音を愛す君へ   作:tanuu

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第Ⅴ音 私の音

 次の日も、その次の日も私は部活を休んだ。そろそろ行かないといけないと自分でも分かっている。それでも身体は動かない。体調不良とするのにもそろそろ限界があるだろう。全部自分が悪いのだ。それでも、動く気になれない。それほどまでに、自分の部屋の中は居心地が良かった。

 

 結局、私はあの夏から何も変わっていない。嫌なことがあると引き籠って、そのまま。そうやって逃げて、逃げて、逃げて。その先に今の私がある。私は、逃亡の末に生まれた存在だ。

 

 ご飯は部屋の前に置いておいてくれる。その兄さんや雫さんの優しさが、逆に痛く刺さる。いっそ、罵りながら部屋から叩き出してくれた方が良かったかもしれない。このままじゃダメになる。きっと。そう思いながら、膝を抱えて天井を見上げていた。こういう時どうすればいいのだろう。最近ずっと練習ばかりしていて、長いこと暇な時間というものと遠ざかっていたような気がする。何かに追われるように走って、そして休み方も忘れてしまった。

 

 ボーっと暗い部屋で天井を見上げていると、コンコンとノックの音がする。のそりと起き上がった。頭が上手く動かない。それでもヨロヨロと扉の方へ行き、ゆっくりと開けた。差し込んでくる光に目を細めて、扉を叩いた相手の顔を確認する。

 

 そしてバタンとすぐに閉めた。

 

「あ、あの……なんかゴメン」

「い、良いんです。すみません、ちょっと待っててください。今人に見せられる環境じゃないので!」

 

 慌ててカーテンを開けて、太陽光を入れる。散らかったモノは一端全部片づけて、服も着替えた。鏡を見て顔を確認して、隈は消す。髪の毛も少しといて何とかそれなりに見られる顔になった。兄さんならいざ知らず、恋してる相手にこんな顔を見せるわけにはいかない。どんな事態であろうとも。

 

「ど、どうぞ……」

「し、失礼します!」

 

 職員室に入る時の生徒のような声で、滝野さんは私の部屋に入って来た。私は視線を四方八方に動かして何か問題のあるものが転がっていないかどうかを確かめる。取り敢えず大丈夫そうということが分かって、私は少しほっとした。立ちっぱなしにさせておくわけにもいかないので、勉強机の椅子を勧める。私は近くにあるベッドの上に腰かけた。

 

「それで、今日はどうされたんですか、わざわざ家まで……」

「えっと、涼音ちゃんは迷惑かなぁとも思ったんだけど、アイツに頼まれて。ちょっと様子見てきて欲しいって。俺なんかが力になれるかは分からないけど、取り敢えず思ってたよりは元気そうでよかった」

「すみません、兄さんが……。今は練習中で忙しい中なのに」

「良いんだよ、そんなの気にしないで」

 

 少しだけ困ったように、彼は笑った。

 

「何があったのかは、何となくアイツから聞いてる。けど、それはアイツ目線での話でしかないからなぁ。俺は、涼音ちゃんの話を聞きたい。もし話してくれるならだけど」

「嫌です……」

「そっかぁ……」

「あ、違いますそうじゃなくて。滝野さんが信用できないとかじゃなくて。私の話は多分、あんまり聞いてて楽しくないから……」

「楽しい話だったらそんな顔してないと思うから、それは覚悟してる」

「嫌いに、なりませんか?」

「もちろん」

 

 それはズルい問いかけだった。兄さんに頼まれて来ている人が、ここで私の気分を損ねるような言葉を言うはずがない。それを理解しながら私は問いかけた。理想の答えが返って来ると分かって。私は嫌な子だ。

 

「……分かりました。どこからお話すればいいのか分からないですけど、話します」

 

 それから、私は全部吐き捨てるように話した。嫌われてしまうかもしれない。幻滅されてしまうかもしれない。それでもいいと思った。どの道、隠すことはできない。いつかは露見してしまう事だったのだろう。なら、傷は早いうちの方がいい。叶わない恋は、夏と一緒に終わらせてしまいたかった。変な希望を持ってもしょうがない。私は恋なんてしてる資格のない人間なのだから。

 

