第Ⅰ音 ロボット
私、桜地涼音が部長を務める南中吹奏楽部が狂い始めたのは、確かにあの時だった。府大会前のオーディション。あそこから全部の歯車が軋み始めた。けれど戻れない。今更戻れない。自分の進もうとしている道が栄光ではなくて崖っぷちに向かっているのではないかと毎日思いながら、私は生きていた。
いつの日か、これはきっと破綻するのだろうと分かりながら。私は賢くなんて決してない。ただ他の道を、今までの自分と言う殻を破れなかった、ただの臆病者だ。
朝の学校は憂鬱な場所だった。その蒸し暑い日も変わらず、いつにも増して気分は優れない。色々なものが積み重なって、私の身体は不調を訴えていた。
「おはようございます」
「「「おはようございます!」」」
私が音楽室のドアを開けた時、部員は全員揃っていた。一斉に立ちあがって挨拶をされる。そんな事をしろと頼んだ覚えなんてこれっぽっちも無いのに、いつの間にか出来ていたルールは私の知らないところでドンドン拡大して、いつの間にか部長ですら止められない領域に達していた。
管理不足、と言うのが正直なところだろう。止められないところに来るまで気付かなった私の責任だ。
「座ってください。何度も申し上げていますが、そのような挨拶は不要です。私は一部員にすぎませんので。それでは本日の練習についての伝達事項をお伝えします」
私が紙を取り出している間も、一挙手一投足も許されないような苦しい空気が蔓延している。それは私に対する何らかの崇敬の行動であるはずなのだが、本来それを向けられている事になっているはずの私ですら、その大きな空気に監視されているような気分になって来る。
まるで見えない操り手、ビックブラザー的存在がこの部活にいて、私たちを監視し操っているかのように。そんな感覚を覚える。あらかじめ顧問からもらっている予定を再確認するだけなのでさほど難しいことではないのだが、その間も皆ペンを動かしている。何か聞き漏らしたら私に厳しい罰を受けるかのような態度だ。
きっとこれは正しくない。こんな状況は間違っている。それは理解している。けれどもう止められない段階まで来ていた。それに、全体の空気が重いだけで各パートは普通にやっているはずなのだ。決して誰かを仲間外れにしたりなどしてないし、初心者だって順調に練習できる環境を整えている。初心者に経験者と同じ実力を強制したりもしていない。成長を見守る事こそ、今後を担う世代には大事なアプローチのはずなのだから。
部活の演奏も順当に上手くなっている。けれどどこかで、道を踏み外しているのではないか。そういう懸念がずっと消えなかった。
「間もなくオーディションとなります。各員十全の備えの上、怠りの無いように」
「「「はい!」」」
「あがた祭りもありますが現を抜かすこと無きようお願い申し上げます」
「「「はい!」」」
「以上です。各自朝練習に移行してください。解散」
「「「ありがとうございました!」」」
壇上を降りるとき、カツンと音がする。意図して鳴らしたわけでは無いけれど、一番前に座っていたクラリネットの一年生がビクンと身体を強張らせる。いつからだろう、こんな風に見られてしまったのは。
部長としての理想像に設定しているのは希美先輩だ。去年の部長がダメだったとは言わないけれど、やはり部長像として挙げるなら希美先輩になる。それほどまでに私の人生においてあの人は尊敬するべき人だった。愛し奉る人だった。
二年前の夏。両親が死に、親族に絶望し、その死を悲しんでいないかのような兄に怒り、私は呆然と部屋に閉じこもっていた。それを救い出してくれたのは、あの光のような笑顔だったのを、今でも覚えている。勿論、今では兄さんのあの表情は決して余裕などでも無ければ悲しんでいないわけでもなく、気丈に振る舞うしか私を守る術が無かったのだと理解していた。
それでも、好きになれないまま。あの時突き付けた多くの言葉のナイフを、私は未だに罪悪感と共に抱えていた。兄さんは悪いことをしていない。いつも私のために行動してくれている。それなのに、素直になれない。いつか見放されるんじゃないかと思いながら、ずっと変えられないままでいた。
何よりそんな兄さんを好きになれないでいる冷たい私が、一番嫌いだった。
「先生。以上伝達は致しました」
