音を愛す君へ   作:tanuu

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第Ⅲ音 ブリキの心臓

 お祭りの街はいつにも増して喧騒に満ちていた。兄さんに無理やり着替えるように言われた私は、少し不満に思いながらも着替えて街を歩いている。どうやら元々友達と巡る予定だったけれど、一人追加したいという旨を送ったらしい。

 

 友達の妹とは言え、その人から見れば私は他人。普通に迷惑だと思うけれど、それでも兄さんはそんな事を気にしている様子もなく、私を先導して歩いていた。思えば、兄さんとお祭りに来たのはもう何年ぶりになるだろう。そんな事をぼんやり思う。

 

 昔はもっと良く来ていた。兄さんと、お父さんやお母さんも一緒に。いつしか兄さんがいなくなって、両親もいなくなって。友達と呼べる存在がいないことに寂しさを覚えたことは無いけれど、こういう時だけはいた方がきっと楽しいのだろうと思わざるを得なかった。私が花火大会に来ていると知ったら、部員はどんな顔をするだろうか。練習を頑張れと言っておきながら自分は優雅に花火見物か、とそう思われてもおかしくないだろう。出来るだけ、見つかりたくはなかった。

 

 集合場所にはすぐ着いた。人でごった返しているので、誰が目的の人なのかよく分からない。それでも兄さんはすぐ分かったようで、ずんずんと歩いて行った。

 

「悪い」

「おっす、ちょっと遅かったな……は?」

 

 その彼は私を見て少し驚いたような顔をする。きっと追加要員が女子だと言っていなかったのだろう。そういう顔だった。

 

「あ、彼女が一人増えるって言った子だ」

「そういう意味の彼女、じゃないよな……あぁ、妹さんか」

「なんで分かった?」

「目がよく似てる」

 

 たまに言われる言葉だけれど、初対面の人に見抜かれたのは初めてだった。そうかぁ、という声を漏らしてる兄さんに対し、彼はケラケラと笑っていた。性格のよさそうな、悪く言えばおちゃらけてそうな人。そういう第一印象を抱く。私の部活にはこういうタイプの部員はいなかったので、新鮮な気持ちになった。同じような感じの人は同じクラスにはいるけれど、私はそういう人と交流が薄い。それでも同じクラスの男子よりは幾分か大人に見えた。

 

 兄さんの友達に私が悪印象を持たれてしまっては、私もそうだし兄さんの今後に関わる。普段はしない笑顔を作って、彼に挨拶することにした。今は南中吹奏楽部の部長じゃなくて、ただの桜地凛音の妹。そういう人間に徹すればいいのだろう。

 

「兄がいつもお世話になっております。妹の桜地涼音です、どうぞお見知りおきを」

「えっと、こっちこそお世話になってます。滝野純一です」

「よく、兄からお話を伺っていますよ」

 

 それは本当の事だった。兄さんの口から名前が出るのはトランペットパートの人が圧倒的に多い。中世古先輩、優子先輩、高坂さんという人に次いで出るのがこの滝野さんと言う人だった。いつもくだらないことばかり言っているという風に伝えられているけれど、そういう相手が兄さんにいるのは少し意外だった。と言うより、私は兄さんの学校生活や部活生活をよく知らない。そもそも、北宇治高校吹奏楽部に良いイメージは無かった。希美先輩を追い出した場所、とそういう風に考えていたから。

 

「涼音、コイツにそんなに気を遣わなくていいから」

「なんだと~! 俺だってやる時はやる系の男子なんだぞ」

「いつも吉川に負けてるのに?」

「それは……アイツが強すぎるんだよ」

「やれてないじゃん」

「別ジャンルで頑張ってるんだよ」

「ふーん」

 

 確かにやっているのは普通の会話。でもなんだか懐かしい気がして、私は少しだけ顔を綻ばせる。昔の兄さんに少し戻ったような感覚が、滝野さんと話しているときには存在していたのだ。

 

「私はかき氷でも買ってくるけど、何が良い?」

「私、レモン。無ければイチゴ」

「ブルーハワイでヨロシク」

「了解。では、若い二人はしばしご歓談を……」

 

 お見合いの仲人みたいな事を言って、兄さんはそそくさと買い物に行ってしまった。初対面の男の人と一緒にさせておくことに不安はないのか、と少し思ったけれど、それだけ信頼している相手と言うことなのだろう。なんだかんだと兄さんの人間観察には信頼性がある。ならきっと大丈夫なのだろう。