 吹奏楽部の現状。私の過去に言ってしまったこと。オーディションに落ちた三年生に寄り添わなかったこと。顧問との対立。そしてモデルケースの話。正直この話はしたくなかった。兄さんにすら言っていない話だ。

 

「私は、部長になるにあたってモデルケースを設定したんです。『希美先輩』っていうモデルケースを。でも、それは言い訳なんです。私と希美先輩は全然違う。だから、同じようになんてできっこない。けれどそんな存在を目指していれば、例え起きた問題の解決に失敗しても、私は希美先輩にまだ及ばないからって言う風に言い訳できる。そのために作り出した幻の先輩像です。だから完璧で、問題なんか一個も無い、そんな姿をしています」

 

 でもいつからだろう。それが苦しくなっていたのは。そんなのは思考停止だ。自分の問題点を見なくていいようにするための思考停止。それに、いつからかその幻だったはずのモデルケースは徐々に実態を帯び始めていた。そして希美先輩の声で、私に囁く。私の頃はもっと上手く出来てたよ、と。その声を無視し続けて今に至っている。

 

 正直、やっていることは最低だ。全部自分のために他ならない。部活だってそう。部員に寄り添っていないという顧問の言葉は真実だった。私は南中に与えられている呪いを、あの夏に宣言した約束を果たすために、彼らを使っていたのだろう。だから私は虚像なんかじゃない本物の希美先輩とは違って、彼らに慕われることなんて無いのだ。あの息苦しさは私と顧問が作り上げたものだった。そしてその責任はきっと、同値なのだろう。

 

 何もかも話してしまった。私は相手の顔を直接見れないでいた。きっと、私の事を心底軽蔑しているのだろう。醜い子だと思っているだろう。けれどそんな予想と反して、その声音は柔らかかった。

 

「涼音ちゃんは真面目だなぁ」

「は? いやあの、話聞いてました? 私結構酷いこと言ったと思ったんですけど」

「まぁ確かにあんまり良いことじゃないけどさ。俺、中三の時そんな真面目に色々考えてなかったから。真面目だなぁって」

「それは、滝野さんが能天気だったんじゃないですか」

「うっ、確かにそれはそうかも。でも何と言うか、うん。やっぱり真面目だよ。真面目で、多分部活とか色んなものに真摯で誠実であろうとしてる」

「誠実なんかじゃないですよ……。気休めはいりません」

「気休めじゃない。俺は本気でちゃんと言ってる」

 

 顔をあげて、ちゃんとその表情を見た。とても真面目で、むしろ彼の方が私の何倍も真摯で誠実に見えた。

 

「俺さ、アイツに憧れてた」

「兄さんに?」

「そう。同じ年で、同じ学校で、同じトランペットで。それなのにアイツの俺の間には凄い差がある。最初はそう思ってた。でも傘木さんの事とかで去年悩んでるのを見て、あぁこいつも人間なんだなって思った。俺と同じ、普通の高校生な部分だってちゃんとあるんだって。けど、俺は結局去年何も出来なかった。だから今年くらいは、何かしようと思ったんだ」

 

 彼はため息を吐いて、何かを思い出すように上を見上げた。

 

「でも、また出来なかった。再オーディションだなんだって色々揉めてる時も、何も出来ないまま。結局、先輩の方に手を挙げる事しか出来なくて、それもアイツに背中を押されたからだった。だから今度こそ、誰かの助けになりたいと思ってる。どれだけ先輩の事を尊敬してても、音楽には誠実だったアイツみたいに」

 

 そしてその目は私を真っ直ぐに捉えた。その視線から私は目を逸らせないでいた。

 

「だから、嘘でも気休めでもない。俺の本心だ。それにさ、涼音ちゃんは普通にやりたいことあると思うよ」

「私のやりたいことなんて、無いです」

「そう? でも傘木さんの夢叶えたかったんでしょ?」

「それは……でもそれは元々希美先輩から渡された夢で、私のやりたいことなんかじゃ……」

「北宇治はさ、全国に行くって目標掲げてた。最初は気持ちもばらばらだったけど、関西の頃は皆の夢だった。絶対全国に行くって。でもそれって最初は俺たちが自分で掲げたわけじゃないんだ。滝先生とかアイツがくれた夢だった。そういう意味じゃ、俺たち北宇治の夢だって貰い物だし、渡されたモノだ。でも、貰った夢を自分のやりたいことにしちゃいけないなんて事ないと思う。それに、傘木さんにそう言った時は、自分のやりたいことだったんじゃないの?」

