音を愛す君へ   作:tanuu

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第三十六音 掴んだ手  Viewpoint from 希美

「本当に良いの?」

「うん。だから、今日で最後。後は大会終わるまで来ないようにする」

 

 夏紀の言葉にそう返す。本音は逆でも、確かに練習の邪魔になっていることは事実だし、仕方ないことだと思う。関西大会が終わったら、あすか先輩の言うように復帰することだって出来るはず。一番いい結果じゃなくても、今はそれだけでも実りがある方がマシに思えていた。

 

「そっか。それが……良いかもね」

 

 その迷いを含んだ夏紀の声に、罪悪感が募る。ずっと私のために一緒にいてくれた事に感謝してる。でも、夏紀だって来年は大会に出る為に練習しなくてはいけない。妥協を許さない凛音の厳しい練習メニューをこなしているのをこの前見たからこそ申し訳ない気持ちになる。それに、あのあすか先輩と凛音の冷たい目に晒させているという申し訳なさがある。私一人だったら多分どこかで心が折れていた。

 

 先生にも言いに行けない。行けばきっともう二度と関係は修復できない。それだけは嫌だから、楽な道に逃げるのを踏みとどまっていた。かといって私の問題などどうしても分からない。八方塞がりになって、思考の袋小路に迷い混んでいるのを理解しながら何も出来ないでいた。

 

 夏はもう少しで終わる。私だけがまた、この夏に取り残されてる。

 

 少しだけ、気になることを聞いた。みぞれが合宿中に集中砲火を食らったということ。それを聞いて、おかしいと思った。みぞれは確かに大人しい子だけれど、その演奏はとても心が籠っていて素晴らしいものだった筈だ。最近はめっきり交流が減ってしまったから分からないけど、少なくとも私が辞めるまではそうだった。間違ってもそんなところで集中砲火されるような演奏では無かった。

 

 最近会えてないし、明日辺りに会いに行ってみよう。何の悪意も悪気もなく、そのときはそう思った。まさか、あんな事になるなんて思っていなかった。心を揺さぶり続ける思いに、苦しみに寂しさに痛みに全て目をそらすように歩き始めた。見ないことにすれば、その悲しみから逃れられるような気がした。傷つくのを恐れて現実を直視できない醜い自尊心だった。

 

 

 

 

 

 

 

 その日はいつにも増して暑かった。階段を上り、音楽室前の廊下に目を向ける。階段から聞こえた音が確かならここにいるはず。良かった、いたいた。口に笑みを浮かべ久しぶりに会う友人に声をかける。

 

「何か久しぶりだね。みぞれ」

 

 そう言って直ぐにみぞれの目が一瞬見開かれる。その唇はキュっと結ばれ、少しだけ上擦ったような呼吸をして走り出してしまった。

 

「みぞれ!? 待って! みぞれ!」

 

 突然の事に一瞬反応が遅れたけれど、反射的に走り去ろうとしていくみぞれの手を掴もうとした。けれど、その手は何も掴めず虚空を撫でる。分からなかった。何が起こったのか。私が何かしてしまったのだろうか。混乱。困惑。定まらない思いが頭を駆け巡る。

 

 去っていくその姿はいつかの思い出をフラッシュバックさせた。また、私は私のもとから去り行く人の手を取れなかった。そんな自嘲を許さぬように、走り出し追いかけようとした私の手はグイッと掴まれた。

 

「止めて!」

「優子……?」

「どういうつもりよ」

 

 怒りに燃える目にたじろぐ。抵抗も言い訳も許さないその目には、烈火の炎が灯っていた。

 

「ちょっと、希美が何したって言うの!」

 

 夏紀の仲裁も耳をすり抜けていく。

 

「何もしてない。だから怒ってるの!」

「はぁ?」

 

