感じだ。であればやはり、希美のことだろう。現在、部に存在している問題はこれが一番大きく、彼女も一部ではそれに巻き込まれている当事者に近いと言える。

 

「何か話があって来たんじゃないんですか?」

「……はい」

「ずばり、希美の件でしょう」

「そうです」

 

 下を向きながら、彼女は答えた。椅子に座るように促す。立ち話をしても彼女が疲れるだけだ。

 

「でしょうね。けれどどうして黄前さんがそこまで気にするんですか?」

「私、約束したんです。希美先輩に、どうして復帰を認められないのか調べるって」

「またそれは大層な約束を……。あまり安請け合いは感心しませんね」

「すみません……」

「謝らなくても良いですよ。でも私が教えないといけない道理は無いと思いますが」

「私が演奏に集中できなくなります。吹奏楽部としてそれは、困るんじゃないですか」

「私を恫喝するとは。やはり不良少女……」

「そんなんじゃありません!」

 

 焦ったような声で黄前さんは言う。こちらに視線を向けて、揶揄われたと気付いたようで顔を赤くしている。仄暗い室内でも、その顔色はよく分かった。

 

「それで、どこまで聞きましたか?」

「あすか先輩と優子先輩から、それなりに。鎧塚先輩の事ですよね」

「そうですか。なら、それを伝えれば良いのでは?」

「でももう一個、優先順位がどうこうって言うのは分からないままです」

「あぁ、それ。田中先輩も吉川も多分気にしてない部分だったんでしょうね。だから話に出なかった。でも私はこっちも結構大事な話だと思っていたもので」

 

 結局のところ、希美が部に戻った場合所属するのは井上のいるフルートパートだ。先輩方はもう半ば諦めている節がある。まぁこれはしょうがない。けれど井上に関しては話が別だ。彼女は罪悪感と劣等感を拗らせて自分でもよく分からない状態に陥っていた。

 

 だからこそ、これを解消しない事にはどうにもならないという意味でも優先順位である。そして希美が真っ先に田中先輩を訪れたことも、また彼女の劣等感を刺激する。頼りに行くのは向こうなのか、と。当然本人自覚の通り、それは理不尽な想いだ。去年助けもしなかったし引き留めもしなかったんだから、頼って来るわけがない。でも正論が時に意味をなさないのが感情だ。

 

「黄前さんは自分より上手で、カリスマもあって、真っ直ぐだった同期が辞めて戻って来ることを歓迎できますか? なお、自分は先輩が怖いので虐められているその子を助けず無視していたとします」

「それは……」

「さらに、今年は自分もいい成績を収められそうで、かつ後輩も自分しか同期がいないので慕ってくれています。でもきっと、その子が戻ってきたら後輩もそっちに取られてしまうかもしれない。自分に残るのは、その子の二番手という立場だけ。さぁ、どうでしょうか」

「……無理、だと思います。素直に受け入れるのは、きっと」

「でしょう? だから私はダメだと言ったんです。何もしない状態だったら、フルートパートで間違いなくこれが起こる。今フルートの二年生は一人だけですし」

「でも、それって鎧塚先輩をどうにかしてもいずれ発生するんじゃないですか?」

「その通り。だから優先順位なんですよ。かつて自分が敵いもしなかった存在が、落ちぶれて、戻りたいと懇願してくる。助けてとお願いしてくる。あの時は何も出来なかったけど今なら何かできるかもしれないという感情になる。優越感が生まれ、それは憐れみに代わり、そして行動に移ってく。少なくとも、何もしないよりはこうなる可能性のある行動を取った方がマシという話です」

 

 唖然とした顔で黄前さんは私を見ている。その顔には何か怖いモノを見たような、そんな色があった。でも今はこうして私を驚きながら見ている彼女だが、きっと同じことができる才能があると思っている。何故なら彼女は割と人間関係調整能力があるタイプの人間だから。もっと言えば、私はそう思って彼女を見ている。高坂さんに足りない人間関係の能力を持ち合わせているのだと。

 

「でも一番最初はその同期……個人名を出すと井上じゃダメですね。最初はこっそり先に姫神先輩を頼る。そして三年生の協力を取り付け、話を通したうえで井上と話して、もし拗れそうなら先輩にフォローしてもらい、一年生には優しく接して、そしてフルートパートに居場所を作る。そうすれば今後何か問題が起きても、パートという後ろ盾を得られる」