「そう、ご苦労様。問題は?」
「些事のみです」
「なら良いわ。何かあっても、なるべく自分たちで解決しなさい。それが自主性を育てることになるんだから」
「承知しております」
新しい顧問。確かに音楽スキルは高い。指導も的確であるのは事実だ。ただ性格面に難があることを除いては。部に問題があるとすれば、何よりこの人の指導じゃないだろうか。言っていることが正しくても、言葉が正しくなければ伝わらない。時々ヒステリックになるのも面倒くさい人種だった。
しかも問題にはノータッチを貫いている。今まで大きな揉め事に発展していないが、それでも何かあっても頼れはしないだろう。報告しないとそれはそれでまた怒られるだろうから、しょうがないので報告するだろうけれど、きっと言われるのはいつもと同じ言葉。自分たちでどうにか出来ないから言っているのに、それをまるで分かっていない。飛ばされたんじゃないか、この人と最近では思うようになってきた。
兄さんの学校にいる滝先生。人間関係把握や空気を読むという行為はしてくれないらしいが、新米顧問なりに頑張ろうとしている姿勢はあるらしい。しかも形ばかりではなく、本当に自主性を重んじているが放置しているわけでもないと聞いた。ウチの顧問に爪の垢を煎じて飲ませてほしい。出来れば交換してはくれないだろうか。そうすればきっと、部内の空気も幾分かマシになるだろう。
私自身が良くない空気の元凶であることは理解しながら、そんな風な責任転嫁に走っている。
兄さんは、桜地凛音は物心ついたころから私の先を走っていた。いつだって優秀で、何でも出来た。成績も、運動も、音楽も、それ以外の習い事も。私は年の差もあったけれど、いつだって後を追うだけ。両親は自分のペースでと言ってくれるけれど、それは両親だけ。そんな優しい両親、特に母親と自分の祖母が言い争いをしているのを私は良く知っていた。
そんな中でも兄さんはスッと私を違う所に連れ出してくれた。音楽を始めたのだって、兄さんがやっていたから。これは後追いじゃなくって、単純にカッコよかったからだった気がする。お母さんのトランペットを、まだ拙いなりに演奏している姿は、私の憧れだった。
そう。追い付き追い越せと叩かれながらも、私は兄さんに憧れていた。プレッシャーが無いわけじゃなかったけれど、尊敬する相手として見ていた。今だって、その能力自体は尊敬に値すると思っている。そんな存在を純粋な眼差しで見れなくなったのは、小学校に入って、二年生になった頃だっただろうか。
「おい、お前。桜地の妹だろ」
突然やってきた上級生はヘラヘラした顔で私の見てきた。誰かも分からない年上の相手に、私はただ怯えるだけだった。後でわかったけれど、彼らは所謂いじめっ子。クラスの女子にやっていたところを兄さんに注意され、それで誰から聞いたのか、腹いせに妹である私を攻撃しに来たのだった。
ランドセルは蹴られ、私自身も叩かれたりした。教科書に落書きされたし、買ってもらったペンケースはトイレに捨てられた。最後に吐き捨てられたのは、「金持ちの娘なんだからまた買ってもらえよ。アイツと同じ目で見やがって、ムカつく」みたいなそんな言葉だった気がする。正直、何もかもショックでそこまで鮮明に覚えていないけれど。
誰も止めてはくれなかった。上級生には、勝てないから。先生も問題にしたくなくて、見て見ぬふりをしていた。私に味方はいないんだってことが分かって、そして泣きながら家に帰った。けれどきっと、祖母と喧嘩して疲れているだろうお母さんを余計に心配させてしまう。だからやられたことは黙っていた。でも……兄さんには隠せなかった。私の態度を見て何があったのか全部分かったらしい。
「なぁ、涼音」
「……なぁに」
「アイツにやられたんだろ」
「……」
「先生は?」
「あなたが黙ってれば良いから、黙ってなさいって」
「……。じゃあ、なんで母さんに言わないの」
「心配、させちゃうから」
「そっか……よし、俺に任せとけ」
任せとけと言ってどうするのか、その時はさっぱり分からなかった。ただ翌日は学校を休むようにと言われて、ずる休みをした。そして、その間に兄さんは学校でその人と私の担任を叩きのめした。私には誰も詳しく教えてくれなかったし、兄さんも何も言ってくれない。けれど一つだけ分かったのは相当大問題になったということだけ。
