音を愛す君へ   作:tanuu

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第四音 出発

 吉川の説得を終え、家路につく。春の空はすっかり黒く染まり、まだ満月から少し欠けた月に薄雲がたなびいている。こんなに夜遅くなったのは久しぶりだ。部活というのは、生活リズムに大きな影響を与える。やるべき家事をやる時間を変更しないといけない。

 

 両親亡き今、我が家の食事は私が担っていた。今までは帰りがけにスーパーにより、その後夕方に作っていた。ただ、今後はそれでは間に合わなくなるだろう。朝早く起きて、準備しないといけなくなる。弁当の準備も妹と自分の二人分あるので、作業量が増えるからだ。

 

 買い物は……最悪同居している従姉に頼むしかないだろう。今年29歳の画家である従姉のおかげで私たちは家に住めている。彼女が身元を引き受けているし、離れたところに住んでいる後見人である叔父からの支援を管理してくれる。収入は家計に入れてくれているので、それで食べられている部分も大きい。私の稼ぎでは、家を維持できない。

 

 玄関の引き戸を開ける。まだ妹は帰ってこない。ギリギリまで粘って練習しているのだろう。その間に夕食を作ることにした。作業を始めて数分後、玄関のドアが開けられる音がした。暫くすると、妹がダイニングに顔をのぞかせる。

 

「お帰り」

「ただいま。……兄さんは、お友達?」

「ちょっと違う……いや、違わないか。明日から多分、同じくらいの時間になる」

「何か始めたの?」

「戻ることにした」

 

 私の言葉に、妹は信じられないという顔をしてこちらを見つめた。唖然とした、という形容が一番ふさわしいであろう表情には、困惑も見て取れる。

 

「あの吹部に?」

「そう」

「本気? あんなとこいたってどうしようもないって自分で言ってたのに。私もそう思うけど」

「涼音がそんなに言うことないだろ」

「希美先輩を追い出したトコに言う言葉なんて、そんなで十分だよ」

 

 冷たい声で言い捨てていた。妹・桜地涼音はかつて南中吹奏楽部フルートパートで、希美の後輩だった。辞めたのは希美自身の意思ではあるが、追い出されたという表現もあながち間違いではない。彼女の中では、希美は辞めさせられたに近しい。恩義のある人が不遇を被っていたらいい気はしないというのは理解できた。

 

「現状では何も変わってない。だけど、今年の新顧問に頼まれてしまった」

「戻って、吹けって?」

「いや、全国に行きたいから指導を手伝えって」

「なに、それ……。兄さんは指導者じゃなくて奏者でしょ? 北宇治の吹部って非常識しかいないの? 希美先輩だけじゃなくて、兄さんまで馬鹿にしてるなんて……もし無理やりなら、私から抗議する」

「いや別に無理やりじゃないから。納得して、そうすると決めた」

 

 妹は無言だった。こちらを沈黙しながら見ている。私が無用な嘘を吐いていないのか、疑っているのだろう。そして、はぁとため息を出した。

 

「まぁ、好きにしたらいいと思うよ。兄さんの人生だし……余計なこと言って重しにはなりたくないし」

「重しだなんて」

「いいからいいから。じゃ、ご飯出来たら呼んでよ」

 

 彼女は強引に話を切り上げて、部屋へ戻っていった。葬式で泣かなかったことを責められたあの日から、少しだけ嚙み合わなくなった歯車はずっとそのまま。見えないようにして、穏便に終わらせるように努めて、私たちの間には薄いベールがかかっている。あるいは、もっと前からすれ違ったままなのかもしれない。たまたまアレが、起爆点だっただけで。

 

 内も外も、問題だらけだった。

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

 最近色んな人を呼び出してばかりな気がする。しかししょうがない。お尋ね者、とは言わないが決して大っぴらに吹部の人の近辺をウロウロするわけにはいかない。どんな噂を立てられるか分かったものではないからだ。

 

 吉川は自分で呼び出せたが、年上ともなればそういうわけにはいかない。吉川に頼んでもいいのだが、あまり頼りすぎてもいけない。彼女に仕事をしてもらう時期は必ずいつか来ると踏んでいる。それまで、あまり借りを作らないようにしたい。

