音を愛す君へ   作:tanuu

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第三十五音 また明日

「音階下りのところ、金管が今ちょっとフワッとしました。微妙に揃ってないです。コンマレベルですが、修正するようにしてください」

「分かりました。今日言ったことをしっかりと叩き込んでください。以上で本日の練習を終わります」

「「「ありがとうございました!」」」

 

 先生の号令が行われ、夕暮れの中合奏練習は終わる。今日も今日とてオーボエはあまり変化を見せないままだった。現状いかなる音楽的解決を試みようとしても、きっと彼女の音色は変化しないのだろう。

 

「私、鎧塚さんにちゃんと謝っておこうと思って」

 

 部員が去っていく音楽室の中で、ふとそんな声が聞こえた。ゆっくりと目を向けるとみぞれと新山先生が向き合っている。声をかけられていたみぞれは少し困惑した様子をしている。新山先生からは特段特別な感情は読み取れない。いつも通り、温和な顔つきだった。

 

「正直に言うとね、私もあなたのソロを聴いたとき、橋本先生と同じように物足りないと感じたの。なのに高校生だからこれで十分って。私はあなたの可能性の上限を決めつけていた。ごめんなさい」

「あの……」

「橋本先生が指摘された時、ハッとしたわ。あの人はあなたたちを一人の奏者として扱っている。そう思ったら自分が恥ずかしくなってしまって。失礼なことしてしまったなって。あなたの技術は素晴らしいわ。でも、聴いていると苦しくなる」

 

 その言葉を聞く彼女はどこか遠くを見ているようであり、またその目には怯えが見てとれた。自分の意思ではないかのように首を振る彼女には何故か言いもしれぬ悲しさがまとわりついているように思えた。

 

「もっと楽しんでもいいのよ?」

「……はい」

 

 その声が微かに震えていたことに、新山先生は気付いたのだろうか。みぞれは、先生が思っている以上に、オーボエが別に好きではないのだろう。恐らくそれでも続けている理由はいくつかある。一番大きいのは、希美と出会った時に同じく出会ったものだから、というものだ。勿論辞め時を見失っているというのもあるだろう。

 

 という分析をしているが、実は彼女の深層心理はオーボエを手放したくないと思っている部分もあるはずなのだ。じゃあ今仮に希美がやってきて、オーボエをやめろと言えば手放すのだろうか。答えはきっと、ノーである。まぁそもそも希美がそんな事言わないという部分もあるが。

 

 この立場の最大の優位性は、こうして指導者だけでは見えない部分を見ることができるということだろう。非常に特異な例ではあるが、現状の北宇治には合っているのかもしれない。いつまで続けられるのかは分からない。私がいなくなった後はきっと同じシステムは維持できないだろう。

 

 やはりだ。やはり何とかしなくてはいけない。明日、少し話そう。話運びを気を付ければ、きっと話を聞いてくれるはず。彼女もこのままではいいと思っているわけでは無いのだろうから。

 

 

 

 

 

 

 翌日は異様に暑い日だった。猛暑日とニュースで繰り返し報道されているくらいである。妹には水分補給をしっかりするようにと念を押して、送り出している。南中の本番は我々の一日前。流石にこの日程で抜け出すことはできないため、雫さんに代わりに見てきてもらう予定だ。ついでにDVDも買ってきてもらう。

 

 みぞれには練習終わりに少し時間を用意してもらうように話をしてある。多分、内容はある程度向こうも察しているのだろう。今からちょっと気が重い。けれど香織先輩にも背中を押された以上、ここで引き下がるわけにもいかないのだ。

 

「後藤は音出てるけどもうちょっと出せる? 一人でニ人分出すくらいの勢いでやって欲しい」

「分かった。こうか?」

 

 低音パートでの指導はやはり回数が減りがちになる。田中先輩がまとめ役としても指導面でも中々に優秀なので、指示しておけば正しくアプローチしてくれるのだ。その豊富な知識から繰り出される指導は、技術面においてかなり的確である。

