「トランペット、ややピッチが高いです」
「すみません」
「チューバ、鈴木さん。良くなりましたね」
「ありがとうございます」
顧問が来るまでに全体練習における大雑把な問題点は把握して修正するよう促すことが私たちの日課だった。勿論指摘は顧問の方が細かく正確だけれど、その言い方がよろしくないことが多い。私も決して優しくなんか無いと思っているけれど、それに輪をかけて面倒な物言いをすることが多い。
それでいて言ってることは正論なので反抗しようにも難しい。そういう状況が存在していた。あまりにも何度言っても出来ないと、機嫌が悪くなってしまう。そうなるとより一層指導は厳しくなる。その悪循環にならないためには、事前に気を付けるべきポイントを示しておく必要があった。
「よろしいですか、全ての大本は基礎練習にこそ存在しています。全ての表現は、基礎の実力無しにはそれを再現することなど出来ません。自分が今やっていることがどのような意味を持っているのか、どのような役割を全体の中で果たしているのか。それを常に意識するように。さもなくば漫然とした努力となってしまい、それは良い結果を招きません」
「「「はい!」」」
55人に減ってしまった音楽室は幾分か涼やかだ。その少なさには当然、悲喜劇こもごも存在している。
「では、もう一度最初から」
私は正直今年の自由曲はそこまで好きではない。演奏曲は交響曲第2番『キリストの受難』。スペインのフェレール・フェランが作曲した曲で、元々は40分近くある長い曲である。それを短めに編曲したのが自由曲として演奏するモノだった。
私は長い曲は長いことに意味が存在していると思っている。なのでこの編曲では本来存在している物語性が薄れ、凄まじい速度でキリストが生まれて死んでいく、よく分からない話になってしまっているように感じていた。けれど顧問はこれが良いとなぜか主張している。長いのは漫然と長いのではなく、物語であるからこそ長いはずだ。
吹奏楽用の曲として作られて入るけれど、別にコンクール用に作られているわけじゃない。スペインの音楽家が日本のコンクール事情を考慮しているわけ無いのだから当然だけれど、なんだかコンクールのために無理矢理曲をいじっているようで、私は好きじゃなかった。
それでも顧問はこれでいいと思うらしい。私にはその辺の感覚がよく分からないのだが、それは個人の美的センスなので特に抗弁することは無かった。したところで面倒な目に合って終わりなので、しないに越したことは無いだろう。特にこういう、あの人の面倒な部分に触れる問題は。
部員だけの練習が終わると、顧問がやって来る。この時間はだれしも憂鬱だ。それでいて実力だけは伸びていくのが腹立たしい。
「だから! 何でさっき言ったことが出来ないの!」
今日も今日とて口を酸っぱくして泡を吹いている。自分のやりたい音楽、理想の音に私たちを当てはめるのが自分の仕事だと思っているらしい。前任者と比較するのは失礼だと思うが、少なくとも去年の顧問は厳しくもあったけれどこんな感じでは無かった。音楽は、指揮者と奏者が協力して作るモノのはずだ。奏者は指揮者の操り人形でも、音を出す玩具でもない。
ガンガンガンと彼女は譜面台を指揮棒で殴っている。いつあの棒が折れるのか、私は後一ヶ月くらいだと踏んでいた。
「「「はぁ……」」」
長いため息が顧問のいなくなった音楽室に響いている。それは異口同音に、同じ感情を表しているモノだった。愚痴はあちこちに飛んでいる。口も手も動かして疲れた様子で、部員たちは椅子にもたれ込んでいた。
「あの人めちゃくちゃだろ……」
「血管キレるんじゃない、そのうち」
「はは、言えてる」
「部長、大丈夫ですか?」
フルートの後輩が私を気遣うような声を見せる。今日は、と言うよりは今日も私は集中砲火を受けていた。基本的に私が責められることが多い。しかも理不尽な事を言っているのではなくて、音楽的に正しいことを言っているのでどうしようもない。
ただ、時々それはあなたの感覚では? というような事を言ったり、もっとダメな部分があったのにそっちは軽くでこちらは重くということもある。まぁ普通に、嫌われているのだろう。
「えぇ、問題ありません」