「先輩……普段からそんな事考えてるんですか?」

「そうですよ」

「なんで、そこまで……」

「それが吹奏楽部のために必要なことであり、皆さんを全国大会に連れていくために必要なことだと思っているから、ですかね」

 

 本当は自分の居場所が無いのが嫌だ、という個人的理由でもあるのだが。とは言え、今黄前さんに話した手段は方法こそ微妙に違えど、思想は基本私が戻る時のそれと一緒だ。あの時は最初に吉川に話を通した。中世古先輩は姫神先輩より優しいし、きっと受け入れてくれるという打算があったからだ。一番揉める可能性のある部分に先んじて釘をさすことで、トランペットパートに逃げ込める体制を作った。

 

 これをすれば、来年も同じくトランペットパートを居場所に出来る。私を除いて三人いるトランペットの二年生のうち、パートリーダーになるのは恐らく吉川だからだ。実力的にも性格的にも。

 

「なので先に優先順位を考えてフルートパートをどうにかして欲しかったんですけど……まぁそれより先に色々あって井上が暴発したので、こっちでそれはある程度片付けておきました。かと言ってのうのうと戻ろうとしても無理でしょうし、一回希美がしっかり話し合う姿勢を見せれば多少解決すると思いますよ」

「……あれ、でもそれ、間接的に希美先輩が戻る助けになってませんか?」

「そういう側面があるのは事実です。でも井上を放っておくと、それはそれで現在の演奏に悪影響を及ぼす可能性がありますからね。間接的に希美を助ける事になったとしても、井上の件は何とかするべき問題でした。なので、行動したまでです」

 

 そう。実際問題、井上の件をどうにかすることは希美復帰への追い風になっている。まぁ本人は知らないだろうけれど。じゃあ何としてでも認めたくないから井上の拗らせた感情を放置するべきか、と言われれば全然そんなことは無い。当たり前だが、フルートの戦力であるし、現状一人しかいない二年生だ。同じパートの一年生の指導も担っていた部分があるし、不調になれば一年生部員にも影響が出かねない。当然放置するわけにはいかないだろう。

 

「じゃあ、鎧塚先輩のことを希美先輩がどうにか出来たら、戻っても良いんですか?」

「逆に拒む理由が無いでしょう?」

「先輩が、嫌とか」

「私は私情で部のためになる行動を妨げたことはありませんよ。今までも、これからも」

 

 この部の上級生や同期にだって、思う所が無いわけじゃない。けれど、それで差別したことは無いし、平等に指導は行っている。部活のためにならない行動を自分がするわけにはいかない。いかに不安定であっても指導者という立場にいる以上、不利益を特定生徒に与えてはいけないのだ。当然便宜を図るのもダメだけれど。

 

「そんな感じで、黄前さんの聞きたいことは大分解決したんじゃないですかね。みぞれの件と言い、この件と言い。というか片方はほぼほぼ解決してるし。フルートパートに行って井上とキチンと話して欲しい旨、もし暇だったら中川経由でもいいので伝えておいてください」

「でも……」

「でも?」

「それは先輩が伝えた方が良いんじゃないですか、自分で」

「なんで」

「逆にですけど……先輩は、希美先輩の事が嫌いなんですか?」

「……」

 

 嫌いか、と聞かれれば違うと言える。でも彼女の聞きたいのはそんな子供じみた好悪の話じゃない。嫌いだから話さないのか。そう言いたいのだろう。パッとすぐには答えられなかった。結局私のどうしようもなく臆病で、非合理的な部分が拒んでいるだけなのだ。

 

 今度会ったら話そうと決めていた。でもその機会を自分から作るのは怖い。井上の話をするのも怖い。そういう小さな恐怖が積み重なって、私の行動を鈍らせていた。つまりだ。私は春頃から何も変わってはいない。臆病だからこそ、居場所を求めた。怖いから、希美に対して行動しない理由を探した。一番の卑怯者は私なのかもしれない。

 

「嫌い、じゃないですよ。ただ、どうしたら良いのか分からないまま……いや違うな。正確にはどうしたら良いか分かってるけど、一歩前に踏み出せないままでいるだけです。難しいですね、人間関係って。どうでもいい人、さして何も感じていない人には簡単に一歩を踏み出せるのに、肝心なところでは怖くなる」

「そう、ですね」

「他の人には言わないでくださいね、こんな風に臆病な私の姿。内緒ですよ」

「はい」

 

 弱みを見せる方が、共感してもらえることもある。特に普段全体の前では強く振舞っている人ほど、個人の前だけで見せた弱い部分は秘密としてもらえる可能性が高い。何故ならそれもまた、優越感だからだ。