 

「良いね、そんな感じだ。本番ではどうしても少し音が小さくなりがちになる。今のを出せるように意識して。長瀬の方は今のでいいけど、小さくはならないように」

 

 チューバはしっかり下支えをする大事な役目だ。しかし奏者が二人なので、音量面では負担をかけている。来年上手い子が入ってくれるか、加藤さんが出場レベルになってくれることを願うしかない。もし誰も新入部員がいないとなると……ちょっと困る。南中からリクルートしたいので妹に相談してみるのもよさそうだ。南中にも良いチューバ吹きがいたのを思い出す。結構背が高めの女の子だった。

 

「あ、そうだ川島さん。一応コンバスの件何とかなりそうです」

「ホントですか?」

「はい。普段はバイオリンやってるんですが、弦楽器なら何でも出来る人なのでそこら辺は安心してください。一応日本語もちょっとは分かる……はず。まぁ今どきアプリとかありますからね。ただちょっと変な人なので、何か言われても気に病まないようにしてください」

「ありがとうございます!」

「う~ん、類は友を呼ぶだねぇ」

「どういう意味ですか~、それ」

 

 田中先輩が楽譜にメモをしながら茶々を入れてくる。私が変な人なわけ無いと思う、というかかなりまともなはずだ。非常に常識的な行動を……出来ている……はずなのだ。そう信じたい。変な人度で言えば田中先輩だってあまり人のことを言えた義理では無いと思うのだが、そう言うとまた長くなりそうなのでそれ以上は触れないようにした。

 

「まぁ取り敢えずここで休憩にしましょう。ちょっと疲れたでしょうし」

「え~、私は全然行けるのにぃ」

「先輩の体力に従ってるととんでもない練習計画になりそうなのでダメです」

 

 休憩指示を出して窓に寄りかかる。風が吹いてはいるが熱風なので、窓は締め切っていた。今は冷房があちこちでガンガンついてる。教頭先生に許可は取ったので問題ない。今年の関西行きは大きい部活だと吹部だけ。つまり、少しくらいは無茶も許可されるのだ。

 

 京都の夏は暑い。今日の全体練習は終わったので後はパート練や個人練習のみ。廊下では既にオーボエの音が聞こえる。相変わらず、彼女は練習の鬼なのだ。誰よりも練習している。これから待ち受けていることを考えると気が重いが、今は低音に集中することにする。

 

 その時、音が止む。普通にお手洗いかもしれないが、何か嫌な予感がした。音の切り方が普通ではない。キリの悪い小節のど真ん中で突然音が止まった。まるで、予期せぬ事により中断されたように。直ぐにガタッ! という何かが倒れる音。そして、走る音。とてつもなく嫌な予感。頭の中で何かが危険信号を鳴らす。慌てて外に顔を出した。

 

「みぞれ!? 待って! みぞれ!」

 

 良く、そうとても良く知っている声がする。それで、全て察した。何でこういつもタイミングが悪いんだと内心で毒づく。みぞれの開花のために一度希美と話してみないかと説得するつもりだった。そのために色んなパターンを想像していた。でもこれは想像の枠外から襲いかかって来たのだ。

 

 頭がズキズキと痛む。手を尽くして、色々考えて、きっと最良を掴みとれるようにしようと決めていたのに。そうすれば希美もみぞれも前を向けるようになる。そういう選択肢を進めるはずだったのに。今やそれはあり得ない。

 

 反射的に廊下に飛び出したのは吉川だった。そして、彼女は希美の手を掴む。走り去るみぞれに伸ばしたが捕まえられなかったであろう希美と、その希美の手を捕まえられた吉川。その光景は実に対照的だった。

 

「止めて!」

「優子……?」

「どういうつもりよ」

「ちょっと、希美が何したって言うの!」

「何もしてない。だから怒ってるの!」

「はぁ?」

 