 

「アイツ、普通初対面の男と二人きりにしとくか? ごめんな、こんなのが一緒で」

「いえ、そんな事ありませんよ」

「えーっと」

「涼音です」

「涼音、ちゃんは良いの? 俺もくっ付いてて」

「むしろ私の方がくっ付いてきた側ですから。滝野さんこそ、お邪魔じゃないですか?」

「全然。男二人より華があって良いから」

 

 ニカっと笑っている顔は人がよさそうな雰囲気を醸し出していた。友達の妹だから親切にしてくれているのかもしれないけど、それでも普段愛想の悪い人にこういう顔は出来ないだろう。私みたいに余程捻くれて無ければ。

 

「涼音ちゃんは南中の部長なんだって? アイツから聞いたけど」

「はい。不肖ながら務めさせていただいてます」

「すげぇなぁ。尊敬するよ、俺。部長とかやったことないし」

「男子で部長はあまりいませんからね。私の部活は副部長が男子なんですよ」

「マジ? 俺と違って優秀なんだろうなぁ。涼音ちゃんが頼りにしてるくらいなんだし」

「そう、ですね」

 

 私は北山君を頼りにしているのか。そう聞かれたら、きっとそうじゃない。勿論奏者としても副部長としての能力も信頼している。けれど私が動いた方が効率がいいことが多かった。それに、顧問も彼じゃなくて私に色々なことをさせようとしてくる。それは多分、私への当てつけなんだろうけど。面倒であるからこそ、他に押し付けることは出来なかった。全部自分でやってしまえるなら、きっとそれが理想だろう。

 

「えっと、何の楽器やってるん?」

「フルートです」

「確かに、そんな感じするなぁ。似合ってそう」

「そうですか?」

「可愛くて優しそうだし。ウチのフルートパートはそんな感じじゃないけど……」

「あはは、そうなんですか? 私のフルートパートも別にそんな優しい子の集まりじゃないですよ。皆少数精鋭ですし。私はまだまだですが」

「自由曲、キリストの受難だっけ? ソロもやってるみたいだし、涼音ちゃんのためにその曲になったくらいだろうから、そんな謙遜しなくても」

 

 私が主戦力なのは事実だろうけど、曲選択は顧問の趣味だ。けれどそういう風に言ってもらえるのは悪い気がしない。私が最近演奏に関して褒められたのはいつだろうか。同期も後輩もそういう言及はしてこない。顧問はいつももっと上をと要求してくる。純粋に褒められたのは、随分と久しぶりな気がした。

 

「カッコいいよなぁ、ソロ。俺も憧れるし」

 

 カッコいい。その言葉は数年前の希美先輩を思い出させた。先輩も言っていた。カッコよくやりたいと。そうしなくても十分、ありのままでカッコよかったのに、それでももっとと求めていた。その貪欲で、妥協しない姿勢は憧れるところ大だった。一瞬だけ、私に笑いかけるその顔が、希美先輩と被って見える。どうしてかは分からないけれど。

 

 私の顔を見て、先輩は話を変えてくれた。きっとこれ以上は触れない方がいいと思ったのだろう。私はそんなに変な顔をしていたのだろうか。もしかしたら、希美先輩を懐かしく思う感情が湧き出ていたのかもしれない。気を遣わせてしまったのかと申し訳ない気分になる。

 

「忙しいよなぁ、お互い。休みの日とか何してる? 俺はずっと寝てて……」

「そんな感じですよ、私も。寝るのは好きなので」

「布団の中でボーっとしてるのがいいよなぁ」

「分かります。真夏に冷房付けて厚い布団の中にいるのが好きなんですけど、最近は冷房代も高いので……」

「俺もそれやろうとして怒られた」

「そうなんですか?」

 

 話を合わせてくれている……わけでは無さそう。きっと本当にやろうとして怒られたのだろう。私がそんなしょうもない楽しみをしていたのは中学校に入る前の話。お母さんに怒られたのを思い出す。やっていることは数年の差があるけれど同じだ。あんまりこういう話をする相手もいないので、つい話過ぎてしまう。

 

「後は練習したり、本読んだり、ですかね」

「真面目だなぁ。何読んでるん? アイツも結構色々読んでるけど、好みとか違うだろうし。アイツの本難しくて分かんねぇんだよなぁ」

「兄さん、変な本読んでますからね。私は……その……笑いませんか?」

「笑わない笑わない」

「……恋愛小説」

 