 夏紀の声ではないけれど、私には何も分からなかった。何もしてないなら、どうして怒られるのか。でも、優子の目は反論も疑問も許さぬようで、それに気圧された。ぐるぐると渦巻く想いの中、駆けだすことも出来ず、私はみぞれを探しに行った久美子ちゃんと優子の背中を見るしかなかった。

 

「関係ない人は練習に戻るように!」

 

 パン、と強く手が叩かれ、凛とした佇まいのまま彼が全員に指示を出す。私たちを遠巻きにしていた人は蜘蛛の子を散らすようにどこかに行ってしまう。その姿は、声は、会いたいけど会いたくないもの。言わなきゃいけないことがあると、プールで覚悟を決めた。それでも実際に会うと、足がすくんでしまう。

 

「……さて、二人は一緒に来てもらうから」

「分かった」

 

 ここで拒んでは何も前に進まない。混乱は静まらないが取り敢えず指示に従うことにした。みぞれを探さないといけない。優子には止められたけど、私だってどうしてこうなってしまったのか、分からないなりに何かしないといけないんだ。少なくとも、何もしないでここに突っ立ってていいわけがない。

 

「田中先輩、後はお任せします」

「了解」

「ほら、君はこれでも持ってて」

 

 渡されたのは放置されていたみぞれのオーボエ。それを受け取る。彼の表情から感情は読み取れない。けれど、酷く疲れているように見えた。ズキンと心臓が痛む。きっとその疲れは私のせいなのだろうから。

 

 どこに行ったのか、まるで分かっているように彼の足取りは確かだった。全く迷うことなく、一つの場所を目指して歩いて行く。きっと、彼には私に見えないものが見えている。あの時も、今も。やっぱり私は、そんな風になれない。みぞれを傷つけた理由も分からないまま、こうしてただ後ろについて歩くしかないんだから。

 

「……はぁ。全部丸く収まるように、色々手配したんだけどな。今ので全部パーッと消えちゃったわけだ。吉川に頭下げたのがバカみたいになってくる」

「どういう、こと?」

「まぁつまりだ。これが答え合わせだよ。田中先輩の言った許可できない理由はみぞれだ。そして私の優先順位の方もついでに言うと、田中先輩じゃなくてフルートパートの方を優先しろという意味だね」

 

 その声には怒りや苛立ちではなく疲れが感じられた。それも、かなりの。そしてやっぱり、さっきのみぞれの態度が私の復帰を拒む最大の要因。でも、本当に心当たりがなくて、何も答えられなかった。

 

 紡がれるのは何故私が戻れないかの理路整然とした説明。みぞれが私にトラウマを抱えてて、調は私が戻って来るのを拒んでる。そういう話だった。

 

「この二つが許可できない理由。何か質問は?」

「みぞれは、何でそんなに……」

「こんの大馬鹿。良い? 三年間一緒にやってきて、一緒に金取ろうと約束した相手なのに、仲間だと友達だと思ってたのに、何の相談もなく辞められたんだぞ。吉川も中川も私も知ってるのに、自分だけ知らないなんて。そんなの仲間外れと一緒だろ! どういう理由か聞かないけど、君がやったの、去年の三年生と一緒じゃないか。彼女の面倒を見ろとは言わないけど、そんなの仲間に対する態度じゃない。そりゃトラウマだって抱くに決まってる」

 

 私が知る限りかなり珍しく、彼は鋭い口調で言った。声こそ大きくないものの、さっきまでには無かった怒りが溢れ出ている。その声に、一緒にいた夏紀がビクッと身体を震わせた。こんなに怒っている姿を見るには、一年ぶり。また、私は間違えた。そう、何もかも。

 

 でも言っていることは何一つ間違ってない。高校では一緒に金を取ろう。あの夏、誰もが沈んでいた帰りのバスで、私は確かにみぞれにそう言った。それはまごうこと無き約束。そしてそれを破ったのは、私。仲間外れ、三年生と一緒。何の遠慮も無く、彼の言葉は私の心に突き刺さる。

 

