音を愛す君へ   作:tanuu

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第三十七音 晴れ舞台

「おはようございます」

 

 朝の職員室で、滝先生はちょっと疲れたような顔をして私の方を見た。

 

「おはようございます」

「お疲れみたいですね」

「フルートパートの勝負の審査員をしていましたので。あれは、あなたの差し金ですね?」

「まぁ、そういう事になりますかね」

 

 実際、私がやったのは井上を煽ったのと、希美にちゃんと向き合ってくれとお願いしただけ。一応隅っこで見守っていたが、お見合いみたいな時間を経てどういう訳か謎の勝負が始まってしまった。どうしてそういう方向に行くの……?というのが私のシンプルな疑問だったのだが、それはともかく。

 

 先生は朝いきなりやって来た部員に謎の時間を要求され、ちょっと困惑していたのが伺えた。

 

「フルートパート二年生の安寧の為には、これが必要手段でしたから。ちゃんと公平に審査してくれましたよね?」

「それは無論です」

「どっちが勝ちました?」

「傘木さんはあなたが言うだけあって、かなりの腕前ですね。正直、メンバー追加が出来るならしたいレベルです。ですが、今回の曲に関しては井上さんに軍配が上がるでしょう。これまでの練習量の違いだとは思いますが」

「そうなりますよね」

「これに、何か意味があったのでしょうか?」

「私には何とも。ただ、彼女たちは納得したかったんですよ。どっちかというと正確には井上の方が、ですが」

 

 希美の方が自分より上手い。それは純然たる事実であっても、そう簡単には認めたくないものだ。だけれど、心の中では罪悪感も存在している。だからこそそれを全部ひっくるめて無かったことにするためにこの勝負は行われた。井上が自分自身を納得させ、希美を受け入れるために。

 

 いわば、これは必要な通過儀礼、儀式の類だったと言えるのかもしれない。夕陽の土手で殴り合うよりはよっぽどお淑やかで演奏者らしい戦い方だと言える。これで多少は溜飲が下がるだろう。劣等感の部分はどういう形であれ勝利したことで、罪悪感の部分は戻って来るのを受け入れる事で。それぞれ解消できるのだから。

 

「ともあれ、これで現状存在していた問題は全部解決しています。何の心残りも無く関西大会に挑めるかと」

「分かりました。私も、本当は部員全員と向き合えたら良いのですが、やはり人数と時間の都合上難しいところがあります。今回の場合では、下手に介入しては拗れていた可能性が高い。あなたの存在が、大きな助けになりました」

「いいえ。私は少しサポートしただけです。吉川や田中先輩の尽力が大きかったと見るべきでしょう」

「吉川さんが……」

「まぁ先生にしてみれば問題児でしょうし、実際そういう側面もあるんですが、彼女は結構いい人ですよ」

 

 先生が彼女にどういう印象を抱いているのかは不明だが、再オーディション前のあの一件は完全に悪印象を与える原因になっている。無論あの後謝ったと言っていたが、人間マイナスになった印象を戻すのは難しい話である。なのでこうやってちょこちょこフォローしているのである。

 

 来年の人事は不明だが、吉川が大きく中枢に来るのは容易に予想できる。そもそもパートにおける三年生の人数が減ることから、三年生一人とかになるパートから部の運営要員を出すのは難しい。なので多人数いるトランペットなどが運営要員を出す候補になるだろう。よって吉川が何らかの幹部職に就くのはほぼ内定と言っていいはずだ。

 

「傘木さんの入部届は受理しました。後は、そちらにお任せして構いませんか?」

「問題ありません。万事抜かりなく、話は通してありますので」

 

 私の言葉に先生は満足そうに頷いた。この時期揉め事とか絶対勘弁してほしいだろうから、彼としてもこういう結果になったことには満足している部分があるはずだ。いずれにしても、これから希美は有効な戦力として部の一員になっていくことだろう。

 

 

 

 

 

 