「あの人部長を僻んでるだけだよ。プロになれなかったから仕方なく音楽教師になったって話だし」
「失礼ですよ、そのような物言いは。私に至らない部分があるからこそご指導くださっているのです。慎んでください」
「ご、ごめん……」
同学年で同じパートの子がバツの悪そうな顔をする。多分彼女の言っていることが真実なのかもしれないと最近思うようになってきた。けれどそれを肯定しても何一つ良いことは無い。顧問が嫌いなのと不信感を抱いているのでは違う。指導が厳しいから嫌い、というのと私に対して理不尽な信用できない存在というのでは天と地ほどの差がある。それは私自身が良く理解していた。
顧問がプロになれなかったから、というのは本当の話だろう。あの先生は桜地家が嫌いだ。正確には、私の兄が。プロになれなかった自分。教え子の兄には天才奏者。これは比較してもしょうがないだろう。私と兄はどことなく顔が似ていると言われることがある。きっと私の顔に重ねてしまっているんじゃないだろうか。
だからと言ってどうしようもない。問い詰めても彼女は認めないだろうし、むしろそれが余計な混乱の火種になる。兄さんは敏いからそういう話にすぐ勘づいてしまいそうで怖い。だから部内の、もう半ば終わった問題であるオーディションに落選した三年生と言う話題で悩んでいると誤魔化していた。
そうでもしないと、またあの時のように学校に乗り込んで大立ち回りをしてしまうのではないかと不安だから。きっとあの時とは違う結末になるだろう。暴力を振るったりはしない。それに意味がないどころか、その行いは正当性を失ってしまうと良く知っているから。
そんな事を想いながら、私は壇上に立つ。北宇治では部長さんが手を叩いて静かにするように要請するらしい。私の部活では私が壇の上に足を乗せた段階で誰もが黙ってしまう。その状態はしばらく続いていた。きっとあの初心者事件で厳しく言ったことがきっかけだろう。言葉選びを間違えた感は今でもあった。
「皆さん。ご承知の通り数日で府大会になります。私たちの目標から鑑みれば、あくまでも通過点に過ぎません。ですが、通過点と侮ること無きように。粛々と、なすべきことをなせば、結果はおのずと伴われるものです」
「「「はい!」」」
「またくれぐれも体調管理には気を付けてくださいませ。ご家族の中でも注意していただくよう、皆さんからご家族の方にお願いするようにしてください。先日より練習時間も拡大しておりますが、各家庭それぞれ事情が存在します。決して練習時間を強制することの無いように。万が一そのような言動を受けた場合、直ちに申し出てください。私の方で対処いたします」
「「「はい!」」」
「では本日は以上で終わりとします。お疲れさまでした」
「「「ありがとうございました!」」」
演奏に問題はない。やや固いかもしれないけれど、楽譜に書かれている通りに演奏できている。例年通りならば、府大会も突破できるはずだと信じていた。
府大会の日は普通に淡々と訪れた。その日の兄さんはいつにも増して気合が入っているように感じる。まだ府大会なのに、我が家だけもう全国大会かと言わんばかりの勢いだ。その激励はありがたいのだけれど、少しウザったい。
朝の学校には既に全員集合していた。私の伝えた集合時間は十分ほど後なのだが、それでももう全員いる。小学校などの経験からして、大体こういう時にはギリギリにくる存在がいるのだが、私の部活にはそういう生徒はいなかった。
別に間に合えば問題ないのだし、そもそも集合時間も余裕を持った時間設定にしているので多少遅れても構わないのだが、それでも揃っているのは時間厳守が身についている証だろう。部員の顔を見渡す。今日は大会メンバーじゃない子も揃っていた。この前私をロボットと言った彼女は、私と目が合うと少し逸らした。きっと嫌われている。
「いよいよ本番となりました。緊張はあるかもしれませんが、皆さんは代表となるに相応しい努力と演奏をしてきたモノと考えています。本番で十全の力を出すのは難しいかもしれませんが、今一度呼吸を整えてください」
「「「はい!」」」
「では、準備を始めましょう」
