音を愛す君へ   作:tanuu

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第Ⅳ音 重荷

「滝野さん」

 

 私は目的の相手を見つけて手を振る。少し早めに着くように家を出たつもりだったけれど、向こうの方が先に待っていてくれた。

 

「お待たせしました」

「い、いいよ。俺も今来たところだし」

「あ、それ言ってみたかった感じですね?」

「う、バレたか……」

「分かりやすいですよ。それで、どうですか、今日の私」

「お、おう、似合ってる」

「大人っぽく見えますか?」

「見える見える」

「優子先輩とかよりも?」

「もちろん……ってあんまりそれは言わせないで。どっかでバレたら俺が絞められる」

「兄さんに助けを求めては?」

「アイツ、吉川には甘いからなぁ。何と言うか、謎の信頼感がお互いにあるって言うか」

「まぁ同じ中学出身ですからね。兄さんは優子先輩みたいな人結構好きですし」

「だよなぁ。て、吉川の話は良いんだ。ごめんごめん。暑いから行こう」

「はい!」

 

 少しだけ上ずった声で、私は答える。上手く振舞えているのか、それが心配だった。映画館なんて随分久しぶりに来た気がする。前に来たのはもう思い出せないくらい昔。システムもよく覚えてない。

 

「すみません、私来たのが随分前で……」

「あぁ、大丈夫大丈夫。任せといて」

「ありがとうございます」

 

 彼は少し緊張しているようだった。私に多少なりとも好意を持ってくれているのかもしれない。もしかしたら、女子と出かけることが少ないから緊張しているのかもしれない。どっちにしても、少しは意識をしてくれているのだろうか。

 

 あんまり身長高い女子は好かれないと聞いたこともある。何でこんなにすくすく伸びてしまうのか。しかもまだ止まってない。多分後数センチは伸びる。同じ部活の鈴木さんは170くらいあると思うけれど、それともうすぐ並びそうだ。兄さんが185くらいあるので、私もきっと高くなるのだろう。もう少し低い方が良かったと思ってしまう。

 

 映画は今話題になっている作品だった。シンデレラとかも上映していたけれど、私はそんなにプリンセス物が好きという訳でもない。あのお城の中の生活もきっと大変なんだろうなぁとか、そんな可愛くないことを考えてしまう。この映画の監督は前作を見ていた。狼と人間の間に生まれた子供の話だった。その時かなり感動したので、こうして今回のも興味があったのを覚えている。

 

 上映中、チラリと横を見てみる。真剣な顔で見ている彼の横顔が目に入った。私が選んだモノだったからつまらなかったらどうしようか、とかそんな事を考えていたけれど杞憂だったのかもしれない。

 

 親子の話に重点が置かれているストーリーは、私にもういなくなってしまった両親との思い出を想起させた。それでも悲しい気持ちになるかと言えば、意外とそうでもなかった。もう少しこんな風にしていればよかったかもしれないという感情はあるけれど。

 

 それよりも私の心に残ったのは、恐らくヒロインと定義していいだろう子の存在。彼女は親の期待に応えるために進学校へ進み、自分の意思を抑圧しながら生きていた。南中は別に進学校でもないけれど、自分の意思を抑圧しながら生きるというのはどこか共感できる部分がある。それは昔の私。兄さんが海外にいる頃の私の姿と重なるのだろう。

 

 その果てに、自分の意思すら見失い始めている私の心に棘のような形でメッセージが突き刺さっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから関西大会まではあっという間だったように思える。とにかく怒涛のように日々が過ぎ去って、振り返っても何をしていたのかよく覚えていないくらいにはずっと練習だけをしていたのかもしれない。数日の合宿も経て、部員は皆疲れ切っている。それでも本番までは何とか頑張ろうという意思がその身体を動かしていた。

 

 関西大会がどうなるかは分からない。けれどどんな結果になろうとも、関西まで来れた時点でかなりの強豪であることは間違いない。願わくば金賞を、願わくば代表を。そういう願いもありつつ、私たちは疲労の中でもその音を奏で続けるのだった。

 

 大会は遅くもなく、早くもない十八番目だった。全部で二十六の学校が出場するので、それを考えれば真ん中よりやや後ろと言えるだろう。早すぎると移動が面倒なので、これくらいがちょうど良かった。

 