 疑問符を浮かべる中川とは反対に私は吉川の気持ちが理解できた。中川が希美の味方であり続けたように、吉川もまたみぞれの味方であり続けたのだ。動くのが遅すぎた。悔やんでも悔やみきれない。だが、今するべきは自己嫌悪に浸ることじゃない。そんなのはいつでも出来る。

 

「とにかく、早く探さなくちゃ」

 

 そう言い、吉川は辺りを見回す。そして運良く適役がいた。

 

「黄前さん」

「え」

「あの子の事情知ってるよね? みぞれのこと、探してくれない? あの子今、慣れていない子と会うのヤバいから……。お願い」

「は、はい……」

 

 黄前さんは戸惑いながら返事をする。止まっている場合じゃない。今やるべきことは決まっているんだ。

 

「黄前さん、特別棟の女子トイレか特別教室だ。一般棟は探さなくていい!」

「わ、分かりました!」

 

 黄前さんはそう言うと走り去っていく。後ろで田中先輩の舌打ちが聞こえた。彼女はのらりくらりと引き延ばす戦略を取っていた。その観点からして、現状は最悪だろう。

 

「田中先輩」

「何」

「もうこうなってしまった以上、どうしようもありません。過去に時間を戻せないなら、強制的に前に進ませるしかない」

「何する気かは分かったけど、下手すると全部崩れるよ」

「でも、何もしなくても崩れます。最悪を回避できるなら、最悪の一歩手前の方法でも使うしかありません。荒療治。これ以外に、この病は治せない」

 

 吉川も走り去っていく。残されたのは、状況の読めない人たちだけ。余計な混乱を招かないように手を強く叩く。

 

「関係ない人は練習に戻るように!」

 

 強めの口調で言うと、バラバラとみんな戻っていく。

 

「……さて、二人は一緒に来てもらうから」

「分かった」

 

 中川は少し迷ったが、希美の返事でついてくることを決めたようだった。

 

「田中先輩、後はお任せします」

「了解」

「ほら、君はこれでも持ってて」

 

 そう言ってみぞれのオーボエを渡す。そのままゆっくり歩く。走ったところで見つけられる訳ではない。特別棟と黄前さんに言った理由は簡単。一人になれるけど、見つけられない場所じゃないから。

 

 一般棟は普通の生徒がいるし先生もいる。逃げ出した女子がそんな人目に付く場所にいるだろうか。答えはノーだ。図書室も同じ理由で却下。廊下なども無い。鍵が閉まっている部屋は除外するので、家庭科室や物理や化学の実験室も無し。とすると、特別棟のどこか。恐らく生物実験室とかじゃないだろうか。女子トイレの可能性もあるが、そこは人が来る可能性がある。だから一応選択肢に入れたが、他より可能性は低いとみている。

 

 カツカツと廊下に三人分の足音が響いた。

 

「……はぁ。全部丸く収まるように、色々手配したんだけどな。今ので全部パーッと消えちゃったわけだ。吉川に頭下げたのがバカみたいになってくる」

「どういう、こと?」

「まぁつまりだ。これが答え合わせだよ。田中先輩の言った許可できない理由はみぞれだ。そして私の優先順位の方もついでに言うと、田中先輩じゃなくてフルートパートの方を優先しろという意味だね」

 

 すらすらと言葉は出てくる。ここまでの過程で何回も脳内で整理したから当たり前だった。みぞれが希美にトラウマを抱えている。音を聞くのも嫌と言っていた。じゃあ会うのはもっと嫌だろう。

 

 フルートパートの方は合宿中にある程度解決への道筋は用意してある。井上が不調になる可能性が存在していたのでやむを得ない措置だった。けれどできれば自分で気づいて欲しかったという思いがある。

 

 本当は希美に会ったら言いたいこと、言わなくてはいけない事があった。覚悟もしていた。けれど今はそれを優先は出来ない。全部噛み合わないで進んでいる気がして、私は自分の運の悪さを呪った。