 朝、部員が集合しいつもの全体ミーティングが行われる。その少し前に私と希美は部長・副部長、今後彼女が行動を共にすることが多いであろう斎藤先輩、フルートのパートリーダーである姫神先輩と合流していた。

 

「部長、昨晩報告した通り、彼女は本日から復帰です」

「また、よろしくお願いします!」

「うん、戻ってきてくれて嬉しいよ」

 

 部長はニコニコした顔で受け入れている。昨日報告した時は滅茶苦茶動揺していたのだが、今は普通そうだ。一晩でここまで立て直したんだから大したものだろう。まぁ部長からしてみればいきなり全部解決しているので「?」という感じであるのも理解できる。だが去年南中部員の慰留に熱心だった部長からすれば、過去の古傷がやっと少し癒えたような話であり、喜ぶべきことであるのもまた事実のはずだ。

 

「ホントに全部大丈夫なんだよねぇ?」

「じゃないと私が許可を出しません」

「そっか、なら私が拒む理由も無いね」

「ありがとうございます」

 

 田中先輩はどういう感情かイマイチ分からない声色で了承を示す。

 

「希美、知ってると思うけど、今のB編成組のまとめ役をしてくれてる斎藤先輩。今後は取り敢えず指示に従って動いてくれ。細かい話は全部してあるから」

「お願いします!」

「任せて」

「姫神先輩もよろしいですか?」

 

 腕組んだまま希美の事をじっと見つめている先輩に話を移す。断ることは無いだろうけれど、それでも今後数ヶ月はパート単位での行動をする時には一緒になるだろうから、挨拶はしないといけない。

 

「ま、今回の件はそっちに全部投げたし。なんか調の件もしれっと解決してるし。良いんじゃない?」

「先輩……」

「まぁさ。アンタは私たちのこと嫌いかもしれないけど、同じパートにいるんだからあと少し我慢してよね」

「そんな、私は別に嫌いだなんて思ってないです。嫌いになるほどお話しできなかったので……」

「うっ、確かに……」

「だから、今度はちゃんとお話しできて良かったです。これからまたよろしくお願いします!」

「……よろしく」

 

 ペコペコ頭を下げて回っている希美。こんな時期に戻って来るなんて結構面倒なことをしておいて、これで済んでるのだから大分楽な方だと思う。去年の件という上級生全体が背負ってる十字架が無ければ、もっと面倒なことになっていただろう。

 

 何より、ここまでの全員に話をするという作業を昨日の晩に全部やったのだから感謝してほしいところである。

 

「じゃあ、取り敢えず部長から紹介しておいてください」

「そうだね。じゃあ希美ちゃん行こうか」

「はい」

 

 部長に引き連れられて、希美と先輩たちは音楽室に戻っていく。これから行われる全体ミーティングで戻ってきたことを紹介するのだろう。少し特殊な流れなのでそれなりに手順を踏まないといけないだろうというこちらの判断だ。何より、周りから受け入れてもらいやすくなるための方法でもある。

 

「で、何ですか田中先輩」

「えぇ、なんでそんな冷たい声なのぉ?」

「大体こういう時に残ってる場合、私にとって好ましからざる話をされることが多いからかもしれませんね」

「う~ん、そんなつもりはないけどなぁ」

「発話者の意図とこちらの受け取り方には乖離があることもままありますからね」

「まぁいいけど。関西大会終わるまでは引き伸ばすつもりだったけどなぁ……まぁ荒療治であれ何であれ、丸く収まったなら良いんだけど」

「ではそれで良いじゃないですか」

「それはね。ただ、私としては曲がりなりにも部活の運営をしてる人間として一応聞いておきたい。晴香はこういう話しないだろうし」

「何でしょうか?」

「まさかと思うけど、希美ちゃんを部長にしようとか思ってないよね?」

 

