第四十音 冷めない熱
「じゃあ、よろしく頼む」
「まぁ、出来る限り頑張ってみるわ」
妹が部屋に閉じこもってから二日目。昨日も今日も登校していないようだ。それは個人の自由ではあるのだけれど、決して望んでいるわけでもないだろうと私は解釈している。そのため、こうして解決の糸口になりそうな滝野に頼んでいるのだった。
正直、私はもうお手上げの感じがある。元々拗れていたのだから、今更と言われてしまえばその通りだが、それでもきっと私の言葉は届かない。同じく希美の言葉も届かないだろう。彼女が見上げる位置にいる存在では、言葉を届けることはできない。見上げることも見下ろすこともない存在、つまりはフラットに接することが出来る存在にこそ事態解決の糸口が眠っていると私は考えていた。
口惜しい限りではある。自分の家庭の事なのにも拘わらず、また誰かを頼らないといけないということは。やはり両親の代わりになることは難しいのだろう。彼女の心の中に存在している空いた穴。それを埋められるのは私ではない。それはとても、悔しいことに思えた。
そんな思いを誤魔化しながら頼みの綱となった友人を送り出す。私はその間夕飯の支度だ。それからどれほど経っただろう。大体時計の長針が半回転ほどした頃。ドアが勢いよく開け放たれた。何の音かと思って顔をあげれば、少し顔を赤くした妹が立っている。どう声をかけたものかと思っていたら、向こうから話を始めた。
「兄さん!」
「うわぁ! な、なんだ涼音か……。と言うか滝野は?」
「帰った。ちゃんとお礼は言ったから。アイツにヨロシクって言ってた」
「そ、そう。後で連絡しとかないとな。……それにしても、出てきてくれてよかった。もう、大丈夫?」
「分かんないけど、多分何とかなる」
「そっか」
それは良かったと心底思う。たとえ私がまた解決に導けなくても、それでも彼女がこうしてもう一度外に戻ってきてくれたのだからそれでいい。笑っていてくれるなら、それで。そう思っていたら、いきなり後ろから衝撃が走った。
「危なっ、コラいきなり何して……」
「ごめんなさい」
背中に温かいモノが触れている。きっと妹の顔だろう。少し籠った声が後ろから聞こえてきた。
「何が」
「これまでずっと、冷たくして」
「あぁ、そんな事?」
いきなり謝罪をされてしまったので何かと思ったが、少し拍子抜けしてしまう。
「別にいいよ、謝らなくても。全然気にしてないし。むしろ反抗期かなぁと思ってから。普通反抗期って異性の親にするけど、ウチなら私がそうだろうから。それに、涼音に色々押し付けて逃げたのはこっちだから」
「違う、違うよ……。私は嬉しかったの。兄さんが、小学校の時助けてくれて。でもずっとお礼も言えないままで、でも兄さんが変わっていくのを見て、私のせいなんだって思って、それで……」
少しだけ言葉に詰まったような間が空く。私は敢えてそれを待つことにした。きっと彼女は言葉を探している。自分の心を整理する言葉を。滝野は上手くやってくれたようだ。これは一生頭が上がらないかもしれない。希美に次いで二人目だ。そんな存在ばっかり出来て、困ってしまう。明日感謝をしないといけない。それも、心から。
「嫌われるのが怖かったけど、でも素直になれなかった」
「馬鹿だねぇ。成績は良いのに、そっち方面は馬鹿だよ」
「そんな馬鹿馬鹿言わなくても……」
「いいや、馬鹿だね。この世界にもうたった二人しかいない家族なんだし、何言われたって嫌いになったりしません。私は自分で決めたことは実行する主義なんだ。君が産まれて、お兄ちゃんになってねって言われた時からずっとそれは変わってない。嫌いになったりしないです。分かったかいお馬鹿さん」
「……うん」
「そうか。分かったら離れてくれると助かる」
フライパンを使っているので、出来れば早く離れて欲しかった。焦げてしまう。もし料理をしていなかったら、もう少しこのままでも良かったと思う。もう何年ぶりかも分からない、こんな妹の姿は久しぶりに見た。それだけでもとても嬉しいことに思う。