 

「この二つが許可できない理由。何か質問は?」

「みぞれは、何でそんなに……」

「こんの大馬鹿。良い? 三年間一緒にやってきて、一緒に金取ろうと約束した相手なのに、仲間だと友達だと思ってたのに、何の相談もなく辞められたんだぞ。吉川も中川も私も知ってるのに、自分だけ知らないなんて。そんなの仲間外れと一緒だろ! どういう理由か聞かないけど、君がやったの、去年の三年生と一緒じゃないか。彼女の面倒を見ろとは言わないけど、そんなの仲間に対する態度じゃない。そりゃトラウマだって抱くに決まってる」

「じゃあフルートパートの方は……私、別に調に怒ってなんて……」

「向こうがどう思ってるかが問題なんだよ、こういうのは。彼女は彼女なりに悩んで、その末に色々考えすぎて罪悪感と劣等感を拗らせてる。でもこっちは話し合えばどうにかなるようにしておいたから。勘違いしないでくれ、君のためじゃなくてA編成の奏者のメンタルケアのためだから」

 

 目的地には到着した。中からは話し声がする。吉川も合流できたようだった。

 

「元々みぞれには君と話すように説得するつもりだった。フルートパートはさっき言った通り。姫神先輩とかにも話は通してある。だから今日来なければ、戻れたんだぞ。それも割とすぐに」

 

 それを以て責める気はあまりない。それはこちらの事情だからだ。けれど骨を折ってはいるのだから、多少は主張したって良いはずなのだ。希美は部外の人間なのだから。部内の人間相手にこんなことはしない。指導者なのだから当然だ。けれど部外にまで指導者であるつもりはない。

 

 彼女らに待機するよう促し、耳を澄ます。

 

「……だって、私には、希美しかいないから。拒絶されたら……」

「何でそんな事言うの。そしたら何! みぞれにとって私は何なの!」

「優子は、私が可哀想だから、優しくしてくれた……。同情してくれた……」

 

 数拍おいてパチンという音が響く。

 

「ばかっ! あんたマジでバカじゃないの! 私でもいい加減キレるよ。誰が好き好んで嫌いな奴と行動するのよ!」

「いたひ……」

「私がそんな器用な事出来る訳無いでしょ! 同情? なにそれ。みぞれは私の事友達と思ってなかったわけ!? 部活だってそう! 本当に希美の為だけに吹奏楽続けてきたの? あんなに必死に練習して、コンクール目指して、何も無かった!? 府大会で関西行きが決まって嬉しくなかった!?」

 

 彼女の声はどんどんとヒートアップしていく。みぞれは吉川を理解してない。彼女は自分で言うように、そんな器用なことはできない。だから信頼できるとも思っているけれど。その真っ直ぐな部分は美徳だった。暴走さえしなければ。

 

「私は嬉しかった! 頑張ってきて良かった、努力は無駄じゃなかった、中学から引きずってきたものからやっと解放された気がした! 去年あんなことになって、全部引き取って人柱みたいになった桜地が結果に笑いながら拍手してた時、何も思わなかったの? 私はもう、やっと前を向いて良いんだって思った。中学のあの夏が、去年のあの時間がやっと終わった気がした! みぞれは違う? 何も思わなかった!? ねぇ!」

「嬉しかった……。でも、でもそれと同じくらい辞めていった子に申し訳なかった。喜んで、良いのかなって」

 

 みぞれは決して無感動でも何でもない。その顔の裏に、しっかりと心を持っている。

 

「良いに決まってる! 良いに決まってるじゃん。だから、笑って?」

 

 嗚咽が聞こえる。その涙声は廊下にまで聞こえていた。今が丁度良いタイミングだと思う。

 

「ほら、出番だ。行ってこい」

「大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 

 中川の問いかけに希美はそう返事をして、部屋に足を踏み入れた。

 