 その声は鋭く、そして冷たかった。私を感情の読めない目が見据える。彼女を部長に。確かにそれは理想的かもしれない。こちらとしては非常にやりやすい相手になるだろう。吉川も昔は希美の下にいた。上手く操縦できるはずだ。それに、経験者であるというのは非常に理想的である。

 

 けれどきっとそれは閉ざされてしまった道だろう。あの時、この部を去った瞬間から。

 

「いや、無理ですよ。彼女はこの部の苦しい時期の記憶を共有してませんから。一年生はさておき、二年生が納得しない」

「分かってるなら私としてはOKだなぁ」

「割と酷いこと言ったつもりだったので、同意されるとそれはそれで困るんですけどね」

「でも事実だよ。傘木希美は所詮、部が軌道に乗ってから戻って来た余所者。そういう風にどこかで思われるのは無理ないでしょ」

「それは私も同じでは?」

「君の自己評価は知らないけど、そうは思えない。滝先生がこの部の常識を全部滅茶苦茶にする中、先生と私たちとの間を上手く取り持ちつつ先生の望む方向に引っ張って行ったわけだし、君は先生と同じ扱いだよ。だから余所者とかそういう次元の話じゃない」

 

 それはそれで少し、寂しい話だった。輪の中にすら存在していないと、私は今そう突き付けられたのだから。それに対して肯定することも否定することも出来ないまま、私は曖昧な表情を浮かべるしかない。

 

「いっそ、君が部長をやれば全部上手く行くかもね」

「ご冗談を。私には……二年生からの支持が薄いですし。支持母体が一年生じゃ、上には立てないですよ」

 

 二年生は他の人材を支持するだろう。私を嫌っている人は……まぁ井上はある程度解消したので他にはそこまで悪感情を持っていないと思う。けれど、それは私が上に立って全体を指示するのを受け入れるかという話とはまた異なる。同じ一般部員の方が仲間意識があるからして、当然そっちに立ってほしいと思うだろう。私は時には、部員と対立しないといけない立場なのだから。指導者とはそういうものだ。

 

「それに、私は今の立場がそこまで嫌いじゃないので。非常に面倒くさいですけど、それと好き嫌いは別ですから」

 

 私はそれをはっきりと口にする。正直、辛い時期の方が長かった気がするが、それでもこの仕事をしないでいるよりもずっと良かったと思っている。大変なこともあるけれど、それでも意義はある。私は今、自分のやっていることに少なからずの誇りを持って取り組んでいるのだ。

 

「さ、先輩戻りましょう。部長が怒ります」

「……それは怖いなぁ」

「大して怖がってないじゃないですか」

 

 音楽室の中では頭を下げている希美が少し戸惑いながらの拍手で迎えられていた。無理もない話だろう。大半の部員にとっては「はぁ、そうですか……」という程度の話なのだから。みぞれは見たことないくらい楽しそうな感じの雰囲気を出している。顔つきはあんまり変わらないが、あそこだけ花が咲いてるみたいになっていた。隣の喜多村先輩が若干引いてる。

 

 田中先輩の言う通り、多くにとって彼女は余所者なのかもしれない。だとしても、それは孤独である事とは別の話だ。昔はある意味で孤独に三年生と戦っていたのかもしれないけれど、今はそうではない。今度はきっと、これまでよりも良い部活生活を送れるはずなのだ。いやそうしないといけない。

 

 壁に寄りかかりながら拍手をしつつ、そう改めて心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

「ホルン。Lの全音符、もう少し下さい」

「「「はい!」」」

「トロンボーン。バッキングの縦、注意して下さい」

「「「はい!」」」

「ユーフォ。前も言ったように、Fの音は高めにとって下さい」

「「はい!」」

「あとは……黄前さん。今の演奏を忘れないように」

「はい!」

 

 関西大会を翌日に控え、音楽室の熱気は最高潮に達している。冷房が最低温度の最大風速にも拘わらず、全く冷める気配はない。それどころか多くの部員が汗を流していた。

 

「トランペットソロ、今ので感覚がベストです。本番でも今の感覚を忘れないように」

「はい!」

 