お母さんもお父さんも学校に呼ばれて、色々長いこと話してた。最終的にはお互い不問にすることで手打ちになったらしい。らしいと言うのは、結局詳しく知る前に両親が亡くなってしまったから聞けずじまいだったからだ。両親と兄さんがいない間、私の面倒は当時大学生だった雫さんが見てくれたのを覚えている。それと、翌月から私のクラスの先生が代わったけれど、それにどんなメカニズムがあったのか、イマイチ分からないままである。きっと、一生教えてはくれないのだろう。
夜遅くになってやっと帰って来た兄さんはちょっと疲れてた。
「涼音、大丈夫?」
「大丈夫だけど……兄さんが」
「俺は大丈夫だよ。けどまぁ、今回一つ分かった」
「え……?」
「何事も、やり方次第何だってこと」
「やり方、次第?」
「そう。同じ結果でも、方法が違えば受け取り方が変わる。相手をボコしたければ……直接殴ったら負けなんだ。殴るべきなのは心で、するべきなのは拳じゃなくて言葉と相手の心を読む方法を鍛えること。敵を倒すには、まず味方を作らないといけない。それと、自分のやったことを正しく見せるための、言葉の使い方だな」
「……?」
「ま、気にしないで。もう、アイツは来ないから」
私の質問に答えた時の顔はゾッとするほど冷たかった。それがきっと今の兄さんの根本に存在している。昔はもっと、明るく元気で真っ直ぐと言う感じだったけれど、今ではすっかり大人びている。あの時からずっと、兄さんの精神は大人に近しいところにいた。全て、私のせいで。
宣言通り、もう私に火の粉は降りかからなかった。それと同じ頃から、兄さんは学校に全く行かなくなった。代わりにずっとトランペットの練習をしていた。狂ったように、一日何時間も、全く休むことなく。いつしかあんな風になれと言われていた兄さんは、一番なってはいけない存在として桜地家の中で扱われるようになっていた。
そして、私の前からもしばらくいなくなることになる。
返って来た時は、もう昔の面影はほとんどなかった。今の様子に非常に近い感じだったと思う。基本冷静で、相手の心を読むのが上手くて、コミュニケーション能力や人間関係の把握能力が高い。笑ってるんだけどそれが本心か分からない、そんな顔。穏やかそうで、自己犠牲的で、自分が好きじゃなさそうな顔。それまでの姿とは大きく違う。何もかも。きっとあの日、私がおかしくしてしまったんだろう。そんな風に思っている。今でも、ずっと。
兄さんがいない間、私に降り注いでいた言葉はずっとその否定。両親以外から降り注ぐその言葉を私は甘んじて受けていた。両親は忙しい人だ。だからあんまり家にいないことも多い。雫さんも同じように忙しい。私はその間に習い事を沢山詰め込まれていた。当然、その先生たちは家の息がかかった人間。言ってくることは全部、親戚や祖母の意向を反映したモノ。
自分でも自覚している。兄さんへの反抗心の根本的なところは反抗期とかそういうものとは別に、その苛烈な洗脳に近い何かがあるんだろうということに。人を導く人に、人の上に立つ人に、人を支配する人に。名門にして栄誉ある千年の血脈の頂点に。そういう教育は、ずっと続けられた。兄さんが戻ってくるまでの四年間。
お母さんと祖母が揉めるのが嫌で、私はずっとその環境に抗わずにいた。そしてそれは、私を決定的におかしくした。だから私は希美先輩というモデルケースが現状にそぐわないと自覚しながらも兄さんをモデルケースに出来ないでいる。
それは浴びせられたモノの影響であり、今の兄さんを真似することは過去に変わらざるを得ない環境を作った私の責任を追及されているような気がするからでもあり、そして単純に素直になれないからでもある。
過去の思い出は、今の現実を塗り替えてくれるほど優しい温もりに満ちたモノじゃなかった。結局何も変わらない。むしろ今存在している問題点をより突き付けられただけだった。
どうしたら、兄さんと昔のようになれるんだろう。どうしたら、私は自分のやりたいように振舞えるのだろう。それが分からないままだった。
「フルートパート、桜地涼音」
「はい」
オーディションの結果発表を待つ間、私は自分の過ちと向き合わざるを得なかった。過去はいつでも私を傷つける。いつでも、いつまでも。希美先輩ならどうしただろう。先輩をモデルケースに出来るほど私は出来た人間じゃないのに、そして今のやり方にそぐわないだろうに、私はいつまでも作り上げた先輩を追っている。