「みぞれ……ごめんね。去年、何も言わないで辞めちゃって。ずっと、気付かないままで。さっき言われてやっと気付いた。最低なことしてたって」

「なんで……黙ってたの」

「だって…必要無かったから?」

「え……?」

「え、だって、みぞれ頑張ってたじゃん。私が腐ってた時も、誰も練習してなくても一人で練習してた。そんな人に一緒に辞めようとか言える訳ないじゃん」

「だから言わなかったの?」

「うん。でも……どんな理由があったにしてもちゃんと言わなきゃいけなかったんだなって、今は思ってる。馬鹿って怒られちゃった。でもその通りだよね。大切な友達に言わないなんて、最低だった。いっぱいいっぱいでも、やらないといけない事ってあったのに。本当に、ごめんなさい」

「私こそ……ごめん」

 

 泣きながら謝るみぞれ。それを半ば抱き締めるように希美は彼女に向き合っていた。きっと二人の間には熱量に差がある。お互いに大事な友達なのは事実だろう。けれどみぞれの方から向けられる矢印は、希美が思ってるよりずっと重たい。まぁでもそういうものだろう。人間関係なんて、そんなもんだ。

 

 そうやってすれ違っている部分を少しずつ埋めていく。そうすることで前に進んでいけるのだろう。

 

「私ずっと避けてた。勝手に思い込んで、怖くて……」

「みぞれ……」

「ごめんなさい」

「みぞれ……。ねぇ、私ね。府大会見に行ったんだよ。みんなキラキラしてた。鳥肌たった。聞いたよ?みぞれのソロ。カッコ良かった」

「ホント……?」

「ホントに決まってるじゃん。私、中学の時からみぞれのオーボエ好きだったんだよ。なんかさぁ、きゅーんとしてさ。聞きたいな、みぞれのオーボエ」

 

 そして、その目に涙を浮かべながら、でもその口元には確かな笑みを浮かべながら。

 

「うん」

 

 そうやって、みぞれは頷いたのだった。去年の呪いは、今解けたのだろう。心の鍵は結局、希美が持っているモノを差し込むのが一番手っ取り早く、また理想的だったという話だ。いずれにしても、この問題はここでひと段落する。きっとオーボエの音色は格段に良くなるだろう。

 

 聞かせたい相手がいる時、奏者の演奏は何倍にも増して熱がこもり、その実力にブーストがかかる。その経験は私にだって当然ある。だからこそ分かるのだ。きっと、関西大会に出るオーボエ奏者の誰よりも、彼女は上手く、そして美しく吹けるだろう。

 

 心の中でため息を吐く。これで何とかなったと思おう。目下の問題は解決したはずだ。私たちの間にはまだ横たわっていても、吹奏楽部にはもう問題が無い。これで何の心配もなく関西に挑める。それならまぁ、私がくたびれ儲けでも構わない。何より、みぞれが笑っているならそれで良いはずなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 渡り廊下からは二人の演奏が聞こえる。

 

「凄い綺麗な音……」

 

 黄前さんが思わずと言った様子で言葉を漏らす。柔らかく、繊細。優雅に、華麗に、美しく。伸びやかに紡がれる旋律は上質な絹のように。その響きは済み切った清流のように。高坂さんと並ぶ、或いはそれ以上の資質を秘めている奏者が彼女だ。その実力は鬼のような努力によって形成されている。

 

「結局みぞれの演奏はずっと希美の為にあったんだね」

「まあね」

「希美には勝てないんだなあ。一年も一緒にいたのに」

「そんなの当然でしょ? 希美はあんたの百倍はいい子だし」

「そうねー。あんたの五百倍はいい子よ」

「でもさ。みぞれにはあんたがいて良かったと思うよ」

「もしかして……慰めてくれてるぅ?」

「はあ!?」

「はいはい、照れない照れない」

「何それ!?」

「きゃー! 夏紀が優しくしてくるよー!」

「気持ち悪いこと言うなー!」

 