素直になれないのは皆一緒だ。思春期とは自意識と自尊心で出来ている。私はかつてそう嘯いて、先生や部員を動かした。なるほど、それは間違っていなかったらしい。彼女の話を聞けばそれがよく分かった。だとしたら、それはごく自然な成長の過程に起こる出来事で。当然それについて怒ったりなんかしない。それにきっと、思春期でイライラするのは、相手にじゃなくて素直になれない自分になのだろうから。
チャイムが鳴る。誰か来客かと考え、南中の部員じゃないかと予想する。家が近い部員もいる事だろう。きっと様子を見に来てくれたはずだ。妹は涙を拭って玄関に向かう。その憑き物が落ちたような顔を見て、私はやっと安堵のため息を吐けるのだった。
部活は全国に行った。妹とはある程度関係を好転させられたし、抱えていたモノもすっきりした、或いは自分で解決できる道筋を見つけたように思う。希美ともゆっくりと元通りの仲に戻りつつある。何もかも順調で怖いぐらいだ。でもやっとそういうフェーズに入れたのかと思い、本当の心の底から安堵する。
私がやって来たこと全てが正しいとは今でも思えない。それでもきっと、意味はあったのだろう。全ては繋がって今が出来上がっている。過去の延長に現在はある。だとするのなら、この平穏もまた過去に為した事に何らかの意味があったという証なのだろう。
そして、夏休みは終わる。
長いようで短い一ヶ月半。なんだかほとんど吹奏楽部にかかりきりだった気がする。唯一の休みは多分、お盆休みのお墓参りに行った後の半日くらいだろう。あそこだけはゆっくりできた。尤も、当時はまだ色々問題が山積みで胃が痛いままだったけれど。
ともあれ、ここからは暦の上での秋に入る。九月になっても全く太陽の日差しは変わらないまま、灼熱を我々の頭上に降り注いでいる。全く秋の空気は感じないけれど、この後待っているのは学生生活の一大イベント、文化祭だ。
ここでは例年吹奏楽部の演奏会を行っている。例年は十五分ほどだが、今年はなんと拡大版。全国出場している目玉部活と言うこともあって、演劇部などから時間を借り受け、例年の二倍の三十分を確保することに成功した。これも実績の為せるわざだろう。
関西大会の翌日には既に垂れ幕が出来上がっていたので、余程学校運営陣も嬉しかったらしい。滝先生曰く、教頭先生にお褒めの言葉を貰ったらしい。中々現金なものだが、来年新入部員を獲得したい我々との利害は一致している。つまり、学校からの協力を得られるということはそれだけ来年度以降の運営にとってプラスになるということだ。
「えー今日からまた学校生活が始まります。練習のスケジュールなど確認しておいてください」
朝練の終わりに部長が話している。一ヶ月以上続いた生活習慣が変更になるので、その辺も考慮しないといけない。体力面でも練習メニューの変更が必要となって来る。
「今後文化祭等で忙しくなりますが、なるべく練習には参加するようにお願いします。ただ、どうしてもという時は各自パートリーダーに報告してからにしてください」
部活動が学校生活の一環である以上、当然文化祭などでも貢献が求められる。練習に関して配慮はしてくれるかもしれないが、それを当然と思ってはいけない。周囲の理解無くして行える活動では無いのだ。全国出場だからと言って、特別扱いをしてもらえると思ったら大間違いなのである。むしろ、そういう扱いをされると悪い方面で調子に乗ってしまう事もあるため、しないでくれた方がありがたいまであるのだ。
「そしてここからが大事な話になります。私たちは当初の目標だった全国大会出場を達成することが出来ました。まずは自分に拍手」
大きく拍手の音が響き渡る。全国出場。改めて言葉にするととんでもないことである。いまだに若干現実感が薄い。それは部員も同じようなものだった。この中で全国を経験したことある人は非常に少ない。確か聖女が行っていたはずなので、川島さんくらいだろうか。後は皆、そんな経験が無いままここにいる。よくて関西だろう。
「それで、私たちは今目標が特に無い状態です。このままでは宙ぶらりんになってしまう可能性があります。なので、先生とも話し合った結果、新しい目標を決めたいと思います。思いますって言っておいてアレなんだけど、実はもう用意してます」