 

 その言葉は真実だった。確かに希美先輩の前でそう言った時、あの時は誰かに言わされたものではなかった。純粋に、自分の心から、そう宣言していた。必ずそうすると。それは義務感とか立場とかに関係するものじゃなくて、本心だったと思う。

 

 それがいつの間にか、純粋に見れなくなっていた。だから彼の言っていることはきっと正しい。でも貰った夢だとしても、私のやりたいことと言って良いのだろうか。

 

「みんな誰かから影響受けて生きてるんだ。だから、傘木さんの夢を叶えることが涼音ちゃんのやりたいことなら、それでいいと思う。自分勝手なやりたいことじゃダメだけど、皆それでいいと思ってたんでしょ? じゃなきゃ、どっかで反対意見が出てただろうし」

「それは、私が押さえつけてたからで……」

「う~ん、押さえつけてただけで数十人も同じ方向に向けさせられないと思うけどなぁ。でももしそう思うんだったら、そこから降りれば良い」

「降りる……?」

「部長とかリーダーって色々いるけど、勿論今の涼音ちゃんみたいに先頭に立って、皆を引っ張って、道を切り開いていくタイプもいると思う。でもウチの部長みたいに、そんな強くはないけど皆と一緒に、同じように並んで前に進んでいくタイプもいる。ウチの部長のやり方が間違いじゃないってのは、全国に行った実績が証明してるんじゃない?」

 

 北宇治の部長。一回だけ写真を見たことがある。サックス奏者の人だと兄さんは言っていた。少し気弱そうで、あんまりリーダーには見えない感じがした。それでも部長だからには、何かしらの上に立つにあたって必要な力を持っているんだと思っていた。けれど、実態は私の想像とは少し違うようで。

 

「上に立つのもいいけど、皆と並んで進んでいくのも大事なんじゃない? もしくはその使い分けとか。皆さ、多分頼って欲しいと思うよ。一人で全部抱え込んでるのは分かってるだろうし。皆なんか涼音ちゃんに遠慮してるのは、それを分かってるからじゃないかと思う。俺もそうだった。アイツに昔ちょっと距離を取ったこともある。それは、何にもできない俺が悔しかったから。今の南中の子も、そういう風に思ってるんだと、俺は考えた」

「でも、私は多分好かれてないですし……」

「そんな事無いって。そりゃ全員からは無理でも、涼音ちゃんを心配したり好きでいてくれる人もいるはずだよ。嫌がらせしてくる先輩から庇ったり、初心者の子を守ったり、ウザい顧問と戦ったりしてるの見て、何も思わないヤツの方が少ないって。少なくとも俺が部員なら惚れてるね」

 

 最後は少し冗談めかして、彼は言う。本当にそうなのだろうか。私の今までやってきたことは、全部正しくないと勝手に思っていた。行動理由はいつだって、部活のためだったり、いずれにしても本人に寄り添った理由じゃない。去年のクラリネット事件も、初心者事件もそう。それでも、私を……。

 

 そこまで考えて思い出した。私を心配してくれる人は確かに存在していた。顧問に集中砲火を受けた時に心配してくれた同期。私の在り方を苦しくないかと案じてくれた後輩。そういう存在は私の周りに確かにいた。それを私が見ないようにして、或いはそういう思いを抱かれること自体が上に立つ者に相応しくないと思って。

 

 今までいた場所から降りる。確かにそうすれば、色々なものが変わるのかもしれない。でも、それは怖かった。

 

「でも、でも……怖いです。今更、上手く行くのかって」

「そういう時に頼るために、副部長とかはいるんじゃない? 小笠原さんだって、時々田中先輩とかに泣きついてるし。それに上手く行かなかったとしても、味方はいる」

「味方?」

「いるに決まってる。そりゃ俺とか傘木さんも味方になってくれるかもしれないけど、いつだって涼音ちゃんの味方でいてくれる人がいるだろ、この家に。しかも二人も。特に片方は筋金入りのシスコンだからなぁ。絶対敵になんてならない。敵を見誤ったらダメだ。涼音ちゃんの敵は自分自身だし、多分そのめんどい先生だろうから」