 相変わらず元気の良い二人は、あれで意外と相性は良いのだろう。二人の去った渡り廊下に残されたのは二人。

 

「君も、今回はお疲れでしたね。黄前さん?」

「あ、いえ、私は全然……何も出来なかったですし」

「ま、今回のは事例が事例です。次から改善できれば良いんじゃないですか。次が無いことを祈りますけど」

「アハハハ……」

「私はこれでお役御免でしょう」

「それって、どういう意味ですか?」

「そのままです。みぞれにとって私は代替品でした。でも本物が戻ってきたら、私はもうそんなに必要とされないでしょうし。一年間寄り添い続けた吉川と私は、当然優先度が違いますから」

「……」

 

 友達なんて持ちつ持たれつ。優先度があって当然。利用しながらでも生きていくものだ。そういう風に吉川をある意味では慰めた時の言葉が自分にぐるっと回って返って来る。今度その言葉を言われるべきは自分なのだろう。自分で自分を慰めているのだ。何とも女々しい話である。

 

「まぁ、今回は吉川がいてくれて良かった。彼女がいなければどうなっていたことか」

「ですね。先輩は、鎧塚先輩の気持ち、分かったりするんですか?」

「どうしてそんな事を?」

「何と言うか、他の先輩よりも気持ちの部分に寄り添ってる気がしたので」

「そうなんですかね。自分ではよく分かりませんけど……まぁ理解は出来ますよ。独りは怖いですから。何ですかその顔は。私が独りでも平気そうに見えますか?」

「すみません……割と」

「そんな事無いんですけどね。嫌なものですよ、孤独は。外国だと猶更。言葉も、文化も、宗教も、考え方も、人種も、何もかも違う中で孤独なのは辛かったですから。一人が嫌だ、というのは理解できてしまいます」

 

 だからこそ友達を作るべく奔走して、結果それなりにいい関係を築けたのだから良かった。私にとっての大学での友人は、みぞれにとっての希美なのだろう。だからこそ、ちょっと分かってしまうのだ。孤独を恐れる、あの心を。

 

「さて、私は先生にこの件を報告します。黄前さんも遅くならないように。あと高坂さんか吉沢さんに会ったら言っておいてください。今日は悪いけどお休みにさせてもらうって。こちらからも連絡しますけど、一応ね」

「はい、分かりました」

 

 黄前さんを置いて、私は職員室に向かう。彼女の入部届を受理していいという報告をしないといけない。今日は個人レッスンをする気力にもなれなかった。みぞれを説得するために張り詰めていた糸が切れてしまったためか、どっとこれまでの全部の疲れが襲ってきた。本当は希美と話したかったけれど、別の日に回すしかないだろう。何より今日は、親友同士で話し合うべきなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 先生は諸々の報告を聞いた後、希美の部活復帰を許可した。後は本人が入部届を出せば完了だろう。その前後に井上と話すというイベントも残ってるが。まぁそこは私や姫神先輩もフォローできる。何とかなる部類ではあった。

 

 精神的に疲労したまま、トボトボと帰り道を歩く。結局機会を逸した。また今度にしようと思ったものの、じゃあその今度はいつなのか。分からないまま西日の残滓が残る帰り道を進んでいく。

 

「待って!」

 

 後ろからよく知る声が本日二度目ながら聞こえた。今このタイミングで話すとなんかダメそうな気がして、そんな言い訳をしながら聞こえないふりをする。心の中の香織先輩に土下座しながら一歩を踏み出そうとした。

 

「待ってってば!」

 

 ぐいっと手首を掴まれる。振り返れば荒い息をして胸を抑えた希美がいる。

 

「聞こえないフリしたのは謝るから、手を離して欲しい。ちょっと痛い……」

「あ、ごめん」

「そんな謝らなくてもいいけど……そこで話そう」

「分かった」

 

 私が指差した先には公園がある。そんなに大きなものではないし、大した遊具も置いていない。ベンチだけあるようなそんな小さな緑地的な公園。そこのベンチに並んで座った。

 