 プールで久美子ちゃんに意地の悪いことを聞いたときに思ったことは、間違ってなかった。私は一番なりたくなかった姿に、いつの間にかなっていたんだ。

 

「じゃあフルートパートの方は……私、別に調に怒ってなんて……」

「向こうがどう思ってるかが問題なんだよ、こういうのは。彼女は彼女なりに悩んで、その末に色々考えすぎて罪悪感と劣等感を拗らせてる。でもこっちは話し合えばどうにかなるようにしておいたから。勘違いしないでくれ、君のためじゃなくてA編成の奏者のメンタルケアのためだから」

 

 あの時の調の行動を、私は何とも思ってなかった。むしろ迷惑をかけてしまったくらいに思ってる。あすか先輩や凛音を優先して、戻るべき場所の方をおざなりにしていた。そしてそんな簡単なことにも気付けないまま、私はずっと悩んでいたのだ。

 

「元々みぞれには君と話すように説得するつもりだった。フルートパートはさっき言った通り。姫神先輩とかにも話は通してある。だから今日来なければ、戻れたんだぞ。それも割とすぐに」

 

 全部パーッと消えちゃった。そう言っていた意味が分かった。きっと彼は私を許してない。でも、私が戻れるようにはしてくれるつもりだったのだ。例えそれが私のためじゃなくて、みぞれや調のためだったとしても。

 

「……だって、私には、希美しかいないから。拒絶されたら……」

「何でそんな事言うの。そしたら何! みぞれにとって私は何なの!」

「優子は、私が可哀想だから、優しくしてくれた……。同情してくれた……」

「ばかっ! あんたマジでバカじゃないの! 私でもいい加減キレるよ。誰が好き好んで嫌いな奴と行動するのよ!」

「いたひ……」

「私がそんな器用な事出来る訳無いでしょ! 同情? なにそれ。みぞれは私の事友達と思ってなかったわけ!? 部活だってそう! 本当に希美の為だけに吹奏楽続けてきたの? あんなに必死に練習して、コンクール目指して、何も無かった!? 府大会で関西行きが決まって嬉しくなかった!?」

 

 優子の甲高い声が廊下にまでよく響いている。優子も、ずっと囚われていたのかもしれない。私と同じ、あの夏の牢獄の中に。でも今はきっともう、あそこに優子はいない。涙も枯れ果てた苦しみの季節から、抜け出せたんだ。

 

「私は嬉しかった! 頑張ってきて良かった、努力は無駄じゃなかった、中学から引きずってきたものからやっと解放された気がした! 去年あんなことになって、全部引き取って人柱みたいになった桜地が結果に笑いながら拍手してた時、何も思わなかったの? 私はもう、やっと前を向いて良いんだって思った。中学のあの夏が、去年のあの時間がやっと終わった気がした! みぞれは違う? 何も思わなかった!? ねぇ!」

「嬉しかった……。でも、でもそれと同じくらい辞めていった子に申し訳なかった。喜んで、良いのかなって」

「良いに決まってる! 良いに決まってるじゃん。だから、笑って?」

 

 いつか抜け出さないといけないと分かっていた場所。それでも私はそこから抜け出せないままだった。前を見る勇気が無かったから。前を向くには、過去があまりにも大きすぎたから。

 

「ほら、出番だ。行ってこい」

「大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 

 夏紀の問いかけに応える。けれどそれは、夏紀への返答と言うより自分へ言い聞かせるようだった。前を向く勇気、あそこから抜け出す、そんな力を自分に与えるために。

 

 生物実験室に足を踏み入れる。その埃っぽい部屋の隅で、怯えたような顔をしながらみぞれは私を見ていた。私は、自分の友達にそんな顔をさせるような人間になってしまったのだろう。そんな顔、させたかったわけじゃないのに。

 