部長はチョークを手に取ると黒板に文字を書き始めた。
「折角のチャンス、出来る限り上を目指したいと私は思っています。もしこれを目標にするなら、これから練習はもっと厳しくなります。でも、きっとその経験は無駄じゃないとも思います」
書かれているのは四文字。全国金賞。そこにあるのは途方もない目標。日本全国津々浦々から集まる選りすぐりの精鋭たち。全日本吹奏楽連盟によれば、全国の3800近い団体が高校の部に所属している。その中の僅か30ほどの学校しか出場することが出来ないのが全国という舞台だ。それで金を、天辺を取ろうと言うのだから大それた目標と言うしかないだろう。正直、全国に行くより厳しいかもしれない。名うての強豪たちが相手だ。一朝一夕で立ち向かえる可能性はかなり低い。
「かなり厳しい目標であることは理解しています。だから、これは皆に決めてもらいたい。全国に出れたからそれで満足か、それとももっと上を見るか。多数決を取るので、ハッキリと手を挙げてください。この目標を新しく設定したい人」
少しずつ、けれど確かに手が挙がっていく。それは春のなんとなくや、私に聞かれた時の自尊心が傷つけられたからではない。恐らく彼らの本当の意思で、その手は天高く挙げられているのだろう。誰一人、欠けることなく。
「……ありがとう。では、北宇治の新しい目標は全国金賞。それを目指して頑張りましょう!」
「「「はい!」」」
その返事に、今まで脇で見守っていた先生が大きく頷く。そして部長に代わって前に立った。
「分かりました。皆さんの決定である以上、私もこれまで以上に全力を尽くしていきます。目標はかなり高いところにありますが、妥協することなく進んでいきましょう。そして、自分たちで決めたことであるのですから、皆さんにはそれに相応しい行動を求めます。よろしいですね?」
「「「はい!」」」
まだまだ暇にはなれそうにない。けれど自分たちで目指すと言っているその目には、しっかりとした輝きが存在している。あの春。私に師事を願った高坂さんが宿していたのと同じ、情熱の炎。それが皆の目の中にも確かに揺らめいていた。人は変われない。私はそう言った。けれどそれは間違いだった。人は変われる。例え、どんなに困難な道だとしても。
「私も微力ながら引き続きお手伝いさせていただきます。どうぞよろしくお願い致します」
「「「よろしくお願いします!」」」
誰も文句を言ってくる人はいない。私はこの部活の中に、トランペットパートなどとは関係なく、この立場で以て確かな居場所を確立したのかもしれない。それもこれも結果が出たからこそではあるが、それでも嬉しいことであるのに変わりはない。
「では、桜地君。今後の予定に関して発表を」
「分かりました」
私は予定表を手に先生と交代して前に立つ。今では真剣な表情で皆話を聞いてくれるようになっている。小さな変化の積み重ねが、大きな変化を生んでいた。
「九月末に京都駅の駅ビルでコンサートが開かれます。毎年行われていますが、今年は主催の方から是非にという話があり、出場を決定しました。そのため、B編成の人はそちらの練習に移行してください。文化祭コンサートと大会と被り大変かとは思いますが、実力向上には確かに繋がると確信しています。よろしくお願いします」
「「「はい!」」」
「それと、これはまだ公になっていないので黙ってるようにお願いします。良いですね?」
私はぐるりと部員を見渡す。噂が大好きな女子も存在しているこの部活で緘口令を出すのは中々難しいのだが、それでも露見した場合どうなるか分からない怖さが部員にはあるだろうから、多分黙っててくれるはずだ。ちょっとムズムズした顔をしている瞳さんに強めに視線を送っておいた。
「今回の駅ビルコンには清良女子が参加します。それに伴って、先方の顧問から同じ全国出場校同士、合同練習でもしないかとお誘いを受けました」
私の話の最中なのを忘れて、皆口々に話を始める。川島さんに至っては万歳三唱しかねない勢いをしている。非常に有名な強豪校なので、その情報に興奮するのも無理はないだろう。福岡に存在する私立の女子校で、全国大会の常連。金賞も多く獲得している。