「兄さん……」

 

 そうだった。あの時、あの小学生の時から、いや多分そのもっと前、私が産まれた時から。兄さんは私の味方だった。ずっと、ずっと、ずっと。私が泣いてる時も、笑っているときも。これまでも、これからも。私が一人で勝手に反抗して、僻んで、素直になれなかっただけ。洗脳なんて言い訳だ。そんなの自覚してるんだから、幾らでもどうにでも出来たのに。それを言い訳にして、兄さんと向き合わない口実にしていた。

 

「だからさ、涼音ちゃんはちゃんと別れないといけない」

「誰と、ですか?」

「その幻の傘木さんと。本物は多分、アイツが呼べばすぐ来ると思うし、いつでも会えるんだ。本当の傘木さんと会うのに、偽物追っかけてちゃダメでしょ。南中吹奏楽部は、桜地家じゃないから」

 

 私を縛っていた鎖がやっと少し、解けた気がした。南中吹奏楽部は桜地家じゃない。かつて理想像だった通りに振舞う必要なんてない。それなのにそう出来なかったのはきっと、新しい何も規範の無い状態で考えて、行動するのが怖かったから。

 

 でももう怖がってはいられない。もし仮に怖くても背中を押してくれる人はいた。そして、一歩を踏み出した私を受け入れてくれる人もいる。それなのに私がいつまでも、いつまでも臆病でいるわけにはいかない。殻の割れる音がする。十年近く私を縛っていた何かが、少しずつ音を立てて崩れていく。自分の中の頑なだった部分が消えていく。

 

 何のことはない。全部自分が臆病だっただけ。けれど今は、少しだけど勇気が出た。変わらないといけない。変わるのは怖いけれど、それでもこれまでと違う何かがあるのなら。もう一度ここから始めることが許されるなら。きっと今なんだ。今しか、踏み出す機会は無くて、これが最後の機会なんだろう。

 

 あの夏の終わり。希美先輩は私の言葉に何と返したのか。今不意に思い出した。自分の宣言ばかり覚えていて、肝心の先輩の言葉を忘れていた。もしくは、その後にあった出来事が大きすぎて忘れていたのだろう。先輩は私の言葉にありがとうと言った後、こう続けた。

 

「涼音ちゃんが三年生になったら、涼音ちゃんの作る、涼音ちゃんの音楽を聞かせてね」

 

 希美先輩は確かに、こう言ったのだ。私の音楽を聞かせて。私が作る音楽を聞かせて欲しい。その言葉を私は忘れて、挙句の果てには自分の思考停止のために利用した。最低だ。それはきっと未来永劫忘れてはいけない罪なのだろう。

 

 託された夢、貰い物の望みであっても、もし本物に出来るとするならば、抱いて良いのならば。それは私自身の音楽をその夢に乗せることなのだろう。そして今まではそれをしてこなかった。けれどまだあと一回、最後のチャンスがある。全国大会。幸か不幸かつかみ取ったその舞台に、私は今度こそ、自分の意思で、自分のやりたいこととして、希美先輩から受け継いだ南中吹奏楽部の全員で、行くんだ。

 

 頭の中で虚像の希美先輩が手を振っている。その口元が動いた。さようなら、とそう言っているように思えて、私は手を振り返す。もう、彼女が出てくることは無いだろう。私の暗い青春の中にいた彼女は、確かに偽物だったけれど、私の心の支えになっていた部分もあった。それはきっと忘れはしない。

 

 やっと前を向けた気がした。そんな私を、滝野さんが微笑みながら見守っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ずんずんと無駄に長い廊下を進む。キッチンからは音がする。滝野さんがいるということは、兄さんもいるということ。今日の夕飯を作っているのだろう。私は勢いよく扉を開けた。今のこの勢いを殺したら、また元に戻ってしまうような気がしたから。

 

「兄さん!」

「うわぁ! な、なんだ涼音か……。と言うか滝野は?」

「帰った。ちゃんとお礼は言ったから。アイツにヨロシクって言ってた」

「そ、そう。後で連絡しとかないとな。……それにしても、出てきてくれてよかった。もう、大丈夫?」

「分かんないけど、多分何とかなる」

「そっか」

 