「みぞれ……ごめんね。去年、何も言わないで辞めちゃって。ずっと、気付かないままで。さっき言われてやっと気付いた。最低なことしてたって」

「なんで……黙ってたの」

「だって…必要無かったから?」

「え……?」

「え、だって、みぞれ頑張ってたじゃん。私が腐ってた時も、誰も練習してなくても一人で練習してた。そんな人に一緒に辞めようとか言える訳ないじゃん」

「だから言わなかったの?」

「うん。でも……どんな理由があったにしてもちゃんと言わなきゃいけなかったんだなって、今は思ってる。馬鹿って怒られちゃった。でもその通りだよね。大切な友達に言わないなんて、最低だった。いっぱいいっぱいでも、やらないといけない事ってあったのに。本当に、ごめんなさい」

「私こそ……ごめん」

 

 それは偽りなき一つの本心。でも、黒い私は囁きかける。「知っているぞ。お前は嫉妬していたんじゃないか? その才能に。その境遇に」と。その声を掻き消し、否定して言葉を続ける。例え、私が綺麗な人間でも、逆に真っ黒な醜い人間でも、みぞれを仲間外れにしたいという思いだけは絶対に無かった。 

 

「私ずっと避けてた。勝手に思い込んで、怖くて……」

「みぞれ……」

「ごめんなさい」

「みぞれ……。ねぇ、私ね。府大会見に行ったんだよ。みんなキラキラしてた。鳥肌たった。聞いたよ?みぞれのソロ。カッコ良かった」

「ホント……?」

「ホントに決まってるじゃん。私、中学の時からみぞれのオーボエ好きだったんだよ。なんかさぁ、きゅーんとしてさ。聞きたいな、みぞれのオーボエ」

 

 とても眩しかった。あの頃と同じように、輝いていた。その隣に私がいないことが悔しかった。スポットライトの下で輝きたい。そういう思いが最初にあった。けれどそれは一人で輝いていたいという意味じゃない。それは、あの時叶えられなかった夢を、もう一度取り戻すためにみんなで。

 

「うん」 

 

 涙を頬に残しながら、みぞれは今まで見た中でも一番大きな笑顔の花を咲かせる。チクリと心が痛む。私にそんな顔を向けてもらう資格なんて、無いんじゃないかと思ってしまった。

 

 言葉にしなければいけなかったんだ。どんな時でも、どんな状況でも。苦しかったからと言って、それはみぞれを仲間外れにしていい理由にはならない。あの時足りなかったのは、言葉にすること。みぞれに対しても、後ろで安堵したような息を漏らしている彼に対しても。

 

 言わなくても伝わるなんて、まやかしだ。言わないと、心は伝わらない。言っても伝わらないことなんて何度もあったけど、言わなきゃ絶対に伝わらないんだ。だからもし、次があるなら。次はちゃんと言う。自分の心にある、その想いを。

 

 

 

 

 

 

 

 夕暮れに染まる空の中、みぞれと二人で音を合わせる。まるで昔に戻ったみたいに。でも、完全に昔に戻ってはいない。昔はここに私たちの光景を見つめてくれている人がいたから。

 

 多分、復帰への障害はなくなった。あすか先輩もこの件で許可してくれなかったようだし、これで、戻れることには戻れるだろう。後は調と話さないといけないけど、もう今日は遅いから明日にしておく。多分帰っているだろうし。

 

 今の状況は嬉しい。確かに嬉しい。でも、心の中にまだ、わだかまりがある。引っ掛かり続ける、心を騒がせ続けるものがある。部活に戻れても、みぞれとこうして演奏できても、それでも結局関係は変わらないかもしれない。多分そうだろう。復帰は認めると言われた。でも、全て元通りにするなんて言われていないから。

 

 贅沢な悩みなのかもしれない。自分の間違いで生まれた状況を、全部元通りにしたいなんて。それでも願うことだけでも許されるなら。私は願ってしまう。

 