演奏したCDは発売されるや否や売り上げランキング上位に入り、定期演奏会のチケットは争奪戦だ。半分プロに近いだろう。少なくとも、普通に商売敵だ。楽器単体のCDももっと売れて欲しい。日本の市場だとイマイチなので、海外を主戦場にしていて正解だったと思っている。正直張り合えない。
「はいはい。取り敢えずお静かに」
「でも、何でまた京都なんかに? 九州からわざわざ」
サックスの三年生の問いかけに、私は持っている情報から答えを話す。
「まぁ色々理由はあるようなんですが、主催側は頼み込んだらしいですね。元々京都府主催のイベントに出る予定だったようです。なんでウチに頼まないのかは謎ですが……まぁ多分もっと早くに決まっていたのだと思います。しょうがないですね。来年は呼ばれるでしょう。多分」
「ウチなんて今年が十年ぶりの全国なのに、よくまぁ合同練習のお誘いなんて来たもんだ」
「あぁ、それは多分私の母がそこ出身なので、その縁だと思います。当時の部長が母で、副部長が今の顧問をしているんです」
今度はもっとざわめき始めた。私の両親の話なんてするモノではないからずっと何も言っていなかったけれど、一応親子二代に渡って音楽系には関与している。もう亡くなっている母方の祖父も、ピアノ関連の仕事をしていたらしく、もうそういう家系なのかもしれない。ともあれ、今はそんな事はどうでもいい。ざわめきの収まらない中、手を叩いて集中力を戻した。
「はい、ともあれそれが一件。それと、もう一つ。同じ宇治市から全国大会に出場した南中学校の方とも同じく交流を兼ねて合同練習をしないかと言う話が持ち上がっています。先方は一応了承が出たので文化祭の前に一日使って行いたいと思います。これは来年度の部員獲得にもつながる重大なチャンスです。どうかくれぐれも迷惑をかけないように気を付けてください。よろしいですね?」
「「「はい!」」」
「詳しい当日の動きは追って連絡します。取り敢えず以上です」
「ありがとうございました。清良女子や南中はいずれも非常に優秀な奏者が集まっている団体です。特に清良女子の演奏を生で聞ける、あまつさえ合同練習ということはアドバイスを頂ける可能性が高いです。一分一秒を無駄にせず、全て吸収する勢いで行動してください」
「「「はい!」」」
部員の声はいつにも増して威勢が良い。九月一日の登校日なんて普通は憂鬱で仕方ないはずだ。ましてや朝。にも拘わらず目を爛々とさせている姿に先生は少し面食らったようだった。
吹奏楽部が孕んでいる熱はどんどん加速している。窓の外の気温と同じように、それは全く冷める気配を見せなかった。
「涼音ちゃん、大丈夫そう?」
「多分。なんか表情もちょっと明るいし、問題ないと思ってる」
「ならよかった。今度の合同練習で問題なく会えそう」
「そうしてやってくれ。多分喜ぶ」
例え色々とり憑いていたモノが剝がれたとしても希美への尊敬の念だけは相変わらず変わらないようだ。前のように歪んでいたり盲目的では無いと思うけれど、それでも尊敬していることだけは変わらないらしい。多分、一生そうし続けるんだろう。
「それにしてもびっくりしちゃった。清良かぁ」
「あそこは恐ろしい集団だよ。一回だけ演奏会に行ったことがある。アレは確か……大分小さい頃。母親と妹と一緒に。子供心ながらにとんでもない演奏するもんだと思った。でも同時に……負けたくないなぁって思ったのも覚えてる」
「あはは、思ってそう」
朝練が終わったら教室に行かないといけない。日焼けした顔の友人もいるだろうし、どこかへ旅行した人もいるだろう。そういう話を聞くのは嫌いじゃなかった。今年は何も出来なかったのでちょっと虚しくはあるけれど。
今年の二年生吹部で同じクラスなのは希美だけ。他は皆違うクラスだ。2年1組は吉川と長瀬。2組は岸部と滝野。3組に我々二人。4組は後藤と森田。滝先生が担任をしている5組は平尾と大野。6組は島と井上、加部。進学クラスの7組はみぞれ、中川、岩田。これが数少ない二年生の残存吹奏楽部員の配置だった。いい感じにばらけていると思う。