 自分に無いモノに人は憧れるという。意外とそれは真実だろうと、私は思っていた。自分がした事無い者、縁遠いモノ。それが恋愛。別にしたいと思っているわけじゃないけれど、興味が無いわけでもない。現実に恋愛の話をする人なんていないから、私は本を読んで想像するしかなかった。ありのままの私、そんなものを見てくれる人はきっといないと思うけれど、それでも憧れるくらいは自由のはずだから。

 

「あ、ほらやっぱり笑ってるじゃないですか。似合ってないのは分かってます」

「そんな事無いって。ちょっと意外だっただけで。でもまぁ、そんなもんだよなぁ。人って意外と見かけとかそういうのによらないもんだし。アイツもそんなところあるし」

「兄さんは割と見たまんまじゃないですか?」

「家族相手だとそうなのかもなぁ。でもあの見た目でシスコンってのはちょっと分からなかった」

「……兄さんは、そんなに私のこと好きじゃないと思いますよ。いつも、冷たくしてばっかりだし」

「そんな事無いと思うけどな。俺も妹いるけど、いつも足蹴にされてるし。実の兄妹なんてそんなもんじゃない? でも俺別に妹のこと嫌いじゃないし。たまにイラっとするけど。アイツ、自分の弁当戦時中みたいにしてでも涼音ちゃんの弁当をしっかり作ってたし、滝先生がちょっとビビるくらいの勢いで府大会見に行く許可取ってたし、やっぱり涼音ちゃんのこと大好きだと思うぜ。あくまで俺の主観だけど」

「そう、でしょうか……」

 

 私の知らない、兄さんの姿。確かに府大会は見に来てくれていた。でもそれは、過干渉気味なだけだと思っていた。両親が死んで、その分を埋めようとしてくれてるんだと。そういう義務感からの行動じゃないかと、私はずっと思ってた。じゃないと、こんな可愛げも無ければ優しい態度も取らない、そんな反抗してばかりの妹に構ったりしないだろう。

 

 私は未だに、言われ続けた洗脳の中にいるというのに。少しだけ私は黙ってしまう。他人からの感情に自信が持てない。それは昔からの私の良くあることだった。だからいつも、少し悪い方向に捉えるようにしている。そうすれば、きっと傷つかないから。そんな至高の坩堝の中にいる私に、声をかけてくる存在がいる。

 

「ねぇ、君一人? 俺ら今暇なんだけど、遊ばない?」

 

 顔を上げれば、髪の毛を金とか赤に染めた男の人が二人。いかにも繁華街にいそうな格好で私を誘っている。身長は高い方だと思っていたけれど、それよりも高い人に見下ろされると少し怖い。兄さんと同じくらいの背丈だろうけど、全く知らない人にこんな風に声をかけられたのは初めてで、私は固まってしまった。

 

「背高いねぇ、カッコいい。浴衣も似合ってるし」

「スタイルめっちゃいいじゃん、どこ住み?」

 

 そんな風な声がノイズのように耳に入る。私の態度など気にしてもいないのだろう。カッコいい、と言うのは同じ言葉だったけれど、滝野さんのそれよりももっと不純なニュアンスを含んでいるように思えた。

 

「あの! その子、俺のツレなんで」

「あぁ?」

「お前の?」

 

 甲高い声で彼らは笑った。私を庇うように立っている彼を、嘲笑っている。

 

「お前はお呼びじゃないんだよなぁ」

「っ! 涼音ちゃん、行こう!」

「あ、おいっ!」

「待てよ!」

 

 押しのけようとした手を振り払った後、彼は私の手を握った。そして勢いよく走り出す。足が下駄なのでそんなに早くは走れない。それを分かっているかのような速度で、それでも出来るだけ速く彼は私を先導する。

 

 人混みの中を駆け抜けた。屋台や提灯の光が視界の端を流れていく。人の熱気や声が渦巻く中を私たちはあてもなく走っていた。それは行き先の見えない小さな旅路。それでも私には、どこか楽しい時間に思えた。彼の背中を見上げながら、足を動かす。私のために一生懸命になっている姿は、私の周りにはいない姿だった。触れられている手はどこか温かくて、どこか優しい。

 

 周りの声も何も耳に入らない。少し息を荒くしながら走る。この時間が、ずっと続けばいいのにと思ってしまった。どれほど走っただろう、少し暗い場所で、彼は止まった。私はまだまだ行けそう。日頃運動しておいて良かったと、少し思った。じゃないと途中でギブアップしていたかもしれない。