 どちらが話し出すか分からないまま、二人とも少しの間沈黙を保つ。でもきっとこれが最後のチャンスなのだろう。全部嚙み合わないしなんか上手く行かないし、理想の流れ通りにならないとガックリきていた私に与えられた、最後の機会。勇気を出す、最初で最後の舞台。

 

 言わないといけないんだ。あの時、言えなかったことを。例えどうなるとしても。そう背中を押してもらったんだから。

 

「「あの!」」

 

 顔を見合わせて声を出したのは二人同時だった。しかも同じ言葉を。その奇妙な偶然で、少しだけ張り詰めていた場の空気が柔らかくなった。その力に後押しされるように、私は言葉を絞り出す。先に傷つけたのはこっちだ。説得だからと言って、何をしても言い訳じゃない。たとえ相手がどう思ったとしても。

 

「あの時、もっと上手い言葉を……いや違う。もっと前から寄り添って、動くべきだった。ごめんなさい」

「私は、一生懸命私のために言ってくれたのに、酷いこと言って……ごめんなさい」

 

 少しだけ驚いた。向こうも同じような顔をしている。とどのつまり、私たちはどっちも「ごめんなさい」というたった一言を言えないままずっと一年間引きずり続けた二人組ということになる。他所から見ればとんでもなく面倒な人たちだと思われてしまうだろう。

 

「そっちがそんな事思ってるなんて、知らなかった」

「私だって分かんなかったよ。ずっと凛音は怒ってるんだと思ってた」

「そういう感情が無かったわけじゃないけど、それよりもずっと罪悪感だけが残ってた」

「私だって、最初は怒ってたけど、後でそんな資格なんかないって気付いた。何も知らないくせになんて、言っちゃいけなかったのに。ずっと子供みたいに無視して、それで今回だって迷惑かけて、色々考えてくれてたの全部めちゃくちゃにして……みぞれの気持ちにも気付けないし、私……」

 

 ポロポロと、彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちてくる。その雫は綺麗な形をしたまま頬を伝い、ベンチの木目に染みを残した。潤んでいるのに綺麗だと、そんな事を思ってしまい自己嫌悪に陥る。

 

「あの時さ。こっちも色々思ってたんだけど、一番は……悔しかったのかもしれない。一回も頼ってくれなかったことが」

「え?」

「その程度なのかってずっと考えてた」

「違う、それは違うよ!」

 

 彼女は腕で強引に涙を拭って、スッと立ち上がった。

 

「頼れるわけ、無いじゃん。私の身勝手な理想に付き合わせたらどうなるかなんて、分かってた。忙しそうにしてて、家のこと色々やんないといけない凛音にそんな事頼めない。それに、もし解決してくれたとしても全部一人で背負って傷ついてそれで叶えたいものなんかじゃ無かったの、去年の私の理想は! 今だって、疲れてるのに無理して、強がってるくせに!」

「な……! そんなことどうでも良かったのに。涼音を助けてくれた。あの時は涼音にかかりきりだったけど、私だって両親が死んで悲しかったし辛かった。でも話かけてくれたことが助けになった。私たち兄妹を助けてくれた人が、助けてって一言でも言ってくれれば、どんなに自分が傷ついても、結果それで笑ってくれればそれで良かったんだ!」

「そんなの求めてない! そんな世界で、私が笑えるわけないじゃん!」

「そんな事言ったらこっちだって、家の事とか勝手に想像して、勝手に決めつけてたじゃないか!」

 

 二人して大きな声で叫びあって。子供の喧嘩みたいなこの言い合いは、それでもあの時した口論よりはずっと良いモノに思えた。

 

「何でも分かってて何でも出来るみたいな顔してるけど、それでしっかり傷ついてるのに隠して見栄張ってるバカーーッ! 人の気持ちを勝手に決めつけてるアホ! なんか変なところで自己評価が低い分かりにくい人!」