 それだけが憂鬱だった。窓の外が段々と暗くなり、東の空には星が見え始める。一体どれくらいの時間こうしていたのだろう。教室の窓から下を見ると、家路へと向かうのであろう生徒の姿がちらほら見え始めた。その中に探していた人を見つける。でも、折角元通りになれたみぞれをほっぽり出して行くのも嫌で、目をそらした。

 

 今日がチャンスだと思う。今日を逃したら、多分もう機会は二度と訪れない。

 

「希美」

「えっ、あっ、うん。なに?」

 

 急に声をかけられてちょっとびっくりした。

 

「行っても、良いよ」

「え?」

「希美、追いかけたいんでしよ? ……だったら行った方が良い」

「いや、でも、みぞれを一人で残してはいけないよ。」

「二人が喧嘩してたのは、私のせいでもある」

「いや、そんな事ないよ、それは絶対」

 

 私たちが揉めていたのは、私たち自身の問題だ。絶対にみぞれのせいじゃない。多分彼が辞めないようにと説得していたのは、みぞれのことという理由もあったんだろうけれど、それは別に喧嘩の理由とは関係ない。私が、幼くて愚かだっただけなんだから。

 

「今行かないと後悔する。会えないのは、辛いし話せないのも辛い。……私が、そうだったから。希美には、そうなって欲しくない」

「みぞれ……」

「だから、行ってきて。それで、二人で戻ってきて。また、昔みたいに。フルートは預かっておく。明日、返すから」

「……うん。ありがとう」

「また、明日」

「また明日! 行ってくる!」

 

 ゆっくり手を振るみぞれに大きく振り返して、全速力で走り出す。

 

 ありがとう。本当にありがとう。そう心の底から叫び出したい。私のせいでずっと苦しい思いをさせたのに、それなのに今だって私のために送り出してくれた。走り出すためのきっかけ、最後の一押しをくれた。昔みたいに。みぞれもそう思ってくれていた事がとても嬉しかった。

 

 昇降口をダッシュで通り抜ける。周りの人から変な目で見られてるだろうけど気にしない。校門の前は坂。さっきからそんなに時間は経ってない。近くにまだいるはず。坂を下ったら道は左か右の二つ。元南中の生徒は立地的に左の道を通ってる。だとしたら!

 

 走る走る。多分人生で最高の速力が出てる。校門を出て、坂を下って、左折。また坂を下って行く。見えた。遠くにだけど、追い付ける。早く追いかけなくちゃ。見失う前に。彼の家に着いちゃう前に。

 

 歩くの速くない? と心の中で突っ込む。私が遅いのかな。全然追い付けなかったけれど、やっと追い付いた。

 

「待って!」

 

 荒い息で声を出したけど、止まってはくれない。聞こえてないのかなと思ったら、少しだけ歩くのが速くなってる。聞こえないフリをしてるんだろう。それくらい、きっと話したくないのかもしれない。そうだとしたら、それは私のせいだ。でも止まれはしない。みぞれに背中を押してもらったんだ。ここで引き下がったら、あの子にもう二度と顔向けできない。

 

「待ってってば!」

 

 ちょっと運動不足かもしれない。呼吸が上手くできないけれど、それでも彼の手首を掴んだ。ビクッとなった彼は、ゆっくりと私を振り返る。その目には、どうしたらいいのか分からない、というような表情が浮かんでいる。

 

「聞こえないフリしたのは謝るから、手を離して欲しい。ちょっと痛い……」

「あ、ごめん」

「そんな謝らなくてもいいけど……そこで話そう」

「分かった」

 

 小さな公園のベンチに座る。人影は全然ない、住宅街のど真ん中の小さな公園。夏の夕空の下、私たちは何を言うでも無く座っていた。こうして面と向き合ってみると、勇気が出ない。怖い、何を言われるのか分からなくて。それでも、もし出来ることがあるとするなら。

 

 みぞれの言ったように、なれるなら。

 

「「あの!」」

 

 その声は同時に放たれる。ちょっとビックリして、お互いに顔を見合わせる。

 