 

「はぁ、はぁ……ここまでくれば大丈夫だろ……。ごめんな、急に走り出しちゃって。足、大丈夫か?」

「は、はい。大丈夫です。あの、ありがとうございました。私を守ってくれて……。私、怖くて動けなくて」

「いや、当然当然。あんなのに渡したって分かったら、アイツに殺されちゃうからなぁ~」

 

 私が、もし兄さんの妹じゃなかったら助けてくれましたか。そんな卑しい言葉が私の口から飛び出しそうになって、慌てて抑える。額を伝う汗も少し乱れた髪も気にならない。ここが少し暗い場所で良かったと思った。そうじゃないときっと、私の顔は走ったからではない赤味に染まっていただろう。

 

「そうだ、アイツに連絡しないとな。ここ、少し歩いたところに穴場あるからそこで待とうか」

「はい、分かりました」

「あ、ゴメン、手繋ぎっぱなしで。キモかったよな」

「いえ……」

 

 離された手の残滓を感じるように、私はその手を胸元で抑える。

 

「お、連絡付いた。了解だってさ。行こう」

「はい」

 

 私たちは歩き出す。間もなく打ち上げのアナウンスが流れた。去年はずっと家で練習していた。その前は引き籠っていた。けれど今年は、綺麗な花火が見れそうな予感がする。しているのは他愛もない話。それはいつぶりかも分からない、どうでもいい話。希美先輩がいた頃は、こういう時間が部の中にもあった。あがた祭りも、パートで一緒に出掛けたのを覚えている。その時もこんな風に和気藹々と。いつの間にか、私がそういうことをしなくなっていた。出来なくなっていた。

 

 穴場と言うだけあって、あんまり人がいない。その代わりに良く見える場所だった。兄さんがやって来るのが目に入る。その後ろから、大きな花火が打ちあがった。色とりどりの花が天に咲いている。

 

「おーい、こっちこっち」

「兄さん、遅い!」

 

 呼ばれて少し小走りでやって来る姿は、いつもよりもどこか気が楽そうに見える。きっと、兄さんも少し気分転換したかったのだろう。そして私を気遣って、家から連れ出した。あの時はなんでこんな事……と思っていたけれど、現金な話だ。今は連れ出してくれて良かったと思っている。

 

 ナンパから助けられただけで、舞い上がっている私はチョロい女なのかもしれない。でも恋愛小説の出会いはいつだって突然で、きっかけはいつだって少しドラマチックだ。手を繋いでお祭りを走り抜けたのがドラマチックでなくて、何だと言うのだろう。私には縁遠いモノだと思っていた。今でも少し思ってる。

 

 もしかしたら、部をあんな風にしてしまっている私に、臆病で殻を破れない、人の心が無いロボットのような私に、恋なんてする資格はないのかもしれない。それでも、ブリキの心臓に今、熱が灯るのを感じた。私を気遣ってくれた優しさに、私を守ってくれた勇気に、私を引っ張ってくれたその行動に、私はどうやら恋してしまったらしい。どこか浮かれ気分で、そう感じていた。数年ぶりに、夏が楽しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの日、私は彼と連絡先を交換した。兄さんが何か言ってくると面倒なので、こっそりとだけれど。一覧の中に登録された、家族や部活とは関係ない男の人の連絡先。それは彼のものだけだ。それからちょくちょく話している。内容は至極他愛のないモノ。部活が忙しいとか、最近の流行りの話とか。

 

 私は疎いけれどそれでも何とか調べたりして話に付いて行っていた。でも少し戸惑ってるのを感じると、すぐ話を変えてくれる。そういう所が、優しいと私は思っていた。彼になら、私の心をさらけ出せるのかもしれない。そう思ってしまったのを慌てて取り消す。普段の私を見たら、きっと彼は幻滅するだろう。そんな女の子とは思わなかったと、そう言われてしまう。だから取り繕って、覆い隠して。見えないようにして、綺麗な私だけを見て欲しかった。

 

 どうやら彼はお盆の周辺のお休みがあるらしい。その日は兄さんが仕事で東京に行く。暇してると言っているのを見て、私は少しだけ勇気を出すことにした。ポチポチとスマホに入力していく。どんな文字列にするか悩んで、消して、また書いて、消して。やっと送れた言葉は推敲を重ねた割にありきたりだった。