 バスに揺られて、会場に着く。今日は兄さんはいない。明日が高校の本番と言うこともあって、今頃は音楽室で指導を行っているのだろう。ここの所毎日夜遅くまで電気が点いているのを知っている。きっと、北宇治は本気で全国に行くつもりなのだ。それがどれだけ厳しい道であっても。

 

 私にそこまでの覚悟はあるのだろうか。自分に問いかけても、答えは出ない。最後の通し練習を終えて、顧問は大きく鼻を鳴らした。その目がギロリと私たちを見渡す。あの休み前の出来事以来、顧問は少し大人しくなっているように見えた。その内心がどうなのかは分からない。とは言え、この大会の結果を求めているのは顧問も同じ。普段は全く気が合わない部員と顧問も、今日だけは利害の一致を見ている。まさに呉越同舟だった。

 

「関西だろうとやる事は変わらない! 私たちが蹴散らすだけ。そういう練習をしてきたのよ、これまで通りにやれば勝てる。絶対に! いいわね!」

「「「はい!」」」

「よろしい」

 

 その大きな鼻息に、後ろに座っている男子が軽く笑う。

 

「副部長、何かありますか」

 

 私は顧問のその顔をチラリと見た後、北山君に声をかけた。

 

「あ、はい」

 

 彼はスッと椅子から立ち上がる。その顔はいつになく緊張しているように見えた。この先の結果で、何もかもが変わる。それを考えれば緊張するのも無理のないことだった。

 

「今まで一生懸命やってきて、それでもこの大会の結果がどうなるかは、正直分からない。でも、どんな時でも、自分たちの納得できる演奏をするべきだと、俺は思ってる。そう出来るように、頑張ろう!」

「「「はい!」」」

 

 大きな声が響き渡る。そして、部員の視線は私の方に集まった。

 

「やる事は変わりません。過不足なく、私たちは演奏を行うだけです。様々思う所があるかもしれませんが、今はただ、前だけを見つめていてください。その先にだけ、私たちの進むべき場所があります。恐れることなく進めば、宇治市立南中学校吹奏楽部設立以来初の全国出場の栄冠は私たちの代に輝くでしょう」

「「「はい!」」」

「良い返事です。では、常日頃の如く、優雅に華麗に参りましょう」

「「「はい!」」」

 

 めいめいに大きな声で返事が返って来る。その眼差しを見て思った。彼らはしっかり前を向いている。私だけが向けていない。多くにそうするように求めながらも自分が出来ていないというこの大きな矛盾。それを覆い隠して、私は彼らに努力を求めるのだった。

 

「続いての演奏はプログラム十八番。宇治市立南中学校吹奏楽部の皆さんです」 

 

 暗幕の向こうには舞台がある。そこへ歩き出した。客席は薄暗い。その中に、きっと見に来てくれた雫さんの姿もあるだろう。その小さなざわめきをもう何度見ただろう。やっぱり慣れない。京都府大会でも思ったことを、もう一回思い直していた。何度出ても慣れないだろう。

 

「課題曲Ⅰ、自由曲はフェレール・フェラン作曲『キリストの受難』。指揮は大津照子です」

 

 顧問が指揮台に上がると、拍手が起きた。さざ波のようなそれは会場に満ちていく。そしてやがて終わり、世界は静寂に満ちた。ここから十二分間の戦場が始まる。私たちの戦場。楽器は銃で、音符は弾丸だ。そして敵はきっと、自分自身。指揮棒の一点を目指して私たちは息を吐き出した。

 

 今年の課題曲は皆どこの学校もⅡばっかり選んでいる。Ⅰを選んだのはウチの学校だけだった。顧問の選曲ミスじゃないのかと、そういう噂が流れていたのを思い出す。それでも演奏は綺麗に始まった。出だしこそ肝心と金切り声で叫びながら練習させていた成果はしっかり出ている。自分の演奏をしながら周りの様子を伺っていた。

 

 自由曲も問題なく進んでいる。空気が殺伐としていても、重苦しくても演奏だけは上手くなっていく。その状況が正しいのか、疑問を抱かない日々はない。けれど結果を出すという一点に限って考えれば、今の状況でも成果が出ているならば良いのだろう。果たしてそれが部活動というカテゴリーの中で問題ないのかは分からないけれど。

 

 聖書になぞらえて曲は進んでいく。受胎告知、ヘロデ王から逃れエジプトへ向かう場面、幼児大虐殺、ヨルダン川での洗礼で第一楽章が終わる。第二楽章は三つの誘惑。悪魔からイエスが多くの誘惑を受けるシーンだ。第三楽章はイエスのエルサレムへの帰還、最後の晩餐、磔刑、そして復活。壮大な音楽で終わりを告げる。