ファイルを閉じると部員たちが一斉に動き出す。楽器の搬出など色々と作業があるからだ。ついにこの日が来てしまった。泣いても笑っても、大会の演奏は一度だけ。もしダメだった場合、これまで犠牲にしてきた多くのモノが無駄になってしまう。それだけは何としても避けたい事態だった。
私に託された夢がある。呪いでもあるそれを、次代に残すわけにはいかない。今年、あの夏を超える結果を。それが私の為すべき事だった。為したいことなのかどうかは、今でも分からない。
移動は事前に打ち合わせした通りスムーズに行われた。ホールでの顧問はいつも以上にピリピリとしている感じがある。その張り詰めた、もっと言えば神経質な様相が却って私たちに余裕を与えている気すらする。余裕が無い人を前にしていると、自分がビクビクしているのが馬鹿馬鹿しくなってくるのだ。
「良いですね、言われた通りの演奏をキチンとしていれば、上の大会には行ける! こんな府大会で止まるような演奏じゃないでしょう! こんなところで止まりたくはないわね! ならいつも通り、言われた通りにやりなさい」
「「「はい」」」
「返事が小さい!」
「「「はい!」」」
うっせぇなぁ、という声が後ろの男子から小さく漏れた。幸い顧問には聞こえていない様子。その声音は心底面倒そうだが、逆に気張っていなくて良いのかもしれない。奇妙な団結をうむのに、この顧問は役立っていた。
「最後に私から申し上げるのは一つ。優雅に華麗に、そして己の聞かせたい相手に届けるように。それこそが音楽の本質であるのですから」
「「「はい!」」」
顧問がフンと鼻を鳴らす。小娘が偉そうに、と思っているのだろう。その息を無視しつつ、私たちは移動を始めた。
「プログラム七十番、宇治市立南中学校の皆さんです。課題曲Ⅰ番、自由曲はフェレール・フェラン作曲『キリストの受難』。指揮は大津照子です」
アナウンスと共にスタンバイを始めた。演奏台に座り、譜面台にファイルを置く。スポットライトは燦燦と眩しく、その向こうの闇のどこかにいるはずの兄さんや雫さんは見つけられそうにない。きっと向こうからは私の顔が良く見えているのだろう。
いつも通りの気配だった。これでもう何回目だろう。コンクールの空気はいつだって慣れやしない。これに半ば取り憑かれている兄さんは、やっぱりちょっと変な人だ。顧問が指揮棒を振り下ろす。そして、演奏が始まった。
課題曲は流れるようなフレーズが特徴の曲だ。だから重すぎてもいけないし、強すぎてもいけない。このバランス感覚が難しい曲だった。そしてワンフレーズが長い。そうなると、そのフレーズを邪魔してしまうため、指揮者が譜面台をカチカチ叩きながら合奏をする方法はこの曲には使えない。性格はともかく能力はある顧問なので、それは理解しているようだった。要素が多いのも特徴なので、ごちゃごちゃしないように気を遣わないといけない。そのバランスに苦心している姿はよく見ていた。
尤も、苦心していると言えば聞こえはいいが、何回も自分なのか部員なのか分からない方向に怒りを見せていたのだけれど。とは言えそれでも練習の成果は出ている。課題曲は特段の瑕疵なく進行した。そして自由曲に移行する。
この自由曲の作者はいつも特徴的な曲を書いている。半音で行き来する音形や上行・下行する木管楽器のスケールはそれの代表例だし、3連符中心の細かいリズムや壮大な世界観を持つコラール風のメロディーなどもそれに当てはまるだろう。物語を表現しているだけあり、場面ごとに多彩な演奏を見せないといけない。
全体的に調号が多く変拍子も多いので普通に難しい曲だ。グレードは確か6だったと記憶している。そして私の出番は第一楽章から早速ソロパートという形で存在している。これ以外にも後数回長めのフルートソロが存在していた。このポジションは希美先輩から受け継いだもの。
部長としてモデルケースにしている希美先輩像は私によって作られている部分が大きいけれど、奏者としての像は特段虚飾の無いものだった。それは何も弄る必要などなく、希美先輩が私より上手いことを意味している。あの演奏にはまだ追い付けていない。言い訳のために使っているモデルケースではなく、演奏に関しては本当に追いかけていた。そしてまだ届いていないのだ。