 

「それより、私からも一つ質問です。黄前さんはみぞれの事を知りました。それを他言無用とも言われたんでしょう? 反対に、希美とも約束してしまった。この背反する二つの事態に際して、どちらを取りますか?」

「……」

「答えられなくても仕方ないと思います。意地悪なことを聞きました。もう遅いですし、そろそろ寝た方がいいでしょう。明日も早いので」

「……先輩は、本当は希美先輩と元に戻りたいんじゃないですか?」

「どうしてそう思ったんですか」

「だって、先輩は他の子を名前で呼ばないじゃないですか。でも、希美先輩と鎧塚先輩は違う。同じくらい古い頃からの仲で、同じくらい大切にしてる。だから鎧塚先輩のソロも触れないようにしたし、希美先輩は喧嘩した後もずっと名前で呼んでるんじゃないですか?」

「人には誰しも触れられたくない部分があります。あまりそこにズケズケと踏み込むと……痛い目を見ますよ」

 

 少しだけ脅すような声音で言う。彼女の言っていることは全部正論だ。分かってる。全部分かってる。だけれどそれを言われたくは無かった。訳知り顔で、理解してますよという風に言って欲しくなどない。

 

 今、しっかりとあの時の斎藤先輩の気持ちを理解した。なるほど、こういう感情だったのかと。自分の心の中に入ってこられる恐怖というモノを、私は今しっかりと体験した。彼女はやはり、彼女の先輩に似てきている。少しずつ、けれど確かに。それはきっと、憧れているからだろう。

 

「先輩、最後に一つ聞いても良いですか?」

「どうぞ」

「先輩はコンクールは好きですか」

「あんまり好きじゃないですね。でも、否定も出来ません。私はコンクールのおかげで今の地位を築けている。コンクールでウケる音楽、世間に売れる音楽。そういう芸術性の探求とは遠い場所に、私の音楽はあります。だからこそ、否定も出来ないのです。私の発言の正当性を担保してくれる権威を自分で傷つけるのは賢い行為ではないですし」

「じゃあ、どうして好きじゃないんですか?」

「……死んだ人を、もう評価してくれないからでしょうか。はい、お話は終わりです。寝なさい。いいですね?」

「……はい。おやすみなさい」

「おやすみ」

 

 彼女はパタン、と扉を閉めて部屋に戻っていく。随分と話し込んでしまった。すっかり遅くなっている。仕事は話しながらも少しずつ進めていたので、多少は進んでいる。けれどまだまだだ。何時間寝れるか分からないまま、私は引き続きパソコンの画面と向き合う。

 

 時計の長針が一回りしたくらいの頃、やっとひと段落する。自動販売機で飲み物を買って窓辺の椅子に座りながら、ぼんやりと外を眺める。周囲に灯りの無いせいか、綺麗な天の川が見えていた。夏の夜空は湿気で潤んで少しぼやけるというが、今はそういうことはあまり感じない。

 

 自由曲開幕のファンファーレはきっと、こういう空を始めてみた時の衝撃を表現しているのだろう。飲み物に口をつけてそのまま空を見上げた。元に戻りたい、か。叶うなら確かにそうだろう。受け入れてもらえるのかどうか、それは分からない。けれど完全にこちらと縁を切りたいなら、何度も話しかけてこないはずだ。むしろ、それを拒んでいたのはこちら側だった。

 

 もし許されるのならば。やはりやらないといけないのだろう。怖いとか、そういう臆病さを言い訳にしてはいけない。今まで多くを傷つけてきたのだ。自分だけ無傷のままで終わろうなんて、そんな虫のいい話はあり得ない。静かに目を閉じた。自分の中にある色々な妨害要因を取り除くために。

 

 

 

 

 

 

「……地君、桜地君、起きて」 

「……あぁ、おはようございます」

 

 耳元で声がして目が覚めた。窓の外は明るい。辺りを見回すと、時計が目に入る。もう起床時間を過ぎていた。慌てて目を覚醒させると、目の前にぐいっと顔が近付く。

 

「ちょ、近いです先輩」 

「良かった。起きてくれた。何回呼んでも全然起きないから、心配したんだよ。部屋にいないって田邊君が言ってたし」

「すみません、ちょっと仕事してたら遅くなってしまって。休憩してたらいつの間にか寝てたみたいです」

「ダメだよ、しっかりお布団で寝ないと」

「すみません……」

「前にも言ったけど、何かあったら頼ってね」

 