 

「あの、その日私も空いてるんです。映画とか……観に行きませんか?」

「アイツ仕事じゃなかったっけ?」

「兄さんはいないので、私と、二人です。お嫌でしたら、全然……」

「いやいや、嬉しいけど、俺でいいの?」

「他に、行く人もいませんから」

「涼音ちゃんが良いなら、俺はOK」

 

 その返事に少しだけホッとした。それからはスムーズに決まっていく。行く日、集合場所、集合時間。それが決まっていく過程がとても楽しかった。予定表に書き込んだ時に、心が躍っているのが分かった。顧問から言われた予定を書き込むときとは雲泥の差、月とすっぽん。

 

 そんな風にワクワクしながらも、心の中ではそんな風にしてはいけないと戒める自分がいた。そんな事をしている場合じゃないと、叫んでいる。お前にはそんな風に楽しくしている資格なんて無いだろうと私を責めている、もう一人の自分。それを何とか抑えるのが私の今やるべき事だった。

 

 

 

 

 今日は休み前最後の練習日だった。明日からは休み。そしてその明日は予定が入っている。どんな服を着ようか、そもそも着ていける服があったかどうか。ちょっと確認しないといけない。最悪雫さんの昔の服を何とか着るしかないだろう。私服を着る機会があんまり無いのが仇になった。けれどそれを考えるのも少し楽しかった。でもそんな僅かな楽しさはすぐに壊されることになる。

 

 事件は練習終わりの片づけ中に発生した。

 

「休みどうする?」

「ずっと勉強だよ勉強」

「だよねぇ。私、夏期講習受けられなくてお母さんにすっごい怒られちゃった」

「分かる。関西行けたのは良いけど、勉強できないのは辛いよねぇ」

 

 そんな他愛ない会話。いつも良く見る光景だ。今の代の部活には主だった派閥が無い。私がこんな風に振る舞えているのも、有力な派閥がが無いからだろう。意見統一が難しいという難点があるが、それでも揉め事の種は少なくなる。それだけで大分おつりがくるのだ。そしてその影響か、大人数の部活にしては皆パートなどあまり関係なく話す。共通項が多いからかもしれない。

 

 ともあれ、話している内容はそんな話だ。受験勉強に影響が出るのはあるある。そしてその愚痴もよくある話。むしろ勉強熱心ですらある。さして気にするようなものじゃない。……一人を除いては。

 

「ちょっと、それはどういう意味?」

「あ、いや、先生、それは……その……」

「違うんです、これは……」

「私がわざわざこうして夏に出勤しているというのに、今のは関西に行けなければ良かったとそういう話!? 私に文句を言いたいの!?」

「そ、そうじゃないです、ただお母さんが面倒だなぁって、そういう話で……」

「夏期講習に行きたければ行けば良いじゃない、それで関西で良い成績を取れなかったら、あなたのせいですけどね!」

「そんな……」

 

 理不尽な怒りに晒されているのは同じ三年生の子。顧問は今日、いつにも増して虫の居所が悪いらしい。それで先ほどの愚痴とすら言えないような些細なものにすら、過敏に反応している。普段はここまで酷くは無いのだけれど、何か気に障ることがあったのだろう。それは恐らく、私生活で。それをここに持ち込まないでほしいのだが、それは今更かもしれない。

 

「先生、そこまでにしていただけないでしょうか。彼女たちも悪気があったわけでは無いと考えます」

「あなたは黙ってなさい!」

「部内で起きた問題は部長が処理しなさいと、いつもそう仰っているではありませんか」

「これは私が指導しているの、問題とは違う。融通きかない子ね」

「それは指導ではなく、理不尽な八つ当たりと心得ます」

 

 音楽室がシーンと静まり返った。それは文字通り、無音。誰もが息をひそめ、或いは息を呑んで事態の推移を見守っている。

 

「前にも申し上げたはずです。部活動の忙しさで夏期講習等に参加できない生徒がいる旨を。そしてそれはその生徒個人にとって大きな損失になるのではないかと。それを無視なさったのは先生ではありませんでしたか? いざそのような内容の話を聞いて、お怒りになるのは理不尽以外に何があるでしょうか」

 