 良かった、と言いながら兄さんはフライパンを動かしてる。その顔はいつにも増して優しい。これまで迷惑かけて、何回も冷たくしたのにいつまでも優しい。その顔を見ていると、なんだか涙が出てくる。そのまま背中に抱き着いた。

 

「危なっ、コラいきなり何して……」

「ごめんなさい」

「何が」

「これまでずっと、冷たくして」

「あぁ、そんな事?」

 

 兄さんは何でもないかのように言う。

 

「別にいいよ、謝らなくても。全然気にしてないし。むしろ反抗期かなぁと思ってたから。普通反抗期って異性の親にするけど、ウチなら私がそうだろうから。それに、涼音に色々押し付けて逃げたのはこっちだから」

「違う、違うよ……。私は嬉しかったの。兄さんが、小学校の時助けてくれて。でもずっとお礼も言えないままで、でも兄さんが変わっていくのを見て、私のせいなんだって思って、それで……」

 

 取り留めのない、まとまりに欠けた言葉が口から出てくる。兄さんは黙ってそれを聞いていた。

 

「嫌われるのが怖かったけど、でも素直になれなかった」

「馬鹿だねぇ。成績は良いのに、そっち方面は馬鹿だよ」

「そんな馬鹿馬鹿言わなくても……」

「いいや、馬鹿だね。この世界にもうたった二人しかいない家族なんだし、何言われたって嫌いになったりしません。私は自分で決めたことは実行する主義なんだ。君が産まれて、お兄ちゃんになってねって言われた時からずっとそれは変わってない。嫌いになったりしないです。分かったかいお馬鹿さん」

「……うん」

「そうか。分かったら離れてくれると助かる」

 

 途端に自分のやってることが恥ずかしくなって、私はスッと離れる。いい年して何してるんだろうという気分になってきた。でも恥ずかしいけれど、嫌ではなかった。数年ぶりに、兄さんの顔をちゃんと見たかもしれない。これからはもう少し、素直になれそうな気がした。

 

 その時、チャイムが鳴る。涙を拭いた後玄関を開けると、そこには滝野さんと後ろに人の影。

 

「いや、帰ろうと思ったらこの子が家の前でずっとグルグルグルグルしてて不審だったから。声かけようと思ったら逃げようとするし。でも南中の制服だし、きっと用事かなって」

「ありがとうございます」

「じゃ、今度こそ帰るから。またね」

 

 そういうと彼はまた元来た道を歩いて行く。そこに残されていたのは、彼の影に隠れていた義井さん。

 

「あ、あの部長。大丈夫ですか、体調」

「ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です。明日には、登校しますから」

「良かった……。みんな、心配してたんです。今までずっと先生に色々理不尽に言われてたの知ってたのに、部長が耐えてたの知ってたのに、私たち何にも出来なくて……」

 

 彼女は少しだけ下を向く。その声はとても申し訳なさそうで、それでいて悔しさが滲んでいるようだった。

 

「ぶ、部長!」

「何でしょうか」

「あの、ご迷惑かもしれないですし、私たちに部長みたいなことはできないですけど、何か力になれることがあったら言ってください! 私、去年部長が助けてくれて、凄い嬉しかったです。上級生にも毅然と立ち向かって、絶対に理不尽な事は許さなくて。今年も初心者の子は足手まといなんかじゃないって言ってくれて。強豪校だから、切り捨ててしまいそうな場所でもしっかり拾ってくれて、私は嬉しかったんです!」

「義井さん……」

「みんなそうです。山口先輩も言ってました。自分がオーディションに実力で受かるように裏で助けてくれて、本当はもっとちゃんとお礼を言いたかったって」

「ですが、彼女は私が……」

「それでも動いてくれたじゃないですか。先生の顔色伺って皆が動けない時に」

 

 あの時、私は彼女に寄り添えなかった。それでも、全体を優先するのが正しいと思っていた。義井さんの見ている私は、私が見ている希美先輩に近いのかもしれない。良いところだけを見ようとしたら、幾らでも補正をかけられる。

 

 今なら分かる。あの時の私は間違っていたのだと。

 