 その言葉に少しだけ、話してみようという気になる。普段はこんな相談はしない。自分で全部解決する。でも夜に黄前さんと話したことで、少し自分の中にも違う感情が存在している事に気付いた。それは、話した方が楽になるというもの。知識としては知っていて、人に促すことはあっても、自分の経験にしたのはそれが初めてだった。

 

「先輩、ちょっといいでしょうか」

「うん」

「自分も相手も傷つかないと前に進めない時、先輩はどうしますか」

「どうだろう。その時になってみないと、ハッキリとは分からないな。でも……進みたい、進める自分でいたいとは思ってる」

「それは、どうして?」

「再オーディションの前、聞いてくれたよね。どんなに苦しい道でも、挑戦したいかって」

「はい」

「その時思ったんだ。その選択は自分も相手、あの時は高坂さんだけど、相手も傷つけることになるんだろうって。あの時挑戦したいって答えたけど、それでもどこかでは迷ってた。でも再オーディションを用意されて、あぁ進まないといけないなって思えたの。そうしないときっと、自分に嘘を吐いたままになるから。そして停滞したままだと、きっと相手をもっと傷つけてしまうかもしれない。それは嫌だって思ったなら、前に進まないといけないんだって。それで例え傷つくことになっても、結果は変わらなくても、それ以外の何かはきっと変わる。だから私は、昨日とは違う明日が欲しかった」

 

 確かな口調で、確固たる言葉で、先輩は言葉を紡いだ。

 

「桜地君が進みたいなら、進めばいいと思う」

「そうしたいと、思ってはいるんですけどね。相手が近しかったほど、怖く感じるもので。私は臆病ですから」

「そうかもね。でも、大丈夫だよ。きっと桜地君ならいける」

「どうして、そう思うんですか?」

「だって、私の背中を押してくれた。葵とか私のために、ううん、もっと色んな人のために走り回って、頑張って、辛いこともやってくれたでしょ? そんな人ならきっと、勇気を出せるはずだから」

「……ありがとうございます。でも、私はそんな綺麗な理由で動いてません」

「桜地君の理由なんか別に何でも良いんだよ。私がそういう風に思えた。それで私にとっては十分。受け取った側がどう思うかが、大事だと思うな」

「そう、かもしれませんね」

「何か、役に立った?」

「はい、とても」

「そっか。なら良かったな。そろそろ朝ごはんだし、着替えてきてね」

「中世古先輩にはいつもご迷惑をおかけします……」

「気にしないでね。それと、香織で良いよ。じゃ、早くね。あんまり遅くなると晴香が怒るし」

「はい」

 

 勇気を出せる、か。私は部活のために。そういう合理性のために動いていた。それが結果として先輩の力になった。果たして正しかったのか。斎藤先輩の件も含めて、私はずっと悩んでいたし、心のどこかに引っかかっていた。無条件に喜ぶことなんて、出来ないままでいた。

 

 けれど……受け取った側がどう思うか。それが大事、か。それで私の行為を正当化してはいけないと思う。でもその言葉は、例えどういう意思で言われたモノであったとしても、私にとっては少しだけ前を向ける言葉であり、そして歩き出す力になる言葉だった。

 

 男子部屋に戻ってさっさと着替える。部内の男子代表を務めている田邊先輩には軽く小突かれたが、まぁ忙しいというのは理解してくれているようですぐ解放してくれる。小言を沢山言うような先輩はいないのでありがたいことだ。やっと起きたらしい滝野も眠そうな目をしながら服を着替えている。その横で布団を畳みながら私も着替えた。

 

「お前どこ行ってたんだよ」

「ちょっと仕事してたら寝落ちした」

「あぁ、そういう……首とか大丈夫か? 俺、前寝落ちした時痛くって」

「それなりに痛い」

「ドンマイ。まぁ無理すんなよ」

「分かってる。それなりに役得はあったし」

「役得?」

「香織先輩のモーニングコール」

「殺すぞお前!」

 

 本物の殺意が横からやって来たのでちょっとビクッとなった。普段色々やってるんだしこれくらいの役得はあってもいいと思う。別に滝野と違って、恋愛対象とかそういう話ではないけれど、人間としてちゃんと好きな存在なので、多少なりとも好意的なことをしてくれると嬉しいのは事実だ。

 

 思いっきり首に腕を回され、絞められる。

 

「殺さないで、死んじゃうから」

「てかいつの間に名前で呼んでんだよ。俺は吉川にダメって言われたのに!」

「本人から良いって言われたんだから良いだろ。お前は下心ありきだからダメなんだよ」

「何だとこの野郎!」

 