 

 私はこの曲をやるにあたって、兄さんに新約聖書を借りたのを思い出す。あんまり面白くは無かったのだが、それでも一応全部読みはした。それからキリスト教に関する本も読んだ。そこに何か、演奏に関するヒントがある気がしたからだ。結論何に役立ったのかは自分でも分からないけれど、ソロパートを演奏するときに多少は意識するようになった気がしている。

 

 カオスな楽器の動きが特徴の難曲。けれど淀みなく、一切の瑕疵なく曲は進行していく。最後の最後まで気は抜けない。空気の残る余韻の最後まで、音楽なのだ。そのほとんど聞こえないような音にまで拘ってこそ、きっと良い演奏が出来るはず。私はそう思っている。

 

 顧問が指揮棒を下ろした。その髪の毛は汗で額にへばりついているし、息も荒い。けれどそれなりに満足そうだった。一拍おいて万雷の如き拍手が観客席から降り注いだ。満足のいく演奏になった。私は少なくとも、そう思う。ここで終わっても、多分悔いはないだろう。自分の中で最も技術的に上手な演奏が出来たように思えたから。でもどこかに後悔があるとすれば。あの夏聞いたような、あんな踊るような演奏では多分無かったということだろう。

 

 

 

 

 

 関西大会の発表は壇上で私たちに賞状が授与される。部長と副部長はステージに集合しないといけない。

 

「どう、なるんでしょうね」

「なるようになるだけですよ。もうここまで来てしまったら」

「部長は、緊張して無いんですか?」

「どうでしょうか。あまり期待するのは得意では無くて。なので、そうかもしれませんね」

 

 北山君は心臓を抑えている。普段はもっと自信満々なのだけれど、ここではこんな感じだった。この関西大会という舞台が、人にきっと緊張の種を植えている。環境によって人間は変わる。こういう小さなことでも。

 

 係員の人に案内され、私たちは所定の位置に立つ。

 

「十六番、東大阪市立石場中学校、銀賞」

 

 流れ作業のような発表だ。どんどんと名前が呼ばれて、何の賞だったのかも読み上げられていく。その度にここからはよく見えない観客席で悲喜劇の混じった声が響き渡る。

 

「十七番、宝塚市立梅ヶ丘中学校、銀賞」

 

 ひとつ前の団体が呼ばれる。北山君の顔は蒼白だ。

 

「十八番、宇治市立南中学校、ゴールド金賞」

 

 まるで爆弾でも爆発したかのような悲鳴がホールの一角から響き渡った。金賞ならば、胸を張って帰れるだろう。故郷に錦を飾るじゃないけれど、十分満足な結果のはずだ。元々関西金を目指していたのだから、これで目標は達成したことになる。私の役目もほとんど終わりだろう。

 

 人前に出るのも、そこで動いたりお辞儀をするのも慣れたものだ。これまでの人生で染みついている行動規範通りに動けば問題ない。こういう時だけ、桜地家の教育は役に立つ。役員は礼に返答するように、「おめでとう」と言う。それが社交辞令なのは目に見えていた。きっと毎年言ってるんだろう。

 

 片手に賞状を持ったまま、私たちは列に戻った。その後は全部の学校の発表をして、最後は全国に行く三校を発表する。今年の金賞は二十六中十校。大阪市立喜連川中学校、尼崎市立大園中学校、宝塚市立中山睦月台中学校、西宮市立光陵中学校、 加古川市立山の宮中学校、京田辺市立小住中学校、香芝市立香芝中央中学校、姫路市立中室中学校、西宮市立下甲子園中学校、そして私たち。その中から三校だけが上に行ける資格を持つ。

 

「続きまして、来たる十月に名古屋で開催される全国大会に出場する、三団体を発表します」

 

 ホールが一瞬にしてシンと静まり返った。それはまるで私が壇上に立った時の部活のよう。やはり良くないのだろう。あの状況は。北山君はもう口から心臓が飛び出そうな顔をしていた。きっと私はいつも通りの顔なのだろう。自分のやりたいことの見えない私。後追いしか出来ない私。結局そのモデルケースですら、まがい物の私。そんな存在に、ここで緊張する権利など無いのだから。

 