 ソロの形はどうするか。先生と散々議論した場所でもあった。今回は少しだけ自由曲の中間パートを長めにとっている。その分前半部分をハイテンポにしていた。僅かな感覚だけれど、音楽にはその細部の差が大きな影響を持って現れる。

 

「では、今の点に注意して本番のつもりで最初からやります。もう一度言います。本番です」

 

 本番前日の最後の演奏練習。努力の結晶を関西各地から集まった猛者達にぶつけるその時まであと24時間を切った。夏のほぼ全てを捧げてきた成果を見せたい。その思いは共通のものであろう。

 

 思えば不思議なものだ。たった12分。僅かなそんな少しの時間で運命は分かれる。悲しみに沈む者。喜びに湧く者。勝利を勝ち取る為の確実な方法など分からないが、それでも、努力は報われると信じている。ここにいる、全員が。

 

 今行われている最後の演奏練習は、現状出しうる最大限の実力を出し切っている。無感動だったオーボエは見違えるようになり、それに引っ張られるように全体の実力も向上している。あの音を聞いて、怠けていられる奏者などどこにもいないだろう。

 

 今までならいざ知らず。ここにいる全員は、全国大会に挑むに相応しい態度と精神を持った奏者だ。今それを否定する存在は、どこにもいないだろう。仮にいたとしても、何としてでも取り消させてみせる。

 

 最後の一音が空中に消えた後、先生は静かに手を下ろした。私は無言でそれに頷く。これ以上のモノを出すのは、現状無理であろう。そう思える演奏だった。

 

「いいですか、皆さん。明日の本番もあまり難しく考えすぎないでください。我々が明日するのは、これまで練習でやってきたことをそのまま出す。それだけです」

「「「はい!」」」

 

 明日の本番における結果。それは私の家庭事情にも関与してくる。当然、それは意識の片隅に存在していた。けれど今となってはもうそんなことはどうでも良かった。彼らの努力がきちんと報われてくれれば、それでいい。そういう気持ちになっている。

 

「音楽における練習というのは、突き詰めてしまえば一秒前の自分より上手くなるということだと、私は思っています。他人がどうこうではなくて、自分と戦う。そういう作業だと。究極の自己対話です。しかもそれは練習段階では悲観的に行わないといけない。自分を肯定してあげたいところをグッと堪え、粗探しをする。非常に厳しい作業です」

 

 自分との戦いこそ、練習の本分だと思っていた。昨日の自分より上手くなる。今の自分より明日の自分が上手くなる。そういう積み重ねが少しずつ足されて、最後の結果に繋がる。そうやって私は挑んできた。勝ちたい相手がいても、その目標にたどり着くまでは結局自分と戦うしかないのだから。

 

「ですが皆さんは良く耐えてきたと思います。我々の厳しい悲観的意見にも耐えました。あとやるのは本番で楽観的に振る舞うことです。まぁ難しいかもしれませんが、心の中で唱えてください。本番こそ楽観的に! よろしいでしょうか」

「「「はい!」」」

 

 楽な戦いではない。相手は皆どこも強豪ぞろい。全国大会を目指していない学校など、存在しないだろう。上に、もっと上に。そうやって青春全部を捧げてきた存在が、明日の相手だ。けれど気持ちで負けていては、勝てる戦も勝てはしない。精神論は嫌いだが、努力の末に最後の勝敗を分けるのは多分、精神じゃないだろうか。 

 

「それから、夏休みの間コーチをお願いしてた橋本先生と新山先生は本日が最後になります」

「「「えー!」」」

「最後に一言、お願いします」

「約三週間。短い間でしたが、確実に皆さんの演奏は良くなったと思います。その真面目な姿勢は私自身、見習うべきものがたくさんありました。明日の関西大会、胸を張って楽しんできて下さい」

 