「今日、北山先輩中心に話し合ったんです。皆で」

「何を、でしょうか」

「これからどうするかって。全国大会に出れることになって、関西で金って言う目標は達成したけど、これからどうしたらいいかって。それで決めたんです。先生の意思じゃなくて、私たちの意思でやろうって。そして、部長のやりたいことをやってもらおうっていう風に」

「そんな、私は今までずっと……」

「これまで皆のために先生とかと戦って、部内をまとめて……。そんな風に頑張って来た部長のやりたいこと、聞かせてください。それに、あの堅苦しい始めの挨拶が無いとなんだか気持ちが締まらなくって。だから部長、私、私たち、待ってますから! あ、これお見舞いです。それじゃあ失礼します!」

 

 そう言うなり風のように彼女は去って行った。なんだか呆気に取られてしまったけれど、そう言えばと渡された袋の中を見る。なんだかよく分からないお菓子に、謎に未使用のシャーペン。お歳暮の海苔みたいなモノに、何枚かのお手紙。福袋みたいになっているそれを私はきゅっと握る。確かに私はいい部長かと言われるとそうじゃないかもしれない。けれど、まだ私の人望も捨てたものではないらしい。それが分かっただけでも、嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 翌日はいつになく気分がいい目覚めだった。前にこんな感じだったのはいつだろう。もう思い出せないくらい昔の話だ。家を出て、学校に行く。少しだけ緊張するけれど、私は大丈夫だと言い聞かせて階段を昇る。きっともう皆いるんだろう。いつもそうだから。

 

 今日が夏休みの最終日。音楽室の前で大きく息を吸う。そして意を決して、扉に手をかけた。

 

「おはようございます」

 

 私が入ると一気に全員立ち上がる。

 

「「「おはようございます!」」」

「二日間にわたりご迷惑をおかけしました。本日からまた戻りますので、よろしくお願いします」

「部長!」

「はい、何でしょうか北山君」

「あの、俺たち昨日話して……」

「えぇ、義井さんから伺っています。これからの事、ですね。義井さんからお話は頂きましたが、この部活は私の物ではありません。最終的には皆さんの判断となります。ですが、私のやりたいことを聞きたいというお願いを受けては無下には出来ません。私は……」

 

 全員の顔を一度見渡す。その視線は私に集中していた。どこまでの真剣に、どこまでも真面目に。そうだ。ここにいるのはそういう人たち。私が受け継いだ、南中吹奏楽部の誇るべきメンバーだ。

 

「私は、先々代の部長の夢を託されて今までここにいました。ですが全国出場となった今、その夢も既に叶っています。ですから、正直もう目指すべきモノがありません。なので皆さんに聞きたいと思います。皆さんは、全国大会で金が取りたいですか? それとも賞の色は問いませんか?」

 

 金が欲しいです、と誰かが言った。次第にその声は大きくなっていき、そして音楽室を埋め尽くすような大きさになっていく。誰もが異口同音に口にしている。金が欲しい、と。その言葉に私は頷いた。

 

「分かりました。それと直接関係はありませんが、私の兄は北宇治高校で吹奏楽部の指導をしています。北宇治高校は私たちと同じく全国大会に出場することとなっています。そして同校は金を獲ると意気込んで練習しているようです。それを聞いて、なんだか悔しい気分になりました。私は、私も金が欲しい。全国金を、この代で獲得したい。それが私のやりたいことです」

 

 これは今、私が思っている事だった。私の今やりたいこと。それは金を獲る事。それも、顧問や他の誰かの道具としてじゃなくて、私たちの作りたい音楽をしたうえで。正直無謀かもしれない。それでも、目指すのは誰にだって許されている権利なのだから。

 

「そして、その時には誰かのやりたい音楽でも、誰かの理想の音楽でもなく、私たちの奏でたい音で、作りたい景色を作り上げる。それが私の目指す場所です。そのためにはきっと多くの時間も必要でしょう。今よりも厳しい負担を背負わないといけない事と思います。ですが、これが私の個人的な我儘だとしても、私はこの全員で進んでいくことに意味があると考えます。そのために、皆さんを頼っても良いでしょうか」

 

 私は不安を込めた瞳で、皆を見る。

 

「任せて欲しい」

 

 北山君が真っ先にそう言った。

 