「一校目、一番、大阪市立喜連川中学校。二校目、六番、宝塚市立中山睦月台中学校」

 

 これで残り一校。個人的には行けるとしたら、私たちを除けば最後に演奏した学校とかだと思っている。兄さんならもっとしっかり聞き分けて、判断できるのだろう。とは言えそれも個人の主観。審査員の主観とはまた違う。

 

「そして三校目、これが最後の団体です。三校目、十八番、宇治市立南中学校!」

 

 高らかに謳うが如く、その声は放たれた。悲鳴や歓声が私たちの学校がいるスペースから聞こえてくる。全国大会。遠い先に存在した舞台。それに進む権利を私たちは得た。もう何をしようとも出られるのは確定している。どんな音楽を奏でるかも、きっと自由だ。それでも私は純粋な顔が出来ない。私のやりたい音楽とは一体、何なのだろうか。

 

「代表者、前へ」

 

 三つのトロフィーが輝いている。あの色を私が手にした。私に、それをして良いのだろうか。北山君や他の誰かの方がきっと、それに相応しいんじゃないか。そういう思いが加速していく。今回全国に行けた。それが来年の枷に、呪いにならないかどうか。それも心配するべき事だった。そうなってしまっては、後輩たちに顔向けできない。

 

 これを受け取るべきだったのは、きっと私じゃない。記憶の中で溌溂とした笑顔が、その黒いポニーテールと共に揺れていた。あの人に、これを受け取って欲しかった。私は心の底からそう思い、思わず一筋涙が流れる。それに気付かないまま、私はトロフィーを受け取った。その重みは、私には重すぎた。

 

 

 

 

 

 

 

 関西大会が終わってからというもの、部内の空気はどこか重い。浮ついていたのはほんの少しの間だけ。また全国大会に向けてのオーディションが行われる。それは割とすぐに。本番は十月だけれど、夏終わりか九月の初頭にはもうやってしまうつもりのようだった。

 

 秋になると体育祭や合唱祭などのイベントが始まる。それは当然全員参加なので、そっちに時間を取られやすい。そのため、限りある夏休みを最大限使ってしまおうという判断だった。それ自体は間違っていないと思う。けれど、追い立てられるような空気は殺伐としていた。みんな全国には出たい。いざ行けるとなったなら、名古屋で演奏したい。そう思っても無理はない。

 

 だからだろう。いつも以上に熱が入って、その分だけ殺気立つ。余裕が無いときには思いやりも持てないし、普段は怒らないような部分で怒りを覚えることもある。そんな仲裁を行うのも、私の仕事だった。そうじゃないと問題が大きくなり、私がまた顧問から叱責される。それは甘んじて受ければいいのだけれど、練習時間が少なくなるのは嫌だった。

 

 その日も、音楽室の扉を開けたら既に揉めていた。内心でため息を吐きながら、私はにらみ合ってる後輩たちの前に立った。

 

「何が原因ですか?」

 

 私の声に両者は急激に熱が冷めたような顔になって、先ほどまでの怒り顔もどこへやら、静かに下を向いた。

 

「黙っていては分かりませんよ。豊浜さんと朽木さん。自分が悪いという自覚がある方が名乗り出てください」

「私が……この子のチューナーが落ちたのに気付かないで、間違えで踏んで……壊しました」

「なるほど。それで、朽木さんは相手に謝りましたか?」

「はい。でも……!」

「それで許して終わりにはならなかったと」

「そうです」

 

 蚊の鳴くような声で彼女は言った。反対側の相手に向き直り、そっちからも話を聞くことにする。どちらか一方の言い分を聞いて決めるのは悪手だ。

 

「では、どうして豊浜さんは朽木さんを許さなかったのですか? 責めているわけではありません。ただ、自分の心の中を整理して欲しいのです」

「謝られたんですけど、言い方がその、軽く感じて」

「ちゃんと言ったもん!」

「今はこちらに話を聞いています。少し、静かにしてくださいね」

 

 原因はなんとなく見えてきた。気が立っているからこそ、相手を許しにくくなっている。それは理解できた。

 

「……事態は分かりました。朽木さん、謝罪と言うのは相手に届かなくては意味がありません。例え本当に心の底から謝っていても、その場の勢いだけで軽く謝っているように聞こえてしまうこともあります。それは、分かりますね」

「……はい」

 

 しょぼくれた顔で彼女は頷く。

 