 クラリネットのパートリーダーが泣き始める。そんな今生の別れみたいな感じにならなくてもいいと思うけれど、それだけ熱を込めたという証でもあるのだろう。厳しい指導でも、思い出にはなるものだ。それが真剣な物であれば尚更。

 

「えぇっと、僕はこんな性格なので正直に言います。今の北宇治の演奏は関西のどの高校にも劣っていません。自信を持っていい。この三週間で表現がとても豊かになりました。特に、鎧塚さん!」

「はい」

「見違えるほど良くなった。何かいいことでもあったのー?」

「……はい!」

「おー、いいねー! 今の彼女のように明日は素直に自分たちの演奏、やりきって下さい。期待してるよー!」

「うぅ……はしもっちゃん……」

「何泣いてんのよ?」

 

 男泣きする田邊先輩。周りの女子は苦笑気味だが気持ちが理解できていないわけじゃないだろう。自分より悲しんでいる人がいると涙が引っ込んでしまう、そういう現象だと思われる。

 

「起立!」

 

 部長の号令に、一斉に起立する。私も背筋を伸ばし壁から離れる。彼らの指導には学ぶべきところがたくさんあった。是非とも盗ませて貰おう。その感謝も込めて言うことにする。

 

「ありがとうございました!」

「「「ありがとうございました!!」」」

 

 

 

 

 

 

 今日の練習は割と午後の早い段階で終わる。現在時刻は午後六時を回った。先生も私も、今日はお互い仕事を早めに切り上げてさっさと帰宅している。早く家に帰ろうと思ったのだが、そういう訳にもいかない状況になっていた。

 

「まだなの……」

「もうそれ十五回目くらいだぞ」

 

 私の家のダイニング。テーブルの上には私の携帯が置かれている。そろそろ南中の関西大会における結果発表が行われる頃だ。メンバーは現在吹部にいる元南中の二年生部員。希美、みぞれ、吉川の三人だ。中川も南中ではあるが、吹部には入っていなかったので今日は来ていない。

 

 今日が中学A編成の大会というのは皆知っていたようで、結果を気にしていた。私も現地に行きたかったのだが、流石に大会の一日前に休むわけにはいかず、涙を飲んで練習に参加していたのだ。現地には私の従姉の雫さんが行っている。結果が発表されたらその旨の連絡をすぐ入れてくれるようにお願いしてあった。妹は壇上でトロフィーなどを受け取るだろうから、きっとすぐには連絡できないからである。

 

 気にしていた三人は今日が比較的早く練習が終わるのも相まって、こうして私の家で結果待ちをしているのである。何とも言えない宗教儀式みたいな雰囲気を醸し出していた。椅子に座った我々四人は無言のまま携帯を凝視している。

 

 希美はソワソワしているし、吉川はさっきからまだなのかと何回も言っている。ちょっといい加減いたたまれなくなってきたのでお茶を入れようとしたその瞬間、携帯が鳴り響いた。恐らく自分の人生で最速レベルのスピードを出しながら、通話ボタンを押す。

 

「も、もしもし!」

「はい、聞こえてますよ」

「やりました、やりましたよ! 涼音さん大金星です、全国です!」

「ばんざーい!」

 

 思わず叫んでしまう。同じように悲鳴のような声を上げている三人組はちょっと放っておいて、電話を続けた。

 

「マジですか?」

「マジです! と言うか誰か近くにいるんですか?」

「あぁ、それは気にしないで。いやぁ、よくやりました。もう今日は奮発しましょう。帰りにケーキでも寿司でも何でも買ってきてください!」

「了解です!」

 

 ざわざわとした背後の音声にも負けないくらいの喜色に満ちた声音のまま、彼女は電話を切った。残されたのは揉みくちゃになっている女子高生が三人と、飛び上がった時に机に脚をぶつけたのが今更になって痛くなってきた私である。

 

 正直自分が大会で優勝した時より嬉しい。これが北宇治にも追い風になってくれることが期待できる。同じ宇治市に存在している強豪校同士、なんとなく同じ勢いのまま全国に行って欲しい。