「あの時、もっと上手い言葉を……いや違う。もっと前から寄り添って、動くべきだった。ごめんなさい」

 

 彼の言葉に呼応するように、私は自分の言わないといけないことを口に出した。一年間、ずっと抱えていた想い。罪悪感によって膨れ上がった感情。それを生み出した原点であるあの時に、言わなければいけなかった、たった一言の小さな言葉。

 

「私は、一生懸命私のために言ってくれたのに、酷いこと言って……ごめんなさい」

 

 悪いことをしたら「ごめんなさい」なんて幼稚園で習うようなことだ。けれど私はそんなことも言えないまま、ずっと黙っていた。きっと、世の中の小さな子の方が私よりずっと素直で、私よりずっと賢いだろう。

 

 でもそれ以上に驚いたのは、向こうも同じようなことを思っていたということ。だとしたら、私たちは小さな子供にすら怒られてしまうような、そんな二人だったということになる。

 

 悪かったのはこっちなのに。やっぱり彼は優しい。優しくないって自分で言っているけれど、それは優しさの裏返しだと思う。本当に優しくない人は、そう言わない。平気そうに見えて傷ついてることもある人だって知ってたのに。そんな人が私にどう思うかなんて分かってたはずだったのに。ずっと見えていなかった。私の目はきっと視力が無いのだろう。

 

「そっちがそんな事思ってるなんて、知らなかった」

「私だって分かんなかったよ。ずっと凛音は怒ってるんだと思ってた」

「そういう感情が無かったわけじゃないけど、それよりもずっと罪悪感だけが残ってた」

「私だって、最初は怒ってたけど、後でそんな資格なんかないって気付いた。何も知らないくせになんて、言っちゃいけなかったのに。ずっと子供みたいに無視して、それで今回だって迷惑かけて、色々考えてくれてたの全部めちゃくちゃにして……みぞれの気持ちにも気付けないし、私……」

 

 情けない、悔しい、自分が許せない。そんな想いが募って、涙が零れてくる。なんでこんなに気付けないんだろう。自分の事を想ってくれる人は沢山いた。みぞれもそう。夏紀もそう。あすか先輩や久美子ちゃんだって事情を知っても私の事を慮って言わないでいてくれた。そして当然、凛音も。なのに、私はそれに甘えて、他の人の気持ちに鈍感すぎた。

 

「あの時さ。こっちも色々思ってたんだけど、一番は……悔しかったのかもしれない。一回も頼ってくれなかったことが」

「え?」

「その程度なのかってずっと考えてた」

「違う、それは違うよ!」

 

 思わず涙を拭って、勢いよく立ち上がる。ちょっとつんのめってコケそうになりながら、それでも私は真っ直ぐに相手を見つめた。違うことは違うってハッキリ言わないと、きっと伝わらないから。

 

「頼れるわけ、無いじゃん。私の身勝手な理想に付き合わせたらどうなるかなんて、分かってた。忙しそうにしてて、家のこと色々やんないといけない凛音にそんな事頼めない。それに、もし解決してくれたとしても全部一人で背負って傷ついてそれで叶えたいものなんかじゃ無かったの、去年の私の理想は! 今だって、疲れてるのに無理して、強がってるくせに!」

 

 ちょっと唖然とした顔をしていた彼は、すぐにムッとした顔で反論してくる。

 

「な……! そんなことどうでも良かったのに。涼音を助けてくれた。あの時は涼音にかかりきりだったけど、私だって両親が死んで悲しかったし辛かった。でも話しかけてくれたことが助けになった。私たち兄妹を助けてくれた人が、助けてって一言でも言ってくれれば、どんなに自分が傷ついても、結果それで笑ってくれればそれで良かったんだ!」