「理由はどうあれ、壊した方に責任があるのも事実です。改めて謝るように」

「はい……ごめんなさい」

「豊浜さんも許さない権利はありますが、許すことも強さだと私は考えます。どうするかはお任せ致しますが、もし許せるのならばそうしてあげてください」

「……分かりました。私も、ちょっと言い過ぎた」

「この件はこれで終わり。ただし、壊してしまったモノはキチンと弁償した方が良いでしょう。親御さんにお話しするように。よいですね?」

「「はい」」

「では練習に戻ります」

 

 こんな感じの事が内容は違えど毎日どこかしらで起きていた。後輩同士であったり、先輩と後輩だったり、三年生同士だったり。大体は謝って解決することが多いけれど、仲裁しないといけない私のストレスは増えていく。報告するたびに嫌味を言われて、もっと蓄積されていく。自分の中にあるコップに、水がドンドンと溜まっていく感覚があった。もしかしたら溢れてしまいそうなほどに。

 

「何があったの?」

 

 後ろから嫌な声がする。顧問だ。良い感じにまとまりかけている時にだけタイミング悪くやって来る。取り敢えず練習準備の指示を出して、それから報告することにした。

 

「朽木さんが豊浜さんのチューナーを踏んで壊してしまったようでしたので、その旨の仲裁を行いました。故意では無いようで、お互いそれは認識していたため、謝罪と朽木さん側が保護者の方とお話して何らかの弁償を行うことで解決としています」

「あぁそう。それ、こっちにまで波及しないわよね」

「それは分かりかねますが、豊浜さんのご両親が大事にしなければ問題ないかと。五千円ほどですし」

「ならいいわよ。全く、変な問題起こされたら私の責任問題になっちゃうじゃない」

「……先生。やはり、秋からは少しお休みを増やせないでしょうか。それか練習時間の短縮を。体育祭や合唱祭は大事な行事です。三年生の中にはそれらに思い入れを持っている生徒もいます。また受験勉強もありますし、体力的にもスケジュール的にも厳しいのではないでしょうか」

 

 関西前も府大会前も断られた要請だった。揉め事の根幹は忙しすぎて気が立っているという要素も存在している。関西以後、より一層家庭で勉強について問われている三年生も多くなっていた。それと合わせて、今配布されているスケジュールでは体育祭や合唱祭などの時もかなり余裕のないスケジューリングがされている。これでは体力的にも精神的にも厳しいことが予想された。

 

 部活はあくまでも部活。学校生活の一側面に過ぎない。これに全神経を注いでいては、本末転倒だ。私たちは学校に行く中で部活をしている。部活をしている中で学校生活を送っているわけじゃない。

 

「またその話? 何度も言っていますけど、全国はそんな甘い舞台じゃないの」

「ですが、私たちは……」

「それ、私たちじゃなくて私じゃないの? あなた個人の要望でしょう。それを他の三年生と一緒の意見と言うことにして、主語を大きくしている。違う?」

 

 そんな事を言われるとは思わなかった。何回も報告していたはずだ。受けた相談、お願いは個人名を伏せつつ何度も。受験勉強が厳しい、親に怒られた、流石に明日は模試があるから出れないかもしれない、合唱祭このままで大丈夫か不安、体育祭の委員になってるんだけどどうすれば。そういう複数の相談や意見がこれまで何度も何度も何度も何度も送られていた。三年生だけじゃない。一年生や二年生でも。

 

 顧問がどういう扱いを職員室で受けているのかは知らないけれど、担任からも軽く注意されてしまった。私じゃないのに。私が練習を強制させているわけじゃないのに。だからそんな事を言われて、私は自分の中のコップに最後の一滴が垂れる音がした。そして、ガラスが割れる音も。

 

「違います。何度も何度もそういう話を申し上げてきたはずです。私たちは部活のために学校生活を送っているわけではありません。学校生活の中に部活動が存在しているのです」

「それは百も承知。厳しい練習に耐えられないで、何が出来るというの。文武両道って言うのはそういう事でしょう?」

「そんなわけ、ないです」

「私に意見するの?」

「はい」

「生意気な……。蛙の子は蛙、蛙の妹も蛙なのかしらね」

 

 音楽室の中はまた静まり返っている。この前と一緒だ。この前、私が先生に抗議した時と、同じ。

 