もしこれで北宇治に合唱祭があったら大変だった。合唱祭は大体吹部が中心にさせられる。合唱部があれば話は別だが、大体の学校はない。そうなると同じ音楽系ということでお鉢が回って来るのだ。一応ソルフェージュなどもあるし、歌うこと自体はする。けれど専門家かと言われれば話は別。結構大変なのだ。
「北宇治、文化祭だけで良かったよね~。中学の時体育祭に合唱祭まであって大変だったし」
「それは思ってる。もう合唱祭は十分堪能した」
「え~、私は大変だったけど結構好きだったよ。合唱祭」
「学校生活に向いてるよ、希美は。私は集団生活できないからね。無駄に伴奏が難しい曲を選ばれて大変だったんだぞこっちは」
「でも優勝できたからよかったじゃん」
「それはまぁ、確かに」
指揮は希美がやっていた。伴奏は私だった。このコンビで三年生の時合唱祭に参加し、そして学年優勝をしたのが私たちのクラスだったのを覚えている。ピアノの指導をしてくれたのは前の南中の顧問だった先生だけれど、少しやりにくそうにしていたのを覚えている。
そう言えば、確か中川も同じクラスだった。あの時はあんまり話した記憶が無い。帰宅部だったようだし、あまり接点はなかった。それはともかく、卒業式の合唱も希美とのコンビで演奏したのを覚えている。多分今年の卒業式の送る歌は伴奏が私なんじゃないだろうか。
「今年の文化祭何するのか知ってるか?」
「メイド喫茶が有力らしいよ~。クラスの子が言ってた。2・3・7で合同でやって、その分衣装とか内装とかの予算を増やしてクオリティを上げたいって話が出てるんだって」
「メイド喫茶……この時代に?」
「まだギリギリ生きてない?」
「分からない。世間の流れに付いて行けて無いのかも」
「ドラマとか見てる……?」
希美はちょっと心配そうな顔で私の顔を見てくる。世間に取り残されてないか心配してくれているのだろうか。そう言えば、映画もドラマもあんまり見てない。特に今年に入ってからは。妹もそうだし、桜地家は世間から遠いところに位置しているのだろうか。
「……ドクターXは見た」
「それ去年のじゃん……」
「ヤバい?」
「う~ん……まぁ、それなりには」
「だよなぁ」
色々興味のある作品はあるのだけれど、もう全然見れていない。良いドラマや映画にはいい音楽が付き物なので、そういう意味でもしっかりリサーチしたい。のだけれど単純に時間が無くて見れていない。
「音楽は分かるんだけどなぁ」
「調べたりしてるの?」
「ご飯作りながらラジオ流してると時々ランキング放送してるから」
「あ、ウチのお母さんと一緒だ」
それは喜ぶべきなのかショックを受けるべきなのは分からない言葉で、私は何とも言えない曖昧な表情を浮かべた。気付けばもう自分の教室のすぐ近くまで来ている。話していたら大分HRの時間に近くなってしまった。私たちの担任は結構遅刻とかには甘いのだが、それが滝先生などにバレたりなんかした日には何を言われるか分かったモノじゃない。
あくまでもなるべく品行方正に。それが求められている事だった。吹奏楽部の名をよりにもよって私が汚すわけにはいかないのだ。
ガラガラと教室のドアを開けると、一瞬静まり返る。私と希美の間を多くの視線が行き交った。そして教室の隅で話していた私の友人二人が猛ダッシュで近づいてくると、私を宇宙人か何かのようにして元居た場所まで連行していった。
「なになに、何だよ」
「何だよ、じゃなーい!」
「その通り」
サッカー部の生駒はすっかり日焼けしている。顔も腕も足も真っ黒だ。毎日外で練習していたのを上から眺めていたので良く知っているが、それにしても綺麗に焼けている。
バスケ部の柏原の方は外で練習していないはずだけれど、やはり顔が黒い。どこかに遊びに行ったのだろう。何回か二人から誘いも来ていたのだけれど、全部綺麗に吹部の予定と重なっていた。吹部の人は夏の付き合いが悪いのである。花火大会はこの二人の予定が合わなかったので滝野と行った部分も大きい。結果としてそれが吉だったけれど。
「君ら焼けたねぇ」
「まぁな、ってそうじゃない!」