それでも期待を裏切らないように、精一杯練習してきた。雨の日も風の日も、お祭りの日も。それは私が部員や顧問からどういう感情を向けられているにしろ、主戦力として期待されているから。それを裏切るのは、上に立つ者として相応しくない。
全て楽譜通り、指示通り。完璧に吹きこなせたと思った。そして、私の最後の府大会における十二分間は静かに幕を下ろしたのだった。
発表の時は体感ですぐに訪れた。府大会の発表はまず紙で今日行われた演奏全部の結果を出す。中学校の数が多い府大会は三日に渡って行われる。その最後の日が今日だった。そして最後の日の一番後ろに代表三校を口頭で述べる仕組みだった。
「お願いお願い……」
手を組みながら、隣に座っている子は必至に祈っている。私はそうする気も起きないまま、ただ前を見て座っていた。祈っても最早しょうがない。神様はこの世に存在しないし、奇跡は決して起きはしない。もし神様がいるのなら、きっとあの時両親を奪いはしなかっただろう。奇跡が起こるなら、あの時二人はきっと助かっただろう。
けれどそうはならなかった。現実は残酷で厳しい。ただ淡々と事実が積み重なっていく。過去は変えられず、未来はいつだって今の延長線上に存在している。私たちの演奏がどう評価されるか。それを決めるのは他ならぬ審査員だ。私は、皆現状出来ることをやったと考えている。もし結果が悪ければ、それは私の力不足であるし、他校がより正しい方向で努力を行ったということに他ならない。
バサッと紙が広げられた。上から今日の演奏順になっている。七十番、宇治市立南中学校、金賞。その文字が目に入る。少しだけ報われた気がした。あの夏、私たちは府大会銀賞だった。府大会を軽んじているわけじゃない。けれどきっともっと上に行けると信じていた。それなのに結果は振るわなかった。誰が悪いというわけじゃなかっただろう。
少なくとも、あの夏よりはマシな結果を持って帰れる。それだけで私は少し安堵した気持ちになった。
「えーこの中より関西大会に出場する学校を三校発表します。プログラム六番、京田辺市立小住中学校、プログラム四十七番京都市立花岡中学校」
ここまでは昨日までに既に演奏を終えた学校になっている。そして最後の一校だった。
「プログラム七十番、宇治市立南中学校。以上三校です」
歓声が沸き上がる。隣からも前からも後ろからも。私はただ、その事実を黙って受け止めていた。取り敢えず、この前落選してしまった子にはもう一回チャンスが与えられたことになる。そんな風なことを考えながら。
勿論、嬉しいはずなのだ。この結果は数年ぶりの快挙である。去年は府大会ダメ金だったことから考えれば大きなステップアップだ。それなのにどうしてだろう。何もかも無視して心の底から嬉しいと素直に思えなかったのは。それはもしかしたら、まだこの懊悩の日々が続くことへの、忌避感情だったのかもしれない。
こんな心で見に来てくれた兄さんや雫さんに顔を合わせるわけにもいかなくて、私はさっさと帰る道を選んだ。そうしないときっと、兄さんに心を見透かされてしまうと思ったから。
府大会が終わってからと言うもの、私たちの練習は一層厳しくなった。それに比例して、部員たちの演奏力はどんどん上がっている。それだけは確かだった。けれどその分、余裕が無くなっていく。小さな言い争いが増えていった。勿論、それはその場ですぐ終わるもので後に尾を引いたり、全体を巻き込むようなことは少ないけれど、それでも確かに空気は殺伐としている。
三年生は部活だけ、と言う訳にもいかない。最近では高校見学などに行かないといけないのだ。ご丁寧に行った学校を報告する課題までセットで付いてくる。それに加え塾のある生徒も多い。夏期講習に行けないと嘆いている生徒を何人も見てきた。夏は受験の天王山と称されているのに、これでは受験勉強に差し障りが出る。確かに部活は大切だ。けれど、それは将来を犠牲にしてまですることなのだろうか。
私は塾に行くほど金銭的に余裕が無い。私の従姉である雫さんは中退して芸大に入り直したとはいえ、元京大生。その彼女に頼って勉強を教えてもらっている身としては、他の部員に申し訳なさも感じていた。
「先生。練習時間を少し前倒しするか、終了時間を早めることはできないでしょうか」
「何を言ってるの、あなたは。今がどれだけ大事な時期か、分かってるでしょう。関西大会を考えれば……」