「普段の視野は広いくせに時々狭くなるし、思い込みが強いし、一直線すぎるし、優先順位とかすっ飛ばすし、結構空気読まないし、面倒くさいときはホントに面倒くさいし、能天気だし、器用貧乏だし、熱血すぎて時々暑苦しいし、結構プライド高い!」

「そんなに言わなくてもいいじゃん!」

「そっちこそ!」

 

 はぁはぁと二人して荒い息を吐いている。彼女の涙はどこへやら、もうすっかり顔が紅潮していた。きっと私もそうなのだろう。夏の夜にこんなことするもんじゃないというのがよく分かった。声の出し過ぎで喉が痛い。

 

「何言いたかったのか、全部吹っ飛んじゃったじゃん」

「いや私のせいじゃないだろ、それは」

「もうめちゃめちゃだよ……。でも言いたかったことは言えた気がする」

「それはまぁ、こっちも。だから……長かったけど去年のアレはもう、終わりにしたい」

「うん。そうだね。……えっと、こういう時どうすればいいの?」

「分からないなぁ。こんな長引いた喧嘩したこと無いから。あ、そうそう。入部届」

「このタイミングで?」

「他にタイミングが無かった。早い方が良いでしょ、戻るなら。明日の朝七時に職員室前集合。OK?」

「分かった」

「あと、井上としっかり話すこと」

「了解」

 

 井上の件がどうにかなれば完全解決だ。先生への説明は再度明日しっかり行うし、部員への説明もこっちでどうにかする。それくらいのお膳立てはしてもかまわないだろう。その後どういう風に部活に参加してもらうかは未定だが、取り敢えずはB編成と一緒に行動してもらうことになる。斎藤先輩の胃痛の種が増えそうだ。でも意外と喜んでくれるかもしれない。そうであることを期待した。

 

 希美は入部届を受け取ると、鞄の中にしまう。そして私の前に手を差し出した。ちょっと戸惑ったけれど、その手を握り返す。人の血が通った温かさがあった。

 

「じゃあ、取り敢えず……また明日!」

「また明日」

 

 そうは言いつつ同じ方向に帰るのだから何ともしまらない。物語のように綺麗に大団円とはいかないものだ。でもそれでいいのかもしれない。私たちは物語の登場人物じゃない。今ここにこうして生きているんだ。だから、ちょっとくらいしまらない方がそれっぽいじゃないか。

 

 私たちは歩き出す。その道行は無言ではなく、道に伸びる影は縦ではなく横に並んでいる。話すのはどこかぎこちなく、それでも普通の話。すぐに完璧に、なんて上手くはいかない。それでもきっと戻っていくのだろう。在りし日のように、少しだけ相手を理解した、そんな状態で。

 

 また明日。それは今のように話す関係を、明日以降も続けていこうという意思の表れなのだろう。だからこそ彼女はこの言葉を使った。今までずっと無かった、私たちの()()を作るために。

 

 去年のあの日以来、やっと心から笑えた気がした。私たちの時間はきっと、今日から動き出したのだ。

 

 

 

 

 

 

これで良いのかは分からない。もしかしたらこの選択は間違いなのかもしれない。完全なハッピーエンドにはならないのかもしれない。だとしても、私はこの選択を貫く。

 

今度こそ、彼女とやり直す為に。もう二度とお互いに苦しまないために。勿論お互いに問題もあるだろう。彼女が私に告げた私の欠点はすぐには消えないだろうし、私が彼女に告げた部分もすぐには治らないだろう。でも傷つけ合いながらしか前に進めないなら、それでも昨日と違う明日がそこにあるのなら。私はそれを進むべきなんだ。

 

今度こそは間違えない。今度こそ、これまでのような事にはならないようにする。そう心の中に誓ったのだ。いつか全てが終わる、その日まで。

 

 

 

――彼女のその眩しすぎるほどの笑顔が、続きますようにと祈って。

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