 この調子でやっていたら朝食に少し遅れ、部長から後で小言を貰う羽目になってしまった。滝野はしばらく許さないと決意した一幕である。

 

 

 

 

 

 

 

「はい、今日の練習はここまでとします」

 

 先生の言葉で部員は構えていた楽器を一斉に下ろす。朝の全体練習は終わり、夏合宿もこれで終わりだ。この後は学校に戻り、楽器を片付けた後、各自解散となる。私は昨日寝落ちしたせいもあり、首が痛い。とは言え今はそれよりも何を食べていたのか分からない我が家の家族の方が心配だった。来年の修学旅行が不安になる。

 

「この三日間で、皆さんは多くのことを学べたと思います。勿論、練習は明日以降もありますが、取り敢えず今日は家に帰ったらまず身体を休めてください。しっかりと回復してから、明日からの練習を迎えましょう」

「「「はい!」」」

 

 そんなこんなで過ぎ去った夏合宿。翌日も変わらず朝学校に集合した部員全員の心にあるのは過ぎ去った合宿の思い出ではなく、あと十日ほど後に迫った関西大会の事である。もう、二週間もない。これからの運命を分ける天王山はすぐそこだった。

 

 昨日は家に帰ったらレトルトのゴミが幾つか捨ててあり、何とも言えない顔になったのを思い出す。忙しかった妹はともかく、家にいたはずの大人がこれではもうどうしようもない。軽く頭を抱えそうになった。正直、妹の受験が終わったら真面目に料理を教えるべきなのかもしれない。包丁が怖いとかそういう話をしている場合じゃない気がする。

 

 それはともかく、今行われているのは演奏順の発表だった。これも意外と馬鹿に出来ない。一発目だと基準にされてしまう可能性がある。これより上手いか、下手かということだ。隔絶した上手さを誇っていればいいのだが、流石にそれは無いだろうから避けたいところである。

 

「北宇治高校は十六番目の演奏になる」

 

 松本先生から発表された順位にひとまず落ち着く部員たち。まずまずのポジションだろう。簡単な話、審査員も人なのだから早めにやられても忘れるし、遅めだと二番煎じになる可能性があり、そうなるとやはり飽きる。真ん中ら辺がベストだ。

 

「あの、すみません……他の高校は……?」

 

 松本先生が睨んでいる。確かに答えづらい質問だし何ならそんな事気にしてもしょうがないけれど、気になってしまうのは仕方ない話だ。

 

「主な強豪校ですが、大阪東照は前半の三番目。秀塔大附属は十二番目。そして明静工科は私たちの前、十五番目になります」

 

 その順番に悲鳴が上がる。この悲鳴に込められた感情はよく理解できた。強豪校がすぐ前か後ろにいると比べられる可能性があるし、吹く側も緊張が高まる。私だってあんまり好きじゃない。私の後に演奏することになった他の奏者が昔彼らと同じような顔をしていた。

 

「何ー? 強豪校の次だからってビビってんのー?」

「そりゃあ……まあ……」

「関係ない関係ない。関西大会なんてどこを見たって強豪校ばかりなんだからー」

 

 橋本先生は部員の不安を払拭するように軽い口調で言葉を放つ。しかし言っていることはその通りだ。

 

「春頃、サンライズフェスティバルで皆さんが挟まれたことに対して焦っていたあの立華も洛秋も、今では私たち同じ代表です。今やこの北宇治高校吹奏楽部は、座奏において彼らと同じ位置にいるんです。何も臆する必要はありません」

「二人の言う通りです。気にする必要なんてありません。私たちはただ、いつも通りに演奏するだけです」

「「「はい!」」」

 

 そう。いつも通りにやれば結果はついてくるはずだ。演奏では引けを取らないと思っている。それこそ、強豪にも。だがまだ伸びる。最後まで伸びる。それを諦めてはいけない。それに、まだ上手くなるピースが残っている。その最後の欠片がはまった時に、この部活の演奏はもう一段上に行けるのだろう。

 

 残っている問題。これを片付けない事には、もうどうしようもない。傷つくのも傷つけるのも好きではない。けれど、傷つかなくては人は前に進めないなら。前に進まなければ、きっと良い未来が待っていないのだとしたら。そうするべきなのだ。返事はすれども不安はぬぐえない顔をしている部員たちの中。私は一人決意を固めていた。昨日と違う明日が欲しいなら、やらないといけないのだ。

 

 そしてその時は、翌日に訪れる。

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