そうしていれば、なんとなく頑張ったような気がするから。そうしていれば、今の間違いもまだ先輩に及ばない未熟さが原因だと、根本的なところから目を逸らして問題をすり替えることが出来るから。全部自覚していて、そして止められない。
私は臆病者だった。
「クラリネット、北山タイル」
「はい!」
パートはクラリネットに移っている。北山君は副部長だ。私に遠慮しているところがあるようだけれど、普段の彼はもっと自信満々に振る舞っている。きっと嫌われているか、恐れられているかの二択だった。
「以上、七名」
顧問の言葉にワッと泣き崩れる声が聞こえる。三年生の、クラリネットの子。元々中学から始めた初心者だった。激戦区のクラリネットでは落選することはよくある。それは学年に関係なくだ。勿論トランペットや他の楽器でもそう。フルートは全員マイ楽器持ちの少数精鋭なので基本そういう出来事とは無縁だった。
三年生が落選すると言うのはままある話だった。けれどいつも通りに終わらなかったのは、そこで彼女が黙って泣き崩れたままでは無かったこと。そのまま発表終了と共に音楽室から走り去ってしまった。
全員の視線が私に刺さる。こういう時の指示くらいしたらどうなのか、と顧問に向かって視線を送っても、気付いていないようである。腹立たしいと思いながら、それでも顔と声はいつも通りになるよう努めた。
「ただちに55人の演奏ができるよう、椅子を移動してください」
嘘だろお前、と言う顔を顧問が向けてきたのが印象的だった。何をこの人は期待していたのだろうか。私のやり方なんて分かっているはずなのに。今すぐ彼女を追って駆けだすなどしない。それは上に立つ者のやる事じゃないだろう。彼女は府大会までの間はB編成。A編成がメインなのだから優先順位はそちらの指示を出すことにある。
「ぶ、部長、あの山口さんは……」
「私が行きますのでご心配なく。北山君は、ここで指示をお願い致します」
「あ、あぁ、そういう事なら了解」
「えぇ、お願いします」
私はそのまま出て行った彼女の後を追った。大体こういう時行く場所なんて相場が決まっている。人のいない教室だ。特別教室は大体部活が使ってる。そうでなくても先生がいることが多い。女子トイレはない。惨めすぎるからだ。
教室や図書室も排除できる。なら行くべき場所は、この学校だと一つだけ。皆が音楽室から出てこないと分かってるからこそ行ける場所。音楽倉庫だ。倉庫の扉を開ければ、案の定中に人影がある。求めていた人物であることはすぐに分かった。
「戻りましょう」
「……」
「関西大会まで行ければ、オーディションは後もう一回あります。全国大会出場となれば、後二回。いずれにしても、まだ機会はあると考えます。その気持ちは拝察しますが、後輩に動揺が走っているのはよろしくない状況です。戻ってはいただけませんか」
「部長には、分かんないよ」
「何がでしょうか」
「気持ちなんて、分かるわけないじゃん! ずっと出来てたんだから。部長が出来なかったことなんて一回も無い、一年生からずっと大会メンバーな人に、私の気持ちなんて分からない!」
「そうかもしれません。不用意な言葉でした。もし気分を悪くされたようなら、謝罪します」
「謝らないでよ、私が悪いみたいじゃん! 部長の言ってることもやってることも、全部正しいよ、正しいから……苦しい。完璧すぎて、正しすぎて、人間じゃないロボットに怒られてるみたい……!」
彼女は私の方を睨みつけるような視線を送って来る。その感情の原因が落選にあることは理解している。そうなった場合、私でもショックを受けるだろう。だからそうならないように練習を重ねていた。当然、努力できるのには環境が大事であることなんて百も承知だ。
彼女は彼女なりに努力をしている。親が受験勉強についてうるさく言っていることも理解している。私の家のように防音室が存在しているわけでもない。人には人の環境があって、それの中で皆最大限頑張っている。なので彼女の努力不足と責めるつもりはない。
「私のことは嫌いでも結構ですが、三年生である以上他者に配慮した行動を取ってください。努々、後輩に八つ当たり等すること無きように」