 

 そこで使えるのが先生だ。部内において、頭一つ抜けた存在であるのは明白。三年生であろうと呼び出されば来るし、言われた場所に向かうだろう。ここで吉川の情報とセットで考える。海兵隊の練習はほとんどされていないが、部内に不満が溜まっている。そろそろ先生を呼びに来るだろうという話だった。つまり、部長が先生を呼びに来たところを利用すればいい。その時に「その前に向かって欲しい場所があります。副部長も一緒に」という風に言ってもらえばいいのだ。

 

 思い立ったが吉日。吉川説得の翌朝、さっそく学校に行ってこの話を頼んだ。これがすまないと、本格的に動けない。責任者に話を通しておくのは大事なことであった。先生はそこまでするべきか悩んでいたようだったが、この辺の力関係は私に傾く。何故なら、向こうは頼んでいる側であるから。私はこういう負い目に対し、一切容赦しないつもりである。

 

 そして、先生の指示に従って、空き教室に部長と副部長がやってきた。

 

「どうも、ご無沙汰しております」

 

 私は腰掛けていた机から立ち上がり、丁寧に頭を下げる。年上への敬意は必要だ。特に、この場合は。部長は目を丸くしているが、副部長の方はすぐに何らかの結論を出したようだった。

 

「なるほど……そういうこと、か」

「え? え? 私だけなにも分かってないの?」

「先生がわざわざ誘導してってことは、一つでしょ。つまり、先生は戻るように言った。違う?」

「大体はその通りです。流石の御慧眼ですね、田中先輩」 

「でもキミが戻ってくるとは思わなかったなぁ。そういう無駄なこと、しないと思ってたよ」

「無駄、になるかはまだわかりませんがね。それに、ただ奏者として戻れというわけではないのです。それだったらむしろ、お二人より中世古先輩に話を通します。ですが、今回の案件に関してはお二人の方が相応しかった」

「どういうこと?」

 

 部長は疑問符を顔に浮かべている。このお人よしの部長は割と簡単に説得できる。問題は副部長の方。それは最初からわかっている。協力しろと言っても多分無駄。であれば何をすればいいのかは決まっている。不干渉を決め込んでもらえるようにするだけだ。

 

「先生は私に頼みました。全国大会に行く、手伝いをしてほしいと。私の演奏ではなく、私の音楽に関する能力を貸してほしいという意味です。もっと言えば……この部活に音楽指導をしろ言う意味ですね」

「……それ、本当の話だね?」

「嘘を吐くメリットがありません。私は誠実ですよ、いつでも」

 

 副部長がため息を吐いて、頭を抱えている。基本は飄々としている田中あすかの珍しい光景だった。小笠原部長に至っては目が白黒している。

 

「滝サン、本気だね」

「本気?」

「考えてもみなよ、晴香。曲がりなりにも『先生』が生徒にそんなこと頼むと思う、普通。逆に言えば、そんなことをしてまでも上に行こうとしてる。これは私たちの認識が甘かったね。他の子たちの認識はもっと甘い。黙らせられるような相手じゃない」

「そんな……。でも、もう言っちゃったよ、来てくださいって。どうしたら……」

「取り敢えず今回はやるしかないでしょ。多分、けちょんけちょんに言われると思うけど、もうしょうがないねこれは」

 

 部長はこれから先の悲観的な未来を見たようで、肩を落としている。

 

「部長。田中先輩の仰ったように、恐らく先生は本気です。これから、多くの問題事項が発生するでしょう。改革がなされる過程での痛みのはけ口は部長になると思います。つまり、先生への文句クレーム愚痴不満。これらは最終的に全部部長に集中するでしょう。『部長でしょ、なんとかしてよ』と」

「……」

「ですが、私を受け入れることでその負担が減る、ないしはなくなります。これが提示できるメリットです。なにせ、もっと先生に近く、一番不満をためる三年生からすれば下級生だから強く出れる存在が私なのですから」

 