「どういう、意味でしょうか」

「あなた、自分の兄が特別だから自分もそうだと思ってるんじゃないの。あなたのお兄さん、アレなんでしょう? あの北宇治で指導だかなんだかしてるらしいじゃない。噂で聞いたわよ。本当は教師にしか指導なんて許されないはずなのに生意気な話。あなたもその影響受けてるんじゃない?」

「……」

「そもそも休みが欲しいのだって、あなたが誰かと出かけたいからじゃないの?」

「私が、どんな私生活を送っていようと干渉しないでください。問題行動を起こしているわけじゃないのに、不愉快です」

「なっ!」

 

 私は兄さんに素直に接することが出来ない。好きかと聞かれて、素直にはいと言えない。それでも、こんな人に馬鹿にされるような人じゃない。確かに人が変わってしまったし、何考えてるのか時々分かんないし、私に家の事全部押し付けて海外に行った。でも、それでも。こんな人に馬鹿にされたくはない。

 

「私の兄さんを馬鹿にしないでください。兄さんは北宇治の先生にお願いされて引き受けてるんです。その能力を、北宇治の滝先生が買ってるんです」

「だからそれが生意気だって」

「あなたと違って! 兄さんは人を馬鹿にしないし、指導中に譜面台を叩いたりしないし、部員を駒みたいにしないし、理不尽に怒らないし、自分のやりたい音楽を押し付けないし、オーディションで人を脅したりしないし、部員の体調や学業を無視したりしない! 何より、私に全部責任を押し付けて部内の統治をやらせたりしないし親がいないとか言って人を嘲笑ったりしない! あなたの下劣な品性で、人の家族を馬鹿にしないで!」

 

 私は息を吐きながらそう言った。胃の中から全部出ていきそうな感覚を覚える。顧問の顔は怒っているというよりも戸惑っているような感じだった。今までずっと従順に従い続けていた駒が反逆したのだから、そんな顔にもなるだろう。

 

「申し訳ありませんが、今日はこれで失礼させていただきます。あなたの顔、見たくありませんので。北山君、後お願いできますでしょうか」

「分かった。任せといて」

「申し訳ございません。皆さんも私の勝手でご迷惑をおかけします」

 

 そう言って一礼した。そしてそのまま走るように音楽室を後にする。全部もう無理だった。愚かな自分、思考停止している自分、洗脳に縛られている自分。全部が嫌で学校内を走った。

 

 いつの間にか家に付いていた。ソファに倒れ込む。天井を見上げても、涙一つ流れてこない。それが私が結局冷たい人間なのだと告げているようにも思えた。

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫?」

 

 気付かない間に帰っていた兄さんが声をかけてくる。その声が今はあんまり聞きたくなかった。

 

「あぁ……兄さん。全国出場なんでしょ、おめでとう……」

「それはありがとうなんだけど、その様子は一体何が?」

「うん? まぁ、ちょっと色々。後輩で揉め事一件。後は部内の空気が死んでる」

「具体的にどう死んでるんだ?」

「何と言うか……殺伐としてる」

「あぁ、そういう感じ」

「もうちょっと、無理かも」

 

 それだけじゃない。でも兄さんに負担をかけるわけにはいかない。それは迷惑だと分かってる。北宇治も全国だ。これからも忙しく指導を続けるのだろう。

 

「あのさ、誰も相談できる相手とかいないのか? 顧問とか、副部長とか」

「顧問は無理。報告したら自分らで解決しろって。副部長は……そんな事頼めない。クラだから、激戦区だし。結局部長がどうにかしないといけない」

「……なるほど」

 

 この前話した内容と矛盾しないように誤魔化す。顧問が無理なのはその通りだし、北山君がそんなに余裕綽々という訳じゃないのも事実。ただ中核部分を話していないだけで。でも今日の事を言えばきっと兄さんは何かしようとする。そうなって傷つくのはきっと、兄さんだ。

 

「一応関西終わるまで言わないでおいたんだけど」

「何?」

「この度希美が部に戻ってきました」

「……そう。え……本当にっ!? 嘘じゃない? 本当に戻って来たの!?」

「嘘ついてどうするの。あとあの、普通に色々あったんだけれど多分頼めば普通に家に来てくれます」

「あぁぁ……!」

 

 それは空虚な心に刺した一筋の希望。その漏れ出た声の中に、色んな感情が混じっている。それでもまた会える。また、あの時みたいに。きっと今の私も助けてくれる。今の私を、こんな私を導いてくれるはずだから。だから会いたい。会って、全部解決してほしい。きっと、希美先輩ならできる。私をあの暗い部屋の中から救い出してくれたから。手を差し伸べて、光の中に連れて行ってくれたから。