「そんな事しない!」
「分かっております。ですが、念のために申し上げました。昨年のようなことは避けたいですので」
「……」
昨年存在した、落選した三年生が後輩に嫌がらせをした事件。それ自体はきっと、オーディションのある学校ではまま発生する事件なのかもしれない。思えばあれもクラリネットパートだった。人数が多いからこそ、問題児が集まる傾向にあるのかもしれない。
ともあれ、このままここに籠られては困る。私も練習に戻りたい。彼女がここに立て籠っていると、練習にも支障が出る。彼女の後輩たちは露骨に影響を受けるだろう。それは避けたかった。今は一分一秒が惜しい。悲願を叶えるのに、あらゆる努力は惜しんではならないのだ。
「あなたを心配している人がいます。気持ちの整理をつけたらで構いませんので、戻ってください」
「部長は、心配してないくせに。コンクールメンバー以外、どうでもいいんでしょ」
心外な言葉だった。けれど、きっと私の行動がそういう言葉を言わせてしまったのだろう。
「そんなことはありません」
「……どうだか」
そう言って彼女はスッと立ち上がって倉庫の外に出て行った。顔を拭いながら、その足で音楽室に戻っていく。これでひとまず当座の事態は解決したと見て構わないはずだ。どっと疲れが出てくる。人は見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かない。結局、何をどんなふうに言ったとしても拒絶している相手には言葉など届かないものである。
「部長、大丈夫ですか……?」
「義井さん、何をしているのですか? 音楽室の準備をお願いしていたはずですが」
「あ、それはもう終わりました。北山先輩が、ちょっと休憩を挟むからって。それで様子を見てきてほしいとお願いされました」
「承知致しました」
「あの、山口先輩は……」
「恐らく戻ったのでしょう。当面はこれで良いはずです」
「ぶ、部長」
「何でしょうか」
「苦しく、ありませんか?」
「……何が?」
「そ、その在り方です」
彼女は私に少し怯えるような、それでいて私をいたわるような目線を向けてくる。そんな視線を向けられる事自体が失格だった。上に立つ者は人に慕われても恐れられてもいい。ただ舐められてはいけないし、間違っても案じられてしまうようではいけないのだ。それなのに、私は希美先輩になれないどころかこれまでの規範すら逸脱した印象を与えてしまっている。小さく拳を握った。爪が掌に食い込む痛みが走る。
「私、部長の事尊敬してますし、好きです。去年も、今年の初心者事件も……沢山私を助けてくれました。でも、私は何も出来てないです、何かしたいと思ってもいつも全部片づけてしまって。でもそれって苦しくないですか?」
「その心意気はありがたく思います。ですがもし、義井さんが私に何かしたいと思うならば、より一層研鑽に励んでその実力を向上させ、次代の南中を担う人材になってください。それが何よりの貢献です」
彼女は納得できていない、と言う顔をした。けれどそれ以外にかける言葉は見当たらない。
去年というのはクラリネットで起きた八つ当たり事件だろう。あの最大の被害者は一年でメンバー入りした彼女だった。その事態を最初に発見したのが私であり、抗議したのも私だった。結果として今の彼女は部活に残ってくれている。それだけで問題ない結果になったと言えるだろう。例え、加害者側がどうなっていたとしても。けれど助けたのは私のため。この部のため。彼女でなくてもきっとそうしただろう。そんな行動に一々感謝をする時間があれば、練習してくれた方がいい。
初心者事件は今年の問題だった。アレはそう、四月も終わりの事。初心者は足手まとい。そういう冗談めいた発言が一回飛び出たことがあった。それは断じて看過できる発言ではなく、直ちに訂正するように求めた。あの辺から、今の空気感が出来上がっているように思える。彼女はその発言にひどくショックを受けていたようだったので、私に何らかの恩を感じていてもおかしくはないと思う。けれどそれも、別に彼女のために行った行為じゃない。
「私が苦しかろうと、それは特段関係のない話です」
「関係は……あります。何かを犠牲しないといけない部活なんて、おかしいじゃないですか。部長の努力が実らないのに犠牲だけ増えていくなんて……」