 

「南中が全国……全国大会……!」

 

 吉川はもう涙でわけわからん顔になっている。これで外には出れないだろう。明日自分の学校が全国に行った時に出す涙の分は残っているのだろうか。希美も目を抑えている。この前と言い今日と言い、最近彼女は泣いてばっかりだ。どっちも我々兄妹が原因なので何とも言えない気分になる。みぞれは泣いてないけれど嬉しそうな顔をしている。彼女も何度かさりげなく応援してくれていた。

 

「君ら泣いてる組二人、ちょっと顔洗ってきなさい。洗面所は右曲がって突き当りを左に行ったら三番目のドア開けてすぐ右のドアだから」

「分かりにくいわよ!」

 

 そう突っ込みながら吉川は希美を連れ立って出ていく。全然泣き止む気配が無い。本当に明日大丈夫だろうか。とは言え、気持ちは分かる話だった。あの夏果たせなかった夢。それが現実のモノになったのだから。後輩たちに託した夢、或いは残してきた呪い。それらは全部この瞬間に解けたと言っても過言じゃないだろう。

 

 特に、今の南中三年生世代は直接接した最後の世代だ。そんな子たちが夢を継いでくれたことの嬉しさは、察するに余りある。涼音も少しは肩の荷が下りたのではないだろうか。牢獄のように南中を縛っていた鎖は、やっと解除されたのかもしれない。

 

「良かった」

「本当にその通りだ。涼音も、これで少しは報われる……」

「二人ともありがとう」

「……何が?」

「涼音ちゃんは私たちの夢、叶えてくれた。あの時言った通り。『私が必ず南中を全国に連れていきます』ってそう言ってたから」

「そうなのか……」

「それと、凛音の方も」

「私?」

「そう。私と希美のこと、色々してくれようとしてたんでしょう? 優子から聞いた」

「あー、それはまぁ、結局動く前に片が付いちゃったからあんまり意味はなかったけど」

 

 私の言葉に対し、彼女は静かに首を横に振った。

 

「動こうとしてくれたことが、嬉しいから」

「……そっか」

「そう。後、凛音は希美の代替品じゃないから」

「それも吉川に聞いたのか?」

「優子がそう言っちゃったって、ちょっと後悔してたから」

「別に良いんだけどな、気にしてないし」

「……」

 

 みぞれは少しだけ眉をひそめた。私の返答が気に入らないとでもいうように。あんまり怒ったり否定的な感情を出すことが無いだけに、その態度に対する上手い対応法が思いつかない。謝ろうにも、何が悪かったのかを考えないで謝ったらきっと火に油を注ぐだけだろう。私もあんまり希美の事を言えない人間なのかもしれない。

 

「あー、気にした方が良かった?」

「私は、誰かを代わりなんて言ったりしないし思ってない」

「そ、そう……。それは……ごめんなさい」

「うん」

 

 分かればよろしい、とでも言いたげな態度で彼女はまた元の表情に戻った。

 

「ちょっとー! 洗面所どこなのよーっ!」

 

 半ギレ気味の吉川の声が響く。割と大きい家なので、場所によってはここまで声が聞こえないことが良くあるのだが、彼女の声は随分とよく通るようだ。自分の家なのに初めての体験である。

 

「ちょっと助けに行きますか」

「あの……」

「なに?」

「お手洗い、どこ?」

「……ご案内します」

 

 家が無駄に広いのも考えものだ。和風建築の癖に増改築を繰り返したせいで若干迷路になっている。無駄に廊下も多いし、よく分からん中庭まである。ホラーゲームに出てくる屋敷じゃないんだし、誰がこんな設計を許可したのか。数代前の先祖に怒り心頭である。この前なんて友人に零というホラーゲームに出てくる氷室邸という屋敷になぞらえられてしまった。住んでる方からすればいい迷惑だ。

 