 

「それでなのですけどね、同じ市内の全国出場校同士、交流と称して合同練習でもしない? という話になっているのだけれど、そちらとしてはどう?」

「万難を排してお迎えします」

「あ、あぁそう」

 

 顧問なんかもうどうでもいい。あの顧問は私が従順だから調子に乗っていたけど、私が泣いて祖母に頼むとかされるのは困るはずだ。でもそんな無理矢理浮かれた気分にしていた感情はすぐに壊されてしまう。

 

「あの、ちょっといい?」

「何」

「気を悪くしないでほしいんだけど、希美ってそんな完璧人間じゃないぞ?」

「……は?」

「いや、普通に問題点もあるし、何でもかんでも出来るわけじゃないし。そんな素晴らしい完璧で究極の存在じゃないでしょ、普通に」

 

 それは聞きたくない言葉。私の思考停止をぶち壊す言葉。今まで見ないようにしていた暗い部分に、一気に光が当てられるのを感じる。まるで闇夜にいた吸血鬼に日光を浴びせるように、私の弱い部分が悲鳴をあげている。そんな言葉、聞きたくなかった。

 

「……てる」

「?」

「分かってるよ、そんなの! でもしょうがないじゃん、私が先輩の夢を継ぐって言ったんだから!」

「全国に行ったんだ、南中の悲願は叶っただろ」

「今更、今更変えられないの。私は他にやり方なんか知らない! 希美先輩を真似しないんだったら、他には兄さんを真似するしかないじゃない! でもそれはやだ!」

 

 吐き出した言葉は、今まで抱えていたもの。兄さんの真似をするのは嫌だというのは、私の個人的な問題。本当はそうした方が良いのは分かってる。でも心の頑なな部分がそれを拒んでいた。結局私は自分勝手なんだろう。何もかも、全部。

 

「やだってそんな……。まぁ私が嫌いなら、自分のやり方でやりたいようにやればいいだろ」

「無理。そんなの無理。今までずっと、誰かの真似して生きてきたんだから! そうしないといけなかったんだから!」

 

 口から大きな声が出てくる。溜まっていた泥を搔きだすように、私は声を荒げる。

 

「桜地家の娘として相応しく、貞淑に、気品と優雅さを身に付けろ、そういう風に教育されてきたんだから。兄さんがヨーロッパで友達と遊んでる間ずっとずっとずっと!」

「父さんはともかく、母さんがそんな事するわけないだろ」

「二人とも拒んでたよ。でもそうしないと周りからずーっとネチネチ言われ続ける。私一人が我慢すれば、ずっと済む話だったんだから。兄さんが向こうに行く前だって、兄さんみたいになれって言われてたのに、その後は今まで兄さんみたいになれって言われたのが全部変えられて、あんな風にはなるな、模範人間になれって言われて……それからずっとそのまま。今更自分らしくなんて振る舞えるわけないでしょ!」

 

 これは全部八つ当たりだ。それは理解している。でも私はそれを止められそうになかった。ここで止めたら自分の全部が壊れてしまう気がしたから。 

 

「だから部長になる時も、モデルケースを見つけてそれを追いかけるしかなかった。希美先輩がそれだったの。だから私は、作られた理想通りにしか生きられない。誰かの、教科書の真似してしか振る舞えない。それ以外に生き方なんて、自分がどうしたいかなんて、分からない……分からないよ……」 

 

 これは嘘。真実は桜地家の理想通りに振舞っている。希美先輩と言うのは言い訳だ。上手く行かなかったときに、力不足と言い訳できるように設定した、偽りのモデルケース。そんな生き方しかしていない卑怯な私に、今更自分らしくなんて振る舞えるわけがない。どの道、今までの人生で教え込まれたモデルケース通りに振舞っているのは事実なのだから。

 

 ありったけの八つ当たりを兄さんにぶつけて、私は部屋へと走っていく。あぁ、また逆戻りだ。二年前の、あの夏に。もう終わったと思っていた闇が私をもう一回包み込む。それは、そこにいてはいけないと分かっていても抜け出せない、ぬるま湯のような場所。自分を傷つける存在はそこにはいない。

 

 だからまた、私は鍵を閉ざす。暗い室内で、私は一人上を見上げた。涙はもう、流れてこなかった。

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