「義井さん。努力とは、人の見えないところでも行うものです。見られていようがいまいが、評価されようがされまいが、変わらず行うものです。私は感謝されたり、崇められたりするために努力をしているわけではありません。当然、認められなくとも評価されずとも私は変わらず必要な行動を実行します。結果を出すために、私は努力をしていますから。ですので、そのような心配はせずとも構いません」
「……分かりました。すみません」
「謝罪する必要はありません。さぁ、戻りましょう。そろそろ休憩時間も終わりのはずですから」
「はい」
彼女は基本的に真面目な人間だ。真面目で、優等生気質である。去年は一年生のまとめ役を担い、今年は中間学年として三年生と一年生の橋渡しを担っている。けれどその背景にあるのは承認欲求。自分の行動に対する感謝が欲しい。そういう感情が見え隠れしている。
それに応えることは簡単だけれど、易々と望むものを渡す行動が正しいとは思えない。彼女の献身は部活のためになるけれど、それは求めてやったものではなく自発的にやったものだ。あのプライドがどこかでへし折れないように、ほどほど現実は感謝されるばかりじゃないということを学んだ方がいいんじゃないか。私はそう思っていた。
彼女の努力が報われないことは今後もあるだろう。或いはその方向性に自信が持てなくなることも。その時に塞ぎ込んでしまわないように、私は今から釘を刺した。それは来年度に部活の中心になる存在への牽制であり、また呪いなのかもしれない。
私は部長になる際のモデルケースとして希美先輩を設定した。そういう風に言って、自分を騙している。本当は違う。目指していることにしていれば、自分がそれになれなくても実力不足と言う言い訳を作れるからだ。だから矛盾している行動でも、自分に余計な責任を負わなくていいように、行動が間違っていると思わずに済むように、私はいつもいつも、希美先輩はこうじゃなかったと呪いのように呟いている。それは一種の現実逃避なのかもしれない。
本当の私は空っぽ。私のやりたいようにやるということはできない。何故なら、私にはそのやりたいことが、少なくとも人を導かないといけない立場の上ではほとんど無いから。それを生み出せないのは、ずっと創意工夫よりも完璧な模倣を求められていたからだろう。けれどそれは現実にそぐわなかったり、私自身の人格とそぐわないことも多い。そのせいでいつも己の行動に苦痛を感じている。特に、部長として振舞っているときの行動に。
こんな風になるのならば、部長なんて引き受けるんじゃなかった。時々、そう思ってしまう弱気な自分がいる。それはいつも叩きのめしていた。希美先輩に約束したんだ、必ず私が夢を叶えると。それだけは空っぽの私の中に在る、唯一残ったやりたいこと。その手段は分からないけれど求めている結末だけは決まっている。
一見すれば、それがやりたいことならそれで良いじゃないかとも思える。けれどこれは人から与えられた理由だ。希美先輩から与えられた理由。行動動機。良く言えば託された夢。悪く言えば、残された呪い。だから真の意味で私のやりたいことなど、無い。
その立場に相応しい行動しか出来ない空疎な存在。それは望まれた行動をする偶像ともまた違うだろう。ロボットと言った彼女の言葉は間違っていないだろう。私には、何もないのだから。
<パーソナルデータ>
名前:桜地 涼音 (さくらじ すずね)
誕生日:3月14日
性別:女
身長:166cm(ちなみに希美は159cmで久美子は162cm)本人は割りと大きめなのを気にしてる。
星座:魚座
出身地:京都府宇治市
血液型:O型
担当楽器:フルート。演奏できるのはバイオリン、ピアノ、琴
座右の銘:命短し恋せよ乙女
好きな曲:ハンガリー田園幻想曲
好きな歌:恋愛ソング
私生活:料理が出来ない。包丁恐怖症に近い。
学校生活:カリスマはあるが友達と呼べる存在がほとんどいない。権威のような存在
得意科目:座学は全部。強いて言えば数学と理科
苦手科目:調理実習
趣味:音楽、読書、掃除、旅行
好きなもの:カボチャ、蒟蒻、恋愛小説、希美先輩、家族
嫌いなもの:セロリ、蜘蛛、ゴキブリ、自由
特技:フルート、バイオリン、百人一首、生け花
好きな色:藍