 部長の忌避したい未来の具体的な姿をはっきり口にしてイメージさせる。彼女の見たくない未来を見せていく。多分、具体的な誰かの声を伴って再生されているだろう。そののちに、先ほどの未来を解消できる可能性を提示する。そうすれば、揺れるはずだ。

 

「わ、私は先生が言うなら……。でも、また桜地君を犠牲にして……」

「犠牲などとは考えなくて大丈夫です。去年のことは、自分で決めたことでしたし、今年のこともそうですから。私はいつでも自分で決めたことをしています。自分で決めたことは、曲げないのが信条ですから」

「なら……またよろしく」

 

 瞳はなおも揺れているが、言葉はしっかりとしている。あぁ、この人も部長なんだと思った。これなら大丈夫だ。今年の部活は、何とかなる。一番上がこの人なら、最終的にはどうにかなるだろう。去年のぼんくらに比べれば百倍マシだ。去年の面子も、最後にいい仕事をしてくれた。初めて感謝した。

 

「ま、部長がいいなら私もいいけど。ほら、みんなを集めてきな」

「あー! もうこんな時間!」

 

 部長は慌ただしく教室を出ていく。その背中を見送りながら、この部屋に残った副部長の方を向く。そのメガネの奥の表情はいまいち読み取れない。光の具合のせいなのか、先ほどまでの部長を気遣いつつ振舞っている姿とはまるで違うようだった。もっと冷静に、冷徹に。どちらが本性なのか、いやどちらも本当の彼女なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「それで、何のお話です?」

「これからどうするつもり?」

「どうする、と言われましてもね」

「君は無意味なことはしないでしょ。少なくとも、何か目指すべきところを意識して動いている。去年だって、あの三年生たちから他の一年生を守るっていうのが最終目標だったみたいだし」

「過程において盛大に失敗した結果がこれですけどね。ただ、過程はどうあれ結果は果たせましたから及第点でしょうか。私は昔からどうも過程はボロボロでも結果だけ出すタイプの人間なので」

「だからこそ、今回だって何か策があるからこうして呼び出したんでしょう? 単なる挨拶なわけがない」

「まぁ……そうですね。ちゃんと意図はあります。まず先日吉川を説き伏せました。吉川は声が大きい」

「物理的に?」

「分かってて言ってますね? まぁ確かに物理的な声の大きさが無関係かと言われれば微妙ですけど。ともあれ大事なのはそっちじゃない。発言力が大きくて、影響力が高い。そして、パートの中で一番のうるさ型だった。だから、説き伏せました。それで居場所をつくれる」

「この後部内で確実に君に対していい視線は向けられないだろうからね。あからさまに敵意だって向けられる。その時に逃げ込む先をつくる、ってことか。香織は優しいからねぇ。守ってくれるだろうし。優子ちゃんがウンと言えば他の二年生は何も言えない。一年生はまだ染まってないし、年功序列で黙らせられる。先生と違う立場だからの工夫、ってところかな」

「ご拝察の通りです」

 

 この人には隠し事が難しい。私はどちらかというと思考法としてこの人に似ている。人間関係を理性で作っていくタイプだ。私も昔はこんなではなかった気がする。もう少し、普通にしていた。ただ、それではいられないことが多く、こんなになってしまった。今の自分は嫌いではないが、好きでもない。好きになる理由は、特になかった。

 

「部長に話を通したのは、部長ならウンと仰るからです。情と利益で攻めれば、多少なりとも負い目を感じているはずの部長は頷くしかない」

「晴香が負い目を感じてない可能性は?」

「そういう人は多分、部長になれないでしょう。そして副部長の貴女には私の味方にならないまでも、クレームの封殺くらいはしていただきたい。説得は、お得意と思いますから」

「え~期待されてないってこと?」

「私への全面的な協力、という面ではですが」

 

 この人は自分のパートはなるべく守ってくれる。そうしないと火の粉が降りかかって面倒だから。そういう意味では悪い人ではない。力を持っている人がそれを使うのを好まないならば、普段は使うべきではない。使わざるを得ない状況まで、置いておくべきだ。まぁそもそも、この人も普通の高校生なのだから頼り切りもよくはないだろうが。

 