「そんなの求めてない! そんな世界で、私が笑えるわけないじゃん!」

「そんな事言ったらこっちだって、家の事とか勝手に想像して、勝手に決めつけてたじゃないか!」

「何でも分かってて何でも出来るみたいな顔してるけど、それでしっかり傷ついてるのに隠して見栄張ってるバカーーッ! 人の気持ちを勝手に決めつけてるアホ! なんか変なところで自己評価が低い分かりにくい人!」

「普段の視野は広いくせに時々狭くなるし、思い込みが強いし、一直線すぎるし、優先順位とかすっ飛ばすし、結構空気読まないし、面倒くさいときはホントに面倒くさいし、能天気だし、器用貧乏だし、熱血すぎて時々暑苦しいし、結構プライド高い!」

「そんなに言わなくてもいいじゃん!」

「そっちこそ!」

 

 口をついて飛び出すのは、お互いに子供みたいな罵倒。彼の方が語彙力が高いせいでちょっとダメージが大きい。空気を吸わないと、酸素が足りない。走った後に大きな声を出し過ぎた。きっと近所迷惑だろうと思いながら、息を吸う。

 

 やってることは一年前とあんまり変わらない。全然成長できてない自分を恨みながら、それでも少し気分は良かった。あの時の言い争いより、ずっとずっとまともだろう。お互いに遠慮しながら話していたせいで、変なところでおさまりが付かなくなったあの時に比べたら、言ってることはしょうもない話でも、ストレートに話せている。

 

「何言いたかったのか、全部吹っ飛んじゃったじゃん」

「いや私のせいじゃないだろ、それは」

 

 私も彼も、毒が抜かれたような感じになってしまった。緊張の糸はもうほどけている。

 

「もうめちゃめちゃだよ……。でも言いたかったことは言えた気がする」

「それはまぁ、こっちも。だから……長かったけど去年のアレはもう、終わりにしたい」

「うん。そうだね。……えっと、こういう時どうすればいいの?」

「分からないなぁ。こんな長引いた喧嘩したこと無いから。あ、そうそう。入部届」

「このタイミングで?」

 

 変なタイミングで渡されたその紙を受け取る。今じゃなくても良いんじゃないかな、とちょっと思った。でも、この変な空気を変えてくれようとしたんだろう。その証拠に、ちょっと笑ってる。

 

「他にタイミングが無かった。早い方が良いでしょ、戻るなら。明日の朝七時に職員室前集合。OK?」

「分かった」

「あと、井上としっかり話すこと」

「了解」

 

 鞄に紙をしまう。この後どうしたら良いのか、私には分からない。でも取り敢えず一番理想と思える方法で、全てを終わらせることにした。手を真っ直ぐ彼の前に差し出す。少し戸惑った後、それでも意を決したように彼は私の手を取った。白い肌のその手は、少しひんやりしている。手が冷たい人は、心が温かいという話を聞いたことがあった。多分、間違ってないと思う。

 

 どういって分かれたらいいのか。その時思い出したのは、みぞれの言葉。「また明日」とみぞれは言った。それは今まで無かった日常に戻るための言葉。明日も明後日も、その先も。ずっと関係を続けていくための言葉。だから私はそれに倣って、言うことにした。

 

「じゃあ、取り敢えず……また明日!」

「また明日」

 

 彼は小さく微笑んだ。私は大きく口角を上げる。でも同じ方向に帰るので、しばらくは同じ道。夜に待っていた時は、彼の後ろを歩くしかなかった。それでもあの時は、少しだけ進んだような気がした。

 

 そして今は、その列は横になる。ここにもう一人加われば、いつかの景色がまた始まる。それはきっと、明日かもう少し先には実現するのだろう。今まで変わらなかったものでも、勇気を出すだけで変えることはできる。今日、私はそんなことを知った。

 

 話したいことは沢山ある。一年分、貯まりに貯まった話の貯金。崩すのにはきっと、同じくらいの年月が必要だと思う。苦笑いも、嘘の笑いも、痛みを隠すための微笑みも沢山してきた。でもきっと、今日から。今日から私は前よりも少し大人になった笑顔で話せるはずなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 でも、ここからが勝負だ。もうあんな思いはしたくないのなら、私は自分で立てた誓いを守り通さなくてはならない。今度失敗したら、次こそ見捨てられてしまうだろう。必ず、守って見せる。現在過去未来すべての私にそう宣言した。