「はぐらかさない」
「何が」
「傘木さんだよ、傘木さん」
声を潜めて生駒は言う。彼は素の声が大きいのだけれど、今日はそんな素振りを見せずにかなり静かな声で言っている。
「あぁ……まぁ、その何と言うか……えっと、上手くは言えないんだけれど……復縁? しました」
「付き合ってたのか?」
「いや別に」
「じゃあそれは変だろ」
「そう? じゃあ仲直りしました」
復縁という言葉は縁を戻すという意味なので別に分かれたカップルがまた付き合いだすという意味だけでは無いはずなので、ちょっと釈然としないけれど取り敢えず誤解を避けるために訂正しておいた。
「そうかぁ。まぁ、お前が良いならそれでいいけどよ」
「そんな気になるか?」
「馬鹿野郎。一応俺たちも気使ってたんだぞ、これまで」
柏原が私を軽く小突きながら言う。気を遣われていたのは、普通に申し訳ない話だった。確かに思えば今まで同じクラスにいるのに一回も話してないのはつまりそういう事なんだろう。非常に申し訳ないと思えてくる。
「正直すまなかった」
「ま、俺としてはお前が何か気が楽になったみたいな顔してるからいいけどよ」
「あ、それは俺も思ってた。なんかいいことあったん?」
「いやそりゃ吹部が全国行ったんだからあるに決まってるだろ」
「それもそうか」
やいのやいのと二人は話している。こういう会話も随分と久しぶりに感じた。夏前は色々考えることが多くて、日常を純粋に楽しめていなかったのかもしれない。そう考えれば、今のこの状況は本来私が求めていたモノなのだろう。
教室の反対側では希美が女子に囲まれている。きっと話している内容は同じだろう。何回も手を合わせたり頭を下げているところから、恐らく向こうも気を遣われていたことを知ったはずだ。お互いに迷惑をかけていたことはきっちり清算しないといけない。
「吹部、マジで全国行っちまったなぁ……」
春。柏原は全国に行くという目標を無理だと一蹴して否定した。けれどそれは責められるような話じゃないだろう。きっと誰もがそう思っていた。それは私ですらも。だから彼に先見の明が無いわけじゃない。きっと、我々が常識を超えたことをしたんだ。やはり、人の言う限界なんてあてにしてはいけない。自分で決めた限界にこそ、挑む価値があるのだろう。
「えっと……よろしくね?」
そんな事を思っていたのがつい数分前。新学期ということで席替えをやると高らかに担任が宣言したのもほぼ同じ頃。くじ引きで行われたその結果、私は窓際の一番後ろという割と好ポジションを手に入れたのだった。
そして幸か不幸か、希美が隣の席にやって来る。渦中の人同士が隣となったわけだ。別に悪い気分はしない。これからまた元通りにやって行こうという関係性なわけなのだから、むしろ交流の機会が増えたのを喜ぶべきなのかもしれない。とは言え、どうしてもこの席は昔を思い出す。そう、ここはまるで。
「なんだか中三の時みたいだね」
隣の彼女はそう言いながら笑っていた。私が思っていたことを当てられたような気分になる。確かにそうだった。希美は窓側から一個中に入った席で。一番窓側の最後尾が空席だった。そこに私が転入してきた。丁度、あの時と今は同じ並び。そして、時期も丁度この時期。九月の最初の日だった。
「最初に私が何て言ったか、覚えてる?」
「忘れられるようなことじゃないんだよなぁ。女の子みたいだねとか、他の奴に言ったら怒られるぞ」
「誰にでも言ってるわけじゃないよ」
「なお悪いじゃないか」
「あははは」
過去の延長線上に現在があるとしたのなら。その起点となった場所が要所要所に存在しているはずである。例えば音楽を始めるきっかけになった場所。例えば海外に行くきっかけになった場所。そういう場所から始まった線を何本も束ねて、今に至っているのだろう。だとしたら、北宇治に来ることになった線の最初はきっと、あの日。
あの夏の日、希美に出会ったあの日から、全ての物語は始まったんだ。そんな事を思っている私の横で、あの日より少しだけ大人になった笑顔で、彼女は笑っていた。あの日と同じように、優しく、そして誰よりも明るく。まるで、日差しのように。