「それは重々承知の上で申し上げています。三年生には受験という人生の中でも大きな出来事がこの後控えています。吹奏楽推薦ならばいざ知らず、そうではない生徒にとって、夏期講習等に参加できないのは大きな損失になっているのではないでしょうか」
「私の頃はそんなものありませんでした」
「時代は既に平成を二十年も経過しております」
「ともかく! そういう事を主張したいなら、そうしたい人が言うべきじゃないかしら。もしくは保護者が。それで関西大会前のオーディションでどういう結果になっても構わないならだけれど」
「それは……演奏技術以外の要素でオーディション結果が左右される可能性が存在する、と言う意味でしょうか?」
「あら、そんな事は言ってないわよ」
意地の悪そうな顔で顧問は私に言う。そう言われてしまった以上、これ以降追及することはできない。何か抗弁して他の三年生に迷惑がかかるのは望むところではない。私は兄さんほど自己犠牲的にはなれない。大会には出たいし、演奏だってしたい。
「そうですか」
「えぇ、そうよ。それとあなた、最近持って来る揉め事の報告はどういう事?」
「どう、とは」
「私にどうにかしろって言いたいのかって聞いてるの」
「いえ、そのようなつもりは。ただ顧問の先生となれば、事態の把握はしないと責任問題に発展しかねないと愚考した次第です」
「いいこと、生徒間の問題はなるべく生徒間で解決しなさい。個人同士で解決できないなら、部長や副部長が仲裁に入るの。分かった?」
「承知しております。しかし、私達でも仲裁が難しいこともあるかと思いますが」
「あなたはもっと生徒の視座に寄り添えばいいのよ」
「……善処いたします」
顧問にとって私は便利な駒だ。自分のやりたい音楽を奏でるための機械である私たち部員を問題なく動かすための、駒の中から選ばれた整備士。部品である部員は動きが悪ければオーディションと言う名の動作確認で弾けばいい。そして部品を組み替えて動かす。それで動きがイマイチなら、整備士である私の責任だ。
視座を変えて寄り添う。寄り添えば問題は解決するのだろうか。そもそも、自分が何もしていないのに私だけがどうして行動を変えないといけないのか。全く破綻した理論ではあるけれど、言葉言葉を取ってみれば、或いは正論に聞こえることもある。私に対する悪感情さえ存在していなければ、だが。
「それともう一件、8月9日はお休みさせて頂きたいと思います」
「この時期に部長が休むなんて良いご身分ね」
「申し訳ございません」
「あなた、生まれた家が少々特殊だからって何か勘違いしてるんじゃないの? 偉いのはあなたの先祖や親であって、あなたじゃないの」
「理解しております。ですが、その日は両親の三回忌なのです。どうか、お願い致します」
「ふん、好きにしなさい」
「ありがとうございます」
私は小さく頭を下げる。こんな理不尽な物言いに頭を下げないといけないのは屈辱だった。けれど、ここで暴発しても意味が無い。全てはやり方次第。兄さんもそう言っていた。それはきっと正しいのだと思う。世界は理不尽に満ち溢れていて、それに一々抵抗していては疲れて、いつかは自分が死んでしまう。
それに抵抗することは立派なことだけれど、私にはそうすることは出来そうになかった。あの希美先輩ですら、それをして負けてしまった。それほどまでに上下関係やそこから発生する理不尽と言うのは重たい。でも私は希美先輩のそういう生き方は眩しいと思う。例え敗れてしまっても、その信念はきっと正しかったはずなんだ。私には、目指せないほどに。
関西大会前のオーディションは終わった。今回は三年生が全員合格している。それは非常に喜ばしいことだった。落選してしまうことはしょうがない。なんだかんだと言いつつ顧問は実力で選んでいる部分がかなり大きい。露骨に贔屓などが見える采配はしなかった。
この前落選してしまったクラリネットの子も、今回はしっかりコンクールメンバーに入っている。
「おめでとうございます」
「……部長は私のこと恨んでないの」
「何故でしょうか」
「あんな酷いこと言ったのに」