 私は椅子から立ち上がり、顧問を怒鳴られていた子たちから引き離す。こんな事を言わないで、黙っていれば怒りは収まったかもしれない。或いは、もっと上手く宥めていれば事態は収拾したかもしれない。けれど今回は見過ごせなかった。いつもは理不尽の対象は私であり、言っている内容も半分くらいは正しかった。怒りながらも音楽的な指摘はいつも正しいことがほとんど。だからスルーしてきた。

 

 けれど今日のそれは違う。圧倒的なまでの立場を利用した理不尽だ。これを見過ごすことは、曲がりなりにも、例えそのやり方が正しくないとしても、皆の信認を受けて部の代表を務めている身として見過ごせるような事態じゃない。

 

「先生はこうも仰いました。文句があるなら言いにくればいい、と。あの時は関西大会前のオーディションがどうなってもなどとお話しされていましたが、それはもう既に終了しています。脅し文句は使えません。程度はどうであれ、現状に不満があるという発言をしにくればいいと言いながらいざ行われれば怒鳴りつけるという態度は、ダブルスタンダードではありませんか?」

「黙りなさい」

「いいえ。現時点で黙らなくてはいけない根拠がありません。むしろ、先生こそ彼女らに謝罪するべきです」

「あなた、それ以上言うとメンバーから外しますよ。顧問の言うことを聞けない生徒は必要ありません」

「それでも構いません」

 

 私はそう言い切った。ハッタリだろうという思いが半分。もう半分は本当にそうなったとしても私は既に南中の悲願である関西進出までは導いている。後は私がいなくとも、どうにかなるだろうという思いがあった。

 

「本気で言っているの……?」

「はい。私はいつでも本気です」

「チッ、これだから親のいない子は育ちが悪いのよ……。もういいわ、戻ります」

「本日もご指導ありがとうございました」

 

 最後に吐き捨てた言葉に聞こえないふりをして、私は丁寧に頭を下げた。顧問は怒りながら職員室に戻っていく。きっと休み明けには忘れているのだろう。自分が何を言ったのか、相手がどういう表情をしていたのかを。

 

「さぁ、皆さん。片づけを行ってください。ご存知の通り、明日から二日間は休みとなります。どのように過ごすかは自由ですが、熱中症等に気を付けて休み明けの練習に支障の無きようにお願い致します」

「「「……」」」

「大丈夫ですか? 返事をお願いしたく思います」

「「「はい!」」」

「それでは解散とします」

「「「ありがとうございました!」」」

 

 止まってた時間が動き出したように、各々が帰り支度を始めていく。私はすっかり憂鬱な気分になりながら、それでも明日の事を考えて気分転換をするように努めていた。外はもう暗くなっている。私の感情と合わせているかのような空の色に、余計に気分が落ち込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 翌日は遂に出かける日になる。昨日に最悪な気分になったけれど、お風呂に入って寝て起きたら忘れていた。冷蔵庫には、昨日兄さんが分けて食べるようにと残してから東京に旅立った朝ごはんがある。それをレンジで温めて、もそもそと食べてから服を着替えた。

 

 悩みに悩んで鏡の前で一時間。深夜までかかったけれど何とか決めることが出来た。スカートにしようかとも悩んだけれど、短いのはそんなに好きじゃない。ズボンにして、少し大人っぽい服で合わせる。鞄は普段は使わない余所行きの物をクローゼットから取り出した。あんまり子供っぽいと彼と並んだ時に兄妹のように見えてしまうだろう。

 

 妹がいると言っていたし、年下をアピールすると妹と同枠に入れられてしまうかもしれない。なのでなるべく女子高生に見えるように。そういうのを意識してコーデを作った。なんだかデート前みたいで、まるで自分が恋愛小説の登場人物になっているような気分になって、楽しい。

 

 玄関を開けた時はムシっとした風が吹き込んできて、通りには逃げ水が見える。真夏のど真ん中はお肌には悪い。日焼け止めはしっかり塗ったけれど、それを貫通するかの如く日差しは私の肌を焼いていた。直射日光が暑いので、持っていた日傘を広げる。靴はお洒落なサンダル。アスファルトの上にカツカツと小気味いい音が鳴る。そのリズムが少しずつ早くなっているのが私の逸る心臓の鼓動とリンクしているようだった。

 

 そうして私は十四、五年の人生で初めて、兄さんやお父さん以外の男の人に会うべく出かけるのだった。行く先には大きな入道雲。その横に何本かの飛行機雲が流れている。蝉の声と焦げるアスファルト。そして私の心。何もかも、燃えるような夏真っ盛りだった。

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