「先輩への利点はただ1つ。吹ける時間を増やすことです。部内のゴタゴタに囚われる時間を排除すれば、演奏時間は増える。夏に引退だったのを全国まで行ければ10月まで引き延ばせる。そして、副部長の仕事を私に投げれば、その時間も使える。この後、先生と揉めれば確実に開かれるパートリーダー会議。正直どう思ってます?」

「……内緒にできる?」

「言うメリットがない以上は黙っています」

「正直だね。まぁ、本音を言えば無駄だと思う。どうせ結論なんて出ないし、玉虫色の解答しかしない。愚痴の吐き出し合いで終始するだろうね」

「分かりました。それも何とかしましょう。これが私の提示できるメリットです。その代わり、私に対しての文句・クレームは封殺してください」

 

 これが多分最適な行動だろう。吉川を使ってトランペットパートに居場所をつくる。部長は文句を言う部員にも強く出れないが、こちらにも強く出れない。副部長がクレームを封殺してくれれば、不満を持った部員もどうしようもなくなる。中世古先輩は優しい。拒む選択肢を持つのは難しいはずだ。三年生の大きな顔役がこの状況となれば、他にも強く出れる。そもそも、後ろには先生がいるのだから。

 

 先生の仲介役をやるしかないだろう。あの先生は多分、そこまで口が良くない。生徒の心情把握にも疎いだろう。何故なら私にあの提案をしてきた時の態度がそんな感じだったからだ。私の心を、提案前に考えていなかった感じがある。

 

 これまでの前提条件が全部満たせれば、次に攻勢を仕掛けるのは一年生だ。意見を求められることは少なく、部内では影響力の少ない一年生であるが、まだ染まってない間は素直に言うことをきく。ついでに、年齢で強く出れる数少ない相手だ。ここを抑えて、二年生に硬軟織り交ぜて接し、三年生は数名の先輩を通しつつ硬めに接する。私への印象は良くないだろうが、部の実力は上がる。

 

「まぁいいよ。私にしてみれば十分な利点だし。ただ気になるのはどうしてそこまでするのか。それが知りたい」

「何故?」

「う~ん、君は私と同じだと思ってたんだよね。吹ければいい、自分が演奏出来ればそれでいい。改革とかなにそれ、なんでそんなことしないといけないの? みたいな感じ。楽器が吹ければそれでいい。奏者として、部に関わるって。だから辞めたときは驚いたわけだけど」

「私はそこまで自己本位ではありませんよ。二年生の大半を守ることには成功したから辞めただけです。ここにいる理由も無くなり、いる意味は無くなった。それだけですよ、辞めた理由なんてのは」

 

 大した理由はない。ここに来たのも、ここを去ったのも。戻るのだってそうかもしれない。ただし、自分の決めたことを守る、という信条だけは堅持している。逆に言えば、決めたことと他人との約束以外は別に守らないわけだが。

 

「先輩は仰いましたね、集団はパンドラの箱だと。ですからこじ開けて、希美たちはそこから飛び出してきた不幸を浴びて、辞めた。まだ暴れてる厄災を私が浴びて封じ込めました」

「確かに、三年生はいなくなった。けどまた新しい災厄が補充されているかもしれないけど?」

「そうですね。なら、私がまた全部吐き出させます。そうすればパンドラの箱には希望だけが残るでしょう」

「その結果で傷ついても?」

 

 その目は細い。彼女はきっと私を見透かそうとしている。彼女が去年結局見透かせなかった私を。それがこの問答だろう。彼女にとってこの時間は必要ない。メリットを提示し、それを向こうが受けた時点で話は終わってもいいはずだ。これは彼女の知的好奇心なのかもしれない。あるいは、不安材料の潰しか。

 

「傷つく? 私が? 何故傷つかないといけないんでしょうか。そもそも、皆勘違いしている。私は確かに去年傷つきました。けれどそれは三年生との対立やその間であった諸々の事項ではないのです。友人と喧嘩したから傷ついただけ。というより、なぜあんな口だけ一丁前のくせに奏でる音は雑音以下の年だけ食った性悪に傷つかないといけないのか分かりません。あんなの、大したものではないです」

 