「恨んでなどいません。怒っても。あの時あのような事を言わせてしまったのは、私の方に問題があります。あの時はもっとあなたの気持ちを考えるべきでした」
視座を変えろ。そういう顧問の発言は確かに腹立たしいけれど、それでも一理ないわけじゃなかった。あの時あんな風に言われたのは、私に原因がある。あの時やるべきだったのは、もっと心配している旨を前面に押し出すことだったのだ。
別にコンクールメンバー以外の事を心配していないわけじゃない。けれど、優先するべき順位は何事においても存在している。あっちもこっちもでは、二兎を追う者は一兎をも得ずという状況になってしまうだろう。南中の目標は私だけが重く受け止めているわけじゃない。だからこそ、優先するべき方を優先しないといけないと思ったのだ。ただ、それが冷たいやり方であるのも事実だと思う。
「部長、練習メニュー組んでくれたんでしょ。私用に。改善点とか書いて」
「正確には、私の兄がですが。北山君に伝えるよう頼んだはずですけれど、実行してくださったようですね」
このために兄さんに一度頭を下げた。ちょっとビックリしていたけれど、何でもないかのようにすぐ仕上げてくれたのは助かっている。専門じゃないと言ってるけれど、それでも現役吹部を指導してる身だ。あんな弱小を関西まで引っ張って行った人の腕が専門外だからと言って劣っているわけもなく。事実として彼女はオーディションに合格している。
「なんで、一々そんな事を」
「必要だと思いましたから。関西まではともかく、全国は非常に厳しい壁になっています。全国前のオーディションは存在が危ぶまれる機会ですので、実質今回が最後である可能性を考えた時、あなたが大会に出られるようにすることは重要な事と考えました」
言わない方がいいこともある。次も落ちると何があるか分かったもんじゃないから、と言う部分は内心に留めておくべきだろうと判断した。三年生が最後であるのも事実だ。受験勉強と並行して疲弊しながらやっている以上、結果が出た方が良いに決まっている。年功序列は好きではないけれど、それで避けられるトラブルもあるのだと部長になってから初めて実感した。
「引き続き練習頑張ってください」
そう告げてから家に帰った。疲れがどっと出てくる。今日は花火大会だったのを思い出した。そのために練習時間は短かったし、部員たちはいつもより楽しそうにしていた。普段からこうだともっと良いのだけれど、それは多分無理だろう。色々な要因で。
私がやらないといけないことは一つだ。自分が一番上手くあること。そうでなくては部長である威厳は保てないし、顧問からの抑圧も躱せない。自由曲の見せ場が多いということは、それだけしっかりやらないと破綻するということでもある。家に防音室があることに感謝して、私は練習を始めた。どれくらい経っただろうか、いきなりバンとドアが開け放たれる。
「な、なに、兄さん……」
少し険しい顔で私を見てくる兄に、私は少し怯えた声を出した。北宇治が再オーディションだなんだと揉めているときも家ではこんな顔を見せていなかった気がする。
「外に出なさい」
「なんで」
「そんな練習ばっかりしてると頭おかしくなるだろう。気分転換でもしなさい。折角の花火大会なのに、誘ってくる友達もいないのか?」
「……」
その言葉に少しだけ目を逸らした。義井さんのように尊敬してくれる人はいる。心配してくれる人もいないわけじゃないだろう。けれど友達と呼べる人がいるかという問いに、私は肯定を以て応じられない。
「前も言ったけど、やっぱり怖がられてるんじゃないのか。さぁ、行くぞ」
「でも練習しないと、大会も近いんだから!」
「あのねぇ、課題曲Ⅰ番でキリストの受難が自由曲でしょ? それでその演奏してダメなら、それは君のせいじゃなくて別の人のせいだから」
「けど」
抗弁しながらも兄さんの言葉に心は少し揺らいだ。現役指導者がそういうなら、きっとそうなのかもしれない。
「良いから浴衣にでも着替えてきなさい! じゃないと明日のお昼抜きにするぞ」
「……分かった」
心の底から嫌がれば、きっと兄さんは提案を取り下げてくれる。それは分かっていた。けれどどうしてかそこまでして抵抗する気力も出ないまま、私はその言葉に素直に従うことにしたのだ。その後に待っている出会いを、まだ知らないまま。