 取り敢えずどこにいるのかよく分からない吉川と希美を救出しつつ、みぞれをお手洗いへ案内することにした。人もおちおち招けないことに若干ガックリしながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日朝早く、学校には大勢が集合している。本番の会場は兵庫県にある。順番は午後からだとしても、そんなに余裕があるわけじゃない。余裕をもって行動することを考えれば、朝は早めに行動しないといけないのだ。私の従姉は今日も今日とて車を飛ばして兵庫県まで来るらしい。泊っていれば良いのにと言ったのだが、一回家に帰って妹を直接祝いたかったらしい。本当に色々買ってきていた。

 

「おはようございます」

 

 音楽室で部員の集合を待っていると、緊張した面持ちの高坂さんは固い顔で挨拶をしてくる。

 

「おはよう」

「高坂さんかたーい」

 

 彼女の後ろからにゅっと手が伸びて、グニグニと高坂さんの頬をこねた。柔らかそうにムニュムニュされている高坂さんの顔は随分と愉快なことになっている。自分の準備をしながらチラリと視線を送っていた黄前さんが目線を逸らして爆笑していた。

 

「よ、吉沢さん、ちょっと、待って、顔が……」

「良いぞ、もっとやってあげなさい。君は随分と余裕そうだけど」

「そんな事無いですよ。メッチャ緊張してます。でももっとヤバそうな人がいたので、あぁ割と私は大丈夫だなって思えました」

 

 高坂さんの頬から手を離して、ニコニコと吉沢さんは笑っている。揉まれた高坂さんは若干疲弊していたが、それでもさっきまでのロボットみたいな感じはない。

 

「それに、私は全国行けるって信じてますから。あれ、高坂さん信じてないの?」

「そんな事無い! 滝先生と桜地先生に教わって、全国行けないなんてありえないから」

「そっか。私もそう思うよ。ね、いい加減そろそろ麗奈ちゃんって呼んでもいいかな?」

「別に……構わないけど」

「ありがと~。私も秋子って呼んでね~」

「秋子……さん」

「う~ん、まぁ今はそれでいっか」

 

 トランペット二人組はわちゃわちゃしながらそのまま準備を始める。春頃に比べれば随分と仲良くなった。高坂さんの成長に思わず涙が出そうになる。彼女の両親はどこかで演奏を聞いているのだろうか。私が教えていい成績を出してもらわないと、高坂さんの父親に絞められそうなのでそういう心配も若干あったりする。

 

「あの二人、元気だなぁ」 

「お前は元気ないのか、滝野」

「いやそんな事無いけどよ。……不安はある」

「大丈夫だろ。なんだかんだ、お前はコンスタントに上手くやってるよ。私を信じろ。トランペットのプロフェッショナルだぞ」

「あぁ……そうだな。南中も全国行ったみたいだし、俺らも追い風に乗っていかないとな」

「そうそう。……待てよ、何でお前が知ってるんだ?」

「あ……あぁアレだよアレ。ネットニュースで見た。色々調べてるとお勧めニュースみたいなのが吹部関連になるからな」

「なるほどそういう」

 

 若干怪しいが、まぁ今はそれで良しとしよう。言っていることは間違っていないのだし。そうしている間にも、部員たちは続々と登校してくる。十数時間後には、その明暗が分かれていると思うと、府大会以上に気が重い。

 

 府大会は洛秋と立華と残り一枠に入れればいいという話だった。だが関西は違う。今年の他校の演奏をみっちり聞いていないので単純比較はできない。持っている演奏データも各県大会のものだけだ。当然夏の間にどこの学校も仕上げている。引けは取らないはず。それしか今は言えなかった。

 

 不安はある。けれど自分が言ったことを自分が守れていないようでは示しがつかない。私はあくまでも楽観的に。そういう風に振る舞うように言ったし、私自身もそうするべきなのだ。誰もが本気だ。誰もが、全国に行きたいと思っている。その望みを叶えに行く舞台まで、あと数時間だった。

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