 私の言い切った言葉に、相手はやや唖然とする。私のメンタルは、こんなことでは折れはしない。少なくとも、この部にいる多くより不幸な経験は味わったつもりだ。誇れるようなものではないけれど。

 

「お話は終わりですか?」

「うん、もういいよ。大体分かったから」

「そうですか。では、戻りましょう。そろそろ時間です」

 

 私には相手が何を理解したのか、それは分からない。だがそんなことは私にとってはどうでもいいことである。大事なのはただ一つ。現状の目的を達せられるかどうか。それだけなのだ。そしてそれは可能そうである。ならばそれでいいのだ。

 

 

 

 

 

 先生に連れられて、音楽室へ向かう。ここまで来て言うのも今更であるが、やはり気は進まない。それでもやるしかないと決めてここにいる。嫌だと思う気持ちは無くならないが、それを態度に出したりはしない。

 

「まずは私が紹介します。最後の確認です。問題ありませんね?」

「はい。覚悟はできています」

「分かりました。よろしくお願いします」

 

 先生はガラガラと音を立て、音楽室の扉を開けた。先に先生が部屋に入る。私は少しの間外で待機だ。気分はさながら転校生。転校、という言葉に嫌な記憶と、懐かしい記憶と……色々なものを思い出す。中三の夏休み明けに転校した日のこと。その時出会った人のこと。なんとも不躾な言葉をぶつけてきた彼女が、妹の先輩であると知るまでにそう時間はかからなかった。

 

 遠い日の残影が、目の前をちらついていた。避けたいことが目の前に近づいているからこその現実逃避なのかもしれない。

 

「今日は皆さんの演奏を聴かせてもらう最初の日ですね。よろしくお願いします。ですが、その前に一つだけ連絡があります。この部の目標、全国大会を目指すためには多くのことが必要です。練習時間、皆さんの技量などなど。そして、指導者の存在を欠かせません。無論私も尽力しますが、万全を期すにこしたことはありません。そのため、優秀な奏者にお願いをしました。一度断られたのですが、無理を言ってお願いしました。どうぞ、お願いします」

 

 扉を開け放ち、多くの視線を一身に集めながら教壇へ向かう。音楽室の扉は後方に設置されているので、必然的に多くの好奇や驚愕・驚嘆の視線に晒されながら向かわねばならない。チラリとみれば、一年生は誰?という顔をしている。二・三年生は愕然としている。

 

 昨年の出来事はまだ、この部活に重くのしかかっている。吹部に絶縁状を叩きつけた身で、どんな顔して戻ってきているんだといわれれば返す言葉もない。肝心の先輩たちは決して恨みや憎しみ、怒りを感じている様子ではない。これならばまだ、可能性はある。

 

「ご存知かもしれませんが、改めて自己紹介を」

「2年3組、桜地凛音です。どうぞ、お願いします」

「彼は非常に優秀な奏者です。最年少でハンブルクの音大に入学し、その後多くの賞などを獲得しています。トランペットの大会で優勝したのが4年前。それ以後、誰も勝てないまま今に至っています。多くのプロ楽団から勧誘を受けるような奏者ですので、必ず皆さんの演奏力を向上させてくれるでしょう。ちょうど、今日合奏できるということで、今日からお願いすることになりました」

 

 困惑と混乱が場に満ちていく。だが、混乱してばかりもいられない。今日のメインイベントはこれではないのだから。私の存在はわき役、ついでのイベントに過ぎない。

 

「では、合奏してみましょうか」

 

 先生の言葉に、多くが慌てて楽器を構える。

 

 そして、振り下ろされた手と共に演奏が始まった。行進曲であるこの曲は愉快に、歩き出したくなるようなテンポを持つ。簡単な曲ではあるが、独特の良さを持っている。初歩的な曲として知られるが、決してつまらない曲というわけではない。むしろ、こういう簡単な曲こそ、出来ていなければ目立つ。

 