 

 必ずこの物語を、私たちの物語をハッピーエンドにしてみせる。物語は、ハッピーエンドが良いのだから。彼とやり直す為に。もう、彼を傷つけたくないから。すぐには直せないかもしれないけど、私の問題はしっかり見つめ合っていかないといけないのだ。でもこれからは一人じゃない。悩んでいたら、話せる相手がいる。それもきっと、今までよりも多く。

 そう、ここからは、やるべきことは一つなんだ。

 

 

 

 

――捕まえた手を今度は離さない。絶対に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。集合時間より少し早く職員室前に行く。彼はまだいない。けれどそこには、よく知っている人が立っていた。

 

「……希美」

「……調」

 

 私たちは黙ったまま相手を見つめる。その視線は決して優しいモノじゃない。でも今回は私だって言いたいことくらいある。みぞれの件は私が全面的に悪いけど、今回はそんなに悪くないと思ってるから。しばらく黙ったまま私たちはお互いに固まっていた。

 

 でも今日の私は昨日の私とは違う。きっと、今までよりは上手くできるはずなんだ。自分をそう言い聞かせて、口を開いた。

 

「あの、さ。去年のこと、ごめんね。調も巻き込んじゃった」

「謝らないでよ! 謝られたら、私の立つ瀬が無くなるから」

「じゃあ謝らない。取り消すね」

「それはそれでムカつくんですけど」

「えぇ、困ったな……」

 

 何をしてもきっとおんなじような反応が返って来るんだろう。話し合いたいと言えば話し合いたいんだけど、このままだとちょっと困ってしまう。

 

「私は希美、アンタがムカつく。だから勝負よ」

「……へ?」

「今年の課題曲と自由曲、絶対知ってるんでしょ。それで多分、練習してる」

「それは、まぁ」

「ほら。だから勝負するの。審査員は滝先生。課題箇所はオーディションでやった場所。ここよ」

 

 渡されたのは楽譜の一部分。確かに一応どっちも演奏できるようにはしていた。でも多分、調とは経験値が違う。これまで曲が決まってからずっと練習していた人と、私とじゃ当然差があるはずだ。

 

「でも、私多分そんなに上手くないよ、この曲」

「だからやるんじゃない。一回アンタに勝ってみたかった。それだけだから。多分アンタが戻って、来年の大会の時にオーディションやったら、私が負ける。それは分かってる。しょうがないとも思ってる。でも悔しいじゃない。だからこんな不公平な方法でも良いから、この曲だけは、アンタに勝ちたい。一回ボコっておきたい! 悪い!?」

「悪くはないけど……それで許してくれるの?」

「そう! アンタと同じくらいムカつくヤツに『奏者なら、音楽で殴り合え』って言われたから。殴り合ってやろうじゃないっていう話」

「あぁ、うん……」

 

 そういうこと言いそうな人の心当たりは凄くあった。そしてその心当たりの相手は廊下の影でこっちを見守ってる。隣にみぞれもいる。奇妙な二人組だった。仕掛けられてるのはかなり理不尽な勝負。多分私は調より上手くは吹けない。でもここで不戦敗するのもなんだか嫌な気分だ。やるからには本気でやる。それがきっと、調のためにもなるんだ。

 

 どっちが勝っても負けても特に何もない。でもそれで折り合いがつくなら。私は全然構わない。調とだって、いい関係を築いていきたいのだから。

 

「分かったよ。じゃあ、やろう」

「負けても泣かないでよね」

「そっちこそ」

 

 ちょっとだけカウンターを返してから、私たちは職員室の戸を叩いた。これまでの全部を、終わらせるために。

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