「俺は副部長だけど、部長に任せっきりになっていた。それをずっと後悔してた。だから俺は部長のやりたいことがそれなら、それでいいと思う。俺たちの夢を部長に託す。だから部長の夢を俺たちの夢にすればいい。そうすれば、ワガママなんかじゃない。皆で見てる夢だと思う」

「北山君……」

「反対のヤツは手を挙げて欲しい」

 

 誰も手を挙げることは無い。同調圧力に屈しているなどではないように思えた。皆、一年生も二年生も三年生も。誰もが自分の意思で、手を挙げないまま座っていた。

 

「これが俺たちの意見だ」

「ありがとう、ございます」

 

 思わず言葉に詰まってしまう。私は部員に恵まれた。きっとこんなに恵まれた部員を擁しているのは私だけだろう。北宇治の部長さんが怒ってしまいそうなほど、私の部活の部員はいい人達だった。涙が零れそうになる。その姿に、場がざわついた。思えば、感情的な言葉を見せたのもこの前の先生への抗弁を除いてはこれが初めてかもしれない。

 

「皆さんの想いは受け取りました。これからの練習は厳しくなります。一切の妥協はできません。それでも進むということでよろしいですね?」

「「「はい!」」」

「では、南中吹奏楽部、推して参りましょう!」

「「「オー!」」」

 

 高らかに数十の拳が天に伸びる。その時扉が開いて、ポカンとした間抜けな顔の顧問が顔を覗かせた。

 

「あなた達、何してるのよ。それに部長、戻って来たのね」

「はい。おかげさまで」

「あなた、数日も休んで一体何を……」

「先生」

「な、何」

「先生はもう全国大会出場を成し遂げた名顧問であることには変わりないでしょう」

「いきなり一体何を……」

「ですから、ここからは私たちの方に合わせて頂きます。これまでは私たちが先生のやりたい音楽を演奏してきました。ですので、ここからは私たちのやりたい音楽に先生が合わせてください」

「そんなこと、許されるわけないでしょう!」

「許して欲しいとは思ってません。これは懇願ではありません。要請です。断っても結構ですが、その際は数々の問題行動と発言を私たちがどう扱うでしょうね」

 

 ここで顧問は少し怯えた色を見せる。従順な駒が暴発したけど、また大人しくなって戻って来たとでも思ったのだろうか。そんなわけない。私はもう、昔の私じゃない。

 

「あなた、教師を脅すの?」

「いいえ。ただ、事実を述べているだけです。どう扱うとは言っておりませんし、そもそも先生に身に覚えが無ければ堂々としていられるはずなのですが。さて先生。私たちの要請にお応えいただけますか? あ、後北宇治高校から合同練習のお誘いが来ているので、日程をお渡ししますね。こちらも了承の方向で進めてください。それと、練習時間の再考もお願いします」

「あ、あなた、一体……」

「先生、どっちなの~?」

「言っておきますけど、部長の言うこと聞いてくれないと私たち練習ボイコットしま~す」

「あと先生普通に部長に謝った方が良いんじゃないですか~?」

「そうだー!」

 

 私の背後から多数のヤジが飛んでくる。色んな言葉で顧問に反抗していた。こんな態度を部員が見せたのは初めての事。顧問はかなり動揺した様子で狼狽えている。いつもの強気な姿勢も、ヒステリックな様子も見せない。ただ、自分の知識に無い事態に慄いているようだった。

 

「それで、先生。どうですか? 私は先生の事心底嫌いですけれど、先生の音楽的指導力は素晴らしいと思っています。そのお力を是非、お貸しいただきたいのですけれど……」

「分かった、わよ……」

 

 顧問は力無く項垂れつつ、了承の返事を返す。後ろの部員たちが拍手を送って来た。これまで色々言われて鬱憤が溜まっていたのはどの部員も同じだろう。大なり小なり恨んではいるはずなので、その顔は喜色に満ちている。

 

 顧問の問題は結局、私たちがどうにかするしかない。だから毅然と対応する必要があった。理不尽に屈するのは正しくない。そう言って、戦いを挑んだ人がいた。その人は結果として負けてしまったけれど、その行いは決して間違いなんかじゃなかったはずだ。

 

 その人に近付けるかは分からない。それでもきっと、理不尽に屈し続けるのは相応しくないだろう。今度は胸を張って、希美先輩に会えるはずだ。私の音を、聞いてくださいと言いながら。

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