 演奏が始まる。だが、私はこれを演奏と呼ぶのに抵抗があった。聴くに耐えない。随所々々でミスがある。ズレも多い。ダメなところを指摘すればキリがない。フルートはズレと音漏れがひどい。クラリネットは途中で吹くのを辞めている。吹いていないで、指だけ動かして誤魔化そうとしているときもある始末。トロンボーンはリズムが合ってない。低音は他パートに引っ張られそうになっていた。それよりもまず音が弱いパートが多い。出ていないとかではなく、ヘナヘナしている。

 

 くすんだ色の音だ。分かっていたことではあるので驚いたりはしない。近所の幼稚園生の方が、多分頑張って演奏するだろうというのだけはわかった。

 

「はい、そこまで」

 

 明るい顔をしている人はいない。自分たちが下手であることは自覚しているはずだ。でなければもう上を目指すのは無理だろうから。自分の立場を自覚していない人間に、成長はない。一年生は表情が色々だ。オロオロしているのは初心者か。経験者は軒並み苦い顔。理由は敢えて言うまでもないことだった。

 

「何ですか、これ?」

 

貼り付けたような顔で、酷く冷たい声がする。そこにこもっているのは呆れか失望か。いずれにせよ、その声はこの部屋を凍らせるには十分すぎるほどの威力を持っていた。

 

「部長。私、言いましたよね?合奏できるクオリティになったら呼んで下さいって」

 

それは言外にそんなクオリティでは無いと明確に告げていた。部長だけのせいではない。むしろ、部長はよくやっている方だろう。この現状にしては、だが。

 

「すみません……」

 

 その謝罪の声は憔悴と無力さが感じられた。

 

「皆さん、合奏って何だと思いますか?」

 

 答えるものは皆無だった。このような簡単な問いにすら彼等は答えられないのか。それともここの空気が解答を妨げるのか。

 

「では塚本君」

「ああ、はい。ええと……」

 

 哀れにも指名されてしまった一年生のトロンボーンの奏者は言い淀みながらも答える。

 

「みんなで音を合わせて演奏すること、ですか?」

 

 そうだ。その通り。それ以外に何があると言うのか。そして音が合っていない時点で、これは合奏ではない。

 

「そうですね。しかし、各パートあまりに欠陥が多くて、これでは合奏になりません。あなたたちは今日まで一体何をしていたんですか?」

「ちゃんと練習やってました!毎日みんなで音合わせて!」

 

 思わず言葉を発したのは、トロンボーンのパートリーダーの野口先輩だった。抗弁にしては苦しかった。本人も自覚があるのだろう。彼とてもうトロンボーンを何年もやっているはずだ。この演奏がダメであることは理解しているはずだ。

 

「っていうか、どこがダメだか具体的に言ってくれないと分かりません!」

 

 トロンボーンパートの三年から援護の声が上がる。生け贄の羊が決まったようだ。その反撃の矛先は今も貼り付けた笑顔のままであった。

 

「そうですか。わかりました。トロンボーンの皆さんはこのメトロノームに合わせて最初から吹いて下さい」

 

メトロノームの音が響いて音が鳴る。圧倒的練習不足が露呈していく。集団のなかなら紛れてミスや練習不足が多少分からなくなっても、このようになれば簡単に分かってしまう。尻すぼみになる音に対して変わらぬメトロノームのリズムは処刑の時になる鐘のようだ。

 

「はい、そこまで。皆さん、この演奏を聞いて良いと思った人?」

 

 結論の決まりきった問いが投げ掛けられる。

 

「良くないと思った人?」

 

 遠慮がちだった挙手の手はやがて全ての人の挙手へとなっていった。

 

「私はトロンボーンだけでなく、他のパートも同じだと思いました。聞くに堪えないものだと。改めて他の皆さんに問います。今まで何をしていたのですか? 今のあなたたちは最低限の基準さえ満たせていません。正直聞くに耐えない代物です。でもそれでは困るのです。あなたたちは全国に行くと決めたんですから。最低基準の演奏はパート練習の時にクリアして頂かないと。これでは指導以前の問題です。私の時間を無駄にしないで頂きたい」

 

 実際、先生も部活運営は労働時間外で行わされている。もし部活が無ければ先生の時間は大きく増える。

 

「何か、感想は?」

 

 先生はこちらを見てくる。途端に視線は厳しくなる。先生ならば言われてもしょうがないが、お前に言われるのは……という声が聞こえてきそうだった。年の近い、或いは下である人間に何か言われるのは気に入らない。そう思われているようだ。だが、そこまで気にもならない。

 

「音楽において、美しい音とそうでない音を区別する言葉として楽音と噪音があります。定義は色々ですが、広義の意味の場合前者は音楽に用いられる音全般を指します。そして、後者は聞き手が不快あるいは邪魔だと感じる音を指します。この演奏がどちらか、言うまでもないでしょう。演奏というのすら、もったいない。これは騒音です。音楽などでは、断じてないと私は思います」

 

 平然と言い切った私に、うなだれる人、キッと視線を向ける人様々だ。前者はやりやすい。後者の考えを変えるのは大変そうだ。この時間だけで対応を変えるべき人々があぶり出されていく。便利な時間だった。

 

 私の言葉が終わるのを待って、先生が続きを引き取る。

 

「先程、私の時間を無駄にしないでくれと言いましたが、最終的にある程度は仕方ないのです。顧問であり、教師である以上、ここに時間を割くのは義務ですから。しかし、彼は違います。義務もなければ、給与も無いのに善意でやってくれています。良いですか、雲の上のような、それこそ私よりもずっと実力のある集団が是非にと思うような相手の、真っ当な指摘を睨みつけるなど以ての外です。彼とて暇人ではありません。練習もせず遊んでいる皆さんと違って仕事も入っています。また、彼は奏者として舞台には立てません。たとえ、皆さんが全国へ行っても、彼はその舞台に立てないのです。そのような相手に向ける態度がそれですか? それは演奏以前に人としての礼儀の問題です」

 

 先生は先ほどよりも力を込めていった。私を引っ張り出してきた以上、先生もそれに報いようとしてくれているのだろう。私がここにいる意味を見出せるように。

 

「今日はこれまでにして、来週の水曜日にもう一度合奏の時間を取りましょう。以上です」

「あ、あの!」

 

 今にも教室を出ていこうとする先生を中世古先輩は立ち上がり引き留める。

 

「あの、サンライズフェスティバルの曲は……?」

「あなたたちはそういうことを気にするレベルにありません。来週、まともなレベルになっていなかったら、参加しなくて良いと私は思っています」

 

予想通りというべきか。こちらをちらりと見る中世古先輩に困ったように肩をすくめる。その顔は暗かった。

 

失礼。その一言を残し、この場から彼は去っていった。教室からは多種多様な不平不満が聞こえる。

 

「何なの、あいつ」

「今年から来たくせに。毎年、恒例のサンフェスに出なくて良いとか言ってさぁ」

「部長、絶対言った方が良いよ」

 

そこで自分がいかないのは臆病と言うか何と言うか。正しいと思うなら自分で抗議するべきだ。そして部長が失敗したら責めるからの顧問への不平不満までセットで行われる。

 

「はいはいはーい! とりあえず、各パートで一回話し合おう。それからパートリーダー会議で話し合う形じゃないと、意見がまとまらないよ」

 

 副部長の声に全員がいったん収まる。事実、どこかで収拾を付けないといけなかった。この静寂に乗っかる形で、私のやりたいことをさせてもらおう。

 

「一年生に連絡です。明日の放課後、楽器を持ってここへ集合してください。時間は16時半。よろしくお願いします。後、会議の時間が決まったら教えてください。私も参加を希望します」

 

 副部長のメガネがキラリと輝く。動きだしたな、と言いたげだった。どこか愉快気に、私のやることを見ようとしている。どこからか、参加希望に対する疑問や不満の声が聞こえてきた。曰く、「なんで桜地が……」「パートリーダーでもないくせに……」と。

 

 先生がいない分、次の標的は私だろう。先生より立場が弱いのも、攻撃したい場合好都合だ。そんな彼らに応えるように、私は、もしかしたら少々不気味な顔になっているかもしれないが、極力笑顔で口を開く。

 

「パートリーダーではないのに申し訳ないと思っております。ですが……サンフェスに関して、先輩方のためになる提案がありますから」 

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